焼津辺(やきづへ)に我が行きしかば駿河なる阿倍の市道(いちぢ)に逢ひし子らはも(春日蔵首老)、
の、
市道、
は、
市が立ち歌垣が行なわれた所、
とあり、
歌垣では群婚が許されるのが習い、
とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。
歌垣(うたがき)、
は、
歌場、
とも当て(岩波古語辞典)、
歌懸きの意、異性に歌を歌いかけて、求婚すること。懸くは古く四段活用の動詞、「歌垣」は、奈良時代の当て字(岩波古語辞典)、
人々が垣のように円陣を作って歌ったところから、または、「歌懸き」すなわち歌の掛け合いからきた語という(デジタル大辞泉)、
「うたかき(歌掛)」の連濁による語で、この場合の「かく(掛)」も古くは四段活用であったか。近年まで与論島に「ウタカキアスビ」「ウタヌカキアイ」などという例(山田実「南東方言与論語彙」)が見られた(精選版日本国語大辞典)、
歌嬥歌(うたかがひ)の急呼と云ふ、うまかひ(馬飼)、うまき(牧)(大言海)、
歌掛合ひの義(雅言考)、
カガヒはカグレアヒか(古事記傳)、
歌垣諍ヒなどの下略(文学以前=高崎正秀)、
ウタの原義は歓楽で、歌垣は、ウタを詠みかわして楽しむ場の意(日本古語大辞典=松岡静雄)、
等々の諸説があるが、上代、東国で、
嬥歌之會、俗曰宇太我岐、叉曰加我毘(常陸風土記)
と、
かがひ(嬥歌)、
といい、この由来も、
カキ(懸)カヒ(合)の約。男女で互いにかけあいで歌を歌う意、嬥歌は、おどり歌う意(岩波古語辞典)、
かけあふの約、韓詩外伝「嬥歌、蠻人歌也」(大言海)、
カケアヒ(掛合)の義(雅言考・和訓栞)、
妻よばいの意のカグレアヒの約(古事記傳)、
カガヒ(嚇呼)の義、カガは大声をあげて歌う意(松屋筆記)、
カガヒ(燿火)の意から(日本民族の起源=岡正雄)、
と、やはり、
かけあう、
という意とみてよく、
なぞかけ、
の、
カケ、
と同意で、
歌の掛合い、
は、
歌のことばの呪的信仰に立つ男女の唱和、歌争い、
で、これが「歌垣」の原義のようである(世界大百科事典)。
歌垣、
での歌謡は、多くの場合、
固定的な旋律と定型的な歌詞を持ち、三・五・七などの音数律に従う、
とあり(仝上)、歌い手は、
これらの約束事を守りながら即興でうたう技量と教養を必要とし、なおかつ相手の気を惹かなければならない。歌謡の内容は求愛歌だけにとどまらず、創世神話歌、収穫歌、豊作労働歌、葬送歌などがある、
とし(仝上)、古代の言霊信仰の観点から、
ことばうたを掛け合うことにより、呪的言霊の強い側が歌い勝って相手を支配し、歌い負けた側は相手に服従した、
とされ(仝上)、
歌垣、
における、
男女間の求愛関係も、言霊の強弱を通じて決定されることとなる、
とある(仝上)。
その津の上(うえ)に率(あども)ひて娘子(おとめ)壮士(おとこ)の行き集ひかがふ嬥歌(かがい)に人妻に我(わ)も交はらむ我(わ)が妻に人も言問(ことと)へ(万葉集)、
の、
嬥歌ふ、
は、
嬥歌を行う、
意で、上代、
春や秋に、男女が、山や市などに集まって、飲食や舞踏をしたり、掛け合いで歌を歌ったりして交歓した行事、
をいい(日本語源大辞典)、元来、
稲の種まきや収穫の後に、神に祭り、飲食して、男女が舞い、掛合いの歌を歌い、豊作を予祝して性の自由な開放を楽しむ行事、
でもあった(岩波古語辞典)。場所は、
山の高み、野、水辺、また言霊(ことだま)の行きあう衢(ちまた)の市(いち)の広場、
等々とされ、とくに、
常陸筑波山・童子女(うない)松原(常陸国風土記)、
肥前杵島(きしま)岳(肥前国風土記)、
大和海柘(石)榴市(つばいち)(万葉集)、
軽市(かるのいち)(古事記)、
等々が知られ、歌垣山の名も残る(摂津国風土記)とある(世界大百科事典)。後には、
遊楽化、
してくるとあり(日本語源大辞典)、後の、
かけ踊り、
盆踊り、
の如きもの(大言海)ともある。
後世、農耕との関係を離れて、
平郡臣(へぐりのおみ のちの顕宗天皇)の祖、名は志毗(しび)臣、歌垣に立ちて、その袁祁命(をけのみこと)の婚(め)さむとする美人(をとめ)の手を取りき(古事記)、
と、
歌のやり取りによる男女の求婚の場、
となり、古事記には、この、
志毗(しび)臣、
と、
袁祁命、
の歌のやり取りが載る。志毘臣(しびのおみ)の、
大宮の彼(をと)つ端手(はなで)隅傾(すみかたふ)けり、
に対して、袁祁命が、
大匠(おおたくみ)拙劣(をじな)みこそ隅傾(すみかたふ)けり、
と歌の末(下の句)をつけた(これは信仰圏の産土神(うぶすながみ)を担う巫女(みこ)を祭祀(さいし)者が争った伝承か)とある。さらに、後に、宮廷に取り入れられて、
葛井・船・津・文・武生・蔵、六氏の男女二百三十人、歌垣に供奉す。其の服は並に青摺の細布の衣を着け、紅の長紐を垂る。男女相並び、行を分かちて徐(おもむろ)に進む。歌ひて曰く、……歌の曲折毎に袂を挙げて節を為す(続日本紀)、
と、
一群の男女が並んで歌舞する風流な遊び、
となっていく(岩波古語辞典)。
踏歌(とふか)の類、
とある(仝上)が、奈良時代中期からは、
歌垣、
は、
踏歌(とうか)の習俗と混じて宮廷化した、
とある(世界大百科事典)。文学史的には、
歌垣の歌はもと性欲的気分や掛合いの機知・悪口などになぞめき、奈良時代の知識階級にはひなびて見えた。また歌の間から抒情の動機もめざめてき、創作詩の構成要素にもとりこまれて、歌い返す女歌の心を複雑にするようにもなった、
とあり(仝上)。後の、
歌合、
や、
連歌、
懸想文(けそうぶみ)、
の世界などへも遺響する(仝上)とある
(踏歌(年中行事絵巻) 精選版日本国語大辞典より)
踏歌、
は、もと、
唐の風俗で、上元の夜、長安の安福門で行なうのを例とした、
とあるが、
足で地を踏みながら、調子をとってうたう歌曲、
で(精選版日本国語大辞典)、
列を作って行進し、その歌をうたって新年を祝う宮中の正月行事、
として、
平安時代には宮中の初春の行事として盛行、正月14日に男踏歌、16日に女踏歌が行われた。その歌詞は、元来は唐詩、のちに催馬楽も用いられ、歌の終わりに「万年(よろずよ)あられ」と唱えた、
といい(デジタル大辞泉)、歌詞は、
漢詩の句を音読したものであったが、のちに催馬楽(さいばら)の「竹河」「此殿」「我家」などが用いられた。歌詞の間に万春楽、千春楽などの囃詞(はやしことば)がはいるが、それを「万年(よろずよ)あられ」とも囃した、
という。ために、
阿良礼走(あらればしり)、
あられまじり、
ともいい(「ハシリ」は舞踏の意であるらしい)、
踏歌節会(とうかのせちえ)、
あらればしりの豊明(とよのあかり)、
ともいった(仝上)。
持統天皇七年正月、漢人が行なった、
のが初めといわれ、平安時代には宮廷の年中行事となった(仝上)。
男(おとこ)踏歌と女(おんな)踏歌、
は、いずれも、
天皇の長久とその年の豊穣(ほうじょう)を祈ることを目的とした。踏歌は一方で民間にも普及したらしく、766年(天平神護2)には、風俗を乱すとの理由で畿内(きない)の民間踏歌が禁断されている、
とある(日本大百科全書)。男踏歌は早く永観元(983)年に絶えたとされ女踏歌だけが続いたが、中世には衰退したという(仝上)。
歌垣、
の分布は、古代日本のほか、
現代では中国南部からインドシナ半島北部の諸民族において濃密であり、フィリピンやインドネシアにも類似の掛合歌が行われている、
とあり、中国貴州省南東部のミヤオ族の場合、
歌垣はミヤオ語で遊方といい漢語では揺馬郎という。村には遊方を催す場所が、村はずれの山の背に決められており、2月2日の敬橋節のような祭日や農閑期に行われる。毎晩8時か9時ごろから、夜中の1時か2時ごろまでつづく。女は15~16歳、男は16~17歳になると参加できる。60~70組の恋人が集まり、互いに向かい合って手をつなぎ、軽やかに裏声で恋歌を対唱し、愛情を伝え合い、他の組の邪魔はしない、
という(世界大百科事典)。ベトナム北部のバクニン省の農村では、
旧暦3月5日から12日までの村の鎮守の祭りには、毎晩集会所での儀式が終わったあとで、若い人たちは村の門のそばの繁みの下で掛合歌をやった。対になって歌い、その内容は愛をテーマとしていた。それから恋人たちは隠れたところに行って交わったが、その際、少女の同意なしに連れて行くことはできなかった。こうして親密になった二人は、祭日後、結婚することができた、
とある(仝上)。このような歌垣は、元来は、
集団的な成年式、
だったと考えられ、歌垣で婚約し、その後、多くの場合は収穫後に結婚式を挙げるというのが古い形式であったろう(仝上)とある。この歌垣を催す民族には、
焼畑耕作をやっているものと、水稲耕作を営むものとの両方が含まれているが、おそらく元来は山地の焼畑耕作文化の要素であったろう、
とし、中国南部では、
歌垣の習俗とほぼ重なって、結婚しても夫妻は別居し、しばらく一方が他方のところに通い、子どもが生まれてから同居する習俗、
が分布しており、日本の、
妻問い婚、
を思わせる(仝上)とある。
奈良時代、歌垣は踏歌と合流したが、
踏歌には文字通り足を踏み鳴らす動作があり、誰かの歌に反応して集団で足を踏み鳴らすことで場を盛り上げた、
とされ、
天平6年(734年)2月に平城京朱雀門で、宝亀元年(770年)3月には河内由義宮で歌垣が開催され、それぞれ貴族・帰化氏族が二百数十名参加する大規模なショーであった、
という(仝上)。
(「歌」 中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%8Cより)
「歌」(カ)は、「歌占(うたうら)」で触れたように、
会意兼形声。可は「口+⏋型」からなり、のどで声を屈折させて出すこと。訶(カ)・呵(カ のどをかすらせて怒鳴る)と同系。それを二つ合わせたのが哥(カ)。歌は「欠(からだをかがめる)+音符哥」で、のどで声を曲折させ、からだをかがめて節をつけること、
とある(漢字源)。また、
会意兼形声文字です(哥+欠)。「口の象形と口の奥の象形×2」(「口の奥から大きな声を出す、うたう」の意味)と「人が口を開けている」象形(「口を開ける」の意味)から、「人が口をあけ大きな声でうたう」を意味する「歌」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji220.html)が、
かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、
とされ(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%8C)、
形声。「欠」+音符「哥 /*KAJ/」(仝上)、
形声。欠と、音符哥(カ)とから成る。うたを「うたう」意を表す。(角川新字源)、
形声。声符は哥(か)。〔説文〕八下に「詠ふなり」、詠字条三上に「歌ふなり」とあって互訓。また謌に作り、金文は訶に作る。可は祝禱の器である口(ᗨ(さい))に対して、柯枝を以て呵責してその成就を求める意。その祈る声を呵・訶といい、その声調のものを謌・歌という(字通)。
と、他は、形声文字とする。
(「垣」 金文・戦国時代 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9E%A3より)
「垣」(漢音エン、呉音オン)の異字体は、
𩫧(古字)、𭎤(俗字)、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%9E%A3)、
「垣」(漢音エン、呉音オン)は、
会意兼形声。亘(カン)は、とり巻いて範囲を限ることを示す会意文字。垣は「土+音符亘(カン)」で、拾遺にめぐらした土塀のこと、
とある(漢字源)。別に、
会意兼形声文字です(土+亘)。「土地の神を祭る為に柱状に固めた土」の象形(「土」の意味)と「物が旋回する」象形(「めぐる」の意味)から、城にめぐらした「かき」を意味する「垣」という漢字が成り立ちました、
ともある(https://okjiten.jp/kanji1762.html)が、
形声。土と、音符亘(クワン、セン)→(ヱン)とから成る。土塀、ひいて外囲いの意を表す(角川新字源)
形声。声符は亘(かん)。亘に洹(えん)の声がある。〔説文〕十三下に「牆なり」とあり、籀文(ちゆうぶん)の字形は城郭の象に従う。亘は建物をめぐる形(字通)、
と、他は形声文字としている。
参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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