胸別(むなわ)け
しなが鳥安房に継(つ)ぎたる梓弓(あづさゆみ)周淮(すゑ)の珠名(たまな)は胸別(むなわ)けの広き我妹(わぎも)腰細(こしぼその)のすがる娘子(をとめ)のその姿(なり)の(万葉集)、
の、
周淮(すゑ)の珠名娘子(をとめ)、
は、
土地の美女の名。伝説的女性らしい、
とある(伊藤博訳注『新版万葉集』)。似た伝承の、下総の、
真間手児奈(真野手児名 ままのてこな)、
については触れた。
しなが鳥、
は、
かいつぶりか、
とし、
ここは「安房」(千葉県南部)の枕詞、
だが、
かかり方未詳、
とする(仝上)。
梓弓、
は、
「周淮」の枕詞、
で、
「末」の意、
とする(仝上)。
我妹(わぎも)、
は、
主人公への愛称、
として使っている(仝上)とある。
胸別(むなわ)け、
は、
乳房の胸が張り出した女、
とある(仝上)が、
さを鹿の胸別(むなわけ)にかも秋萩の散り過ぎにける盛(さか)りかも去(い)ぬる(萬葉集)、
と、
鹿などが胸で草などを押し分ける、
のが原意で、転じて、
胸、
胸の幅、
の意とある(岩波古語辞典・精選版日本国語大辞典)。
乳房の胸が張り出した女、
というのは、かなりの意訳で、
胸の広い、
と訳す方が自然な気がする(https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_manyo&pkey=1738)。
すがる、
で触れたことだが、
すがる娘子、
は、
じが蜂のすがれのように腰の細い娘子、
をいい(伊藤博訳注『新版万葉集』)、
すがるをとめ、
は、
須軽娘子、
蜾蠃少女、
蜾蠃娘子、
とも当て、
じがばちのように腰細(こしぼそ)でなよやかな美しい少女、
をいう(精選版日本国語大辞典・広辞苑)、細腰の美女、
珠名娘子(たまなおとめ)、
の形容で、その、
珠名娘子(たまなのいらつめ)、
を、『万葉集』で、高橋虫麻呂が、
しなが鳥安房に継ぎたる梓弓末の珠名は胸別けの広き我妹(わぎもこ)腰細の蝶嬴娘子(すがるをとめ)のその姿(かほ)のきらきらしきに花のごと笑みて立てれば玉桙の道行く人はおのが行く道は行かずて呼ばなくに門(かど)に至りぬさし並ぶ隣の君はあらかじめ己妻(おのづま)離(か)れて乞はなくに鍵さへ奉(まつ)る人皆のかく惑へればたちしなひ寄りてぞ妹(いも)はたはれてありける、
と歌っている、
珠名、
は、
豊かな胸とくびれた蜂のような腰を持つ晴れやかな女性、
で、これを、
蝶嬴娘子(すがるおとめ)、
と呼び、
花が咲くように微笑み、立っていれば、道行く人は自分の行べきであった道を行かず、呼ばれもしないのに珠名の家の門に来た。珠名の家の隣の主人は、あらかじめ妻と別れて、頼まれないのに予め自分の家の鍵を珠名に渡すほどであった。男たちが皆自分に惑うので、珠名は、たとえ夜中であっても、身だしなみを気にせずに、男達に寄り添って戯れた、
という伝説に登場している(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%A0%E5%90%8D%E5%A8%98%E5%AD%90)。
すがる、
は、
蜾蠃、
と当て、
じがばち(似我蜂)の古名(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典・大言海)、
ジバチの異称(広辞苑)、
また、
はち(蜂)の異名(精選版日本国語大辞典)、
草木の花に睦(むつ)れて、露を吸う虻の類までを云ふ(大言海)、
広く蜂や昆虫の総称(岩波古語辞典)、
ともあり、
すがれ、
ともいう(広辞苑)。
じがばち科。じがばち。蜂。体長2センチ程の狩人ばち。蝶や蛾の幼虫を捕え地中の穴にたくわえる。黒色。腹部はくびれて細長く、赤色の帯がある。どろで巣をつくる、
とある(https://manyo-hyakka.pref.nara.jp/db/detailLink?cls=db_yougo&pkey=20072)。
ジガバチ、
は、
似我蜂、
細腰蜂、
と当て、
雌は幼虫の餌シャクトリムシなどを捕えて地中の穴に貯え、産卵後、穴をふさぐ、
が、
獲物を運ぶとき羽音がじがじがと聞こえ、他の虫を自分の巣に入れて似我似我と言い聞かせて育てると考えた、
ところから、
ジガバチ、
の名がついたという(精選版日本国語大辞典)。
すがる、
以外に
こしぼそばち、
じが、
とも呼ばれ(仝上)、
すがる、
という名の由来も、
鳴く聲を名とせる(大言海)、
とする説がある。
胸別(むなわけ)、
は、多く(広辞苑・岩波古語辞典・大言海・精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉)、
胸分(むなわけ)、
と当てる名詞で、上述したように、
鹿などが草木を胸で押し分けて行くこと、
だが、この動詞が、カ行下二段活用の、
胸分(むなわ)く、
で、
大夫(ますらを)の呼びたてしかばさを鹿の牟奈和気(ムナワケ)ゆかむ秋野萩原(万葉集)、
と、
鹿などが、草を胸で押し分ける、
意である(精選版日本国語大辞典・岩波古語辞典)。
「胸」(漢音キョウ、呉音ク)の異体字は、
胷、
とある(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%83%B8)。字源は、
会意兼形声。もと匈と書く。凶の字の凵印がくぼんだ穴をあらわし、×印はその中にはまりこんで交差してもがくことをあらわす。匈(キョウ)は、空洞を外からつつんださま。胸は「肉+音符匈」で、中に空洞をつつみこんだむね。
肺のある胸郭はうつろな穴である、
とある(漢字源)。同じく、
会意形声。肉と、匈(キヨウ)(むね)とから成る。「むね」の意を表す。「匈」の後にできた字(角川新字源)
会意兼形声文字です(月(肉)+匈)。「切った肉」の象形と「胸に施された不吉を払う印(しるし)と人が腕を伸ばして抱きかかえ込んでいる象形」(「むね」の意味)から、「むね」を意味する「胸」という漢字が成り立ちました(https://okjiten.jp/kanji282.html)、
と、会意兼形声文字とするが、他は、
かつて「会意形声文字」と解釈する説があったが、根拠のない憶測に基づく誤った分析である、
とし(https://ja.wiktionary.org/wiki/%E8%83%B8)、
形声。「肉」+音符「匈 /*KONG/」。「むね」を意味する漢語{胸 /*hong/}を表す字(仝上)、
形声。声符は匈(きよう)。匈は胸の初文。〔説文〕九上に匈を正字とし、「膺(むね)なり」と訓する。凶は死者の胸部に呪飾として×形の文身を加えた形。兇はその人、匈は側身形、胸は胸部をいう字。膺はおそらく抱擁の雍(よう)声をとる字であろう(字通)
と、形声文字としている。
参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫)Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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