洗幘豈獨古(幘(さく)を洗うば豈獨(ひと)り古(いにしえ)のみならんや)
濯纓良在茲(纓(えい)を濯(あら)うは良(まこと)に茲(ここ)に在り)(孟浩然・陪張丞相自松滋江東泊渚宮)
の、
洗幘、
は、
むかし楚の陸通という隠者が、幘(頭巾)を松の枝にかけたまま寝ていると、鶴がそれをくわえて、川岸まで運んだ。通は頭巾を洗い、鶴に乗って飛び去った、
という故事を踏まえている(前野直彬注解『唐詩選』)。また、
濯纓、
は、文字通り、
冠の紐を洗濯する、
意だが、
治まった世に、すぐれた人物が官職について、平和な生活を楽しむこと、
との意がある(仝上)。「楚辞」屈原の「漁父」に、
滄浪の水清(す)まば、以て吾が纓を濯(あら)う可し、滄浪の水濁らば、以て吾が足を濯う可し、
とあるのを踏まえる(仝上)。
洗幘、
の、
幘(さく)、
は、
髪の毛を包む布製の頭巾、
をいい、
洗幘、
は、明代『広博物誌』(董斯張)に、
楚狂士陸通高臥松間、以受霞氣。幘挂松頂。有鶴銜去水濱。通洗之、因與鶴同去(楚の狂士(きょうし)陸通(りくつう)、松間(しょうかん)に高臥(こうが)し、以て霞気 (かき)を受く。幘(さく)松頂(しょうちょう)に挂(か)く。鶴有り銜(ふく)んで水浜 (すいひん)に去る。通(つう)之を洗い、因りて鶴と同じく去る)、
とある、
楚の陸通(りくつう)が頭巾を松の枝にかけて寝ていたところ、一羽の鶴がそれをくわえて川辺に運んだ。陸通はその頭巾を洗い、鶴に乗って飛び去った、
という逸話を踏まえる(https://kanbun.info/syubu/toushisen138.html)。
濯纓、
の、
纓(えい)、
は、
冠のひも、
で、
冠かんむりのひもを洗う、
意から、『楚辞』屈原の「漁父」を基に、
時の流れに従い、治まった世には官職に就き、平和な生活を楽しむこと、
である(仝上)。
幘(さく)、
は、漢代『急就篇』(史游)註に、
幘者、韜(つつむ)髪之布、
とあり、
古代、中国で、髪を包んだ布、
頭巾(ずきん)、
をいい(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、これが伝わった我が国では、
大嘗祭、神今食(じんごんじき)などの神事に際して、天皇の冠の巾子(こじ)を包む布。白い生絹(すずし)で巾子と纓(えい)とを一つに合わせて巾子の後方で結び、その端を左右に垂らしたもの、
をいい、
御幘(おさく・ごさく・おんさく)の冠(かむり)、
という(仝上)。なお、
神今食(じんごんじき・じんこんしき・じんこじき)、
とは、
陰暦六月と一二月の一一日、月次祭(つきなみまつり)の夜、天照大神を神嘉殿に勧請(かんじょう)して、火を改め、新しく炊いた御飯を供え、天皇みずからこれをまつり、自身も食する儀式。新嘗祭(にいなめまつり)に似ているが、新嘗祭は新穀を用いるのに対し、これは旧穀を用いる、
とある(仝上)。和訓栞に、
御幘は、白き絹もて、御冠の巾子を結はせたまふ、御神事の時の儀式なりと、三箇重事抄に見えたり、
とある、
白き生絹を、四折(よつおり)にしたるもの、
で、
立纓(りふえい)の御冠の纓を、巾子の前へ曲げて、二つ折にして、それを、御幘にて結ひつくるなり、、
とある(大言海)。
巾子、
は、
冠の後ろに高く突き出ている部分。もとどりを入れて冠を固定する、
とある(佐藤謙三校注『今昔物語集』)。
(御幘の冠 デジタル大辞泉より)
似たものに、
かしはばさみ(柏夾)、
空頂黒幘(くうちょうこくさく)、
がある。
柏夾、
の、
柏、
は、
凶事、焼亡のような非常の場合、臨機に冠の纓(えい)を巻くこと、
で、
挟木(はさみぎ)に有り合わせの木・竹の類を用いることを特色とする、
とあり(精選版日本国語大辞典)、
窪椀(くぼて)、葉椀(ひらで)に、葉(かしは)を竹針にて刺し作るになぞらへたる名か、和訓栞に「白木を、柏とつめて書きしより、かしは夾みと云ひなせり」とあるが、いかがか、
とある(大言海)。「葉椀(くぼて)・葉手(ひらて)」については触れた。
冠の垂纓(すゐえい)を、二重に折りて、白木の挟木にて挟みと止むるもの、
である(仝上)。
(空頂黒幘(「冠帽図会」)デジタル大辞泉より)
空頂黒幘、
は、
頂辺をあけた黒の幘帽(さくぼう)の意で、黒絹製の天冠の一種。江戸時代は繁文(しげもん)の羅を山形に作り、帽額(もこう)の正面につけ、額にあて後ろで結ぶ、
ものである。新撰字鏡(898~901)に、
幘、比太比乃加加保利(ひたひのかかほり)、
とあり、
かがふり(被り、冠り)、
は、
頭に被る、
意である(岩波古語辞典)。
黒紗、三山形をなし、前面に、四目様の紋、散らしあり、紫絹の縁をつく、
という(大言海)。
(「纓」デジタル大辞泉より)
纓(えい)、
は、「衣冠束帯」、「したうづ」で触れたように、日本独自の冠の付属品の1つで、
冠のうしろに長く垂れるもの、
をいい、古くは、
髻(もとどり)を入れて巾子(こじ)の根を引き締めた紐の余りを、うしろに垂らした。のちには、別に両端に骨を入れ羅(うすぎぬ)を張り、巾子の背面の纓壺(えつぼ)に、差し込んで垂らした、
とある。冠の縁を2分して、
額のほうを磯 (いそ)、
後方を海 (うみ)、
といい、海に挿し入れて垂らす細長い布を纓と称した(ブリタニカ国際大百科事典)。元来は、
令制の頭巾の結び余りから変化したもので、地質が羅のような薄い地であったので、平安時代 (9世紀)に漆をはいて形を固定し、院政頃 (10世紀) より冠と纓が分離する、
ようになり、形も、初めは燕尾であったのが長方形となり、天皇の纓は高く直立する、
立纓(りゅうえい) 、
であるが、文官は、
垂纓(すいえい)、
といって纓を垂れ下げ、武官は、
巻纓 (けんえい) 、
といって巻くのが普通であり、その巻き方も衣紋の流儀によって異なる。また六位以下の武官が警固や駆馳 (くち) をする際には、挙動が便利なように纓筋だけの鯨鬚黒塗りのものを輪にして挿し、これを、
細纓(ほそえい)、
と称した(仝上)とある。なお、
五位以上は有文(うもん)、六位以下は無文、
である(精選版日本国語大辞典)。飛鳥(あすか)時代後期に、中国より導入されたイラン式の、
漆紗冠(しっしゃかん)、
は、髪を頭上に束ねた髻(もとどり)を、巾子(こじ)という筒に入れ、その上から袋状に仕立てた絹や布をかぶり、髻の根元を共裂(ともぎれ)の紐(ひも)で結んで締め、結び余りを後ろに垂らした。この垂らした部分を、
纓、
とよび、その形より、
燕尾(えんび)、
ともいった。
平安時代に冠が大きく固くつくられるようになると、纓も両側にクジラのひげを入れて幅広く長いものとなって、後ろにただ綴(と)じ付けて垂らした。鎌倉時代になると形式化して、纓の元を冠に取り付けた纓壺(えいつぼ)に上から差し込んで、しなって垂れ下がる形となった、
(日本大百科全書)という。この、
纓、
の由来は、
冠系也とあれば、上緒(あげを 冠が脱げないように、冠の左右につけ、引き上げて髻(もとどり)の根にくくり結ぶための紐)なり、其餘垂に、纓との名の移りしものか、
あるいは、
燕尾を、えひと約め、纓を借字とせしものか、
とある(大言海・東雅・安斎随筆)。
なお、「冠」については、「冠と烏帽子」(http://www.kariginu.jp/kikata/2-2.htm)が詳しい。
「幘」(漢音サク、呉音シャク)は、
会意兼形声。責は、重ねる意を含む。幘は「巾(ぬの)+音符責」で、髪を重ねて上から包む布のこと、
とある(漢字源)。この布製の頭巾は、
漢以降唐までの風俗で、冠をはずしても、幘はつけていた、
とある(仝上)。
「纓」(漢音エイ、呉音ヨウ、慣用オウ)は、
会意兼形声。「糸+音符嬰(エイ ぐるっととりまく)」で、顔をとりまく冠のひもをあらわす、
とある(漢字源)。「纓冠」と、冠の両脇から顔をとりまき、あごの下で結ぶ、冠のひもである(仝上)。
参考文献;
差前野直彬注解『唐詩選』(岩波文庫)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95