あらなくに
来て見(み)べき人もあらなくに我家(わぎへ)なる梅の初花(はつはな)散りぬともよし(万葉集)
の、
あらなくに、
は、
いるわけでもないのだから、
と訳し(伊藤博訳注『新版万葉集』)、
散りぬともよし、
は、
初花への愛着の逆説的表現、
と注釈し、
散ったってかまいはしない、
と訳す(仝上)。
あらなくに、
は、
有(あら)なくに、
とあてる(精選版日本国語大辞典)が
「あらなく」は、「あらぬ」のク語法(広辞苑)、
アラヌコト(有らぬ事)→アラナク(有らなく)(日本語の語源)
ラ変動詞「あり」の未然形+打消の助動詞「ず」の未然形の古い形「な」+接尾語「く」+助詞「に」(学研全訳古語辞典)、
「なく」は、打消の助動詞「ず」のク語法で、ないことの意。「に」は感動を表わす古代の助詞(精選版日本国語大辞典)、
動詞「あり」の未然形+打消しの助動詞「ず」のク語法+格助詞「に」(デジタル大辞泉)、
等々とあり、
ク語法、
は、
用言の語尾に「く」を伴って名詞化する、
もので、
見まく欲(ほ)り我がする君もあらなくに何しか來(き)けむ馬疲(つか)るるに(万葉集)
で、
(この世に)いないのに、
相見ぬは幾久(いくひさ)にもあらなくにここだく我(あ)れは恋ひつつもあるか(仝上)
で、
(そんなに長い間でも)なかったのに、
楽浪(ささなみ)の大山守(おほやまもり)は誰(た)がためか山に標(しめ)結(ゆ)ふ君もあらなくに(仝上)
と、
(もはやこの世に)いないのに、
等々、多くの場合、前後の関係から逆接の気持がこもって、
ないのに、
ないことなのに、
あるわけではないのに、
の意で使われる(広辞苑・学研全訳古語辞典・精選版日本国語大辞典・伊藤博訳注『新版万葉集』)。さらに、
乎布(をふ)の崎漕ぎた廻(もとほ)り終日(ひねもす)に見とも飽くべき浦にあらなくに(万葉集)、
で、
(日がな一日見ても見飽きるような)浦でもないのになあ、
苦しくも降り来(く)る雨か三輪(みわ)の崎狭野(さの)の渡りに家もあらなくに(万葉集)、
で、
(雨宿りする家も)ないのになあ、
等々、文末に用いられるときは詠嘆の意を含み、
ないことだなあ、
ないことよ、
といった意で使う(仝上・デジタル大辞泉)。
あらなくに、
と似た言い回しに、
小筑波(をづくは)の茂(しげ)き木の間よ立つ鳥の目ゆか汝(な)を見むさ寝ざらなくに(万葉集)、
の、
ざらなくに、
がある。これは、
(抱き合わなかった)仲でもないのに、
と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)ように、
「ざら」は打消の助動詞「ず」の補助活用の未然形、「なく」は打消の助動詞「ず」のク語法、「に」は助詞、
で、二重の否定によって婉曲的な肯定を表わし、
……ないわけではないのだが、
の意となる(精選版日本国語大辞典)。また、
賄(まひ)しつつ君が生(おほ)せるなでしこが花のみ問はむ君ならなくに(万葉集)、
みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆゑにみだれそめにし我ならなくに(伊勢物語)、
と使う、
ならなくに、
は、
「なら」は指定の助動詞「なり」の未然形、「なく」は助動詞「ず」のク語法(広辞苑)
断定の助動詞「なり」の未然形+連語「なくに」(デジタル大辞泉)、
「なら」は断定の助動詞「なり」の未然形(精選版日本国語大辞典)、
で、
……ではないのだものを、
……ではないのに、
の意で(広辞苑・精選版日本国語大辞典)、
もっぱら歌語として現われる。「…でないのだものを」は強めれば、「…ない以上は…であろう」となり、「ではないのに」は「…でないにかかわらず…なのは不審、残念」の意となる、
とある(精選版日本国語大辞典)。この、
あらなくに、
ざらなくに、
ならなくに、
などの、
なくに、
は、
打消しの助動詞ズのク語法ナクと助詞ニとの複合(岩波古語辞典)、
ズのク語法「なく」に助詞「に」の付いたもの(広辞苑)、
打消の助動詞「ず」の上代の未然形+接尾語「く」+助詞「に」、「なくに」の「に」については、格助詞とする説、接続助詞とする説、間投助詞とする説などがある(学研全訳古語辞典)、
打消しの助動詞「ず」のク語法「なく」+格助詞「に」、「に」は詠嘆の終助詞とも(デジタル大辞泉)、
打消の助動詞「ず」のク語法「なく」に助詞「に」の付いたもの(精選版日本国語大辞典)、
否定の助動詞のヌの延(大言海)、
などとあり、「あらなくに」で挙げた、
苦しくも降り来(く)る雨か三輪(みわ)の崎狭野(さの)の渡りに家もあらなくに(万葉集)、
の、
(宿りする家も)ないのだなぁ、
と訳す(学研全訳古語辞典)ように、文末に用いて、打消に詠嘆の意を込めて言い切り、
……ないことだなあ、
……ないのに、
……ないものを、
と、詠嘆的な打消しを表わし、
あかなくにまだきも月の隠るるか山の端(は)にげて入れずもあらなむ(伊勢物語)、
の、
(まだ満ち足りないのに)もう隠れてしまうのか、
と訳す(石田穣二訳注『伊勢物語』)ように、文末・文中で用いて、打消に、逆接の意を込めて言い切ったり、下に続けたりして、
……ないことなのに、
……ないのに、
と、逆接条件の帰結部を切り捨てた形で、詠嘆の意を表わし、
松の花花数(はなかず)にしもわが背子が思へらなくにもとな咲きつつ(万葉集)、
の、
(いらっしゃらないのに)花はいたずらに咲きつづけて、
と訳す(伊藤博訳注『新版万葉集』)ように、「に」に逆接の役割があり、倒置表現の和歌の末尾に用いて、
……ないのだから、
ない以上は、
……ないうちに、
……ないのに、
ないにもかかわらず、
と、打消に理由の意を添える(精選版日本国語大辞典・デジタル大辞泉・学研全訳古語辞典)使い方をする。ただ、
上代に盛んに用いられたが、中古以降は、伝統的な語法として、和歌に用いられる他はまれになった、
とある(仝上)。
参考文献;
伊藤博訳注『新版万葉集』(全四巻合本版)(角川ソフィア文庫Kindle版)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)
ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95
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