異化
稲垣足穂『稲垣足穂作品集』を読む。
本書に所収されているのは、
チョコレット、
星を造る人、
黄漠奇聞、
星を売る店、
一千一秒物語、
セピア色の村、
煌めける城、
天体嗜好症、
夜の好きな王様の話、
第三半球物語、
きらきら草紙、
死の館にて、
弥勒、
悪魔の魅力、
彼等、
随筆ヰタ・マキニカリス、
紫の宮たちの墓所、
日本の天上界、
澄江堂河童談義、
イカルス、
A感覚とV感覚、
僕の触背美学、
古典物語、
美のはかなさ、
僕の弥勒浄土、
僕の“ユリーカ"、
山ン本五郎左衛門只今退散仕る、
Prostata-Rectum機械学、
少年愛の美学
である。残念ながら、足穂のもう一つの世界、
宇宙、
に関わるものがほとんどない。昔に読んだ記憶では、
松岡正剛編・稲垣 足穂『人間人形時代』(工作舎)
という本があり、本の真中に穴のあけられた、ちょっと変わった装丁の本であった。
閑話休題、
本書では、
黄漠奇聞、
彌勒、
が面白く、世評高い、
一千一秒物語、
のこじゃれた世界は、僕には、いま一つであった。
彌勒、
には、鴎外の『澀江抽斎』が試みた、
(作品を)書くことを書く、
ということが作品になる、という方法を試みているが、石川淳の『普賢』と同様、どこかで、うつつの側の自分の物語の方へシフトしていってしまったというように見える。
彌勒、
については、大岡昇平他編『存在の探求(上)(全集現代文学の発見第7巻)』で、埴谷雄高『死霊』、北條民雄『いのちの初夜』、椎名麟三『深夜の酒宴』を比較して、触れたことがある。
埴谷雄高『死霊』が、存在とのかかわりを、自己意識側から、広げるだけ広げて見せたというところは、他に類を見ない。特に、一~三章は、文章の緊張度、会話の緊迫度、無駄のない描写等々、のちに書き継がれた四章以降とは格段に違う、と僕は思う。
俺は、
と言って、
俺である、
と言い切ることに「不快」という「自同律の不快」とは、埴谷の造語であるが、少し矮小化するかもしれないが、
自己意識の身もだえ、
と僕は思う。埴谷は、自己意識の妄想を極限まで広げて見せたが、「存在」との関わり方には、
自分存在に限定するか、
世界存在に広げるか、
その世界も、
現実世界なのか、
或いは、
自然世界なのか、
で、方向は三分するように思う。『いのちの初夜』は、自分の癩に病にかかったおのれに絶望して、死のうとして死にきれず、
「ぬるぬると全身にまつわりついてくる生命を感じるのであった。逃れようとしても逃れられない、それはとりもちのような粘り強さ」
の生命を意識する。そして同病の看護人の佐柄木に、
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです」
と言われる。その生命そのものになった己を受け入れよ、と言われる。
「あなたは人間じゃあないんです。あなたの苦悩や絶望、それがどこからくるか、考えてみて下さい。ひとたび死んだ過去を捜し求めているからではないでしょうか」
似た発想は、稲垣足穂『彌勒』にもある。主人公、
「江美留は悟った。波羅門の子、その名は阿逸多、いまから五十六億七千万年の後、竜華樹下において成道して、さきの釈迦牟尼の説法に漏れた衆生を済度すべき使命を託された者は、まさにこの自分でなければならないと」
ここにあるのは、自己意識の自己救済の妄想である。しかし、それは、椎名麟三『深夜の酒宴』の、叔父の用意した紅白の、輪を作った綱を示されて、
「咄嗟に思いついて、その綱の輪を首にかけた。そしてネクタイでも締めるようにゆるく締めてから二、三度首を振った」
主人公の、現状の悲惨な状況を無感動に受けいれているのと、実は何も変わってはいない。
「そのとき、突然僕は時間の観念を喪失していた。僕は生まれてからずっとこのように歩きつづけているような気分に襲われていた。そして僕の未来もやはりこのようであることがはっきり予感されるのだった。僕はその気分に堪えるために、背の荷物を揺り上げながら立止った。そして何となくあたりを見廻したのだった。すると瞬間、僕は、以前この道をこのような想いに蔽われながら、ここで立止って何となくあたりを見廻したことがあるような気がした。……この瞬間の僕は、自分の人生の象徴的な姿なのだった。しかもその姿は、なんの変化も何の新鮮さもなく、そっくりそのままの絶望的な自分が繰り返されているだけなのである。すべてが僕に決定的であり、すべてが僕に予定的なのだった。……たしかに僕は何かによって、すべて決定的に予定されているのである。何かにって何だ―と僕は自分に尋ねた。そのとき自分の心の隅から、それは神だという誘惑的な甘い囁きを聞いたのだった。だが僕はその誘惑に堪えながら、それは自分の認識だと答えたのだった」
と、「認識」と己に言い切らせる限りで、自己意識は、まだおのが矜持を保っているが、それはそのまま今のありように埋もれ尽くすという意味では、より絶望的である。それは、
絶望を衒う、
といってもいい。
それにしても、しかし、いずれも、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャのように、
神の作ったこの世界を承認することができない、
という、
「僕は調和なぞほしくない。つまり、人類に対する愛のためにほしくないというのだ。僕はむしろあがなわれざる苦悶をもって終始したい。たとえ僕の考えが間違っていても、あがなわれざる苦悶と癒されざる不満の境に止まるのを潔しとする」
境地から後退してしまうのだろう。埴谷も椎名も、ともに投獄の経験を持ち、そこから後退したところで、身もだえしているように見える。確かに、
戦いの痕跡、
はある。しかしそれで終わっていいのだろうか。そこには、日本的な、余りにも日本的な、
自己意識の自足、
か、
自然への埋没、
か、
しか選択肢はないのだろうか。今日の日本の現状を併せ考えるとき、暗澹たる気持ちになる。
山ン本五郎左衛門只今退散仕る、
については、種村季弘編『日本怪談集』で触れた。この元となったのは、堤邦彦『江戸の怪異譚―地下水脈の系譜』でも触れた、
「江戸時代中期の日本の妖怪物語『稲生物怪録』に登場する妖怪。姓の『山本』は、『稲生物怪録』を描いた古典の絵巻のうち、『稲生物怪録絵巻』を始めとする絵巻7作品によるもので、広島県立歴史民俗資料館所蔵『稲亭物怪録』には『山ン本五郎左衛門』とある。また、『稲生物怪録』の主人公・稲生平太郎自身が遺したとされる『三次実録物語』では『山本太郎左衛門』とされる」
という話が基ネタである。まだ元服前、十六歳の「稲生平太郎」が、我が家に出没する妖怪変化に対応し、大の大人が逃げたり寝込んだりする中、「相手にしなければいい」と決め込んで、ついに一ヶ月堪え切り、相手の妖怪の親玉、山ン本五郎左衛門をして、
「扨々、御身、若年乍ラ殊勝至極」
と言わしめ、自ら名乗りをして、
「驚かせタレド、恐レザル故、思ワズ長逗留、却ッテ当方ノ業ノ妨ゲトナレリ」
と嘆いて、魔よけの鎚を置き土産に、供廻りを従えて、雲の彼方へと消えていく。この、肝競べのような話が、爽快である。
山本五郎左衛門、
については、「山本五郎左衛門」に詳しい。
本書の眼目は、
A感覚とV感覚、
Prostata-Rectum機械学、
少年愛の美学、
だろう。僕自身にはちょっとついていき兼ねるところがあるが、とりわけ、
少年愛の美学、
は、
歴史の異化、
といってもいいものになっていて、言わば、常識で知っている歴史を、その多層の深部から、手セラ氏出して見せたという感じがある。ただ、惜しいかな、初めから、Oと管となっている
A、
優位の結論があり、PもVも添え物であるということを、それこそ、博引傍証の限りを尽くして詳述しているきらいがあり、読むほどに深まるというよりは、並列的な記述になっているところが、難点と言えば難点ではある。
参考文献;
稲垣足穂『稲垣足穂作品集』(新潮社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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