ここだ


天皇(すめろき)の神の御子(みこ)のいでましの手火(たひ)の光りぞここだ照りてある(万葉集)、

の、

手火、

は、

葬送の時、手に持つ松明、

とあり、

ここだ、

は、

こんなにも激しく、

の意とあり(伊藤博訳注『新版万葉集』)、この、

ここだ、

は、

御笠山(みかさやま)野辺行く道はこきだくも茂り荒れたるか久(ひさ)にあらなくに(万葉集)、

の、

こきだくも茂り荒れたるか、

の、

こきだくも、

は、

ここだ、

と同義とあり、

も……か、

は、

疑問的詠嘆、

とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

ここだ、

は、

幾許、

と当て、

こんなに多く、
こんなに甚だしく、

の意、

ここだく、

は、

幾許く、
許多く、

と当て、

ここだ、

と同じとある。

許多(ここだ)く

で触れたように、

ここだ、
ここだく、

に当てる、

許多、

は、漢語で、

忽與郷曲歯、方驚年許多(范成大詩)、

きょた、

と訓み、

あまた、
甚だ多し、

の意味である(字源)。ただ、「許多」の訓みは、

あまた 56.8%
ここだ(く) 13.5%
きよた 5.4%

とあるhttps://furigana.info/w/%E8%A8%B1%E5%A4%9A、「ここだく」と訓ませる例がないわけではないようだ。

また、

幾許、

も、漢語で、

河漢清且浅、相去復幾許(古詩)、

と、

ききょ、

と訓み、

いくばく、

の意で、

幾何(きか)、
若干(じゃっかん)、

と同義であり、「いくばく」は、また、

幾許
幾何、

とも当てる(仝上)。

ここだ(幾許)、

は、

こんなに数多く、
こんなに甚だしく、

の意で、

夕影に来(き)鳴くひぐらし幾許(ここだ)くも日ごとに聞けど飽かぬ声かも(万葉集)、

と、

ココダに副詞を作る語尾ク、

のついた副詞、

ここだ(幾許)く、

も、同じ意味になる。

ここだ、

は、

ココバ・ココラより古い形、ダは、イクダ(幾)のダに同じく、ラに通じる。自分の経験内のものについて、程度の甚だしいのにいう、

とあり(岩波古語辞典)、この、

ここだ、

は、

秋の夜を長みにかあらむ何ぞ許己波(ココバ)寝(い)の寝(ね)らえぬも独り寝(ぬ)ればか(万葉集)、

と、

ここば(幾許)、

とも、また、

もみぢばのちりてつもれる我やどにたれをまつむしここらなくらん(古今集)、

と、

ここら(幾許)、

と訛り、同じく副詞の用法も、

渚にはあぢ群騒き島廻(み)には木末(こぬれ)花咲き許己婆久(ココバク)も見の清(さや)けきか(万葉集)、

と、

ここばく(幾許く)、

とも言う(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。

ここば、

は、

バはソコバ・イクバクのバに同じ。量・程度についていう接尾語。ココバは、話し手の身近な存在、または話し手に関係深い事柄について、多量である、程度が甚だしいのにいう語。平安時代以後はここら、

とあり(岩波古語辞典)、

ここら、

は、

ラは幾らのラ、ココバの平安時代以後の形、

とあるので、

ここだ→ここば→ここら、

と転訛したことになる。さらに、

幾許、

は、

はねかづら今する妹は無かりしをいづれの妹そ幾許(そこば)恋ひたる(万葉集)、

と、

そこば、

とも訓ませ、「く」をつけた副詞、

そこばく、

は、また

若干、

と当てる。この、

そこば—そこばく、

は、

ここだ―ここだく、
ここば―ここばく、

の関係に等しい(精選版日本国語大辞典)。

源氏殿上ゆるされて、御前にめして御覧ず。そこばく選ばれたる人々に劣らず(宇津保物語)、

と、

数量などを明らかにしないで、おおよそのところをいう、いくらか。いくつか、

の意と、

そこばくの捧げ物を木の枝につけて(伊勢物語)、

と、

数量の多いさま、程度のはなはだしいさまを表わす、

意とがある。前者は、「幾許」と当てても、「若干」の意に転じている。さらに、

幾許、

を、

わが背子と二人見ませば幾許(いくばく)かこの降る雪のうれしからまし(万葉集)、

と、

いくばく、

とも訓ませ、また、

幾何、

とも当てる(広辞苑)。この、

いくばく、

の、

ば、

も、やはり、

量・程度を示す接尾語、

である(岩波古語辞典)。

こうみると、

ここだ(く)→ここば(く)→ここら、

と、

そこば(く)、
いくばく、

とは明らかに音韻的なつながりがあるとみられるが、

ここだ、

を、

ココダクの下略(大言海)、
ココは古韓語コ(大)の畳語で、多大の意。ダはタダ(唯)の原語で接尾語(日本古語大辞典=松岡静雄)、
ココノ(九)からの分義(続上代特殊仮名音義=森重敏)、

とし、

そこばく、

を、

ソ、コは其(そ)、此(こ)にて、ソコ、ココなり、バクはばかり(程度の意、そこはか、いくばく、いかばかり、万葉集「わが背子と二人見ませば幾許(いくばく)かこの降る雪のうれしからまし」「幾許(いかばかり)思ひけめかも」)にて、そこら、ここら程の意(今も五十そこそこの年などと云ふ、是なり)、

としたり(大言海)、

いくばく、

を、

幾許(イクバカ)の転、かがまる、くぐまる、

とする(仝上)ばかりで、相互の関連を見るものは、

これほどまでの、こんなにもの意のカクバカリの語形が変化したもの、

とする(語源を探る=田井信之)のみだ。その説を詳しく見ると、そのもとは、

短き物を端切るといへるがごとくしもと取る里長(さとおさ)が声は寝屋処(ねやど)まで来(き)立ち呼ばひぬかくばかりすべなきものか世間(よのなか)の道(山上憶良)、

の、

これほどまでに、
こんなにも、

の、

斯く許り、

で、

バカリ(許り)は「程度・範囲」(ほど、くらい、だけ)、および「限度」(のみ、だけ)を表す副詞である。カリ[k(ar)i]の縮約で、バカリはバキに変化し、さらに、バが子交(子音交替)[bd]をとげてダキ・ダケ(丈)に変化した。「それだけ読めればよい」は程度を示し、「君だけが知っている」は限定を示す用法である。
ばかり(許り)は別に「バ」の子交[bd]でダカリ・ダカレになり、「カレ」の子音が転位してダラケ(接尾語)になった。
カクバカリ(斯く許り)という副詞は、カ[ao]・ク[uo]の母交(母音交替)、カリ[k(ar)i]の縮約でココバキ・ココバク(幾許)になり、さらに語頭の「コ」が子交[ks]をとげてソコバク(許多)に転音した。すへて、「たいそう、はなはだ、たくさん」という意の副詞である。「ココバクのしゃうの御琴など、物にかき合わせて仕うまつる中に」(宇津保物語)、「この山にソコバクの神々集まりて」(更級日記)。
ココバク(幾許)が語尾を落としたココバ(幾許)は、「バ」が子交[bd]をとげてココダ(幾許)になり、さらに子交[dr]をとげてココラに転音した。「などここば寝(い)のねらえぬに独りぬればか」(万葉)、「なにぞこの児のここだ愛(かな)しき」(万葉)、「さが尻をかきいでてここらの公人(おおやけびと)に見せて、恥をみせむ」(竹取)。「幾許」に見られるココバ[ba]・ココダ[da]・ココラ[ra]の子音交替は注目すべきである。
ココダク(幾許)は、語尾の子交[ks]、ダの子交[dr]の結果、ソコラクに転音した。「このくしげ開くな、ゆめとそこらくに堅めしことを」。
ココラは語頭の子交[ks]]でソコラに転音した。「そこらの年頃そこらの黄金給ひて」(竹取)。
スコシバカリ(少し許り)は、「シ」の脱落、カリ[k(ar)i]の縮約で、スコバキ・ソコバキ・ソコバク(若干)に転音した。ソコバク(許多)とは同音異義語である。「いくらか、多少」の意味で、「そこばくの捧物を木の枝につけて」(伊勢物語)という。
イカバカリ(如何許り)は、カリ[k(ar)i]の縮約でイカバキになり、イカバクを経てイクバク(幾許)に転音した。「どれくらい、何ほど」の意の副詞として「わがせこと二人見ませばいくばくかこの降る雪のうれしからまし」(万葉)という。語尾を落としたイクバは、バの子交[bd]でイクダ(幾許)、さらにダの子交[dr]でイクラ(幾ら)になった。

とある(日本語の語源)。上述した、

ラは幾らのラ、ココバの平安時代以後の形、

ここだ(く)→ここば(く)→ここら、

という用例の時代変化と多少の齟齬はあるが、

斯く許り→ココバク(幾許)→ソコバク、
ココバ(幾許)→ソコバ、
ココダク(幾許)→ソコダク、
ココダ(幾許)→ソコラ、
少し許り→スコバキ→ソコバキ→ソコバク(若干)、
イカバカリ(如何許り)→イカバキ→イカバク→イクバク(幾許)、

といった大まかな音韻転訛の流れをみることができる。

ある意味で、「ここだ」(幾許)が、指示代名詞「こ」の系統に属する語、

というのはある(精選版日本国語大辞典)し、だから、

身近な見聞、体験の中に、程度のはなはだしいものを発見したときの、その程度のはなはだしさをさしていう、

のである(仝上)のは、

斯く許り、

という、

これほどまでに、
こんなにも、

という出発点の語義の外延ということなのだろう。その限りで、「そこばく」を、

ソ、コは其(そ)、此(こ)にて、ソコ、ココなり、

とする説(大言海)は、「ここだ」(く)の、「ここ」にも当てはまる。

「幾」.gif

(「幾」 https://kakijun.jp/page/1245200.htmlより)

「幾」(漢音キ、呉音ケ)は、「許多(ここだ)く」で触れたように、

会意。幺二つは、細く幽かな糸を示す。戈は、ほこ。幾は「幺二つ(わずか)+戈(ほこ)+人」で、戈の刃が届くさまを示す。もう少し、近いなどの意を含む。わずかの幅をともなう意からはしたの数(いくつ)を意味するようになった、

とある(漢字源)が、別に、

会意。𢆶(ユウ かすか)と、戍(ジュ まもり)とから成る。軽微な防備から、あやうい意を表す、

とも(角川新字源)、

会意文字です。「細かい糸」の象形と「矛(ほこ)の象形と人の象形」(「守る」の意味)から、戦争の際、守備兵が抱く細かな気づかいを意味し、そこから、「かすか」を意味する「幾」という漢字が成り立ちました。また、「近」に通じ(「近」と同じ意味を持つようになって)、「ちかい」、「祈」に通じ、「ねがう」、借りて(同じ読みの部分に当て字として使って)、「いくつ」の意味も表すようになりました、

ともhttps://okjiten.jp/kanji1288.html

会意。𢆶 (し)+戈(か)。〔説文〕四下に「微なり。殆(あやふ)きなり。𢆶 (いう)に從ひ、戍(じゅ)に從ふ。戍は兵守なり。𢆶(幽)にして兵守する者は危きなり」という。𢆶を幽、幽微の意より危殆の意を導くものであるが、𢆶は絲(糸)の初文。戈に呪飾として著け、これを用いて譏察のことを行ったのであろう。〔周礼、天官、宮正〕「王宮の戒令糾禁を掌り、~其の出入を幾す」、〔周礼、地官、司門〕「管鍵を授けて、~出入する不物の者を幾す」など、みな譏呵・譏察の意に用いる。ことを未発のうちに察するので幾微の意となり、幾近・幾殆の意となる(字通)、

ともある。

「許」.gif


「許」(漢音キョ、呉音コ)は、「許多(ここだ)く」で触れたように、

会意兼形声。午(ゴ)は、上下に動かしてつくきね(杵)を描いた象形文字。許は「言(いう)+音符午」で、上下にずれや幅をもたせて、まあこれでよしといってゆるすこと、

とある(漢字源)が、「言」と組んでいることから、

相手のことばに同意して聞き入れる、「ゆるす」意を表す、

という解釈もあり得る(角川新字源)。別に、

会意兼形声文字です(言+午)。「取っ手のある刃物の象形と口の象形」(「(つつしんで)言う」の意味)と「きね(餅つき・脱穀に使用する道具)の形をした神体」の象形から、神に祈って、「ゆるされる」、「ゆるす」を意味する「許」という漢字が成り立ちました、

とする解釈https://okjiten.jp/kanji784.htmlもあるが、

形声。声符は午(ご)。午に御󠄀(御)(ぎよ)の声がある。〔説文〕三上に「聽(ゆる)すなり」とあり、聴許する意。〔書、金縢〕は、周公が武王の疾に代わることを祖霊に祈る文で、「爾(なんぢ)の、我に許さば、我は其れ璧と珪とを以て、歸りて爾の命を俟(ま)たん」とあり、また金文の〔毛公鼎〕に「上下の若否(諾否)を四方に虢許(くわくきよ)(明らかに)せよ」というのも、神意についていう。金文の字形に、午の下に祝詞の器の形であるꇴ(さい)を加えるものがあり、午は杵形の呪器。これを以て祈り、神がその祝禱を認めることを許という。邪悪を禦(ふせ)ぐ禦の初文は御、その最も古い字形は午+卩に作り、午を以て拝する形である。午を以て祈り、神がこれに聴くことを許という(字通)、

と形声文字とする説もある。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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