あやなくてまだきなき名のたつた川渡らでやまむものならなくに(古今和歌集)、
の、
あやなし、
は、
道理がない、
説明がつかない、
意である(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)。
あやなくも曇らぬ宵をいとふかな信夫(しのぶ)の里の秋の夜の月(新古今和歌集)、
では、
わけのわからないことに、
と訳注している(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。
あやなし、
は、
文無し、
と当て、
あや(文)、
は、新撰字鏡(898~901)に、
縵(マン 無地の絹)、繒无文也、阿也奈支太太支奴(アヤナキタダキヌ)、
また、
腡(ラ)、掌内文理也、手乃阿也(てのあや)、
とあり、
水の上にあや織りみだる春の雨や山の緑をなべて染むらむ(新撰万葉集)、
と、
物の表面のはっきりした線や形の模様、
の意で、それをメタファに、
槇を折るに其の木の理(あや)に随ふ(法華経玄賛平安初期点)、
と、
事物の筋目、
の意で使う(岩波古語辞典)。「易経」繋辞に、
天地之文、
とあり、疏に、
若青赤相雜、故称文也、
とあり、和訓栞には、
韻瑞に、日月、天之文也、山川、地之文也、言語、人之文也、ト見ユ、
とある(大言海)。だから、
あやなし、
の、
あや、
は、
模様、筋目の意、
で(岩波古語辞典)、
あやなし、
は、
模様・筋目がないの意(広辞苑)、
文理(あや)なしの義、文目(あやめ)も分(わ)かず、理(すじ)立たずの意なり(大言海)、
で、
春の夜のやみはあやなし梅の花色こそ見えね香やはかくるる(古今和歌集)、
いかでか三皇(さんこう)今上あまたおはします都の、いたづらに亡ぶるやうはあらんと、頼もしくこそ覚えしに、かくいとあやなきわざの出で来ぬるは(増鏡)
などと、
筋が通らない、理屈に合わない、不条理なことである、無法である、
意で使うほか、
知る知らぬなにかあやなくわきていはん思ひのみこそしるべなりけれ(古今和歌集)、
と、
そうする理由がない、そうなる根拠がない、いわれがない、
意や、その派生で、
さすがに、心とどめて恨み給へりし折々、などて、あやなきすさび事につけても、さ思はれ奉りけむ(源氏物語)、
と、
無意味である、あっても意味がない、かいがない、とるにたりない、
などの意や、
向ふの方より久兵へは歎きにかるい思ひとも、いづれあやなししばらくも宿に独はいられづと(浄瑠璃「八百屋お七」)、
と、
物の判別もつかない、あやめもわからない、不分明である、
などの意や、
また人聞くばかりののしらむはあやなきを、いささか開けさせたまへ。いといぶせし(源氏物語)、
と、
わきまえがない、無考えである、
の意で使われる(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。
あやなし、
は、
会話文に用いられる場合、女性が話者であることはないという。女性の語としては、和歌の中で機知をきかせるのに留まったようである、
とあり、
和語として上代に用例が見いだせないのは、漢語に由来する可能性を示唆する、
との説があり(仝上)、平安時代後期の漢詩文集「本朝文粋」立神祠に、
無文之秩紛然、
とあり、この、
「無文」は形容詞「あやなし」の語義に近い、
とある(仝上)。
(「文」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%96%87)
「文」(漢音ブン、呉音モン)は、
象形。土器につけた縄文の模様のひとこまを描いたもので、こまごまと飾り立てた模様のこと。のち、模様式に描いた文字や生活の飾りである文化などの意となる。綾の原字、
とある(漢字源)。他に、
象形。衣服の襟を胸元で合わせた形から、紋様、引いては文字や文章を表す、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%96%87)、
象形。胸に文身(いれずみ)をほどこした人の形にかたどり、「あや」の意を表す。ひいて、文字・文章の意に用いる、
とも(角川新字源)、
象形文字です。「人の胸を開いてそこに入れ墨の模様を描く」象形から「模様」を意味する「文」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji170.html)。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95