遺却珊瑚鞭(遺却(いきゃく)す 珊瑚(さんご)の鞭)
白馬驕不行(白馬(はくば)驕(おご)りて 行(ゆ)かず)
章台折楊柳(章台(しょうだい) 楊柳(ようりゅう)を折る)
春日路傍情(春日(しゅんじつ)路傍の情)(崔国輔・長楽少年行)
の、
章台、
は、唐詩では、
遊里の代名詞、
のように使い(前野直彬注解『唐詩選』)、
折楊柳、
は、
揚柳の枝を折って鞭のかわりとする、
意味だが、唐詩では、
楊柳の枝を折る、
というと、
思う人との別れに際して形見に送る、
とか、または、
女を男になびかせる
とかの意味がある(仝上)とあり、ここでは、
次の句と結んで、後者の意味を言外にこめ、路傍の人に向かっておこしたあだし心をあらわしていると考えられよう、
との注釈がある(仝上)。別に、
折楊柳、
には、
遊女を相手に遊ぶ、
という意味もある(https://mausebengel.blog.fc2.com/blog-entry-571.html)とある。この詩自体、
白馬にまたがった貴公子がこれから遊里に繰り込もうとする説、
貴公子が遊里をぞめきながら、左右の妓女たちに戯れている説、
思う女のもとを立ち出でた貴公子が道端の娘にふと心を動かしたとする説、
等々があり、確定していない、とあり(前野直彬注解『唐詩選』)、また、
珊瑚鞭を忘れてしまい、遊郭であそぶしかないとする説、
まである(https://opac.ll.chiba-u.jp/da/curator/900034364/KJ00004164468.pdf)。注釈者は、
読者の想像力にまかせて、ただ春の日の色町の雰囲気を、美しく歌い上げた、
と解釈している(前野直彬注解『唐詩選』)。この詩は、いろんな意味で、有名で、たとえば、山東京伝が、北尾政演(きたおまさのぶ)という画名描いた、浮世絵に『吉原傾城新美人合自筆鏡』(天明四(1784)年)がある。当時評判だった遊女の姿を描いているが、他は自作の歌を書いているが、松葉屋の瀬川は崔国輔の詩「長楽少年行」の後半を書いている。
(「吉原傾城新美人合自筆鏡」(北尾政演) http://torinakukoesu.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-c6d0.htmlより)
また、吉増剛造は、自分の詩の中で、
涙ぐんで長安をおもい
唐詩をくちずさむ
珊瑚ノ鞭ヲ遺却スレバ、白馬驕リテ行カズ
章台楊柳ヲ折ル、春日路傍ノ情(疾走詩篇)
と、この詩の一節を写している。
楊柳、
とは、
楊はカワヤナギ、柳はシダレヤナギ、
の意(広辞苑・字源)で、
昔我往矣、楊柳依依、今我来思、雨雪霏霏(詩経・小雅)、
と、
柳、
を指す。
カワヤナギ(川柳)、
は、
川のほとりにある柳、
で、ふつう、
ネコヤナギ、
をいい(精選版日本国語大辞典)、
シダレヤナギ(枝垂柳)、
は、
イトヤナギ(糸柳)、
ジスリヤナギ、
などの別名があり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%80%E3%83%AC%E3%83%A4%E3%83%8A%E3%82%AE)、ふつう、
柳、
というと、これを指す。
(ネコヤナギ デジタル大辞泉より)
そして、一般に、
柳を折る、
というと、昔、中国で、
柳の枝を折って旅に出発する人を見送った、
ことから、
旅に出発する人を見送る、
ことを意味する(デジタル大辞泉・ことわざ辞典)。もともと、
早春の寒食や清明などの節日には、家々では競って柳の枝を買って門や軒端に挿し、あるいは枝を髪に結んだり輪にして頭にいただいたりした、
とあり、これに類するのが、
折楊柳、
の習俗で、
親戚知友が遠方に旅立つときには、城外まで見送り、水辺の柳の枝を折り取り環(わ)の形に結んで贈った。〈環〉は〈還〉で、旅人の無事帰還を祈る意味とされているが、実際には日本の魂(たま)むすびの古俗と同じく、旅人が旅に疲れて魂を失散させないよう、しっかりとつなぎとめる意味であった、
とある(世界大百科事典)。また、山口素堂の、
弱笠痩節寄一身(弱笠痩飾に一身を寄す)
離鍵回首悩吟身(離莚回首して吟身を悩ます)
河邊楊棚無由折(河邊の楊柳折るに由し無し)
早動翠條迎老身(早く翠條を動かして老身を迎ふ)、
の、
楊柳折る、
について、六朝時代の地誌『三輔黄図』を参考にすれば、
漠代、長安の人が客を送って鰯橋に至り―長安の東にあった―春の柳の枝を折って環に結んで別れる慣わしがあった、
とある(黄東遠「山口素堂の漢詩文の特色について」)。それが漢詩に反映され、
折楊柳、
といえば、
悲しみを思い起こさせる「送別」、
または、
六朝・唐の詩人たちに歌われた「送別を奏する曲」、
に転じていく(仝上)、とある。
送別の歌、
と、
女性を靡かせる手段、
との関係がよく見えないが、
旅人が旅に疲れて魂を失散させないよう、しっかりとつなぎとめる、
というかつての習慣の意味が、
思い人をつなぎとめる、
意味に変じた、ということのようだ。
参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
黄東遠「山口素堂の漢詩文の特色について」(https://core.ac.uk/download/56630493.pdf)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
ラベル:折楊柳(せつようりゅう)