2024年12月05日

色(しき)


色にのみ染めし心のくやしきをむなしと説ける法のうれしさ(小侍従)、

の、

詞書に、

心経の心をよめる、

とある、

心経、

は、

摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)、

をいい、

般若経の精髄を簡潔に説く、玄奘の漢訳した262字から成る本が流布する、

とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。

色、

は、仏教で、

しき、

と訓み、

目で見られるもの、形をもったすべての物質的な存在をいう、

とある(仝上)。また、

むなしと説ける法、

とは、般若心経(はんにゃしんぎょう)の、

色不異空 空不異色 色即是空 空即是色、

の法文を念頭においていう(仝上)とある。般若心経の全文は、https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/hannyashingyo.htmに譲る。

色(しき)、

は(「しき」は「色」の呉音)、

梵語rūpa、

の漢訳、仏教用語で、

物質、

のことだが、

物質的存在、感性的存在、

あるいは、

いろと形、

とするhttps://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%89%B2_(%E3%81%97%E3%81%8D)。これは、

およそ人間の目に映ずるものは形あり色(いろ)あるものであるが、それをインドでは、形よりも色(いろ)の側面で取り上げてルーパという、

とあり(日本大百科全書)それゆえに、仏教で色(しき)というときは、単にカラーのみならず、色(いろ)とともに形あるものをさし(仝上)、仏教で用いる色という語には、

(1)同一空間に二者が共存できないもの(質礙(ぜつげ))、
(2)変化して壊れてゆくもの(変壊(へんね))、
(3)悩まされるもの(悩壊(のうえ))、

という三つの性質を備えたものとされ、

広義の色、
と、
狭義の色、

との二つの意味があるとし、ひとつは、

五蘊(ごうん)のなかの一つである色蘊の色、

で、

こころに対応する物質的なるものの総称、

であり、具体的には、

五根(眼、耳、鼻、舌、身の五つの感覚器官)、

と、

五境(色、声、香、味、触の五つの感覚対象)、

と、

無表色(戒体など具体的に知覚されない物質的なるもの)、

の11種がある。

いまひとつは、

五境の一つの色、

で、

視覚の対象となる「いろ」(顕色(けんじき))、

と、

「かたち」(形色(ぎようしき))、

とをいう(世界大百科事典)。般若心経の、

色即是空、空即是色、

の色は、広義の意味の色、すなわち、

色蘊の色、

をいっている(仝上)。

五蘊(ごうん)、

は、

五陰(ごおん)、

ともいい(「おん」は「陰」の呉音)、「蘊(うん)」(「陰(おん)」)は、

集まりの意味、

で、

サンスクリット語のスカンダskandhaの音訳、

である(精選版日本国語大辞典)。

五衆(ごしゆ)、

ともいう(大辞林)。

仏教では、いっさいの存在を五つのものの集まり、

と解釈し、生命的存在である「有情(うじよう)」を構成する要素を、

色蘊(しきうん 五根、五境など物質的なもののことで、人間についてみれば、身体ならびに環境にあたる)、
受蘊(じゅうん 対象に対して事物を感受する心の作用のこと。苦(不快)・楽(快)・不苦不楽などの基本的な感覚)、
想蘊(そううん 対象に対して事物の像をとる表象作用のこと。受蘊によって感受したものを色、形などにおいて心で表象し、概念化するもの)、
行蘊(ぎょううん 対象に対する意志や記憶その他の心の作用のこと。のちにしかるべき結果をもたらすもの)、
識蘊(しきうん 具体的に対象をそれぞれ区別して認識作用のこと。受蘊によって識別された対象を言語をともなって区別し認識すること)、

の五つとし、この五つもまたそれぞれ集まりからなる、とする。いっさいを、

色―客観的なもの(身体)、
受・想・行・識―主観的なもの(精神)、

に分類する考え方である(日本大百科全書)。仏教では、あらゆる因縁に応じて五蘊が仮に集って、すべての事物が成立している(ブリタニカ国際大百科事典)とする。

この五蘊に執着し諸々の苦が生じること、とくに有漏の場合を、

五取蘊(五受蘊)、

といい、

取(受)は煩悩の異名。また衆生の身心は五蘊が因縁によって仮に和合して成り立っているものであることから、

五蘊仮和合(けわごう)、

という。衆生は五蘊が仮和合して成立しているから、本体というものはなく、無我であるから、

五蘊皆空、

という(https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%BA%94%E8%98%8A)。字典『祖庭事苑』(宋代)には、

變礙曰色、領納曰受、取像曰想、造作曰行、了知曰識、亦名五蘊、

とある。

色蘊(rūpa)

には、

肉体を構成する五つの感覚器官(五根)、

と、

それら感覚器官の五つの対象(五境)、

と、

行為の潜在的な残気(無表色 むひようしき)、

とが含まれる(世界大百科事典)。また、

受蘊(vedanā)、
想蘊(saṃjñā)、
行蘊(saṃskāra)、

の三つの心作用は、

心王所有の法、

あるいは、

心所、

といわれ、

識蘊(vijñāna)、

は心自体のことであるから、

心王、

と呼ばれる(ブリタニカ国際大百科事典)。

五根、

については、

六根五内

で触れたように、

根、

は(「根機」で触れた)、

能力や知覚をもった器官、

を指し(日本大百科全書)、

サンスクリット語のインドリヤindriya、

の漢訳で、原語は、

能力、機能、器官、

などの意。

植物の根が、成長発展せしめる能力をもっていて枝、幹などを生じるところから根の字が当てられた、

とあり(仝上)、外界の対象をとらえて、心の中に認識作用をおこさせる感覚器官としての、

目、耳、鼻、舌、身、

また、煩悩(ぼんのう)を伏し、悟りに向かわせるすぐれたはたらきを有する能力、

の、

信(しん)根、勤(ごん)根(精進(しょうじん)根)、念(ねん)根(記憶)、定(じょう)根(精神統一)、慧(え)根(知恵)、

をも、

五根(ごこん)、

という(広辞苑・仝上)が、

目、耳、鼻、舌、身、

に、

意根(心)を加えると、

六根、

となる(精選版日本国語大辞典)。仏語で、

六識(ろくしき)、

は、

六根をよりどころとする六種の認識の作用、

すなわち、

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識、

の総称で、この認識のはたらきの六つの対象となる、

六境(ろっきょう)、

は、

六塵(ろくじん)、

ともいい、

色境(色や形)、
声境(しょうきょう=言語や音声)、
香境(香り)、
味境(味)、
触境(そっきょう=堅さ・しめりけ・あたたかさなど)、
法境(意識の対象となる一切のものを含む。または上の五境を除いた残りの思想など)、

という、

対象に対して、認識作用のはたらきをする場合、その拠り所となる、

六つの認識器官、

である。だから、

眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根、

といい、

六情、

ともいう(仝上)。

六つの認識器官(能力)の、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根の、

六根、

六つの認識対象の、色境・声境・香境・味境・触境・法境の、

六境、
六塵、

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の、

六識、

の、

六根と六境を合わせて十二処、

さらに、

六識を加えて、

十八界、

https://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%85%AD%E6%A0%B9%E3%83%BB%E5%85%AD%E5%A2%83%E3%83%BB%E5%85%AD%E8%AD%98いわれ、仏教で説くさまざまな法(梵語dharma)は、これら一八に集約することができる。それはつまり、我々の経験しうる世界が、これら、

一八の要素から成立している、

ことを意味する(仝上)とある。そのわけは、『俱舎論』に、

法の種族の義、是れ界の義なり。一の山中に、多くの銅・鉄・金・銀等の族あるを説きて、多界と名くるが如く、是くの如く一身、或は一相続に十八類の諸法の種族有るを十八界と名づく、

とあり、

あたかも一つの山が多種の鉱石から成り立っているように、我々の身心は一八種の法から成り立っている。そして、一八の法は心身の構成要素であるから、十八界と呼ばれ、『大般若経』では、五蘊や十二処と共に十八界は空であることが繰り返し説かれる、

とあるhttps://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%8D%81%E5%85%AB%E7%95%8C。なお、

般若心経(はんにゃしんぎょう)、

は、

摩訶般若波羅蜜多心経、

略して、

般若多心経、
心経、

とも称される。唐・玄奘訳。サンスクリット本の原名は、

Prajñāpāramitā-hṛdaya-sūtra、

という。いわゆるサンスクリット語の経文を漢字の音を利用して写したものであり、還元すれば、

小本のサンスクリット本の経文、

となるhttp://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E8%88%AC%E8%8B%A5%E5%BF%83%E7%B5%8C。『般若心経』は三〇〇字にも満たない簡潔な経典であるが、

釈迦に心経、

といえば、

釈迦に経、
釈迦に説法、

と同様で、経題の中の心(梵語hṛdaya)とは心臓のことで、

物事の核心・心髄、

ということである。つまり経題は、般若波羅蜜多の核心を説く経典という意味になる(仝上)。

『般若心経』は、厖大な般若経典類に説かれる般若の智慧の教えやそのとらわれのないあり方を空思想に凝縮して、覚りの彼岸への到達成就を般若の明呪・真言によって説き明かしている(仝上)とある。

「色」.gif


色ふ」で触れたように、「色」(慣用ショク、漢音ソク、呉音シキ)は、

象形。屈んだ女性と、屈んでその上にのっかった男性とがからだをすりよせて性交するさまを描いたもの、

とあり(漢字源)、「女色」「漁色」など、「男女間の情欲」が原意のようである。そこから「喜色」「失色」と、「顔かたちの様子」、さらに、「秋色」「顔色」のように「外に現われた形や様子」、そして「五色」「月色」と、「いろ」「いろどり」の意に転じていく。ただ、「音色」のような「響き」の意や、「愛人」の意の「イロ」という使い方は、わが国だけである(仝上)。また、

象形。ひざまずいている人の背に、別の人がおおいかぶさる形にかたどる。男女の性行為、転じて、美人、美しい顔色、また、いろどりの意を表す(角川新字源)、

ともあるが、

会意又は象形。「人」+「卩(ひざまずいた人)、人が重なって性交をしている様子。音は「即」等と同系で「くっつく」の意を持つもの。情交から、容貌、顔色を経て、「いろ」一般の意味に至ったものhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%89%B2

ともあり、

会意文字です(ク(人)+巴)。「ひざまずく人」の象形と「ひざまずく人の上に人がある」象形から男・女の愛する気持ちを意味します。それが転じて、「顔の表情」を意味する「色」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji143.html

会意。人+㔾(せつ)。人の後ろから抱いて相交わる形。〔説文〕九上に「顏气なり。人に從ひ、卩(せつ)に從ふ」とし、人の儀節(卩)が自然に顔色にあらわれる意とするが、男女のことをいう字。尼も字形が近く、親昵の状を示す。特に感情の高揚する意に用い、〔左伝、昭十九年〕「市に色す」は怒る意。「色斯(しよくし)」とはおどろくことをいう(字通)、

と、会意文字とする説もある。

参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

posted by Toshi at 04:56| Comment(0) | 言葉 | 更新情報をチェックする
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