うばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れてなほも恋ひ渡るかも(万葉集)、
うばたまの夢になにかはなぐさまんうつつにだにもあかぬ心を(古今和歌集)、
の、
うばたまの、
は、「夢」にかかる枕詞(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)とある。この、
うばたまの、
は、
奴婆多麻能(ヌバタマノ)黒き御衣(みけし)をま具(つぶさ)に取り装(よそ)ひ(古事記・歌謡)
和妙(にきたへ)の衣(ころも)寒(さむ)らに烏玉乃(ぬばたまの)髪(かみ)は乱(みだ)れて国(くに)問(と)へど(万葉集)、
の、
「ぬばたまの」の転、
とある(岩波古語辞典)。
ヌバタマが、mubatama→nbatama→mbatamaと発音されるようになり、最初のmの音がuと混同され「うばたま」と表記された形、
とあり(岩波古語辞典)、
ぬばたまの実が黒いところから、黒色やそれに関連した「黒駒」「黒馬」「黒髪」「大黒」などにかかる枕詞、
である(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)、この、
ぬばたまの、
は、中古、
恋ひ死ねとするわざならしむばたまの夜はすがらに夢に見えつつ(古今和歌集)、
いとせめて恋しきときはむばたまの夜の衣をかへしてぞ着る(仝上)、
むばたまの闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり(仝上)、
と、
むばたまの、
という形で使われることが多い(精選版日本国語大辞典)。これは、
「うば」を平安時代以後、普通にmbaと発音したので、それを仮名で書いたもの、
とある(岩波古語辞典)。この中古の初・中期の形は、のち、
うばたまの、
ともなるが、表記の上では後世まで引き継がれる(精選版日本国語大辞典)とある。つまり、
ぬばたまの→むばたまの→うばたてまの、
と表記が転じたもので、同じ意味になり、当てる漢字が異なるものがある。
うばたまの、
は、
烏羽玉の、
と当て(広辞苑・岩波古語辞典)、
ぬばたまの、
は、
射干玉、
と当てる(大言海・広辞苑・精選版日本国語大辞典)。これは、
野羽玉(ヌバタマ)の義。射干(カラスアフギ)の實にて、野にありて、其葉、羽の如く、實園く黒ければ云ふと云ふ、
とある(大言海)。
ぬばたま、
は、「万葉」では仮名書きのほか、
射干玉、
野干玉、
夜干玉、
烏玉、
烏珠、
といった表記が見られ、
黒い珠、
の意、または、
ヒオウギの実、
をいう(大辞林)というが、未詳とされる(仝上)。『本草和名(ほんぞうわみょう)』(918年編纂)には、
射干……一名烏扇……和名加良須阿布岐、
とあり、和名類聚抄(931~38年)には、
狐……射干也、関中呼為野干、語訛也、
ともあり、「射干」と「野干」は通じるようである(精選版日本国語大辞典)とあり、「万葉」の「野干玉」の表記は烏扇(檜扇)という植物の黒い実に結びついたものと考えられる、
とある(精選版日本国語大辞典)。なお「野干」については触れた。
ぬばたま、
の語源については、
射干(やかん ヒオウギの漢名)の実は野に生じ、黒い玉のようであるところからヌマタマ(野真玉)の義(冠辞考)、
射干の葉は羽のようであり、その実は丸く黒いところからヌバタマ(野羽玉)の義(古事記伝・雅言考・大言海)、
ヌはオニの原語アヌ(幽鬼)から、バタマはマタマ(真魂)の転呼(日本古語大辞典=松岡静雄)、
等々あり、
烏扇の実の名がすなわち「ぬばたま」の語源であると考える説、
「ぬば」は元来は黒い色を表わす語であったと考える説、
とが有力とされ、後者の場合、
沼→泥→黒、
という意味的連環を想定し、
白玉が特に真珠を意味するように、黒い玉の意味の語が烏扇の実と二次的に結びついた、
とする(精選版日本国語大辞典)が、少し無理筋ではないか。やはり「檜扇」説が妥当なのではないか。
ヒオウギ(檜扇、学名:Iris domestica)、
は、
アヤメ科アヤメ属の多年草、
で
山野の草地や海岸に自生する多年草、
である。
高さは60~120センチメートル程度。葉は長く扇状に広がり、宮廷人が持つ檜扇に似ていることから命名され、
別名、
烏扇(からすおうぎ)、
とも呼称される(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%82%AE)。
花は8月ごろに咲き、直径は5 - 6センチメートル程度。花被片はオレンジ色で赤い斑点があり、放射状に開く。午前中に咲き、夕方にはしぼむ一日花である。種子は4ミリメートル程度で黒く艶がある(仝上)。
(ヒオウギの黒い種子 仝上)
枕詞の、
ぬばたまの、
うばたまの、
むばたまの、
は、ほぼ同義の枕詞だが、微妙にかかる詞に差がある。
うばたまの、
は、烏羽玉が黒いところから、
「くろ(黒)」にかかり、さらに「やみ(闇)」「よる(夜)」「ゆうべ(夕)」「かみ(髪)」「ゆめ(夢)」などにかかる。
ぬばたまの、
も、ぬばたまの実が黒いところから、黒色やそれに関連した語にかかり、上述の、
奴婆多麻能(ヌバタマノ) 黒き御衣(みけし)を ま具(つぶさ)に 取り装(よそ)ひ(古事記)、
のように、「黒し」および「黒駒」「黒馬」「黒髪」「大黒」などにかかり、さらに、
いにしへに妹(いも)と吾が見し黒玉之(ぬばたまの)黒牛潟を見ればさぶしも(万葉集)、
と、「黒」を含む地名「黒髪山」「黒牛潟」にかかり、
にきたへの 衣(ころも)寒らに 烏玉乃(ぬばたまノ) 髪は乱れて(万葉集)、
と、髪は黒いところから、「髪」にかかり、
野干玉能(ぬばたまノ)昨夜(きそ)は帰しつ今宵さへ吾れを帰すな道の長手(ながて)を(万葉集)、
奴婆多麻乃(ヌバタマノ)夜(よ)は更けぬらしたまくしげ二上山(ふたがみやま)に月傾きぬ(仝上)、
と、夜に関する語、「夜(よる・よ)」およびその複合語「夜霧」「夜床」「夜渡る」「一夜」に、また、「昨夜(きそ)」「夕へ」「今宵(こよひ)」などにかかり、
相ひ思はず君はあるらし黒玉(ぬばたまの)夢(いめ)にも見えずうけひて寝(ぬ)れど(万葉集)、
と、夜のものである「月」や「夢(いめ)」にかかり、
奴婆多麻能(ヌバタマノ)妹(いも)が干すべくあらなくに我が衣手(ころもで)を濡れていかにせむ(万葉集)、
と、黒髪を持つ妹の意でかかる。また、夢(いめ)と妹(いも)が類音であるところから、「妹(いも)」にかかる(精選版日本国語大辞典)。
中古使われることの多い、
むばたまの、
は、
むばたまの我が黒髪やかはるらん鏡のかげに降れる白雪(古今和歌集)、
と、ぬばたまは色が黒いところから、「黒」または「黒」を含む語にかかり、
むは玉の髪は白けて恥かしく市にて生(む)める子をぞ悲しぶ(「天元四年斉敏君達謎合(981)」)、
と、髪は黒いところから、「髪」にかかり、
いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣を返してぞきる(古今和歌集)、
と、黒に関係のある「夜」や「闇」にかかり、
むは玉の夢のうきはしあはれなと人めをよきて恋わたるらん(宝治百首)、
と、
夜のものである「夢」にかかる(精選版日本国語大辞典)。
ぬばたまの、
の転訛、
うばたまの、
は、冒頭の、
うばたまの夢になにかはなぐさまんうつつにだにもあかぬ心を(古今和歌集)、
烏羽黒(ウバタマ)の髪の落(おち)( 浮世草子「好色一代女」)、
と、
烏羽が黒いところから、「くろ(黒)」にかかり、さらに「やみ(闇)」「よる(夜)」「ゆうべ(夕)」「かみ(髪)」「ゆめ(夢)」などにかかる(仝上)。
参考文献;
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95