2024年09月01日

そほづ


あしひきの山田のそほつおのれさへわれをほしてふうれはしきこと(古今和歌集)、

の、

そほつ、

は、

そほづ、

で、

案山子、

の意とあり(高田祐彦訳注『新版古今和歌集』)、ここは、

案山子そのものではなく、みすぼらしい者や身分の低い者の比喩、

とある(仝上)。また、

そほつ、

には、

濡れる、

意の、

濡(そぼ)つ、

という動詞があり、

その意味と対照的な「ほし」に「干し」を連想することもできる、

と、注釈がある(仝上)。

そほつ(そほづ)、

の古形は、

そほど、

で、

そほづ、

は、

そほどの転、

とあり(岩波古語辞典・広辞苑)、

ど、

は、

人の意か、

とする説がある(日本国語大辞典)。

そほつ、
そおど

は、ともに、

案山子、

と当てる。「かかし」は、

かがし、

とも言い、

鹿驚、

とも当てる(岩波古語辞典)。鎌倉初期の歌学書『八雲御抄』には、

そほづ、おどろかしなり、

とあるように、当初は、

田畑が鳥獣に荒らされるのを防ぐため、それらの嫌うにおいを出して近づけないようにしたもの。獣の肉を焼いて串に刺したり、毛髪、ぼろ布などを焼いたものを竹に下げたりして田畑に置く、

意で(日本語源大辞典)、そのため、

かがし、

ともある(岩波古語辞典)。元来、

かがし、

または、

かがせ、

で、焼いた獣肉を串に刺して田畑に立て、その臭気を嗅がせて退けた(江戸語大辞典)、ともある。そのため、「かかし」の語源は、

嗅がしの意(岩波古語辞典・類聚名物考・卯花園漫録・柳亭記・俚言集覧・年中行事覚書=柳田国男)、
ヤキカガセを上略して、セを、シ転じたる語(松屋筆記・大言海)、

とする説が大勢である。この「かがし」の意が転じて、

竹やわらで作った等身大、または、それより少し小さい人形。弓矢を持たせたり、蓑や笠をかぶせたりして田畑などに人が立っているように見せかけ、作物を荒らす鳥や獣を防ぐもの、

の意となった(日本語源大辞典)とする。この説によると、人形の意で使われるようになったのは、

比較的新しく、中世頃から、

とある(仝上)。しかし、古く、

あしひきの山田の曾富騰(ソホド)、

と古事記にあるように、

そおど(そほど)、
そおづ(そほづ)、

と呼ばれ人形があったのである(岩波古語辞典)。

そほづ、
そほど、

の語源は、「そほづ」は、

雨露にぬれそぼち、山田に立っているところからソボチビト(濡人)の義(和訓栞・大言海)、
シロヒトタツ(代人立)の反(名語記)、

などとあり、「そほど」は、

山田の番人などが日に照らされ、風雨に打たれて皮膚が赭色(そおいろ 赤土の色)をしていたところからソホビト(赭人)の転か(少彦名命(すくなびこなのみこと)の研究=喜田貞吉)、
朱人(ソオビト)の約(角川古語辞典)、
神の名ソホド(曾富騰)から(北辺随筆)、
ソホはソホフル・ソホツのソホか。またドは人の意か(時代別国語大辞典-上代編)、

等々の語源説があり、いずれと決め手はない。しかし「そほづ」は、

久延毘古(くえびこ)、

ともいい、古事記に、

少名毘古那の神を顕はし白(モウ)せし謂はゆる久延毘古(くえびこ)は、今に山田のそほどといふそ、

とあり(古語大辞典)、

〈クエ〉は〈崩(く)ゆ〉の連体形で身体の崩れた男を指す、

と思われ(世界大百科事典)、

此神者、足雖不行、盡知天下之事神也、

とある。この神が、今日の案山子の姿に引き継がれていると思える。このとき、「そほど」「そほづ」は、

かたしろ、

ではないかと見える。

長野県下では旧10月10日の十日夜(とおかんや)の行事に、カカシアゲまたはソメノ年取リといい、かかしに蓑笠を着せて箒・熊手を両手に持たせ、餅や二股大根を供えてこれをまつる、

あるいは、

同県諏訪地方ではこの日はかかしの神が天に上がる日といい、同じく南安曇地方ではかかしが田の守りを終えて山の神になる日だとの伝承がある。また、群馬県下では正月14日にかかし神を作り、新潟では同日かかしを立て膳を供える風習もある、

という民俗例もある。これは、

神の依代(よりしろ)、

そのものである(世界大百科事典)。

依代、

は、

憑代、

とも当て、

神霊が招き寄せられて乗り移るもの、

で、

樹木、岩石、御幣神籬(ひもろぎ)などの有体物で、これを神霊の代わりとしてまつる、

とある(広辞苑)。なお、人間が依代となったときには、

よりまし(尸童・依坐・憑坐・憑子・寄坐)、

と呼ばれる(仝上・精選版日本国語大辞典)。

「かたしろ」とは、

形代、

と当て、

本物の形の代わり、

の意で、

禊・祓などに用いる紙製の人形で、神を祭る時、神霊の代わりとしては据えたもの、

であり(古語大辞典)、

神霊の依代(よりしろ)の一種、

と考えられている(ブリタニカ国際大百科事典)。とすると、神体の代わりに据えた、

カタシロ、

は、

語尾を落としてカタシになるとともに、「タ」の子交(子音交替)[th]で、カカシ(関東)・カガシ(関西)になった、

とする説(日本語の語源)が、注目される。「そほど」「そほづ」との関連が見えてこないのが難点であるが、ひとがたの人形だったところは、「形代」らしいと思わせ、この説では、こう音韻変化させている。

身代わりのヒトガタ(人形)のことらをカタシロ(形代)といった。紙製のカタシロは六月と十二月の大祓(おおはらえ)の時に陰陽師(おんようじ)が人のからだを撫でて災いを移してから水に流した。また、祭のとき木製・土製のカタシロを神体の代わりに据えた。〈ただカタシロをいはひたらむやうにて〉(増鏡)。
「身代わり」といういみになったカタシロは語尾を落としてカタシになるとともに、「タ」の子交[tk]でカカシ(案山子、関東)、カガシ(関西)になった。『物類称呼』(1775)に「関西・北陸までカガシといふ。関東にてはカカシと澄みていふ」とある。
『日葡辞書』(1603)に、「猪や鹿をおどろかすために耕地に立てたおどし」とあるが、蓑・笠をつけた一本足のカカシは昔から稔りの秋の風物詩であった。〈鳥獣のつかぬやうに垣を結ひ、カガシをこしらへて置かうと存ずる〉、〈今夜は某(それがし)がカガセになって捕へやう〉(狂言・瓜盗人)。
語源について、「もと獸肉を焼き炙りて串に挟み立て、その臭をかがしめておどろかす故にかがしといふといへり」(俚言集覧)とあるが、カタシロの転音だから、「人の身代わり」という意であった。
「案山子」に転義しなかったカカシの語形は、岩手・宮城・山形県村山地方の方言として、コケシ(木彫りの人形)に転音・転義した。これはカタシロ(形代)の伝承であった、

とある(日本語の語源)。しかし、この音韻説をみていると、逆に、

案山子、

の意の中にある、

形代、

としての案山子と、

おどし、

としての案山子とは、語源が異なるのではないか、という気がしてくる。さすがに、『大言海』は、

かかし、

を、

鹿驚、

とあてる「かかし」と、

案山子、

と当てる「かかし」を区別している。前者は、

ヤキカガセを上略して、セを、シ転じたる語、

とし、後者は、

鹿驚(カガシ)を立鹿驚(タチカガシ)と用ゐたるを、略したる語、

とする。そして、

鹿驚、

は、獣肉を焼いて串に刺した、

かがし(嗅)、

とし、後者を、

山田のそほづ、

とする。これは見識である。いずれも、役目は、

鳥おどし、
獣おどし、

であるが、

獣の臭い、
と、
神体の形代、

とではギャップがありすぎる。本来異なる由来だったものが、共に、漢語、

案山子、

を当てたことで、

かがし、

そほづ、

が混同されていった、ということではあるまいか。一般には、

かがし→かかし、

と転じたとし、

においをかがせるものの意の、

嗅(かが)し、

の、

田畑が鳥獣に荒らされるのを防ぐため、それらの嫌うにおいを出して近付けないようにしたもの、

から転じて、中世頃には、

竹やわらで作った等身大、または、それより少し小さい人形、

へと変じたとし(精選版日本国語大辞典)、

江戸時代後半には「かかし」が勢力を増した、

とされる(日本語源大辞典)のだが、いかがなものだろう。

ところで、

かかし、

に当てた、

案山子、

は、漢語で、

アンザンシ、

と訓み、

かかし、とりおどし、

の意であり、

案山は、几(キ 机)の如く平たく低き山の義。山田なり、山田を守る主たる義、

とある(字源)。傳燈禄、道膺禅師傳、または會元、五祖常戒禅師の章に、

「主山高、案山低」とありて、案山は低くして机の如く、平らなる山の義なるべく、案山の閒に、耕地ありて、其邉に、鳥おどしのありしより、

とある(字源・大言海)。「梅園日記」(1845)にも、

隨斎諧話に、鳥驚の人形、案山子の字を用ひし事は、友人芝山曰、案山子の文字は、伝燈録、普燈録、歴代高僧録等並に面前案山子の語あり、注曰、民俗刈草作人形、令置山田之上、防禽獣、名曰案山子、又会元五祖師戒禅師章、主山高案山低、又主山高嶮々、案山翠青々などあり、按るに、主山は高く、山の主たる心、案山は低く上平かに机の如き意ならん、低き山の間には必田畑をひらきて耕作す、鳥おどしも、案山のほとりに立おく人形故、山僧など戯に案山子と名づけしを、通称するものならんといへり、徂徠鈴録に主山案山輔山と云ことあり、多くの山の中に、北にありて一番高く見事な山あるを主山と定めて、主山の南にあたりて、はなれて山ありて、上手につくゑの形のごとくなるを案山とし、左右につゞきて主山をうけたる形ある山を輔山といふとあり、又按ずるに、此面前案山子を注せる書、いまだ読ねども、ここの人の作と見えて取にたらず、此事は和板伝燈録巻十七通庸禅師傳に、僧問。孤廻廻、硝山巍巍時如何、師曰孤迥峭巍巍、僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会とあり、和本句読を誤れり、面前案山子也不会を句とすべし、子とは僧をさしていへり、鹿驚の事にあらぬは論なし、

とあり(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%8B%E3%81%97・大言海・日本語源大辞典)、

僧曰、不会、師曰、面前案山子、也不会、

というのは、中国禅僧の用いた語で、それをかりて、「かかし」に当てた、と思われる(日本語源大辞典・大言海)。

「案」.gif


「案」(アン)は、

会意兼形声。安は「宀(やね)+女」の会意文字で、女性を家に落ち着けたさまをあらわす。案は「木+音符安」で、その上にひじをのせておさえる木のつくえ、

とあり(漢字源)、

会意兼形声文字です(安+木)。「家の中で女性がやすらぐ」象形(「やすらか・安定する」の意味)と「大地を覆う木」の象形から、安定した「つくえ」を意味する「案」という漢字が成り立ちました、

ともあるhttps://okjiten.jp/kanji602.htmlが、

かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、

してhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%A1%88

形声。「木」+音符「安 /*ɁAN/」。「つくえ」を意味する漢語{案 /*ʔaans/}を表す字。のち仮借して「かんがえる」を意味する同音異義語に用いる(仝上)、

形声。木と、音符安(アン)とから成る。「つくえ」の意を表す。借りて「かんがえる」意に用いる(角川新字源)、

と、形声文字とする。

参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 03:50| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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