2024年10月06日
もろかづら
見ればまづいとどいとど涙ぞもろかづらいかに契りてかけ離れけむ(鴨長明)、
の、
もろかづら、
は、
桂の枝に賀茂葵を付けた鬘、また、賀茂葵そのものをもいう、
とあり、ここでは、
その意で形容詞「もろき」を掛ける、
とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。
かけ離れけむ、
の、
「かけ」は「かづら」の縁語、
とあり、
源氏物語・蓬生の巻で末摘花が詠んだ「絶ゆまじき筋を頼みし玉鬘思ひのほかにかけ離れぬる」を念頭に置くか、
とある(仝上)。
もろかづら、
は、
諸鬘、
諸葛、
と当て、
もろかづら二葉ながらも君にかくあふひや神のゆるしなるらん(大鏡)、
と、
賀茂の祭の時、桂の枝に葵(二重葵)をつけて、簾にかけ、また頭などにかざしたもの、
とあり(広辞苑)、
葵のみかけるのを、
片かづら、
といい、また、その葵のことをいう(仝上)とある。
かづら、
は、「山かづら」で触れたように、
鬘、
とあて、
カミ(髪)ツラ(蔓)の約(ツラはツル(蔓)と同根)、
で、
蔓草で作った髪飾り、
をいい(岩波古語辞典)、上代、
蔓草を採りて、髪に挿して飾りとしたるもの、又、種々の植物の花枝などをも用ゐたり、後の髻華(ウズ)、挿頭花(かざし)も、是れの移りたるなり、
とある(大言海)。
髻華(うず)、
は、
巫女の頭飾りのルーツ、
で、
山の植物の霊的なパワーを得るため髪や冠に草花や木の枝を挿す、
ものとされ、現在の巫女の頭飾りに用いる花もこれを踏襲している(https://gejideji.exblog.jp/31187471/)し、
挿頭、
挿頭華、
とも当てる、
秋萩は盛り過ぐるをいたづらにかざしに挿さず帰りなむとや(万葉集)、
の、
かざし、
は、上代、
草木の花や枝などを髪に挿したこと。また、挿した花や枝、
をいい、平安時代以後は、冠に挿すことにもいい、多く造花を用いた(デジタル大辞泉)とあり、やはり、
幸いを願う呪術的行為が、のち飾りになったもの、
とある(仝上)。古墳時代には、これを、
髻華(うず)、
といい、飛鳥時代には、髪に挿すばかりではなく、冠に金属製の造花や鳥の尾、豹(ひょう)の尾を挿して飾りとし、平安時代になって、冠に挿す季節の花の折り枝や造花を、
挿頭華(かざし)、
とよぶようになった。造花には絹糸でつくった糸花のほか金や銀製のものがあった。
なお、「かづら」、「挿頭(かざし)」については触れた。
もろかずら、
は、
葵鬘・葵桂(あふひかづら)、
ともいい(精選版日本国語大辞典・大言海・岩波古語辞典)、
諸葉(もろは)葵、即ち、賀茂葵と、桂とを組み合わせたもの、
をいい、
賀茂祭の時、祭に加わる人々、皆、烏帽子に挿して、飾りとしたり、其外、参加の牛車(ぎっしゃ)の簾などにも懸け、禁中にても、諸所に懸けられたり、これによりて、賀茂祭を葵祭とも云ふ、
とある(大言海)。平安中期の『親信卿記』(天延元年(974)四月十四日)に、
祭也、十五日、葵桂、各二折櫃、
とあり、注に、
上御社二櫃、下御社二櫃、……結付畫御帳犀角邊、結付南殿御帳、
とある。上記の、
葵(フタバアオイ)の葉と桂の枝を組み合わせたもの、
を、
諸鬘(もろかずら)、
葵だけのもの、
を、
片鬘(かたかずら)、
というのは、この故である。
元来は、
もろかづら、
は、
葛を匍ふにつきて云ふ語、或は云ふ、楓(かつら)と葵(あふひ)とをかねて云ふ語、
とあり(大言海)、
二葉の葵、
を言い、
ふたばあおい(双葉葵)の異名、
でもあり(精選版日本国語大辞典)、
もろはぐさ(諸葉草)、
といい、
賀茂葵、
ともいう(大言海)。
ふたばあふひ(二葉葵)、
は、
かざしぐさ、
ふたばぐさ、
あふひ、
ともいう(大言海)が、
ウマノスズクサ科の夏緑多年草。カモアオイともいう。根茎は太く、地表をはい、先端から名前のように通常は2枚の葉を出す。葉は長い葉柄を有し、円心形で、質は薄く、縁にはまばらな毛がある。春、葉の展開とともに葉間から葉柄よりも短い花梗を出し、その先に1筒の花をうつむきかげんにつける。萼片は汚黄白色で紫褐色を帯びる。基部は筒状となり、先端の裂片は完全に反り返るので、花の全形は椀状に見える。花被は花後も宿存し、果実の成熟とともにくずれ、種子を散布する、
とあり(世界大百科事典)、徳川家の家紋は3枚のフタバアオイの葉を図案化したものである。
賀茂祭、
については、「返さの日」、「齋院」でも触れたが、
京都の賀茂別雷神社(上社)・賀茂御祖神社(下社)の例祭、
で、
葵祭、
とも、また石清水八幡宮の祭(南祭)に対して、
北祭、
ともいった(仝上)。古代には、
単に祭といえばこの祭を指した、
とされ、
欽明朝、気候不順、天下凶作のため卜部伊吉若日子をして占わしめたところ、賀茂神の祟とわかったので神託により馬に鈴をかけ人には猪頭を被せて馳せしめたのが祭の起りである、
と社伝はいう。
和銅四年(711)四月詔して以後毎年祭日には国司の検察を定められ、大同元年(806)四月、中酉日をもって官祭を始め、嵯峨天皇弘仁元年(810)斎院をおき、皇女有智子内親王を斎王として祭に奉仕させて以来、後鳥羽天皇に及び、歴代の内親王が斎王となる慣例とされた。祭の始まる前の午または未の日、斎王の御禊が賀茂川で行われる。当日は斎王の行列はまず下社、ついで上社に向かうが、これに勅使や東宮・中宮などの御使も加わり、その服装・車など華麗を極めるので、貴賤を問わず観衆が雑踏する、
とある(国史大辞典)。行列は、江戸時代前期の神社由来書『賀茂注進雑記』に、
歩兵左右に各四十人、騎兵左右に各六十人、郡司八人、健児左右各十人、検非違使十人、史生・さかん(目)・掾各一人、山城守(または介)一人、内蔵寮の官幣、中宮・東宮の御幣、宮主、東宮・中宮の走馬各二疋、馬寮の走馬左右各六疋、東宮の御使、中宮の使、馬寮の吏、近衛使、内蔵寮吏、中宮の女蔵人、内蔵人、中宮の命婦、左右の衛門・兵衛・近衛各二人、斎長官御輿駕輿丁前後二十人、御輿の長(おさ)左右各五人、女孺(はしりわらわ)各十人、執物十人、腰輿、供膳の唐櫃三荷、雑器の物二荷、膳部六人、陰陽寮漏刻、騎女十二人、童女四人、院司二人、唐櫃十荷(神宝)、蔵人所陪従六人、御車、内侍車、女別当車、宣旨車、女房車、馬寮車、
の順とあり、下社では宣命の奏上、奉幣、ついで東遊・走馬が行われる。上社も同様である。翌日は還立(かえりだち)の儀がある(仝上)という。
「諸(諸)」(ショ)は、
会意兼形声。者(シャ 者)は、こんろに薪をいっぱいつめこんで火気を充満させているさまを描いた象形文字で、その原義は暑(暑)・煮󠄀などにあらわれている。諸は「言+音符者で、ひとところに多くのものがあつまること、転じて、多くの、さまざまな、の意を示す、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(言+者(者))。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「台上にしばを集め火をたく象形」(「集まって多い」の意味)から、「もろもろ(多くの)」を意味する「諸」という漢字が成り立ちました。借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「これ」の意味も表すようになりました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji920.html)。
「葛」(漢音カツ、呉音カチ)は、「葛の葉」で触れたように、
会意兼形声。「艸+音符曷(カツ 水分がない、かわく)」。茎がかわいてつる状をなし、切っても汁が出ない植物、
とある(漢字源)。「くず」の意である。また、
会意兼形声文字です(艸+曷)。「並び生えた草」の象形と「口と呼気の象形と死者の前で人が死者のよみがえる事を請い求める象形」(「祈りの言葉を言って、幸福を求める、高く上げる」の意味)から、木などにからみついて高く伸びていく草「くず」、「草・木のつる」を意味する「葛」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji2110.html)が、
かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%91%9B)、
形声。「艸」+音符「曷 /*KAT/」(仝上)、
形声。艸と、音符曷(カツ)とから成る(角川新字源)、
とする説がある。
「鬘」(慣用マン、漢音バン、呉音メン)は、「玉かづら」で触れたように、
会意兼形声。「髟(かみの毛)+音符曼(かぶせてたらす)」、
とあり(漢字源)、「髪がふさふさと垂れさがるさま」「インドふうの、花を連ねて首や体を飾る飾り」(仝上)の意である。
参考文献;
高田祐彦訳注『新版古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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