事もなく生き来(こ)しものを老いなみにかかる恋にも我(あ)れは逢へるかも(大伴百代)
の、
老いなみ、
は、
老境、
とあり、
老いを明示する句はこの冒頭歌のみに見える、
と注記がある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。
老いなみ、
は、
老次、
とも当てる(広辞苑・精選版日本国語大辞典)が、
老いの波、
老波、
と当て、
おいのなみ、
とも訓ませる(岩波古語辞典・大言海)。
老いの並、
と当てると、
老いの並に、言ひ過ぐしもぞし侍る(大鏡)、
と、
老人共通の癖、
の意となる(広辞苑)とあるが、
おいなみ、
に、
老い次、
老い並、
と当てて、
年老いること、
の意としている(学研全訳古語辞典)ものもあり、
老い波、
老い次、
老い並、
も、
老いの波、
老いの次、
老いの並、
も、いずれも、
老年のころ、
老境、
の意で使う。
年が寄るのを岸に波が寄ることにたとえたもの。また、顔に寄るしわからの連想(学研全訳古語辞典)、
老齢になること。「年寄る」の「寄る」の縁で「波」を出し、また顔に寄るしわから波を連想した言い方(デジタル大辞泉)、
年の寄るのを波が寄せるのにたとえた語、寄る年波(岩波古語辞典)、
顔の皺を、波に喩ふ(大言海)、
と、多く、
老の波磯額(いそびたひ)にぞ寄りにける哀れ恋しき若の浦かな(梁塵秘抄)
打つや打たずや、老なみの、立ち寄る影も夕月の(謡曲「天鼓(1465頃)」)
と、
皺と波の喩え、
寄る年波の波、
と、
波、
と当てる理由を説く。しかし、
老次(おいなみ)、
の、
なみ、
は、
四段動詞「なむ(並)」の連用形の名詞化、
とし、
順序、段階、列の意、
から、
年老いたころ、
老境、
意となったとするものもある(精選版日本国語大辞典)。
飛ぶ鳥の明日香の河の上(かみ)つ瀬に石橋(いはばし)渡し(一には石浪(いしなみ)といふ)下(しも)つ瀬に打橋(うちはし)渡す石橋に(一には「石並に」といふ)(万葉集)、
と、
石浪(いしなみ)、
石並いしなみ)、
という言い方があり、この、
「なみ」は四段動詞「なむ(並)」の連用形の名詞化、
とあり、
川の浅瀬に石を置き並べて橋としたもの、
石橋(いわばし)、
の意である(精選版日本国語大辞典)。
松の木(け)の並みたる見れば家人(いはびと)の我れを見送ると立たりしもころ(万葉集)、
と、
並む、
は、
ま/み/む/む/め/め、
の、自動詞マ行四段活用で、
並ぶ。
連なる、
意なので、
老いに連なる、
意になると思う。
次、
を、
なみ、
と当てているのは、
次第に、つぎつぎなり、順次と用ふ、
とある(字源)ので、
老いの次位、
にあるという意味で、
なみ、
と訓ませているのであろうか。釈名(1480)に、
次は髪を次第にする(長短を揃える)
とある(漢辞海)。
ちなみに、
事もなし、
は、冒頭の歌では、
何事もない、
無事である、
の意だが、
そこのとなりなりける宮ばらに、こともなき女どもの(伊勢物語)、
人にはぬけて、ざえなどもこともなく、つひには世のかためとなるべき人なれば(源氏物語)、
と、
非難すべき点がない、
好ましい、
理想的だ、
の意で使うが、これは、
事も無し、
が、
「ことなし(事無)」を「も」で強調したもの。
で、
無事平穏の意から派生しているが、「源氏物語」では、
「ことなし」は多く平穏無事、
の意、
「こともなし」は多く欠点がない、
の意で、使い分けられている(精選版日本国語大辞典)とある。さらに、
こともなき女房のありけるが(古今著聞集)、
では、
これといってとり立てるところもない、
平凡だ、
の意、
龍(たつ)を捕へたらましかば、又こともなく我は害せられなまし(竹取物語)、
では、
わけもない、
たやすい、
容易だ、
の意で使う。いずれも、「事もなし」の意味の外延である。なお、
汝、何事(なにこと)が有(あ)りしとのたまふ。答へて云さく無(コトムナシ)也(日本書紀)、
の、
事むなし、
の、
「む」は助詞「も」の変化したもの、
で、
「事もなし」から転じた語形で、「こともなし」が和文にも見られるのに対し、「ことむなし」は漢文訓読系の文章にのみ見られる、
とある(精選版日本国語大辞典)。
(「老」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%80%81より)
(「老」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%80%81より)
「老」(ロウ)は、「老いらく」で触れたように、
象形。年寄が腰を曲げて杖をついたさまを描いたもので、からだがかたくこわばった年寄り、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%80%81・https://okjiten.jp/kanji716.html・漢字源)。別に、
象形。こしを曲げてつえをつき、髪を長くのばした人の形にかたどり、としよりの意を表す(角川新字源)、
象形文字です。「腰を曲げてつえをつく老人」の象形から「としより」・「老人」を意味する「老」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji716.html)、
ともある。しかし、
会意。耂+𠤎 (か)。耂(老)は長髪の人の側身形。その長髪の垂れている形。𠤎は化󠄁の初文。化は人が死して相臥す形。衰残の意を以て加える。〔説文〕八上に「考なり。七十を老と曰ふ。人毛の𠤎(くわ)するに從ふ。須(鬚)髮(しゆはつ)の白に變ずるを言ふなり」とするが、𠤎は人の倒形である。〔左伝、隠三年〕「桓公立ちて、乃ち老す」のように、隠居することをもいう。経験が久しいので、老熟の意となる(字通)、
とするものもある。
なお、「老いさらばえる」で触れたように、漢字、
老、
には、老いる、老ける、という意味だけでなく、
長い経験をつんでいるさま(「老練」)
老とす(老人と認めて労わる、「老吾老、以及人之老」)
年を取ってものをよく知っている人、その敬称(「長老」「古老」)
親しい仲間を呼ぶとき(老李、李さん)
といった意味がある。
「波」(ハ)は、
会意兼形声。皮は「頭のついた動物のかわ+又(手)」の会意文字で、皮衣を手で斜めに引き寄せてかぶるさま。波は「水+音符皮」で、水面がななめにかぶさるなみ、
とあり(漢字源)、同趣旨の、
会意兼形声文字です(氵(水)+皮)。「流れる水の象形」と「獣の皮を手ではぎとる象形」(「毛皮」の意味)から、毛皮のようになみうつ水、「なみ」を意味する「波」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji405.html)、
と会意兼形声文字とするものもあるが、他は、
形声。「水」+音符「皮 /*PAJ/」。「なみ」「水の流れ」を意味する漢語{波 /*paaj/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%B3%A2)、
形声。水と、音符皮(ヒ)→(ハ)とから成る。「なみ」の意を表す(角川新字源)
形声。声符は皮(ひ)。皮に表面の、うねうねとつづくものの意がある。〔説文〕十一上に「水涌きて流るるなり」とするが、水流の動揺することをいう。派と声義近く、派は分流することをいう(字通)
と、形声文字としている。
(「並」 金文・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%A6)
「並」(漢音ヘイ、呉音ビョウ)の異体字は、
傡、并(簡体字)、竝(旧字体)、
とあり、字
並、
は、
「竝」の略体、
で、「竝」の字源は、
会意文字。人が地上に立った姿を示す立の字を二つならべて、同じようにならぷさまを示したもの。同じように横にならぶこと。略して並と書く。また、併(ヘイ)に通じる(漢字源)、
「立(人の立った姿)」をならべて、人が同様に並ぶ様子を示した会意文字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E4%B8%A6)、
会意。立を二つ横にならべて、ならび立つ意を表す。教育用漢字は俗字による(角川新字源)
会意文字です(立+立)。「並び立つ人」の象形から「ならぶ」を意味する「並」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1039.html)、
会意。旧字は竝に作り、立をならべた形。立は位。その位置すべきところに並んで立つことをいう。〔説文〕十下に「併(なら)ぶなり。二立に從ふ」という。幷は二人相並ぶ側身形。竝は相並ぶ正面形。从(從)・比は前後相従う形。みな二人相従う字である(字通)、
と同じ趣旨である。
(「次」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AC%A1)
「次」(慣用ジ、漢音呉音シ)の異体字は、
𠕞、𠤣、𣄭、𣬌、𦮏、𫠨、𫡜、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AC%A1)。字源は、
会意文字。「二(並べる)+欠(人がからだをかがめたさま)」で、ザッと身の回りを整理しておいて休むこと。軍隊の小休止の意。のち、物をざっと順序付けて並べる意に用い、次第に順序を表わすことばになった、
とある(漢字源)。他に、形声文字としながら、
形声。欠と、音符二(ジ)→(シ)とから成る。止まって休む、やどる意を表す。借りて、「つぐ」、順序の意に用いる(角川新字源)、
と、同趣の説明をしているが、これは、『説文解字』の、
「欠」+音符「二」との分析によっている。しかし、これは誤った分析である。金文の形を見ればわかるように「二」とは関係がない、
とあり(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AC%A1)、
象形。口から息を吐き出す人のさまを象る。一説に、「なげく」を意味する漢語{咨 /*tsi/}を表す字。のち仮借して「つぎ」を意味する漢語{次 /*tshis/}に用いる(仝上)
象形文字です。「人が吐息(ため息)をつく」象形から「ほっとして宿泊する」を意味する「次」という漢字が成り立ちました。また、「斉(シ)」に通じ(同じ読みを持つ 「斉(シ)」と同じ意味を持つようになって)、「次に続く」、「順序良く整える」という意味も表すようになりました(https://okjiten.jp/kanji490.html)、
象形。人が咨嗟(しさ)してなげく形。口気のもれている姿である。〔説文〕八下に「前(すす)まず。精(くは)しからざるなり」とし、二(に)声とするが、二に従う字ではなく、〔説文〕の訓義の意も知られない。次は咨(なげ)き訴えるその口気を示す形。咨は祈るとき、その口気を祝詞のꇴ(さい)に加える形。神に憂え咨(なげ)いて訴え、神意に諮(はか)ることをいい、咨は諮の初文。そのたち嘆くさまを姿という。第二・次第の意は、おそらくくりかえすことから、また「次(やど)る」は軍行のときに用いるもので、古くは𠂤+朿(し)の字義にあたり、音を以て通用するものであろう。古文の字形は、他に徴すべきものがなく、中島竦の〔書契淵源〕に、婦人の首飾りを〔儀礼、士冠礼〕に次と称しており、その象形の字であろうという。〔説文〕の解は、〔易、夬、九四〕「其の行、次且(じしょ)」の語によって解したものであろうが、次且は二字連語、そこから次の字義を導くことはできない(字通)
と、象形文字としている。
参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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