2024年12月13日
にほひ
形見とて見れば歎きの深見草なになかなかのにほひなるらむ(新古今和歌集)、
の、
にほひ、
は、
美しい色、
とある(久保田淳訳注『新古今和歌集』)。
にほひ、
は、
にほふ、
の連用形の名詞化になるが、
香水の匂い、
というように、
薫り、
香気、
の意のイメージが強く、類聚名義抄(11~12世紀)にも、
匀、ニホフ、匂、ニホフ、カホル、
とあるが、
匂ふ、
薫ふ、
と当てる動詞、
にほふ、
の語源から見ると、
ニは赤色の土、転じて赤色、ホ(秀)は抜きんでて表れているところ。赤く色が浮き出るのが原義。転じて、ものの香りがほのぼのと立つ意(岩波古語辞典)、
萬葉集に、紅丹穂經(ニホフ)、又着丹穂哉(キテニホハバヤ)など記せり、丹秀(ニホ)を活用したる語にて、赤きに就きて云ふかと云ふ、匂は韵の字の省訛(大言海)、
ニホ(丹秀)で、色沢の意(日本古語大辞典=松岡静雄・日本語源=賀茂百樹)、
ニハヒ(丹相・丹施)の義(雅言考・名言通)、
「丹に秀ほ」を活用した語で、赤色が際立つ意(デジタル大辞泉)、
等々、丹(ニ)を由来とする説が大勢で、元来、
赤色、
と、色を指していたもののようである。万葉集には、
妹が袖巻来(まきき)の山の朝露に爾寶布(にほふ)紅葉の散らまく惜しも、
手に取れば袖さへ丹覆(にほふ)女郎花この白露に散らまく惜しも、
春去れば春霞立ち秋行けば紅丹穂經(にほふ)神南備の三諸の神は帯にせる、
引馬野(ひくまの)に仁穂布(にほふ)榛原(はるはら)入り乱れ衣爾保波(にほは)せ旅のしるしに、
等々とあるのは、
専ら、色に就き、つややかなり、いろめく、
意である(大言海)。万葉集では、「にほふ」は、
爾保布、
爾保敝、
等々、仮名書きにした例が五〇首ほどあり、そのうち嗅覚に関すると認められるものは数例にとどまる。また、「にほふ」と読まれるべき漢字は、
「香」「薫」「艷」「艷色」「染」、
の五種が見える。「香」「薫」は漢字としてはもともと嗅覚に関するが、視覚的な情況に用いられている、
とあり(精選版日本国語大辞典)、
赤系統を主体とする明るく華やかな色彩・光沢が発散し、辺りに映える、
という、視覚的概念の用例が圧倒的(仝上)である。ただ、「万葉集」末期に、
よい香が辺りに発散する、
ことにも用いられ始める。中世には、音・声などの聴覚的概念に用いた例も見え、時代が降るにつれ、「にほふ」の対象及びその属性・意味概念の範囲は広がりを見せる(仝上)。
匂ひ、
は、まずは、
春の苑紅(くれなゐ)爾保布(にほふ)桃の花下照る道に出でたつ少女(おとめ)、
と、
赤い色が映える、
意が、原義に近く、
黄葉(もみちば)の丹穂日(にほひ)は繁(しげ)ししかれども妻梨(つまなし)の木を手折りかざさむ(万葉集)、
と、
あざやかに映えて見える色あい、色つや。古くは、もみじや花など、赤を基調とする色あい、
についていった(精選版日本国語大辞典)が、
そのものから発する色あい、光をうけてはえる色、また染色の色あい、
等々さまざまな場合にもいい、中世には、
白き色の異なるにほひもなけれどもろもろの色に優れたるがごとし(無名抄)、
と、
あざやかな色あいよりもほのぼのとした明るさを表わすようになった(仝上)。
多祜(たこ)の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため(万葉集)、
では、更に広く、
色美しく映える、
意となり(岩波古語辞典)、字鏡(平安後期頃)に、
嬋媛(せんえん)、美麗之貌、爾保不、又、宇留和志、
とあるように、
宮人の袖付衣萩に仁保比(にほひ)よろしき高円の宮(万葉集)、
と、
色美しいこと、
色艶、
の意で使う(岩波古語辞典)。さらに、それが、
筑紫なるにほふ児ゆゑに陸奥の可刀利娘子(かとりをとめ)の結ひし紐解く(万葉集)、
と、
美しい顔色、
にまで広がり、さらに抽象度が上がって、
なでしこが花見るごとにをとめらが笑(ゑ)まひの爾保比(にほひ)思ほゆるかも(万葉集)、
と、
人の内部から発散してくる生き生きとした美しさ、あふれるような美しさ。優しさ、美的なセンスなど、内面的なもののあらわれ、
にもいうようになる(精選版日本国語大辞典)。それが、
故権大納言、なにの折々にも、なきにつけて、いとどしのばるること多く、おほやけわたくし、物の折ふしのにほひうせたる心ちこそすれ(源氏物語)、
と、
花やかに人目をひくありさま、
見栄えのするさま、
ひいては、
栄華のさま、
威光、
光彩、
といった意でも使うに至る。嗅覚が出てくるのは、このころで、
露にうちしめり給へる香り、例のいとさま殊ににほひ来れば(源氏物語)、
散ると見てあるべきものを梅の花うたてにほひの袖にとまれる(古今和歌集)、
と、
香りがほのぼのと立つ、
ただよい出て嗅覚を刺激する気、
の意で使う(岩波古語辞典)。これが、臭みの意だと、
臭、
の字をも当てる(仝上・精選版日本国語大辞典)。この嗅覚が、さらに、
こたへたるこゑも、いみじうにほひあり(とりかへばや物語)、
になると、
声が、張りがあって豊かで美しいさま、
声のつやっぽさ、
声のなまめかしさ、
と、聴覚にも転じ、中世になると、心にしみるような感じをもいう(仝上)にいたる。この、
そのもののうちにどことなくただよう、気配、気分、
情趣、
ただよい流れる雰囲気、
にも、
にほひ、
を使うようになると、その対象は広くなり、
故入道の宮の御手は、いと気色ふかうなまめきたる筋はありしかど……にほひぞすくなかりし(源氏物語)、
では、
文芸・美術などでそのものにあらわれている魅力、美しさ、妙趣、
等々を指し、
舞は音声より出でずば、感あるべからず。一声のにほひより、舞へ移るさかひにて、妙力あるべし(花鏡)、
では、能での、
余韻、情趣、
をいい、特に、
謡から舞へ、あるいは次の謡へ移るとき、その間あいにかもし出される余韻、
を指し、
にほひには、させる事なけれど、ただ詞続きにほひ深くいひなかしつれば、よろしく聞こゆ(無名抄)、
では、和歌・俳諧で、
余韻、余情、
を指し、特に、蕉風俳諧では、
匂付け、
というように、
前句にただよっている余情と、それを感じとって付けた付け句の間にかもし出される情趣、
を指す(精選版日本国語大辞典)。また、現代だと、
春の草花彫刻の鑿(のみ)の韻(ニホヒ)もとどめじな(島崎藤村「若菜集(1897))、
その一時代前の臭ひを脱することが出来ない(田山花袋「東京の三十年(1917)」)、
では、
あるものごとの存在や印象を示しながら漂っている気配、雰囲気、気分、
等々の意で、今日だと、
犯罪のにおいがする
と、
事件の、それらしい徴候、
の意でも使う(仝上)。なお、
にほひ、
は、視覚的効果のうち、
濃い色からだんだん薄くなっていく、
いわゆる、
ぼかし、
をも、
にほひ、
といい、
かかるすぢはたいとすぐれて、世になき色あひ、にほひを染めつけ給へば(源氏物語)、
女房の車いろいろにもみぢのにほひいだしなどして(今鏡)、
と、
染色または襲(かさね)の色目、
の意や、
経正其の日は紫地の錦の直垂に、萌黄の匂の鎧きて(平家物語)、
と、
においおどし(匂威)、
の意、また、
刀の焼刃にも匂と云ふ事あり、焼刃の處に虹のごとく見えて、ほのぼのと色うすくなりたる所を匂と云ふ(「鎧色談(1771)」)、
と、
日本刀の刃と地膚の境に煙のように見える文様、
の意もある(精選版日本国語大辞典・大言海)。これについては、
刃文(焼刃)を構成している粒子が〈沸(にえ)〉と〈匂(におい)〉であって、ひじょうに細かくて肉眼で見分けられないほどのものを匂といい、銀砂子をまいたように粗い粒のものを沸といって区分するが、要は粒の大小の差であって、科学的には同じ組織である。刃文は形によって〈直刃(すぐは)〉(まっすぐの刃文)と〈乱刃(みだれば)〉に大別され、直刃には刃の幅の広狭により〈細直刃〉〈広直刃〉〈中直刃〉などの別があり、乱刃には形によって、〈丁子乱(ちようじみだれ)〉(チョウジの花の形に似るという)や〈互の目(ぐのめ)乱〉〈三本杉〉〈濤瀾(とうらん)乱〉〈のたれ(湾れ)〉などがある、
とある(世界大百科事典)
なお、「襲」の色目の、
同系色のグラデーション、
を指す「匂い」については、
匂い、
で触れたし、鎧の縅(おどし)の、
濃い色から次第に淡い色になり、最後を白とする縅、
の
黄櫨匂(はじのにおい 紅、薄紅、黄、白の順)、
萌黄匂(もえぎにおい 萌黄、薄萌黄、黄、白の順)、
等々ついては、
すそご、
で触れた。
ところで、冒頭の歌の、
深見草、
は、
ぼたん(牡丹)の異名、
とされ、和名類聚抄(平安中期)に、
牡丹、布加美久佐、
本草和名(ほんぞうわみょう)(918年編纂)に、
牡丹、和名布加美久佐、一名、也末多加知波奈(やまたちばな)、
などとあるが、箋注和名抄(江戸後期)は、
この「牡丹」はもともとの「本草」では「藪立花」「藪柑子」のことで、観賞用の牡丹とは別物であるのに、「和名抄」が誤って花に挙げたために、以後すべて「ふかみぐさ」は観賞用の牡丹として歌に詠まれるようになった、
とする(精選版日本国語大辞典)。確かに、「深見草」は、
植物「やぶこうじ(藪柑子)」の異名、
でもある。しかし出雲風土記(733年)意宇郡に、
諸山野所在草木、……牡丹(ふかみくさ)、
と訓じている(大言海)ので、確かなことはわからないが、色葉字類抄(1177~81)は、
牡丹、ボタン、
とある。しかし、
牡丹、
より、
深見草、
の方が、和風のニュアンスがあうのだろうか、和歌では、
人知れず思ふ心は深見草花咲きてこそ色に出でけれ(千載集)、
きみをわがおもふこころのふかみくさ花のさかりにくる人もなし(帥大納言集)、
などと、
「思ふ心」や「なげき」が「深まる」意を掛け、また「籬(まがき)」や「庭」とともに詠まれることが多い、
とある(精選版日本国語大辞典・大言海)。
「匂」は、国字であるが、
匀を書き換えた字、よい響きの意からよい香りの意となった(漢字源)、
とあるが、
「韵」(整った音)の原字である「勻(匀)」が変形した文字、一説に「勻(匀)」に「ニホヒ」の「ヒ」を附した文字、
とも(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%8C%82)、
国語で、おもむき(余韻〈=韵〉)を「におい」ということから、韵の省略形の勻(いん)の字形を変えたもの(角川新字源)、
象形文字からの変形した国字です。「弦楽器の調律器(楽器の音の高さを整える器具)」の象形から、「整う、整える」の意味を表したが、それを日本で「におい」の意味に用いた上、文字の一部を「ニオヒ」の「ヒ」に改め、「におう」、「におい」を意味する「匂」という漢字が成り立ちました。「匂」という漢字は、平安時代に日本で作られました、
とも(https://okjiten.jp/kanji2118.html)あり、
匀→匂、
韵→匂、
の二説があるようだが、大言海は、
匂は韵の字の省訛、
としている。ただ、上述の、
「韵」(整った音)の原字である「勻(匀)」が変形した文字、
また一説に「勻(匀)」に「ニホヒ」の「ヒ」を附した文字、
とすれば、同じ由来になる。
韵
は、
韻(繁体字、正字)の異字体、
「韻」(慣用イン、漢音・呉音ウン)は、
会意兼形声。「音+音符員(まるい)」、
とあり(漢字源)、別に、
会意兼形声文字です(音+員)。「取っ手のある刃物の象形と口に縦線を加えた文字」(「音(おと)」の意味)と「丸い口の象形と鼎(かなえ-古代中国の金属製の器)の象形」(「丸い鼎」の意味)から、「まろやかな音」を意味する「韻」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1326.html)
とするが、
形声。音と、音符員(ヱン、ウン)→(ヰン)とから成る。たがいにひびきあって調和する意を表す(角川新字源)、
は形声文字とする。
「匀」(①漢音呉音イン、②漢音呉音キン)は、
会意文字。腕をまるくひと回りさせた形に、二印(並べる)を添えたもの。ひと回り全部に行き渡って並べる意を表す。均の原字、
とあり(漢字源)、「ととのう」「平均して行き渡る」「均整がとれている」の意では①の音、「平均している」意では②の音、となる(仝上)。
「匀」が「均」の原字であるなら、
匂、
の字は、やはり、
韵(韻)、
の略字ということになるのかもしれない。
参考文献;
久保田淳訳注『新古今和歌集』(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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