2013年04月27日
30秒ルール
ミーティングとか話し合いというのが,大事には違いないが,別の視点からそれを考えてみたい。
たとえば,チームのコミュニケーションといった場合,それには,いくつかのレベルがある。
たとえば,他部門や上位部門を含めた組織内のタテ,ヨコのコミュニケーションのレベルや仕組みがあることが前提になるが,チーム内には3つのコミュニケーションのレベルがあると思う。
①チーム全体としてのコミュニケーション
チームは何をするためにあるのか,そのために何をするのかという,目的や方向性を確認し,そのために,ひとりひとりが何をするのかを確認し,すりあわせ,フォローしていくレベルである。
②業務遂行レベルでのコミュニケーション
仕事を現実に遂行していく上で,上司とメンバー,メンバー同士,場合によっては,他チームや上位者とのコミュニケーションを,日々,年度を通してしていくレベルである。たとえば,チームのおかれている状況認識の刷り合わせ,正確な情報の共有,問題意識の共有,ノウハウ,知識・経験の共有化。そのために報連相,ミーティング,打ち合わせ等々。
③個々のメンバー同士の一対一のコミュニケーション
必ずしもインフォーマルだけではなく,仕事の上でも,私的に問題意識を交換したり,雑談したりするコミュニケーションのレベルである。たとえば,日頃からキャッチボールの機会を確保し,問題意識をすりあわせられる。懇親,親睦の他,何気ない会話のできる職場の雰囲気づくり等々。
チームのリーダーにとって,チーム全体のコミュニケーションと業務遂行レベルのコミュニケーションがなくては,チームとして機能しない。もちろん,雑談や喫煙ケージでの会話というのは重要ではあるが,チームとしてのコミュニケーションの土俵があってこそ意味がある。
その意味で,リーダーと部下全体,リーダーと部下ひとりひとり,部下同士のコミュニケーションをするための,お互いが何について話しているかを共有できている場,それを土俵と呼ぶとすると,それにはふたつある。
●上司と部下,先輩と後輩,同僚同士といった,役割に基づくコミュニケーションの状況(機会)づくり。
●そのつど,その場その場の,私的コミュニケーションの場づくり。
コミュニケーションのレベルと関連づけると,前者が,チームレベルや業務遂行レベル,後者が一対一レベルにあたる。チームレベルや業務遂行レベルでのコミュニケーションがなければチームとならない。しかしチームメンバーひとりひとりが何をしているのか,何を考えているのか,何を思っているのかを知らなくては,ひとりひとりの仕事をただ足しただけの集団になる。もちろん,ふたつの土俵が別々に必要というわけではない。一緒に役割を果たすこともあるし,別々に設定しなくてはならないこともある。ただ,チームには,この両輪のコミュニケーションが必要なのである。
つまり,コミュニケーションの機会はさまざまあるが,そのつど何のためにそれをするのかという目的意識を明確にもち,それを相手にも伝えなければ,単なる情報のやり取りで終わる。当然ミーティングの目的と立ち話の目的は違う。
しかし,一番効果のあるのは,意図のない会話を,意図を持ってやることだと思う。
それは,日々何気ない立ち話をすること,それをどう意識的なコミュニケーションの手段にするかだ。
例えば,上司が,日に何度も,「どう?うまくいってる?」とか,「必要があったらいってね?」などと声をかける,とする。そうすれば,初めはうるさく感じても,少なくとも,上司が自分を気にかけてくれていることだけは伝わる。ある調査では,部下との接触頻度が3回以上接触あると,親しみを感じるというデータもある。
それを,いわば,相手との土俵づくりのきっかけにするのである。後は,日に何度か,立ち話で,情報交換ができるようになればいい。形式ばった報連相とは別に,私的に報連相を重ねられるようになるだろう。信号待ちの30秒程度の立ち話でも,積み重ねることで,十分相手とジョハリの窓でいうパブリックを広げることはできるのである。
立ち話のいいところは,相手が身構えをするいとまがないうちに,話をするところだ。この場合,土俵を考える必要がない,というところだ。土俵については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10977211.html
でも触れたが,いわば,一緒に話をするためのセットアップのようなものがないと,話したけど聞いていないということが起きる。しかし立ち話というか,すれ違いざまの会話は,そもそもそういうことを必要としない,ある意味,世間話程度,声掛けの延長だと思っていればいい。だから,相手も,身構えを捨ててくれる(かもしれない)。
ザイアンスの法則ではないが,単純接触効果というのも,馬鹿にはならない。その意味で,すれ違いざまに,「どう?」と声をかける。信号待ちの30秒でも相当の会話はできるのではないか。
そんなことを考えていたら,グラッサーがこんなことを書いていた。
余りにも多くの教師や上司は,生徒や部下に対して,温かく,友好的に,そして支援的に接することがどれほど必要であるか分かっていない。これは手間のかかることではない。一日に数分,相手を注目するだけで,すばらしい効果があらわれる。
まさにそれを行動で示すだけだ。
参考文献;
ウイリアム・グラッサー『選択理論』(アチーブメント出版)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2013年06月19日
暗黙知とリーダー
人は,閉鎖システムであり,オートポエーシス理論の提唱者,フランシスコ・ヴァレラは,主体的個人の「自己(self/identity)」は五つのレベルの閉鎖システムで定義される,と言っている。
第一は,生命体の最小要素は細胞レベル。「生物的自己」
第二は,免疫レベル。身体的同一性を保つ。「身体的自己」
第三は,行動レベル。知覚器官をもとに行動するレベル。「認知的自己」
第四は,人間社会における個人のレベル。「社会的自己」
第五は,個人が組織化されたレベル。「集団的自己」
人間の想像力が,上位レベルへの創発の原動力だという。ここでは,作動することとそれを観察することとが同一に同時に行われている。つまり,自分のしていることを自分でモニタリングしている。そうすることで,自律性が保たれ,一貫性が保たれる。
生命体とは,機械と異なり,設計図なく自分で自己を創出していく自律的なシステムである。その作動の仕方は,外界に対して,自分の中から,その固有の歴史に依存して,対応していく。いわば,リソースは自分の中にある。それが生きるということだと言い換えてもいい。
西川アサキという人がコンピュータ・シミュレーションによって,面白い実験をした。閉鎖系システムと開放系システムで,集団がどう変化し,リーダーがどう出現するかをみている。
システムが他律的で,機械のように開かれていれば,適切な情報伝達と入出力操作によって,世界像を完璧に共通化し「客観化」していくことができる。しかし生命体のように閉じていれば,情報の意味を主観的に解釈するプロセスが入るので,どうしても差異や不透明さが残る。
結論を言うと,開放システムの場合は,リーダーが一人出現する場合もあるが,多数のリーダーが乱立したり,全くリーダーが出現しなかったりする。一方,閉鎖システムでは,必ずリーダーが安定して出現する。
この理由を,西垣さんは,こう整理している。
開放システムでは,各メンバーにとって世界があまりに「透明」に見えすぎ,瞬間的にせよ,そこには一元的で絶対的な価値観(世界観)が生まれる。わずかな周囲条件(外部環境)の変動に敏感に反応し,グローバルな状況が急変する。外部環境に他律的に依存するために,唯一のリーダー,複数のリーダー,リーダーシップなしの間を揺れ動く。
一方,閉鎖システムは,各メンバーにとって,世界は不透明であり,それぞれ保守的に自分なりの価値観を維持しようとする。その意味で安定している。グローバルな状況としては多元的で相対的な価値観が併存する。と同時に,一人のリーダー,つまり一元的価値も生成されやすい。そういう一元的な価値観のもとでこそ,集団における相対主義も存立しうる。
このシミュレーションが示唆するのは,こういうことだ。西垣さんは,オープンな社会が必ずしも望ましくないことを示している,と言う。つまり,
人間が自律性を失って開放システムに近づくと,社会がいわば透明になりすぎ,外部環境の変動にともなって,「絶対的リーダーへの一極集中/多極化/完全な無秩序」といった諸状態の間をぐるぐる彷徨することになりやすい。
これに対して人間本来の閉鎖性が保たれていれば,それぞれが自律的で唯一の尺度は存在しないにもかかわらず,社会のなかに一種の慣性力が働いて,安定したリーダーが生まれる。
こういったリーダーに対するほどほどの従属関係がある時の方が,世界の崩壊は起きにくい。逆に,メンバーにできるだけ透明な情報伝達と一元的な価値観を強制する独裁社会の方が,多様性に基づく値がまれず,世界は不安定になる。
実はこのリーダーシップとメンバーの従属関係に基づく階層構造は,ポラニーの暗黙知の構造と深くつながる。ポラニーの暗黙知の構造は,
「諸細目(particulars)」と「包括的存在(comprehensive entity)」との二項関係からなるダイナミックスである。前者は近接項,後者は遠隔項にそれぞれ対応する。
たとえば,顔を認識する例で考えると,
まず,相手の眼,鼻,口,額,頬,顎などの「諸細目(近接項)」にちらっと目を向けるが,いつまでも続くことはない。われわれの注意はすぐに諸細目から離れ,顔全体という「包括的存在(遠隔項)」に移行する。といっても,諸細目は完全に忘れ去られるわけではない。相手の顔を認知識別しているとき,われわれは相手の眼や鼻などの諸細目を無意識に,「顔全体の姿」のなかにしっかりと感知しているのだ。それらは潜在化し,明示的に語られないものの,顔全体の「意味」を構成しているのである。
つまり,下位レベルの諸知覚器官による認知観察行動は自律的におこなわれ,脳はそれらを完全に統御しているわけではない。しかしそれなしでは「顔という全体」を認知できない。
こういうダイナミックスは,リーダーとメンバーも同じなのではないか。
リーダーは集団の代表であり,リーダーの言動は事実上社会組織の言動とみなされる。それは,暗黙のうちに集団個々の構成メンバーの言動によって支えられている。逆にいえば,個々のメンバーの主観を反映した対話や行動をもとに上位レベルのリーダーの言動が生成され,逆にリーダーレベルからみれば,個々のメンバーの言動は無意識のレベルにある。
いわば,個々のメンバーの「諸細目」とリーダーという「包括的存在」のセットで暗黙知を形成している。諸細目の無意識(メンバーレベルでは無意識ではない)とのダイナミックなやり取り抜きでは,組織の活力は生まれない,という当たり前のことを言っているのかもしれない。
参考文献;
西垣通『集合知とは何か』(中公新書)
西川アサキ『魂と体,脳―計算機とドゥルーズで考える心身問題』(講談社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2013年11月24日
仮説
野中 郁次郎氏の言葉(知識は思いの客観化プロセス)をもじると,仮説を立てるというのは,
おのれの思いの客観化プロセス,
であると思うが,検証されるまでは,妄想に過ぎない。しかし,だからと言って,
集めた情報から読み取った結論,
数字の統計処理から結論づけられた数値,
は仮説とは呼ばない。そんなものは,誰がやっても同じ結論になる。誰が読んでも同じ結論になるようなものを仮説とは呼ばない。
誰も読み取らないような意味をそこから読み取るから,仮説として立てる意味がある。
その根拠は,甚だ主観的なものだ。
あれ?
何これ?
どうして?
何か変?
そういう自分の直観である。それは,ある仕事に携わって,あるいは担当して,三年以上たっていれば,当然,
当たり前感,
当然そうなるはず,
順調感,
といったビジネス上で,円滑というか順調というか,そういう当たり前感がある,その当たり前感に,わずかな違和感を覚えたとしたら,そこに何かがある,そう考えるのが当たり前である。
ベイトソンは,
情報の1ビットとは,(受け手にとって)一個の差異(ちがい)を生む差異である(のちの出来事に違いを生むあらゆる違い)。そうした差異が回路内を次々と変換しながら伝わっていくもの,それが観念(アイデア)の基本形である。
と書いた。僕流に言い換えると,情報とは差異である,ということだ。つまり,
人と同じところを読んだって人と同じことしか出ない,
ということだ。とすれば,
人とは違うところ,
人が当たり前とするところで,わずかに感じた違和感,
を大事にする。数値でも同じだ。
何か気になること,
引っかかるところ,
があるはずだ。たとえば,何某が,4.0となっていたとする。その.0と丸めたところに着目しなくてはならない。
4.00
なのか,
4.04
なのか,
0.4001
なのかによっては意味が違う。そういう微妙な差異にこだわる。統計処理された結果だけを云々するのは,仮説を立てようとする人間のすることではない。
統計処理されたとき,意図的か無意識的か,数値を丸める。その丸められたところに,意味があるかもしれないのである。結果だけからものを推測するのは,誰にでもできる。仮説をわざわざ立てるのは,そこではない,人の着目しないところを着目する。
ピーター・F・ドラッカーは,
情報とは,データに意味と目的を加えたものである。データを情報に転換するには,知識が必要である,
といった。それは,違う言い方をすると,我々が目にする情報は,
意味と目的によって,鉛筆が舐められている,
ということだ。意図したかどうかではない。情報とは,基本,そうやって主観的に整合性を取らなければ,情報にはならない。
その意味で,仮説を立てるものは,
情報の読者,
になってはならない。あくまで,別の視角,別のメタ・ポジションから,情報を俯瞰する観点を持たなければ,読者となり,情報発信者の丸めた(整合性をもたせた)情報を,意図通り読む羽目になる。
そのカギは,おのれの問題意識,もっとはっきり言うと,
疑いの目,
しかない。たしかに,
疑う,
疑問をもつ,
というのはメタ・ポジションではある。それには違いないが,しかし,それが狭い管から見ていることに変わりはない(「管見」とは言い得て妙)。
だから,人によって,着眼が違うのである。そこから出る結論は,情報分析(に限らないが)は,
自己完結してはならない,
ということになる。
自分の中からだけからは,自分なりのゆがんだトンネルビジョンしか得られない。他人というもう一つのメタ・ポジションが必要なのである。
別にこれは仮説には限らないが。
参考文献;
P・F・ドラッカー『経営論』(ダイヤモンド社)
グレゴリー・ベイトソン『精神の生態学』(思索社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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