身体から精神へ
市川浩『精神としての身体』を読む。
何度目だろう。判型が変わり、文庫になっても読んだ。しかし、読み直してみると、若い頃、なぜ熱中し、何度も読みたいと思ったのかがわからない。1975年初版の、半世紀前ということもあるので、多少の古さを感じることもあるにしても、この論旨のたどり方の、機能的な分解の仕方は、どうも、いま読み直すと、機械的すぎる気がしないでもない。
本書は、コギトではないが、意識や精神から身体を見るのではなく、
身体から精神へ、
と辿っていくところに、新しさがある。
現象としての身体、
で、
主体としての身体、
客体としての身体、
渡しの対他身体、
他者の身体、
と、身体感覚をたどり、
構造としての身体、
で、身体の外部指向の、
向性的構造、
志向的構造、
という、外界への、
はたらきという構造、
を通して、
他者、
と関わる。このとき、
「他者は、私が自分を私として認識するための条件であるとともに、私としての私が存在するための条件である。私は他者を自分の存在条件として発見するのである。このような相互主観性の世界は、私が他者を意識の対象としてとらえ、かつ自分が他者の意識の対象となっていることを自覚することをとおして把握される。前者は他者の対象身体を介して、後者は私にとっての私の対他身体を介して了解されるのであり、両者の背後には、私の主観身体と他者の主観身体の把握が潜在している。それゆえ自己あるいは他者を意識の対象としてとらえることは、自己あるいは他者を主観性としてとらえることと矛盾しない、むしろそれは相互主観性の世界が成立するための条件でさえある。」
こうした身体の側の外界への「はたらき」かけを通して、
共可能性、
地化、
図化、
変換、
中心化、
脱中心化、
同調、
組み込み、
と、現実が構造化される。こうした、
「生成的構造はさまざまのレベルで統合されるから、現実の人間は、抽象的射像としての身体や精神に接近したり、それから離れたりする。……たとえば睡眠や病気(ことに精神障害)の場合、人間は身体的となる。質的および量的に環境がせまくなり、体験の統一性が失われ、自由に態度を転換することがむずかしくなる。逆に統合のレベルが高まり、脱中心化がすすむ場合には、われわれは精神的になる。私は自分を自由の中心と感じ、全人格的に充実した統一体として自己をとらえる。しかしきわめて精神的なはたらきとされている認識にしても、それがわれわれにとって真理をめざすかぎり、世界との身体的かかわりをはなれてはありえない。世界が物体的なものをふくんでいるかぎり、身体と必然的にむすびついていない純粋精神は、世界を認識することができないであろう。」
とし、ここで、タイトルである、
精神としての身体、
に行き着き、
「身体が精神である。精神と身体は、同一の現実につけられた二つの名前にほかならない。それはデカルトが、二元論的な立場からではあるが、精神は身体の一部に(たとえば脳髄に)他の部分をさしおいてやどっているわけではなく、身体と全面的に合一し、あたかも一つの全体をなしているとのべたとき、いいありらわそうとした事態である。〈はたらきとしての身体〉が、あるレヴェルの統合を達成し、『身体が真に人間の身体となった』とき、精神と身体はもはや区別されない。『精神』と『身体』は、人間的現実の具体的活動のある局面を抽象し、固定化することによってあたえられた名前である。」
として、日本語の、
身にしみる、
身を入れる、
身になってみる、
身につまされる、
と使う、
身(み)、
ということばを例に、
「『身』は、単なる身体でもなければ、精神でもなく……精神である身体、あるいは身体である精神としての〈実存〉を意味する」
と集約する。その、
精神としての身体、
のもたらす、
行動としての構造、
として、
道具、
や、
言語、
という、
仲立ち、
を介して、身体の延長として駆使して、世界へ働き掛けていく。その働きを、
癒着的形態の行動、
稼働的形態の行動、
シンボル的形態の行動、
とたどり、
時間、
や、
空間、
を広げていく姿を追う。
「人間は〈仲立ち〉によって、自分の生得的能力を拡大する。人間は自己の身体の感覚器系、運動器系、栄養器系、神経系、内分泌系などをモデルとして、その直接の外化、延長であるにとどまらず、用具としての普遍的機能をもった観測機械、動力機械、伝達機械、計算機械などをつくり、それらを介することによって、感覚し、はたらきかけることのできる世界をいちじるしく拡大してきた」
だけではなく、さらに、
想像の世界、
を、
映画、
テレビ、
で外在化し、さらには、ネットを通して、この世界の先に、
サイバー空間、
という別の世界まで現実化し、
映画『マトリックス』、
の世界では、どちらが原字なのかはわからなくなっているし、
アニメ『攻殻機動隊』、
では、
電脳空間と呼ばれる仮想空間や他者の電脳などの情報源に、自らの意識が入り込むことによって情報を得る、
ことまで可能となり、ついに、主人公、
草薙素子、
は、機械の身体を捨てて、
サイバースペース、
の中へ入ってしまった。
こう見ると、たしかに、本書の世界は古いが、しかし、この、
身体から精神へとアプローチ、
していくスタイルは新しく、このアプローチを現代の尖端までたどっていくと、
精神としての身体、
が意味することが、
サイバー空間、
では、文字通り、
身体としての精神、
が、文字通り、
精神としての身体、
に化していくことまで見通せるのに、改めて驚かされる。再々々々…読による新しい発見であった。
参考文献;
市川浩『精神としての身体』(勁草書房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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