言痛(こちた)み


人言(ひとごと)を繁み言痛(こちた)み逢はずありき心あるごとな思ひ我が背子(高田女王)

の、

言痛(こちた)み、

は、

言痛(こちた)し+接尾語み、

と思われ、

(人の噂が)激しくうるさくて仕方がないので、

と訳注される(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

人言(ひとごと)をしげみ言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る(但馬皇女)

とも詠われ、

しげみこちたみ、

と対で使われる。

こちたし、

は、

秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛く(こちたく)ありとも(但馬皇女)

と、

言痛し、

あるいは、

事痛し、

と当て、

(く)・から/く・かり/し/き・かる/けれ/かれ、

の、形容詞ク活用になる(学研全訳古語辞典)。

言痛し、

事痛し、

とあてるように、

コト(言・事)イタシ(甚)の約(岩波古語辞典・広辞苑)、
コト(言)甚(イタ)し(大言海)、
コトイタシ(言痛し)の約(名語記・類聚名物考・国語溯原=大矢徹)、
コトイタシ(事痛し)の義(塵袋・万葉代匠記)、
コトイタシ(事甚)は、トイ[t(o)i]の縮約でコチタシになり、「人の噂がうるさい」ことをいう。また、コトイタシ(事甚し)もコチタシになり、「ことごとし、仰山(ぎょうさん)である」ことをいう。イタシ(甚)は心身の苦痛が甚だしい意(語源を探る=田井信之・日本語の語源)

と、その由来をみても、

こと、

に、

事、
と、
言、

を当てている。これは、

こと

で触れたように、和語では、「こと(事)」と「こと(言)」は同源である。

古代社会では口に出したコト(言)は、そのままコト(事実・事柄)を意味したし、コト(出来事・行為)は、そのままコト(言)として表現されると信じられていた。それで、言と事とは未分化で、両方ともコトという一つの単語で把握された。従って奈良・平安時代のコトの中にも、事の意か言の意か、よく区別できないものがある。しかし、言と事とが観念の中で次第に分離される奈良時代以後に至ると、コト(言)はコトバ・コトノハといわれることが多くなり、コト(事)と別になった。コト(事)は、人と人、人と物とのかかわり合いによって、時間的に展開・進行する出来事・事件などをいう。時間的に不変な存在をモノという。後世モノとコトは、形式的に使われるようになって混同する場合も生じてきた、

とある(岩波古語辞典)。モノは空間的、コト(言)は時間的であり、コト(事)はモノに時間が加わる、という感じであろうか。

古く、「こと」は「言」をも「事」をも表すとされるが、これは一語に両義があるということではなく、「事」は「言」に表われたとき初めて知覚されるという古代人的発想に基づくもの、時代とともに「言」と「事」の分化がすすみ、平安時代以降、「言」の意には、「ことのは」「ことば」が多く用いられるようになる、

とある(日本語源大辞典)。しかし、本当に、「こと」は「事」と「言」が未分化だったのだろうか。文脈依存の、文字を持たない祖先にとって、その当事者には、「こと」と言いつつ、「言」と「事」の区別はついていたのではないか。確かに、

言霊

で触れたように、

「事」と「言」は同じ語だったというのが通説、

である。しかし、正確な言い方をすると、

こと、

というやまとことばには、もともと区別されていたから、

言、

事、

の漢字が、あてはめ分けられた、ということではないか。当然区別の意識があったから、当て嵌め別けた。ただ、

古代の文献に見える「こと」の用例には、「言」と「事」のどちらにも解釈できるものが少なくなく、それらは両義が未分化の状態のものだとみることができる、

という(佐佐木隆『言霊とは何か』)。それは、まず、

こと、

という大和言葉があったということではないのか。「言」と「事」は、その「こと」に分けて、当てはめられただけだ。それを前提に考えなくてはならない。あくまで、その当てはめが、

未分化だったと、後世からは見える、

ということにすぎないのではないか。『大言海』は、

こと(事)、



こと(言)、

は項を別にしている。「こと(言)」は、

小音(こおと)の約にもあるか(檝(カヂ)の音、かぢのと)、

とし、「こと(事)」は、

和訓栞、こと「事と、言と、訓同じ、相須(ま)って用をなせば也」。事は皆、言に起こる、

とする。それは、「こと(言)」と「こと(事)」が、語源を異にする、ということを意味する。古代人は、「事」と「言」を区別していたが、文字をも持たず、その文脈を共有する者にのみ、了解されていたということなのだろう。

『日本語源大辞典』も、「こと(事)」と「こと(言)」の語源を、それぞれ別に載せている。「こと(言・詞・辞)」は、

コオト(小音)の約か(大言海・名言通)、
コトバの略(名語記・言元梯)、
コトトク(事解)の略(柴門和語類集)、
コはコエのコと同じく音声の意で、コチ、コツと活用する動詞の転形か(国語の語根とその分類=大島正健)、
コはコエ(声)のコと同語で、ク(口の原語)から出たものであろう。トは事物を意味する接尾語(日本古語大辞典=松岡静雄)、
コはクチのクの転。トはオト(音)の約ト(日本語原学=与謝野寛)、

等々がある。「おと(音)」と「ね(音)」は区別されていた。

オト(音)、

は、

離れていてもはっきり聞こえてくる、物の響きや人の声。転じて、噂や便り、

類義語、

ネ(音)、

は、

意味あるように聞く心に訴えてくる声や音、

とある(岩波古語辞典)。「おと」の転訛として、

oto→koto、

があるのかどうか。「こと(事)」は、

トは事物を意味する接尾語で、コはコ(此)の意か(日本古語大辞典=松岡静雄)、
コト(言)と同義語(和訓栞・国語の語根とその分類=大島正健・日本語源広辞典)、
コト(言)から。コト(事)は皆コト(言)から起こることから(名言通)、
コト(別)の義(言元梯)、
コト(是止)の義。ト(止)は取りたもつ業をいう(柴門和語類集)、
コレアト(是跡)の義(日本語原学=林甕臣)、
コトゴトク(尽)の略か。または、コは小、トはトドコホル意か(和句解)、

等々とある。確かに、こうみると、

「コト(言)と同義語」といっただけでは、なにも説明できていない。「こと(言)」の語源を説明して、初めて同源と説明が付く。ぼくは、「コト(言)」は、声か口から来ていると思うが、「口」(古形はクツ)は、「食う」に通じる気がするので、やはり、声と関わるのではないか、という気がする。

ま、いずれにせよ、

言、
と、
事、

が、同一視されるに至ったことと、

こちたし、

に、

事痛し、
言痛し、

と両使いされていることに通じるのだが、それは後世の見解で、あるいは、

言痛し、
と、
事痛し、

は、微妙に使い分けられていたのかもしれないが、いまとなっては区別がつかない。で、

許智多鶏(コチタケ)ば小泊瀬山の石城にも率て籠らなむな恋ひそ我妹(常陸風土記)、

や、冒頭の歌のように、

人の言葉、うわさなどが多くて、うるさい、

意で、

くちさがない、
人に言い騒がれてうるさい、わずらわしい、

意で使う(大言海・精選版日本国語大辞典)が、転じて、

鶴は、いとこちたきさまなれど、鳴くこゑ雲井まできこゆるいとめでたし(枕草子)、

と、

様子や状態がはなはだしい、仰山である、ことごとしい、

意で使い(仝上)、さらに、

御車十五、御前四位五位がちにて、六位殿上人などは、さるべき限りを選らせたまへり。こちたきほどにはあらず(源氏物語)、

と、

度がすぎるほどに盛んである、
立派すぎるほどである、

意や、

車かきおろして、こちたくとかくする程に(蜻蛉日記)、

と、

事がわずらわしいほど多いさま、
繁雑である、

意や、

はなはだも降らぬ雪ゆゑ言多(こちたく)も天つみ空は曇らひにつつ(万葉集)、

と、

量や程度がはなはだしいさま、
びっしりしている、
たっぷりとある、
度をこえて、わずらわしいと思うほどである、

と、

事、

言、

から離れて、

甚だしい、

意へとシフトしていくようである。

言痛(こちた)み、

の、

み、

は、

形容詞及び形容詞型活用の助動詞の語幹につき、

冒頭の、

人言(ひとごと)を繁み言痛(こちた)み逢はずありき心あるごとな思ひ我が背子、

のように、上に、

を、

を伴って、原因・竜を表わし、

……のゆえに、
……によって、
……なので、

の意で使い(広辞苑)、

人の噂が激しくうるめさくて仕方ないので、

と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。

「痛」.gif


「痛」(漢音トウ、呉音ツウ)は、

会意兼形声。「疒+音符甬(ヨウ・ツウ つきぬける、つきとおる)」

とあり(漢字源)、同趣旨で、

会意兼形声文字です(疒+甬)。「人が病気で寝台にもたれる」象形(「病気」の意味)と「甬鐘(ようしょう)という筒形の柄のついた鐘」の象形(「筒のように中が空洞である、つきぬける」の意味)から、「身体をつきぬけるようないたみ」を意味する「痛」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji1025.html

ともあるが、他は、

形声。「疒」+音符「甬 /*LONG/」。「いたむ」を意味する漢語{痛 /*hloongs/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E7%97%9B)

形声。疒と、音符甬(ヨウ)→(トウ)とから成る。「いたみ」「いたむ」意を表す(角川新字源)、

形声。声符は甬(よう)。甬に通(つう)の声がある。〔説文〕七下に「病なり」とあり、疾痛の甚だしいことをいう。それで痛罵・痛飲など、徹底してことをする意にも用いる(字通)、

と、何れも、形声文字としている。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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