西施石
西施昔日浣紗津(西施(せいし) 昔日(せきじつ) 浣紗(かんさ)の津(しん))
石上靑苔思殺人(石上(せきじょう)の青苔(せいたい) 人を思殺(しさつ)す)
一去姑蘇不復返(一たび姑蘇(こそ)に去って復(ま)た返(かえ)らず)
岸傍桃李爲誰春(岸傍(がんぼう)の桃李(り) 誰(た)が為にか春なる)(楼穎・西施石)
の、
浣紗(かんさ)、
は、
川で紗をすすぐ、
つまり、
紗を晒すこと、
をいう(前野直彬注解『唐詩選』)。
姑蘇、
は、
呉王夫差の都、
で、今の江蘇省 蘇州市である(https://kanbun.info/syubu/toushisen458.html)。「姑蘇」は、ここでは、
姑蘇台、
を指す。姑蘇台は、
山在州西四十里。其上闔閭起臺((姑蘇)山は(蘇)州の西四十里に在り。其の上に闔廬(こうりょ)、台を起(きづ)く)、
とあり(元和郡県図志)、春秋時代の後期、
呉王闔廬(こうりょ)が姑蘇山(江蘇省蘇州市の西南)上に築き、後にその子夫差が改修した離宮。西施など大勢の美女を住まわせて遊んだ、
という(仝上)。この、
台、
は、
建物を築くとき、土を高く盛ってつき固めた台基のこと、
とある(仝上)。
思殺、
の、
殺、
は、
程度の甚だしいことをあらわすこと、
で、
深く思うこと、
とある(前野直彬注解『唐詩選』・https://kanbun.info/syubu/toushisen458.html)
西施、
については、「顰に倣う」で触れたが、
中国史上代表的な美人の一人、
で、四大美人というと、
西施(春秋時代)、
王昭君(前漢)、
貂蝉(ちょうせん 後漢)、
楊貴妃(唐)、
で、貂蝉は、『三国志演義』に登場する架空の人物。このほかに卓文君(前漢)を加え、王昭君を除くこともあり、虞美人(秦末)を加え、貂蝉を除くこともある、という。
西施は、
沈魚美人、
とも言われるが、春秋時代、越の国に生まれ、
家が貧しいので、薪を採ったり、川で紗(薄い絹)を晒したりして働いた。このころ呉王夫差との戦いに敗れ、復讐を志していた越王勾践に召し出され、夫差のもとに送った。夫差は、彼女の容色におぼれ、国政を顧みなくなったので、呉国は次第に乱れ、終には越に滅ぼされた、
というまさに傾城の美女である。彼女が紗をさらしていた谷川は、後世、
浣紗渓、
と呼ばれ、
西施石、
も、そうした伝説の一つで、
会稽の苧蘿(ちょら)山中(今の浙江省紹興市の西南、諸曁(しょき)市)の谷川で紗(うすぎぬ)を洗ったときに使った石、
とされる(前野直彬注解『唐詩選』)。西施をしのびながら作ったのが冒頭の詩になる。
中国の類書(一種の百科事典『太平御覧』(北宋・李昉(りほう)編、983年完成)に、
勾踐索美女以獻吳王、得諸曁羅山賣薪女西施、鄭旦、先教習于土城山。山邊有石、云是西施浣紗石(勾践、美女を索(もと)め以て呉王に献ぜんとし、諸曁羅(しょきら)山の薪(たきぎ)を売る女、西施・鄭旦(ていたん 西施と同郷とされ、越王勾践によって西施とともに呉に送られた)を得、先ず土城山に教習せしむ。山辺に石有り、云う是れ西施紗(うすぎぬ)を浣(あら)う石なり)、
とある(https://kanbun.info/syubu/toushisen458.html)。
西施、
の名は、
「顰にならう」で触れたように、本名は、
施夷光、
中国では西子ともいう。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(現在の諸曁市)生まれ、
と言われている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%96%BD)。
西施、
と言う名は、出身地である苧蘿村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施、西施と呼ばれるようになった、
とある(仝上)。
参考文献;
前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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