駒迎へ


秋霧の立野(たつの)の駒を引く時は心にのりて君ぞこひしき(藤原忠房)

の詞書(和歌や俳句の前書き)に、

兼輔朝臣左近少将に侍りける時、武蔵の御馬むかへにまかり立つ日、俄にさはる事ありて、……、

とある、

御馬むかへ、

は、

駒迎へ、

のことで、

毎年八月十五日、諸国から献上される馬を逢坂の関まで迎えに行く行事、

をいう(水垣久訳注『後撰和歌集』)。

逢坂、

は、

山城・近江国境にあった関、

を指す。

秋霧の、

は、

「立ち」にかかる枕詞、

立野の駒、

は、

武蔵国立野産の馬。立野は不明であるが、横浜市中区に同字の町名(立野)がある、

と注記する(仝上)。なお、

心にのりて、

は、

心にかかって、

の意、

「のり」は駒の縁語、

とある(仝上)。

駒迎へ、

は、平安時代以降、毎年八月中旬に、

駒牽(こまひき)の時、諸国から貢進される馬を馬寮(めりょう)の使いが、近江の逢坂の関まで迎えに出たこと、

をいい、近世には、

駒牽全体を指す語として用いられた、

とある(精選版日本国語大辞典)。

駒牽(こまひき)、

は、

駒引、

とも当て、

こまひき、

とも、

こまびき、

とも訓ませるが、文字通り、

馬を引くこと、

また、

その者、

を指すが、平安時代、毎年八月中旬に、

甲斐・武蔵・信濃・上野(こうずけ)の牧場から献上した馬を天皇が紫宸殿(ししんでん)で御覧になる儀式、

をいい、

天皇の御料馬を定め、また、親王、皇族、公卿にも下賜された、

とある。もとは、国によって貢馬(こうば)の日が決まっていたが、のちに一六日となり、諸国からの貢馬(こうば)も鎌倉末期からは信濃の望月の牧の馬だけとなった(仝上)。で、

秋の駒牽、

ともいう。

駒ひきの木曾やいづらん三日の月(去来抄)、

という句もある。また、それとは別に、

毎年四月二八日(小の月は二七日)に、武徳殿で天皇が馬寮(めりょう)の馬を御覧になった儀式、

をも、

駒牽、

といい、五月五日の騎射の準備として、

天皇が前庭を通る馬を御覧になり、その後で楽舞の演奏、饗宴が行なわれた、

ともある(仝上)。

引折(ひきをり)

で触れたように、天皇が武徳殿に臨幸して衛府の官人の騎射を御覧になるのが例であり、これを、

騎射の節、

ともよぶ(日本大百科全書)。騎射に先だつ4月28日(小の月は27日)には、天皇が櫪飼(いたがい 馬寮(めりょう)の厩(うまや)で飼養)・国飼(諸国の牧から貢進)の馬を武徳殿で閲する、

駒牽(こまひき)の儀、

が行われる(仝上)。ちなみに、

馬寮(めりょう)、

は、

うまつかさ、

とも訓ませ、

令制における官司の一つ。兵衛府の被官で、官牧から貢する官馬の調習・飼養および供御の乗具の調製などをつかさどる役所。左右に分かれ、各寮に頭・助・大少允・大少属の四等官のほか、馬医・馬部・直丁・飼丁などの官人を置く、

とある(精選版日本国語大辞典)。

駒、

は、

瓢箪から駒

で触れたように、

馬の子、小さい馬、

の意で。和名抄に、

駒、和名、古馬、馬子也、

とある。それが転じて、

馬、特に乗用の馬、

の意となる。

馬と同義になってからは、

足(あ)の音せずゆかむこまもが葛飾の真間(まま)の継橋(つぎはし)やまず通(かよ)はむ(万葉集)、

というように、歌語として使われることが多い、更に、転じて、「駒」は、

双六に用いる具、象牙・水牛角で円形に造り盤上に運行させる、

から、

将棋のコマ、

の意になり、そのメタファでか、

駒をそろえる、

というように、

自分の手中にあって、意志のままに動かせる人や物、

の意で使い、さらに、

三味線などの弦楽器で、弦を支え、その振動を胴に伝えるために、弦と胴の間に挟むもの、

の意となり、

駒をかう、

というように、

物の間にさし入れる小さな木片、

をも指すようになる。和語、

こま、

は、

コウマ(仔馬)の約(日本語の語源・大言海)、
コウマ(子馬)の約(岩波古語辞典)
小+馬の音韻変化(日本語源広辞典)
コマ(子馬・仔馬)の義(和句解・万葉代匠記・万葉考・和訓栞・語簏・大言海)、

と、

子馬、
小馬、

とする説が大勢だが、他に、

コトウマ(特馬)の義(日本語原学=林甕臣)、
カヒウマ(飼馬)の義(言元梯)、
コは黒、マは馬。古くは馬と言えば黑馬を連想したらしい(万葉集短歌論講=折口信夫)、
マは原義は畜類で、コマは小獣の義(日本古語大辞典=松岡静雄)、
貢馬のうちで最もすぐれていたコマ(高麗)渡来の馬を称していたのが、一般化したもの(宮廷儀礼の民俗学的考察=折口信夫)、

等々あるが、このうち、「高麗」と関わらせる説、

貢馬のうちで最もはすぐれていたコマ(高麗)渡りの馬を称していたのが一般化したもの(宮廷儀礼の民俗学的考察=折口信夫)、

は、「駒」の「こ」が上代特殊仮名遣いで甲類であるのに対して、「高麗」の「こ」は乙類であるので、誤りとされる(日本語源大辞典)。しかし、

うま

で触れたことだが、四世紀末から五世紀にかけて、朝鮮半島に出兵した倭国の大軍は、高句麗に大敗する。

短甲(枠に鉄の板を革紐で綴じたり鋲で留めたりした伽耶由来の重い甲(よろい))と太刀で武装した重装歩兵を中心とし、接近戦をその戦法としたものであったのに対し、既に強力な国家を形成していた高句麗が組織的な騎兵を繰り出し、長い柄を付けた矛(ほこ)でこれを蹂躙したことによるものと考えられる。歩兵にしても、高句麗のそれは鉞(まさかり)を持った者や、射程距離にすぐれた強力な彎弓(わんきゅう)を携えた弓隊がいたことが、安竹3号墳の壁画から推定されている。
 歩兵と騎兵との戦力差は格段のものがあり(一説には騎兵一人につき歩兵数十人分の戦力であるという)、これまで乗用の馬を飼育していなかった倭国では、これ以降、中期古墳の副葬品に象徴されるように、馬と騎馬用の桂甲(けいこう 鉄や革でできた小札(こざね)を縦横に紐で綴じ合わせた大陸の騎馬民族由来の軽い甲)を積極的に導入していった、

とあり、それまで馬の存在自体を知らなかったと思われる、

とある(倉本一宏『戦争の日本古代史-好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』)。

日本の在来馬については、日本在来馬に詳しいが、

日本在来馬の原郷は、モンゴル高原であるとされる。現存する東アジア在来馬について、血液蛋白を指標とする遺伝学的解析を行った野沢謙によれば、日本在来馬の起源は、古墳時代に家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島を経由して九州に導入された体高(地面からき甲までの高さ)130cm程の蒙古系馬にあるという、

としているので、高句麗大敗頃のことという時代背景は合う。

うま、

の由来は、

「馬」を「うま」と訓じるのは、中国語の「マ」(もしくは「バ」)が転じたものである。つまり和語にはあの動物を表す言葉がなかったのである。ほとんど見たこともなかったのであるから、それも当然である。馬のことを駒というのも、「高麗」つまり高句麗の動物という意味なのである、

としており(仝上)、

駒、

の、「高麗」由来という説は、上述したように、音韻上難があるが、渡来経緯は異なるかもしれないが、

うま、
と、
こま、

を別に扱う必要はないので、いずれも、朝鮮経由の可能性はある。大言海は、

コマ、

に、

小馬、

とあてるが、

古名に、いばふみみのもの(英語に云ふponyなり)、応神天皇の御代に、百済國より大馬(おほま、約めて、うま)の渡りたりしに対して、小馬と呼び、旧名は滅びたりとおぼし、神代紀の駒(コマ)、古事記の御馬(ミマ)の旁訓は、追記なり、

とし、

我が国、神代よりありし、一種の体格、矮小なる馬、果下馬(クワカバ)とも云う、

とする。

果下馬(クワカバ)、

は、いわゆる、

ポニー、

のことで、

朝鮮の済州島にて、カカバと云う、イバフミミノモノ、また小馬、

とする(大言海)。つまり、「こま」とは、

小馬、

であって、

子馬、

ではない、ということを強調している。ただ、

駒、

は、

子馬。小さい馬。牡馬(おすうま)をさしていうこともある、

とあり(精選版日本国語大辞典)、

子馬、

小馬、


ははっきりしないが、

オオマ(大馬)→ウマ、
コマ(小馬・仔馬)→コマ、

と、その大小から、二系統の由来、ということになるのだろう。しかし、転じて、

真蘇我よ蘇我の子らは馬ならば日向の古摩(コマ)太刀ならば呉(くれ)の真鋤(まさひ)(日本書紀)、

と、

こま、

は、

馬の総称、

を言うようになったことは確かである。なお、

「万葉集」では、「こま」「うま」の両方が見られるが、「うま」の方が優勢。しかし、平安~鎌倉時代の八代集では、「こま」が歌語として定着し、「うま」は人名に掛けて用いるといった特別な例外をのぞいて用いられなくなった、

とある(精選版日本国語大辞典)。

うま

で触れたことだが、

うま、

は、

ウマは古くからmmaと発音されたらしく、古写本では、「むま」と書くものが多い、

として、朝鮮語、満州語に関連する(岩波古語辞典)と想定している。また、新村出説に、

蒙古語mori(muri)、満州語morin、韓語mat(mus)mar、支那語ma(mak)などと同語源。馬自体が大陸から伝わったのとともに、音も伝わった(琅玗記)、

としている(日本語源大辞典)。さらに、

中国語のバイ(梅)・バ(馬)を国語化してウメ(梅)・ウマ(馬)という。「ウ」は語調を整えるための添加音であった。これに子音が添加されてムメ(梅)・ムマ(馬)になった。さらにム[mu]の母韻[u]が落ちて撥音化したため、ンメ(梅)・ンマ(馬)という、

ともある(日本語の語源)。確かに、馬とともに言葉も伝わったのだが、

こま、
も、
うま、

も、いずれも、

マ、

由来に見える。さらに、

平安時代以後は、歌謡には、馬をコマということが多い、

とあり(岩波古語辞典)、駒と馬は、混同されていったようだ。

「駒」.gif



「駒」 金文・西周.png

(「駒」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A7%92より)

「駒」 楚系簡帛文字.png

(「駒」 楚系簡帛文字(簡帛は竹簡・木簡・帛書全てを指す)・戦国時代 よhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A7%92り)

「駒」 中国最古の字書『説文解字』.png

(「駒」 中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A7%92より)

「駒」(ク)は、

会意兼形声。「馬+音符句(小さく曲がる、ちいさくまとまる)」

で(漢字源)、

身体の小さな馬、二歳馬、

を意味する。漢字の「駒」も、

子馬、

古馬、

の意味が区別されていないようである。

駒馬、

という言い方がある。わが国では、馬の総称として、

駒、

を用いるようになって以降、将棋の駒などの意で使うが、これはわが国だけの使い方である(漢字源・字源)。これは、

漢語に棋馬(キバ)、馬子(バシ)と云ふに因る、

とある(大言海)。ただ、「棋」(漢音キ、呉音ゴ・ギ)は、

棊、

とも書き、将棋のこま、の意もあるが、「碁石」の意味もある。

棊局、
棊子、
棊敵、
棊盤、

等々、何れも「碁」を指す。また、三味線などの弦を支えるのに、

駒、

というのは、

弦の乗るもの、

というところから来た(大言海)と見られる。

駒、

の意は、

馬の少壮なるもの、又、二歳の馬、

とあり(字源)、

五尺以上は駒、
六尺以上は馬、

としている(仝上)。なお、字源としては、他に、

会意兼形声文字です(馬+句)。「馬」の象形と「曲がった鍵の引っかかった象形と口の象形」(「言葉を区切る」の意味だが、ここでは、「クルッと曲がる」の意味)から、「クルクルはねまわる子馬、こま」を意味する「駒」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji2167.html

と、会意兼形声文字とするものもあるが、他は、

形声。「馬」+音符「句 /*KO/」。{駒 /*k(r)o/}を表す字https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%A7%92

形声。馬と、音符句(ク)とから成る(角川新字源)、

形声。声符は句(く)。句に、小なるもの、かがまるものの意がある。〔説文〕十上に「馬の二歳なるを駒と曰ふ」とあり、〔詩、周南、漢広〕の〔伝〕に「五尺以上なるを駒と謂ふ」とみえる。もと子馬をいう。犬の子を狗というのと同じ(字通)、

と、形声文字としている。

参考文献;
水垣久訳注『後撰和歌集』(Kindle版)
倉本一宏『戦争の日本古代史-好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで』(講談社現代新書)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
前田富祺編『日本語源大辞典』(小学館)
田井信之『日本語の語源』(角川書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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