草枕旅行く君を愛(うるは)しみたぐひてぞ来し志賀の浜辺を(大伴百代)
の、
たぐふ、
は、
比ふ、
類ふ、
と当て、
は/ひ/ふ/ふ/へ/へ、
と活用する、自動詞ハ行四段活用で、
似つかわしいもの、あるいは同質のものが二つ揃っている意、類義語つ(連)るは、つながって一線にある意、なら(並)ぶは、異質のものが凹凸なくそろう意、ともな(伴)ふは。、主になるものと従になるものが一緒にある意、な(並)むは、横一線に並ぶ意、
とあり(岩波古語辞典)、
鴛鴦(をし)二つ居て偶(たぐひ)よく陀虞陛(タグヘ)る妹を誰か率(ゐ)にけむ(日本書紀)、
と、
並ぶ、
寄り添う、
いっしょにいる、
連れだっている、
意や、
道行く者も 多遇譬(タグヒ)てぞ良き(日本書紀)、
と、
伴う、
連れだつ、
いっしょに行く、
呼応する、
意や、
君達の上(かみ)なき御選びには、ましていかばかりの人かは、たぐひ給はん(源氏物語)、
と、
似あう、
かなう、
適合する、
相当する、
意で使う(広辞苑・精選版日本国語大辞典)が、ここでは、
たぐひてぞ来し、
を、
寄り添って来 てしまいました、
と訳している(伊藤博訳注『新版万葉集』)。
冒頭の歌の詞書(和歌や俳句の前書きで、万葉集のように、漢文で書かれた場合、題詞(だいし)という)に、
大宰大監(だざいのだいげん)大伴宿禰(すくね)百代(ももよ)ら、駅使(はゆまづかい)に贈る歌、
とある、
駅使、
とは、
駅馬で都から馳せ参じた使い、
と訳注がある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。
はゆま、
は、
左夫流子(さぶるこ)が斎(いつ)きし殿(との)に鈴掛けぬ駅馬(はゆま)下(くだ)れり里もとどろに(万葉集)、
と、
駅馬、
駅、
と当て、
はいま、
ともいい、
はやうま(早馬)の音変化、
で、古代、
官吏などの公用の旅行のために、諸道の各駅に備えた馬、
をいう(広辞苑・精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。いわゆる、
駅馬(えきば)、
伝馬(てんま)、
である。令制の駅伝制では、
官道三〇里ごとに設置された駅家に備えた、
とされ(仝上)、
公務出張の官人や公文書伝送の駅使が前の駅から駅馬に乗り駅子に案内されて駅家(うまや)へ到着すると、駅長は前の駅の駅馬をその駅子に送り返させ、当駅の駅馬に駅子を添えて次の駅まで送らせる。貸与する駅馬数は利用者が六~八位なら3匹、初位以下なら2匹というように、位階によって定まっているが、案内する駅子は1人だったらしい、
とある(世界大百科事典)。大化改新後、駅ごとに常備すべき駅馬は、
大路の山陽道で20匹、中路の東海・東山両道で10匹、他の4道の小路では5匹ずつとし、駅の周囲には駅長や駅丁を出す駅戸を指定して駅馬を飼わせ、駅家(うまや)には人馬の食料や休憩・宿泊の施設を整えた、
とあり、その結果、
もっとも速い飛駅(ひえき・ひやく)という駅使は、大宰府から4~5日、蝦夷に備えた陸奥の多賀城からでも7~8日で都に到着することができた、
という(仝上)。駅馬は、国司の判断で実情に即した増減が可能であり、
10世紀初頭の延喜式では40匹から2匹までが全国で402の駅に配置され、総数は4000匹に達した、
という(仝上)。この駅馬は、
筋骨強壮、
でなければならず、
国司が毎年検査して、年を取りすぎたり病気だったりすると市場で買い換え、代価の不足分は駅稲で支払う。駅家や利用者の不注意で死損させれば、もちろん原因者に補償させた、
という(仝上)。しかし、駅家は、
律令制の崩壊とともに衰微し、鎌倉時代以降、代わって宿が発達すると、官制に限らず、民間の宿駅の馬についても(駅馬が)用いられるようになった。
とある(精選版日本国語大辞典)。
駅使(はゆまづかい)、
は、
はいまづかい、
うまやづかい、
とも訓ます(精選版日本国語大辞典)が、
漢語では、
えきし、
と訓ませ、
駅使不伝南国信、黄昏和月看横斜(蕉堅藁)、
と、中国で、
郵便・荷物などを宿駅ごとに運んだ人のこと、
をいう(仝上)が、我が国では、
往来駅使合頭壱拾人……往来伝使合頭肆拾弐人(正倉院文書・天平八年(736)薩摩国正税帳)、
と、
古代、駅鈴(えきれい)を下付され、駅馬を使用して街道の各駅で宿泊、食糧の供給を受けて旅行する公用の使者、
を指し、
伝馬を使う伝使に比べて緊急の場合が多い、
とある(仝上)。因みに、
伝使(でんし)、
は、
令制で、伝符(でんぷ)を携行し、伝馬(てんま)を利用して公用の旅行をする官人。不急の公使である新任国司の任地赴任、諸種の部領使(ことりづかい)、相撲人など、
とある(仝上)。つまり、
驛馬には、驛鈴(えきれい)、
傳馬には、傳符(でんぷ)、
が給せられることになる(大言海)。日本古代の駅伝制では、
中央の兵部(ひようぶ)省の所管で緊急の公務出張や公文書伝送、
にのみ使われた、
駅馬、
のほかに、
全国各郡の郡家(ぐうけ)に5疋(ひき)ずつ用意し、国司の赴任や国内巡視、
などに使われた、
傳馬、
があった(世界大百科事典)。この伝馬は、
官営の牧場で繁殖させ、軍団の兵士の戸で飼育させる官馬の中から選ぶが、適当な官馬がなければ郡稲という財源で民間から購入し、郡家付近の豊かで人手のある戸に飼育させる。購入価格は駅馬の場合よりも平均2割安い。伝馬の利用には伝符(てんぷ)を必要とし、伝馬1疋につき伝馬子または伝馬丁と呼ばれる馬丁がふつうは6人ずつ指定されており、交代で手綱をとり、働いた日数だけ雑徭が免除される、
とある(仝上)。律令制の崩壊とともに駅制は崩れ、代わって荘園や寺院の施設が休泊に利用されるようになった。そして平安末期ごろから、
宿、
が、
駅、
に代わって用いられ始め、
駅馬、
よりも、
伝馬、
の称呼が使われるようになった(仝上)とある。なお、
駅(うまや)の設備のある幹線道路、
は、
藤野郡者。地是薄塉。人尤貧寒。差科公役。触途忩劇。承山陽之駅路。使命不絶(続日本紀・天平神護二年(766)五月丁丑)、
駅路(エキロ)に駅屋の長もなく(太平記)、
と、
駅路(はゆまじ・はいまじ・うまやじ・えきろ)、
という(広辞苑・精選版日本国語大辞典)。なお、
駅伝(えきでん・やくでん)制、
は、7世紀後半の律令国家形成期に、駅鈴によって駅馬を利用しうる道を北九州との間だけでなく東国へも延ばしはじめ、8世紀初頭の大宝令では唐を模範とした駅制を全国に拡大し(世界大百科事典)、その財源として、
駅起稲(えききとう)、
駅起田(えききでん)、
を設置する。これは、後の養老令では、
駅稲(えきとう)、
駅田(えきでん)、
を各国に設置させ、
畿内の都から放射状に各国の国府を連絡する東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の7道をそのまま駅路、
とし、上述したように、駅路には原則として30里(約16km)ごとに駅を置かせた(仝上)。
(「驛(駅)」 https://kakijun.jp/page/E983200.htmlより)
「驛(駅)」(漢音エキ、呉音ヤク)の異字体は、
㶠、 墿、駅(新字体)、驿(簡体字)、𩢋(朝鮮での略字)、𩦯、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A7%85)。字源は、
会意兼形声。睪(エキ)は「目+幸(刑具)」の会意文字で、罪人を次々連ねて面通しすることをあらわす。驛は「馬+睪」で、―・―・―状につながるの意を含む(漢字源)とある。同じく、
会意兼形声文字です(馬+尺(睪))。「馬」の象形と「人の目の象形と手かせの象形」(「罪人を次々と面通しする・たぐりよせる」の意味)から、馬を乗り継ぐ為に用意された所、「宿場」を意味する「駅」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji462.html)、
と、会意兼形声文字とするものもあるが、他は、
形声。「馬」+音符「睪 /*LAK/」。「釋」に同音の「尺」をあて「釈」としたことから、「睪」に替え「尺」の文字を当てるようになった。(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A7%85)、
形声。旧字は驛に作り、睪(えき)声。睪は獣屍の象で、解けほぐれて、ながくつづくものの意があり、駅とは長く乗りつぐ駅車、駅伝をいう。〔説文〕十上に「置騎なり」とあり、駅伝をいう。次条の「馬+日」(じつ)にも「驛傳なり」とみえる(字通)、
形声。馬と、音符睪(タク)→(エキ)とから成る。馬を用意しておく宿場の意を表す。教育用漢字は省略形の俗字による(角川新字源)、
といずれも、形声文字とする。
参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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