2013年03月27日

自分でいる


日曜日に基本のきに参加した。そこで得たものについては,先日書いたが,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2013-0218.html

再度参加した。そこで学んだことは繰り返さないが,実は今回発見したことがある。

ひとつは,わずか10分くらいの間に,その場にいた人に印象をカードで手渡すというワークがあった。そこで僕がもらったのは,

自信がある
情熱的
影響力

であった。それを使って,自己紹介するというプレゼンの練習課題が与えられた。たとえば,

「僕の特徴は,自信がある,情熱的,影響力です」

といい,その中の一つを選んで,エピソードを伝えて,自分の特徴は,と繰り返すというパターンなのだが,僕は瞬間,自信を選んだが,頭で描いたのは,「過信」になりがちな自分を語るということであった。

しかし,人のプレゼンを聞いているうちに,それを選んでくれた人に,それは間違いですと伝えるようなものだと感じたことが一つ。

いま一つは,それはプレゼントして,相手に何を伝えたことになるのか,と考えると,そのままストレートに自信がある,という自分の経験を伝えたほうがいいと考え直して,「どんなオファーにも対応してプログラムをでっち上げる」という,いつかここで書いたこと,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11122506.html

を話した。

癖のように,まず謙虚さから行く傾向があるが,それはある意味卑屈な自分を気づかず披露しているところはないのか,と気づいたのだ。そのままの自分ということは,防衛的に鎧(謙虚さや謙譲はある意味,防御をとっている)を捨てて,どう見られても,こういう自分ですとさらけ出せることだ。その方がはるかに意思と覚悟がいる。

プレゼンの方法として,PREP法というのを学び,それを何回か,テーマを変えて繰り返した。

たとえば,好きな場所,ということで,

①Point 僕の好きな場所は飛騨高山です。
②Reason なぜならば,僕はあそこで,小3から小6の二学期まで過ごしたのですが,一番遊びまくった,思い出深い場所だからです。
③Example たとえば,本町通りの裏道で,近所の子供たちが,夜遅くまで缶けりしたり,走り回っていて,西小学校の朝礼で,「本町の子供たちは夜遅くまで遊びすぎ」と注意された位なのです。
④Point だから私の好きな場所は,飛騨高山です。

とやったとする。しかし,それはただ自分の子供時代の思い出を語っただけだ。それを,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10973893.html

で書いたように,自分の好きな場所として語るのか,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11049581.html

で書いたように,自分の故郷として語るのかで,伝えるメッセージが変わる。

前者で言えば,自分が珍しくとけこめた場,ということで,自分が自分でいられた場所,自分の解き放たれる場,といったような場の持つ効果としてメッセージを伝えることになる。しかし,後者だと,僕には故郷と呼べるものがないが,みんなが持っている故郷をイメージすると,高山が浮かぶ,というように,それぞれの心の故郷に触れるように伝えていくことになる。

例示の流れでは,そこが中途半端で,鈴木安子さんからのフィードバックの,「メッセージ性を考えると」の肝はそこなのだろうと受け止めた。当然,それによって,出す例示のニュアンスが変わり,前者だと,いつも自分が夢に見る話しを出すだろうし,後者だと,普通の故郷で体験するような,遊び,祭,相撲,スキーと,体験したすべてを伝えることになるだろう。

自分を伝えようとするときも,照れず,飾らず,ありのまま,たんたんと,というのも悪くないが,開示そのものを掘り下げなければ,「自分でいる」ということは伝わらない,ということではないか。それは,伝えるときの自分への切り込み方なのではないか,と思う。ただ漫然と自分について語るのではなく,自分のどの側面をどう切り込んで,描き出せるか,「飾らない」というのは表面をなぞることではなく,不出来な自分を「こんな不出来具合」と見せるには,「こんな」に工夫がいる。それがメッセージであったり,テーマであったりする。でないと,漫然と語ったにすぎない。それは,ただ見えている部分を見せただけでは,そんなことしなくても,相手には「わかっている」部分に過ぎない。それでは伝えていることにならない。あくまで,自己表現なのだから。

そんなプレゼンを体験しつつ,自分の中で気づいたことがある。

プレゼンテーションでも自己紹介でも,自分について語るにしても,大勢の前で,あがったり,緊張したり,頭が真っ白になったりするのは,準備とか場数ということを別にすると,大勢のことに「見られている」という受け身の状態というか追い詰められた状態でいることが大きい。

で,逆に意識的に,こちらが大勢の側を「見る」「見ようとする」視線を取る。そのことによって,多少の落ち着きというか,マインドの変化が起きる。それは全開確かに確かめたはずなのだが,そのはずなのだが,今回気づいたのは,自分は,見られることには結構平気で,逆に人を見ようとすることの方に照れや羞恥心が起きるらしいということだ。

意識を切り替えて,一人一人に目線を送ると同時に,心の中がざわついて,落ち着かない。目が合った瞬間,もう逃げたくなる。目をそらしたくなる。それなら,誰かを見ているようで,見ていないような,目線をさっと流していた方が気が楽だ。

どうやら,自分は,ひとに見られるときには自分でいられるのに,ひとを見ようとするとき,特に特定の一人一人と目を合わそうとするときに,自分でいられなくなるらしい,ということなのだ。

それは,見られるとき自分を解き放てるのに,見るときは,自分の思いや感情にとらわれやすい,ということらしい。というか,少し思い入れが過ぎる?そこでは自由ではいられないのは確かで,逆に相手の眼に捉えられてしまっている自分がいるようなのだ。いや,ではなく,相手に捉えられていると思い込む自分にとらわれている…。

そして,どうやら,ここに自分のコミュニケーションにおける難所も一緒にある,ということらしい。コミュニケーションにいつも悩むのは,この自分の思い入れ,もっと踏み込むと,自己幻想とのギャップに,独り相撲で,勝手に混乱しているらしいということなのだ。

なぜなら,その人を「見る」というのは,その人と会話を交わすことだ。会話を交わす,というのは,心を交わすことだ。その途端,自分の中に自己幻想というか,自分の声を聴いている,いわば,自分に矢印が向いてしまうらしい。

やばい!

今日のアイデア;
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#基本のき
#鈴木安子
#PREP法
#見る
#見られる
#プレゼンテーション
#コミュニケーション
#メッセージ性
#自己表現

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2013年03月31日

生き方が出る


確か,NHKの特別番組で,高倉健が,「その人の生き方が出る」と,演技について語っていたのを覚えている。その時,高倉健は,亡くなった大滝秀治との僅か一言三言のやり取りに,感動して涙ぐんでいた。そこで大滝秀治という人物を,丸ごと受け止め,そのわずかなセリフに,大滝のすべてを注ぎ込んだ,人生を見た,というと大袈裟か。

では,翻って,役者でも,著名人でもない,平凡な自分にとって,おのれの生き方が出る場面とは何か。

ものを食べているときの居ずまいか,
歩いている姿勢か,
ひととしゃべっている格好か,
人を口説いているのめりこんだ口吻か,
些細なことで口論している顔つきか,
肩が触れた程度でいらついている狭量な身構えか,

いやいや,その人の平生の行儀や居ずまいではないし,その人の人品骨柄,出自のことでもない。どんな生まれであろうと,どんなにお行儀が悪かろうと,その人自身の生き方なのだ。あるいは生きざまと呼ぼうか。どんな覚悟で生きているか,その生きざまがあらわに出るのはどういうときか。

たぶん,ひとつ思いつくのは,危機の一瞬だ。非日常になった時,どんな身構えが取れるか,周章狼狽するか,人を押しのけてでも前へ出ようとするか,見かねてわが身を顧みず誰かを背負い込むか,いずれが正しいとか間違っているとかを言うつもりはない。そこに,その人の生きざまが出る,というまでだ。そこで,道徳的なもの言いをする,安全なところから人をけしかけたりけなしたりするタイプの人間が大嫌いだ。戦争を煽る政治家が,真っ先に逃げ出すわけにはいかないことも,特攻隊に涙する政治家は,政治自身が(おのれ自身が)あたら若い者を無理や死地に赴かせるかもしれないことを顧みもしない。映画監督の黒澤明は,戦争中,コネを使って徴兵を逃れた。いわばずるく立ち回って生きのびた。そのことを戦後隠し通した。是非はともかく,そこに生きざまが出ている。どんな傑作を書こうと,どこかにその生きざまの卑しさが出る。

もうひとつは,本音で対面し,対話するときだ。コーチングしかり,カウンセリングしかり,討論しかり,インタヴューしかり,告白しかり,本気で叱るときしかり…。そのとき,おのれがさらけ出される。何も転移・逆転移だけが,おのれがさらけ出されるシチュエーションとは限らない。自分だけが,クライアントの何かに,たとえば,一言,一場面,ある感情等々に反応する。しかし,僕は反応することを悪いこととは思わない。それが,ほかならぬ自分自にちがいないのだから。だから,ファウンデーションを整えたり,自分軸を強化したりする化粧が嫌いなのだ。それは,反応する自分を隠そうとする姿勢だ。自分は隠そうとするのに,クライアントにそれに向きあえなどと,どの口が言うのか。むしろ,クライアントに反応する自分を,その場でさらけ出し,僕は,それに反応してしまいました,といえることの方が大事だ。そう口にしたり,さらけ出していることを自覚することで,その自分の振れや揺れは,自分の振り幅(揺れ幅ではない!)になる。自分のキャパシティになる。のりしろになる。

しかし,それを隠した瞬間,自分は縮んでいく。ますます隠す。あるいは逆に自分を大きく見せようとする。黒澤明が『トラトラトラ!』で躓いたように。その歪みはいずれ,自分に返ってくる。

僕は,いま絶えず,凛としていたい,凛とありたいと思っている。思っているだけだから,生きざまにはなってはいない。あまり好きではないが,松蔭が,草莽崛起といった,草莽の心根に近い。草莽とは草茅,草むら,雑草である。しかし心は千古の憂いを懐く慷慨の処士。威武も屈する能わず,貧賤も移すこと能わぬ,士でなくてはならない。ただし士は,二本差しを意味しない。どんなやくざな奴も,だらしないやつも,士道は「胸」にある,でなくてはならない。やたら勇ましい,大言壮語の猪武者が大嫌いである。それは侍ごっこという。勇ましいことを言うやつに限って真っ先に逃げる。どこかの元都知事が典型だ。暴虎憑河し,死して悔いなき者は,吾ともにせざるなり,である。

それは,人に左右されず,揺るがず,立っている。その位置を保ち続けている。

空海の詩に,

一身独り生歿す
電影是れ無常なり

というのがある,しかもなお,そこには,

遮那阿誰が号(な)ぞ
本是れ我が心王なり

と言い切る自負がある。わが身は一人ぼっちで生まれては死んでいく,まさに稲光のように一瞬のうちに,と言いながら,大日如来とは,元はと言えば,自分の心のことだ。ここにある,と言い切れる自負がいい。士道とは,ここにあり,と胸をたたく気概である。

まあ,空海になぞらえるのは,不遜のきわみで,口幅ったいが,

乾坤に独り
凛として
起つ

こんな心境でありたい。そして,そういう生きざまでありたいし,死にざまでありたい,と念じている。

あるいは,杜甫の,

飄然
思いは群れならず

でもいい。

参考文献;
篠原資明『空海と日本思想』(岩波新書)
村上一郎『草莽論』(大和書房)
四方田 犬彦『「七人の侍」と現代』(岩波新書)

今日のアイデア;
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#篠原資明
#空海と日本思想
#村上一郎
#草莽論
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#吉田松陰
#草莽
#生き方
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#死にざま
#杜甫

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2013年04月07日

激しい怒り



久しぶりに,吹き出すような怒りを感じた。人との間である程度の齟齬があるのはやむを得ない。多少の行き違いもある。それが積み重なると,相手が,自分の何々が気にいらないせいなのだ,と勝手にその原因を邪推する。その瞬間に,激しい怒りを覚える。勝手な思い込み,そしてこっちが考えてもいない理由で齟齬が起きていると勘ぐるな,といういら立ちが,噴出して,激怒に変わる。

それで一瞬で空気が一変するのを,何度も経験してきた。

もっとも最近怒りやすくなっている気がする。喜怒哀楽が少し尖っている。これは治療のためステロイド剤を飲んでいることに起因しているのかもしれない。どうしても,テンションが通常より上がるため,感覚センサー,感情センサーの感度が尖る。そのせいもあるのではないか,という気がしている。最近ずっと穏やかな人間になってきていると,思い込んでいたのだが。

しかし,思えば,社会人としては,稀有なくらい,激怒することが多い人間であった。余り周囲の権威を慮ったり,損得勘定をしないせいなのかもしれない。いや,怒りが沸騰したら,損得なんて念頭から消えてしまう。その位激しく怒る。ま,人間が小さいせいに過ぎないが。

平生は,自分で言うのもなんだが,穏やかな人間だと思っている。時には,普通なら怒ることにもあまり目くじらを立てないほど,鈍感なこともある。

それが,怒りが爆発するのは,たぶん,いくつかのパターンがある。

ひとつは,くだくだと,自分の落ち度をつかれたり,もうそんなことを忘れているのに,腹を立てているのではないか,と邪推して,そのことをねちねちと繰り返されると,面倒くささと,いい加減にしろ,という思いで,両者の間の隙間を一気に広げるように,怒りを爆発させる。今日のは,それだ。もうそのことをこちらは何とも思っていないのに,まだこちらはそれを根に持っているのではないか,と勘繰られ,そこをつついて広げようとする。こちらとのギャップが,大きすぎて,「そんなことを思っていない」と言えば言うほど,何かかえって言い訳をしているようで,こちらの思いとは齟齬を大きく,その微妙な食い違いが説明しようがない。で,進退両難,主観的にはにっちもさっちもいかない気がして,切れてしまう。

いまひとつは,理不尽な言いがかりだ。これは,会社人生活最大の爆発だ。三十代,その会社の実力者に,進行途上の仕事について,自分の意見として言うのではなく,誰それが言っていたというような形で,理不尽な言いがかりをつけられた。もし,その人が,自分の意見として言ったとしたら,反論はしたかもしれないし,議論にはなったかもしれないが,そこまで激しい怒りを感じなかったのかもしれない。まだ完成していないのだから,それを修正する余地があり,自分の中でも,結論がでず,どうするか迷っている部分についての,言いがかりであった。しかも,その言い方が,「だから,全てだめ」というような言い方であった。しかし,ここには,上位者や責任あるものも取るべき態度についてのこちらの価値観なり期待像があり,その他人事のような言い振りに,カチンときたのが,発火点なのかもしれない。

またもうひとつは,これもよくあることなのだが,怒りというより,切れる,というのに近い。たとえば,何かを提案し,それで通った後に,追加でいくつか要請が来る。で,それに応える。それを何度が繰り返すうちに,あるとき,それはいいんだ,こちらで解決できる。それがお願いしたいことではない,と何というのか,いつの間にか,向こうの要請に応えようとしていたはずなのに,こちらからのお願いのようにすり替わって,主客が転倒してしまうケースがよくある。はっきり言うと,面倒になる,あるいは,邪魔くさくなる,うるさくなる,という感じで,「わかりました。では降ります」と言ってしまうことがある。積み上げた積み木を,こちらで蹴散らしてしまう感じだ。相手はたぶんびっくりしているだろうが,知ったことか,という感じになる。

この頃はあまりなくなったが,もうひとつあるパターンは,世の中の理不尽さや非道への激しい怒りを感ずることがあった。例えば,契約社員が理不尽に首を切られたり,言われない理由で上司が言いがかりをつけている場合,あるいは,不当な人事異動に対して,一種の正義感で,口を出すケースがあった。その役割でも立場でもないのに,のこのこしゃしゃり出て言って,一言口を出す。言ってみると,茶碗に手を突っ込んで引っ掻き回すみたいな感じだから,事態をこじらしてしまう。この場合の怒りは,静かな怒りで,場違いなところに,立っている,ということをわかっていて,あえてそこに立っている。言ってみると,蛮勇に近い。ただ本人は,別にそう思っていないので,冷静に理非曲直を口にしている。
 義憤という言葉が近いのかもしれない。「義を見てせざるは勇無きなり」という類だ。例えば,リクルートスーツを強いている癖に,最近の若い奴は創造力がないとほざく人事担当者がいる。ないのはお前だ!と怒鳴りたくなる。個性をふんだんに振るっていいと言われたら,いまの若い人の多くは,そこらのサラリーマンのオヤジよりはるかに個性的な感性をもっている。ダンスのセンス,音楽のセンス,ファッションのセンス等々。それを発揮させる機会も与えず,非個性化リクルートスーツだからかえって個性が掘り出しやすいなとど理屈を捏ねて,見抜けぬ自分を棚に上げ,創造性がないなどという。こんなファッションを強い,意味ないお辞儀やもてなしを強要する会社に未来はない。もはやそれ自体がガラパゴスなのだと気づいていない。あきれるより何より,そんな会社はダメだとつくづく思う。個性のないところに創造性はない。個性のない会社に未来はない…とまあこんな具合だ。

だいたい自分の怒りのパターンは,こんな感じだ。もちろん,どの怒りも,REBTではないが,自分が起こしていて,相手のせいではない。自分のイラショナルビリーフのせいだと,REBTなら言うだろうが,必ずしもそうではない。ラショナルかイラショナルかという区分自体が,イラショナルなのだ。

ただ,いずれのパターンの場合も,その場を凍りつかせることが多い。その位激しい怒りを爆発させる。しかし自分では,それを望んでいるのではない。主観的には,やむを得ざる仕儀にて,そうなったという感じで,怒りの後,立っている自分の立ち位置に戸惑うことが多い。怒りに任せて,こぶしを振り上げたのだが,別に冷静に思案し,作戦を立てているわけでもないので,一の矢の次がない。二の矢,三の矢の用意がない。

その意味で,怒った後は,間抜け面をして棒立ちになっている。その一瞬で,醒めているということかもしれない。「人間の器量はどの程度のことを怒ったかによって測れる」「何に怒るかで,その人の器量がわかる」ともいう。おのが器量の小ささに,その瞬間気づくというべきか。「怒る時に怒らなければ,人間の甲斐がありません」とも言うが,しかしどんな怒りも,徒労感を伴う。

ならぬ堪忍するが堪忍

とはよく言ったものだ。

一朝に忿(いきどお)りにその身を忘れて以てその親に及ぼすは惑いに非ずや

ま,そこまでの激しい怒りは,まだ一度しかないが,しかし怒らぬ如くはない。

過ちて改めざる,是を過ちと謂う,と。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#貝塚茂樹
#論語
#REBT
#ラショナルビリーフ
#イラショナルビリーフ
#ビリーフ
#義憤
#正義感

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2013年05月02日

「問い」の威力


先日,【第4回 月刊☆西澤ロイ 人生を変えるコトバの宇宙トークライブ】に参加した。テーマは,「深堀力」。

http://www.facebook.com/home.php#!/events/272143256254058/

深堀力とは,「本質にたどりつく力」ということで,表面をなぞるのではなく,深く,掘り下げて,本当の問題とは何かを掘り下げていく,ということが主題。そのために,おおよそ,
①どういう問いかけをするか,
②「その何が問題ですか?」という問いと「なぜ?」という問い,
③「できるか」「できないか」の二分法を脱する問いかけ,
④実現のために何を,どういう順序で,という問い,
の流れで,(結果的に)トークライブが進められたように思う。

最初に,悩みにしろ,問題にしろ,それを掘り下げる時,その構造は,一般的には,たとえば,ありたい状態(あるいは期待する状態)と現状とのギャップという言い方をする。そのギャップが,当人にとって(ほかの人には問題であるとは限らないが)問題になるのは,本人にとって,そうなりたい,そうありたいと意識しているからであって,それを求めていなければ,そもそもギャップ自体があろうとなかろうと,当人にとって何も問題にはならない。

いやいや,そもそも問題というのは,人が,自分の求めているものといまの自分との間の乖離を意識して初めて問題や悩みになる。問題に焦点を当てるのではなく,「なりたい状態」や「ありたい状態」に焦点を当てると,それが本当に求めているものなのか,求めているとして,どのくらい切実なのかによって,問題の深刻度は,異なってくる。

つまり,問題は一般的にどこかに存在しているのではなく,

・自分の心の中にしかない
・自分の心がつくりだしている

というわけだ。で,ロイ式質問に意味が出てくる。

その何が問題ですか?

この答え方には,ふたつの切り口があるように思う。

ひとつは,そこで起きている問題(現象)や障害,厄介事を,より具体化して,自分にとっての問題の焦点を絞っていくやり方だ。これがロイさんが,こう問う意味を説いていた側面だ。ただ,思うに,この問い方自体には,

「それって問題なの?」というニュアンス(問題なんてあるの?)

「そのどこに問題があるのですか?」という問題そのものを掘り下げるニュアンス(それを問題にする理由は何?)

「その問題(にしている根拠は)何ですか?」と問題にしている意味を問うニュアンス(それを問題にする意味は何?)

の三つがあり,その意味では,単に問題の,問題の。問題の…を,ただ問題を具体的に芋づるのように掘り下げながら,同時にそれを問題にする(自分にとっての)拠って立つ根拠(何のためにそれを問題にしているのかということ)を問い詰められていく部分が言外に含まれていて,結構応える側には,自分を掘り下げる威力がある。

しかしこの問いには,もう一つ別の切り口があるように思う。実は,そう問われたとき,その自分が問題にしている問題の構造自体が問われているのではないか。問われているのは,ギャップと考えている幅そのものなのではないか。

なぜなら,ここには,さらに二つの意味があるように見えるからだ。

一つは,現状が,自分で考えるほど,「ありたい状態」とかけ離れているのか,という自分のいまの現状認識(のレベル)への問いかけであり,

いま一つは,解決するに(悩むに)値するほど,その「ありたい状態」や「ほしい状態」「求めている状態」が自分にとって切実で,意味があるか,である。

このとき焦点を当てているのは,自分の求めているものであり,自分の現状であり,自分の認識構造そのものになる。ここに焦点を当てていくと,自分の求めているものの問い直しになり,問題の仕方,問題の構造自体そのものに焦点が当たることになる。

そうすると,自分の思うより,現状のレベルが上り,それならこうすればそれが実現可能だと,解決の道筋が見えるかもしれない。あるいは,逆に求めているもののレベルが,もっと上だということに気づくかもしれない。いずれにしても,問題にしているギャップの幅自体が変わることになる。

ところで,

その何が問題ですか?

という問いは,一見「なぜ?」と問うのと似ているが,「なぜ?」という問いは,自分を責める槍になることが多い。「何でそれしきのことができないのか!」「それができない理由はなんなの!」と,問うのではなく,(できて当然と問う側が求めているので),責めているようにしか,聞き手には受け取れないニュアンスになる。

だから,「なぜできないのか?」ではなく,「何がそれをさまたげたのか?」「何がそうさせたのか?」「何があったの?」といった,原因を外に(あるいは操作可能なものに)求める問い方が有効と言われるように,「何」によって,自分(自身のあり方や能力一般)にではなく,外(それができなかったスキル・判断・行動,あるいは外的要因といった変えられる部分)に要因を探させるニュアンスが含まれている。

では,ダイレクトに,「なぜ?」と問う効果はどうなのか。

シンプルに,「なぜなの?」でも,すでに言ったことと重複するが,

①「なぜなの?(こんなことが,あるいはできてあたりまえなのに等々,なぜできないの?)
②「なぜなの?(シンプルにできない理由を聞いている)

の二つニュアンスのがある。

①は,あくまで,問う側が,自分の土俵(あるいは自分のレベル,自分の基準,自分の正解)から,評価して,正しているので,一見文字面だけ身体と,問いかけているように見えるが,これに音声,態度が含まれると,答えを求めているのではなく,出来なかった(言)訳を求めている。

②は,問う側が,相手に注意を向け,出来ない理由を聞いている。そのとき,問う側は,(この場合,必ずしも,一緒の土俵にいるかどうかが問題ではないが)相手と一緒に理由を探そうとしているニュアンスがある。

この場合,②の「なぜ」という問いに向き合うことで,自分とあるいは自分の現実と向き合うことを求められる。その意味では,「なぜ」の問いには,①の突き刺す威力が潜在的にはある,と言えるのかもしれない。

さて,そこで,現実的な課題がクリアになった段階で,それを「できない」ではなく「できる」ようにするには,何をどうクリアしていけばいいか(どうやって実現(解決)するか?)が,問題になる。

ロイさんが挙げた例でいうと,自転車に乗るために,通常ふたつのことを一緒にやっているために,なかなかうまくいかないのだという。

ひとつは,バランス
いまひとつは,ペたるをこぐ

たとえば,(自転車の車高を下げ)脚で地を蹴りつつ,自転車を移動させることで,バランスを養い,その後で,ペダルをこぐ練習をする,とステップを二つに振り分ければ,簡単に覚えられる,という。

ここにあるのは二つの意味のような気がする。

①ひとつは,めざす目標を要素分解する(これも問いである。目標を実現するためにどういうスキルが必要か?と問い,ブレークダウンしていく)。それを達成するために必要なスキルに,細かく分解することで,ひとつひとつのクリアすべきスキルのハードルを低く,達成可能なものにする。

②いまひとつは,めざす目標との距離を,階段状に,いくつかの目標を小さなステップに分解する(これも問いである。目標を実現するためにどういうスキルが必要か?と問い,ブレークダウンし,それをどういう順で身に着けたらいいか?と問い,手順化していく)ことで,一つ一つクリアすべきステップの高さを小さく積み重ねていくことで,一見遠い目標を,一歩一歩登っていけるように工夫する。

②は,よく言うスモールステップ化で,ひとつひとつのステップの高さを小さく分解することで,一見高い目標も,ひとつひとつは,達成可能なハードルにすることができる,ということだ。ここには,順序というか,時系列の感覚が入る。例えば,目標までの大きなステップを,たとえば,A,B,Cとあったとし,それぞれを,Aを,a1,a2,a3,a4,a5と小さなステップに分解し,Bを,b1,b2,b3,b4,b5と小さなステップに分解し,Cを,c1,c2,c3,c4,c5と小さなステップに分解する(さらに,a1をもっと小さなステップにすることもある)と,a1の次にa2とい,順次,シーケンシャルなステップアップの連続になっていく。

しかし,現実に何かを習熟していくときは,必ずしもそうはならないことは,経験上直観的にわかる。

たとえば,これを(ロジカル)ツリー状に置き換えてみるとわかりやすい。目標の下の,第一レベルがA,B,Cに(ABCをクリアすれば目標が達成できる,という意味で,目標達成の手段=必要スキルとなる),次に,それぞれA,B,Cの下に,第二次レベルが,たとえば,Aの下は,a1,a2,a3,a4,a5,Bの下は,b1,b2,b3,b4,b5,Cの下は,c1,c2,c3,c4,c5と,各手段=スキルがぶら下がる。もっとスモールステップ化すれば,その下に第三次がツリーとなる。この時,各要素は,必要スキルというより,目標達成するための手段と言い換えてもいい。こうツリー状に配置することで,少なくとも,まず,シーケンシャルな手順(何から,どういう順番で)は消えて,同列になる。

しかも,こう書くと,一見,a1,a2,a3,a4,a5,b1,b2,b3,b4,b5,c1,c2,c3,c4,c5とは,それぞれ別のものになるように見えるが,何かを達成するとき,それが営業目標でも,利益でも,あるいは恋の成就でも,そのための手段は,別のシチュエーションで同じものを必要とするということはある。似たスキルないし手段が,いろんなところで必要になるはずなのである。たとえば,自転車で言えば,地を蹴ってバランスよく自転車を操作するには,ハンドル操作が重要になる。それは,ペダルをこぐときも,舵を取るという意味で欠かせないはずである。

つまり,必ずしも,順序立てた,時系列のステップにはならない。同じスキルが,少し形を変えて,別のところで必要になるし,すでに前の段階でそのスキルがクリアされているかもしれないのである。

その意味で,スキルそのものだけを取り出してみると,順序や時系列に乗らない,タイムレスな部分があり,スモールステップ化を厳密に手順化しすぎると,同じことを繰り返したり,すでに身に着けたことを再度やり直すという矛盾が出てくる。そうなれば,かえって,成長や上達を妨げて,意欲を削ぐことになる。

その意味で,似たスキルの集合を,リストとしてつくっておいて,それと対比して,ひとつひとつ消していく作業が別途必要になるかもしれない。

タイムレスについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11075968.html

で触れられているが。いわば行きつ戻りつ,あるいは飛躍もある,ハイパーな部分があるということだ。スキルは,本来,そういうものかもしれない。

なお,前回については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11135356.html

に書いた。

ロイさん推薦文献;
『Why?』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/1842706071/englishpower-22/ref=nosim/

『ピアニストの脳を科学する 超絶技巧のメカニズム』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393935632/englishpower-22/ref=nosim/


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#西澤ロイ
#Why
#タイムレス
#スモールステップ
#ロジカルツリー
#問い

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2013年05月04日

空海のスケール


篠原資明『空海と日本思想』(岩波新書)を読んで。

著者は,プラトンに西洋哲学の基本系として,美とイデアと政治,を見て,それを日本になぞらえ,空海の風雅・成仏・政治を仮定した。それに基づいて,日本思想の基本系を推し量ろうとしている。

その仮説の是非はともかく,ある意味では,芸術から宗教,政治に関わる幅広い空海の知的活動を網羅する試みであり,その巨大な思想の後世への影響を見積もろうとしている,ともとれる。空海の書は知られているが,現存する個人詩集のある,日本最古の詩人でもある。

①風雅について

ここでいう,風雅は,芭蕉の『笈の小文』にいう,

西行の和歌における,宗祇の連歌における,雪舟の絵における,利休が茶における,其貫道するものは一なり。しかも風雅におけるもの,造化に随い四時を友とす。

の意味になる。それを著者は,

和歌と連歌と絵と俳諧を統括するものが風雅に見出されていること。第二に,その風雅のありようが,自然に従い季節の運行を友とするものとして理解されていることだ。

とまとめ,風雅が芸術全般に及ぶ広い意味につかわれる遠因に,空海がいる,という。空海は言う。

目もて其の物を覩(み)れば,即ち心に入る。心に其の物に通じ,物通ずれば即ち言ふ。其の状を言ふこと,須く其の景に似るべし。語は須く天海の内を,皆な方寸に納むべし。

詩は志に本づくなり,心に在るを志と為し,言に発するを詩と為す。情(こころ)中に動きて,言に形(あら)はれ,然る後に之を紙に書くなり。(『文鏡秘府論』)

空海に心酔する京極為兼は,その歌論『為兼卿和歌抄』において,こう書く。「うちに動心をほかにあらわして,紙に書き候事」。芭蕉もまた,空海を意識して,こう風雅を語る。「古人の跡を求めず,古人の求めたるところを求めよ」と,南山大師(弘法大師)の筆の道にも見えたり。風雅も又これに同じ」と。

必ず須く心を境物に遊ばしめ,懐抱を散逸す,法を四時に取り,形を万類に象るべし。

と,心を自然のあれこれに遊ばせつつ,吸収し,それらを自分のうちからわきいずるように詩と書にあらわす,そう空海は言う。

しかし,その背後にあるのは,服部土芳が,「乾坤の変は風雅の種」と芭蕉の言葉を伝えつつ,「無常の観,なほ亡師の心なり」と付け加えざるを得ない心情である。空海は,長編詩「山に遊むで仙を慕ふ」で,

一身独り生歿す
電影是れ無常なり

とうたう。その背後にあるのは,金剛般若経の,

一切の有為法は,夢・幻・泡・影の如く
露の如く,また,電の如し
まさにかくの如き観を作すべし

ここで連想されるのが,「さび」だろう。その理解に必要なのは,草庵と隠遁という生活のありようだ,という。つまり,無常,離脱,大自然。その要件は,空海の,上記詩句の,「わが身はひとりぼっちで死んでいく,まさに稲光のように一瞬だ」の中に満ちている。

②即身成仏について

遮那阿誰(たれ)が号(な)ぞ
本是れ我が心王なり

空海のこの詩句を,前述した「語は須く天海の内を,皆な方寸に納むべし」と対比するとき,

仏も人も,六大,すなわち,地・水・火・風・空・識を共通要素とし,それ以外の非情と呼ばれる存在も含めてありとあらゆるものが六大からなる。地・水・火・風は物質要素,空は環境,識は心(『即身成仏義』)。この立場からすれば,法身大日如来と個々人との間に本質的違いはない。見方を変えれば,すべてが大日如来に通じている。だからこそ,大日如来の境地に立ちいたるのに,この身を捨てず,この身に即して大日如来になることができる,いやすでに,大日如来となっている。即身成仏とはこのことをいう。

誰もがあるがままにあらゆるものを知る智を備えている。とすれば,

五大には皆響き有り
十界には言語を具す
六塵悉く文字なり
法身は是れ実相なり

つまり,森羅万象が言語表現を行う。人がそれを友として,表現を行うことはありえる。古今集は言っている。「花に鳴く鶯,水に住むかはづの声を聞けば,生きとし生けるもの,いづれか歌をよまざりける」と。芭蕉も,「松のことは松に習へ,竹のことは竹に習へ」と教える。

③政治について

生けるものの世界,および生けるものが拠りどころとする自然世界をあわせて国と名づける。智慧は,よくこのふたつの世界を護って災難を払いのけ幸福を招く。それを護国と名づける。

そう空海は言う。一切衆生をしてみな歓喜を得せしむために,成仏がある。そのために高野山に伽藍を建立する。大日如来の悟りのいきわたる世界にするために。それを報恩という。

父母の恩,国王の恩,衆生の恩,仏法僧の恩。この四恩に報いる。

生きとし生けるものは,輪廻転生を繰り返すなかで,自分の父であったかもしれず,子であったかもしれず,王,さらには師であったかもしれない。だからこそ,衆生に報いるべきと,空海は説く。

最後に著者は,長編詩「山に遊むで仙を慕ふ」から,二行ずつ摘み取り,

一身独り生歿す
電影是れ無常なり
遮那阿誰(たれ)が号(な)ぞ
本是れ我が心王なり

四行詩にして,こうまとめる。

わが身は一人ぼっちで生まれては死んでいく。まさに稲光のように一瞬のうちに。大日如来とは,元はと言えば,自分の心のことだ。ここにある,「寂しさ」に,三つの段階をみる。

第一は,孤独感が無常観によって強められる
第二は,無常観の共有による孤独感がいやされる
第三は,無常とは,生成変化するものすべてに共通する

ここに,風雅の道がある,という。芭蕉の,

無常の観,なお亡師の心なり
千変万化するものは自然の理也
不易流行
乾坤の変は風雅の種なり
新しみは俳諧の花也

風雅には,芭蕉にとって,生成変化する自然に身も心も託しきる。そこに,寂しさと新しみがある。

とまあ,基本系という枠組みの中で,風雅をとらえ直す試みということができる。背景に,ここでは詳しく触れなかったが,本地垂迹つまり,密教に組み込まれた神道,アマテラスが大日如来を本地として日本に姿を現した等々をも併せ考えていくと,空海の巨大な影響力が見えてくる。

しかし本書は,最後に三島由紀夫になぞらえて,天皇に言及し,天皇によって執り行われる和歌とまつりごとは,自然を真ん中において,和歌・自然・まつりごととして構造化され,わが国の,風雅・と政治の雛形だと位置づけなおして見せた。ここは,異論の出そうなところかもしれない。むしろ,空海の掌の上に,すべて乗っている,と見たほうがスケールが大きくていいかもしれない。


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2013年05月12日

「したいこと」と「しなくてはならないこと」


昨今どういうわけか,「しなくてはならないこと」を口にすると,「したいこと」を言えと言われることがある。それがよくわからない。バランスの問題ではない。

人には,「やらねばならぬこと」「やりたいこと」「やれること」の三つがある。しかし,やらねばならぬことをしないものに,やりたいことは実現できるかもしれないが,人として,全く信をおかない。そういう人をいっぱい見てきた。

僕は「しなくてはならないこと」が,たとえちっぽけな雑用でも,それをするのが自分の役割だと思ったら全力でやる。そうしない人間を腹の底から軽蔑する。それを僕がしなければ,他の人がしなくてはならない。「しなくてはならないこと」は,誰にとっても「しなくてはならないこと」だからだ。

もう一つ思っているのは,「したいこと」を言う人は,多く修羅場をくぐっていないように見える(失礼!)。自分の伸び白いっぱいにやっても,まだとても届かない中,でも逃げ出さず,やり遂げるという意味だ。それは他人にとっては修羅場ではない。当人にとってのみ,修羅場だ。そんなことで迷っているのか,そんなところで手間取っているのか,そういう目で見る先輩は少なくない。それだけの仕事をこなせる人から見たら,出来の悪い人間のもたつきは,いらだつだろう。ましてチームなら,レベルの落ちているところがチーム全体の足を引っ張っている。

そういう中で,自分が「しなくてはならないこと」を,なんなくこなしていける人間にしていく。「こなしていける」ところが重要で,そこで立ち止まれば,単なるベテランで終わる。そこで自足せず,さらに自分の伸び白を引っ張り,広げていく。それがなければ,こなしに自足したただのベテランだ。

ときに,「したいこと」を言う人が,「しなければならないこと」を逃げている逃げ口上に聞こえることがある。あるいは,「しなければならないこと」を回避するための言い訳にしているように聞こえることがある。僕の僻目かもしれない。しかし,そう聞こえる状況にいて,そう聞き取ったのだということは確かだ。人の忖度など知ったことではない,という言い方もある。しかし,いったん信頼を失ったら,それを取り戻すには数百倍いることを骨身にしみて知っている。

閑話休題。

ところで,人の能力は,知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)の総量だと思っている(これに体力だの感力だのがいるかもしれないが)。ここで発想が重要で,これは未知の,未経験の事態を,文字通り「何とかする」ことによって,自分の伸び白を広げていく。そういう修羅場の経験も必要だという意味で,能力を伸ばすには,きっかけとしては一番重要だと思っている。

もし「したいこと」というなら,「しなければならないこと」を潜り抜けていなければ,単なる願望以上にはそれはならない。それだけの度量と器量と技量と力量は,黙って勉強するだけではつかないからだ。

イチロー語録は,なかなかイチローが端倪すべからざる人物だということを示しているが,たとえば,

小さいことを積み重ねるのが,とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています。

今自分にできること。頑張ればできそうなこと。そういうことを積み重ねていかないと遠くの目標は近づいてこない。

練習で100%自分を作らないと,打席に立つことは出来ません。自分の形を見付けておかないと,どん底まで突き落とされます。

「たのしんでやれ」とよく言われますが,ぼくにはその意味がわかりません。

毎日,力は振り絞っていますよ。余力を残そうとしていたら問題。

どんな難しいプレーも当然にやってのける。これがプロであり,僕はそれに伴う努力を人に見せるつもりはありません。

努力せずに何かできるようになる人のことを天才というのなら,僕はそうじゃない。努力した結果,何かができるようになる人のことを天才というのなら,僕はそうだと思う。努力できるのも才能という。

等々をみると,テレビの番組で,「好きなことをやっているが,ちっとも楽しくない。」というイチローの言葉を思い出す。「したいこと」を忘れてはいけない。しかし,それを実現するためには,そのために日々しなくてはならないことを,歯を食いしばってやらなければ,「小さな積み重ね」ひとつクリアできないだろう。

僕は,古いタイプの人間なので,「やりたいこと」のために,いま目の前で,人として「やらなければならないこと」を見逃したり,その立場でやらねばならぬことを放置したり,否でも応でも「やらなくてはならないこと」を全力でやり遂げようとしない人を信じない。

そして,なお,したいことを選ぶのなら,その自分の「しなくてはならないこと」を放棄してもなお,それは「する」に値するのか,を考えに考えた末にしか,「したいこと」は現実味を帯びない。仮に,現実に見えても,まだふわついた仮のものでしかない,と信じている。当然すべての責は,それを選択した自分にのしかかる。毀誉褒貶などという話ではない。その世界で二度と生きていけないというくらいのこともあり得る。そういう覚悟があるのなら,贅言は無用だ。

それは資格を取ったり,お勉強で得られるものではない。

苦しいことの先に,新しいなにかが見つかると信じています。

自分自身が何をしたいのかを,忘れてはいけません。

というイチローの言葉は,それを前提に見るとき一層輝く。

選択理論によれば,「前に出ること」を選択したから,ポジティブな感情と思考になる。ポジティブになったら,前向きになるのではない。過去にとらわれず,立ち止まらず,前へ進もうとする選択肢を取ったから,ポジティブな思考になる。

「やりたいこと」の方を選択するから,やりたいことが図に見え,やらねばならぬことが地になる。逆に,(その立場と役割にあるのに)「やらねばならぬこと」に向き合わず,「やりたいこと」を選択したとき,やらねばならぬことには二度と出会うことはないだろう。そういう人とは,一緒に何かをしたくはない。

だからと言って,地が消えるわけではない。考えようでは,「したいこと」と「しなくてはならないこと」は,地と図の関係なのかもしれない。「したいこと」を実現しようとすれば,いずれ,そのためにクリアしなくてはならない「しなくてはならないこと」にぶつかることになる。しかし自分にとって「したく」もない「しなければならないこと」に比べれば,それに立ち向かうのは容易だという言い方もできる。

しかし,だ。僕はそうは思わない。

「したくないこと」であろうが,
「できないこと」であろうが,
「したこともないこと」であろうが,

しなければならないとなった,そのときに,それを自分のキャパと技量を超えてチャレンジし,それをなんとかかんとかクリアした経験がなければ,自分の伸び白を極限まで引っ張り,拡大しなければならない「そのとき」の経験が,その伸び切った自分のキャパの感覚がないから,たぶんできる範囲のキャパが狭い。いや,ぎりぎりまで拡大するというその感覚自体がない。

なぜなら,「やらなければならないこと」は,逃げ道なくやらなくとはならないが,「やりたいこと」は,所詮自分の裁量内,その狭い範囲でしか,精一杯やらないという,気ままが許される。いや,許す。それをしない意志は,イチローレベルでないとない。

年寄りのたわごとだが,やりたくなくても,やったことがなくても,しゃにむにやらなければならないことを,必死でやりとおした経験がなければ,その経験の持つ意味は分からない,ということだ。

昨日ある場で,「こつこつ習慣化のすすめ」を聴く機会があったが,まさに「やりたいこと」をやるために,「やらなくてはならないこと」というハードルが出てくる。それをどう日常的にクリアするかだ。これは,また別途ブログでまとめたい。


参考文献;
ウイリアム・グラッサー『選択理論』(アチーブメント出版)

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2013年05月17日

自分の場・場の自分


人は一人では生きていけない。人とのかかわりの中で生きる。人との結節点として生きる。しかし,ひととの関係とは,場に他ならない。

清水博さんは,「『生きている』ことと『生きていく』こととは,まったく異なることです。…〈いのち〉の居場所がなければ,生きるものは,「生きている」ことはできても,「生きていく」ことはできません。」という。

ではいのちの居場所とは何か。サッカーの例を挙げている。

サッカーの選手たちが,サッカー場という居場所に自分で自分の役割を位置づけることができるようになると,はじめて立派にチームプレーをすることができる。これと同じように,いきものも自分なりの役割を自分で〈いのち〉の居場所に位置づけることができて,はじめて〈いのちの〉与贈循環をうまく実行できる。

与贈循環とは,生きものがまず〈いのち〉を,〈いのち〉の居場所に贈って,次に今度は逆に,その居場所から〈いのち〉を贈られる。これが繰り返されるのが,〈いのち〉の循環,という。

これを生命と考えず,チームに入った状態を考える。その場に入って,自分の居場所を見つけるまでに,チームから学んだり教えられたりしながら,チーム自体の居場所を知り,その目的を知り,その意味を知り,そこでの自分のいる意味を知って,はじめて自分がそこで何をするかが見えてくる。そう考えれば,我々はいつもこれを繰り返している。それを僕は,「ポジショニング」と呼んできた。

場に位置づけられていることが存在existenceを獲得しているという事であり,これと活(はたら)きや意味に結びつかない物理的存在presenceとは違う。

自分の「ポジショニング」がわからない人は,自分の役割どころか,何をするためにそこにいるのかが,わからないので,チーム内で主体的に仕事に関わり,仕事を創り出していくことができない。それではチームの石ころ,つまり邪魔者にしかなれない。

これを細胞レベルで,説明すると,こうなるようだ。

人間でも,他の動物でも,胞胚の細胞たちは,胞胚という〈いのち〉の居場所全体のなかのどのような位置(ポジション)に自分がいるかを知っていて,その位置にしたがって,たとえば,自分が将来,手になるか,心臓になるか,脳になるかというように自分の役割を決めて,その位置にふさわしい細胞に変わっていく。…胞胚の手術をして細胞の位置を取り替えっこすると,取り替えられた細胞は,それぞれ新しい位置にふさわしい役割を発見して変わっていく。

細胞は,その働く場を得なければ,居場所がなく,居場所があってはじめて,どうなるかが決まっていく。清水さんは,これを,「生命の二重存在性」と呼び,次の様に説明する。

その第一は,生命という活(はたら)きは自己の存在を自己表現,あるいは自己創出する活(はたら)きであるために,場に位置づけられなければ生き物は一つの決まった形(表現形)を取れないということである。そしてその表現形は,局在的生命と遍在的生命のあいだの創出的循環のために,一定の状態に留まることができない…。生命の自己表現性とは,生命は場に位置づけられた存在をその場へ表現するかたちで活(はたら)いているということである。生命はそれ自身をそれの上へ表現する「場的界面現象」(場的境界の生成現象)であるといえる。生きものは,その存在を場に表現するから場においてコミュニケーションができるのである。

これを清水さんは,ふたつのモデルで説明されている。

ひとつは「自己の卵モデル」

①自己は卵のように局在的性質をもつ「黄身」(局在的自己)と遍在的性質をもつ「白身」(遍在的自己)の二領域構造をもっている。黄身の働きは大脳新皮質,白身の働きは身体の活(はたら)きに相当する。
②黄身には中核があり,そこには自己表現のルールが存在している。もって生まれた性格に加えて,人生のなかで獲得した体験がルール化されている。黄身と白身は決して混ざらないが,両者の相互誘導合致によって,黄身の活(はたら)きが白身に移る。逆もあり,白身が黄身を変えることもある。
③場所における人間は「器」に割って入れられた卵に相当する。白身はできる限り空間的に広がろうとする。器に広がった白身が「場」に相当する。他方,黄身は場のどこかに適切な位置に広がらず局在しようとする。
④人間の集まりの状態は,一つの「器」に多くの卵を割って入れた状態に相当する。器の中では,黄身は互いに分かれて局在するが,白身は空間的に広がって互いに接触する。そして互いに混じり合って,一つの全体的な秩序状態(コヒーレント状態)を生成(自己組織)する。このコヒーレント状態の生成によって,複数の黄身のあいだでの場の共有(空間的な場の共有も含む)がおきる。そして集団には,多くの「我」(独立した卵)という意志器に代わって,「われわれ」(白身を共有した卵)という意識が生まれる。
⑤白身が広がった範囲が場である。したがって器は,白身の広がりである場の活(はたら)きを通して。黄身(狭義の自己=自分)に「自己全体の存在範囲」(自分が今存在している生活世界の範囲)を示す活(はたら)きをする。そして黄身は,示された生活世界に存在するための適切な位置を発見する。
⑥個(黄身)の合計が全体ではない。器が,その内部に広がるコヒーレントな白身の場を通じて,黄身に全体性を与える役割をしている。現実の生活世界では,いつもはじめから器が用意されているとは限らない。実際は,器はそのつど生成され,またその器の形態は器における人間の活(はたら)きによって変化していく(実際,空間的に広がった白身の境界が器の形であるという考え方もある)全体は,卵が広がろうとする活(はたら)きと,器を外から限定しようとするちからとがある。
⑦内側からの力は自己拡張の本能的欲望から生まれるが,外側からの力は遍在的な生命が様々な生命を包摂しようとする活(はたら)きによって生まれる。両者のバランスが場の形成作用となる。

場そのものの変化を動態的に考えるために提唱されたのが,もう一つのモデル,即興劇モデル。

卵モデルの黄身に相当するものが,「役者」であり,器が「舞台」の境界で,その器の中に広がる白身に相当するのが,「舞台」であり,「観客」として遍在する生命がある,という関係性で見ることができる。即興モデルでは場は即興的に演じられるドラマの舞台ということになる。そして場所(卵の入った器が置かれているところ)が役者,舞台,観客が存在する「劇場」に相当する。役者は観客の共感を呼ぶドラマ(活(はたら)き)を演じることが必要になる。

場の変化をドラマ的時間に位置づける自己(局在的自己,自己中心的領域,黄身)とその自己(黄身)の演技をドラマ的空間に位置づける場としての自己(遍在的自己,場的領域,白身)の二つが相互誘導合致の過程で交互に循環的に活動することによってドラマが進行する。

舞台とは,意識の野であり,観客の活(はたら)きは意識の野を含めて,その外に広がる無意識の活(はたら)きでもある。それは,

局在的自己(黄身)は遍在的自己としての場(白身)に対してつぎの変化を繰り返しながら自己表現を(循環的に)つくりだしている。すなわち,場を受け入れる,自己を場に位置づける,場における自己の存在を自己表現をする。この時場の束縛から踏み出して新しい自己表現を創出しようとする。他方,場がおこなう変化は,局在的自己の自己表現(部分的表現)を包み込む全体的表現を生成し,局在的自己の新しい自己表現を待つ,の繰り返しである。

局在的自己(黄身)の重要な性質として,それが場(白身)に位置づけられて存在しているときには,その自己の存在を身体によって場に自己表現するという性質がある。場に位置づけられた自己は,「顔のある個」であり,その存在は個物的である。場において自己表現がなされる結果,場が変化する。場が変化すると,新しい位置づけが必要となる。そのことによって新しい自己表現がなされ,場がさらに変化することになる。

この時必要なのは,現在存在していない未来の舞台(場)を創造することだ,と清水さんは言う。場の外に立ってどのように見るかを考えなければ,未来は見えない。

場は人間の意識がつくり出す空間であり,要素サイクルに伴って絶えず生成と消滅を繰り返している。場の大きな変化は意識の野の変化であり,場(意識)の外からやってくる。場の未来は観客の活(はたら)きを至って外側から訪れるのである。

場には,三種類ある,と清水さんは言う。

ひとつは,生活の場。リアルタイムにドラマを演じている場だ。その場で,どんな選択肢を取るかを日々決断し,選択している。それをさせているのが,人生の場。自己(局在的自己,黄身)は,その内部に様々な生活の舞台における体験を記憶し,その体験を人生の場で編纂し,自己の歴史ドラマの中に位置づけている。だから,人間は自分が作った人生という歴史ドラマの筋に基づいて容易に判断を下すことができる。もうひとつが生死の場。個としての生命が確実に死ぬことを前提としている場である。それは,局在的な生命の生と死で一つの状態になっている場であり,局在的な生と死が生と死で一つの状態になっている場でもある。

石原吉郎の詩がある。

死はそれほどにも出発である
死は全ての主題のはじまりであり
生は私には逆向きにしかはじまらない
死を<背後>にするとき
生ははじめて私にはじまる
死を背後にすることによって
私は永遠に生きる
私が生をさかのぼることによって
死ははじめて
生き生きと死になるのだ(「死」)

未来から見るとはこういうことなのかもしれない。

ともかく,いくつかの卵の白身が互いに混じり合って,コヒーレントな状態状態(共時的な状態)をつくっているとき,黄身の相互関係も,「我と汝」(個が互いに向き合う関係)となったり,「我々」(互いに同じ側に立つ関係)となったりする。それは,黄身の自己中心的な活(はたら)きが白身による吸引力(同一化力)より大きいか小さいかで決まる。

白身と黄身の関係には,慣れが起きる。そこに閉塞状況が生まれる,と清水さんは指摘する。マンネリ状態である。それには,次のどれかが起きている。

①舞台の上に自分の現在の現在の状態を位置づけられない
②最初に設定した目標の位置が誤っている
③自分の位置と目標の位置との間の空間が複雑であるために,目標に近づけない

どうだろう。いささか狭い気がする。目標というより,目的や意味が見いだせないか,見誤っているか,ではないのか。目的が見えないから,目標が位置づけられず,自分の位置が見えない。

でもいずれにしろ,その瞬間,

もしこの位置づけができないときには,即興劇の舞台の上には存在していないことになるから,舞台から外れて個人になっていることを意味している。

これを機に,舞台を外から見る,という視点の転換がいるのかもしれない。

舞台づくりとは,出会いの場づくりのことであり,舞台では,様々な役者が演じる多様な演技を受け入れて一つに統合し,それを一つの即興劇としてイメージする想像力が必要になる。この即興劇を舞台設計から考えていく知的な活(はたら)き,つまり構想力が必要である,という。それには,

パトス(情)を共有すること,即ち共感の場づくりから始めることが必要である。と同時に,それを一時的な昂揚にとどめないために,ロゴスを共有することが必要である,と。

その意味と目的の共有であり,そのための道筋を描くことができていなくてはならない。つまり,

実践の論理には,まず実現したい夢が必要である。…夢を具体化しようとし続けることから未来に関するイメージが次第に明確になり,やがて具体的な目的として共有できるようになる。夢のある明確な目標を共有し,それを実現するための舞台を想定することから変革のイメージが生まれ,そのイメージをビジョンにすることから戦略が生まれてくる。戦略が生まれてくるためには,イメージに具体的な携帯電話を与えなくてはならない。

だから情と論理がいる,ということである。

しかし,実際に場づくりをしようとしてみると,人と人との袖振り合う感覚で接点ができ,お互いが場を意識しあうというところまでは割と広がる。しかし詰めてみると,実はそれぞれの「夢」自体が,微妙な齟齬があり,その差は意識すればするほど大きくなっていく。結果として共通の夢を具体化するところまでいけないことが多い。場づくりは,そうたやすくはないことに気づく。そこまでの処方箋はどこにもない。

ただ人との接点の中で,白身が接することで場ができ,そこで黄身にも影響が出る。だから,その場を永久と考えるよりは,あっては別かれ,別れてはまた会うのの中で,自分の居場所となる場所がつれていくのではないか,と考えることもできる。そういう場をいくつも,多層に,多面に持つことが,その人の黄身を豊かにしていく。命のポジショニングは,その人にしか見えない。それでいいのかもしれない。そんな気がし始めている。

参考文献;
清水博『コペルニクスの鏡』(平凡社)
清水博『場の思想』(東京大学出版会)

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2013年05月26日

人生を語る


先日,「山口ひとみトークライブ☆育自の魔法の生まれた人生」を聞きに行った。

https://www.facebook.com/toshihiko.sugiura.14?ref=tn_tnmn#!/events/527213683983740/

改めて,自分の人生を語る,ということについて,いろいろ考えさせられた。

人の認知形式,思考形式には,「論理・実証モード(Paradigmatic Mode)」と「ストーリーモード(Narrative Mode)」がある(ジェロム・ブルナー),とされている。前者はロジカル・シンキングのように,物事の是非を論証していく。後者は,出来事と出来事の意味とつながりを見ようとするものである。

ドナルド・A・ノーマンは,これについて,こう言っているそうである。

物語には,形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉えてくれる素晴らしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を特定の文脈から切り離したり,主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は文脈を捉え,感情を捉える。論理は一般化し,物語は特殊化する。論理を使えば,文脈に依存しない凡庸な結論を導き出すことができる。物語を使えば,個人的な視点でその結論が関係者にどんなインパクトを与えるか理解できるのである。物語が論理より優れているわけではない。また,論理が物語より優れているわけでもない。二つは別のものなのだ。各々が別の観点を採用しているだけである。

要は,ストーリーモードは,論理モードで一般化され,文脈を切り離してしまう思考パターンを補完し,具象で裏打ちすることになる。

もう一つの考え方は,人の記憶から考えてみることだ。一般に,人の記憶には,

 ・意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
 ・エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが記憶された個人的経験)
 ・手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)

があるといわれる(この他,記憶には感覚記憶,無意識的記憶,短期記憶,ワーキングメモリー等々がある)が,なかでもその人の独自性を示すのは,エピソード記憶である。これは自伝的記憶と重なるが,その人の生きてきた軌跡そのものである。

つまりは自分のエピソードを掘り起こすことが,ある意味で,自分自身のアイデンティティの再確認になる。よくナラティブ・セラピーで,ドミナント・ストーリー以外のオルタナティブ・ストーリーを紡ぎ直すということをするが,たぶん,自分の物語は,無数にある。

よく,過去が今につながる,という言い方をする。あの時があるから,いまがある,と。でも実は逆だと思う。今があるから,過去がそれにつながるように見える。今生き生きしているから,生き生きしている物語が紡ぎ出される。今が落ち込んでいたら,そこへ至る原因を過去に探る。

人は因果律で考えたがる。それもまた物語に過ぎない。今生きている生き方が,過去の見え方を変える。逆にいえば,過去の見方を変えれば,いまの見方が変わる。いずれも,自分の見方が,物語の中身を変える。

たしか,フランクルが,すべての人は語りたい物語をもっている,と言っていたと思う。

ここからは,妄想だが,どんな切り口からでも,自分の人生を物語れるはずなのだ。

例えば,僕なら,「死」についても,「悲惨」についても,「歓喜」についても,「悲劇」についても,「恋」についても,「家族」についても,「フロー体験」についても,いくらでも語れる。

自分自身を主人公にした,その物語の語り手になったとき,自分の人生のタイムラインに,その物語が,ひとつらなりの物語として見えてくる。その時,自分は,物語の登場人物になっている。たぶん,一つの物語が紡がれた時,それに関わりないエピソードは,捨てられ,ひとつらなりの物語が語りだされる。

逆にいえば,人生の物語は,虚構でもある。でも,それにすがりつこうとすれば,それは強固な物語になる。しかしその分,そのひとはいまを生きていない。

いま生きている人にとって,過去は,所詮経過点,通過点に過ぎない。

本当の物語は,死の直前,フィルムのラッシュのように,全人生を観る(といわれているが真偽は知らない)というその物語なのではないか。

まだ僕は自分の人生を物語るほどの到達点にいない。

参考文献;
中原淳・長岡健『ダイアローグ』(ダイヤモンド社)

今日のアイデア;
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#オルタナティブ・ストーリー
#意味記憶
#エピソード記憶
#手続き記憶

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2013年05月29日

「なる」と「なりきる」


はたらく場研究所~最高の居場所~5月ライブ,高田天朗さんの「ドラマdeコミュニケーション ~なりきりワーク編~」に参加してきた。

http://kokucheese.com/event/index/88107/


なりきりワークに参加するのは二度目だが,その都度,その時,その場に関わるので,二度目という感覚はなく,その都度,その場の自分を経験している。

つくづく思うのだが,なりきるというのは,どういうことか。

日常でも,立場や役割で「仮面」とは言わぬが,その役を演じている。というか,その自分と内面の自分とに隙間風が吹く時がある。では,そのとき,四の五の言わず,その役に徹し,なりきるということが正解なのか。それとも,そこで葛藤し,格闘して,自分の色に役を染め変えていくのが正解なのか。

仮面かどうかは人にはわからない。よほどなじめずうろたえている場合は別にすれば,そのときの立ち居振る舞いがそのまま受け取られる。しかし,内面では,その隙間を意識することで,実は,自分の前に,選択肢が広がっている。その隙間の間の広がりが意識できれば,そこには無数に違う,選べる自分がある,ということになる。

なりきる,

というのは,たぶん,どこかに固定した仮面があり,それを演じ切る,あるいは躊躇なくその仮面になってしまうということではない,気がする。その仮面との格闘を経て,自分なりに納得したその役なり面なりになっていく。それが自分になるということなのかもしれない。

多くは,冒険家とか作家とか,脚本家とか,政治家,役者といったような明確な立ち位置があることの方が少ない。単なるビジネスマンであり,営業マンであり,事務屋であり,主婦である。そこには意味がないが,自分になっていく,他にない自分を創り上げていく葛藤が,生きることなのではないか。はじめはおずおずと役割にはまり,それを自分のものにして,やがて自分というものを明確にしていく。それは守破離そのものかもしれない。

ワークの詳細は,前回,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11014109.html

の中でいくつか触れているので(前回とは違うワークも一杯あったが),今回は,いくつかのワークショップをやらせてもらって,感じたことをまとめてみたい。

ひとつは,ダブルとカーテン。

確か前回も経験したと思うが,裏の声(ダブル。本人の会話の背後の本音や感情を言語化する)や本人の内なる自己対話を言語化する(カーテン。自分自身の内的葛藤や愚痴を顕在化させる)ことで,一つにしか見えないそのシチュエーションのパースペクティブに,複数の場面が見えてくる。それは,そのシチュエーションのもつ多相性,多層性,多重性を顕在化させることで,シンプルにひと色で見がちに事実を相対化していく,という効果がある気がした。

それは,深刻な事態,思い込みの事態を,広い視野で配置し直すのに似ていて,とかく固まりがちなものの見方をときほぐし,ばらしていくように見える。

いまひとつは,スナップショット(自分の課題の対象となる人たちの集合写真をとることで,いまの関係性とありたい関係性を具象化)と彫刻化(関係者のポーズを,いまとありたい姿で取らせる)。


前にも書いたが,システムコーチングで,人の立ち位置で関係性の今と未来を具体化するのと似て,一瞬の写真やポーズの中に,自分の中にある,対象となる人々との関係性や位置関係を具象化してみることで,いまのそれをどう変えればいいかがイメージ化される。

わずかに位置関係やポーズを変えただけで,自分の側に変化が起きる。これはいわば,視点の転換といっていい。

(見えているものの)見え方を変えることで,(見ているものの)見方が変わる。見方を変えるには,見えている対象を動かすことだ,というのが視点を変える鉄則だが,その典型例といっていい。

人の持つイマジネーションの強力な効果といっていい。いわば,空間配置を変えることによる,イメージ喚起力といってもいい。

このことは,なりきる,というときの,私⇔役との関係も,「⇔」の隔たりとは関係なく,役から自分を見,自分から役を見る,の転換,あるいは,「私⇔役」そのものを,第三者から見る,という転換をしてみることも,空間配置を変えることの持つイメージ喚起力になっているし,ダブルやカーテンで,裏の声を顕在化させたり,内的対話を顕在化するということも,言葉を,中空に解き放つという意味では,どろどろと混沌にあった思いを空間化することで関係が顕在化したのと同じ効果がある。それは,視点を相対化(つまり変えること)になっている。あるいは,今回はやらなかったが,エンプティチェアも同じ効果を狙っていると言えるだろう。

更には,「場」そのものを動かすということもある。人と人との関係性を変えるためには,文脈や状況を変えてみる。あるいは,動かしてみる,ということも効果がある。リフレーミングは,それといっていい。これも,固定した場からしかものを見られない固定観念を崩すには効果がある。

では翻って,自分は何になろうとしているのか,何になりきりたいのか。その自分の「なる」「なりきる」についても,いまのシチュエーションや文脈を前提にする必要はないし,まして今の自分の立ち位置を前提にする必要はない。

清水博さんの卵モデルで言えば,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11189806.html

「場」という器そのものを外から見る視点が指摘されていた。自分の視点からのパースペクティブではなく,自分と場をも視野に入れた,異なる視点からのパースペクティブをえることで,場の相対化と場の位置づけ直しもできるかもしれない。いずれにしても,固定したいまの,ここの,自分の視点に拘泥していては,視野は変わらない。視野が変われば,見え方が変わり,見え方が変われば,明らかに自分が動く。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#高田天朗
#なりきりワーク
#清水博
#卵モデル
#ダブル
#カーテン
#彫刻化
#スナップショット
#ワークショップ
#見え方
#見方

posted by Toshi at 06:13| 日記 | 更新情報をチェックする

2013年05月30日

グランディング


先日,川本恵さんの「地に足をつけてご機嫌に生きる」ワークショップに参加した。三度目かな。グランディングというものと最初に出会った時の印象が悪く,それに上書きする形で,人との縁で,参加して以来,数を重ねたことになる。

前回そのワークの概要は書いた。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11081715.html

毎回,ワークがバージョンアップされているので,今回は,少し違うところに焦点をあててみよう。

正直に言うと,毎日やっているわけではなく,サボっているというのが,実態だが,こうしてワークショップに出かけようとさせるものが,僕の中にあるに違いない。昨年の検査入院中が一番熱心だったが,どうもそれだと,川本さん曰く,「現世利益」狙いになる。何かを得ようとするものではない。

ただ,自分が地球の中心に連なり,そことともに,揺るぎなくあることを感じる,そうやって生かしてもらっていることを感謝する,そういう気持ちの表現ということなのだろう。

今回からは,ワークはバージョンアップして,直系20センチのプラーナ管が,会陰を貫き,足元の土を通して,6500mの中心核まであると想定し,自分の周囲にピラミッドをイメージする…というふうに少し変わった。

前にも書いたが,黒いふかふかした土の上に立って,20センチの黒々とした穴を感じ,そこから風が吹きあがってくるように,その穴を感じると,体が揺れた。川本さんは,「私はそこまで言っていない」と言われたので,たぶん,こっちの妄想。そこまで描いてはいけないのかもしれない。しかし,その揺らぐ感じ,は好きである。

不安定に風に流されそうに,体が揺れている感覚があるが,脚の裏はピタリと大地にくっつき,地球と連なっている。

自分が不安定な心理状態にある時,自分の確信が揺らぐ時,重大な決意をしようとするとき等々,自分の軸が揺れているように感じるときは,自分の中心線が大地を貫いて直結しているという感覚を確かめておくことが,ある意味自分の手ごたえを再認識する意味で重要なのではないか。

自分を小さくして,まあいいや,と言わず,
宇宙を見るのではなく,大地とつながること,

そこが核心だ。

こんな問いが与えられた。「あなたのこの世のミッションは何か」「何をするために生きているのか」

普通考えたこともない。僕もまず考えない。役割,役目はあるが,ミッションと言われると,ちょっと引く。しかし人は,問われると必ず自分の中から答えを見つけ出す。

僕が思い出したのは,父のことだ。

前にも書いたことがあるが,父の所属する名古屋の師団は,日中戦争で,上海敵前上陸作戦を敢行した(人の国で上陸作戦をやって侵略でないという人の口が見たい)。どれだけの部隊が投入されたのかは知らないが,父の所属した師団2500名はほぼ全滅した。ほとんどが,上海に上陸どころか,海浜で死んだ。父は肩に銃創を受けたが,かろうじて生き残った数十人の一人となった。その傷を持ったまま戦後を生きた。その物語はまた別の話だが,そのことをふと思い出した。そう,そこで,父が死んでいれば,僕は存在しない。

そうして生を受けたことに意味があるとすれば,何だろう。

その問いを浮かんだところで,ワークは終わった。正直,意味がつかめているわけではない。しかし生きている意味があるに違いない,という確信は持てた。何かをするのではなく,生きること自体に意味があるのかもしれない。それをいまから考えていく。

川本さん曰く,

簡単
お金がかからない
深刻にならない

これが大事という川本さんのグランディングワークは,

いつでも
どこでも
身一つで

できる。そこに共感がある。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#グランディング
#プラーナ管
#ピラミッド
#川本恵

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2013年06月04日

物語を書き換える


先日,第63回ブリーフセラピー研究会の,「田中ひな子先生の解決志向アプローチ2」に参加した。前回に続いて参加させていただき,さらに,自分の記憶を上書き(前のが消えた?)した感じがしている。

前回は,クライアントの自己対話に加えてもらうが,メインだったと記憶しているが,今回は,

新しい人生の物語を手に入れるように,クライアントの自己対話では語られていない,クライアントの望む未来の,新しい物語に書き換えていくように,セラピーの会話を進めていく,

にある。そのために,肯定的なアプローチ,つまりソリューション・トークが有効なのだ,

なぜなら,

クライアントを尊重するとは,クライアントが大事にしているものを大事にすることであり,その本当に望んでいることを探し,それを達成するための協力関係をつくることだから,

というところに視点を置いて,学んだことを整理してみたい。

言い換えれば,話すだけで変化が起きる,そういう変化を導き出す会話をどうすすめていくか,である。

当然従来のように,援助者が正しい知識でクライアントを導くのではない。ソリューション・フォーカスト・アプローチは,セラピストの正しい知識ではなく,クライアントこそが専門家であり,セラピストは,インタヴューする専門家だというところが前提になる。つまり,

クライアントこそは自分自身の人生の専門家である。

だから,

セラピストは,インタヴューの専門家である
無知の姿勢を貫く
何を信ずるかがどのように見るかに影響を与え,どのように見るかが,何が見えるかに影響を与え,何が見えるかが,何をするかに影響を与える。

これは,『DV加害者が変わる』について書いたように,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11207722.html

大切なのは,変化を起こすことではなく,会話のための空間を広げることである。治療における変化とは,対話を通して新しい物語を作ることである。それには,ソリューション・トークが有効なのだ。肯定されると,ひとは心にスペースがあく。

まず変化のためには,

ひとは一人一人違う
変化は絶えず起こっている
例外は既に存在している解決である。例外を日常化するのが解決となる
どんなこんなんな状況でも一人の行動に小さな変化がおきればいい

たとえばクライアントが予約を入れた時から,70~80%の変化が起きる。クライアントは,変わりたいのに変われない,わかっているのにできない。

クライアントは面接前に,頭の中を整理する。問題解決に必要だと思う情報を話そうとする。まず,それを丁寧に聞く。これを聴かないと,ソリューション・フォーカスト・アプローチ的質問が効かない。だいたい,クライアントが話し終わると,間がある。そうしたら,たとえば,

どんなふうになればいいと思いますか
      ↓
過食が減る
      ↓
減るって,具体的にどういうことですか
      ↓
夜中の過食がなくなる
      ↓
最近,夜中に過食が起きなかったことはありませんか?
      ↓
一回だけありました
      ↓
なぜそのとき起きなかったのでしよう
      ↓
なんとなく,疲れていて
      ↓

たまたまかもしれないが,その小さな例外に焦点をあてることで,そこに大きな意味があることに,クライアントの注意が向く。

ここで,出来ない理由を並べてみても,出来ないことが確認できるだけだ。例外には,意図的な例外と偶然の例外がある。そこで,

なんとなく過食しなかった時,どんなふうにそれが起こったか観察してください,

と課題を出す。昔神田橋條治さんの本で,家庭内暴力の高校生に,バットをもつ腕の,どこに力が入ると,一番壁がへこむのか,じっくり観察してください云々,といったようなことを観察課題に出したのを記憶しているが,偶然かもしれない例外に,関心を向けることで,「できない」ことではなく「できる」ことに焦点があう。「できない」ことを探していれば,「できている」ことは目に入らない。だから,

クライアントにリソースがある,

という前提で見る方が役に立つし,言葉にすることで変化が起きる。(15年過食だった)クライアント曰く,

この前話していて,本当に治りたいのだと分かった,と。

そして,

いい変化があった時,何が良かったか,を明確にし,それを維持していく。

例外探しは,ある意味クライアントがどう対処したのか,コーピングを聴くことだが,それを通して,クライアントの持つリソースが見えてくる。大事なのは,ミラクルクエスチョンでもそうだが,具体化すること。そうすることで,クライアントにイメージがわく。それが変化をもたらす。たとえば,

どうなりたいですか
      ↓
普通の食事がしたい

この「普通」は人によって違う。パンにコーヒーなのか,ご飯に味噌汁なのか,みそ汁の具は何か…,を具体化していく。ミラクルクエスチョンでも,ビデオテープにとるように,詳細に聞いていく。クライアントにもセラピストにも,イメージが浮かぶように聞いていく。クライアントを理解するために大事であるし,その中に,

いま話したことに少しでも近いことで,どんなことがありましたか?

という例外が,小さな「存在している解決」を見つけやすくなる。逆にいえば,セラピストは,

例外がある,

という前提で聞いていく。24時間問題だらけということはありえない。しかしそれは本当に小さなことかもしれない。その小さなことを掘り起こし,「できている」こととして,「できていない」という「地」から,それを「図」として浮かび上がらせていく。

会話がその人をつくっている。会話が変わると,違う面があらわれる。その人自身の自己対話に加えてもらい,

「私についての取扱説明書」

を書き換えていく。そのためには,

クライアントの言葉をつかう
無知の姿勢を貫く

そうすることで,

会話の中で未来をつくる

その覚悟でセラピーをする。たとえば,

5年後の物語をつくっていくためにいまどういう会話をするのか,

が問われている。そこで,肯定的なアプローチを通して,語られていない物語を浮かび上がらせ,その人の物語を書き換えていく。それを,ソリューション・フォーカスト・アプローチの面談は,一回ずつのシングルセッション,というつもりで,やっていくという。

その覚悟が,いつも問われている。会話ひとつにも無駄はない…!


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#ソリューション・フォーカスト・アプローチ
#田中ひな子
#ソリューション・トーク
#プロブレム・トーク
#無知の姿勢
#例外探し

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2013年06月06日

生きる矜持~石原吉郎の詩をめぐってⅤ


生きる,あるいは生き方という点では,

いわれなく座に
耐えることではない
非礼のひとすじがあれば
礼を絶って
膝を立てることだ
膝は そのためにある
そろえた指先も
そのためにある(「控え」)

がいい。それを矜持と呼ぶか,自恃と呼ぶかはわからないか,一種の潔さと言っていい。人が何と言おうと,己というものの尊厳を損なうことに対しては,断然と対峙する,そういう凛とした姿勢だ。だから,

一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(「一期」)

常に,そういう心積もりでなくてはならない,と言っている。しかし,それって,結構孤立し,寂しい。ただ。できるかどうかは,別にして,そういう人との接し方ができれば,凛然とした佇まいになるのではないか。その心映えは,たぶん,「五省」がつながる。

至誠に悖るなかりしか
言行に恥ずるなかりしか
気力に欠くるなかりしか
努力に憾みなかりしか
不精に亙るなかりしか

でも,その外面と,内面は違う。内面はくずぐず,めそめそしている。だいたい,というと偏見だが,かっこよさは内面の無様さとつりあっている,と信じている。

私は私に耐えない
それゆえ私を置き去りに
する
私は 私に耐えない それゆえ
瞬間へ私を置き去りにする
だが私を置きすてる
その背後で
ひっそりと面をあげる
その面を(「置き去り」)

捨てた自分にいつも付きまとわれている。「その背後で ひっそりと面をあげる その面を」というのが効いている。自分を捨てることはできない。捨てた自分に躓くのが落ちだ。

おれよりも泣きたいやつが
おれのなかにいて
自分の手足を自分の手で
しっかりつかまえて
はなさないのだ
おれよりも泣きたいやつが
おれのなかにいて
涙をこぼすのは
いつもおれだ(「泣きたいやつ」)

だからこそ,それくらいなら,断念する。

海は断念において青く
空は応答において青い
いかなる放棄を経て
たどりついた青さにせよ
いわれなき寛容において
えらばれた色彩は
すでに不用意である
むしろ色彩へは耳を
紺青のよどみとなる
ふかい安堵へは
耳を(「耳を」)

こんなことを考える。

前に道はない
道は背後にできる
一歩踏み出さねば道にはならない
置き残したものへの未練を断ち
訪れる未知への不安を払って
つま先をわずかに
すりだせば
すでに道がある

踏み出せ,踏み出せ,ともう一人の自分がいう。そう書いてみたが,高村光太郎に,

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため(「道程」)

という有名な詩があり,読んだ記憶はないのに,そのパクリのような感じがして,ちょっと消したくなったが,まあ,ニュアンスの差に免じて,そのままにしていく。閑話休題。

で,前へ踏み出すということは,立ち止まる,下がる,横に行く等々という中から,前へ出る選択をしたのだ,ということだ。それは,選択肢のしがらみから,自由になった。断念を代償に。

きみは馬を信じなくては
いけない 馬は
激烈で
明快な時間だ
そして
時間が筋肉をもつときの
断念と自由を
同時にきみは
信じなくてはいけないのだ
信じることにおいて それは
自由でなくてはいけないのだ(「時間」)

でも,だ。

私が疲れるのは
私の自由において
私が倒れるのは
私の自由において
いつの日にあっても
私が倒れうることを
自由なその保証として
私よ たじろがず
自由に立ちつづけよ(「私の自由において」)

となる。格好つけることは,結構肩がこる。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#石原吉郎
#詩
#高村光太郎
#道程

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2013年06月08日

好漢


先日,「情熱派営業マン橋本道至のたぶんスベらない話」に参加させていただいた。いわば,トークライブの観客から,いきなり,飛び入りで,トークライブの主役に名乗りを上げて,それを実現させた,その糞度胸に拍手を送りたい。

かつて,フランクルが言っていたが,どんな人も語りたい人生の物語がある,というのが,本当なのだとつくづく実感させられた一夜でもあった。

ファシリテーターの飯塚和秀さん曰く,「私『どなたとでもトークライブを開催できる』といつも話しているのですが,実際に作家でもなければ経営者でもない,『普通の会社員』の方とイベントを組むのは今回が初のケースとなります。」とのことであったが,どうしてどうして,人はどんな人もいかにユニークさをもっているかを実証した感がある。

僕の,橋本道至さんの第一印象は,好漢ということであった。好漢は,辞書的には,「好ましい男。気性のさっぱりしたよい男。快男子。」だが,似た言葉,たとえば,

快男子

快男児

好男子

と比較すると,「快男子」「快男児」は,ほぼ同義,生き生きした行動や活躍ぶりをほめていう。「好漢」も同じような意味ながら,「快男子(児)」よりも,やや愛すべき面が強調される。「好男子」には,美男の意味で使われる。

「愛される」というのが味噌だ。

好かれる,と置き換えてもいいが,人を好きになるには,いろんな理由を挙げられるだろうが,

好意の互恵性

というか,

好意の返報性

というのが,橋本さんの場合,一番当たっている気がする。

私たちは他者から好かれるとその人を好きにならずにいられないという傾向があります。

というのがある。橋本さんの話から拾ったエピソードは,たとえば,

客先で,延々とお客様が気持ちよく話しているのを聞いてくる…(用件は最後にちょこっと…)

インターホンの先で,お客様からどう映るかをイメージして,(インターホンを)押す

お店でも,「すいません」とは呼ばす,店員さんの名前で呼ぶ(名前を確認している)

コンビニのレジ打ちの人とも,僕と話したことで,今日も頑張ろう思えたらいい

喫茶店でも,片づけやすいようにテーブルの端に寄せる(相手も話しかけやすい)

等々。これって,好意の表現としか受け取れない。そこまで,好意を表現されたら,相手が,不快や,嫌悪を返しようがないのではないか。お客様の反応で,「橋本さんと話していると元気になる」というのがあったが,むしろ,ここには相手の好意が透けて気がする。

臨床心理学者のジュラートによると,もうひとつ,好意を懐かせるのに,「自己開示」というのがある。普通自己開示というと,「自分のことを話す」という意味だが,橋本さんと話していて,自分の内面や悩みを話しているようには受け止められない。しかし,

我がない

よく見せようという飾りがない

等々,トーク後の参加者からの感想にあったように,どちらかというと,格好つけるとか気取りとか,自分を隠す鎧が全くない(のかどうかは,本当のところはわからないが,受ける側に,ないように見える,聞こえるところが肝なのではないか)。

その意味では。剥いても,剥いても,いつも「同じ橋本さん」がいる,というふうに感じ(させるところ)なのだ。それは,自己開示と同じ効果を相手に与えているのかもしれない。

トークライブというのが,結果として,語られている中身やテーマ以上に,自分自身を開示し,表現させられる場なのだとつくづく感じるので,その意味で,

ああやっぱりこういう人なんだ,

という以上のものが特に際立って伝わったわけではないが,それが,(意識的にしろ,無意識的にしろ)自己開示(しているの)だとすると,好意の互恵性を引き出していく彼なりのノウハウなのかもしれない。これを意識的にしているのだとすると,自己開示に見えるようにふるまっている,ということになるのだが,そうは感じさせない,というか一見天然に見えてしまうのが強みだ。

橋本さん自身は,言葉にしてきちんと自分を語るのは苦手らしいし,口に出している途中で意図が変わったりするので,口ごもったまま,半分で消えかけた言葉がいくつかあった。たぶん大事なことが内心で表出されかけたのだと察せられる言葉がいくつかあった。それを拾っておくと,

自分がこの仕事をしている意味…

お役に立てるかなと考え…

対人コミュニケーション,お互い気持ちよく,お互い笑顔になる,

空気を切り替えたい

人と人をつなぐ架け橋

何処で役に立てるかの正解は相手の中にしかない

自分をブラックボックスに…

この奥にある,表現できない,生き方というか,対人コーピングを想像するに,自分の土俵の上で,あるいは自分の土俵の上に相手を引き込んで,相手に自分の話をしようとするのではなく,さりげなく相手の土俵の上に乗って,相手のそばにいて,話をしている,そういうスタイルなのだと感じた。

だから自分が主体的に形を作っていくのではなく,そのときの相手に合わせて,自分が凹んだり凸になったりと,相手に合わせて変えていける,変えることに抵抗がない,と感じた。

そのことのコアに,相手への好意がある,

と見たが,間違っているのかもしれない。

もしあのふるまいのすべてが,演技だったとしたら,もはや脱帽しかない。


参考文献;
奥田秀宇『人をひきつける心』(サイエンス社)


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#好意の返報性
#好意の互恵性
#自己開示
#奥田秀宇
#人をひきつける心
#橋本道至
#飯塚和秀

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2013年06月18日

正念場


正念場とは,性根の発揮が問われている場らしい。その人の根本的な心の持ち方が問われている,といいうよりはその人が生きているに値するのかどうか,が問われている場面といってもいい。

私の知人は,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11124764.html

でも書いたが,すったもんだした挙句転職した。転職に成功した。天職のはずであった。しかし,すでに後悔している,辞めると言いだしている。

それもあるかもしれない。思ったことと現実とのギャップもあるし,その職場が初めの顔とは違い,とんでもない本性をあらわすということもある。

しかし,性根が坐っていない。だから,「正念場だ」と伝えた。

いわば背水の陣と置き換えてもいい。水を背にして,韓信が趙を破ったように,そこを先途と必死になる場所がある。それが出来ず,手取川では,信長軍は謙信に敗れた。カストロは,上陸した地点で,上陸艇を壊して,背水の陣を上陸軍に示した。

まあ,こんな例をいくら挙げても本人にとっての正念場という自覚がなければ,馬の面に小便だ。半身ではだめだ。正対で,事態に向き合わなくては,突破口は自分に見えない。その事態の主役はおのれだという自覚がなければ,どうにもならない。

いわば,ほかならぬここが,自分の性根が問われている場所という覚悟を持たねばどうにもならない。

そういう場は,人生においてそう何度もない。僕は,あったか,と問われて,ある,と答えた。それがすべての原点だと答えた。なぜなら,その時ブロー体験を味わったのだと,後から思い知った。時間を忘れ,沸騰する脳細胞から湧き出てくるものを必死で形にした。人にはピンとキリという,才能の絶対的格差があることも思い知ったが,その自分の閾値を,身をもって知ったことが,自分というものの原点だと思う。いま考えても,あれ以上はできない,自分の最高レベルを達成した。しかし,それでも,世の中レベルでは到底かなわないのだ,という感慨も味わった。

しかしそこに絶望はない,どんなに脚力に自信があっても,ボルトと走ってかなわないと思い知ったところで,絶望するような人は,一度も自分の限界まで,自分を出し切ったことのない,生涯夢見る人でしかない。おのれを知るとは,そういうことだ。

もちろん気持ちよくなんかない。自分の程度を知って,快哉を叫ぶやつはいまい。しかし現実は現実だ。諦めというのとも違う。そういう自分の力量を前提に,精一杯生きるしかない,そういう見きわめといってもいい。

それは,不思議なことだが,その時は気づかない。後から振り返って,あれが自分の正念場だったと気づく。それをスルーしていたとしたら,気づくことはない。

なぜなら,そのとき自分が対処したコーピングが,その後の自分のやり方のパターンになっていることが多いからだ。成功体験というものかもしれない。しかし同時に,それだけではうまくいかないという選択肢も,同時に自分の中で育っている。たぶん,そのとき自分が,持っているキャパ一杯一杯まで伸ばし,拡大しきったことで,無自覚ながら,沢山の,そのとき使わなかった選択肢を,育てていたのだと思う。

人の能力は,知識(知っている)×技能(できる)×やる気(その気になる)×発想(何とかする)だと思っている。何とかするとは,いままで使ったこともない,考えたこともないことを発想し,発意し,着想し,実践しなくてはならないそういう場を経験しなくては,伸びないという意味だが,ひょっとすると,正念場をクリアするたびに,少しずつ自分というものの(自分が限界づけている)限度を,気づいていないが,広げているのかも知れない。

堀田凱樹さんも言っていた。

自分が遺伝的にもらった才能というのは,自分が思っているよりはるかに広い。それを開拓するということが,学習するということです。

だからか,振り返ったとき,いまから見ると,正念場だったという思いと同時に,もうちょっとやれたのではないか,どこかで諦めたのではないか,というかすかな悔いが,微妙な満足感とともに湧き上がってくる。

そして思う。自分の思う以上に,自分のキャパは大きいのではないか。だから,まだ,自分は,自分の持っている容量を目いっぱい使いきってはいないのではないか。器量,技量,度量という…。自分という「量」わ見くびってはいけない。

知人は,「いま,自分が仕事しやすくするために,できることはないのか」という僕の問いに,その場で,かすかながら,突破口を見出した。がんばれ,と口に出さぬが,心の中で叫んだ。

そこでできることをしないものに,そのできることをさせてくれる場が,向こうからやってくることはない。だから,僕は手放しで夢を語るやつをあまり信じない。いまいまおのれのすべきことをやっていない,共に何かをしたくないやつが多すぎる。いまなすべきことの見えないやつに,夢に逃げてもらっては困る。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

#正念場
#性根場
#背水の陣
#キャパ
#堀田凱樹
#酒井邦嘉
#遺伝子・脳・言語




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2013年06月20日

体が…


贄川治樹さんの第8回ボディサイコセラピー入門講座に参加させていただいた。今回のテーマは,「腹」。

確か三回目くらいだと思うが,前回,

感情とエネルギーのセンターはハートと腹。腹が力で,胸は愛。胸部は繊細,腹部には力がある。愛は腹の力で与えられる。呼吸を変えることで自律神経に変化を与えられる,とライヒは言っているそうだ。呼吸を扱うことは感情を扱うこと。呼吸の調整と感情の調整は関連がある。呼気は感情の表現。吸気は感情の保持。そして腕はハートの延長線上にあり,ハートの感情は腕を通して表現される。

と学んだことが頭にあり,直前になって,急遽参加を決めた。最近腹具合がずっとよくないのも遠因になって躊躇する背中を押した。

鍵は呼吸。ライヒは,ワークでわからなくなったら,呼吸を見ろ,と言ったそうだ。

リラックスした呼吸の脈動は,中心感覚を生み出す。感情エネルギーのセンターはハートと腹にある。

呼吸は,本来の自律的自然性が表現されていると同時に性格が反映する。

呼吸の再調整と感情の再調整は切り離せない。感情と呼吸の関連は本質的である。ワークで呼吸を扱うことは感情を扱うことであり,呼気と吸気のバランスは,感情の保持と表現のバランスでもある。

ワークでは,セラピー役の人が,クライアント役の人が仰向けに寝ているお腹に,手のひらを,何かしようとするのではなく,ただ置いて,相手の呼吸をはかり,

どんな感情が起こっているか
何を感じるか
口があれば何を言うか

等々と問いかけ,自分の体に起きていることを感じ取る,ということをやった。

僕は,まっすぐ仰向けに寝る習慣がないので,最初,金魚鉢を揺らすように不安定感(不安ではない)を感じていたが,そのうちに,問いかけられて,自分の中に,ずっと感じてきた思いが蘇り,それは,そのうちに,もどかしさを強く感じた。その瞬間,悲しみを強く感じ,涙が出そうになった。それは,後悔というものに近い気がした。しかし,それは取り戻せないものなのだろうか,そうではないのかもしれない,という思いも出た。

しばらく,周囲でワークする人の激しい動きや声に耳を奪われていたが,不意に,右足が消えている気がした。左足の体イメージははっきりわくのに,右足側は消えているのだ。それは,何だろう,自分がクラゲになった感じに近い。いつかタロットをする人に言われたのだが,下半身が透明だ,というのを思い出させるものだった。

それを自分は,やばいと感じてしまったらしく,それを受けて,セラピー役の人が,「空気を循環させては」といい,足から空気を吐き出したり,吸ったりしてみる(イメージで)という提案でもあった。それを受けてやっていくうちに,やがて埴輪の脚のような自分の体イメージが戻ってきた。

ふと思いだすのに,かつてタロットをやっている知人に,下半身が消えているといわれ,その後病気になったせいもあって,身体が透明になるというのに,いいイメージを持てなかったのが,そのまま受け入れられなかった遠因のように思える。

しかし考えると,そのまま自分の体感覚が消えて行くままにした方がよかったのではないか,そうした時,自分が透明なすんだ感じになっていく,そういう感覚を味わいたかったという気がしている。


最後で,お腹は,エネルギーの貯蔵庫で,

怒りのような激しい感情の出る,レッドエナジー



自分が溶けていくブルーエナジー

の二つのタイプがあると言われ,余計にもったいない感じがしている。あわてたのは,自分が,その感覚に馴れず,不安だったせいで,それを静かに受け入れることができなかった。ほんのとば口で引っ返してしまった心残りがある。その先に何が来たのか,ちょっと静かな仰望がわく。

僕がセラピー役をやった時は,相手は,何も起きないと言われた。しかしなんだか退屈そうな印象があり,起き上ってみたらどうかということで,結果としては,何かにぶつけたい力の発揮を求めている感じで,「痛いから」とか「悪いから」というのを強いて,構わないからと,力いっぱい押してもらった。

凄い力で,歳のせいか,ずるずると押された。あちこちの筋肉が軋むような激しい力で押され,背後に椅子を支えで,かろうじて耐えた感じだ。それでもまだ,全力ではなく,加減している,という。

まさにエネルギーの貯蔵庫だ。好対照な二人のワークであった。


今日のアイデア;
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#贄川治樹
#ボディサイコセラピー
#呼吸
#レッドエナジー
#ブルーエナジー
#ライヒ





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2013年06月24日

違和感


たとえば,個人的でも,何かの場においてでも,人と断続的に関わっていて,結構踏み込んだ会話をするようになったとする。そのうちに,相手に自分との関係についての姿勢のようなものがほの見える。たとえば,時間的空間的に制約を設ける感じを受けて,相手に,変だな,と感じたとする。それが何度か重なると,ちょうど,会話は弾んでいるようでも,手でこっちを突っ張っているような感じを受け,ああ,それ以上踏み込んでこないでというシグナルなのだなと感じ,その相手の薄い隔てを嫌だなと思うようになり,やがて,その常態が,はっきり見えてくるようになると,こちらへの警戒心か,境界感か,いずれにしても,明確な距離設定,この人とはこういう距離感でいこうというのが見えてくる。その瞬間に,相手の僕への評価が見え(たような感じがして),つきあいそのものの未来が見えた気がする。そうなると,今度は,僕が距離を明確に置くようになる。いきなり,断絶することも,徐々に遠ざかることもある。

好意の互恵性

というのがある。相手から好意を感じると,相手に好意を返す。相手に好かれていると,相手を好きになる。しかし,それは逆もある。相手の距離感を感じると,相手に距離感を感じる,というように。

それは自分の受け止めなので,そう感じたけど,本当はどうなの?等々とは決して確かめない習慣になっている。言葉を信じていないわけではなく,そういう自分の体感覚をコトバで確かめてみても仕方がない。聞かれた方だって,答えようがないはずだ。だから,そんなことはない,という。しかしそれを確かめること自体,不明確だったり,感覚的だったり,あるいは無意識だった距離そのものを,意識させることになり,結果として距離ができることになる。

しかしこれは,あくまで「僕の問題」なのだ。対人関係から言えば,「二人の問題」あるいは「関係の問題」として,それに二人で向きあえばいい,と言われるかもしれない。恋人同士や友人同士なら,そういうこともあるかもしれない。しかし,僕は,これを「僕」の問題と感じる癖がついている。というよりあくまで,「僕の」感じ方の問題に過ぎない。それが正鵠を射ていようと外れていようと,ぼくの対人評価の問題で,それによってもっと近づくか離れるかを決めているだけのことだ。だから,両者の関係の問題,「僕」の問題ではなく,「二人」の問題というようには受け止めても仕方がない。

それを口に出して,質してみると,そう意識していたのではないと言うかもしれない。いや,言葉を濁すかもしれない。

いずれにしろ。そうすると,両者の関わりとして,意識され,どっちにしても,何となくお茶を濁すか,足して二で割るか,正面から正すか,まあそういう解決をすることになるだろう。でも,その解決は,僕の心の感触とは別の解決になる。すでに,感触では答えは出ているのに,言葉レベルでいくら積み重ねても,僕の結論は変わらない。

だから,僕はそもそもそれを口に出そうという気にはならない。それはあくまで,僕の問題に過ぎないと思っているからだ。

客観的に,変かどうかなのではない。そう感じた自分の中に,相手への違和感がある。常に,パースペクティブは自分のものでしかない。だから,視界に感じた違和感を,自分の中で,確かめ続ける。その違和感は,無意識に出た相手の意思と見ているのかもしれない。そう受け止めているのは確かだ。

だとすれば,それを口に出して確かめても仕方がない。その意志は無意識だけれども,表現されている。

確かにいちいち確かめるのを憚る気持ちがなくもないが,遠慮というのとも違う。

自分の中のその感触を,しかし,猜疑心のように勝手に増幅させているのではない。毎回確かめている。言い方は悪いか,検証している。

それを,あくまで自分の感じ方の問題だと思っているからだ。そう受け止めた自分の側でそれを確かめ,確信が持てたら,相手の意思を確かめることもなく,さようならを言う。そういう癖になっている。

マザー・テレサは,こう言ったそうだ。

思考に気をつけなさい,それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい,それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい,それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい,それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい,それはいつか運命になるから。

そう,だから,自分の運命になっている。

僕の問題を,誰かと一緒の問題にはできない。あくまで自分が処理すべき問題なのだ。だからといって,人のせいにはしない。あくまで僕の問題なのだ。

今日のアイデア;
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#マザー・テレサ
#運命
#好意の互恵性
#ハロー効果


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2013年07月02日

孤独


どうも孤独とか孤立がマイナスのイメージで語られるのが,僕には,しっくりこない。

孤独であることを選ぶとは,おのれひとりで立てるということではないのか。
孤独であることを選ぶとは,おのれ自身というものを大事にするからではないのか。
孤独であることを選ぶとは,おのれひとりでしかできないことがあるからではないのか。
孤独であることを選ぶとは,おのれひとりの器量を頼らなければ誰も頼れないからではないのか。
孤独であることを選ぶとは,おのれひとりで世界に立ち向かう必要があるからではないか。
孤独であることを選ぶとは,おのれひとりでしか戦えないことがあるからではないのか。
孤独であることを選ぶとは,おのれひとりで戦う勇気があるからではないのか。
孤独であることを選ぶとは,おのれひとりの技量と力量だけでやり遂げようと思うからではないのか。

何かべたべたとやわにひととつながるのを,僕はよしとしない。ぎりぎりの孤独と孤絶の中に立ったことのない人を僕は信じない。どこかにもたれ合う心を感じる。とことん極限状態のなかで仕事を一緒にしてみるとわかる。一人で立てないものは,共には立てない。

吉本隆明の,

ひとりつきりで耐えられないから
たくさんのひとと手をつなぐというのは嘘だから
ひとりつきりで抗争できないから
たくさんのひとと手をつなぐのは卑怯だから
僕はでていく(「ちいさな群れへの挨拶」)

そして,

ぼくの孤独はほとんど極限に耐えられる(「同」)

という。そういう志なしに,やたらと群れるのを僕は,いさぎよしとしない。

そこに,甘えはないか,
そこに,逃げはないか,
そこに,言い訳はないか,
そこに,回避はないか,
そこに,安心はないか,
そこに,依存はないか。
そこに,心やすさはないか,
そこに,防御はないか等々。

どこかに自分で立つのを逃げている,避けている心がある。その弱さを,人によって助けてもらおうとしている。

「思い群ならず」という,杜甫の言葉がある。李白をほめたたえた詩の中で,

白や詩敵無し,飄然として思い群ならず

とある。これもその一つだ。牧水の,

白鳥は哀しからずや空の青海のあをにもそまずただようふ

も,どちらかというと,僕には矜持に聞こえる。強がりかもしれない。しかし強がりにこそ,おのれがある。強がってみなければ,自分の境界線も,閾値も見えはしない。

石原吉郎の詩に,

私が疲れるのは
私の自由において
私が倒れるのは
私の自由において
いつの日にあっても
私が倒れうることを
自由なその保証として
私よ たじろがず
自由に立ちつづけよ(「私の自由において」)

とある。その自由は,孤独の中にしかない。つながりは目的ではない。一人一人が自立して,おのれの拠って立つものを持たなければ,弱い。サッカーの本田圭佑が,「個」をあえてあそこで言ったことには意味がある。もたれ合っては,チームは成り立たない。

優れたサッカー選手は,グランド全体を俯瞰する視点を持ち,試合の流れの中で,自分がどうポジショニングすることが,自分が有効かを絶えず考えている,と言われる。「個」とは,そういう自分の立ち位置を自分の責任で決めることだ。目前のボールを追っかけているような選手には,たぶん孤独はない。

よくトップは孤独だという。それを本人が言ったら,「あほ」だと僕は思っている。自分の下に何万いても,自分の代役はできないという意味で孤独だが,その孤独は,自立した孤独であり,孤独でないトップは,信ずるに足りない。ここでいう,孤独とは,誉め言葉でなくてはならない。

たった一人で,おのれと,さらには何かと戦うことのできない,そんなやわな精神で,人とともに立てるのか。

これが僕の命題だ。

鳥羽伏見で敗れ,逃げ帰った徳川慶喜に代わり,それまでの慶喜との確執もこだわりもすべて擲って,黙ってすべてを引き受けた勝海舟への,いわれなき諭吉の批判に,

行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せずと存候。

こう返事した。この勝の強烈な矜持が好きだ。ここに「孤独」の理想を見る。

非礼であると承知のまま
地に直立した
一本の幹だ(「非礼」)

だから一切の言い訳を言わない。

おれにむかってしずかなとき
しずかな中間へ
何が立ちあがるのだ
おれにむかってしずかなとき
しずかな出口を
だれがふりむくのだ
おれにむかってしずかなとき
しずかな背後は
だれがふせぐのだ(「しずかな敵」)

静かに,屹立する個でなくてはならない。でなければ,手をつなぐことは逃げだ。

草莽崛起

と松蔭がいったとき,「恐れながら天朝も幕府もわが藩もいらぬ,ただわが六尺の微躯あるのみ」と書いた。その矜持であり,自負がなくてはならない。

村上一郎は言う。

草莽が自らを草莽とみなすのは,…誰に選ばれるのでも命ぜられるのでもなく,ただ自任あるのみ…

と。そこには,孤独などという言葉が挟まる余地すらない。

参考文献;
村上一郎『草莽論』(大和書房)

今日のアイデア;
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#勝海舟
#吉本隆明
#石原吉郎
#村上一郎
#草莽論
#本田圭佑
#徳川慶喜
#吉田松陰
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2013年07月06日

起き方は生き方


FBグループ「俺たち、早起き賊」(飯塚和秀氏主催)のイベント,【第9回 早起き賊の会】に久しぶりに参加させていただいた。

https://www.facebook.com/home.php#!/events/586838054681904/

毎朝,3時だ,4時だ,5時だと,起きた時間を,フェイスブック上の「俺たち,早起き賊!」グループに,競うように書き込んでいる人たちの,リアルでのイベント。久しぶりに参加したが,つくづく,「どう起きるか」はどう生きるかに通じている気がしてならない(ただ付け加えておくが,「早起き」だけを限定して言うつもりはない)。

目が覚めたから起きるのではなく,目覚めようとする意志がある。もちろん意思通りにはならないことはあるにしても,そうやって朝を迎えるということは,少し我田引水的に言うと,それなりの生き方の意志が現れている,といっていい(遅く起きる意思も当然ある)。

今回も,(というか,以前はルノアールの会議室でやっていたので,こういうスタイルだったかどうか覚えていないが)参加者各自から,アジェンダを出し合い,話す方向を決めていく。で,出されたのは,

●早起きが苦手,早起きの良さを教えて!

●最高何度寝までやさったことがありますか?

●早起きして超ゼイタクに使った経験は?

●社会人になったらひるねをどのようにとっているのか?

●質の良い睡眠を取る工夫は?

●すぐ目覚めないためにはどうしたらいい?

●最低睡眠時間(絶好調!)

●連続何時間寝る?

等々。結構生真面目に考えている。

総じて使える時間が多くなる,というプラス評価に加えて,

決断には朝がいい,

という積極的な話まで幅広く出た。内定の決まった学生(中澤皐)さんから出た,

社会人になったらひるねをどのようにとっているのか?

には,どう昼寝するかという昼寝の方法論よりは,

昼寝が許されるように認知されること,

という極めてまっとうな反応が出ているところが,生き方に通じると冒頭で言ったこととつながる。昼寝ができるかできないより,その組織で,昼寝できる(もっといえば堂々と昼寝ができる)ポジショニングを得ることだ,という答えの出し方に,その人がどう組織で,社会で生き残っていくか,あるいは勝ち残っていくか,の方が大事だと切り替えしているともいえるところが,この通称「賊の会」のメンバーの性格を表していると思える。

連続28時間寝続ける,

1日1時間睡眠で最長6日,いまなら1日2時間睡眠で3日,

という酋長加藤実さんの伝説的な記録はともかく,その背景には,猛烈に働き続けているという,仕事中毒のような生真面目さがあって,その記録があると考える方が,まっとうな受け止めだろう。

つまりは,

何時間寝るか,

とか

何時に起きるか,

は,実はどう生きるか,どういう働き方をするか,どういう仕事の取り組み方をするかと,リンクしている。あくまで,その生き方の現れとして,早起きがある。意味なく早起きするのではなく,

翌日の仕事のため,

であることが圧倒的に多い。だから,「超ゼイタク」な過ごし方が,

大リーグ中継の2試合連続観戦,

ゲームを18時間やりきる,

ただひたすらぼっとする,

等々だったりするのは,そういう時間を取らなければ,体や心が言うことをきかなくなる,その調節としての「ゼイタク」の消費なのだと思う。

実質的に,よく寝るためには,

ビタミンとミネラルのバランスのとれた食事,

手足を冷水で冷やす,

というアドバイスまで飛び出した,実に有効な90分であった。

思うに,これが夜の寝入り方でも,目覚めた30分の過ごし方でも,睡眠にまつわることを切り取ってみると,結果としては,その人の生き方の部分を切り取っているので,そこだけが特異なのではない。生き方全体の基調とリズムと基本姿勢が,そこに必ず現れている,そんな気がする賊のオフ会であった。

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#早起き賊
#早起き賊の会
#FBグループ「俺たち、早起き賊」



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2013年07月07日

きりつめた語句~石原吉郎の詩と死をめぐってⅦ


石原吉郎には,

孤独



極限状況

が似合う。シベリア抑留で,理不尽な死に直面した石原には,修羅場が見えている。

こんなことを書いている。

人間の体験のなかには,よしんばそれが共同の体験であっても,絶対に共有できない部分があり,その部分を確認することだけが,かろうじて<私が生きた>という実感につながる。そして,その実感を逆に私自身に確認させること。<私の>詩が私にできることは,それだけである。<詩に何ができるか>を一般に問う場は,私には欠けており,欠けたままである。(「三つのあとがき」)

人とは絶対に交わらないもの,そこが自分の自分らしいところなのだ,という感覚は大事だ。もう少しいうと,人と人は錯覚で共有できていると思い込んでいる。その錯覚をはぎ取ると,寂寥感が湧く。そんなもの見ない方がいいのかもしれない。知らないで能天気でいられたほうがいいのかも…。

では,死に近づく日々,何を考えているのか,石原の遺稿詩集『満月をしも』から,いくつか,拾い上げてみた。そこにどんな死が見えるか。それは生き方の極限,どん詰まりといっていい。

おれの理由は
おれには見えぬ
おれの涙が
見えないように
(「理由」)

「理由」と「涙」とを対比させるところに,石原の特徴がある気がする。わけがあって生きているのではない。生きているからわけが出る。こんな感じなのだろう。

瞬時にそのざまとなったのでない
すくなくとも引返しのきかぬ
前提があり さらにその前提があり
前提においてわれらのひとりずつがあり
そのうえで言逃れのきかぬ大前提が
すっくと立ちあがるのだ(「前提」)

それをおのれの選んだ人生のつけという。いくつもの分岐点を,意識的に,あるいは無意識に,選び取った果てに,いまの自分がある。そのことに,是非の評価はいらない。結果はいまの自分そのものだからだ。あるいは,一瞬の因果のもっと奥で,ひょっとすると,生まれるに至ったそこのところに,大本があるかもしれない。ならば,いまさら,寂しいとは言ってはならない。

あとへ曳くなら
曳かせておけ
横へ曳いたら
横へ曳かせろ だが
その影に
「寂しい」とは
一と言も言わせるな(「影」)

でも,自分を置き去りにしたくなる。した後から,執拗に影が立つ。そんな自分の執着が立つ。自分へのこだわりが立つ。一旦捨てようとすると,際立つものがある。

私は私に耐えない
それゆえ私を置き去りに
する
私は 私に耐えない それゆえ
瞬間へ私を置き去りにする
だが私を置きすてる
その背後で
ひっそりと面をあげる
その面を(「置き去り」)

そのくせ自恃の念は強い。だからこそ,というべきか。おのれの矜持と自負が,おのれを支える。それを形として示せば,こうなるのだろう。言ってみると,仁義を切るような,あいさつで,出処進退で,振る舞いで,それを示す。

いわれなく座に
耐えることではない
非礼のひとすじがあれば
礼を絶って
膝を立てることだ
膝は そのためにある
そろえた指先も
そのためにある(「控え」)

あるいは,それを目方で形にしようとするなら,こういうことか。

おれひとりで呼吸する
おれひとりで
まにあっている
世界のちいさな天秤の
その巨きな受け皿へ
おれの呼吸を
そっとのせる(「呼吸」)

そして,やっぱり屹立する。その感じに惹かれる自分がいる。あえて屹立する。草莽崛起という言葉を思い出す。目立つわけではない。ただ,不意に立ち上がるから,目立つ。

隠蔽するものの皆無なとき
すべては平等に死角となる
隠蔽ということの一切の欠如において
われらは平等にそして人間として
はじめて棒立ちとなるのだ(「死角」)

最後に,好きな詩をひとつ。こう励ましておこう。それが孤立するおのれの賛歌だと感じて。

私が疲れるのは
私の自由において
私が倒れるのは
私の自由において
いつの日にあっても
私が倒れうることを
自由なその保証として
私よ たじろがず
自由に立ちつづけよ(「私の自由において」)

でも蛇足のように,僕は何か言いたくなる。で,最後はこう締めくくる。

無ければ それでいいだろう
そこまでで
もう無いなら(「無題」)

珍しく,「題」がない。僕は題がない作品は,絵でも,詩でも,小説でも,未完だと思っている。僕には,これが最後の作品に思える。思案が定まらない,というか,これで行く,という決断が下りないというか,題を最初に着けるにしろ,最後に着けるにしろ,観る(読む)人への挑戦のはずだ,題は。それが未完なのは,ギロチンで処刑されようとする貴族が,読みかけの本のページを折ったように,まだこれから題を考える,という姿勢に見える。

今日のアイデア;
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#石原吉郎
#詩
#遺稿詩集
#満月をしも
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2013年07月13日

自己限定との格闘


まあいいか,
こんなもんか,
しゃあない,

といった自分の声と戦ってきた。誰もがそうだが,内心で自分に諦めというか,諦念を誘う声がいつもある。その方が楽なのかもしれない。

一生自分との戦いは続く。自分を受け入れるというのは,自分をそのまま受容すること,しかしそれはいまの自分に自足することではない。いまの自分の生き方やいまの自分のあり方やいまの自分の振る舞いに,「是」ということではない。それは,いまの自分だが,自分はこんなものではない。自分の持つはまだ可能性まだ出し切れてはいない。いわば,遺伝子は開花しきっていない。そう自分をけしかけることとは矛盾しない。

それは「ユメ」を基準にするとよくわかる。

こころの中にいつも「ユメ」を描き続けている。おのれの才能の限界に,とことん見きわめさせられた。でも,まだどこかに信じている。

人生の道のりと「ユメ」との距離は釣り合いが取れているのかどうかはわからない。確かに近似のユメなら叶えたかもしれない。しかし,その都度,「ユメ」はますます高みに遠ざかる。

例えば,起業する,会社を興す,独立する,何々になる,ということなら,カタチを創ることは簡単だし,それでユメのとば口にはたどり着ける。しかしおのれ一個の才を頼むモノは,あるいは,おのれ一個の才能で,世に立とうとするものは,そこに才の限界というか,超えられない淵を見せつけられる。あるいはおのれの閾値といってもいい,限界といってもいい。

それを見せつけられると,限りなく落ち込む。比べている,と言われるかもしれない。しかし絶対的な才能の格差はある。これだけはどう努力しても追い付かない。それがわかって初めて,おのれらしさというか,おのれの個性とは何か,おのれのオリジナリティとは何かを,考えさせられる。それを考えなくては,その屹立する才能と伍して生きてはいけないからだ。

逃げ出したくなるのをかろうじて踏みとどまって,そこでおのれと戦う。

その場に佇立するために,必死でおのれのいいところを数え上げる。強みとは決して言わない。なぜなら強みというには,客観的立ち位置に立たねば見えない。そんな位置に立てる余裕はない。

かろうじて藁しべのようにおのれのいいところを数え上げ,それにすがりついて,立ち直り,また歩き出す。

小さな山なら,一杯制覇した。しかし幾つそれを制覇しても,屹立する「ユメ」の頂は,ますます遠くなる。それが踏破できない限り,見劣りのする小山は,ますます低く見え,かの頂はますます高く聳えていく。

小さな山のことは,旗について触れたところで,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11156432.html

具体的に挙げた。しかし,所詮,小山に過ぎない。周囲の山をいくつ踏破し,頂を極めても,それは周囲に過ぎない。

人は死ぬまで可能性の中にある

とハイデガーが言っていたと思うが,その「可能性」はあくまで,そうなるかもしれないということにすぎない。しかしその伸びしろを信ずるよりほかにはない。

良くも悪くも非才なのに,よくここまで来たと思わないでもない。しかし小山は小山。「ユメ」は「ユメ」。「ユメ」の頂から見れば,地を這うような生き方に過ぎない。その意味で,小山の一つや二つでは,残念ながら,頂へのステップにもなっていない。


今日のアイデア;
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#ハイデガー
#ユメ
#夢
#のびしろ
posted by Toshi at 04:48| Comment(4) | 日記 | 更新情報をチェックする