春日山霞たなびき心ぐく照れる月夜(つくよ)にひとりかも寝む(坂上大嬢)
の、
心ぐし、
は、
うっとうしく、
と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)。
心ぐし、
は、
(く)・から/く・かり/し/き・かる/けれ/かれ、
の、
形容詞ク活用、
で、
気分がはっきりしない、
心が晴れずうっとうしい、
心がせつなく苦しい、
といった意味になる(岩波古語辞典・学研全訳古語辞典)。
心ぐし、
に、
心苦し、
とあて、
心ぐるしの略と云ふ(見苦(めぐる)し、めぐし。蝦手(かへるで)、楓(かへで)。帰るさ、かへさ)、
とする説(大言海)もある。しかし、この、
心ぐし、
の、
ぐし、
は、
くさくさ、
くしゃくしゃ、
むしゃくしゃ、
といった、
憂鬱な状態、
心が沈んでふさぎこんでいる状態、
を言い表す擬態語と関係があるのではないか。
くしゃくしゃ、
は、
くさくさ、
の音韻変化だが、今日では、
「くさくさ」が心が低迷している様子、
「くしゃくしゃ」が心が混乱して整理がつかなくなる様子、
と使い分け(擬音語・擬態語辞典)、
「むしゃくしゃ」は「くさくさ」より感情の起伏が激しい、
とあり、
「くさくさ」が内面的に憂鬱な感情、
「むしゃくしゃ」が八つ当たりなど、外への行動に直接結びつけたくなるような不愉快さ、
を表しているようだ(仝上)。で、この、
くさくさ、
は、
憂鬱になる、
意の、
腐る、
を畳語にして強調した語(仝上)とある。
心くし、
は、この、
くさくさ、
の、
腐る、
と通じるのではないか、という気がする。もちろん、憶説だが。ちなみに、
腐る、
は、
クサシ(臭)・クソ(糞)と同根。悪臭を放つようになる意(岩波古語辞典)、
クタル(腐)と通じず、豊後風土記に、直入郡、球覃(くたみの)郷は、臭泉(くさいずみ)の訛なりとあり、ふたぐ、ふさぐ。大雨(ひため)、ひさめ、も相通ず。くた(朽)は腐る気ざしの意なるべし、腐るの語根、朽(く)つ、朽ち、と通ず(大言海)、
クチサル(朽去)の義か(和訓栞)、
クダクアル(砕有)の義(名言通)、
キサル(気去)の転呼か(和語私臆鈔)、
クサアルル(臭荒)の義(日本語原学=林甕臣)、
クソアル(糞生)の約(国語本義)、
等々とあるが、どうも語呂合わせ似すぎる。
クサシ(臭)・クソ(糞)と同根、
とみるのが妥当ではないか。
植物などがいたむ、
腐敗する、
の意のメタファで、
心が失われてだめになる、
思いどおりに事が運ばないため、やる気をなくしてしまう、
活気がなく、ゆううつになる、
という意で使うに至ったたと見ることができる。ちなみに、
腐る、
は、もともと、
四段活用であったが、中世頃から下二段に活用する場合が現われ、並行して用いられた。しかし、その後、四段活用が盛り返し、現代では五段活用がふつうである。複合語や転成語では、「ふてくされる」「くされ縁」「持ちぐされ」「生きぐされ」など、下一段(下二段)系のものが著しい、
とある(精選版日本国語大辞典)。
なお、
こころ、
については、触れた。
(「心」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BF%83より)
(「心」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BF%83より)
(「心」 中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BF%83より)
「心」 (シン)の異体字は、
㣺(部首の変形)、忄(部首の変形)、腎(の代用字)、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BF%83)。字源は、「心にくし」、「こころ」で触れたが、
象形。心臓を描いたもの。それをシンというのは、沁(シン しみわたる)・滲(シン しみわたる)・浸(シン しみわたる)などと同系で、血液を細い血管のすみずみまでしみわたらせる心臓の働きに着目したもの、
とある(漢字源)。他も、
象形。心臓を象る。「こころ」を意味する漢語{心 /*səm/}を表す字(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%BF%83)、
象形。心臓の形にかたどる。古代人は、人間の知・情・意、また、一部の行いなどは、身体の深所にあって細かに鼓動する心臓の作用だと考えた(角川新字源)、
象形文字です。「心臓」の象形から、「こころ」、「心臓」を意味する「心」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji5.html)、
象形。心臓の形に象る。〔説文〕十下に「人の心なり。土の藏、身の中に在り。象形。博士説に、以て火の藏と爲す」とあり、藏(蔵)とは臟(臓)の意。五行説によると、今文説では心は火、古文説では土である。金文に「克(よ)く厥(そ)の心を盟(あき)らかにす」「乃(なんぢ)の心を敬明にせよ」のように、すでに心性の意に用いている(字通)
と、いずれも象形文字としている。
参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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