あえぬがに


秋づけば水草(みくさ)の花のあえぬがに思へど知らじ直(ただ)に逢わずあれば(万葉集)

の、

あえぬがに、

の、

あえ、

は、

「零(あ)ゆ」の連用形、

ぬ、

は、

完了の助動詞、

がに、

は、

助詞、

で、

こぼれ落ちるばかりに、
消え入るばかりに、

の意で(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

はらはらとおちてしまいそうに、

ともある(広辞苑)が、

あふれるばかりに、

と解し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、

水草の花がこぼれ落ちるばかりに咲くように、私は溢れるばかりに思っているのに、

と訳している(仝上)。

あえぬがに、

は、

零(あえ)ぬがに、

とあて、

動詞「あゆ(零)」の連用形に、完了の助動詞「ぬ」と助詞「がに」の付いた語(精選版日本国語大辞典)、
「あえ」は「零(あ)ゆ」の連用形、「ぬ」は完了の助動詞、「がに」は助詞(広辞苑)、
動詞アユに完了の助動詞ヌの終止形がつき、さらに推量の助詞ガニの加わった形(岩波古語辞典)、

とあり、

花などが今にも散ってしまいそうに。こぼれ落ちそうに(精選版日本国語大辞典)、
はらはらと落ちてしまいそうに(広辞苑)、
こぼれ落ちてしまいそうに(岩波古語辞典)、

といった意になる。

あゆ、

は、

え/え/ゆ/ゆる/ゆれ/えよ、

の、自動詞ヤ行下二段活用で、

零ゆ、

とあてる(精選版日本国語大辞典・大言海・岩波古語辞典・広辞苑)が、

廣韻(「大宋重修廣韻」の略で、北宋・陳彭年等の編纂)に、

零、落也、

とあるように、

落ゆ、

とも当て(学研全訳古語辞典)、冒頭の歌のように、

機が熟して実や花が自然に落ちる、こぼれ落ちる、
(花・実などが)落ちる、

意だが、

すずろに汗あゆる心地ぞする(枕草子)、
まだしくは、血あゆばかり、いみじくのむらむとおぼして(落窪物語)、

と、

(汗、血、乳などが)したたる、したたり落ちる、流れる、

意でも使う。この他動詞形が、

あやす(零・落)、

で、

さ/し/す/す/せ/せ、

の、他動詞サ行四段活用で、

こぼす、
落とす、
したたらす、

意である。ちなみに、類聚名義抄(11~12世紀)には、

零、オツ・ハル・スズシ・フル、

平安後期の漢和辞書『字鏡』(じきょう)集に、

零、アメノアフレテヤウヤクウルホフ、

とある。

あえぬがに、

の、

がに

は、

之似(ガニ)の義、何々に似るばかりに、

の意とし(大言海)、

我がやどの夕蔭草の白露の消(ケ)ぬがにもとな思ほゆるかも(万葉集)、
秋田刈る借廬(かりいほ)もいまだ壊(コホ)たねば雁が音(ね)寒し霜も置きぬがに(万葉集)、

と、自然に推移する意の自動詞や、自然にそうなってしまう意の助動詞「ぬ」を承けることが多く、

ぬがに、

の形をとり(広辞苑・デジタル大辞泉・岩波古語辞典)、

疑問の助詞「か」と格助詞「に」との結合、

とされ(岩波古語辞典・仝上)、下の動作の程度を様態的に述べるのに用いられる。

…せんばかりに、
…するかのように、
…しそうに、

等々の意で使われる(仝上)。

「零」.gif



「零」 中国最古の字書『説文解字』.png

(「零」 中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎) https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%B6より)

「零(①漢音レイ・呉音リョウ、②漢音呉音レン)」の異体字は、

𠏡(同字⦆、𡈍(古字)、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%B6。雫がおちる、「零落」「零砕「零点」などの意の場合は①の音、「先零」という羌一族の族名の場合は②の音、とある(漢字源)。字源は、

会意兼形声。令は、清らかなお告げのことで、清らかで冷たい意を含む。零は「雨+音符令」で、清らかな雫のこと。また雨+〇印三つ(水玉)」で、霝(レイ)小さな水玉のことから、小さい意となった、

とある(漢字源)。同じく、

会意形声文字です(雨+令)。「雲から水滴が滴(したた)り落ちる」象形と「頭の上に頂く冠の象形とひざまずく人の象形」(「人がひざまずいて神意を聞く」の意味)から、神の意志(神意)によって「雨が降る」を意味する「零」という漢字が成り立ちましたhttps://okjiten.jp/kanji341.html

と、会意兼形声文字とするものもあるが、他は、

形声。雨と、音符令(レイ)とから成る。雨だれの意を表す(角川新字源)

形声。「雨」+音符「令 /*RING/」。「(雨滴が)おちる」を意味する漢語{零 /*riing/}を表す字https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9B%B6

形声。声符は令(れい)。〔説文〕十一下に「餘雨なり」、〔玉篇〕に「徐雨なり」とみえる。〔詩、鄘風、定之方中〕は都遷りを歌う詩で「霝雨(れいう)に既に零(ふ)る」とあって、雨を瑞兆とする。雨が降ることから、草木の衰え散ることを零落といい、人のうらぶれることをも零落・零丁という(字通)

と、形声文字としている。ちなみに、

「霝」.gif


「霝」 甲骨文字・殷.png

(「霝」 甲骨文字・殷 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9C%9Dより)

「霝」 金文・西周.png

(「霝」 金文・西周 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9C%9Dより)

「霝」 中国最古の字書『説文解字』.png

(「霝」 中国最古の字書『説文解字』(後漢・許慎)・小篆 https://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9C%9Dより)

「霝」(漢音レイ、呉音リョウ)の異体字は、

令(「令」の通字)、零(「零」の同字)、靈(「靈」の通字)、

とあるhttps://ja.wiktionary.org/wiki/%E9%9C%9D。字源は、

会意文字。「雨+三つの口」。三つの口は、数珠つなぎになって続く水玉を表す、

とある(漢字源)。

参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大槻文彦『大言海』(冨山房)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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