2024年10月02日
二乗の人
そのかみの玉のかづらをうち返し今は衣の裏をたのまむ(東三條院)
の、
衣の裏、
は、
法華経巻第四・五百弟子受記品第八に説く、衣裏繋珠(えりけいじゅ)の譬喩(酔い臥していたために、親友が衣服の裏に宝珠を付けてくれたのも知らず、苦労を重ねたのち、その友に逢って宝珠の存在を告げられた人のように、二乗の人は仏が教化したことを無知ゆえに悟らず、しかも悟ったと考えていたこと)をさす、
とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。この、
二乗の人、
とは、
声聞乗(しょうもんじょう)と縁覚乗(えんかくじょう)、
をさし、
菩薩乗(ぼさつじょう)、
に対して言う(広辞苑)。
五乗、
で触れたように、
乗、
は、
のりもの。衆生を彼岸に運載する教え、
の意で、五種の教法の総称を、
五乗(ごじょう)、
といい、
人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗、
をいう(広辞苑)が、
仏乗、菩薩乗、縁覚(えんがく)乗、声聞(しょうもん)乗、人天乗、
あるいは、
声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、人間乗、天上乗、
と、宗派により名称、説き方が異なる(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)。
一乗、
は、サンスクリット語、
エーカ・ヤーナeka-yāna(一つの乗り物)、
の訳語、
「一」は唯一無二の義、
「乗」は乗物、
の意、
開闡(かいせん ひらき広める)一乗法、導諸群生、令速成菩提(法華経)、
と、
乗物の舟車などにて、如来の教法、衆生を載運して、生死を去らしむる、
とあり(大言海)、乗(乗り物)は、
人々を乗せて仏教の悟りに赴かせる教え、
をたとえていったもので、
真の教えはただ一つであり、その教えによってすべてのものが等しく仏になる、
と説くことをいう(精選版日本国語大辞典・日本大百科全書)とある。「声聞」で触れたように、
悟りに至るに三種の方法、
には、
声聞乗(しょうもんじょう 仏弟子の乗り物)、
縁覚乗(えんがくじょう ひとりで覚(さと)った者の乗り物)、
菩薩乗(ぼさつじょう 大乗の求道(ぐどう)者の乗り物)、
の三つがあり、これを、
三乗、
といい、『法華経』では、この三乗は、
一乗(仏乗ともいう)、
に導くための方便(ほうべん)にすぎず、究極的にはすべて真実なる一乗に帰す、
と説き(仝上)、
三乗方便・一乗真実、
といい、それを、
一乗の法、
といい、主として、
法華経、
をさす(仝上)。「一乗妙法」については触れた。
声聞、
は、
梵語śrāvaka(シュラーヴァカ)、
の訳語、
声を聞くもの、
の意で、
釈迦の説法する声を聞いて悟る弟子、
である(精選版日本国語大辞典)のに対して、
縁覚(えんがく)、
は、
梵語pratyeka-buddhaの訳語、
で、
各自にさとった者、
の意、
独覚(どっかく)、
とも訳し、
仏の教えによらず、師なく、自ら独りで覚り、他に教えを説こうとしない孤高の聖者、
をいう(仝上・日本大百科全書)。
菩薩、
は、
サンスクリット語ボーディサットバbodhisattva、
の音訳、
菩提薩埵(ぼだいさった)、
の省略語であり、
bodhi(菩提、悟り)+sattva(薩埵、人)、
より、
悟りを求める人、
の意であり、元来は、
釈尊の成道(じょうどう)以前の修行の姿、
をさしている(仝上)とされる(「薩埵」については触れた)。つまり、部派仏教(小乗)では、菩薩はつねに単数で示され、
成仏(じょうぶつ)以前の修行中の釈尊、
だけを意味する。そして他の修行者は、
釈尊の説いた四諦(したい)などの法を修習して「阿羅漢(あらかん)」になることを目標にした(仝上)。
阿羅漢、
とは、
サンスクリット語アルハトarhatのアルハンarhanの音写語、
で、
尊敬を受けるに値する者、
の意。
究極の悟りを得て、尊敬し供養される人、
をいう。部派仏教(小乗仏教)では、
仏弟子(声聞)の到達しうる最高の位、
をさし、仏とは区別して使い、これ以上学修すべきものがないので、
無学(むがく)、
ともいう(仝上)。ただ、大乗仏教では、
個人的な解脱を目的とする者、
とみなされ、
声聞、
独覚(縁覚)、
を並べて、二乗・小乗として貶しており、
悟りに至るに三種の方法、
である、
三乗、
を、
声聞乗(しょうもんじょう 教えを聞いて初めて悟る声聞 小乗)、
縁覚乗(えんがくじょう 自ら悟るが人に教えない縁覚 中乗)、
菩薩乗(ぼさつじょう 一切衆生のために仏道を実践する菩薩 大乗)、
とし、大乗仏教では、
菩薩、
を、
修行を経た未来に仏になる者、
の意で用いている。
悟りを求め修行するとともに、他の者も悟りに到達させようと努める者、
また、仏の後継者としての、
観世音、
彌勒、
地蔵、
等々をさすようになっている(精選版日本国語大辞典)。だから、大乗仏教では、「阿羅漢」も、
小乗の聖者をさし、大乗の求道者(菩薩)には及ばない、
とされた。
四乗(しじょう)、
という場合、
声聞(しょうもん)乗・縁覚(えんがく)乗・菩薩乗・仏乗、
をいい(http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%9B%9B%E4%B9%97)、
五乗(ごじょう)、
という場合、
仏乗、菩薩乗、縁覚(えんがく)乗、声聞(しょうもん)乗、人天乗、
あるいは、
声聞乗、縁覚乗、菩薩乗、人間乗(人乗)、天上乗(天乗)、
の五種の教法の総称をいう(精選版日本国語大辞典)。
宗派によって異なるが、天台宗の教学では、人間の心の境涯を、
地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏、
の十の世界(十界)に分け、
声聞と縁覚、
を小乗の教法として、
二乗、
と呼び、
菩薩・仏、
の大乗の教法と分け、
声聞・縁覚・菩薩、
を、
三乗、
人間界から菩薩界までを、
五乗、
と呼ぶ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%B9%97)とある。
さて、
衣裏繋珠(えりけいじゅ)の譬喩、
は、
貧人繋珠(びんにんけいじゅ)の譬え、
ともいい(http://aoshiro634.blog.fc2.com/blog-entry-2390.html)、
法華七喩(ほっけしちゆ)、
法華七譬(しちひ)、
といわれる、
法華経に説かれる7つのたとえ話の一つである。上述したように、五百弟子受記品の、
ある貧乏な男が金持ちの親友の家で酒に酔い眠ってしまった。親友は遠方の急な知らせから外出することになり、眠っている男を起こそうとしたが起きなかった。そこで彼の衣服の裏に高価で貴重な宝珠を縫い込んで出かけた。男はそれとは知らずに起き上がると、友人がいないことから、また元の貧乏な生活に戻り他国を流浪し、少しの収入で満足していた。時を経て再び親友と出会うと、親友から宝珠のことを聞かされ、はじめてそれに気づいた男は、ようやく宝珠を得ることができた。この物語の金持ちである親友とは仏で、貧乏な男は声聞であり、二乗の教えで悟ったと満足している声聞が、再び仏に見え、宝珠である真実一乗の教えをはじめて知ったことを表している、
という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9)。
妙法蓮華経五百弟子受記品第八には、
貧人酔酒譬(貧人の酔酒)、
として、
世尊。譬如有人。至親友家。酒酔而臥。是時親友。官事当行。以無価宝珠。繋其衣裏。与之而去。其人酔臥。都不覚知。起已遊行。到於他国。為衣食故。勤力求索。甚大艱難。若少有所得。便以為足(世尊、譬えば人あり、親友の家に至って酒に酔うて臥せり。是の時に親友官事の当に行くべきあって、無価の宝珠を以て其の衣の裏に繋け之を与えて去りぬ。其の人酔い臥して都て覚知せず。起き已って遊行し他国に到りぬ。衣食の為の故に勤力求索すること甚だ大に艱難なり。若し少し得る所あれば便ち以て足りぬと為す)、
とあり、
親友覚悟譬(親友の覚悟)
於後親友。会遇見之。而作是言。咄哉丈夫。何為衣食。乃至如是。我昔欲令。汝得安楽。五欲自恣。於某年月日。以無価宝珠。繋汝衣裏。今故現在。而汝不知。勤苦憂悩。以求自活。甚為痴也。汝今可以此宝。貿易所須。常可如意。無所乏短(後に親友会い遇うて之を見て、是の言を作さく、咄哉丈夫、何ぞ衣食の為に乃ち是の如くなるに至る。我昔汝をして安楽なることを得、五欲に自ら恣ならしめんと欲して、某の年月日に於て無価の宝珠を以て汝が衣の裏に繋けぬ。今故お現にあり。而るを汝知らずして、勤苦憂悩して以て自活を求むること、甚だこれ痴なり。汝今此の宝を以て所須に貿易すべし。常に意の如く乏短なる所なかるべしといわんが如く)、
とある(https://www.kosaiji.org/hokke/kaisetsu/hokekyo/4/08.htm)。なお、
法華七譬(しちひ)、
は、
衣裏繋珠(えりけいじゅ、五百弟子受記品)、
の他、
三界火宅(さんしゃかたく、譬喩品「大白牛車(だいびゃくぎっしゃ)」で触れた)、
三草二木(さんそうにもく)
長者窮子(ちょうじゃぐうじ、信解品 「窮子」で触れた)、
化城宝処(けじょうほうしょ、化城喩品 「初地」で触れた)、
髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)
良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)
とされる。
髻中明珠(けいちゅうみょうしゅ、安楽行品)、
は、
転輪聖王(武力でなく仏法によって世界を治める理想の王)は、兵士に対してその手柄に従って城や衣服、財宝などを与えていた。しかし髻(まげ、もとどり)の中にある宝珠だけは、みだりに与えると諸人が驚き怪しむので容易に人に授与しなかった。しかし、最も困難な事柄を果たした者には歓喜して明珠を与えた。この物語の転輪聖王とは仏で、兵士たちは弟子、種々の手柄により与えられた宝とは爾前経(にぜんきょう=法華経以前の様々な教え)、髻中の明珠とは法華経であることを表している。より正しくは、転輪聖王と同じように如来も法華教を教えることを最後まで慎重に控えていたのだ、と説明している、
とあり、
良医病子(ろういびょうし、如来寿量品)、
は、
ある所に腕の立つ良医がおり、彼には百人余りの子供がいた。ある時、良医の留守中に子供たちが毒薬を飲んで苦しんでいた。そこへ帰った良医は薬を調合して子供たちに与えたが、半数の子供たちは毒気が軽減だったのか父親の薬を素直に飲んで本心を取り戻した。しかし残りの子供たちはそれも毒だと思い飲もうとしなかった。そこで良医は一計を案じ、いったん外出して使いの者を出し、父親が出先で死んだと告げさせた。父の死を聞いた子供たちは毒気も忘れ嘆き悲しみ、大いに憂いて、父親が残してくれた良薬を飲んで病を治すことができた。この物語の良医は仏で、病で苦しむ子供たちを衆生、良医が帰宅し病の子らを救う姿は仏が一切衆生を救う姿、良医が死んだというのは方便で涅槃したことを表している、
とある(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%83%E5%96%A9)。
なお、法華経については、「法華経五の巻」で触れた。
「珠」(漢音シュ、呉音ス)は、
会意兼形声。「玉+音符朱」。朱(あかい)色の玉の意、あるいは主・住と同系で、貝の中にじっととどまっている真珠の玉のことか、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(王(玉)+朱)。「3つの玉を縦のヒモで貫いた」象形(「玉」の意味)と「木の中心に一線引いた」象形(「「木の切り口のしんが美しい赤」の意味)から、「美しい玉」、「真珠」を意味する「珠」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1316.html)が、
形声。「玉」+音符「朱 /*TO/」。漢語{珠 /*to/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%8F%A0)、
も、
形声。玉と、音符朱(シユ)とから成る。真珠の意を表す(角川新字源)、
も、形声文字とする。
参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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