2024年10月08日
もどく
永らへて生きるをいかにもどかまし憂き身のほどをよそに思はば(源師光)
の、
もどかまし、
は、
もどく、
の未然形に、
(とてもかなわぬことだが)もし……だったら……だろう、
の意の助動詞、
まし、
が付いた形で(広辞苑)、
生き永らえていることをどんなに非難することだろうか、もしつらい私の身分を他人事だとおもったならば、
と訳注がある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。
「憂き身のほど」(低い社会的身分)であることを自身知っているから、他者が生き永らえていることを非難できない、
という含意である(仝上)と。
もどく、
は、
擬く、
抵牾く、
牴牾く、
と当て(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、上述のように、
をさをさ、人の上もどき給はぬおとどの、このわたりのことは、耳とどめてぞ、おとしめ給ふや(源氏物語)、
と、
さからって非難または批評する、
また、
そむく、
反対して従わない態度を見せる、
といった意味であるが、
がんもどき、
の、
それに似て非なるものである、まがいもの、
の意の、
もどき、
は、
もどくの連用形の名詞化、
であり、
此七歳(ななとせ)なる子、父をもどきて、高麗人(こまうど)と文をつくりかはしければ(宇津保物語)、
と、
他と対抗して張り合って事を行なう、
他のものに似せて作ったり、振舞ったりする、
まがえる(紛)、
意でも使う(仝上)。
ただ、
非難する、
意と、
他のものに似せて作る、
とでは意味に乖離がありすぎる。大言海は、
擬く、
と当てる「もどく」と、
抵牾く、
牴牾く、
柢梧く、
と当てる「もどく」というを項を別にしている。前者は、
欺く、
まがへる、
他物をもて似せて作る、
意とし、後者は、
戻るの他動、戻り説くの意、
として、
もとらかす、
逆らふ、
然はあらずと批判す、
非難す、
の意とする。この意味に当ててている、
牴牾(ていご)、
は、
甚多疎略、或有牴牾(漢書・司馬遷傳)、
と、漢語で、
牴、
は、
さわる、
意、
牴觸、
の、
牴(抵)、
中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)には、
牴、觸也、
とあり、
牾、
は、
逆(さか)ふそむく、
悖る、
意、
迕(ゴ さからう)、
と同義で、明代の『正字通』には、
牾、與忤逆通、
とあり、
牴牾、
は、
互いに相容れざること、
かれとこれと食い違ふこと、
背戻、
の意である。その意味で、
互いに相容れざること、
↓
非難する、
という意味の流れはわかるが、
他のものに似せて作る、
という意味へは架け橋がない。
もどく、
の語源説も、
モドク(戻)の義か(志不可起)、
モドカス(戻)の義(名言通)、
モドはモドス(戻)・モヂル(捩)と同根(岩波古語辞典)、
戻り説くの意(大言海)、
モソムク(茂背)の略転(柴門和語類集)、
と、
戻る、
との関連を見る説が大半で、使われる意味の幅との関連が分からない。ただ、
モドはモドス(戻)・モヂル(捩)と同根、
とする説(岩波古語辞典)は、つづけて、
ねらった所、収まるべき所に物事がきちんと収まらず、はずれ、くいちがうさま、
が原義とする(仝上)。とすると、
他に似せて作る、
というのではなく、本来は、上述の、
此七歳(ななとせ)なる子、父をもどきて、高麗人(こまうど)と文をつくりかはしければ(宇津保物語)、
は、
他と対抗して張り合って事を行なう、
のが含意で、そこから、しかし、
うまく真似できないながら、真似をする、
↓
似て非なるまねをする、
となり、その状態表現である主体表現が、
あやしくひがひがしくもてなし給ふをもどき口ひそみ聞こゆ(源氏物語)、
と、
似て非だという様子を示す、
↓
相手を誹謗し、非難する、
と、客体表現の価値表現へと転換していく(岩波古語辞典)とみれば、意味の外延をたどることができる。どうも、
牴牾、
は、意味が転換してから当てたものではないか、と想像される。
非難する、
悪くいう、
悪口のかぎりをつくす、
意で使う、
人にさしもどかるる程の事はなかりしに(平治物語)、
の、
さしもどく(差し牴牾く)、
は、その結果生まれた言葉ではあるまいか。「差し」は「さし」で触れたように、「もどく」を強めている。
ところで、
もどかまし、
の、
まし、
は、
ませ(ましか)・〇・まし・まし・ましか・〇、
と活用し、
用言・助動詞の未然形に付く、
推量の助動詞である(精選版日本国語大辞典)。
奈良時代には未然形「ませ」、終止形「まし」、連体形「まし」しかなかったが、平安時代に入って、已然形「ましか」が発達し、それが未然形に転用された、
とあり(岩波古語辞典)、
かくばかり恋ひむとかねて知らませば妹をば見ずそあるべくありける(万葉集)、
と、
現実の事態(A)に反した状況(非A)を想定し、「それ(非A)がもし成立していたのだったら、これこれの事態(B)がおこったことであろうに」と想像する気持ちを表明するもの、
で、
反実仮想の助動詞、
といい(仝上)、多く上に、「ませば」「ましかば」「せば」などを伴って、事実に反する状態を仮定し、それに基づく想像を表し、
もし…だったら…だろう、
の意となる(精選版日本国語大辞典)。
らし、
が、
現実の動かし難い事実に直面して、それを受け入れ、肯定しながら、これは何か、これは何故かと問うて推量する、
のに対して、
まし、
は、
動かし難い目前の現実を心の中で拒否し、その現実の事態が無かった場面を想定し、かつそれを心の中で希求し願望し、その場合起るであろう気分や状況を心の中に描いて述べる、
ものである(岩波古語辞典)。これは、推量の「む」から、
mu+asi→masi、
と転成したとされ(仝上)、
かむな月雨間も置かず降りにせばいづれの里の宿か借らまし(万葉集)、
あな恋し行きてや見まし津の国の今もありてふ浦の初島(後撰和歌集)、
と、
疑問の助詞「か」あるいは「や」と共に用いて、「……か……まし」となった場合、及び「……ましや」と用いた場合には、
…しようかしら、
…したものだろうか、
と、迷い・ためらいの気持を表す(仝上・精選版日本国語大辞典)とある。
「擬」(漢音ギ、呉音ゴ)は、
会意兼形声。疑は「子+止(あし)+音符矣(アイ・イ 人が立ち止まり、振り返る姿)」からなる会意兼形声文字で、子どもに心が引かれて足を止め、どうしようかと親が思案するさま。擬は「手+音符疑」で、疑の原義をよく保存する。疑は「ためらう、うたがう」意に傾いた、
とある(漢字源)。「擬案」(案を擬す じっと考えて案を寝る)の意と、「模擬(本物に似せる)」、「擬古(昔に似せる)」の意があり、「もどく」に、これを当てたのは慧眼と言っていい。別に、
会意兼形声文字です(扌(手)+疑)。「5本の指のある手」の象形と「十字路の左半分の象形(のちに省略)と人が頭をあげて思いをこらしてじっと立つ象形と角のある牛の象形と立ち止まる足の象形」(「人が分かれ道にたちどまってのろま牛のようになる」の意味)から、「おしはかる」を意味する「擬」という漢字が成り立ちました、
と同じく会意兼形声文字とする説(https://okjiten.jp/kanji1783.html)もあるが、
形声。手と、音符疑(ギ)とから成る。おしはかる意を表す(角川新字源)、
形声。「手」+音符「疑 /*NGƏ/」(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%93%AC)、
と、形声文字とする説がある。
参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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