誓将挂冠去(誓って将に冠を挂(か)けて去り)
覚道資無窮(覚道、無窮に資せんとす)(岑参)、
の、
挂冠(けいかん・かいかん)、
は、文字通り、
冠をぬいでかける、
意だが、
冠は官位を持つ人が被るものなので、辞職することを言う、
とある(前野直彬注解『唐詩選』)。
後漢の逢萌(ほうぼう)が辞職するとき、冠を脱いで、都の城門にかけ、家に帰ろうといった、
という故事にもとづく(前野直彬注解『唐詩選』)。
挂冠、
は、文字通り、
冠を脱いで柱などに掛けること、
の意味だから、
掛冠、
とも表記する。『後漢書』逸民伝・逢萌に、
時に王莽其の子宇を殺す。萌、友人に謂ひて曰く、三綱絶えたり。去らずんば、禍將(まさ)に人に及ばんとすと。卽ち冠を解きて東都の城門に挂けて歸る(時王莽殺其子宇、萌謂友人曰、三綱絶矣、不去禍将及人、即解冠挂東都城門、歸将家屬浮海、客於遼東)、
とある(字通)。つまり、
後漢(ごかん)の逢萌(ほうぼう)は、巧妙な術策によって政権を掌握し、ついには天子の位についた王莽(おうもう)に仕えることを、わが子を殺されたこともあって潔しとせず、その役職を表す冠を都洛陽(らくよう)の城門に掛けて遼東(りょうとう)に去った、
という故事にちなみ、
官職にある者がその職を辞すること、
をいい、
解冠(かいかん)、
とも当て、
致仕(ちし)、
と同義である(日本大百科全書・デジタル大辞泉)。
王莽、
は、
前漢末期、哀帝没後、平帝をたて実権を掌握。のち、平帝を毒殺し、幼帝嬰を擁立。その摂政となり、やがて自ら帝位を得、儒教の天命と称する符命を利用して、漢の皇帝を践祚(代行)することを名目に、漢の摂皇帝や仮皇帝となり、やがて、符命を理由に漢(前漢)から禅譲を受けて新の皇帝に即位した。周代初期の古制の復元をめざしたが失敗。漢の劉秀(後漢の光武帝)に攻められ殺された、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E8%8E%BD・精選版日本国語大辞典)。在位は、15年(前45~後23)。
「挂」(慣用ケイ、漢音カイ、呉音ケイ)は、
会意兼形声。圭(ケイ)は、土を△型に盛った姿を示す会意文字。挂は「手+音符圭」で、高い所に∧型にひっかけること、
とある(漢字源)が、
かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%8C%82)、
形声。「手」+音符「圭 /*KWE/」、
とする(仝上)。
「冠」(カン)は、「天冠」で触れたように、
会意兼形声。「冖(かぶる)+寸(手)+音符元」で、頭の周りを丸く囲むかんむりのこと。まるいかんむりを手で被ることを示す、
とある(漢字源)。同趣旨だが、
会意形声。冖と、寸(手)と、元(グヱン→クワン 首(こうべ)の意)とから成り、かんむりを手で頭に着ける、また、「かんむり」の意を表す、
とも(角川新字源)、また、
会意兼形声文字です(冖+元+寸)。「おおい」の象形と「かんむりをつけた人」の象形と「右手の手首に親指をあて脈をはかる」象形から、「かんむりをつける」、「かんむり」を意味する「冠」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1616.html)。
参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:挂冠(けいかん・かいかん) 掛冠