神(かむ)さぶといな(否)にはあらず八多也八多(ハタヤハタ)かくして後にさぶしけむかも(紀郎女)
の、
神さぶ、
は、
神さびる、
で触れたように、
難波門(なにはと)を榜ぎ出て見れば神かみさぶる(可美佐夫流)生駒高嶺(たかね)に雲そたなびく(万葉集)
と、
神々(こうごう)しい様子を呈する、
古色を帯びて神秘的な様子である、
古めかしくおごそかである、
といった意味である(広辞苑)が、
ひさかたの天つ御門(みかど)をかしこくも定めたまひて神佐扶(かむさぶ)と磐隠(いはがく)りますやすみししわが大君の(万葉集)、
と、
神らしく行動する、
神にふさわしい振舞いをする、
意でも使った。普通に考えると、神々しいという言葉の派生として、それに似た振舞い、という意味の流れになるのかと思う。転じて、
いそのかみふりにし恋のかみさびてたたるに我は寝(い)ぞ寝かねつる(古今集)、
と、
古風な趣がある、
古めかしくなる、
年を経ている、
意となり、さらに、
あけの玉墻(たまがき)かみさびて、しめなはのみや残るらん(平家物語)、
と、
荒れてさびしい有様になる、
意に転じ、あるいは、
かみさびたる翁にて見ゆれば、女一(にょいち)の御子の面伏(おもてぶせ)なり(宇津保物語)、
と、単に、
老いる、
意でも使い、だんだん神秘性が薄れ、ただの古ぼけたものになっていく感じである。
ここでは、
神(かむ)さぶといな(否)にはあらず、
は、
年老いているからいやだというわけではない、
と注記があり(伊藤博訳注『新版万葉集』)、
「老いらくの恋」の遊び、
とある(仝上)ので、単に、
老いる、
意で使っている。
はたやはた、
は、
その反面、
そうはいうものの、
と注記がある(仝上)。
はたやはた、
は、
将や将、
とあて、
副詞「はたや」に副詞「はた」を続け、さらに強調する語、
で(デジタル大辞泉・学研全訳古語辞典)、
「はた(将)や」の危惧の気持を強めたいい方、
になり(精選版日本国語大辞典)、
もしかして、
もしかしたら、
ひょっとして、
もしや万一、
等々の意である(広辞苑・学研全訳古語辞典)。
はたや
は、
将や、
とあて、
「や」は疑問の助詞、
で、
み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜(こよひ)も我(あ)が独り寝む(万葉集)、
と、
もしかしたら、
ひょっとして、
あるいは、
の意(広辞苑・学研全訳古語辞典)で、
疑い・危惧(きぐ)の念を強く表す、
とあり(仝上)、
さ雄鹿(をしか)の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君がはた逢はざらむ(万葉集)、
の、
ひょっとすると、
もしかして、
やはり、
やはり…なあ、
といった意の、
はた(将)、
の危惧の気持を強めたいい方である(デジタル大辞泉)
はた、
は、
将、
当、
とあて(デジタル大辞泉)、
甲乙二つ並んだ状態や見解などが考えられる場合、甲に対してもしや乙はと考えるとき、あるいは、やはり乙だと判断するときなどにつかう(岩波古語辞典)、
他の事柄と関連させて判断したり推量したり、あるいは列挙選択したりするときに用いる語(精選版日本国語大辞典)、
邊(はた)、端(はた)、殆(ほとほと)のホトなどに通ず、其邊に近づかむとする意、将、為當の字を記すも、将(まさに)云々、為(セムトス)當(まさに)云々(セムト)の意なりと云ふ(大言海)、
一説に、「はた(端)」が語源で、「ふち(縁)」「ほとり(辺)」などと関係がある(広辞苑)、
等々の原意から、上述の、
さ男鹿の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君が当(はた)逢はざらむ(万葉集)、
と、
ひょっとして、
もしかして、
と、事の成否を危惧しながら推量するときに用いたり、
女もはたいと逢はじとも思へらず(伊勢物語)、
と、下に否定語を伴って
まさか、
よもや、
の意や、
男の御かたち・有様、はたさらにもいはず(源氏物語)、
と、
やはり、
さすがに、
思ったとおり、
はたして、
と、当然のこととして肯定する気持を表わしたり、
ほととぎす初声聞けばあぢきなくぬし定まらぬ恋せらるはた(古今和歌集)、
と、
他に考えてもやはり、
と、肯定する気持を感動的に表わしたり、
げにさせばやと思せど、数より外の大納言になさん事は難し、人のはたとるべきにあらず(落窪物語)、
と、先行の事柄と類似の事柄をさらに想定してみるときに用い、
そうはいうものの、
しかしながら、
打消表現と呼応して、それもだめだという気持を表わしたり、
是の諸の行相は一人に具せりとや為む、当(ハタ)多人に具せりとや為む(「蘇悉地羯羅経略疏寛平八年点(896)」)、
と、
はたまた、
それともまた、
あるいは、
と、二つの事柄のどちらを選ぶか迷う気持を表わしたり、
この男はた宮仕へをば苦しき事にして、ただ逍遙をのみして(平中物語)、
と、先行の事柄と類似の事柄を列挙するときに用いて、
また、
同様に、
と、それもまた同様であるという気持を表わしたり、
例の遊び、はたまして、心に入れてし居たり(宇津保物語)、
と、
その上にまた、
さらにまた、
いっそう、
と、さらに類似のことが加わることを表わしたりする(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)なお、
はた、
を強めるいい方には、
貧賤の報のみづから悩ますか、はたまた妄心の至りて狂せるか(方丈記)、
と、
将また、
とあて、
それともまた、
もしくは、
あるいは、
という意の、
はたまた、
という言い方がある。
将又、
とも当て、
夢か将又幻か、
という言い方をする(デジタル大辞泉)。
(「將(将)」 https://kakijun.jp/page/shou11200.htmlより)
「將(将)」(①漢音ソウ・呉音ショウ、②漢音ショウ・呉音ソウ)の異体字は、
将(簡体字)、 𪺟(同字)、 𭔬(俗字)、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B0%87)。字源は、
会意兼形声。爿(ショウ)は、長い台をたてに描いた文字で、長い意を含む。将は「肉+寸(手)+音符爿」。もと一番長い指(中指)を将指といった。転じて、手で物をもつ、長となって率いるなどの意味が派生する。持つ意から、何かでもって処置すること、これから何かの動作をしようとする意を表す助動詞となった。将と同じく「まさに……せんとす」と訓読することばには、且(ショ)がある、
とあり(漢字源)、「上将」「将軍」「将(ひき)いる」は、①の音、「将(もち)ふ」「将(と)る」「将(おく)る」「将(まさに)……せんとす」「将(まさに)……ならんとす」「将(はた)」などの意の場合は②の音、となる(仝上)。同趣旨で、
会意兼形声文字です(爿+月(肉)+寸)。「長い調理台」の象形と「肉」の象形と「右手の手首に親指をあて脈をはかる」象形から、肉を調理して神にささげる人を意味し、そこから、「統率者」、「ささげる」を意味する「将」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji1013.html)、
ともあるが、他は、
形声。寸と、音符醬(シヤウ)(は省略形)とから成る。「ひきいる」、統率する意を表す。借りて、助字に用いる。教育用漢字は省略形による(角川新字源)、
会意。旧字は將に作り、爿(しよう)+肉+寸。爿は足のある几(き)(机)の形で、その上に肉をおいて奨(すす)め、神に供える。軍事には、将軍が軍祭の胙肉(そにく)を奉じて行動した。その胙肉を𠂤(し)といい、師の初文。帥(そつ)もその形に従う。これを以ていえば、將とはその胙肉を携えて、軍を率いる人である。殷器には●を標識として用いるものがあり、王族出自の親王家を示す図象であるらしく、その身分のものが軍将に任じ、作戦の中核となった。將・壯(壮)の字に含まれる爿は、その図象と関係があるものと思われる。〔説文〕三下に「帥(ひき)ゐるなり」と訓し、醬(しよう)の省声とするが、醬は將声に従う字であるから、將が醬の省声ということはありえない。奬(奨)は將の繁文。將は訓義多く、字書に列するものは五十数義に及ぶが、将帥が字の原義である(字通)、
と、会意文字と形声文字に割れている。ただ、中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)に由来する、
「寸」+音符「醬」の略体、
との分析は、誤った分析である(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E5%B0%87)とし、
原字は「肉」+「廾」から構成される会意文字で、肉を差し出すさまを象る。それに音符「爿」を加えて「將」の字体となる。「すすめる」「ささげる」を意味する漢語{將 /*tsang/}を表す字。
とある(仝上)。
参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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