2012年10月27日

脳は何でも知っている~相手の可能性を信ずるとはどういうことか


ミルトン・エリクソンは,若い頃の自分の体験で,迷い馬に出会ったとき,ただその馬に跨って,馬の行きたいところにしたがい,馬の歩くにまかせ,やがて,飼い主の牧場にたどりつき,戻ってきた馬に飼い主が驚いた,という逸話を,無意識を信ずるという例として,紹介していた。
最近の脳研究では,人が自分の意思する意図を意識の上るのが,実際に運動が生ずる150ミリ秒前,さらにそれよりも400ミリ秒も前に,脳の運動神経系の活動電位が変化している,という。つまり,手を伸ばして,コップを取ろうと意思する150ミリ秒前に,無意識は動いており,それより400ミリ秒も前に,脳は動かそうという活動開始している,というわけだ。
脳が損傷し,意識的な笑い顔が作れなくなっても,脳は自然に笑い顔つくれる,ともいう。よく,脳は,自分が知っている以上のことを知っている,というが,脳という自分のリソースのもつ奥深さから考えると,人が意識している部分はほんの一部で,その一部でおのれ全体左右しようとするのではなく,無意識というより,おのれの脳の志向を確かめて動いてみる方が先かもしれない。
その意味で,自分のリソースというのは,自分で意識的に探索しようとするよりは,無意識の志向をどう引き出すか,という視点で考えた方がいい。精神科医の神田橋條治は,精神療法の目指すのは,その人の遺伝子を開花させることであり,それがその人の自己実現だ,という趣旨のことを書いていたが,それはこの文脈で考えると,よくわかる。
それは,必ずしも,本人が意識している「なりたい自分」,口に出している「ありたい自分」ではないかもしれない。それ探し出すために,対話療法をするともいえる。コーチングもまたその一翼を担っているとすれば,本人の語る言葉ではなく,その人のリソースの語りだすもの,とりあえずは言葉にならない感情,思いを導きださなくてはならないのかもしれない。「クライアントの可能性を信ずる」というのは,単にその人の伸び白を信ずることではない。まだ本人も知らないリソースの可能性現前化させること,それこそが遺伝子開花させることでなくてはならない。結構奥深く,重い。(敬称略)

今日のアイデアは,
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#エリクソン
#脳
#神田橋條治
#無意識
ラベル:無意識 自己実現
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2013年01月09日

追い詰められたユーモア~石原吉郎の詩をめぐってⅣ


どこか生真面目で,一本木だが,言い換えると辛気臭い石原の詩に,ユーモアを探すと,どこかブラックユーモアの気配がある。

じゃがいもが二ひきで
かたまって
ああでもないこうでも
ないとかんがえたが
けっきょくひとまわり
でこぼこが大きく
なっただけだった(「じゃがいものそうだん)

これなどは,結局事態を悪くしたともとれるが,しかしお互いに凹んだ分だけ,親しくなったとも,憎み合ったともいえる。濃厚な関係でもある。夫婦喧嘩のアナロジーともとれるし,兄弟喧嘩のアナロジーともとれる。とりよう次第で,見える風景が違うだろう。

石原の詩に,これをみつけたとき,思わずにやりとした。それに続いて,こんなのもあった。

動物園なぞ
さびしいよな
たぬきのおりなぞ
さびしいよな
そのたぬきが見た
けしきがまた
さびしいよな
みつめられている
だけでもさびしいよな

たぬきはそれで
もんくをいわないのか(「動物園)

でも,これには皮肉だけではなく,ちょっとさびしさが付きまとう。たぬき,というのが,きいている。これがきつねでも,アライグマでも,ニホンザルでも,ウサギでもこうはならない。ユーモアの感覚がなくてはならない。どこかとぼけた,たぬきにはそれがある。そして寂しさが,だから,じわっと滲んでくる。

これはどうだろう。

世界がほろびる日に
風邪をひくな
ビールスに気をつけろ
ベランダに
ふとんを干しておけ
ガスの元栓を忘れるな
電気釜は
八時に仕掛けておけ(「世界がほろびる日に」)

最期の最期だからこそ,日常の何気ない継続を意地でも続ける。どうも意地という言葉が好きだ。意地を張るから,ぴんとしていられる。意気地なしになっては,さまにならない。

好きなエピソードで,ギロチンに向かう途上も本を読み続け,促されて,読みさしの頁を折った貴族の話があるが,そこに何とも言えぬ凄味がある。巧んでしているのではないから。凄い。しかも,その凄味は極限でユーモアに転ずる。チャプリンにそれを感じたことがある。

ここで言うのは,平常心のことではない。

平常心というのは,平常でいられない時に,平常でいようとする,いってみるといやらしさがある。どういうのか,これ見よがしの「いいかっこしい」を感じてしまう。しかしここにある,しぶとく,日常を続けるという凄味に比べたら,平常心の宮本武蔵も,形なしだ。彼は,島原の乱で,養子伊織の主家,小笠原家に陣借りして,先駆け,原城の石垣に取り付いて,上から落とされる石に打たれ,石垣から転げ落ち,けがをしたという。日常の延長のまま,しぶとく,泥臭く,かっこつけずに戦う百姓衆に負けたと言っていい。どんな手を使っても生き残らなくてはならない。それが日常の連続だ。

互いに勝負する,という同じ土俵に乗ってこそ,平常心は意味があるが,絶え間なく平常のつづく毎日に,平常心などという言葉は,矛盾でしかない。その平常そのものが断たれたその瞬間には,いわゆる平常心もへったくれもない。その瞬間も,しかしそのまましぶとく,日常的に生き続ける。どんな手を使っても,生き残ろうとする。その凄味の前には,平常心などという軟な言葉は,剃刀の凄味に過ぎない。こっちは鉈だの鍬だの鋤だの,日常の道具だ。百姓一揆に,サムライ衆はついに勝てていない。西南戦争も含めて。いや,勝ってはいけないのだ,自分たちの食い扶持なのだから。

これはどうか。木の側から考える。

ある日 木があいさつした
といっても
おじぎしたのでは
ありません
ある日 木が立っていた
というのが
木のあいさつです
そして 木がついに
いっぽんの木であるとき
木はあいさつ
そのものです
ですから 木が
とっくに死んで
枯れてしまっても
木は
あいさつしている
ことになるのです(「木のあいさつ」)

弁慶の立往生ではないが,生死もわからず立ち枯れる,これが理想だ。

孤独死という言葉は,死んだ者の側が言っているのではない。みすみす死んだのを見逃してしまった,担当役人の言い訳に聞こえる。誰も望んではいないかもしれないのだ,死ぬ側は。一人でひっそり死にたいかもしれないではないか。周りで,届がどうの,財産がどうの,年金の打ち切りがどうの,手続き満載,そんなこと知っちゃいねえ。死ぬときは,周りにいっぱいいようと,いまいと,たった一人で,三途の河を渡るしかないのだ。

僕は,こういう死に方が理想だ。「へえ,あいつ死んだんだってねえ」「そうか」で終わる程度なのだから。立ったまま挨拶だけはしたい。

しかし,どういう立ち方をするか,どういう挨拶の仕方をするか,せめてそのくらいは考えるか。

その生涯の含みを果てた
いわばしずかな
もののごとく
その両袖のごとき位置へ
箸にそろえて
置かれるであろう
すなわちしずかな
もののごとく(「しずかなもの」)

こんな感じが,いい。後ろ足で砂を掛けないというか,誰にも知られず,こっそり挨拶だけしていく。

そういえば,昔の知り合いが,神隠しにあった。小さな印刷会社を経営していたが,ある日突然消えた。部屋は,普通の夕食をしかけたまま,残されていた。後を妹さんが処理に来たそうだが,消息は不明。女のことで,やくざ者ともめていた,暴力団に消されたのだ,等々の噂だけが残った。この噂は余分だ。閑話休題。

そういう背景を思うと,この詩もブラックユーモアに見える。

最期に,彼のユーモアの感覚にある,ブラックというより,悲しみと寂寥の彩られた詩を。

うそではない
ほんとうにしりもちを
ついたのだ
それがいいたくて
ここへ来たのだ
妙な羽ばたきがするだけの
とほうもない吊り棚の下で
どしんと音がして
しりもちをついたのだ
しりもちをついた場所が
聞きたいか
あそこだ あの
もののかなしみと
もの影のかなしみが
二枚のまないたのように
かさなりあって
いるところだ
あそこから やがて
もういちどゆっくりと
もういちどなにかが
はじまるのだ(「しりもち」)

本人にとっての哀しみは,赤の他人にはユーモラスに見えることがある。本人は必至なのに,悠々としているように見えることもある。そのギャップに,悲哀が滲む。

今日のアイデア;
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#石原吉郎
#詩
#死に方
#生き方

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2013年04月13日

生きざまを見る


先日,報美社代表として展覧会のプロデュースをし,各画廊と提携して運営している竹山貴さんの「第1回 アートの世界から学ぶ本当の価値の見つけ方」に参加した。

正直のところ,アートには無縁の朴念仁なので,ただ関心と好奇心で参加させていただいた。

あまり一般には馴染みの薄いアートの世界ですが,「アートの世界は決して特別なものではなく,むしろどの業界でも通用する普遍的な要素が多い」と主張する方がいます。竹山貴氏です。彼はアートの世界をより多くの方に広げようとしています。それは単純に作家の作品を世に送り出す,という価値観だけに止まらずより深い信念により成り立っています。
「アートの世界にいると,本当に価値あるものを見いだす嗅覚が身に付く」
竹山氏はそう言います。混沌とするビジネス社会に生きる我々にとって,この感覚は実に興味深いところです。

という案内に誘われたのもあるが,何度かお目にかかっている時の,発散されるエネルギーに興味を持ったというのが正直なところだ。

正直に言うと,僕は,その人の過去にはほとんど興味がない。行きがかり上必要があって聞くことはあっても,いまのその人にのみ興味がある。いまのその人のあり方が,過去の見え方を変える。「いま」だけで十分と思っている。

苦労をしないと今がないという言い方もあるが,いまがあるから,その苦労が意味ありげに見えるだけなのかもしれない。肝心なのは,いまだ。だから,苦節何年にも意味はない。一生苦節のままに終わるかもしれない。その時過去は何年たっても「苦労の甲斐」にはならない。しかし,それでも,僕はすべての人生には意味があると思っている。野垂れ死にしようと,栄耀栄華にまみれようと,一生は一生。すべての人生に意味があり,全ての人生に物語がある。

で,いま,竹山さんがやっていることは,作家のプロデュースと作家の育成。作家,その作品,あるいはその作家の未来への道筋を商品と見立てると,それを仕入れて売れるか売れないか,化けるか化けないか,を見極めるのが,どんな商売人にとってもそうだが,竹山さんの一番の肝になる。ただ,

「アートの世界は,顧客のつかない水商売」

つまりは,ロングテールなどということは,有名になってからの話ということだ。いや違うか。一作一作勝負なのだから,その作品がすべてで,ある意味一発勝負,名前で売れるのは夢のまた夢ということだ。

ではどう,それを見極めるのか。竹山さんは三つ挙げた。

第一は,作品自体を見て,そこにその人がいるかどうか。

「そこに足跡が残っている」「その人自身の生きざま,考え方が残っている」という言い方をされた。僕は,その人の独自性,あるいはオリジナリティだと思う。ほんのわずかかもしれないが,その人でなければ出せない何か,それをその人自身というか,その人の方法上の工夫というか,オリジナルな現実の切り取り方というか,掘り下げ方というか…。自覚していないが,原石のように光る,他にない何かをそこに表現できなければ,その人自身が原石であっても価値はほぼない。

生きざまというのは,生き方ではない。生き方というのは誰でもしている。気づかないが,それぞれ個性的に生きている。しかしそれはただ生きているだけで,のんべんだらり(かつて先輩にそう言われたことがあった)と生きているのでは,生きざまとは言わない。生きざまとは,おのれの生き方を意識しているのを言う。ただの呑兵衛でもいい。アル中でもいい。そう自分が自覚して生きているなら,ひと様に何を言われようと関係ない。それが生きざまだと,僕は考える。

ということは,自分の描くものに対して,何がしか自覚的に,自分を主張していなくてはならない。真似でも模倣でも,そこに方法を意識していると,おのれが出る。意識していない方法は,意識的に修正できない。それでは日曜画家と同じだ(いやいや,今日の素人画家は端倪すべからざるものがある。下手な玄人よりは自覚的に描いているかもしれない)。そこが見極めどころか,と素人なりに推測する。

第二は,その人としゃべっていて何かを感じるか,感じないか。

真面目に生きているか,世の中に何か訴えたいものがあるのか,本気の顔があるか。本気度を見ているということか。ここは,正直わからない。僕は,その人物から作品を論ずるのをあまり信じない。作家は,どんな作家も,その作品にないものは,意味がない。そこに描かれていなければ,それはないのだ。どんな立派な御託を並べても,それがその一枚に描ききれなければ,詩を書かない詩人と同じだ。

その意味で,どんなぐうたらで,話すとアホ丸出しでも,描いたものに仰天させられる,そういうギャップが好きなので,ここは,画商あるいはアートディレクターとしての男気あいは気概なのだと思って聞いていた。

作家は,本来顔を出してはいけないのかもしれない。なぜなら,美人というだけで,写真家でも書家でも画家でも,あるいは音楽家だとソリストは,それが与件になっていると聞くが,何十パーセントか付加価値(作品のではないが)が上がる。そういうのが嫌いなので,「へちゃもくれ」「ぐうたら」だと一層肩入れしたくなる判官贔屓の癖があるが。

第三は,負けず嫌いな人,反骨心のある人。

言ってみると,早々にくじけず,やり続けていける人でなくてはならない。なまじいの自信と自惚れがあるだけでは続かない。まあ,すぐに売れる人はまれかもしれない,何年も何年も,下積みを続けて,しかもおのれの夢をあきらめない人でなくてはならない。書き続けなくては,自分の中に何があるかに気づくものはない。何もないと気づいても,それでもそれを武器に続ける。そういう意味で,自分の絵を描きたいという初心にこだわり,続けていくだけの気概と自恃の念がある人ということになる。

だいたい自分を恃まぬものが芸術などに手を出すはずはない。ということは,ほとんど人嫌いか愛想が悪いのが相場(?)といっていいかもしれない。先入観だが,人との付き合いに時間を割くゆとりはないはずだ。人との交渉などほとんどしたいとも思わぬ。そういう人を食った,ふてぶてしさがなくては,やっていけるはずはない。そこに,市場や画廊と架け橋をする人が必要な所以だ。

大体,それが価値があるというのは,現実化されて初めて気づく。新商品開発も同じことだ。出てみて初めて,それがほしかったものであることに気づく。由紀さおりの「1969」も,プロデュースしたのは,ピンク・マルティーニだが,出されてみて初めて歌謡曲の目新しさを見直す。そう言えば,ビルボードで一位になったのは,坂本九の「上を向いて歩こう」ただ一曲だけだ。宇多田ヒカルの歌では本場アメリカでは凡百の歌に埋もれて光らなかった。存外宝は,自分たちの中にある。いまサブカルチャーが注目されているが,ほとんどがガラクタかもしれないが,サブのサブに,サブのサブのサブに,気づかず宝が眠っているかもしれない。

売れるかどうかに,昔はあまり執着しなかったが(というより売れてるものを鼻先でせせら笑う癖があったというか,いまもあるが),「アート業界はアカデミズムが強い」という竹山さんの言葉に,本屋大賞を思い出した。直木賞作品では売れぬ,という書店側の危機感で,ベストセラーを生み出す仕掛けを作った。それが百年後残るものか,という疑問はあるが,ここに芸術のジレンマがある。売れなければ市場は縮小する。しかし売れるものは本物とは限らない。

竹山さんは,ご自分の姿勢を55対45の姿勢を言われたのは,いわばアートを商売とするものの,気概だろう。そういう気概のある人がいなければ,しょうもない,いま売れるだけの作品が氾濫する。一方で,百年,二百年という長期の視野がなければならないのだろう。

かつて浮世絵は,消耗品であった。日本から輸出された陶器の包装紙として無造作に包まれていた浮世絵に,ヨーロッパ人が驚愕し価値を見出し,多大な影響を受けた,と聞く。だから消耗品だから価値がないとはいえまい。必要なのは,視野の広さだろう。自分で「枠をつくらない」「決めつけない」という竹山さんの姿勢は,その意味と受け止めた。

そう考えると,見込みのはっきりしない,まあ売れるか売れないかが丁半博打に似た賭けでしかないなら,残るのは,作家そのものの生きざまを見届けるのが正しい指標なのかもしれない。いわば,本人の覚悟を見極める,ということなのだろう。


今日のアイデア;
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#アートディレクター
#竹山貴
#ピンク・マルティーニ
#由紀さおり
#宇多田ヒカル
#坂本九
#上を向いて歩こう
#浮世絵

posted by Toshi at 06:28| Comment(251) | 芸術 | 更新情報をチェックする

2013年06月26日

にあわないけど愛かやさしさについて


何だろう,「愛」とか「優しさ」に関わるものを拾っていくと,石原吉郎の,緊張感をなくすことへの,凛とすることへの意地と,それを失うことの恐怖のようなものを感じた。思い入れ過多のせいかもしれない。

こんなにつきあうと
思ってもみなかったな
つきあっていて なんど
君に出会ったかな
つきあえばいいと
いうものではない
つきあえばというものでは
行ってくれ
どてんとしてくれるな(「つきあい」)

しかしそこには,てれがある。そういいながら,照れている自分がいる。それを言葉としては,逆に出る。

愛することは
海をわたることだ
空を南にかたむけて
水尾の行く手へ
たわんだまま
はるかなものと
なってわたることだ
ひとはかがやかしくて
ゆえに告げおわる
香料の未明へ
翻る蹄鉄を
墓はひそかに埋めもどし
荒廃のまえの
さいごのやさしさとなって
愛することは
海をわたることだ(「海をわたる」)

その海峡(と勝手にイメージした)を,「たわんだまま/はるかなものと/なってわたることだ」に,おのれの側の思い切った身の投げ方が見える。

でも,そういいながら,

どのような海を
わたったにせよ
わたったものは
海とはちがう
海とはちがうわたった
ものへ託されたものは
海とはさらに
ちがうものだ(「ちがう」)

と言ってしまう。両者の間の差異が,溝が見えてしまうようだ。

そこまで無理をする,そこにやさしさがある,といえるかもしれない。それは,しかし意地でも口にはできないような。だから,

やさしさはおとずれるものだ
たぶん ふいに
ある日の街かどのある時刻に
であいがしらに
わしずかみされる
逃げ場のない怒りのような
このやさしさ
空は乱暴に晴れていて
いちまいの皿でも広すぎる
しずけさへおとす
波紋のような
やさしさの果ての
やりきれなさは
ひとつまみの吸殻で
ふっきれるか(「やさしさ」)

やさしさについて,「ふいに」「やさしさはおとずれるものだ」とか「であいがしらに/わしずかみされる」等々とは言わない。「やさしさの果ての/やりきれなさ」とは,ふつうは決して言わない。でも,よくわかる。なんだろう,そこに,言い知れぬ照れと含羞を感じてしまう。それを「かわいい」と言っては,身も蓋もない。

あからんで行くことで
りんごの位置を
ただしくきめるのは
音楽だ
うかべることで信仰は
すべてその
位置をきめる
あからんで行くことで
成熟は その
すべての音楽となる(「音楽」)

「あからんで行く」というところに,ちらりと正直さが垣間見える。

石原に,こんな句があった。

強情な愛の掌ひとつ青林檎

女の手をんなにともす秋の灯

でも,微妙なすれ違いは見逃していない。

おのおのうなずきあった
それぞれのひだりへ
切先を押しあてた
おんなの胸は厚く
おとこは早く果てた
その手を取っておんなは
一と刻あとに刺したがえた
ひと刻の そのすれちがいが
そのままに
双つの世界へあたりを向かわせた(「相対」)

その関係は,

隠蔽するものの皆無なとき
すべては平等に死角となる
隠蔽ということの一切の欠如において
われらは平等にそして人間として
はじめて棒立ちとなるのだ(「死角」)

ただ見えないところのない,真っ裸な状態で初めて「平等」という。それは微妙な拮抗の中で,緊張した釣り合いを保つ関係だ。

直前の青と
直後のみどりは
衝撃のようにうつくしい
不幸の巨きさへ
そのはげしさで
つりあうように(「不幸」)

みどりと青は,日本語ではほとんど同じだ。翠とも碧とも書く。みどりの幅は広い。その微妙な差異を拮抗させる。

詩 それは
海からこぼれて
空になるように
空からこぼれて
海になるように
そのように書かなければ
いけないものなのです(「書く」)

これも,その意味で読むと,別の視界が開く。

海は断念において青く
空は応答において青い
いかなる放棄を経て
たどりついた青さにせよ
いわれなき寛容において
えらばれた色彩は
すでに不用意である
むしろ色彩へは耳を
紺青のよどみとなる
ふかい安堵へは
耳を(「耳を」)

僕はここに選択した孤独を見る。孤独については,別に書く。

今日のアイデア;
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#石原吉郎
#詩


posted by Toshi at 05:26| Comment(0) | 芸術 | 更新情報をチェックする

2013年06月27日

語りの力とは…


『石丸幹二の語りで聴く  チャイコフスキー「くるみ割り人形」(映像つき)』を聴いてきた。

https://www.facebook.com/home.php#!/events/319061628223249/

正直,子供だましかと予想しつつ行ったが,その通りであった。

語り:石丸幹二
ピアノ:鈴木優人
映像演出:田村吾郎

誘いのフェイスブックには,

語りと影絵と音楽と。お話の世界へ,旅をしてみませんか?

「くるみ割り人形」のちょっと不思議でどきどきする幻想の世界が,目の前に。
ピアノ1台から紡がれるオーケストラの響き。
影絵に映し出されるおとぎの国の情景。
そして,語りを担当するのはあの石丸幹二。自らも音楽家である彼が,バレエ音楽の躍動をどう言葉で表現してくれるのか,これはまさに見もの,聴きものです!

「あの」と強調されるほど,こちらは石丸幹二を知らないので,ハロー効果もなく,八割方入っている人とは耳への入り方が違うのかもしれないが,全く魅力がなかった。もちろん語りとして,である。

主役は,ヒアの演奏の「くるみ割り人形」の方なのかもしれない。しかし,語りが語りとして自立する力を持たなければ,このコラボレーションというか,フィーチャリングは失敗である。

ピアノ曲がその曲によって中空へ描き出すイマジネーションと語りの語りだす世界とが,相乗効果をもたらしたとは到底言えない。

なぜそうなのか。ピアノはそれ自体で曲としての,ピアノ用に編曲されているとはいえ,チャイコフスキーの描いた世界を奏で続けている。問題は,語りだ。

この語り手は,書かれた物語を外から語っていた。彼自身が,語り手として,語られる世界に向き合って,自分がそれを眺めている語りになっていない。逆に言うと,彼の語り出しそのものによって,世界が現前するような語りになっていない。彼は,台本を読むように,語り手にならず,読み手として,もちろん棒読みではないが,語っているだけだ。

つまりここでは語り手ではなくナレーターにしかなっていない。ナレーターと語り手との違いは,物語が始まらないとナレーションは始まらない。つまり物語の後追いとしてしかナレーターは存在しえない。その役割上そういうことだ。しかし語り手は,そうではない。語り手が語りださなければ物語は始まらない。語り手は物語世界に向き合い,それを語る。ナレーターは始まった物語を,外から追いかけて語る。すでに物語はナレーターを置いて,始まっている。

だから,影絵がなければ,たぶん誰の頭にも映像が浮かばなかったはずだ。そう,影絵のナレーションとしてしか,ここで語りは機能しなかった。

あの語りでは,そのとき,その場が見えない。見えてこない。また見えてくるように語り手として立っていなかった。

その前日,落語を寄席に聞きに行ったが,あの噺の仕方と対比すると,聴き手へのインパクトの違いがはっきりする。噺家は,ほとんど身振りと扇子の見立てと自分の顔の向きで,会話を連ねていく。しかし,それでもその会話が,そのときその場を創りだす。

そのおおきな要素は,噺家が,その場にいる,ということだ。その場を,こちらに伝えている。語り手が信じていないもの(信じているふりをしないものといってもいい)はこちらには伝わらない。

石丸幹二は俳優なのだと思った。噺家は,役には入れ込まない。俳優は,役に入れ込む。このことは,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11225523.html

に書いたが,物語をそこに見て,それを伝えようとする語り手になっていず,石丸幹二は,与えられたナレーターという役割として,そこに描かれている物語を語っていたというのが,受けた結論だ。つまり語り手ではなくナレーターでしかなりえないポジションにいて。彼は,語っているが,彼には,物語の,その場も,そのときも,見えてはいない。役者には物語は見えない。というか創り出せない。創り出された物語の中に入るのが前提だから。

絵がなければ語りの絵が浮かばないというのは,語りとして失敗である。いや,だから絵がセットなのかもしれない。しかしそのために,音楽そのものも,単なるバック音楽に堕してしまっていた。それは,チャイコフスキーが気の毒というものだ。


今日のアイデア;
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#石丸幹二
#チャイコフスキー
#くるみ割り人形

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2013年06月30日

問題意識


芸術家の問題意識というものを考えてみたい。

問題意識は,自分の求めているものと現状とのギャップを意識していることと単純化するなら,ここから,

①自分の求めているものがはっきりしている
②現状の自己の状態についての自己認知がある

の両者が不可欠になる。この枠組みは,自分のあり方や自分の目指すものという大きなシチュエーションでも言えるが,個々のテーマや作品のあり方についてもいえるのかもしれない。

僕は芸術家ではないので,詳細について深入りして語ることはできないが,たぶん最初は作品に出会うか,作家に出会う。そのときは憧れだったり,これこそ自分の気持ちの代弁だと思うものに出会う。僕らの時代だと,太宰治がかつてそうであり,吉本隆明がそうであったように。今なら村上春樹ということになるか。

僕は,前にも書いたが,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10971305.html

単なるディレッタントでしかなかったにしろ,作品に出合い,それを目指したが,その目指すものと,自分の現状とのギャップに気づくのに,人は時間がかかる。なぜなら,自分というものの持つリソース,違う言い方をすると,自分にしか表せない何か,自分だけの表せるオリジナリティに気づくことが,実は,大事なのだが,めざすものへの憧れがホンマものであるほど,そこに目が向きにくい。

ここで言っているのは,自分の才能の限界というのではない。そういうのは,もっと前に気づく。到底それは表現できない,ということに,自分が表現について彫琢すればするほど,自分の表現技術が上達すればするほど,実はそのモデルは遠ざかり,より高みへと登っていく。そこまでの距離の大きさに,表現技術に収斂すればするほど気づくからだ。

技術ではなく,テーマとか切り口とか自分が描きたい世界とか,自分なりの独自の世界を見つけた時,技術の絶望からは少し目が遠ざかる。しかしそこで,世界を表現するということについての,大きな落差,に気づく。その時本当の意味で自分の才能が問われているが,見つけた独自の切り口に夢中になる。また夢中にならなければ,その先はないのだが。

もうひとつ,ひとつひとつの作品を漫然と書く(描く)ということはない。ただ技術的な彫琢として,習作を書くということはあるが,それは作品として完成させるということとは別の,単なる練習で,そうではなく,作品を書こうとするとき,そこには,テーマとモチーフとがある。そこに問題意識がやはりある。

①目指している完成像
②現状の未知状況

現状は,この場合,自分のリソースではなく,作品世界を描くために必要なデータであったり,資料であったり,素材であったりする。

ケース・ライティングをしていたときの,事実の整理については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11200541.html

で触れたことがあるが,しかし作品を創るときに必要なのは,まず,

どんな世界にするか,

なのではないかという気がしている。

その世界を,時間と空間を,もっと突き詰めていくと,

その場,そのとき,

を決めることだ。そこからは,どういう立ち位置からそれを眺めるか,小説なら,それは語り手になる。

R・バルトはこう言っていた。

文学の描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは,よくみるためではなく,みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。窓が景色を作るのだ。 (『S/Z』)

それをパースペクティブと呼んでいる。パースペクティブ,窓をどうとるかで,眺めが変わる。どの位置で,どう眺める語り手の位置にするかで,見える風景が変わる。このとき,

完成像と自分の現状とが,

そのとき,その場で一つの統一された世界になる。

はじめて,そこで世の中のレベルと向きあわされる。腹の底から,震えるほど,自分というものの才能に思い知らされることになる。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#R・バルト
#S/Z
#問題意識
#語り手
#芸術家

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2013年07月10日

音楽と映像と言葉のシンクロ


ガイアシンフォニー第7番と龍村監督の講演会に行ってきました。

https://www.facebook.com/home.php#!/events/147543912093981/

主催者が,

『地球(ガイア)の声がきこえますか?』
地球(ガイア)の未来を,考えよう。

「母なる星地球(ガイア)は,それ自体が一つの大きな生命体であり, 我々人類は,その大きな生命体の一部分として,他のすべての生命体と 共に,今,ここに生かされている」

映画「地球交響曲(ガイアシンフォニー)」シリーズの根底に流れる この考えは,これからの地球の,そして私たち人類の未来を考えるのに, とても大切なメッセージを投げかけていると思います。

と,開催理由として述べているように,いわばきわめてメッセージ性の強い映画であり,いってみると,そのメッセージに強いシンパシーを感じている人たちに支えられて,主として自主上映会を通して,広められている。

観た人は皆いいという。大体僕は,社会主義リアリズム以来,どんなメッセージも,作品評価の前提に置いてはならないというのが,そこから学んだ教訓なので,メッセージ性そのものは,作品評価の前提にはしない。つまり,作品そのものの出来不出来と,発せられているメッセージへのシンパシーとは別に考える,ということだ。でなければ,その作品は独立性がないことになる。芸術作品はメッセージ(政治的なものであれ,なんであれ)の道具ではない。それを忘れれば,芸術は政治の道具に使われる。

まずメッセージからいうと,シリーズ全体も,メッセージ性は強いが,個々の登場人物も,強いメッセージを発している。またそういう人を集めている。そこには,龍村仁監督の思想が反映されている。

僕が最初に観たのは,第三番で,そこにはメッセージが一杯あった。たとえば,

人生とは,なにかを計画している時に起こってしまう別の出来事のことをいう。結果が最初の思惑通りにならなくても,…最後に意味をもつのは,結果ではなく,過ごしてしまったかけがえのないその時間である。

あるいは,龍村監督が講演でよく口にされるのは,

変えられないものを受け入れる落ち着き
変えられるものを変える勇気
両者を見きわめる知恵

というのもいわばメッセージだが,ここに教訓とかアフォリズムみたいなものを読み取ってはならない。それは処方箋として受け止めることではなく,そう生きた人が,そうつぶやいた,一言だから意味がある。

全部を観ているわけではないが,観た限りで言えば,人が有り,その人の生き方やあり方があるから,その人の発する言葉が生きてくる。

今回も,その意味では,メッセージを拾い上げていくことができる。しかし,龍村監督が,上映後の講演で,

言葉のインパクトが強いかもしれないが,

文字,音,セリフ,映像,音楽,

をどういうタイミングで組み合わせていくか,その編集のことを口にされていた。例えば,映像があり,文字が表出される「間」が結構計算されている,のだという。それはそうだろう。そこがこの作品の監督としての手腕が問われる部分だ。

その意味で,あまり登場人物の吐くセリフやメッセージにとらわれるのではなく,音と沈黙,映像が切り替わる「間」のようなものをもう少し意識してみると,その何秒かの沈黙に見えてくるものがあるのだろう。

つまり,そこに「間」ではなく,「無駄」が感じられれば,映画監督としては編集に失敗したということになる。

全部観てもいないのに,映画としての是非を言うのは,おこがましいが,まず,最初に指を折るのは,第三番だ。軸として星野道夫の影が,いい意味でも悪い意味でも,全編を覆っている。それが,全体としてのメッセージに陰影を与えていた。

次は,第七番だと思う。いわば日本神道(というよりは,正確には八百万の神々だと思うが)を軸として,全体を貫くものが見えやすい。いい意味でも悪い意味でも,焦点が合いやすい。

映画は,シリーズになっていようと,その作品自体で完結しているものだ。そこに描かれていなければないも同じ。その意味で,余分なメッセージはいらない。

ただ個人的には少し気になったことがある。僕の観た限りでは,日本語の歌詞の歌がバックで流されたのは七番が初めてだが,監督の意図は知らず,観客からは,その歌詞に引っ張られて,画面から意識が遠のいた。これは,編集の失敗と見た。おこがましいが,観客は勝手に映画を評価する権利がある。その意味では,歌詞の言葉のインパクトを読み間違えたと思う。最後の対話会で,僕と同じ意見の女性がいた。趣旨も一致していた。

それも監督の意図ではないか,

という意見が出たが,そういうのを贔屓の引き倒しという。あそこで,あの歌詞に情緒的に引っ張られることを意図していたとしたら,龍村監督を貶める以外のなにものでもない。



今日のアイデア;
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#滝村仁
#ガイアシンフォニー第七番
#ガイアシンフォニー第三番
#星野道夫
#社会主義リアリズム
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2013年07月23日

とんがる


アーサー・C・クラークは言っている。

権威ある科学者が何かが可能と言うとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能と言うとき,それは多分間違っている。

不可能だと人からいえるほどとんがる,そういう気概がいる。

ただしい間違いに気を取られると,自分のとんがりを忘れてしまう。

最近の芸術の世界を見た時,日本は老成化しているとつくづく感じる。特に文学だ。尖(とん)がった人が出てこない。出てくるのは,新しいジャンルだ。芥川賞や直木賞は,本来新人の登竜門のはずだ。しかしいつの間にか,変質してしまい,目標に変わってしまった。

そこからは若い世代を熱狂させる,尖がった作品は全くでなくなった。古いが,村上龍以来,尖がったものはない。素材や内容が尖がっていても,文学として尖がっているとは言えない。文学としての冒険がなくてはならない。それはからっきしない。

だいたい石原慎太郎のような,何を勘違いしているのか,『太陽の季節』以外小説らしい小説を書いていない老人が,選考委員を,つい最近までしていたこと自体,間違っている。老人に文学の尖がりを見る目があるはずはない。そういって選考委員を早々に辞めた文学者(小説家ではない。小説家は小説というジャンルにのっとって書く,文学者は新たな小説の枠組みを作り出す。今日,中上健次以降の世代に,小説家はいるが,文学者はいない)がいたが,おのれを知っているというべきだろう。

最近,ある展覧会で,若い作家と話をさせてもらった。そのとき,

テーマ(表現しようとする主題,貫いているものと個々の作品のそれの両方がある)

モチーフ(自分を駆り立てている動機となる考え方,発想・着想,着眼点)

問題意識(テーマやモチーフを目指すものとして,それと現状との間で意識しているギャップないし問題)

を,ちょっと区別して聞いてみた。ほとんど変わらないと言えば言えるが,テーマも,モチーフも,問題意識も,自分自身の絵を描く姿勢全体に貫かれる部分と,各作品毎に個々に持つ場合とがあるが,僕は,一つの画期というものがあると感じていて,いくつか問題意識をもって描くうちに,一つの到達点に達する。その瞬間に,自分に見える世界が変わる。

勝手ながら,それらしいものを見た気がした例がある。そこへ到達しないと,それは見えない。それも,その瞬間気づくとは限らない。

モチーフは尖がっていても,それをテーマにするとありきたりになる,

問題意識はクリアだが,それを表現する技術がともなわない,

技術的な問題意識ははっきりしているが,その先のテーマにたどりつけない,

そのとき,自分のとんがりを大事にしたい。ひととちがう,尖端の,どんがった部分。それを見つけなくては,人真似か,二番煎じに終わる。

何ごともぴんときりはある。

しかし,小さくてもピンでなくては,意味がない。そこに自分がある。

僕は欧米(だけではないが,そういう人が多い)の思想のお先棒を担ぐ人を基本信じない。そんなものは,あなたではない,それは人真似でしかない。一生人真似の思想を担ぐ人は,人真似の人生を送っている。それで金持ちになろうと,著名になろうと,そんなものは屁みたいなものだ。所詮,人真似は人真似。

自分でとことん考え詰めて,自分の尖がりが発見できなかった人だ。

とことん考え詰めて,自分(の考え)に到達することのできなかった人は,考えるということをしなかった人と同じだと感じる。その人が何を旗印として掲げているかにそれは現れている。何某の弟子,何某というひと様の思想,考えを掲げている人は,遂にその人の奴隷でしかない人だ。

横井小楠は言っている。

学ぶとは,書物や講学の上だけで修行することではない。書物の上ばかりで物事を会得しょうとしていては,その奴隷になるだけだ。日用の事物の上で心を活用し,どう工夫すれば実現できるのかを考える,(私の話を)そのまま書きとめるのではなく(それでは私の奴隷になることだ),おのれの中で,なるほどこのことか,と合点するよう心がけるが肝要だ。合点が得られたときは,世間窮通得失栄辱などの外欲の一切を度外視し,舜何人か,小楠何人かの思いが脱然としておこる,

と。それが尖がるということだ。誰かの奴隷になるのではなく,おのれをおのれとして突き出す。この世の中に押し出す。それを気概という。とんがるという。

日々自分の頭を考えている人は,誰かの思想のお先棒担ぎをしている暇はない。

「守破離」の「守」は戦いである。学ぶ相手との戦いである。自分をとがらせるための踏み台としなければならない。その結果として,「破」が来る。尖りで蹴破るといっていい。「破」はすでにして「離」ではない。尖っていても,おのれの行く先が見えていなければ,師の近接領域に,巣立ちの出来ぬ雛のようにうろうろすることになる。それは「接」に過ぎぬ。「離」とは,遠心力でなくてはならない。相当の脚力がなければ「離」にはならない。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#守破離
#横井小楠
#石原慎太郎
#太陽の季節
#芥川賞
#直木賞
#村上龍
#中上健次
#アーサー・C・クラーク

posted by Toshi at 05:52| Comment(12) | 芸術 | 更新情報をチェックする

2013年08月19日

妖怪


横須賀美術館に行ってきた。『日本の「妖怪」を追え!』。この時期,横浜そごうでも似た企画をしていたし,その他いろいろ妖怪ものばやりのようだ。

http://www.yokosuka-moa.jp/exhibit/kikaku/1302.html

妖怪と幽霊は違う,

と大真面目に論じていたのを,どこかで読んだ記憶があるが,思い出せない。どうも花田清輝の口ぶりっぽく記憶にあるが,当たってみた『室町小説集』にはなかった。

記憶で書くので,間違っているかもしれないが,確か,つくも神の話だったように思う。使い古して捨てられた道具が妖怪になる,というような。そのつくも神に,惹かれた。

百鬼夜行の当て字で,百器夜行

つくも神とは,

付喪神,は当て字で,正しくは「九十九」と書き,この九十九は「長い時間(九十九年)や経験」「多種多様な万物(九十九種類)」などを象徴し,また九十九髪と表記される場合もあるが,「髪」は「白髪」に通じ,同様に長い時間経過や経験を意味し,「多種多様な万物が長い時間や経験を経て神に至る物(者)」のような意味を表すとされる,

とある。

まあ,日本の民間信仰において,長い年月を経て古くなったり,長く生きた依り代(道具や生き物や自然の物)に,神や霊魂などが宿ったものの総称で,荒ぶれば(荒ぶる神・九尾の狐など)禍をもたらし,和(な)ぎれば(和ぎる神・お狐様など)幸をもたらすとされる。

「付喪」自体,

長く生きたもの(動植物)や古くなるまで使われた道具(器物)に神が宿り,人が大事に思ったり慈しみを持って接すれば幸をもたらし,でなければ荒ぶる神となって禍をもたらすといわれる。ほとんどが,現在に伝わる妖怪とも重複する,とされる。

つまりは,親しみ,泥んだものや人や生き物が,邪険にされて妖怪と化す,というわけだ。どうもそれはものや生きもの側ではなく,こちら側の負い目や慙愧の念に由来する影に思える。

妖怪とは,

物の本質をかくし,その本質を変えて,不思議な姿に化けるもの,

という定義がある。江馬務は,「妖怪変化」について,

〈妖怪〉は得体の知れない不思議なものであって,〈変化〉とは外観的にその正体を変えたもの,

と,妖怪と変化を区別した。僕は,妖怪が人にわかるような,あるいは驚かすためのさまざまな姿形に変えて出現するのを変化 と呼ぶのだろうし,だからお化けというのだろう。まあ,ともかく,こうした妖怪を図にして,いまの水木しげるにつながるのが,鳥山石燕で,横須賀美術館の展示も,石燕の,『画図・百鬼夜行』から始まる。

しかし妖怪を怖いというより,哀れさというか,同情を禁じ得ない。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11022966.html

でも書いたように,よく退治の対象となる鬼や狒々,魔物,妖怪は,

ひとつは,神楽の鬼のように,来訪神のような存在。これは,里に対して,山の世界,里にとっての外部としての山の世界,つまり異界性を反映している。
いまひとつは,世界の周縁に存在し,向こう側から現れるものの存在によって,逆に,自分たちの立ち位置が中心であるとする認識を支える役割を果たす。地理的には,東北であったりする(その位置はどんどん北へ移動していく)が,もうひとつ,身近な洞穴であったり,木のほこらやを入り口とした,冥界であったり,竜宮城であったりという,異次元であったりする。

今日のように,世界がひとつにつながり,かつて内と外を隔てていた境界線がなくなり,公と私も,国内と国外も,リアルとバーチャルも境界線があいまいになっていき,一面均一の「いま」「ここ」だけがある,とこんな言い方をされる。別の言い方をすれば,グローバル化,インターネット化で世界は一つになった,と。

どうも,そういう単層の,均一の世界に,われわれは耐えられないのではないか,という気がする。かつて以上に,心霊現象やパワースポット,幽霊や祖霊が信じられるようになっている。

三百年平和な時代が続いた江戸時代に,妖怪ブームがあったのは,何も浮世絵,読み本という表現手段があったばかりではないのかもしれない。


参考文献;
阿部正路『日本の妖怪たち』(東書選書)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#鳥山石燕
#画図・百鬼夜行
#水木しげる
#阿部正路
#日本の妖怪たち
#横須賀美術館
#つくもがみ
#花田清輝
#室町小説集
#江馬務

posted by Toshi at 06:17| Comment(7) | 芸術 | 更新情報をチェックする

2014年02月20日

表現


表現については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163571.html

で書いたが,

現(うつつ)を表わす

と書くか,

現(うつつ)に表わす

かで,微妙に違う。

「現を表わす」のを,仮にドキュメンタリーだとしよう。それは,現実を,自分の現実感で再構成することだ。そして,「現に表わす」のは,その現の現実感をベースに,現らしく表現して見せる,と置き換えてみると,背景にあるのは,その人の現実感覚であり,現実を捉える価値観(現実を見る窓枠)であることがわかる。その意味では,同じ人の現実感覚がベースにあるが,

現実として表現する

のと,

現実のように表現する

のの差は,ほんのわずかだと言いたいのだ。

僕は素人なので,あくまで,素人考えだが,

表現とは,

空間を現出させる,

ことだ。あるいは,世界と言い替えたほうがいいかもしれない。世界の見え方を決めるのは,窓枠だ。その窓枠を,価値と呼んでもいいし,感情と呼んでもいいし,知識と呼んでもいい。

いや,逆かもしれない。窓枠が世界を現出させる。

ものの見え方というか考え方が,世界をそのように見えさせる。ロラン・バルトの,

文学の描写はすべて一つの眺めである。あたかも記述者が描写する前に窓際に立つのは,よくみるためではなく,みるものを窓枠そのものによって作り上げるためであるようだ。

と言う「小説」を,絵に置き換えても,写真に置き換えても同じことだ。

アラン・ロブ=グリエの『嫉妬』は,語り手=夫の嫉妬の目を通した世界が徹底的に描かれていた。しかし,アラン・ロブ=グリエがそれを研ぎ澄ましたけれども,もともと表現は,そういうものなのではないか。

作家の限られた価値で見られた世界しか描けない。というか,作家の窓枠に入った世界しか,描けない。そのことを,手法的に顕在化させてみただけと見ることができる。

たとえば,神の目線だ,物語世界そのものを俯瞰しているといっても,その世界そのものが,すでに窓枠で限られているのだということを忘れているか,無自覚なだけだ。

そのことを非難の意味で言っているのではない。もともと表現そのものが,そういう主観的な営みなのだ,ということだ。

例えば,新聞によれば,

http://www.asahi.com/articles/ASG2L5HHSG2LUTIL033.html

造形作家の中垣克久さんの作品に特定秘密保護法の新聞の切り抜きや「憲法九条を守り,靖国神社参拝の愚を認め,現政権の右傾化を阻止」などと書いた紙が貼り付けてあることを東京都美術館が問題視し,自筆の紙を取り外させ,観客から苦情があれば作品自体を撤去する方針

だという。

これが日本の美術館のレベルだということだ。

それが政治的だ(仮にこれが,靖国や永遠のゼロ系ならどういう反応をしたのだろう)と,途端に,そこに現実の可否をダイレクトに接続してしまう。この学芸員だか美術館だかが,政治的に圧力をかけられているのでなければ,表現というものの基本が全く分かっていない人間であることを,自ら白状している。

作家の目で切り取られた世界でしかない表現に,(芸術としてのレベルを云々しているのではなく)こっち(学芸員だか美術館だか)の価値で是非を判断することは,自分の価値にしかあわないものしか展示しない,と言っているに等しい。

表現は,どういうカタチにしろ,作家が,現実を自分の主観で,切り取り,世界として描く。その描いたものが,観る側に不都合だろうが,そうでなかろうが,それ自体が表現の世界だ。

それを前提としたうえでしか,表現としてのレベルの是非は判断できない。

それを制約したり,削らせたりするのは,もう,表現そのものを制約している,作家への侮辱だということがわかっていない。

現実の政治動向や為政者の動向でふらついたり,ぐらついたりするのは,表現者ではなく,それを見ている側だ。そういうインパクトが,表現が主観的的世界だからこそある。それに振り回されるのなら,こういう企画をそもそもする器量と技量が,この美術館にはない,というほかない。

この程度の表現への意識では,たぶん,芸術の鑑識眼もいかがわしいといわなければならない。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


posted by Toshi at 04:55| Comment(2) | 芸術 | 更新情報をチェックする