散りはてて花の蔭なき木の本にたつことやすき夏衣かな(前大僧正慈円)、
の、
詞書に、
更衣をよみ侍りける、
とあるが、この、
更衣、
は、
四月一日に春着を単の夏衣に替えること、
とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。
ころもがへ、
は、
更衣、
衣更、
衣替、
等々と当て(精選版日本国語大辞典)、
時雨うちして、物あはれなる暮つ方、中将の君、鈍色の直衣、指貫うすらかに衣かへして、いとををしう、あざやかに、心はづかしきさまして、まゐり給へり(源氏物語)、
と、文字通り、
着ている衣服を別の衣服に着かえること、
着がえ、
の意だが、
四月になりぬ、ころもがへの御装束、御帳(みちょう)のかたびらなど、よしあるさまにし出づ(源氏物語)、
と、
毎年、季節に応じて着物を着かえたり調度を改めたりすること、
をいい、
1年を2期に分けて、4月朔日(1日)から9月晦日までを夏装束、10月朔日から3月晦日までを冬装束とし、4月と10月の朔日に、それぞれ服飾はもとより室内の調度を改めるのを例とした、
ので、この日を、
更衣、
といった(世界大百科事典)。平安時代の公家は、
四月一日から冬の小袖(こそで)をやめて薄衣(袷 あわせ)にかえ、寒い時は下に白小袖を用い(白重(しらがさね))、
五月五日から帷子(かたびら)を着、涼しい時は下衣を着(一重がさね)、
六月に単襲(ひとえがさね)、
八月一五日から生絹(すずし)にかえ、
九月一日から袷を、
同九日から綿入れを着、
十月一日から練絹(ねりぎぬ)の綿入れ、
に着かえることが年中行事であった(精選版日本国語大辞典・広辞苑・岩波古語辞典)。建武年中行事に、
四月ついたち、御衣がへなれば、所々御装束あらたむ、御殿御帳のかたびら、おもてすずしに、胡粉(ごふん)にて絵をかく、壁代(かべしろ)みなてっす、よるの御殿もおなじ、灯籠の綱、おなじ物なれど、あたらしきをかく、畳おなじ、しとねかはらず、御服は御直衣(のうし)、御ぞすずしの綾の御ひとへ、御はり袴、内蔵寮(くらのつかさ)より是をたてまつる、女房きぬあはせのきぬども、衣がへのひとへからぎぬ、すずし、裳(も)、常のごとし、
とあるように、夏になると、衣服は単(ひとえ)とするだけでなく、
壁代(かべしろ)(壁のかわりに垂らした几帳(きちょう)のようなもの)をかたづけて帷子(かたびら)(几帳、帳(とばり)などに用いる一重の布)をかけ、御座を敷き改め、
た(日本大百科全書)。『西宮記(さいぐうき)』所引の『蔵人式(くろうどしき)』や『北山抄』などによれば、
殿上で采女(うねめ)・女蔵人などを率いて天皇の朝膳(あさのおもの)などに奉仕し、また「内宴」のときの陪膳(ばいぜん)を勤める、
とあり、『清涼記』(村上(むらかみ)天皇撰(せん))には、
員数12人、
としている(仝上)。室町時代以後は、綿入れ、帷子(裏をつけない一重の服)が用いられるようになり、
四月一日に綿入れを袷(あわせ)にかえ、
十月一日に袷を綿入れに
かえるようになった。前者を、
綿抜(わたぬき)の一日、
後者は、
後(のち)の衣更、
ともいった(仝上・岩波古語辞典)。江戸末期の東都歳事記に、
四月朔日、更衣、今日より五月四日迄貴賤袷衣(こうい)(あわせ)を着す。今日より九月八日まで足袋をはかず。庶人単羽織(ひとえばおり)を着す、
とあり(世界大百科事典)、4月1日から綿入れの衣を脱ぐことから、四月一日と書いて、
わたぬき、
とよむ風が起こった(碧山日録)とある。なお、
衣更、
とあてる、
ころもがえ、
は、別に
男女互いに、衣服を交換(とりか)へ、或いは、借りて着ること、
をいい、古へは、
男女の服、其製、同じくして、筒袖にて、丈は、膝までのものなりき、交換するは、情交の上のことなりしが如し、
とあり(大言海)、
己呂毛加戸(かろもかへ)せむや、さ公達(きむだち)や、我が衣(きぬ)は野原篠原萩の花摺や、さきむだちや(催馬楽)、
と、
男女が互いに衣服を交換し、共寝した、
の意で使う(広辞苑・大言海)。なお、
更衣、
を、
こうい(カウイ)、
と訓ますと、漢語で、
更衣直夜房(高啓)、
と、
着物を着換える、
衣替え、
の意だが、我が国では、もちろん、
ころもがへ、
とも訓ませて、
衣服を着換える、
意でも使い、特に、
「更衣(コロモカヘ)(〈注〉カウイ)一日 白重(しらかさね)(俳諧「増山の井(1663)」)、
と、四月の、
初夏の衣がえ、
をさす(精選版日本国語大辞典)が、平安時代の、
女御(にょうご)の次位にあって、天皇の衣を替えることをつかさどり、天皇の寝所にも持す、
後宮の女官の意で使う。この称、
仁明天皇の御代より見ゆ、嬪(ヒン)の称失せて、起れるなり、
とある(大言海)。
嬪、
は、
古へ、女官の號、後の更衣、
とある。元は、
天子の、御更衣(ころもがへ)の便殿(びんでん 便宮(べんきゅう) 休憩のために設けられた部屋)の名、それが、御更衣を司るの女官の名となれるなりと云ふ、漢書、田廷傳の更衣の註に、「為休息易衣之處、亦置宮人」、
とあり(大言海)、地位は女御の下で、
納言およびそれ以下の家柄の出身の女で、ふつう五位、まれに四位に進む者があった、
とある(精選版日本国語大辞典)。本来は、というか、女官として、
天皇の衣替えをつかさどる役であったが、のち、寝所に奉仕するようになった、
とされ(精選版日本国語大辞典)、
更衣、
は、
天皇の侍妾、
であり、
古代の天皇の令外の〈きさき〉の称、
で、おそらく上述の女官の実務には関与しなかったであろう(日本大百科全書)とある。
女御(にようご)の下位にあり、ともに令制の嬪(ひん)の下位に位置づけられた。位階は五位または四位止りであった。皇子女をもうけた後は御息所(みやすどころ)とよばれたが、出身が皇親氏族・藤原氏・橘氏など有力氏族以外の更衣所生の皇子女は源氏となった、
とあり(山川日本史小辞典)、その成立は9世紀初頭。
嵯峨朝における源氏賜姓と深くかかわる。更衣の生んだ皇子女は、更衣たちが皇親系諸氏、藤原氏、橘氏等有力氏族出身者である場合を除いてすべて源氏を賜姓した。史料的には後三条朝を下限とする、
とある(仝上・世界大百科事典)。延喜式(927成立)には、
妃、夫人、女御(にようご)、
の后妃がみえるが、定員のない女御は光仁朝に登場し、平安初期に、
更衣(こうい)、
が生まれて、妃、夫人の称号は廃絶した(仝上)とある。
(「替」 金文・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9B%BFより)
「替」(漢音テイ、呉音タイ)は、
会意文字。「夫(おとこ)ふたり+曰(動詞の記号)」で、Aの人からBの人へと入れかわる動作を示す、
とある(漢字源)。別に、
会意文字です。「口を開けた2人」の象形と「太陽」の象形から、2人の役人が太陽の下で大声をあげて引き継ぎを行うさまを表し、そこから「かわる(交替)」を意味する「替」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1291.html)が、他に、
形声。曰と、音符竝(ヘイ)→(テイ)(㚘は変わった形)とから成る。廃止する、ひいて「かえる」意を表す、
と(角川新字源)、形声文字とする説もある。
「更」(漢音コウ、呉音キョウ)は、「深更」で触れたように、
会意。丙は股(もも)が両側に張り出したさま。更は、もと「丙+攴(動詞の記号)」で、たるんだものを強く両側に張って、引き締めることを示す、
とある(漢字源)。
「更」は、
「㪅」の略字、
とあり(https://okjiten.jp/kanji1319.html)、また、
𠭍、
とともに、異字体ともある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%9B%B4)ので、その意味がよくわかる。
別に、
会意文字です(丙+攴)。「重ねた台座」の象形と「ボクッという音を表す擬声語と右手の象形」(「手で打つ」の意味)から、台を重ねて圧力を加え固め平らにする事を意味し、そこから、「さらに(重ねて)」、「あらためる」、「かえる」を意味する「更」という漢字が成り立ちました、
とある(https://okjiten.jp/kanji1319.html)ように、「更」は、「更新」「更改」というように、「変わる」「改まる」という意であり、「変更」「更代(=交代)」というように、「代わる」である。
参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95