2012年10月28日

リーダーシップをとるという生き方を選択する


 明治維新後,四半世紀経て執筆され,更に10年後にやっと上梓された,福沢諭吉が『痩我慢の説』で,勝海舟の幕末の政権運営を,「予め必敗を期し,その未だ実際に敗れざるに先んじて自ら自家の大権を投棄し,只管平和を買わんとて勉めた」と痛罵したのに対し,福沢から送られたその本へ,勝はこう返事したといわれています。「行蔵は我に存す,毀誉は他人の主張,我に与からず我に関せずと存じ候」。簡潔な,しかし痛烈な返答の後背にあるのは,リーダーを語ることとリーダーたることとは違います。リーダーシップを論じることとリーダーシップとも違います,という勝の矜持です。『痩我慢の説』は,維新後四半世紀経て後執筆され,更に10年も後に上梓されています。そのときが終わってから,何を言おうと所詮評論でしかない。勝の口癖,「機があるのだもの」という声が聞こえてきそうだ。

 リーダーを論ずることとリーダーシップを論ずることとは,微妙な違いがある。確かにリーダーはポジションを指し,そのポジションを機能せしめる働きとして,リーダーシップは重要になる。だからといってリーダー論ずることが,リーダーシップを論ずることの代用にはならない。なぜなら,リーダーシップはポジションに関係なく,すべてのものに必要なものだからだ。すくなくとも,組織で動くものにとっては,それなしでは仕事することは,蛸壺の中で自己完結して仕事することを意味し,それは真に仕事するということにはならないからだ。
 
 たとえば,仕事を問題解決と置き換えて考えてみる。問題を解決していくというのは,次々起こる問題に対処するという意味ではない。目標立て,そこのある障害(問題)をクリアして,目標を達成していくことと置き換えれば,仕事のイメージが明確になる。単に原状回復ではなく,目指すべき水準(期待値と置き換えてもいい)を実現していく,ということである。その場合,問題のハードルが高ければ高いほど,つまり目指す達成水準が高いほど,自己完結していて実現できるはずはない。そのとき,問題解決とは,それ解決できるモノやコトを動かせる人を動かさなければ,一人で出来るはずはないのだ。
 では幕末,海舟と諭吉にとって,目指すべき目標は何か。それは,徳川家を存続させることでしかない。なぜなら,既に大政奉還し,幕府機能は朝廷に返上しており,幕府はないからだ。そのとき,勝がつかった論法は,薩摩,長州という藩を残したまま,徳川家のみを潰そうとするのは,「薩長の私だ」という理屈だ。西郷は,「我国を捨て皇国を興す」(ここでいう国は薩摩藩を意味する)と書いていた。慶喜に辞官納地を求めるなら,薩摩も長州も領地を返納しなくてはならない。徳川だけにそれを求めるのは,「私」であり,それを強いるのは「私」だ。大政奉還した慶喜のほうが「公」である,という論法だ。
鳥羽伏見の敗戦で戦線離脱し,逃げ帰ってきて,しおれている徳川慶喜と幕閣に,「だから言わんことじゃない,どうするつもりか」と,面罵した。さんざん慶喜に煮え湯を飲まされた海舟は,ここで既に慶喜が投げ出してしまっているのだ,海舟も投げ出しても良かった。「何をいまさら,俺は知らぬ」という選択肢もあったはずだ。しかし,勝はすべてを引き受ける。松浦は,「ひとは状況にしたがって自分の価値を最も発揮できる生き方を確立する権利がある」と書く。
 ここから勝のリーダーシップが発揮されていく。まずは,徹底恭順するよう上司(慶喜)を動かし,そうやって「私」を捨てた徳川が「公」を貫くことで,相手にも「公」で応じさせようとする。相手にも「私」を捨てさせようとする。「我今至柔示して,之に報ゆるに誠意以ってし,城渡す可し,土地納む可し,天下の公道に処して,其興廃を天に任せんには,彼また如何せむや」と。見事に徳川家を残したのだ。
諭吉のような外部の人間には,その瞬間の勝の立ち位置は見えない。このとき最もおのれの真価を発揮できる,そういう生き方を,このとき勝は選択している。リーダーシップとはそういうものだ,と勝は言っている。だから後から何をいわれても,毀誉は他人の主張,我に与からず我に関せず,なのだ。その一瞬,その人の生き方の価値にかかわる,選択肢が目の前に現れる。それを選んだとき,そのリーダーシップは,そういう個性,個の輝きをもっている。それはほんの些細な問題解決でも同じである。
組織にいる人間にとって,リーダーシップとは,トップに限らず組織成員すべてが,いま自分が何かをしなければならないと思ったとき(それを覚悟という),みずからの旗を掲げ,周囲に働きかけていく。その旗が上位者を含めた組織成員に共有化され,組織全体を動かしたとき,その旗は組織の旗になる。リーダーシップにふさわしいパーソナリティがあるわけではない。何とかしなくてはならないという思いがひとり自分だけのものではないと確信し,それが組織成員のものとなれば,リーダーシップなのである。

参考文献;松浦玲『勝海舟』(中公新書)

今日のアイデア;
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#リーダーシップ
#勝海舟
#リーダー

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2012年12月20日

「覚悟」という言葉を口にするとき~死とどう向き合うか



友人三人で,万座温泉に旅行に行った。一人は癌で,いま一人は手術を控えていて,いま一人も成人病予備軍。

彼は,「もう効く薬がない」といわれたとき,「マーカーの数値が二桁上がった」とき,覚悟を決めたと語った。覚悟という言葉には,人にそれ以上深く追及させない壁がある。自分はもう決意したのだから,そのことについて,四の五の言うな,というように聞こえた。しかし聞きたくなる。“そうか,決めたのか,で何を決めたのだろう”いや“そもそも,決めたところでどうなるのだ”等々。

確かに死ぬと決まった時,あるいはまもなく死ぬと聞かされた時,何がよぎるのだろう。母が再入院と決まった日,家族には何も言わず,叔父(母の義弟)に,「もう少し生きたい。まだやりたいことがある」と,はがきに書いて出した。母は無念のまま,心をのこして死んだ。しかしどう考えようと,死はくる。それを延ばせても,止められない。

覚悟という言葉を聞いた時,一瞬,石田三成を思い出した。刑場へ連れて行かれる時に,刑吏が柿を出した。それをみて,身体に悪いと言って,三成は断ったという。それを刑吏は笑った。処刑される人間が,身体に悪いとは,と。しかし,その話を読んだ時,思い出した逸話がある。フランス革命時,ジャコバン党に処刑されることに決まった貴族が,刑場へ運ばれる馬車の中で,本を読み続け,処刑場につき,刑吏に,降りろと促されて馬車を出るとき,貴族は読みかけの辺のページの端を折ったという。それを人は笑うかもしれない。しかし,死の直前まで,それまでと同じ日常を,淡々と過ごしていくことこそ,覚悟というか,凄味があるのではないか。

彼は,マーカーの数値が上がると,我々二人に連絡を取って,「飲もう」という。あるいは,「夕日を見に行こう」などといって誘う。あるとき,彼は言った。「マーカーの数値があがって,いよいよかと思った時,君たちの顔が浮かんだ」という。これでもう二度と会えないかと思って,と。そういえば,久しぶりに電話をもらった気がする。そんなことを二三回,だから一緒に飲んだり,夕日を見に行ったり,そして先だって,旅の誘いがあった。いまは,聞く薬がないので,痛み止めを飲んでいる,という。つまりは,痛みがあちこちにある,ということらしい。しかし,帰路,痛みが薄らいだという。痛みの奥の芯のような痛みがなくなったきがする,と。ひょっとすると効能書きにある,酸性硫黄泉と高度1800mでの血流効果があったのか?効いたら,また来たい,と彼は言っていた。

泊まった宿(日進館)の効能書きにはこうあった。日本には4000以上温泉がある中で,標高1000m以上の高地温泉は40数か所,その中で酸性硫黄温泉は,万座温泉だけ。1800mの低い気圧が新陳代謝を向上させる,と。

硫化水素のにおいのする白濁の湯の中で,また飲みながら,淡々と昔の話をし,今の政治の話をし,日々の暮らしの話をし,かつ議論をし,かつ歎き,そして飲んだ。それはいままで,若いころから,40年にわたって繰り返してきたことを,また現在再現している。ただ彼は塾を経営し,いまひとりは公益法人の常務理事に収まり,私は,自営で20年以上やって来た。三人一緒に同僚でいたのは,ほんのわずかでしかない。だが,どういうわけか長い付き合いになっている。ひとりはいらちで,気短か。いまひとりは気長で粘り強い。いま一人は,三人の調整役。その彼から私まで一歳ずつ違って,同じ時代の空気を吸い,同じ怒りを怒り,同じ悲しみを悲しんできた,まあほぼ同世代。悲憤慷慨は共有しあうものがある。しかし,彼は,三人の中で,要の位置にいる。考えてみれば,彼がそこにいない時,彼が遠い存在であった時期も,残りの二人であっているときも,彼を意識していた気がする。

だからといって,いつも一緒に居たいとお互いに思っているわけではない。長い間合わなくても,別に苦にはならない。ただ,「死を思ったとき,君たちの顔を思い出した」といった彼と同じように,私も,彼らのことを思い出すだろうか。

コマーシャルで,井上揚水が,「あっという間でしたね」と言っているセリフがあった。本当に,この40年はあっという間のことだ。ガイアシンフォニー第三番(これしか見ていないのだが)の中には,いっぱい魅力的なセリフがあるが,最もお気に入りは,

人生とは,なにかを計画している時におこってしまう,別の出来事のことをいう。

結果が,最初の思惑通りにならなくても,最後に意味を持つのは,結果ではなく,過ごしてしまった,かけがえのないその時間である。

三人は,一瞬同じ夢を見たことがある。それは見事に潰えて,バラバラになった,その時間を「かけがえのない」と言えるかどうかはわからないが,苦闘と苦悩の日々だったことだけは確かだ。その一瞬一瞬は,一期一会だ。好きな石原吉郎の同名のタイトルの詩で言えば,

一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(「一期」)

そこまでかっこよくはないが,潰えた後,ひとりとは十年,いま一人とは二十年,会わない時期があった。空白期,お互いに自分の人生を拓いていった。

ふと思う。これは新たな始まりなのかもしれない。「私はほとんどうかつであった」という石原の詩句が好きである。

重大なものが終わるとき
さらに重大なものが
はじまることに
私はほとんどうかつであった
生の終わりがそのままに
死のはじまりであることに
死もまた持続する
過程であることに
死もまた
未来をもつことに(「はじまる」)

死の直前,全生涯分の一瞬一瞬が,映画フィルムのラッシュのように,目前を走るという。本当かどうかは知らない。その時,お互いのラッシュのどれだけが一致するだろう。そんなかけがえのない時間をすごせたのか? 


今日のアイデア;
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#詩
#死
#死に方
#石原吉郎

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2013年01月07日

リーダーシップ再考~リーダーシップとリーダーを分ける


リーダーシップについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10964345.html

で触れたことがある。ただ,いつも思っていることは,リーダーシップをリーダーとは切り分けて考える必要があるということだ。そのあたりを,実感的に(論理的ではないが)整理しておきたい。

まず,Leadershipの意味だが,語源的に正しいかどうかはわからないけれども,辞書を見る限り,
Leadership のshipは,Friendshipのような状態を示す意味
と,
Leadershipのようなスキルを示す意味
をもっているのではないか,と推測している。そこから,少しばかり飛躍するようだが,勝手に,Leadershipとは,リーダーである(状態を保つ)ためのスキル(技量)と考えている。自ら何を(達成)するためにリーダーであるのかに答えを出し,それを実現していく力量である。

もちろんLeadershipは,保有能力ではない。
環境変化,組織の内部変化に対応して,何のために何をなすべきかの旗幟(目的)を明確に立て,そのためにメンバーを組織し実現していく実行能力である。当然,リーダーシップもそれ自体をもったり,発揮することが目的ではない。リーダーだからといって,やたらとリーダーシップを振り回されてはかなわない。メンバーに徹底できない(徹底しきれない)まま目的や方針を振りかざし,報告がない情報が上がってこないと嘆いても,それはおのがリーダーシップのつけでしかない。

しかし,リーダーとリーダーシップは分けて考えるべきではないかと思っている。

あえて区別すれば,リーダーは,役割行動であり,リーダーシップはポジションに関係なく,その問題やタスクを解決するために必要と考えたら,自らが買って出る,あるいは誰かの委託を受けて,その解決に必要な周囲の人々を巻き込み,引っ張っていくこと(つまり,リーダー的役割をしょっていくこと)である。その意味では,トップにはトップの,平には平のリーダーシップが求められるはずなのである。

つまり,リーダーシップはその人の役割遂行に応じて,必要な手段なのではないか。職位が上のほうに行けばいくほど,リーダーシップがないことが目立ち,下へ行くほど,リーダーシップがあることが目立つ。上に行けばいくほど,リーダーシップを発揮しやすい条件と裁量を与えられているから,それがあるのが当たり前だから,ないことが目立つのである。そのことは,またあとで触れる。

では,まず,リーダーであるとはどういうことなのか。

「リーダーである」とは,組織(大は国,小は企業組織やその構成チームまで幅広く組織という形態を取っているものすべてを指す。集団はここでは外しておく)の目的を達成するための指導者(指揮官)であり,目的達成の責任者として存在する。自薦他薦で「リーダーになる」ことは可能だが,メンバーにリーダーと認知されない限りリーダーではありえない。リーダーと認められなければ,仮に旗を掲げても,振りかえると誰もいないという体たらくになりかねない。

またいま現在リーダーであるからといって,いつまでもリーダーでありつづけられるわけでもない。常にメンバーから問われるのは,(あなたは)「何のために(何を実現するために)リーダーとして存在しているのか」である。その答は,リーダーである限り,自分で出さなくてはならない。その答が出せなくなったとき,リーダー失格になるのでである。

 もちろん「リーダーである」ことは目的ではない。あくまで組織やチームの目的を達成することが目的である。それにはたえず「組織(チーム)の目的は何か」を明確にさせなくてはならないだろう。目的にかなわない「何か」を,自分もしくはメンバーがしたとすれば,第一義的にリーダーの責任である。もちろん,時代の変化とスピードの中で,組織(やチーム)の目的は変わる。変わらざるをえない。だから,常にメンバーと共に“目指すに足る目的”を掲げ直さなくてはならない。それが今日「リーダーである」ことの最も重要な使命かもしれない。

 リーダーは,一方では,
自分は「何のために(何を達成するために),リーダーとしているのか」
「(目的を達成するために)リーダーとして,何をしなくてはならないのか」
「(目標を達成するために)リーダーとして,どういうやり方をすべきなのか」
等々と絶えず自問しつづけなくてはならない。しかしそれだけに自己完結させれば組織維持そのものが目的化してしまうだろう。だから他方では,
果してこの組織(やチーム)は存在する理由を,この世の中に,かつて持っていたようにいまもまだ持ちつづけているのかどうか,
組織の使命,組織の存在理由,そのものへの問い直しもまたリーダーにしかできないことである。

 そのとき,リーダーシップとは,リーダーである(状態を保つ)ためのスキルであり,
組織は何のために存在するのか,
その目的からみて目標・手段は適切か,
あるいはその目的はいまも重要か,
もっと別の目的を創れないか,
等々と,問いを続ける姿勢である。その答えがビジョンであり,旗幟である。旗幟を鮮明に掲げ続けられるかどうかは,リーダーが組織の目的とどれだけ格闘したかの結果であり,そこにこそリーダーシップが必要なのである。戦術・戦略を語るのはその後である。

誰がその立場に立っても与えられた役割しか果たさないなら,誰がリーダーになっても同じである。一人一人が,自分に与えられた役割と格闘し,目的達成のために,何をすべきか,何にウエイトを置くべきかを主体的に考えようとしなければ,組織(やチーム)は硬直化する。

リーダーは,リーダーとしての立場と役割とは何かを自問しながら,何を目指すことが組織(やチーム)の未来を決することになるのかと,組織(やチーム)の目的と格闘し,その方向と行く末を描き出していく。
下位者(や構成メンバー)一人一人もまた順次,それを実現するために何をしたらいいか,それぞれの役割の目的と格闘しながら,主体的に考えていく。そういう組織(やチーム)が硬直化するはずはない。

こうした各層,各レベルで自問する組織(やチーム)なっているかどうかの責は,ひとえにリーダーの硬直化そのものにある。ビジョンを掲げぬリーダーには説明責任どころか結果責任も果たせないだろう。リーダーに弁解はない。掲げたビジョンそのものがすべてを語るからだ。そのビジョンは,それを実現するために何をすべきかを,メンバー一人一人に考えさせ値打ちのあるものなのかどうか。リーダーはその是非で,おのれにリーダーシップを問われるだろう。

だが,リーダーシップは組織やチームのリーダーのものと考えるのを前提にしていいものなのか。

たとえば,リーダーシップにこんな常識はないか。
①リーダーシップはトップのものである,
②リーダーシップはパーソナリティである,
③リーダーシップは対人影響力である,
これを点検してみる必要があるのではないか。

僕は,リーダーシップとは,トップに限らず組織成員すべてが,いま自分が何かをしなければならないと思ったとき(これを覚悟という),みずからの旗を掲げ,周囲に働きかけていく。その旗が上位者を含めた組織成員に共有化され,組織全体を動かしたとき,その旗は組織の旗になる。リーダーシップにふさわしいパーソナリティがあるのではない。何とかしなくてはならないという思いがひとり自分だけのものではないと確信し,それが組織成員のものとなりさえすれば,リーダーシップなのである。

そこに必要なのは,自分自身への確信である。それが自分を動かすものだ。それが人を動かす。リーダーシップは他人への影響力である前に,自分への影響力である。「お前がやらなくて誰がやるのか」「自分がやるしかない」と,みずからを当事者として動かせるものが,自分の中になければ,人は動かない。それが旗の意味であり,旗の実現効果であり,そこに共に夢を見られることだ。

だから,リーダーシップには,新たな常識が必要となる。
①周囲を巻き込める夢の旗を掲げられること,
②夢の実現プランニングを設計できること,
③現実と夢とを秤にかけるクリティカルさがあること,
である。

「こうすべきだ」だけでは人は乗らない。それが単なる夢物語でも人は乗らない。夢と現実味をかね合わせて,絶えず点検していける精神こそが,求められるリーダーシップである。それは,パーソナリティでも地位でもパワーでもなく,スキルであることを意味している。

それは,実は仕事の仕方そのもののことであるのではないか。それについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/pages/user/search/?keyword=%BB%C5%BB%F6%A4%CE%BB%C5%CA%FD

で触れた。要は,一人で抱え込まず,いかに人を使うか,人のサポートをつかむかが必要とて言ったが,それは言ってみれば,リーダーシップの端緒を意味している。つまり,こうだ。

その人が自分の役割を責任持って達成しようとするとき,自分の裁量内でやっている限り,その仕事は完結しない。ときに自分の裁量を超えて,人に働きかけ,巻き込んででも,それを達成しなくてはならないときがくる。それがリーダーシップを自分が必要になるときである。

必要なのは,自分は何をするためにそこにいるのか,そのために何をしなくてはならないのかを,自分の頭で考えられるかどうかだ。それを仕事の旗と呼ぶ。それは平のときから自ら考え続けていなくては,リーダーシップがあって当然という立場になったとき,リーダーシップがないことが目立つだけなのである。

で,最後に,リーダーシップが自分に必要となるシチュエーションをまとめてみると,次のようになるだろう。

①自分の仕事を自己完結しないで,その完成を目指すとき,より上位(上司という意味で限定していない)を巻きこんでいかざるを得ない

 必要なのは,その仕事を真に完結するのはどういうことか,その目的達成にはなにをしなければならないか,を考えていることだ。自分の裁量を超えても完結を目指すとき,上位者や周囲を巻き込まざるを得ない。そのとき,明確な旗が不可欠となる。それは上位者の指示を正そうとすることも含まれる。

②かかえている問題が大きく深いとき,より上位者を巻き込まざるを得ない

 その解決すべき問題が,自分を超え,部署をまたぎ,広がるほど,より幅広く巻きこんでいかざるを得ない。

③自分の仕事にリーダーシップを発揮しようとしないものに,リーダーシップは担えない

 組織の中で,自分のしたいことを実現しようとかするなら,上位者を動かさざるを得ないはずである。

④組織やチーム内に,自分以外にチームをまとめていけるものが見当たらないとき,その役を引き受けざるを得ない

別に勝手に「しょっている」のとは違う。自分が経験と知識,キャリアから見て,リーダー役を買わなくてはならないと自覚し,チームをまとめて,チームの目標達成のために何をしたらいいかをチームメンバーと一緒になって考えていこうとするとき,そのとき,役割としてのリーダーを担い,チームをリーダーとなってまとめ,引っ張っていこうとしていることになる。この場合,メンバーがそれを受け入れ,それを支えようとしてくれている限り,独りよがりではなく,チームメンバーは彼(女)にリーダーシップがあるというだろう。

⑤だからといってすべてをひとりでしょいこむことではない
 メンバーをその共通の土俵に乗ってもらえば,協働してやっていくことになる。その時自分は触媒役である。

だから,要するに,リーダーシップとは,リーダーシップは,自分(ひとり)では(裁量を超えていて)解決できないこと,あるいは解決してはいけないことを解決するために,解決できる(権限のある,スキルのある)人を動かして,一緒に,その解決をはかっていこうとすることである。

とくに,リーダーシップの真価が問われるのは,自分のポジションより上や横を動かそうとするときだ。そのとき必要になるのは,

●「何のために」「何を目指して」という,意味づけ(組織全体にとっての,その仕事にとっての,各自にとっての,その問題にとっての等々)が明示でき,
●必要な人々に,その意味をきちんと伝えていく力があり,
●めざすことを一緒にやっていくための土俵(協働関係)をつくれ,
●協力してくれた相手,サポートしてくれた人への感謝と承認を怠らないこと,

ではないか,と考えている。まさにどこまで自分が考えて,考えて,考え詰めているかが問われている。自問自答し,自分で答えを出す力が問われている。

今日のアイデア;
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#リーダー
#リーダーシップ
#旗
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2013年07月12日

リーダーシップをめぐって


先日,「第15回 リーダーシップコミュニティワークショップ 」

https://www.facebook.com/home.php#!/events/133640750161998/

に参加してきた。リーダーシップというキーワードで,それぞれが,いまの仕事やいまの仕事の仕方を語る場という意味では,リーダーシップというタイトルはついているが,それぞれの仕事観,マネジメント観,あるいは組織論を語っているというのに近い。

平気で,海外のトップクラスの学卒(院卒)者が,職場にいる状況と,組織的,あるいは関税障壁のような見えないバリアで守られているところとは,一見すると異質のようだが,かかえている状況は変わらない。

それを一言でいうと,

素質論(やる気も能力に含めると個人の出来不出来)

で切り分けていいのか,ということだ。

それは,個人の能力が社会的に育てられてくるという意味の仕組みの部分と,組織内で,仕組みとして育てていくかという部分があるが,ここでは,後者,個人的な出来不出来の問題に還元せず,組織として,仕組みとして,よりパフォーマンを挙げられるようにするにはどうしたらいいか,という問題意識といっていい。

僕の問題意識も,できるだけ個人の能力に還元するのはよしとしない。個人の能力アップがいらないという意味ではないが,たとえば,人とのコミュニケーションについて,どんな人ともうまく意思疎通できる人と,割と特定の人に苦手意識を持つタイプというるとすると,どちらかと言えば,苦手意識を個人的な能力の問題に置き換えたり,努力不足に置き換えたりする。

しかし,口下手の人も,口数の少ない人も,伝えるべきことが確実にその人に伝わるような仕組みやルール,たとえば,指示連絡や依頼の確認は,いちいちすれば角が立ったり,面倒くさかったりするが,依頼された側が,依頼終了報告をするというルールを決めてしまえば,報告がなければ,確認しやすくなる。

つまらないことのようだが,ルールができれば,それが意思疎通の最低条件に上がり,その余のことに力が注げるのではないか。

確かにコミュニケーションは大事だし,大半の職場問題はコミュニケーションに起因するという言い方もされる。ただそこで言っているコミュニケーションは,話すべきことがきちんと話されていない,共有化されるべきことがきちんとされていない,といった肝心のキャッチボールやベクトルあわせのことを指しているので,そうではない部分,もう少しシステマティックにできる部分は省力化していいのではないかといつも思う。

仕事のコミュニケーションの問題で,ついでに言えば,それをリーダーシップと絡めるなら,コミュニケーションはペラペラ上手にしゃべることではない。

既に何度か触れたことがあるが,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11196288.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11046523.html

僕はリーダーシップの端緒は,仕事の仕方だと思う。自己完結して仕事をする人は,どのレベルに行っても,たとえば,チームリーダーなら,チーム内で,課長なら課内で,自己完結して仕事をしようとするだろう。それは,自分の裁量内で,出来る範囲で,仕事をするということであり,ということは自分の役割を広げようとも,それを超えようともしない,はっきり言って,自分の使えるリソース(部下もリソースに含まれる)だけを使う以上の努力もしないで,仕事をしているに等しい。

しかし本来仕事は,目の前の仕事をこなすことではなく,本質的に仕事の完結ということを目指そうとするのであれば,自分の裁量の範囲ややれる力量内でこなすことではなく,その仕事を本当の意味で完成させるのが目的でなければならない。そうであるなら,そのために必要な人に支援や協力を求め,自分のキャパや裁量を超えて,一人(の力量内)ではできないような仕事をすることでなければならない。

ここにリーダーシップの端緒がある。こういう仕事の仕方をしてきた人は,チームを預かっても,チーム内で自己完結させず,必要なら,他チームや上位者(さらにその上や組織全体)を巻き込んで,チームのパフォーマンスを挙げようとするだろう。

それが真の意味のリーダーシップだと思う。

とすると,コミュニケーションとは,

なぜそれを完成させなくてはならせないのか,

そのためになぜあなたの協力が必要なのか,

そして一緒にどういうことを完成させ,それによって自チームだけではなく,組織全体にとってどんな意味があるのか,

等々をきちんと語れなくてはならない。それは,単に語ることに力点があるのではなく,

自分は何をするためにここにいて,

そのためにこの仕事を完成させなくてはならず,

それにはあなたの協力が必要なのだ,

と自分の仕事の意味,自分の意味,自分のやろうとしていることの意味,そのことのもたらす意味をきちんと考え詰め,筋を通して話を詰めていけることだ。それが語り口に現れる。

コミュニケーションは,話し方ではなく,その人の思考の結果だということだ。だとすれば,コミュニケーションとは,共感とか聴くとかより前に,仕事をするものとして,

そこにいる自分の意味,

そこでする自分の仕事の意味,

をきちんと考えていることが大前提になる。それなしの共感も傾聴も,自分の仕事を支援してもらうために,相手をまきこむ武器にはならない。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

#リーダーシップ
#共感
#傾聴
#コミュニケーション





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2013年10月15日

お蔭様



お蔭様

は,いい言葉だか,自分はずっと苦手にしてきた。というか,おれがおれがの性分で,すべてをおのが手柄とする傾向があった。今でもないとは言えない。自分に対するそういう自負心がなくなったらおしまいじゃないか,という気持ちが強い。

自恃,

自らを恃む気持ちがなくなったら,おしまいではないか。

人に頼るのを,だから,ずっとよしとしなかった。

而立

とはそういうことだと,思ってきた。

何でも人に頼る,ということを嫌ったのは,教えを乞うた時,相手が「自分で考えろ」というそぶりを見せたのが,たぶん,心に焼き付いている。

でも考えたら当たり前かもしれない。おのれの才覚で必死に考え付いたノウハウを,昨日今日始めたやつに,ただ手渡しても,そのありがたみがわかるはずはない。

ただ教えればいいというものではない。

啐啄同時

という言葉があるが,タイミングがある。孔子曰く,

如之何(いかん),如之何と曰わざる者は,吾如之何ともする未(な)きのみ

とあるし,

噴せずんば啓せず,悱せずんば発せず

とも言う。だから,人に教えるのが嫌だというのではない。

不思議だが,自分でとことん考えたことは,

教えたい。

聞いてほしい。

使ってほしい。

人から聞いたこと,学んだことは,教えたくても教えようがない。ネタバレしそうだということもあるが,それよりなにより,その背景となるバックグラウンドというか,コアとなる思想というか,哲学が欠けている。そもそもない。

何でもオープンに手渡して怯まなくなったのは,しばらくたってからだ。真似ができるなら,どうぞという不遜な考えではない。自分が必死で考えたものだからこそ,それを使ってくれるなら喜んで,使ってもらいたい,それだけのことだ。

思えば,そこには,自分がいる。自分がある。誰かの世話というより,

先人の肩の上に立っている,

ということなのだ。だから,最近,リーダーシップもこう考えるようになった。

リーダーシップは,人に協力や支援を求めて,一緒にこと(問題解決や何かの実現)に当たってもらうべく,自分が積極的に必要な人に働きかけていくことである,と。

そのとき,どれだけ人を巻き込んでいく力があるか,である。

そのために必要なのは,

・「何のために」「何を目指して」という,意味づけ(組織全体にとっての,その仕事にとっての,各自にとっての,その問題にとっての等々)が明示でき,
・必要な人々に,その意味をきちんと伝えていく力があり,
・めざすことを一緒にやっていくための土俵(協働関係)をつくれ,
・協力してくれた相手,サポートしてくれた人への感謝と承認を怠らないこと,
である,

と。

肝は,最後にある。

協力してくれた相手,サポートしてくれた人への感謝と承認を怠らないこと,

とは,

「お陰様で」

と言えるかどうかである。これがなければ,

画竜点睛を欠く,

あるいは,

九仞の功を一簣に虧く,

である。一発屋のリーダーシップというのはありえない。まして,リーダーシップはリーダーの役割行動とは別のものだ。

つくづく,これを欠くリーダーは多いが,それが欠けた瞬間,その人は,リーダーシップの何たるかがわかっていない,という目印である。

リーダーとしての役割なら,(あるにこしたことはないが)なくても問題視はされない。それがその人の役割(社長としての,課長としての,部長としての職務権限,裁量)からくるものだから。

しかし,リーダーシップにこれを欠いたら,誰も,二度と協力しないだろう。

そして思う。リーダーシップというのは,その人の仕事の仕方の延長線上にある,と。

いつも自分で抱え込んで(自分の技量と才覚にのみ頼って),自己完結した仕事の仕方をしてきた人は,チームを預かるようになっても,チーム内で何とか完結して仕事をしようとする。しかし,チームレベルでは(本来は,個人レベルでもそうなのだが),自己完結して仕事ができるはずはないし,自分たちだけで解決できない問題が必ず起こる。それでもそれを何とかチーム内で背負い込んでやり遂げようとする。当然そうすれば,自分がつぶれるか,チームがつぶれる。

仕事は,自分の器量と技量と裁量内でやろうとすれば,自分の持つリソースだけの仕事しかできない。それを超えた大きな仕事はできない。

仕事の出来る人は,人のサポートや支援を得て,自分の器量と技量と裁量を超えた,大きな仕事をする。本来仕事はそういうものだ。その延長線上に,リーダーシップはある。だから,仕事の仕方なのだ。

とすれば当然,「お陰様」はついて回る。というか,そもそもそれなしに,自分の技量と器量と裁量を超えた仕事ができるはずはない。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)

今日のアイデア;
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posted by Toshi at 05:21| Comment(2) | リーダーシップ | 更新情報をチェックする

2015年09月06日

カリスマ


カリスマ(Charisma)とは,

預言者・呪術師・英雄などに見られる超人的・超自然的な才能、能力のこと。または、それらの能力を持った人。
人々を率いて、時代に大きな変革をもたらす力、またはそれを持った人。
(超自然的な能力を持っているかのように)人を惹きつける魅力、またはそれを持っている人。

といった意味だが,辞書(『広辞苑』)には,

「(神の賜物の意)超人間的・非日時用的な資質。英雄・預言者などに見られる。カリスマ的資質をもつものと,それに帰依するものとの結合を,マックス・ウェーバーはカリスマ的支配と呼び,指導者による支配類型の一つとした。」

とある。まあ,僕には縁のないことだが,ときに,これをリーダーシップに持ち込むヒトがいるために,話がややこしくなる。しかし,

リーダーにカリスマ性はあるが,リーダーシップにカリスマ性はない。

なぜなら,リーダーシップは,

スキル,

だからである。ことの巧拙,出来不出来,成熟未熟はあるとしても,だ。

M・ウェーバーは

カリスマ的支配
合法的支配
伝統的支配

という支配の三類型として構想した,という。 カリスマ的支配とは,

「『特定の人物の非日常的な能力に対する信仰』によって成立している支配で、その正当性は、カリスマ的な人物の『呪術力に対する信仰、あるいは啓示力や英雄性に対する崇拝』に基づく。そして『これらの信仰の源は、奇跡あるいは勝利および他の成功によって、すなわち、信従者へ福祉をもたらすことによって、そのカリスマ的な能力を実証することにある』。 カリスマ的支配は、偉大な政治家・軍人・預言者・宗教的教祖など、政治や宗教の領域における支配者・指導者に対して用いられ、被支配者・被指導者は支配者・指導者のカリスマ的資質に絶大の信頼を置いて服従・帰依するのである。政治的カリスマでは『軍事カリスマ』と『雄弁カリスマ』が、宗教的カリスマでは『預言カリスマ』と『呪術カリスマ』が歴史上重要である。」

と,ウィキペディアにはある。

ここからは,妄想だが,そういうカリスマ性は,その心理的な影響下にある人間に対しては,強い支配性,指導性をもつが,その支配圏外の人間には,そのカリスマ性は及ばない。それは,リーダーではあるが,リーダーシップではない。もちろんその強いリーダー性が,他へ強い影響を与え,結果としてリーダーシップを発揮することがあるかもしれないが,それは,リーダーシップの本質ではない。

リーダーシップとリーダーシップとを分けることについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163008.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163092.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163417.html

等々で触れたし,リーダーシップとは何かという本質に関わることは,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0650.htm

で整理したので,あるいは,繰り返しになるかもしれないが,リーダーシップは,

文脈依存,

だということが一番強い。あるいは,

状況依存,

と言い換えてもいい。いつでもどこでも,共通したリーダーシップがあるのではない。その面で言えば,

リーダー像

は,普遍的かもしれないが,リーダーシップは違う。

リーダーは,チームや組織,集団のパフォーマンスを上げることだ。しかし,リーダーシップはそれとは別だ。その人が,ヒラであろうと,チームリーダーであろうと,役員であろうと,トップであろうと,決して自己完結せず,その問題,その目的を実現するために,必要な人に働きかけ,その人のサポートを得て,それを実現していくことは必要である。そのとき,

リーダーシップ

がいる。それを,

「リーダーシップとは,トップに限らず組織成員すべてが,いま自分が何かをしなければならないと思ったときに(それを覚悟という),みずから旗(何のためかという意味と目的)を掲げ,周囲に働きかけていくことでなくてはならない。その旗が上位者を含めた組織成員に共有化され,組織全体を動かしたとき,その旗は組織の旗になるのであり,リーダーシップにふさわしい地位や立場があるわけではない,ましてやリーダーシップにふさわしいパーソナリティがあるわけではないのである。でなければ,だれも,人を動かせない。このままではいけない,何とかしなくてはならないという思いがひとり自分だけのものではないと確信し,それが組織成員のものとなりさえすれば,リーダーシップである,と考えるところから,リーダーシップを詰めて行かなくては意味がない。」

という言い方をした。これに尽きると,思う。ここに,カリスマ性を入れたければ入れてもいいが,それは本質ではない。

たとえば,ヤマト運輸の二代目社長・小倉昌男氏は,「宅配便の規制緩和を巡り、ヤマト運輸が旧運輸省(現・国土交通省)、旧郵政省(現・日本郵政グループ)と対立した際、企業のトップとして先頭に立ち、官僚を相手に時には過激なまでの意見交換をし…理不尽な要求に毅然として」立ち向かったが,これこそが,トップのリーダーシップである。

要は,トップであれ,平であれ,その人が置かれているシチュエーション,つまり文脈の中で,

自分が何をするためにそこにいるのか,

そのために自分がすべきことは何か,

にどう考えるかに,その人のリーダーシップは依存している,と思う。その文脈の中で,

本当に解決すべきことを,解決できる人を巻き込んで,解決しようとしたかどうか,

がリーダーシップの根幹なのだ。その是非は,その人の文脈の中でしかわからない。だからこそ,そこで,自分が,

何をするためにそこにいるのか,

いま自分がしなくてはならないことは何か,

そのために誰を動かせばいいか,

を本人がわかっているかどうか,

その上で,

いま,自分がすべきことを実現するために,どの人に,どう働きかければいいのか,

をはかっていけるかどうかが,問われている。それができるかどうかは,一般論で語っている限り見えてこない。

実は,これは,アージリスの言う能力と深くかかわる。アージリスは,能力に,

コンピタンス

アビリティ

があるとした。コンピタンスとは,

それぞれの人がおかれた状況において,期待される役割を把握して,それを遂行してその期待に応えていける能力,

であり,ある意味,役割期待を自覚して,そのために何をしたらいいかを考え実行していける力であり,その先に,いわゆるコンピテンシーが形成される。つまり,それは,

自分がそこで“何をすべき”かを自覚し,その状況の中で,求められる要請や目的達成への意図を主体的に受け止め,自らの果たすべきことをどうすれば実行できるかを実施して,アウトプットとしての成果につなげていける総合的な実行力,

である。アビリティとは,

英語ができる,文章力がある等々といった個別の単位能力,

を指す。これが,仕事をする能力とするなら,リーダーシップは,コンピタンスの延長線上にある。つまり,

裁量を超えても為さねばならないことがあると思ったら,そのために事態を動かせる人を動かして,事を為そうとする,

ということである。これ以外にリーダーシップはない。








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