うつせみは数なき身なり山川のさやけき見つつ道を尋ねな(万葉集)、
の、
さやけし、
は、
きよらかな、
という意で、
分明、
亮、
寥、
と当てる(岩波古語辞典)とか、
明けし、
清けし、
爽けし、
と当てる(精選版日本国語大辞典)とある。類義語、
きよし、
との違いは、「きよみ」で触れたように、「きよし」は、
汚らし、
の対で、氷のように冷たく冴えて、くっきり住んでいる意、清浄で汚れ・くもりがなく、余計な何物もない意。純粋、無垢で透明の意。類義語サヤケシは、氷のように冷たく冴えて、くっきり澄んでいる意、
とある(岩波古語辞典)。「さやけし」は、
光・音などが澄んでいて、また明るくて、すがすがしいようす、
を表し、「きよし」も同様の意味を表すが、
さやけしは対象から受ける感じ、
きよしは対象そのもののようす、
をいうことが多い(学研全訳古語辞典)とある。だから、
さやけし、
は、
サユ(冴)と同根、
とあり(岩波古語辞典)、
冷たく、くっきりと澄んでいる意、視覚にも、聴覚にも使う、
とある(仝上)。
冴ゆ、
は、
さやか(分明・亮か)のサヤと同根、
とある(仝上)。
さや、
は、
清、
と当て、
あし原のしけしき小(を)屋に菅畳、いやさや敷きてわが二人寝し(古事記)、
と、
すがすがしいさま、
の意だが、やはり、
日の暮れに碓井の山を越ゆる日は背(せ)なのが袖もさや振らしつ(万葉集)
と、
ものが擦れ合って鳴るさま、
の意もある(岩波古語辞典)。
さやけし、
には、
冴えてはっきりしている、
くっきりと際立っている、
と、
さや(冴)、
の語感の意の他に、
霧立ち渡り夕されば雲居たなびき雲居なす心もしのに立つ霧の思ひ過さず行く水の音もさやけく(佐夜気久)万代に言ひ継ぎ行かむ川し絶えずは(万葉集)、
と、
音、声などがはっきりとしてさわやかである、
快い響きである、
耳に快く感じられる、
意もある(精選版日本国語大辞典)のだが、視覚の、
さやけし、
と、聴覚の、
さやけし、
を分けているのが、大言海で、
分明なり、
さやかなり、
あきらけし、
の意の、
さやけし、
は、
分明、
と当て、
分明(さやか)の、音の転じて活用せる語(速(すみやか)、すむやけし、明(あきらか)、あきらけし、静(しずか)、しずけし)、
とし、字鏡(平安後期頃)にも、
分明、佐也介之、明(あきら)介志、
とある。この意をメタファに、上記の万葉集の、
行く衣の音も佐夜気久、萬代に言ひ継ぎ行かむ、
と、
(名声が揚る意で)明白に立ちて、高し、
の意とするが、いまひとつ、
音立ちて、爽亮(さやか)なり、
響き冴えたり、
の意の、
さやけし、
は、
爽亮、
と当て、
爽亮(さやか)より轉ず、
とあり、古語拾遺の、
嗟佐夜憩(あなさやけ)、
の註に、
竹葉之聲也、
とあり、大言海は、
天鈿女命の、竹葉を振ひたる声を云ふ、
と補う。ただ、二つの、
さやけし、
は、音に由来する、
同じ語原、
とする(大言海)。しかし、大言海自身が、
さやか、
に、
分明、
と当てる「さやか」は、
サヤは、清(さや)なり、
とし、
あきからに、
の意であり、
爽亮、
と当てる「さやか」は、
サヤは、喧(さや)なり、
とし、
音立ちて、
の意とする。応神紀に、
琴、其音鏗鏘而(さやかにして)遠聴(くきこゆ)、
とあるのについて、契沖は、
日本紀に、爽亮を、サヤカと訓めり、萬葉集に、清の字を書けり、鏗鏘を、さやかと訓むは、金珠などの、さはやなる聲にて、別義なり、
としている。どうも、
分明、
の、
さやか、
と、
爽亮、
とは使い分けられていて、当然、本来、
さやけし、
も、視覚と聴覚は、別けて使っていたのではないか、という気がする。このことをみるのに、
さやけし、
の、
さや、
を探ってみると、思い当たるのは、「さわぐ」で、「さわぐ」は、
奈良時代にはサワクと清音。サワは擬態語。クはそれを動詞化する接尾語、
で、
サワ、
は、
さわさわ、
という擬態語と思われる。今日、「さわさわ」は、
爽々、
と当て、
さっぱりとして気持ちいいさま、
すらすら、
という擬態語と、
騒々、
と当て、
騒がしく音を立てるさま、
者などが軽く触れて鳴る音、
不安なさま、落ち着かないさま、
の擬音語とに分かれる。「擬音」としては、今日の語感では、
さわさわ、
は、
騒がしい、
というより、
軽く触れる、
という、どちらかというと心地よい語感である。むしろ、
騒がしい、
感じは、
ざわざわ、
というだろう。しかし、
古くは、騒々しい音を示す用法(現代語の「ざわざわ」に当たる)や、落ち着かない様子を示す用法(現代語の「そわそわ」に当たる)もあった。「口大(くちおお)のさわさわに(佐和佐和邇)引き寄せ上げて(ざわざわと騒いで引き上げて)」(古事記)。「さわさわ」の「さわ」は「騒ぐ」の「さわ」と同じものであり、古い段階で右のような用法を持っていた、
とある(擬音語・擬態語辞典)。「さわさわ」は、
音を云ふ語なり(喧喧(さやさや)と同趣)、サワを活用して、サワグとなる。サヰサヰ(潮さゐ)、サヱサヱとも云ふは音轉なり(聲(こゑ)、聲(こわ)だか。据え、すわる)、
とあり(大言海)、「さいさいし」が、
さわさわの、さゐさゐと転じ、音便に、サイサイとなりたるが、活用したる語、
と、「さわさわ」と関わり、
『万葉集』の「狭藍左謂(さゐさゐ)」、「佐恵佐恵(さゑさゑ)」などの「さゐ・さゑ」も「さわ」と語根を同じくするもので、母韻交替形である、
とある(日本語源大辞典)。因みに、
さやさや(喧喧)、
は、
サヤとのみも云ふ。重ねたる語。物の、相の、触るる音にて、喧(さや)ぐの語幹、
であり、
さやぐ(喧)、
と動詞化すると、
さわさわと音をたてる、
意となる。
さやさや、
は、
清清、
と当てると、
光の冴えたる意、
で、
さや(清)、
を重ねた語である。で、
さや(清)、
は、
沍(さ)ゆと通ず、
とあり、
沍(さ)ゆ、
は、
冴ゆ、
とも当て、
冷たい、
凍(冱)る、
いであり、それをメタファに、
(光や音が)冷たく澄む、
意でも使い、
さやか(爽亮)、
に繋がっていく(岩波古語辞典・大言海)。
どうも、由来から見ると、
さや、
は、聴覚的な、
音が立つ、
からきているようなのだが、漢字を当て分けたため、別由来のように見えるものの、もともと、聴覚的な、
音が立つ、
意にも、視覚的な、
際立つ、。
意にも使っていたものではないか、という気がしてならない。だから、
さやけし、
には、その二つの意味が合流し、
聴覚的、
と
視覚的、
の使い分けが残っているのではないか。
(「爽」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%88%BDより)
「爽」(漢音ソウ、呉音ショウ)は、
会意。「大(人の姿)+両胸に×印」で、両側に分かれた乳房または入墨を示す。二つに分かれる意を含む、
とある(漢字源)。別に、
大とは両手を広げた人の姿。四つの「乂」は吹き通る旋風。人の周囲をそよ風が吹き通って「爽やか」、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%88%BD)、
会意。大と、(四つの「乂」り、い 美しい模様)とから成る。美しい、ひいて「あきらか」の意を表す、
とも(角川新字源)、
会意兼形声文字です(日+喪の省略形)。「太陽の象形と耳を立てた犬の象形と口の象形と人の死体に何か物を添えた象形」の省略形から、日はまだ出ていない明るくなり始めた、夜明けを意味し、そこから、「夜明け」を意味する「爽」という漢字が成り立ちました。また、「喪(ソウ)」に通じ(「喪」と同じ意味を持つようになって)、「滅びる」、「失う」、
「敗れる」、「損なう」の意味も表すようになりました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji2191.html)。
「亮」(漢音リョウ、呉音ロウ)は、
会意兼形声。「人+音符京(明るい)の略体」で、高くて明るいの意を含む。京は諒(リョウ はっきり)・涼(清らか)にも含まれ、そのさいリョウという音をあらわす、
とある(漢字源)。別に、
会意文字です(高の省略形+儿)。「高大の門の上の高い建物」の象形(「高い」の意味)と「ひざまずいた人」の象形から、「高い人」を意味し、そこから、「明らか」、「物事に明るい」を意味する「亮」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1853.html)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:さやけし