2013年06月25日

無意識なシグナル


人と人との相互作用を,ソシオメーターをつかって,一度に何百人の行動を正確に測定できるらしい。それを装着した人の行動を分析することによって,どれだけ対面していたか,発話の特性から非言語の社会的シグナルを測定する,人と人との物理的距離を測る等々を知ることができる。『正直シグナル』(アレックス(サンディ)・ペントランド)はそうしたデータに基づいて,人の非言語コミュニケーションの特徴を検証した報告でもある。

人間には,言葉ではなく社会的な関係を軸とする第二のコミュニケーションのチャンネルがある。この社会的なチャンネルには互いに誰も気づいていないにもかかわらず,私たちが下す大切な決定はこのチャンネルに大きく左右される。

それが本書のテーマである。それは,

人間の行動のタイプには,生物学的基礎をもつ正直シグナリング行動から,かなり確実に予測できることが多いことがわかった。

という。本書は,人の相互作用は,

話し手の態度あるいは意図が,韻律と身振りの大きさや頻度の変化のような無意識の行動を通じて伝わる。

それわ,動物コミュニケーションや社会心理学に基づく,「非言語的な無意識のシグナル」に重点を置いた「正直シグナル」と名付けたものから明らかにしようとする。

そこでは,「対話の内容でなく,人間のあいだの関係」に着目するので,

なじみのない外国語での会話を観察していても,誰かが会話の主導権を握っていたり,友好的な相互関係を築いていたりするのが「わかる」ときに,知覚しているもの,

と同じなのだ,という。これは,カウンセリングやコーチングで,クライアントの言葉の中身や意味ではなく,その振る舞いやしぐさから見ようとしている姿勢と同じといっていい。

本書では,そういう正直シグナルを,

●影響力 社会的相互作用のなかで,各自が別の人に与える影響の大きさ。相手の行動をコントロールできる度合い,相手の言葉にかぶせるように話しあっているときはどちらの影響力も大きい。不規則な会話の中断があると,影響力は小さい。一方が質問しているときは,一方的な影響力が見られる等々。
●ミミクリ 会話の間,人がほかの人を反射的になぞること。無意識に相互で微笑んだり,相槌をうったり,頷いたりする。人が相手の行動をまねたり,なぞったりしているときは共感を示している,他人の行動の無意識なミミクリは社会的適応機能を果たしている。
●活動レベル レベルが上がるのは,関心を持ったり興奮したときだ。発話時間は関心のレベルや外向性と相関がある。
●一貫性 発話の韻律や身ぶり,手振りの変動の量,声の大きさやリズムの変動,身振りや手振りの大きさ速さで測る。協調やタイミングの一貫性は精神が集中しているシグナルで,逆に変動性は,感情的になっているしるしであることが多い。変動性は他人からのインプットに対する寛容性,それを受け入れる用意があると伝えるシグナルになる。

こうしたシグナルは,脳の構造や生物学的仕組みに根差している。

影響力は,注意や低位の神経系,感覚情報をまとめて,人に目を向けたり,音に反応したりする,定位反応を引き起こす,ミミクリはミラーニューロン,ほかの人の行動に反応しまねるフィードバック経路を提供する,活動レベルは自律神経系,闘争か逃避かを迫られたり,性的興奮状態にある時,神経エネルギーを提供する行動に現れる,一貫性は小脳,大脳基底核,大脳皮質に投射している神経経路の働きが表面化したもの,等々と考えている。

このシグナルは,人類の進化の古い遺産といえる。人類のシグナルは,類人猿のシグナルに似ているし,幅広い動物界のシグナルにも近い。例の飼い主の心を読んだ「賢いハンス」という馬の例や飼い主の心を読む犬の例は,無数にある。

面白いのは,このシグナルを意識的にでっち上げて,偽って伝えようとすることは難しい,ということだ。例外は,特定の社会的役割に完全に没入する「スタニスラフスキー方式」で,これは,うまくいくという。

ではそうしたシグナルは,どう社会的役割を伝えているのか。ここでは,それを,打診,傾聴,協調,主導にわけ,それらはいくつかの心の働きの組み合わせを仮定している。

たとえば,影響力は注意を,ミミクリは共感的な理解を,活動レベルは関心を,一貫性のある協調は精神的集中と決意を伝えると解釈すると,相手との関係を深める可能性を探りたい打診という社会的役割は,関心と影響力に対する寛容性(つまり受け入れる用意)のシグナルになる。

傾聴という役割は,注意と関心と新しい考えへの寛容性の組み合わせによって相手に示される。活動レベルは抑制される。

協調の役割は,注意と,共感的理解,集中した思考と目的という組み合わせの表出になる。強い影響力,ミミクリ,一貫した協調とのリズムが見られる。

主導の役割は,注意と関心,とても集中した思考と目的を示す。

しかも無意識で独立したこのコミュニケーションのチャンネルから,客観的行動と主観的な社会的印象をかなり正確に予想できるらしい。つまり,意識的に抑えようとしても,無意識はその覊絆を脱して,意図を表面化させてしまう。例えば,ポーカーフェイスを競うカードゲームでもパーティや会議でも,ソシオメーターを使うと,80%の精度で,行動が予測できた,という。

もともとわれわれは他人の心を即座に読み取って反応できる,「ネットワーキング・ハードウエア」をもっている。この鍵になるのがミラーニューロンで,相手の影響力やミミクリ活動レベル,一貫した強調などが伝える正直シグナルを読み取るための直接の神経経路をもっているので,相手の関心,決意,共感などのレベルを無意識に読み取っている。

それは,個人にとどまらず,社会的ネットワークを作り上げている人々とのつながりを通じて広まり,集団全体にも影響を及ぼす。人々の間のシグナリングのパターンによって形づくられる社会的回路もある。例えば,典型的なのは,気分の伝染だ。いまの「好景気感」という気分もそうだが,興奮した一人がいるだけでチーム全体のエネルギーレベルが上がったりする。それが自分にフィードバックされて,無意識のうちに興奮する。

意識的な言語と違うのは,シグナリングが当事者双方を変えることだ。たとえば,

だれかがあなたのまねをすると,あなたも相手の真似をしはじめる傾向がとても強い。その結果,ある種の社会的回路が生まれ,それが自己強化するようなかたちになり,二人はますます盛んに相手のまねに取り組み,それぞれ相手のことをますます好ましく思うようになる。

いわば,「自発的洗脳」という効果は,たとえば実験で,売り込みに,ともかく首を上下に振るように求めると,その売込みが気にいるようになる。脳は,怖いから鳥肌立つのではなく,鳥肌立っているから怖いと感じる,というのと同じで,首を振っていることから,気にいっている,と感じてしまう。

では,さらに突っ込んで,集団内の社会的役割では,正直シグナルはどう機能するのか。

社会学的には,チームのメンバーを,グループロール(攻撃者・主唱者・支援者・中立者)と任務としての役割であるタスクロール(授与者・探究者・中立者・先導者)という観点で分析している。

ソシオメーターを使った実験で,無意識の社会的シグナリングを分析することで,人がどんなグループロールとタスクロールを演じているかが,正確に読み取れ,参加者がグループロールやタスクロールを変えるたびに,無意識の社会的シグナリングも役割に応じて必ず変えている。

たとえば主唱者の役割を果たしているひとは,…(社会的役割の)打診のシグナリングをみせ,支援者の役割にある人は,…協調のシグナリングを見せ,中立者は,能動的傾聴のシグナルを発し…,攻撃者の役割を担ったときは,強い主導のシグナルを発した。

しかもグループロールとタスクロールは,リンクしていて,「どのタスクをしているかに応じて,特定のグループロールを演じていた」という。つまり,「無意識の社会的シグナリングのパターンを観察するだけで,その集団のダイナミックスについて」わかり,「各人のグループロールとタスクロールを正確に見きわめられる」ということだ。

しかし,単にそうした心理的葛藤やダイナミクスだけが見きわめられるだけなのか。本書では,新たなインテリジェンスのあり方を提案する。それは,集団のもつ声を見きわめる,ということに近い。つまり,

個人の知性が,脳内の多数の特化した中枢を神経回路を通して調整することから生まれるのとちょうど同じように,行動の選択が,多数の個人の心を社会的回路を通して調整することから生まれるという考え方だ。

という。そして,

人間の集団を,言語によって結びついた,個々の知性の集まりとして見ることから,太古のシグナリング・メカニズムによって結びついたネットワーク・インテリジェンスとして見ることへの移行は,必要不可欠だ。

と。ピラミッド型からネットワーク型のインテリジェンスへと移りつつある今の時代の中で考えれば,暗黙知と言われるものも,幅広く言えば,ここに加えてもいい。つまり,意識が判断する以上のことを,無意識,あるいは意識下では判断している,と。しかし,監訳者も指摘したように,この「声」が正しいとは限らない。衆愚という言葉があるように,日本が,第二次世界大戦へと突き進んでいったのは,国民自身の「夜郎自大」な「声」だったことも否めない。

その意味では,無意識にただ従うのではなく,無意識と意識の相互のフィードバックのあり方こそが,必要で,その意味で,暗黙知一辺倒ではだめなのと同じなのではないか。


参考文献;
アレックス(サンディ)・ペントランド『正直シグナル』(みすず書房)

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2013年07月04日

発明家



橋本毅彦『近代発明家列伝』(岩波新書)を読む。

「世界をつないだ九つの技術」とサブタイトルがついている。取り上げた発明家は,

ハリソン(世界時計の計測)→ワット(産業革命の原動力・蒸気機関)→ブルネル(鉄道建設と蒸気船)→エジソン(電球と発電)→ベル(電話)→デフォレスト(無線通信とラジオ放送)→ベンツ(自動車)→ライト兄弟(飛行機)→フォン・ブラウン(ロケット)。

近代の骨格となる発明といっていい。もちろん別の選択もありうるだろうが,「世界をつなぐ」に焦点をあてている。

ハリソンは,大航海時代の船載時計の開発。揺れる船に乗せて,精度を保つ機械時計の原点となったハリソンの塔時計は,

驚くことに現在に至るまで動き続けている。

という。

ワットと言えば,蒸気機関だが,ワットは蒸気機関の発明者ではない。ワット以前にすでに実用化されていた。彼がした功績は,それを改良し,格段に性能と効率を向上させ,汎用性の高い機会によって,産業革命の原動力となった。彼の蒸気機関は,大気圧程度で作動する低圧の蒸気機関で,後の蒸気機関車や蒸気船に搭載された高圧の蒸気機関とは異なっていたが,ワットは,

高圧の蒸気を扱うことは大変危険だと固く信じていた…。

という。その蒸気機関車の鉄道建設に関わり,世界一周航海が可能な巨大な蒸気船を建造したのが,ブルネルである。

エジソンについては言うまでもないが,彼は,

ちただ電球を製造するだけでなく,発電所と送配電用の伝染を建設し,電気を利用者に供給する事業を計画した。

というように,「システム構築者」であったところだ。

電話の発明者ベルは,一方で聾唖教育の実践者であり,ヘレンケラーとサリヴァンを引き合わせることになる。そして『ナショナル・ジオグラフィック』誌を支援した功績も大きい。

真空管の先駆けになる三極真空管を発明したデフォルトは,無線の用途として音楽やニュースの包装の事業化に関心を持ち続けた。

ガソリンエンジン搭載の自動車を開発したのがベンツ。それが一大産業として開花したのは,アメリカである。

アメリカの自動車産業を支えたのは,自動車が走行する舗装道路の建設と信号や標識の設置,ゴムタイヤの製造などの基盤技術の発展である。

という。

電話の発明酒ベルは,晩年飛行機の発明に関心をよせたそうだが,自家製のガソリンエンジンを搭載した飛行機械で初飛行に成功したのは,ライと兄弟である。

飛行機は第一次世界大戦に利用され,戦争の形態を一変させた。さらにそれを激変させたのが,フォン・ブラウンの開発したロケットであり,それを使ったV-2ミサイルはロンドンに降り注いだ。

そのミサイル技術が,別々にアメリカとソ連に運び出され,米ソの宇宙ロケット打ち上げ競争になり,スプートニク,ガガーリンの有人宇宙飛行とソ連に先んじられた宇宙競争で,アポロ計画が立案され,フォン・ブラウンが,それを担当した。

こうした発明史に,何を取り上げるかで,近代の見え方が変わる。これに,コンピュータを取り上げるか,交通システムを取り上げるか,によっても変わるだろう。

いまや個人の発明家の時代ではなくなった。エジソンが依頼されていた潜水艦探知機の開発に失敗した時,科学者中心の組織が,音響探知機を開発したのを例に,著者は言う。

時代はすでに,機械職人が創意工夫をしながら工作していく段階から,科学者たちが現象の分析を行い,科学理論を応用しつつ新しい装置を開発していく段階に移ろうとしていた。

いまは,さらにそういう様相を呈している。しかしシステムがあったら発明ができるわけでもない。田中耕一さんの例のように,やはり個人の着想と問題意識なくして発明はない。

最後に著者はこう書く。

10人の発明家の生涯を追って改めて気づくことは,彼らの多くが特許取得をめぐって苦労を重ねていることである。なかでも熾烈な特許係争に巻き込まれたのはベルである。発明家の思考と活動は,特許制度のあり方に色濃く特徴づけられている。特許取得に有利なよう,日々の思考や実験をノートに書きとめ,ライバルの動向に注意し,よき財政支援者と協力する。特許制度への対応は,産業革命以降の技術活動の非常に重要な側面を形成しており,そのことは特にアメリカの発明家たちにあてはまることだったろう。

そう思うと,ほぼ同じ地点にいたライバル,特許係争に敗れたライバルたちに焦点をあててみてみると,別の歴史があるに違いない。



今日のアイデア;
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2013年07月09日

江戸の経済政策


山室恭子『江戸の小判ゲーム』(講談社現代新書)を読む。

江戸幕府の経済官僚と承認との虚々実々の駆け引きと,奇妙な共存共栄関係が描かれる。言ってみると,いままでの先入観を拭い去ってみると,江戸幕府の経済政策は,独善的だったり,幕府や武家の利のみを計っているとは言えない,目から鱗の歴史が,現れてくるのが面白い。

焦点は,ふたつ。ひとつは,50年周期で繰り出される借金棒引きの政策。いまひとつは,小判の改鋳。世上いずれも,武家による武家のための施策に見える。しかしそうではない,と著者は言う。

武家と商人という,まったく編成原理の異なる二つの社会集団のあいだを取り持ち,互いが互いの長所と欠点を補いあっての集団相互の精妙なる均衡関係を維持する,というまことに崇高で困難に満ちた使命

を果たすべく,幕府の経済官僚は,知恵を絞っている。

両者をどう均衡させれば,どちらにも不満を発生させずに,商人に偏った富を再配分させるのか,

借金棒引き令も,貨幣改鋳も,同じ目的で実施されている。

公儀による借金棒引き令は,窮乏武家一般を救済するために無計画に繰り出されたのではなく,父祖以来の借財が累積し,余儀なき不幸によって当人の積でない自由で債務過多に陥った武家が多数を占めるようになる時期を見計らって,計画的に実施されたものであり,それが50年周期になっている。借金棒引きのその意味に光を当てると,有名な,享保の改革,寛政の改革,天保の改革,いずれもが,政治の偶然ではなく,経済の必然に導かれての政策だ…

と著者は分析する。

武家の窮乏は,ひとり武家だけの困難を招くのではない。武家の消費が冷え込めば,商人も苦境に陥る。なにしろ武家は江戸の人口の半分を占め,かつその日暮らしの零細民の多い町方とは異なり,確実な定収入のある大口の消費者である。その武家の購買力低下は,江戸の商人に深刻な営業不振をもたらすことになる。だから公儀は,借金破棄という荒療治をあえてしてでも,売れない/買えない,あるいは貸せない/借りられないという商人・武家双方の手詰まり状態を打開し,「融通」の回復を図ったのである。

いわば,富の再配分である。

武家から承認へと年々移動し固定化し流通しなくなってしまった富を,50年に一度,強制的に商人から吸い上げて武家に再配分することで,「世上不融通」を解消し,売買・貸借という両者間の経済活動を再び活性化する役割を公儀は積極的に担っていたのではないか。

もちろん,棒引きにされた札差側はたまったものではない。黙ってそれに従ったのではない。反発や異議申し立てを受けて,幕府側も,棒引きから,利下げへと譲歩したり,

損害により営業不振に陥った札差に資金援助をするため,江戸の豪商から7万3000万両を出仕させ,会所を設立させて,武家への融資の資金源としたが,それが天保になると,20万8200万両の上納金に,大阪商人からは,110万両が上納されたが,無論これは20年賦利子つきで返済される条件付きである。

といったバックアップ体制を取りながら,推し進めていくが,実は商人が受け入れざるを得なかったのは,「金銭訴訟」受付の絞り込みという幕府の締め付けであったからだ。年間200件以上の「借金払い」に関わる訴訟が奉行所に持ち込まれている。

それを審議し裁定し,さらにその裁定に強制力をもたせて債務を返済させるために,奉行から初期・執達吏にいたる膨大な人手が投入されていた…。

その機能が止まると,商人にとって公儀が金銀訴訟を裁定し,信用取引を保証してくれていることがいかに大きな,それこそ死活問題につながりかねないほど,公儀に依存している部分があったともいえる。

いまひとつは,小判改鋳だが,幕府は20年ごとに小判を改鋳し続けている。

改鋳の目的は退蔵貨幣の解消にあり,放っておくと滞留してしまう貨幣の流れに人為的な刺激を定期的に与えて回転を円滑にするため,わざわざ貨幣自体をリセットしたのである。

従来は,旧貨幣より品位を落とした新貨幣をリリースし,その差益=出目をえることとされてきたが,そうではない,と著者は言う。その理由を,こう分析する。

現代であれば貯蓄=投資,誰かが貯蓄した分は銀行等を通して別の誰かに貸し出され,投資として機能する。しかし,江戸の場合は貯蓄+投資=定数,誰かが貯蓄すると,その分の小判が世の中から消え,投資に回す分が減ってしまう。とりわけ札差や両替商のような大手の金融業者が貯蓄志向に走り,年貢米を買い叩いたり武家への貸し渋りをしたりして巨額の資金を抱え込んでしまうと,武家の購買力がもろに低下したりモノが売れなくなって商業界全体が沈滞してしまう。貯蓄ができない社会。そこから公儀の苦労が始まる。放っておくとみんながお宝を抱え込み,貨幣の過半が世上から姿を消してそこでしまいかねない。そこで頃合いを見はからって貨幣会知友という強硬手段を発動し,蔵にしまわれたままの旧貨幣を期限切れに追い込んで放出させる。

それについて,では商人はどういう反応をしたのか。

たび重なる改鋳に実施に対して,商業界からは指弾の声ひとつ上がらない。それどころか,両替商たちは手弁当で旧貨幣と新貨幣の引き換え実務を黙々と担い,全面的に公儀に協力している。

だから銭は230年一度も改鋳されていない。「寛永通宝」のまま通された。

意外と,江戸幕府の政策の細部は合理的なところとかゆいところに手が届くような繊細さがあった。再度見直されるべきなのかもしれない。で,ふと思い出すのは,幕府が森を維持するために努力し続けてきていたということを。明治新政府は,そこまでのきめの細かさはなかったために,森が荒れた,と。

しかし同時に思う。これは,幕藩体制という制度自体の矛盾でもある。横井小楠は言い切る。幕末3500万の人口中,まともに食べているのは,5~600万人にすぎない,と。その矛盾を,その時代を維持するための荒療治だったにすぎない,という言い方もできる。

参考文献;
山室恭子『江戸の小判ゲーム』(講談社現代新書)

今日のアイデア;
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#山室恭子
#江戸の小判ゲーム
#横井小楠
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2013年07月11日

科学の限界?


池内了『科学の限界』を読む。

「何が科学の限界を決めているのか,それは克服できるのか,克服できるとすれば現在の私たちに何が欠けているのか,克服できないとすれば今後科学・技術とどう付き合っていくべきなのか」そんな問題意識で,書かれている。

いま一種の踊り場にある。ホーガンは,『科学の終焉』(1996)で,20世紀の前半で,相対性理論,量子論,DNAの二重らせん,ビックバン理論等々は,1950年代までに出され,その後50年それらと匹敵する成果は出ていない,といった。

では本当に限界に達したのか。著者は,いくつかの切り口から,整理しつつ,現在の科学の直面する課題をあぶりだしていく。

まずは人間の生み出す科学の限界。

人間の英知の進化は,600万年前人類の祖先が類人猿とわかれ,200万年前にホモ・ハビリスが石器を使い,60万年前にホモ・エレクトスが第一次出アフリカを行い,20万年前ホモ・サピエンスが出現し,6年前,第二次出アフリカとなって,この間,人類叡智は時間をほぼ三分の一に短縮して進んできた。では,技術(文明)はどうか。40万年前ホモ・エレクトスが火を発見し,一万年前に農業をはじめ,250年前に燃料革命と機会による産業革命となり,6年前情報革命…と,技術は時間を40分の一に縮めて展開してきた。つまり人間の英知の発達に比べて10倍以上の速さで進む。

もはや人間の英知が追いつかなくなる状況を迎えているのではないだろうか。

と著者は,「問題がより高度になり,より難解になったために,…なかなか打開の方向が見いだせず,人間の認知能力の限界に挑戦している状態」と言う。たとえば,

物理学で言えば,マクロ物質とミクロの原子との間には質的なジャンプがあり,ニュートン力学から量子力学への大きな変革の必要があったが,原子以下の原子核・核子(陽子と中性子)・クォークという下の階層ではそのまま量子論が通用している。力学構造が同じであるなら,実体の形状に階層の原因を求めなければならない。そこで点粒子の描像から弦(ひも)や膜のような形状を考えるようになった(超弦理論)。そうなると空間次元が九次元とか10次元となり,難解な理論にならざるを得ないのである。ひょっとすると袋小路に入り込んでいるのかもしれない。

次は社会が生み出す科学の限界。

19世紀以降,科学が国家の精度に組み入れられ,「科学のための科学」ではなく,「社会のための科学」に変質し,「社会に役立つ科学」であることを求められるようになる。結果として第一世界大戦の毒ガス,航空機から始まって,第二次世界大戦へと軍事技術として総動員されるようになる。その結果,爆弾は,殺傷能力で40万倍,爆発力で10億倍,飛翔距離で1000倍となる。そして,1990年代からは,グローバル化に伴って,科学の成果の商業化を強く求められるようになる。商業化に伴って,科学が社会に迎合する方向になびき,基礎から,改良主義に陥っていき,科学の多様性が失われていく。

そして科学に内在する化学の限界。

ミクロの世界では,位置と運動量やエネルギーとその常態にある時間は完全に決定できないという不確定性関係を受け入れると,

必然的に私たちが厳密に決定できる物理利用の値に制限がつく。完全に位置と運動量が決定できるなら不確定度はゼロなのだが,素粒子のようなミクロ物質では,サイズと運動量の不確定度の積はプランク定数程度のおおきさになり,ゼロではなくなるのである。速度の上限は光速だから,運動利用は質量に光速をかけた量が上限値となる。すると不確定性関係は,サイズと量の積がある一定の大きさ以上でしか決まらないことを意味する。つまり,サイズを指定すると質量の下限(それ以上の質量が許容範囲)が決まり,逆に質量を指定するとサイズの下限(それ以上のサイズが許容範囲)が決まる。それ以下の質量なりサイズでは,物質の状態は決定できなくなるのだ。

つまり研究範囲が,ある大きさ以上に限定され,物理量すべてを調べ尽くせなくなる。一方,マクロ物質においても,ブラックホールでは,光だけでなくいかなる信号も出てこられなくなるので,物体に対する情報が得られなくなる。つまり,

物質の質量やサイズに,量子力学から要請される不確定性関係と,一般相対性理論から導かれるブラックホール境界という二つの制限条件が課せられることになる。具体的には,サイズを一定にしたとき,私たちが認識できる質量範囲として,不確定性関係から質量の下限を与え,ブラックホール条件から質量の上限が決まる。

要は,物質の質量や密度のすべてを知ることができない。つまり,

科学自身に内在する法則によってある限られた範囲しか極められない,

という限界がある,ということになる。さらに,従来からの科学の方法は,要素還元主義で,

その系(システム)を部分(要素)に分け,あるいはより根源的な物質を想定し,それらの反応性や振る舞いを調べて足し合わせれば全体像が明らかになるという手法

であった。それは,

すべての過程を線形に帰着させることによって問題を簡明化し,その範囲で威力を発揮できたためである。別の言い方をすれば,線形として扱える範囲の問題に限り,非線形の問題は「複雑系」として後回ししてきたのだ。

しかし3.11と原発の事故は,典型的な非線形現象であり,科学者は巨大地震や大津波を予測することも,原発を安全に制御することもできなかった。

最後は現実社会で起こることと科学の限界。

エネルギー資源,地球温暖化,核エネルギー等々に対して,科学は社会の要請に応えるばかりでいいのか,という問題提起である。

こうした限界の中で,著者は,

①科学者は「社会のカナリア」であるべきだという。炭坑夫は行動へ入る時ガス感知としてカナリアを先頭にする。科学者はその役割を果たすべきだという。そのためには,科学者は,何があっても事実を正直に公開し,現実を直視し,真実に忠実でなくてはならない,という。

②等身大の科学。たとえば,地球温暖化の指紋として,世界各地の鳥や虫や植物がどれだけ移動したかを研究する。等身大の身近な現象は複雑系が多い,特に生態系はそうである。そこで確固とした事実が言えるためには,長年の観察が欠かせない。

③社会と向き合う。科学は無限ではないけれども有限でもない。その限界は時代とともに変化する。科学者と市民との連帯がそれを決める重要な要素である。

そう締めくくる。是非はともかく,いま科学そのものが,そして科学者そのものが問われている場面がいっぱいある。それをどう掣肘し,質すかは,まさに社会が問われているのではないか。そんな印象をもった。


参考文献;
池内了『科学の限界』(ちくま新書)

今日のアイデア;
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#池内了
#科学の限界





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2013年07月14日

自己矛盾に無頓着




『キャリアポルノは人生の無駄だ』(朝日新書)を読む。

自己啓発本に「キャリアポルノ」と名づけたのは,この著者らしい。ネットには疎いので,そんなことが話題になったこと自体を,この本を通して知った。

自己啓発本とは何か。著者によると,ウィキペディアでは,

人間の能力向上や成功のための手段を説く書籍

のことと定義しているらしい。で著者が,それに,「キャリアポルノ」と命名したのは,

基本的に自己啓発書が「フードポルノ」と同じところに理由があります。

といい,こう言う。

アメリカではフードポルノは,栄養バランスが悪くて高カロリーで健康に悪い食べ物を,食品業界が広告やテレビではさもおいしそうに見せかけて消費者に売りつける行動のことをさします。

だから,

フードポルノは,食べ物を食べたり健康になることが目的ではなく,食べ物を見ることでストレスを解消したり,自分では作ることができないおいしい食べ物,自分では費用を負担することができない高い食べ物,自分では時間もお金もないので体験することができない外国の珍しくておいしい食べ物を食べたり体験することの代償行為です。

まあ,この書き方にも,著者は意識していないが,結構上から目線になっている,というより自分の価値の観点が是だという無意識(意識的かもしれない)の論調が出ているが,まあ,ここは省く。そして,こういう。

自己啓発書も基本的にはフードポルノと同じです。自己啓発書で描かれるような成功した人になるには,大変な努力が必要です。書いてあるノウハウを本当に実践するには努力が必要で,身につけるには手間も時間もかかります。読むだけではどうにもならないのです。(中略)フードポルノと同じように,自己啓発書というのは,目に見えない部分での努力や行動,勉強をすっ飛ばして,読むだけで自分の手に届かないもの,…を想像し,自分が求めている欲求を満たすだけの「娯楽」にすぎないのです。

そもそもここまで何が,この著者の正義感だか,義憤だかを駆り立てているのかが,さっぱり読めない。「娯楽」なら,ファッションヘルスへ行こうと,AVを鑑賞しようと,勉強をしようと,自己啓発本を読もうと,その人の勝手ではないか。

だいたい人が何を読もうと,それから何も学ばなかろうと,そのことをひと様がとやかく言うこと自体が,自分を特別視しているという矛盾に気づいていない。僕は著者を知らないが,終始,優越感をどこかに漂わせている気配があった。

僕自身は,基本的に自己啓発本もノウハウ書もあまり読まない。必要性があって,外観をつかむのに便利と思ったときだけ見る。しかし考えようによると,日本の書籍の大半は,欧米の本の翻訳か,解説か,入門か,言ってみればすべてが自己啓発の近接領域にある。おのれ一個の思想を掘り下げたオリジナルな本は,たぶん本当に数えるほどしかないだろう。それなら,まだしも自己啓発本の方がオリジナリティがある。翻訳しても,それは欧米の翻訳の翻訳と蔑まれることはない。

この著者自身が,そういうことに無自覚に,しかも,ご丁寧に,最後に,

「人生を楽しむための具体的な方法」

として,一章を立てて,教訓を垂れている。これ時代が,自己矛盾だと気づいていないの?それを箇条書きにして,列挙してみる。

私は私,あなたはあなた,制す校舎は成功者と自覚する
自分を受け入れる
キャリアポルノにはノウハウや努力のすべてが書かれているわけではない
出来ないのは当たり前
ポジティブシンキングを盲目的に信じるべきではない
人間はそもそも怠惰であると自覚する
不安や恐れを可視化する
不安や恐れを吐き出す
効率よく仕事人生を楽しめ
仕事は仕事と割り切れ

等々。というか,これってそのまま自己啓発ではないか。欧米視点から見たら,著者の指摘の通りかもしれない。しかし,その視点そのものを180度変えると,実は日本人は,江戸時代の貝原益軒の『養生訓』の例を出すまでもなく,ノウハウ本は大好きなのだ。考えたら,宮本武蔵の『五輪書』だって,ノウハウ本だし,有名な山本常朝の『葉隠』だって武士たるにはどうあるべきかを説く武士の処世術,つまりはノウハウ本ではないか。

そう考えると,日本的な自己啓発書,ノウハウ書には,独自の文化的ノウハウがある。西欧を是として観るのではない見方があっていい。第一,翻訳,翻案,入門等々,西欧書籍のそのまま垂れ流しの方がよほど恥ずかしい。そのことに知的優越を感じている連中のほうが,よほど,「西欧ポルノ」ではないのか。その本を翻訳して,出せるの?そう聞いて,出せないような本を書いている人こそ,恥ずかしいと言うべきではないか。

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2013年07月16日

ラノベ


波戸岡景太『ラノベのなかの現代日本』(講談社現代新書)を読む。

ラノベ,ライトノベルの世界を知らなかったので,その意味では,著者が冒頭でこう書くのを,新鮮な視界が開けたような感じで読んだ。

ラノベ,という文芸ジャンルがある。正式名称は,ライトノベル。従来の文芸作品全般を「ヘビー」なものと考え,質量ともに「ライト」であることを追求した小説群のことを指す。読者層は主に中高生とされている。しかし,…平成生まれの世代は,そのほとんどが,何らかのかたちでラノベの影響下に(あるいは,ラノベを意識せざるを得ない状況下に)育ってきたといえるだろう。
だが一方で,昭和生まれの世代ほとんどにとって,ラノベはある日突然降ってわいた「よく分からないジャンル」である。

そう考えると,直木賞受賞作品が売れず,本屋大賞を設けざるを得なかった書店の危機感は,社会的な根拠があったと言うべきなのだろう。しかし,

ラノベという文芸ジャンルは,現代日本におけるひとつの「断絶」を意味している。

かつてそういう代表だったマンガやアニメは幅広いターゲット向けになったのに対して,ラノベは,

そのターゲットはあまりに限定的だ。なにより致命的であるのは,ラノベが若者向けの日本語で書かれている,という至極明快な事実である。…ましてや,ラノベのテキストに書き込まれているのは,日本の中高生がちょっとだけ背伸びしてほくそ笑みたくなるようなスラングであり,世界観である。「ぼっち」,「ジト目」,「リア充爆発しろ」…。

つまり,ラノベという「日本語で書かれた小説」は,若者たちにとっての「現代日本」を題材とし,彼らにとっての「現代日本」そのものを主題としている。

ということらしい。そこで,本書がしようとしていることは,SFやファンタジーやラブコメといった多彩なジャンルを取り込んだラノベについて,

「ライト」であることが,書き手と読み手のコミュニケーション効率を向上させるための「軽快さ」を意味している場合,ラノベのテキストが共通言語のように抱えている「現代日本」の姿を知ることは,やはり重要だと思われる。なぜなら,そこで得られるのは,昭和が青春だった世代と,平成の世に学生時代を過ごした世代のあいだに横たわる,「現代日本の断絶」を乗り越えるための教養であるからだ。

という。大学の教員であるゆえに「教養」とでるのだろう。しかし,別に断絶を乗り越えたいとは思わないし,文芸という共通の土俵に乗っていれば,後は,ただ中身ではなく,その表現としての力量,表現としての突出力だけが問題になるだけと考えている人間には,断絶という言葉は意味を持たない。

どうも,著者はそう考えないらしい。

いまどきの若者の書いた小説を読み,「俺たちの若い時はこんなんじゃなかった」とくちにしてしまう―まさにその刹那,読者はみずからが属すべき「世代」なるものを創出する。

という。だから,自分の代弁として,著者は,村上龍と村上春樹を対照として出している。どうも,それこそが,蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る,に見えてくる。俺たちの若い時はこんなんじゃなかった,等々と口にしない僕には,この問題意識はさっぱり共有できない。そう言っている限り,相手ばかりか,自分自身をもステレオタイプでしかとらえられていないことの象徴のようにしか見えないと思うからだ。。

それに,小説を題材にして,その著者の描く「現代日本」を評論するというこの著者の手法が,なじめないのは,文芸という土俵に乗ったら,どの世代が描くものも,日本を切り取っているものにすぎない。それなら,もっと上の世代の切り取っている日本と対比しなくては,ラノベの世界を相対化できないのではないか,という疑問からくる。しかし著者は,そうは考えていないらしい。W村上を出したのも,対照としているだけらしいのだ。

たとえば,「ほっち」について,渡航(わたり わたる)の『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』から,

1987年生まれの渡が描く「ぼっち」とは,たとえば,遂にドラえもんがやってこなかった(高校生になった)「その後の野比のび太」を想像してみるといいかもしれない。

といい,入間人間(いるまひとま)の『ぼっちーズ』では,

大学生になっても,ついにのび太のままであった「ぼっち」は,

「独りぼっち」のぼっちは,「墓地」に通ずる

とつぶやき,

誰かと一緒にいても,自分は変わらない。

と言う。そこに,著者は,

オタク的な自己卑下はない。彼らは,明らかに,のび太のままに成長してしまった自分を嘆いてはいない。

と見る。そして,こう書く。

たとえば,1970年生まれの谷川流(ながる)による『涼宮ハルヒの憂鬱』(2004年)という物語は,実際は「ハルヒ」というツンデレ・キャラに萌えることが主眼なのではない。そうではなく,「アニメ的特撮マンガ的物語」に別れを告げたキョンと呼ばれる男子高校生が,いかにして「いつも眉間にシワ寄せている頭の内部がミステリアスな涼宮ハルヒ」という「ぼっち」に,我知らず仲間意識をいだくようになったのかを一人称によって述懐するものであった。

そして,

『涼宮ハルヒ』以後,多くのラノベは,「かつてのオタク/現在はフツー」という男子学生を語り手に起用すると同時に,「オタク嫌い」が「オタク好き」を憧れ半分自嘲半分に眺めやる,という一人称スタイルを採ることとなる。

ここに一つの鍵がある。どういう語り手を立てるかで,眺める世界が変わる。この瞬間,書き手が,自分の世界,「現代日本」を,どう眺めているかが,見えてくる。しかし著者は,スルーしてしまう。

ライトであるかどうか,どういうラベルが貼られているかどうかとは,関係なく,文学は文学の眼で見られなくてはならない。そのスタイルを確立した「谷川流」は,自分の時代を見る視点を確立したのであり,文学の表現スタイルを確立したとみる。表現は実物にあたってみるほかはない。


参考文献;
八十岡景太『ラノベのなかの現代日本』(講談社現代新書)

今日のアイデア;
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2013年07月17日

ホミニンの旅


アリス・ロバーツ『人類20万年 遥かな旅路』を読む。

BBCのドキュメンタリーの書籍化ということを,購入してから知ったが,独立したものとして読んでも十分(というかEテレでの放送を観たが,本の方がはるかに突っ込んでいた),人類の系譜をたどる道が,シンプルではなく,いまだ論争の続いている領域であることが,よくわかって,面白い。特に,考古学者たちが,現場に立って,自説を語るところは,正解はないとはいえ,人の持つ先入観の強さを感じさせて,いろいろ考えさせられる。

著者は言う。

現生人類(ホモ・サピエンス)は,二足歩行する類人猿の,長い系譜の最後に遺された種で,「ヒト族(ホミニン)」に属する。…時をさかのぼれば,ホミニンの系統樹には多様な枝が茂り,同じ時代に複数の種が存在することも珍しくなかった。だが,三万年前までに,その枝はわずか二本を残すのみとなった。現生人類と,近い親戚のネアンデルタール人である。そして今日,私たちだけが残った。

そして,

奇妙に思えるかもしれないが,ホミニンが何種いたのかは,まだわかっていない。

とも。

600万年ほど前に,人類の祖先である猿人が類人猿とわかれて以来,200万年前に,ホモ・ハビリス(器用な人)が石器を使うようになり,ホモ・エレクトス(立つヒト)の時代に,第一次出アフリカが行われたとされる。100万年前には,ホモ・エレクトスはジャワ島や中国に達していた(ジャワ原人,北京原人)。60万年前,ホモ・エレクトスの系譜からホモ・ハイデルベルゲンシスがわかれ,30万年前,ヨーロッパに移住したホモ・ハイデルベルゲンシスから,ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルタレンシス)が生まれた。

一方現生人類(ホモ・サピエンス)は,20万年前,アフリカに残った集団(ホモ・ハイデルベルゲンシス)から生まれ,地球全体に広がっていった。これを「アフリカ単一起源説」というが,ホモ・エレクトスやホモ・ハイデルベルゲンシスなどの古代種が,各地に拡散した後,それらの地域で現生人類に「進化」したとする「多地域進化説」もある。北京原人の研究者は,北京原人(ホモ・エレクトス)が直接中国人に進化したと主張している。

しかしDNAのmtDNA(ミトコンドリアDNA)によって,母方をたどっていくことができる。それによると,20万年前にアフリカにいた一人の女性に始まる,ということが明らかにされている。それを,「ミトコンドリア・イブ」あるいは「アフリカのイブ」と名づけられている。

だが,なぜ,その女性がアフリカにいたと言えるのだろう。それは,系統樹の枝が最も込み入っている部分,言い換えれば,mtDNAが最も多様な地域がアフリカにあるからだ。証拠となるのはmtDNAだけではない。Y染色体を含め,他の染色体の遺伝子も,アジアやヨーロッパに比べて,アフリカの人々の遺伝子のほうが多様なのだ。そうした遺伝的多様性のすべてが,アフリカがホモ・サピエンスの故郷であることを語っている。なぜなら,どこよりも多様な枝が茂ったのは,変異を起こすための年月がたっぷりあったからで,それはアフリカに他のどこよりも昔から人類が暮らしていたからなのだ。

現生人類最初の化石は,エチオピア・オモで見つかった。19万5000年前と結論付けられている。

ではいつ,現生人類は,出アフリカをしたのか。

遺伝子的には,mtDNAの系統樹から,アフリカから出る旅は,一度だけだった可能性が高い,そう遺伝子学者は言っている。

アフリカ外の人類は全員,約8万4000年前後にアフリカで生まれたL3と呼ばれる系統につながっている。L3の「娘」である「ハプログループ」MとNは,およそ七万年前に現れた。Mの系統が最も多様に枝を茂らせているのは南アジアで,それはこの「ハプログループ」が南アジアで生まれたことを示唆している。Mの枝の一つであるM1は南アフリカで見つかっているが,それは最終氷期極相期が終わった後に,外からアフリカにもどった集団だと考えられている。一方,Nの系譜はほぼすべてがアフリカの外にある。…このパターンを見たまま説明すれば,約8万5000年前から6万5000年前のある時期に,L3の枝の一本がアフリカから出て,その後,インド亜大陸あたりでNとMが芽を出した,と言えるのだろう。そして,ヨーロッパに現れた最初の現生人類は,北アフリカからレヴァント地方を通ってやってきたのではなく,インド亜大陸に定住した集団の一部が,西へ流れてきたことになる。

もちろん遺伝子でわかることは,系譜であって,具体的にどれだけが,どういうふうにたどって,地球上にちらばっていったかまではわからない。

だから,考古学が必死で発掘し続けている。しかし,

現生人類が移動した道筋をたどっていくのは難しい。後期旧石器時代,後期石器時代より前の時代の道具は,現生人類が作ったのか,それともネアンデルタール人など他の旧人類が作ったのか,判別しにくい。

しかも,頭骨の形状分析は,難しい。集団間で異なるだけではなく,個体間でも異なり,さらに,個体間の違いが集団間の違いよりも,大きかったりする。

著者は,アフリカから,インド,インドネシア,オーストラリア,東アジア,ヨーロッパ,アメリカと人類の拡散していった道筋を,考古学者を尋ねながら,辿っていく。

著者と明らかに違う見解も,たぶんテレビのドキュメンタリーだからだろうか,きちんと言い分を聞き,その反論を,別の考古学者にさせる。ホモ・エレクトスの地域進化したのが中国人だという説には,上海の遺伝学者に批判させる。

遺伝的証拠は,アフリカ単一起源説が正しいことを示しているのです。地域連続説は間違っていたのです。

と言わせている。そして著者は,こう付け加える。

タイやカンボジアなど,アジアでも南方の人々のY染色体の方がより多様であることは,人類が最初にその一帯に移住し,それから北へ広がっていったことを語っている。そしてY染色体の系統樹は,人類が東アジアに入ってきた時期は,六万年前から2万5000年前のいつかであることを示唆している。mtDNAも南方の人ほど多様であり,移住が南から始まり,北へ広がっていったことを支持している。

我々が皆,アフリカのイブの子孫である,ということは,

わたしたちは皆アフリカ人なのだ。

という著者のメッセージは,その言葉通りに受け取らなくてはならない。


参考文献;
アリス・ロバーツ『人類20万年 遥かな旅路』(文藝春秋)
池内了『科学の限界』(ちくま新書)


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2013年07月31日

黄禍論


飯倉章『黄禍論と日本人』を読む。

黄禍論は,いわば白禍の裏返しといっていい。19世紀から20世紀初頭までの帝国主義的進出や植民地支配を正当化したのが,人種主義である。

自らを優秀であると信じた白人は,有色人種を支配することは理にかなっていると考えたのである。

しかしその論拠への不安が黄禍に違いない。著者はこう書く。

抑圧された有色人種が連合して白人支配に抵抗し,世界規模の人種間戦争が起きるのではないかと危惧する人々が白人のなかに現れる。そのような危惧のなかでも,とくに東アジアの黄色人種,日本人と中国人が連合して攻めてくる,といった脅威は「黄禍」と名づけられた。

本書は,それを欧米の新聞・雑誌の風刺画を通して,探っていこうとしているところが,ユニーク。ここでは,それを具体的に紹介できないが。

日本が,世界政治の舞台に登場するのは,日清戦争後の三国干渉の時期,三国干渉の当事者,ドイツ皇帝(カイザー)ヴィルヘルム二世が,黄色人種の勃興を脅威と説き,一幅の寓意画「ヨーロッパの諸国民よ,汝らの最も神聖な宝を守れ!」を創らせた。後に「黄禍の図」とも呼ばれ,黄禍思想が流布するきっかけとなったものである。

もっとも他の国々では,それに同調したという様子はなく,そこには,

黄禍を利用してヨーロッパの国際関係を,ドイツに有利な形で進めたい,というカイザーとドイツの意図が透けて見える。

その意味で,国際関係の中で,日本や日本人が,

時に極端に歪曲されて醜く描かれる…

一方で,日本を支持したり,頼りにした国々では,

「黄禍」をパロディ化して嘲笑ったり,批判している風刺画もたくさん描かれている…

つまりは,ドイツのように,自国の主張にとって使い勝手のいい批判ネタとして使われたといっていい。

たとえば,日本人学童に対する差別的措置から始まった,日系移民をめぐる日米対立は,排日移民法の成立をもってひとつの決着を見るが,人種主義による日米憎悪の増幅は,太平洋戦争の遠因の一つと言われるほどのものだが,著者いわく,

太平洋戦争は,白人のくびきから東南アジアが逃れるきっかけを作ったといえる。一方で,人種によって日米がお互いに対する憎悪を増幅したはての戦争であったといえる。

と。

面白いのは,第一次大戦後,設立される国際連盟の規約に,

人種平等条項

を入れるように,日本が提起した問題だ。

日本は会議で独自に提案をし,人種差別撤廃を「信教の自由」条項に盛り込もうとしたが,議長を務めていたイギリスやフランスの委員から反対を受けた。条項そのものも採択されなかった。その後も日本側は,人種平等という表現を国民平等という表現へトーンダウンして何とか連盟規約に盛り込もうとした。

結局採択されなかった。その時代の国際関係の主潮がよく見える。皮肉なことに,それは,第二次大戦後,敵側の国々よって規範化された。

国際連合設立時,主要連合国(米英ソ中)の間では,国連憲章に,人種平等を明示しないというコンセンサスがあったらしい。

それが覆るのは,国際連合を設立に導いた1945年4月から6月のサンフランシスコ会議において,フィリピン,ブラジル,ドミニカ,メキシコ,カナダといった中小の連合国が,人種平等条項の挿入を要求して交渉し,劇的ともいえる成果を上げたためである。

つまり,国連憲章第一条に,

人種,性,言語又は宗教による差別なく

と明示されることになった。

最後に著者は,こう締めくくる。

日本は,アジアにおける非白人の国家として最初に近代化を成し遂げ,それゆえに脅威とみなされ,黄禍というレッテルを貼られもした。それでも明治日本は,西洋列強と協調する道を選び,黄禍論を引き起こさないよう慎重に行動し,それに反論もした。また,時には近代化に伴う平等を積極的に主張し,白人列強による人種の壁を打ち破ろうとした。人種平等はその後,日本によってではなく,日本の敵側の国々によって規範化された。歴史はこのような皮肉な結果をしばしば生む。そう考えると,歴史そのものが一幅の長大な風刺画のように思えないでもない。

参考文献;
飯倉章『黄禍論と日本人』(中公新書)

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#飯倉章
#黄禍論と日本人
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2013年08月05日

原因探求の無駄


渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(歴史新書y)を読む。

蟹はおのれに似せて穴を掘る,というが誠に人は自分を語ってしまうというか,語るに落ちるというか,つくづく表現することは,自分をさらけだすことだ,と思わされる。

いまも昔も,極貧から,トップに上り詰めた人は本当に少ない。特に身分社会の中では,秀吉以外にはいない。しかも,源平藤橘と同様,「豊臣」姓を与えられ,しかも五摂家以外つけなかった関白職に就き,それを養子秀次に継がせたものは,歴史上秀吉以外いない。その故か,「太閤」というと秀吉のことを指すと相場が決まってしまった。

当然その異能の出世ぶりの原因を探りたくなる。著者は言う。

最近の秀吉の出自や職業をめぐる研究は状況証拠に頼っているので,肯定も否定もできない側面がある。ただ,秀吉の特殊性を極端に強調するのは,あまり不自然で現実的ではないと考える。

賛成である。因みに,出生をめぐる説には,本人の書かせたものを含め,一杯ある。

①信秀の鉄砲足軽 木下弥右衛門の子(『太閤素性記』)
②信秀の御伽衆 筑阿弥の子(『甫庵太閤記』)
③正親町天皇の御落胤(『関白任官記』)
④尾張の「あやし」の民(『豊鑑』)
⑤若いころは下っ端の小者に過ぎず,乞食をしたこともある(安国寺恵瓊の手紙)
⑥甚だ微賤に身を起こし(イエズス会1585年年次報告)
⑦きわめて陰鬱で下賤な家から身を起こし(ルイス・フロイス『日本史』)
⑧貧しい百姓の倅として生まれた。若い頃には山で薪を刈り,それを売って生計を立てていた。(同上)
⑨彼はその出自がたいそう賤しく,また生まれた土地はきわめて貧しく衰えていたため,暮らしていくことができず,その生国である尾張の国に住んでいたある金持ちの農夫の許に雇われて働いていたからである。このころ彼は藤吉郎と呼ばれていた。その主人の仕事をたいそう熱心に,忠実につとめた。(1600年&1601年耶蘇会の日本年報)
⑩薪を売って生計を立てていた。(『看羊録』)
⑪秀吉は十歳の頃から他人の奴婢とならざるを得ず,方々を流浪する身となった。遠江,三河,尾張,美濃の四か国を放浪し,一か所にとどまることはなかった。(『甫庵太閤記』)
⑫ミツノゴウ戸の生まれ(『祖父物語』)というところから,「都市民で,出自は職人ないし商人」(服部秀雄『河原ノ者・非人・秀吉)
⑬十五歳のとき,一貫文を与えられて家を飛び出し,その一貫文で木綿針を買い,それを売って生計を立てた。(『太閤素性記』)
⑭連雀商人(行商人)(石井進『日本の中世Ⅰ』)

秀吉の異能を,その出自と来歴に求めることについて,著者は,

このような出自を持ったため,秀吉は特殊能力を身につけたと考えられている。…しかし,…秀吉を語る史料で共通しているのは,「貧しい」の一言である。

その通りだ。そしてこう付け加える。

貧しい人間は,貧困から抜け出すため,さまざまな創意工夫を行うようになる。無論,秀吉もその一人であった。秀吉と同じような環境にあった人物は,ほかにも大勢いたはずである。その中から秀吉が抜けだし,信長に登用されたのは,卓抜した能力と粘り強く辛抱強い性格があったからであった。そして,秀吉自身の強い上昇志向である。

史料から確かに言えることは,

①貧しい百姓の子であること。
②若い頃,薪拾いをしていたこと。
③非常に厳しい生活を強いられ,乞食のようであったこと。

だと著者は言う。そしてこうまとめる。

秀吉に備わっていたのは,主人の言いつけを忠実に守り,任務を遂行するという勤勉さにあった。同時に創意工夫を凝らし,これまでの不合理性を改め,改革していくという能力である。信長に仕えて以後,秀吉は栄達を遂げるが,その原点はこの二つの能力がったと考えられる。

妥当だろう。同じ環境にいた人間は一杯いても,秀吉にはならなかった。なれなかった。その異能ぶりが突出しているから,環境に原因を求めたがるが,後にも先にもこんな人物が出ていないことを見れば,その能力の突出を見るだけでいい。

しかし,この著者も,結局,「貧しさ」「出自の賤しさ」故に,ということを再三強調する。「貧しさ」があったことは,異能の原因ではないし,出世意欲の原因でもない。残酷さも,猜疑心も,そこに起因させようとする。

出自の賤しい秀吉は,自らの残虐性を誇示し,伝説を作り上げることで,自身の姿を大きく見せようとしたのである。

と。これでは,ただ原因を「貧しさ」と「賤しさ」に丸め直しただけではないか。そして,著者は,

もしかしたら,秀吉は生涯を貧しさのまま過ごしたほうが幸せだったかもしれない。

とまでいう。おいおい,それでは,まるで秀吉の人生を認めないのと同じではないか。


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2013年08月07日

大きなビジョンを描く


前野隆司『思考脳力のつくり方』を読む。

日本だけではなく,世界中が,部分最適思考が蔓延し,

とにかくどこにも大きなビジョンがない。理念がない。思想がない。ぶれない基準がない。

そう著者は慨嘆し,

大きなビジョンを描き,実行し,表現するための考え方のフレームワークを整理し,明らかにすること,

それが本書の目的だと,「大見えを切らせていただく」と,言い切った。

ではそのフレームワークは,何か。4つだ。

要素還元思考

システム思考

ポスト・システム思考

システム思想

一見して明らかなように,メタ化になっていることだ。要素還元思考をメタ化し,大きなフレームで見ることで,システム思考になり,それ自体の限界をメタ化することで,ポスト・システム思考となり,最後に,その全体を俯瞰するシステム思考へと至る。

要素還元的な思考は,部分部分を深く理解しさえすれば,あとはそれらを寄せ集めることによって,ものごとの全体も理解できるという(一足す一は二の)論理に基づいている。

システム思考とは,ものごとをシステム(要素間の相互作用およびその結果全体としての性質が部分の振る舞いに影響する創発が起きる)としてみることによって,システム全体の問題を明確にしたり,解決したりする思考法。

著者は言う。

システム思考の最も重要な点は,…要素還元の視点からひとつ視点をひろげることだ。要素還元思考では,ひとつの視点から物事を捉えている。

しかしシステム思考が有効なのは,線形相互作用の場合だ。

システムの要素間が非線形相互作用をする場合,…未来を予測することは不可能なカオス(混沌)が生じうる。システムの振る舞いは,ある臨界点を超えると急激に乱雑さを増し,予測不可能になる。

いわゆるバタフライ効果の,複雑系である。

システム思考は,システムの大雑把なモデル化には役立つ。特に,非線形が小さく,カオスが生ずる可能性が小さいときには,とても有効だ。

しかし複雑系の場合,

システムをロジックツリーのような形で論理的に分解して最適な答えを求めようとする発想から抜け出す必要がある。

と著者は言う。「目的・条件・手段が多様であったり時間とともに変動したりするために,目的・条件・手段の予測確定が困難」になる。その場合,答えは多様になる。

設計空間の自由度の方が解空間の自由度よりも大きいために,創造的に拘束を設けないと解が求まらないような悪設定問題,あるいは,そもそも問題定義を明確に行えない悪定義問題,問題解決手段を明確に定義できない悪構造問題,

においては,設計はアートとサイエンスの両方にまたがる。そこでは,

最適解ではなく,設計条件を満足する複数の「満足解」

が求める解になる,と。

こういうシステム思考とポスト・システム思考の関係は,ニュートン力学とアインシュタインの相対性理論に類比できる。

そして,システム思想は,

頭で考える思想ではなく,環境と身体と脳が接続された全体システムとして感じる思想だ。

という。そしてこうも言う。

矛盾を容認しないのがシステム思考,容認するのがポスト・システム思考なら,矛盾であるかどうか,容認するかどうか,という価値判断を超越するのがシステム思想だ。

と。正直言って,システム思考のメタ化であるポスト・システム思考まではわかる。そこでは,静的なモデルでは解けない複雑系,観察者自身をも巻き込んだ対象化がなされる。その主客分離が捨てられた世界をメタ化したとき,すべてが対象化される世界を,「悟り」と言われたのでは,ちょっとついていけなくなる。

システム思想とは,いつ死んでもいい覚悟がすでにできていて,そうだからこそ,もはや当然,利己への執着などという醜いレベルは超越している境地なのだ。

おいおい,と言いたくなる。問題なのは,ものを見る視点だったはずだ。境地など持ち出されては,もはや,単なる自己完結へともどっているとしかいいようがない。

ところで,

要素還元思考

システム思考

ポスト・システム思考

システム思想

の4つの関係は,包含関係という。まあ,入れ子構造というわけだ。

で,こういう。

現実的な問題関係をどこで行うかというと,直観的に言って,要素還元思考が四十パーセント,システム思考が三十パーセント,ポスト・システム思考が二十パーセントと,システム思想が十パーセント,

とみる。

メタ化かの究極が,「悟り」というのは,ちょっと思考停止に見える。著者が得意げなだけに,少し距離をおきたなる?

研究者なら,どうせ境地というなら,その境地をもっと具体的に,システム思考で,ツリー型,マトリックス型,ネットワーク型と詳細に分析したように,境地のものの見方を,詳細に分析すべきではないのか。

たとえば,著者の挙げていた例を借りるなら,釈迦型,老子型,荘子型,禅型等々。

「悟り」などと丸めるのは,僭越ながら,学者としての学究の放棄に見える。

参考文献;
前野隆司『思考脳力のつくり方』(角川書店)

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2013年09月05日


安斎育郎『霊はあるか』を読む。

「霊魂不説」が,仏教の教義上の原則だそうだ。親鸞は,

悲しきかな道俗の,良時吉日を選ばしめ,天地地祗を崇めつつ,卜占祭祗勤めとす

五濁増のしるしには,この世の道俗ことごとく,外儀は仏教の姿にて,内心外道を帰敬せり

と,表向きは仏教の装いをしていながら,心は仏道を離れている,と嘆いている。

先日亡くなった市川団十郎の辞世,

色は空 空は色との 時なき世へ

は,そのあたりの仏教の本質をとらえている気がしないでもない。すなわち,色即是空・空即是色,形あるものはいずれ空になる,実体のない空がそのまま万物の姿でもある,と。

本来,仏教は,本来,霊肉二元観・霊魂不滅論を取らない。「霊魂不説」すなわち,霊魂と肉体の二元的考え方を否定し,

実践的主体ということから,心を重視するが,存在論としては,あくまでも心物相関にたち,一方を不滅の実体,他方を滅の仮象などとはみない。心物ともに空・無自性を基本とする…。

しかし,

輪廻転生説がとりいれられ,輪廻する主体が問題となり,その結果,輪廻主体が一種の霊魂のごとき色彩を呈するに至り,また祖先崇拝に結びつき,祖先の霊に対するまつりをおこなうようになった…。

と著者は,仏教事典から引用する。そしてこう言い切る。

われわれが人生で扱う命題群を「科学的命題群(客観的命題群)」と「価値的命題群(主観的命題群)」とに分類してきた。前者は,「事実との照合を通じて命題の真偽を客観的に決定できるような命題群」であり,後者は,「命題の真偽が価値観に依存するため客観的に決定できないような命題群」である。「霊は実体を持つ存在である」とか,「霊は祟る」といった命題は明らかに「科学的命題」であり,もしそのように主張するのであれば,その真偽は科学的検証の対象とされなければならない。

そして心霊写真のトリック,コナン・ドイルがお墨付きを与えた妖精写真のトリック,念写のトリック,霊感商法の詐術,神霊手術のトリックなどを例示しつつ,律儀にというか,大真面目に,真正面から,

霊が見えるとはどういうことか

を検討していく。なんだか,この辺りは,薪を割るのに,薙刀か太刀を取り出しているようで,ちょっとユーモラスではある。

まず何かが見えるには,自らが発光しているか,他の光源によって反射しているかのいずれかだ,として発光生物を検討していくが,それは無理として,反射しているのだとすると,

どう考えても霊は物質系だ,

とし,ではどんな原子で構成されているのか,そして,物質で構成されている霊が移動するには,移動のためのエネルギーを調達しなければならない,しかし,火葬された体から抜け出した霊が,

生きたままの元素組成で再構成されるなどということ自体,あり得ない…。

という調子である。たぶん霊を信ずる人間とは,すれ違うことになるだろう。なぜなら,著者自身も言うように,

一般に人間には,自分の尺度に合わないものは心理的に受け入れを拒否するような面があり,自分の考えを支持する情報には進んで耳を傾けるが,それを否定するような情報に接すると心理的な不快感を感じて,さまざまな理由をつけてその受け容れを拒否する傾向がみられる,

のは振り込め詐欺にあうトンネルビジョンと化した老人を見れはよくわかる。後は,それぞれの生き方の問題なのだろう。

加藤周一の5つの秘訣が少しは参考になる。

1.因果関係を速断するな
2.AとBの関係を論じるには,AB両概念を明確にせよ
3.枝葉を省き,本質を見きわめよ
4.主観的願望と客観的推論を峻別せよ
5.事実と照合して白黒のつく問題とそうでない問題とを区別せよ

まあ,著者自身も言っているように,白黒のつかない思い込みの領域に踏み込んでいるのかもしれない。

それだけに,著者の言う,次の言葉は説得力がある。

人生には,思い描く通りにはいかない困難がつきものだ。そんな時,人は「なぜ自分にはこんな困難がつきまとうんだ」と思い悩む。どんな事態にも,そうした事態がもたらされた原因があるはずだか,時には思いがけず降って涌いた災難が困難が原因となることもある。…そのような場合,少なからぬ人が自分の不運を嘆き,「どうして理不尽にもじぶんだけこんな不幸が降りかかるのか」と自問自答する。「霊」が心の隙間に入り込むのは,そんな時だ。人間の特徴は,自分の見聞きするもの,体験するものに原因を求めたがることだ。「なぜ」にこだわる心と言ってもいい。自分の納得のゆく理由が欲しい。(中略)そんな時,「霊」は便利なのだ。

それ自体は,心の安寧を求めるその人なりの選択だが,そこに付け込まれる余地がある。

科学的命題には科学的な思考を貫く,という著者の姿勢は,正しいが,なかなか難しい。しかし,あいまいなものをあいまいなままに受け入れるのだけはやめなくてはならない。

分からなければ,わかるまで,納得がいくまで,その案件を「宙」に浮かして,結論を出さない。

それくらいはできる。


参考文献;
安斎育郎『霊はあるか』(講談社ブルーバックス)

今日のアイデア;
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2013年09月14日

人間原理



佐藤勝彦『宇宙は無数にあるのか』を読む。

佐藤勝彦氏は,インフレーション理論の提唱者の一人だ。その彼が,宇宙論の潮流である,「人間原理」との対決をしているところが,見どころか。

イギリスの天文学者,マーティン・リースは,この宇宙を成り立たせている6つの数を挙げている。逆に言うと,その数値が違っていれば,宇宙のあり方がいまとは違っている,ということになる。

第一は,N。電磁気力を重力で割った比のこと。もしNが10の30乗,つまり重力が現実の100万倍だったら,天体はこれほど大きくなる必要はない。その場合,微小な虫でさえ,自分の体を支えるために太い脚を持たなければならない。それよりおおきな生物が生まれる可能性は皆無となる。つまり,われわれが存在するのは,重力が弱いおかげということになる。

第二は,ε(イプシロン)。太陽の中では,二個の陽子と二個の中性子が融合してヘリウムの原子核が作られる。融合の前後では質量が異なり,ヘリウムの方が軽い。この質量の軽くなる度合いを示すのがε。それは,0.007。しかしもしこれが,0.006未満なら,陽子と中性子がくっつきにくく,宇宙は水素だけの世界になる。0.008より大きかったら,中性子なしに陽子がくっつき,複雑な元素はできにくく,やはり生命は生まれない。人間が生まれる宇宙は,0.006から0.008の間に収まっていなければならない。

第三は,Ω。宇宙が減速膨張するのか,加速膨張するのかの鍵を握る数となる。現在宇宙は加速膨張しているが,やがて膨張から収縮することになる。そうなると,遠い将来,一点で潰れる(ビック・クランチ)ことになる。そうでなく膨張し続ければ,あらゆる物質が素粒子レベルでバラバラになり,引き裂かれる(ビック・リップ)。潰れもせず,引き裂かれず原則膨張し続けるには,宇宙の全物質の重力と膨張を後押しするエネルギーの力関係で決まる。重力が膨張エネルギーを上回れば収縮し始める。その境界線が臨界密度(Ω)。この密度は,宇宙が平坦になる密度ということになる。もしΩが1より大きければ(物質の密度が臨界密度より高ければ)宇宙の曲率は正になり,収縮を始める。逆に1より小さければ,初めから等速で膨張したので,ガスが固まらず,銀河や星ができない。曲率1だから,宇宙は平坦に保たれている。

第四は,λ。宇宙を押し広げる斥力として働く真空のエネルギーの大きさを示す。この数値が小さいために,現在の宇宙が成り立っている。

第五は,Q。銀河や星の集合体である銀河団などのまとまり具合を示す数字。現実の宇宙では,Qは,十万分の一となっている。これが100分の一といった大きな数値なら,ほとんどの構造がブラックホールになっている。十万分の一になっているので,銀河や星が存在する。

第六は,D。次元。われわれは,三次元に暮らしているが,もし二次元なら,生物は存在できない。三次元空間では重力の強さが距離の自乗に反比例するが,四次元なら距離の三乗に比例する。そうなると,銀河の中心程重力の影響が大きく,三次元では銀河の中心を回転している星々が,スパイラルを描くように中心部に堕ち,ブラックホールだらけの宇宙になる。

こういう奇跡のような数字をみると,人間が生まれるように,「ファイン・チューニング」されたようにみえる。

これを人間原理という。

スティーブン・ワインバーグは,マルチパース(多数宇宙)による人間原理を,こう主張する

宇宙は無数に存在し,それぞれが異なった真空のエネルギー密度を持っている。その中でも,知的生命体が生まれる宇宙のみ認識される。現在の値より大きな値を持つ宇宙では天体の形成が進まず,知的生命体も生まれない。認識される宇宙はいま観測されている程度の宇宙のみである。

無数の宇宙があり,その中で天体の形成が進み,知的生命体の生まれる宇宙がある。そこで観測される宇宙が,その知的生命体を生むのに都合よく見えるのは当たり前,…これが人間原理と呼ばれるものだ。

これより前,ロバート・ヘンリー・ディッケは,もっとはっきりした言い方をしている。

宇宙開闢の初期条件は人間が生まれてくるようにデザインされている…。

初めて人間原理という言葉を使ったのは,ブランドン・カーター。コペルニクス原理に対比させて人間原理と呼んだ。

まるで,せっかく人間中心からの転換を果たしたコペルニクス以前に,天文学者が回帰しようとしているような,異様な意見に見える。

著者は,人間原理を使うことなしに,宇宙の平坦問題を,インフレーション理論で,説明可能だという。

インフレーション理論は,宇宙がビックバンを起こした理由を説明し,真空の相移転による急膨張が終わったところで放出された膨大なエネルギーによって,宇宙が火の玉になったことを説明すると同時に,

宇宙が完全に均質な空間ではなく,星や銀河といった構造の「タネ」になるデコボコが生まれた理由を

明らかにしている,としてこう説明する。

…全体の構造を造るには「事象の地平線」を超える大きなスケールの密度揺らぎか必要です。ビックバン理論ではちいさなゆらぎしかできないのです。
事象の地平線とは,「そこまでは光が届く境界線」のことです。アインシュタインの相対性理論によれば,光速は宇宙の「制限速度」ですから,それよりも速く移動できるものはありません。したがって「地平線」の向こうには情報や物質が伝わらない。つまり,因果関係をもつことができないのです。
初期宇宙はこの地平線距離が短く,空間全体が因果関係をもつことができませんでした。全体の構造を作るほど大きな密度ゆらぎを作れないのも,そのためです。

まず「密度ゆらぎ」の問題は,微小なゆらぎが急速な膨張によって一気に大きく引き伸ばされたと考えれば説明がつきます。つまり現在の私たちが観測できる宇宙は,「地平線」の内側にあった領域が大きく拡大されたものなのです。
だとすれば,観測できる宇宙が「一様」になっているのも当然でしょう。インフレーション前に「地平線」の内側にあった領域は,因果関係があるので,物質やエネルギーを移動して均一な空間にすることができます。

そして,平坦問題も,

私たちが観測できる宇宙が初期宇宙の一部を拡大したものだとすれば,「一様性問題」と同様,これは不思議でもなんでもありません。
初期宇宙の曲率が大きく正か負の値を取っていたとしても,その一部がインフレーションによって巨大に引き伸ばされれば,そこは平坦に見えます。「地平線」の外側まで観測できれば,…大きく曲がっているのかもしれませんが…。

しかし人間原理は,天文学者を二分している。

スティーブン・ホーキングは,マルチバースの人間原理について,

マルチバース(多数宇宙)の概念は物理法則に微調整があることを説明できる。この「見かけの奇跡」を説明できる唯一の理論だ。物理法則は,われわれの存在を可能にしている環境因子にすぎないのだ。

と擁護する。しかし一方,デビッド・グロスは,

それはまったく科学ではない。科学の理論に必要な観測的実証性も反証可能性もない。結局,論理を詰めることによって究極の理論に到達するという物理学の目的を,放棄することになる。

と厳しく批判する。著者は後者の立場に立つ。こう締めくくっている。科学者の矜持というものだろう。

四半世紀前に人間原理を知ったとき,これはとうてい科学ではない,と強い嫌悪感を覚えたものである。物理学者の端くれとして,

論理を詰めて研究を進めるならば,私たちは,未定定数を一切含まない究極の統一理論に達するはずだ
そもそも,物理法則の美しさから考えても,物理法則はでたらめにサイコロを振ってきまっているようないい加減なものではなく,確かな原理で確定的に決まっているものだ

という信念を,貫いてほしい。コペルニクス的転換を逆回転させるのが,科学であるはずはない。


参考文献;
佐藤勝彦『宇宙は無数にあるのか』(集英社新書)

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#デビッド・グロス
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2013年09月29日

剣禅一如


渡辺誠『真説・柳生一族』を読む。

剣豪小説の中で,記憶に残る立会いのひとつが,吉川英治『宮本武蔵』での,柳生四天王と武蔵との戦いのシーンだが,それがフィクションとわかっていても,ついその眼で柳生一族を見てしまう。それについては,すでに書いたことがある。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11180208.html

いまひとつは,本書でも指摘しているが,五味康祐の『柳生連也斎』での連也斎と武蔵の弟子鈴木綱四郎との立ち会いシーンだ。

いずれにも,小説に過ぎない。本書は,戦国時代,織豊の戦乱を生き残り,家康に見出されることで地歩を固めて以降,柳生宗厳(むねよし)石舟斎,柳生宗矩,柳生十兵衛三厳(みつよし)を中心に,柳生家の歴史をたどる。

中心は,戦国時代を,松永,筒井,信長,秀長,家康となんとか生き延びようとする戦国の小領主でありつつ,しかし上泉伊勢守から新陰流の印可を受けた剣豪でもある柳生宗厳石舟斎。

戦国時代にもかかわらず,流祖伊勢守の新陰流の特色は,

戦国末期の諸流が一般に本源としていた,戦場における甲冑武者剣術―介者剣術刀法・理合を徹底的に革新して,人性に自然・自由・活発な剣術を創めた,

といわれるもので,その本質は,

敵の動きに随って,無理なく転変して勝つ刀法,

といわれ,

一方的に敵を圧倒し尽くして勝つことが能ではなく,敵と我との相対的な関係,千変万化する働きのもとに成り立っている,

とする。この兵法観の背後にあるのは,

禅の思想であり,石舟斎も参禅したし,宗矩も沢庵とも深い交わりがあり,

剣禅一如

の境地を進化させている。このあたり,武蔵の『五輪書』と読み比べると,「石火のあたり」「紅葉の打ち」というように,間合いにしろ,相手との駆け引きは同じでも,武蔵が,圧倒的な膂力を前提にしているということがよくわかる。

宗矩と武蔵は同時代人だが,武蔵は牢人であり続け,島原の乱では,養子伊織の仕える小笠原家に陣借りして,参陣し,石垣から転落して負傷したのに対して,宗矩は,家光政権の惣目付として,一万石の大名に上り詰め,家光をして,

吾,天下統御の道は,宗矩に学びたり,

と言わしめる幕閣のひとりでもあった。

勝海舟は,『氷川清話』で,宗矩について,

柳生但馬守は,決して尋常一様の剣客ではない。名義こそ剣法の指南役で,ごく低い格であったけれど,三代将軍に対しては非常な権力を持っていたらしい。…表向きはただ一個の剣法指南役の格で君側に出入りして,毎日お面お小手と一生懸命やって居たから,世間の人もあまり注意しなかった。しかしながら,実際この男に非常の権力があったのは,島原の乱が起こった時の事でわかる…。

と言っている。島原の乱のこととは,宗矩が,

一揆鎮圧軍の上使に,格の低い板倉重昌を任命したことに反対し,板倉は討ち死にする,

と予言したことを指す。宗矩は,その時,

一揆討伐は苦戦になることを,家康が一向一揆で苦しんだことを例に,攻めあぐねているうちに,諸大名は最初は従うが,そのうちに足並みが乱れ,再度上使が派遣されることになれば,板倉は面目を失い,例え一騎でも吶喊し討ち死にする,

と説いた。既に出立した後で,任命は取り消されず,結果,戦いが苦戦の中,再度上使派遣が,松平信綱と決まると,板倉は無謀な総攻撃を仕掛けて,討ち死にする。

僕は,宗矩のこの立場は,おそらく武蔵が願ってかなわなかったことなのだと想像する。城や街の縄張りまでやってのけた武蔵は,剣術家としてではなく,宗矩のような帷幄にいる役どころを望んでいたに違いない。

一介の牢人の子と小なりと言えど領主の子の,出発点のわずかな差は,大きい。それは度量,器量,技量の差では追いつけない隔てのようだ。

参考文献;
渡辺誠『真説・柳生一族』(歴史新書y)

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#吉川英治
#宮本武蔵
#五味康祐
#柳生連也斎
#上泉伊勢守
#柳生石舟斎
#柳生宗矩
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#板倉重昌
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2013年10月05日

生き残り



渡邊大門『黒田官兵衛』を読む。

来年の大河の主人公だそうだが,僕はそもそも黒田官兵衛という人物が,世に言うほどたいそうな人物とは思わない。講談じゃあるまいし,当時軍師などという存在はいない。所詮,信長,秀吉,家康の配下として力量を発揮しただけの人物だと思う。

多くは,黒田家の正史『黒田家譜』に因っているようだが,これがまた食わせ物だ。そもそも家譜とか家系図が正しいなどという思い込みは棄てたほうがいい。秀吉程でないにしろ,家康にしろ信長にしろ,戦国時代から出てきた武将,大名は,それほどの出自ではない。だから,江戸自体家系図づくりが盛んに行われた。平和な時代になると,武功で名を成せなければ,出自か先祖の武功を誇るしかない。

『黒田家譜』は,三代目藩主光之(官兵衛の曾孫)が貝原益軒に編纂を命じた。既に官兵衛死して八十年,官兵衛誕生から数えれば百四十年経過している。したがって,

黒田家の先祖が近江佐々木源氏出自,

という記述すら怪しい。しかも史料不足から,いまでは偽書とされる『江源武鑑』が多用されており,

有力な大名家の家譜は,正史と位置づけられ,そこには「真実」が記されていると考える向きが多い。しかし,実際には,一次史料を用いて子細に内容を検討する必要がある。特に……『黒田家譜』に動向が記されていても,裏付けとなる一次史料がない場合は,そのまま鵜呑みにすることはできない。伝承(口伝)などにより,不確かなまま記された可能性がある。

と著者は慎重な物言いをされている。しかし,僕は,家譜は,ただ正史を書くために記されたのではない,と考える。系図と同様,自らの出自と武功を顕彰するのが目的だと考える。不都合な部分はカットされるだろう。

著者はこう言う。

改めて,近世初期に期待された官兵衛像を考えてみると,名君像を提示したかったと推測される。それは,先見性に優れており,戦いの巧者であり,江戸幕府成立の立役者であり,質素・倹約を旨とする理想の君主像である。官兵衛の逸話が数多くさまざまな形で残っているのは,その証左と言えるであろう。
たとえば,『黒田家譜』によると,官兵衛は運命の岐路に立たされると,必ず正確な判断を行っている。…政局を見誤り,正確な判断を下せず没落した大名は数多い。官兵衛は,その都度判断を見誤ることなく,尋常ならざる出世を遂げた。先見性は,名君の重要なファクターであった。…藩祖ともいうべき官兵衛を名君に仕立てることは,長政(官兵衛の子)や福岡藩にとっても重要なことであった。それゆえ諸書を通じて,官兵衛の神憑り的なエピソードが繰り返し再生産されることになった。

と。ふと思い出すのは,二兵衛と並び称され,長政の命を救った竹中半兵衛の子,竹中重門が書いた,秀吉の伝記『豊鑑』である。祖先を顕彰することは,そのまま自らの家系を顕彰することになる。

その意味では,関ヶ原で下した判断が正しくても,加藤清正や福島正則は,家康にとって利用価値はなく,黒田や細川は利用価値があったということだ。関ヶ原で判断を誤っても,立花宗茂のように復権するものもあれば,,島津義久のようにしぶとく生き残るのもある。また毛利や上杉のように減封されて生き残った者もある。

あくまで,主導権はそのときの天下の実勢を握ったものの手中に,それぞれの命運はある。それがあの時代の厳然たる事実であるとするなら,生き残れた判断だけに,価値があるのではないだろう。

そのあたりは僕にはわからないが,少なくとも,石田三成のような,覇権に挑む生き方を,官兵衛が取らなかったことだけは確かである。その意味では,毀誉褒貶は別にして,官兵衛に,三成ほどの気概は感じられない。

著者はこう締めくくっている。

官兵衛の出自は播磨の一土豪であり,小寺氏の一家臣に過ぎなかった。しかし,官兵衛のすぐれた才覚は認めざるを得ない。(中略)官兵衛がいかんなく才能を発揮したのは,類稀なる交渉術を駆使する調略戦であった。敵方の領主を見方に引き入れたり,和平を結ぶ際に有利な条件のもとで締結に漕ぎ着けるなど,その役割には大きな重責が伴った。官兵衛は,秀吉の中国計略以後,北条氏討伐の小田原合戦に至るまで,その役割を全うしたといえる。

そして,官兵衛を軍師とするには無理があり,

官兵衛は数々の大名との交渉を担当したことから,「取次」などと称するのが無難なようだ。

と結論づけている。それは蜂須賀正勝も同様であり,毛利側の交渉窓口であった安国寺恵瓊もまた同じ役割を担っていた,ということができる。



参考文献;
渡邊大門『黒田官兵衛』(講談社現代新書)

今日のアイデア;
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#渡邊大門
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#竹中半兵衛
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2013年10月31日

意志


池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』を読む。

二度目だ。単行本の時に読んでいるのだが,印象が薄く,もう一度手に取った。印象が薄いのは,たぶん,高校生相手の講演記録のせいで,散漫で,冗長のせいだ。

もうひとつは,この人の本の特徴だが,いろんな最新学説を,次から次に紹介していく,という流れのために,ひとつが深堀されず,流れていく印象からかもしれない。

僕の好みからいうと,ダマシオやラマチャンドランのようなテーマを突っ込んでいく,特に臨床に即していくラマチャンドランの『脳のなかの幽霊』は衝撃的であった。もちろんいい面悪い面があり,だからどうだというつもりはない。

本書の中で,中心は,意識していることと意識できていないこととの対比を,脳の機能を中心に展開していくところだが,もっとも中核は,意志にかかわる部分だ。意志より先に脳は準備的に動き始めている,という有名な話だ。

参加者に椅子に座ってもらって,テーブルに手を置く。…好きなときに手を動かすということを試してみた。そして脳の活動を測ったんだ。
この実験で測れるパラメーターが4つあるよね。
まず認知の指標がふたつある。第一に,「手を動かそう」とする意図。そして,実際に手が動いたら,「あっ,動いたな」とわかる知覚。
一方脳側から見たときにもふたつの指標が得られる。手を動かすために「準備」をする脳活動と,実際に動くように出す「指令」の脳活動だ。

つまり,①「動かそう」②「動いた」③「準備」④「指令」だが,実際の順序は,

準備→動かそう→動いた→指令

となるらしい。

本人が「動かそう」と意図したときには,脳はすでに動かす「準備」を始めているらしいんだよね。0.5~1秒くらいも前に。より最近の研究によれば,7秒も前に準備が始まっている場合もあるという。

つまり,まず手を動かすための脳の「準備」が始まり,そしていよいよ動かせる段になって,我々の心に「動かそう」という意識が生ずる。動かそうと思ったときには,脳はそのつもりで準備を終えている。

もうひとつは,手に「指令」が行く前に,「動いた」と先に感じる。それに引き続いて,「動け」という指令が手に行く。

つまり自分の意志で動かそうとしているつもりが,脳が動かそうと準備をしてしまっており,それに従っているということになる。

では自由とは何か,ということが,話題になっている。では自由と感じるためには何が必要か。著者は,

①自分の意志が行動結果と一致する
②意図が行動より先にある
③自分の意図のほかに原因となるものが見当たらない

を挙げている。その上で,意志と結果の一致,動いたと感じるより先に動かそうと思っている,また,

動かそうとしている本人の視点から見れば,…僕らは「実際に意図より先に脳が準備している」ことを知らない。…だから「自分の意図」以外に原因となるモノが,その当人には見当たらない,

ということから,自由である感覚を否定するものがない,と著者は言う。そして,

自由意志が存在するかどうかという問いは,その質問自体が微妙なところがあって,…むしろ自由を感じる能力が私たちの脳に備わっているかどうかという疑問にも変換しうる。つまり,自由意志は,存在するかどうかではなくて,知覚されるものではないか,…「知覚されたら存在する」と考えるのが,僕のスタイル…,

という。そして,重要なことは,次の点にある。

行動したいという「欲求」よりも0.5秒ぐらい前には,行動の「準備」は始まっている。しかし,その一方で,「準備」から「行動」までは,その0.5秒よりももっと時間がかかる。1.0秒むとか1.5秒とか。
ということはどういうことか。…「行動したくなる」よりも,「行動する」ことの方が必ず遅い。時間的には,まず欲求が生まれてから。行動をする。この時間差は長ければ1秒近くになる。
この期間が重要なのだ。おそらく「執行猶予」の時間に相当するのだろうと言われている。…その行動をしないことにすることが可能な時間という意味…。その時間内に,行動することをやめることができる。

この,行動するかどうか,するかしないかの意志決定の時間差,つまり,

「準備」から「欲求」が生まれる過程は,オートマティックなプロセスなので,自由はない。…そうではなくて,僕らに遺された自由は,その意志をかき消すことだから,「自由意志」ではなく,「自由否定」と呼ぶ。

この自由否定時の脳のMRI活動を調べた論文のタイトルは,

To do or not to do

なのだというオチもなかなか面白い。つまり,

①脳の準備→②「意志」→③「動いた=知覚」→④「脳の指令=運動」

となる流れで注目すべきは,動いたと,気づいて,動かす,が来る。その意味で,知覚と運動は独立した別々の機能といえるらしいことだ。そのために,現実の時間と心の時間を補正して,

感覚的な時間を少し前にズラして,補正している,

ために,「動く」前に「動いた」と感じるということは,補正が過剰で「未来」を知覚してしまう,ということになるようだ。

脳のフィードバック機能とは別に,(脳のフィードバックは遅いので)何かをしたいと思うとき,脳は,頭の中で,手を伸ばすためには筋肉をこういうふうに動かせばいい,その後はこうしたらいい,といった未来を読みつつ動かさないと,素早く,スムースな動きはできない。そのため,脳は,

結果をまず想定して,そこから逆算して君肉を動かさなくてはいけないとする,

(フィードバックの)逆モデルを多用している。脳は,経験と学習から,

いつも,未来を感じようと懸命に努力している。その結果として,「動いた」と感じてから,実際に「動く」というような奇妙な現象が生じてしまう。

以上が,脳と意志との関係の一例だが,心と脳との関係は,本書では多様に触れられている。たとえば,

意志は,脳のゆらぎからうまれるけど,と同時に,脳のゆらぎを調節することに,意志自体が積極的に関与できるのではないか…

僕らの心はフィードバックを基盤にしている…。ニューロンの回路はフィードバックになっている。そのフィードバックの回路から発火活動の「創発」が生じる。…その創発の産物のひとつが「心」だ。

脳は考えているし,その脳をまた脳が考えている。つまり「リカージョン=再帰」する。…リカージョンが可能なのはたぶんヒトだけ。

「私」というのは,そういう脳の入れ子構造を反映していなくもない。「私」について考える「私」について考える…

つまり,キルケゴールの言う,

自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。

あるいは,

自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということなのである,

と。つまり,「複雑な私」とはこのことである。


参考文献;
池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』(ブルーバックス)

今日のアイデア;
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#池谷裕二
#単純な脳、複雑な「私」
#キルケゴール


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2013年11月16日

孤立無業


玄田有史『孤立無業』を読む。

どこかで,ひきこもり,ニート,フリーターを含めて500万人という推測数値を聞いたことがある。ここでいう,孤立無業もこの中に入る。500万かというと,一世代200万人(もっと少なくなっているが)と見積もって,二世代半に当たる。それは,その人たちが,社会保険料をきちんと払う仕事をしていないということになる。それを聞いた時,足もとで,社会保障制度は崩壊している,と感じた。

「労働力調査」によると,2012年を平均すると,15歳以上の人口は1億1098万人,そのうち就業者は6270万人,その差が,無業者で,4828万人になる。

著者は,その無業者の中で,

20~59歳で未婚の人のうち,仕事をしていないだけでなく,ふだんずっと一人でいるか,そうでなければ家族しか一緒にいる人がいない人,

を孤立無業者と呼び,それを研究してきた,という。本書は,

そんな無業者の実態をデータ(「社会生活基本調査」)に基づき,詳しく紹介している。

この,「孤立無業」とは,日本で開発された概念で,英語でSolitary Non-Employed Persons を指す。2011年の調査では,162万人,10年間で80万人近く増加しているという。

孤立無業者を,

20歳以上59歳以下の在学中を除く未婚無業者のうち,ふだんずっと一人か,一緒にいる人が家族以外にはない人々,

と定義している。2011年時点で,60歳未満の未婚無業者は255.9万人,そのうち孤立無業者が162.3人,実に60歳未満の未婚無業者の63%を占める。このうち,家族型孤立無業は,128.0万人,8割弱を占める。そして,求職活動に消極的なのが,家族型で,29.3%は,仕事をしたいと思っていない。

では,これは,ニート(not in education, employment or training)やフリーター,ひきこもりと,どういう違いがあるのか。

厚生労働省は,ニートを,

15~34歳の非労働力人口のうち,通学,家事を行っていない者,

と提示しているが,労働力調査から,2011年時点で,約60万人になる。このうち非求職型と非希望型を合計すると,43.2%,そのうちニートであり,同時に孤立無業である人は,30.0%を占める。

同じく厚生労働省は,フリーターを,

15~34歳の男性または未婚の女性(学生を除く)で,パート,アルバイトとして働く者,またはこれを希望する者,

と定義していて,やはり,2011年時点で,176万人になる。

厚生労働省は,ひきこもりを,「ひきこもりの支援・評価に関するガイドライン」で,

さまざまな要因の結果として社会的参加(義務教育を含む就学,非常勤職を含む就労,家庭外での交遊など)を回避し,原則的には6ヵ月以上にわたって概ね家庭にとどまり続けている状態(他者と交わらない形での外出をしてもよい)

と定義している。ただ実態は把握しにくく,ガイドラインでは,ひきこもり状態の子供のいる世帯を26万世帯と試算しているが,内閣府(「若者の意識に関する調査」)は,「自室からほとんど出ない」「自室から出るが家から出ない」「近所のコンビニなどへは出かける」という狭義のひきこもりが,15歳以上39歳以下で23.6万人,「普段は家にいるが,自分の趣味に関する用事の時だけ外出する」準ひきこもりが46.0万人と試算している。著者は,

(いま)無業であることが,就職しないということを意味しないが,

孤立状態にあることは,仕事に就こうとする活動やそもそも働こうという希望を抑制することにつながる,

とし,さらに,

自分ひとりで考えているだけでは,かえって悩み過ぎてしまって,袋小路に陥ることもあります。結局,考え過ぎてしまって「自分には働くことは無理」と思い込み,就職を断念する,

ことになり,ニートになる原因の一つとなっている,と著者は分析し,

さらにいえば,ニートになることが,ますます無業者の孤立に拍車をかける,

という。そして,

ニート状態にある若者も,最初から働くことをあきらめていたわけではありません。かつては一生懸命就職活動をしていた人も多くいます。その方が言うには,ニートには「就職を求める人たちの長い行列の後ろのほうに自分は並んでいる」感覚があるそうです。そして「その行列は,前のほうだけ入れ替わっている様子は感じるけれども,少しずつでも自分の順番が前に繰り上がっていく気配がない」というのです。そして「このまま並んでいても希望は見えないし,かといって他の方法が思いつくわけではない。そのまましばらく並んでいたが,どう考えても自分の番がきそうもない」。そのなかで仕事に就くことを徐々に断念し,ニートになっていく,

という。そしていったんニートになると,ますます孤立化を深めていく。

孤立無業→ニート→孤立無業→ニート…

と負のスパイラルに落ち込んでいく。孤立無業では,一度も,仕事をしたことのない人が20%を超える。しかも孤立無業のうち,一人型では,4人に一人が,受けられるなら生活保護を受けたいと考えている,のである。

これは正直,心底日本の危機と思う。希望のない社会に,未来志向は生まれない。単なるポジティブシンキングのレベルの話ではないのである。

著者は言う。

政府の手で100人のニートを自立させることは難しい。むしろ100人のニートを支援できる10人の若者を育ててほしい。政府が若者を支援するのも重要ですが,若者を支援する若者を支援することは,もっと大事なことなんです。

と。なぜなら,

孤立無業者本人が自分の力だけでは踏み出すことができない以上,他者のほうから働きかける。つまり会うとリーチによって上手に「おせっかい」することが肝要,

だからなのだ,と。

僕は,こうした若者の現状は,社会の生み出したものであり,それが家庭に反映し,それが個人に反映すると思っている。いま日本の社会は病んでいる。一朝一夕に特効薬はない。しかし,いま動きはじめないと…という著者の危機感だけは,伝わってくる。


参考文献;
玄田有史『孤立無業』(日本経済新聞出版)



今日のアイデア;
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#フリーター
#ひきこもり
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2013年11月17日

野臥



中田正光『伊達政宗の戦闘部隊』を読む。

戦国大名の軍事力の基礎となる,戦闘部隊,兵站部隊の実像は,よく分かっていないこと言う。本書は,

後北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされる一年前の天正十七年(1589)年,伊達氏が相馬攻めの為に領内一部郷村で陣夫動員調査を行った『野臥日記』をもとに,動員兵力の内実に迫ろうとした。

記録に残っているのは,現在の宮城県白石市の一部と刈田郡,福島県の信夫郡,伊達郡の一部で実施された記録である。

『野臥日記』では,当時郷村に住んでいる壮年男子をすべて書き記しているが,家族や女性,子供が記されていないため,村の住民数まではわからない。野臥とは,百姓たちが武装した状態をいうのだそうだ。「野伏」とも書く。

ただ記録には,比較的裕福な家主,半自立的で未だ自分の耕作地を持たない名子,家主に一生隷属している下人が記されており,煩い(病人),牢人,行人(修験者),中懸(なかけ=下層家臣組士)が記録されている。さらに,馬上の侍である「平士」(へいし)に相当する地頭(郷村の領主)としての地侍なでが記されている。

たとえば,こんなふうに記されている。

かぢや    大波分

上 や一郎
上 四郎兵へ 大分
上 藤十郎
上 与二郎

大なミ殿分
上 寺嶋二郎兵へ
上 大波与三さへもん
上 わく沢新兵へ
上 助ゑもん
上 たんは
山伏 大泉房
上 新さえもん
上 や一郎

上というのは,健康状態を上中下で区別したもの。「かぢや」は,農耕具や刀槍といった手工業的作業に従事していた非農業的存在の在家という意味。「大波分」とあるのは,大波玄蕃という地頭が知行していることを明記している。「大なミ殿分」は,山伏を含めた八人を,大波氏が扶持しているということであ。なお,大波氏は,伊達家の中で「召出」という,門閥的な存在であったと推測されている。これによって,鍛冶屋在家の四人と,大波殿分の八名が,陣夫として動員可能と判断されたことを意味する。

在家(ざいけ)というのは,本来は一軒の農家のことを言う。しかし実際には,数軒集まって在家と呼んでいることが多い。屋敷,菜園を含めてそう呼ぶ。屋敷の主人は家族兄弟のほか,名子,下人まで従え,農家とはいうものの経済的には恵まれている。本来,在家とは郷村に数人いた地頭地主(伊達氏と御恩と奉公の関係にあった家臣)が税を徴収する際の呼び名で,在家農民と直接相対していたのは地頭たちということになる。大名は,こういう地頭を介して,郷村支配を行っていたが,『野臥日記』は,直接把握しようとしたものと見ることができる。

郷村に根を張り,多くの耕作地や在家を所有し,自らも農耕に従事していたような地頭こそが伊達家家臣団のなかの「馬上の平士」に相当する(地侍・土豪)。もしその村が大名の直轄地の場合は,地頭的存在は,伊達政宗自身ということになる。

もう一例。小国郷の中島在家。

中島   大波分
上 十郎ゑもん
上 惣さへもん
上 助十郎
御なかけ てらさき弥七郎
同    かんのとさの守

ここには二人の「御なかけ」(名懸)というのは歩卒の足軽で,弓組,鉄砲組が主力となっていた。これは,伊達氏と「奉公と御恩」の関係にある給人(知行地を与えられている家臣)ではなく,単に伊達氏に抜擢された有力農民であり,地侍・土豪のように馬上は許されない。しかし,著者は言う。

伊達氏が有力農民たちを歩卒侍(中懸衆)として抜擢して,伊達氏直属の弓衆に仕立てることで,村では地頭大波氏との徴税関係を廃止し,地頭と有力農民の名懸たちを引き離す結果となったことを意味する。

つまり農から兵への分離のはじまりである。やがて名懸を城下に住まわせ,村から引き離そうという展望があったことを示している。

と。こういう軍勢構成から考えれば,

ある時期,伊達氏の軍勢一万のうち,直臣は500程で,残りはほとんどが郷村からの動員兵や臨時雇いであった,

という。つまり,

伊達氏は,重層的に直臣である家臣団を形成し,さらに,郷村の地頭領主を召出や平士として,さらに在家農民から多くの兵士を動員していった,

のである。となると,映画や小説のような激しい戦闘はしにくいはずである。なぜなら,

こうした兵を失うということは村の崩壊につながりかねなかった。つまり,耕作者を失うことを意味していたからである。ましてや,伊達氏の直轄地から集められた者たちが多ければ年貢が見込めなくなる…。だから合戦以前には必ず調略という誘いの手を伸ばし,戦わずして勝つことを℃の武将たちも求めていた。

それは当然,戦いになって,

撫で斬りその数を知らず,

と必ず戦勝報告に記す,常套句も信じてはいけないということを意味する。領有しても,村々に耕作者がいなければ,何のための戦いだったかがわからなくなる。

いまひとつは,最近は,「乱取り」が常識的に言われるようになったが,野臥主体の戦闘集団の狙いは,乱取りにある。

当時のおもな合戦のねらいは乱取りであって,村や町を襲って金目になる物を奪い取ることに主眼が置かれた。なかでも牛や馬は在家農民(野臥)たちの貴重な家財…,

であったらしい。それは伊達氏が,兵農分離が進んでいないせいだという常識を,著者は疑っている。基本的に,程度の差はあれ,伊達家の軍隊構造と変わらなかったのではないか。

現に,関ヶ原の合戦終了後,徳川軍の雑兵たちは引き揚げ途中で,牛馬の略奪に夢中になっていた,といわれる。実態は変わっていないのである。

こうした地頭と在家の関係を決定的に断ち切るきっかけになったのは,秀吉であり,惣無事令の儀の発令によって,大名間の私闘だけではなく,百姓・町人の自力救済の武装蜂起も否定した。やがて,支城廃棄,刀狩り,検地と,次々と全国均一の仕置きが進められ,兵農分離への本格的な一歩となっていく。

この後,帰農するか城下へと移り住むかの,一人一人の選択がやってくる。それは身分社会の確立への道でもある。



参考文献;
中田正光『伊達政宗の戦闘部隊』(歴史新書y)


今日のアイデア;
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2013年12月01日

物語



家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』を読む。

同じ著者の,『西郷隆盛と幕末維新の政局』について,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11358567.html

で取り上げたが,切り口を変えると,また別の「地」が浮かび上がる。ただ,いままで当たり前としてきたことに異を唱えようとする,問題意識は似ている。

一会桑とは,一橋慶喜であり,会津藩(松平容保)であり,桑名藩(松平定敬)を指す。副題に,「幕末・維新の新視点」とあるように,孝明天皇と一会桑にウエイトを置きながら,いままでの維新史の常識に風穴を開けようとしている。

その維新史観を,西南雄藩討幕派史観と,著者は呼ぶが,その問題を二つ挙げている。

ひとつは,西南雄藩を特別視することと引き換えに,二重の抹殺がなされ,幕末史がひどく偏った内容のものになったことである。二重の抹殺とは,幕府・朝敵諸藩の抹殺と,薩長両藩内にも多数存在した対幕強硬路線反対派の無視である。

いまひとつは,明治以降の日本人が,その実態以上に幕末期の政治過程を英雄的なものとして受け取ったため,他国ことにわが国周辺諸国に対して,変な優越感を持つにいたったことである。

特に二点目は,征韓論,対外雄飛論,そして大東亜共栄圏という発想へとつながる原因になったとまで,著者は見る。

基本的に,維新史の常識とは,勝者の歴史である。あえて言えば,勝者に拠った造られた物語である。それに対してもオルタナティブな物語を紡ぎ出そうというのである。その象徴が,敗者である,「一会桑」(と孝明天皇)からの切り口なのである。

歴史も物語であり,視点を変えると,パースペクティブも変わる,ということなのである。

さて,まず孝明天皇について,著者はこう言う。

はっきり言えば,孝明天皇が攘夷にあそこまでこだわらなかったら,日本の幕末史はまったく違ったものになったと考えられる,

と。孝明天皇は,それまでのような,「宮中の奥深くに鎮座まします,もの言わぬ,いままでのような伝統的な天皇」ではなかったのである。

だから,老中堀田正睦が,通商条約締結不可避を,理路整然と情理をもって説得しても,「理屈も何も差し置き,ただひたすら落涙」して,「頑なに受けない」まま,根を上げた堀田は,ついに朝廷側に押し切られてしまう云々。

そして,「一会桑」については,著者は,

孝明天皇が自己の代弁者とみた政治勢力,

であるとみなす。「一会桑」は,孝明天皇という強烈な攘夷思想を持つ天皇と出会い,接触を深めることで,

孝明天皇と一会桑三者は,やがて互いを必要不可欠の存在として認め合い,深く依存する関係に入る。すなわち,一会桑の三者は,孝明天皇の攘夷思想を尊重し,他方天皇は,一会桑の三者に自己の代弁者としての役割を積極的に見いだしていく。最初から攘夷志向が強かった会津関係者はともかく,一橋慶喜なども京都に定住するようになると,当初の開国論はどこへやら,天皇(朝廷)の上位実行の要請に同調するようになる。

たとえば,禁門の変直前絶望的に孤立無援に陥っていた会津藩を,孝明天皇は,会津藩を擁護する叡慮(宸翰)が下され,更に,長州藩士が京都から退去せよとの説諭に服さない場合は,直ちに追討せよとの綸旨を出す。

だから容保は,「御所向きの御都合は,一橋様・御家(会津藩)・桑名様にて悉皆御引き請け,御整遊ばされ候(松平容保の)思し召し」という,満々たる自信を持っていたと言われる。

大政奉還の意味についても,「大政奉還前と後では,徳川慶喜の置かれた状況が決定的に違う」として,著者は,こう言っている。

大政奉還前の慶喜は,いうまでもなく,反幕勢力によって激しく揺さぶられるようになっていたとはいえ,日本全国にまたがる政治を主宰(諸大名を統括)する十五代将軍の職にあった。しかし,大政奉還後の彼は,もはや将軍ではない徳川家の当主に過ぎない。(中略)
ということは,慶喜自身が,仮に大政奉還後もひき続き新しく誕生する諸侯会議(諸大名の合議制によって運営される)のリーダーとして,徳川氏中心の政治体制を保持もしくは創出していくつもりであった,つまり実権を掌握していくつもりであったとしても,それは彼個人一代でのみかのうであったということである。

さらに,

より大事なことは,慶喜が「天下の大政を議定する全権は朝廷にある。すなはち,わが皇国の制度法則,一切万機,必ず京師の議政より出つべし」とする土佐藩の大政奉還建白書を受け入れたことである。ここに大政奉還のもっとも根本的な意義が存したといえる。

という。さらに,

慶喜が王政復古(それは幕府制の廃止と徳川家の一大名家への降下を意味する)と長州藩の赦免に同意したことで,「倒幕の密勅」をもってしてまで打倒しようとした対象が消滅し,慶喜と対幕強硬派の諸藩・宮・公家との対立関係が基本的には解消されることになった…,

といい,両者の対立点を消し去る効果があったのである。そのために,対幕強硬派の挙兵へ向けての戦略が一気に崩れ,王政復古クーデターに参加した,尾張藩,越前藩,土佐藩,芸州藩が,「扶幕の徒」(大久保利通)になり,

事態をこのまま放っておけば,徳川氏および場合によっては会桑両藩を含むを雄藩連合政府が成立し,王政復古クーデターが,旧来の封建支配体制の修正・再編にとどまる危険がでてきた。

大久保らは,それを何としても,くいとめようとしたが,

かつて王政復古クーデターを決断したときよりも,遥かに大久保らに冒険主義的な選択(文字とおり「イチかバチかの大バクチ」)を迫ることになった。

鳥羽伏見の戦い前夜は,これほど紙一重の中にあり,従来のように,

薩長両藩によって展開された粘り強い,しかも一貫した武力討幕運動のもたらした成果というよりも,ワンチャンスを確実に生かした在京薩藩指導者の起死回生の策がものの見事に決まった結果といったほうが,より適切であった…。

と。

まさに視点を変えることで,異なるパースペクティブが見えてくる。そのすべてが同時に,よじれる糸のように起こったのだとみなした方が歴史の幅と奥行きが広がるように思う。


参考文献;
家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』(文春新書)
家近良樹『家近良樹『孝明天皇と「一会桑」』』(ミネルヴァ書房)

今日のアイデア;
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2013年12月10日

実像



諏訪勝則『黒田官兵衛』をよむ。

来年の大河の主役のため,官兵衛本が相次いで出されている。順次見ていくが,これが二冊目。どこに焦点をあてるかで,結構差が出る。すでに,一冊,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11327874.html

で触れたが,そこでは,来歴というか系図について結構力を入れていた。しかし,本書は,武人としての官兵衛以外に,

キリシタンであり,

茶人であり,

歌人である,

官兵衛の姿に焦点をあてているのが特色かもしれない。

一般には,太閤記などのせいもあり,軍師というイメージが強く,その線で,司馬遼太郎『播磨灘物語』も,吉川英治『黒田如水』も描かれている。その典型は,江戸時代の『常山紀談』のある,官兵衛が,息子長政に語った,こういうエピソードだろう。

我は無双の博打の上手なり。関ヶ原にて,石田今しばらく支へたらば,筑紫より攻登り下部のいふ勝相撲に入りて,日本を掌のなかに握んと思ひたりき。其時は,子たる汝をもすてて一ばくちうたんとおもひぞかし。

しかし実際には家康の許可を取り,逐次自分の動きを家康に明確に示し疑われる行動は巧みに避けている。このあたりが実像だ。だから,江戸時代の『故郷物語』で,長政が凱旋して,中津城で手柄話をした折,家康は私の手を握り,三度抱擁してくれたと官兵衛に話した。その時,官兵衛は,冷ややかに,

左の手か,それとも右の手かと尋ねた。長政は右の手であると答えた。官兵衛は,左の手は何をしていたのか,と再び質問した。左手で家康を刺し殺すこともできたものを,との含意だ…

というのだが,この辺りは,「作り話」に過ぎない。著者は言う。

数々の武功からすると,官兵衛は非常に細心で堅実で,秀吉への連絡を怠らなかった。戦況を逐次報告し,秀吉の意向を確認し,判断を仰いだ。秀吉の没後は,家康を始めとする徳川陣営の人々と緊密に連絡を取った。これにより徳川方であることを明確に示し,三成陣営にも通じているのではないかと疑われるのを防いでいる。

と。そして,むしろ,

官兵衛はきわめて誠実な人物であった。

そのことは,小田原合戦で北条方との交渉役をつとめ,北条氏直に開城を決意させる。その折,氏直から,『吾妻鑑』と日光一文字の刀など三点を贈られている。また関ヶ原合戦後,吉川広家との盟約を着実に履行し,最後の最後まで毛利一族を見捨てなかった。さらに,さかのぼれば,荒木村重の籠る有岡城に幽閉された際,家臣たちが起請文を作成した事例等々が示すように,家臣からも大変慕われていた。

だから,著者は,

官兵衛なくして秀吉の天下統一は完遂できなかったといっても過言ではない。ただし,ここで注意しなくてはならないのは,官兵衛は秀吉の家臣団の中では随一といってよい名将だが,政権の中枢にあったわけではないことである。…「内々の儀」は千利休が,「公儀の事」は豊臣秀長が取り仕切っていた。秀長・利休の没後は,石田三成らが台頭した。官兵衛の存在をあまり過大評価するのは間違いである。

と。文化人としての官兵衛に焦点をあてているのが,本書の特徴だが,まずは,

官兵衛は高山右近・蒲生氏郷の勧めにより入信し,…秀吉の家臣たちに改宗を促したことが知られている。

洗礼名はシメオン。ルイス・フロイスの年報では,

小寺官兵衛殿Comdera Cambioyedono

とあり,官兵衛の読みが,「かんべえ」ではなく「かんびょうえ」であるとわかる。官兵衛は,死ぬまでキリシタンであり,葬儀も,自領の博多の教会で,キリスト教式で行われた。

茶の湯については,秀吉が重視していて,秀吉家臣団の多くも親しんだ。はじめ,官兵衛は武将が好む者ではないと,考えていたようだが,小田原合戦時,陣中で秀吉に招かれて,渋々茶室に入った逸話が残っている。

秀吉は茶を点てる様子もなく,もっぱら戦の密談を続け,数刻が過ぎた。秀吉が官兵衛に語るには「これが茶の湯の一徳というものだ。もし茶室以外の場所で密談をかわしたならば,人から疑いをかけられる。茶室で話せば剣技が生ずることはない」。

これを聞いて感服して,官兵衛は茶の道に入った,という。

茶席では様々な教養が要求されることはいうまでもない。たとえば,床の間に墨跡がかかっていた場合,その書を読むことができ,その内容を理解することが必要である。官兵衛は幼少の頃から培ってきた学問的な素養を十分に生かして茶席に臨んで行ったのである。

連歌については,連歌会の歌がいくつも残っているが,挑戦出陣に際して,細川幽斎から,歌学に関する書籍を贈られている。

中央歌壇の最高権威者である細川幽斎から,

『堀河院百首』(幽斎が書写したもの)
『新古今集聞書』(幽斎が書写。巻末に,今如水此の道に執心を感じ,之を進呈する,と記されている。)
『連歌新式』

書籍を贈られたのは,官兵衛が本格的に連歌に取り組んでいることを示している。この三年後には,官兵衛は,一人で連歌百韻を詠じている。

こうみると官兵衛は,武将として確かに優れているが,世に言われる野心家というよりは篤実な性格なのではないか。文禄の役で,朝鮮にて,死を覚悟して,長政に遺した家訓がある。

1.官兵衛の所領が上様(秀吉)に没収されなかったならば,現在仕えている家臣たちに,書面に記したように渡すように。
2.もしその方(長政)に子供ができなかった場合,松寿(官兵衛の甥)を跡取りとするように。もし,器量がない場合,松寿は申すに及ばず実子であっても不適格である
3.家臣たちに対しては,前々から仕えているものをしっかり取り立ててゆくことが大切である
4.諸事,自分の想い描いた通に事が運ぶとは限らない。堪忍の心がけが必要である
5.親類・被官には慈悲の心を持ち,母には孝行するように
6.上様・関白様(秀次)のことを大事にしていれば神に祈ることもない

どうだろう,戦国時代を誠実に戦いきった人間の,一種の透明な心映えが見える。

官兵衛も結構失敗し,秀吉の勘気を蒙っている。しかし,肥後の領国支配に失敗した佐々成政は切腹,戸次川合戦で敗戦した仙石秀久は改易された。しかし官兵衛は,同時期領国支配でも佐々と同じ一揆をおこされ,島津攻めでも失敗しているが,不思議と,秀吉から見逃されている。それは,誠実に,粘り強く対処して,貢献してきた官兵衛の力量を,秀吉は必要としていたからではないか。

参考文献;
諏訪勝則『黒田官兵衛』(中公新書)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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2013年12月13日

プロパガンダ




跡部蛮『秀吉ではなく家康を「天下人」にした黒田官兵衛』を読む。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11327874.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11386475.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11388160.html

に続いて,泥鰌本の4冊目。もうこれで打ち止めにする。新書版とはいえ,いい加減な物語を語るのはやめてほしい。確かに,どこに焦点をあてるかによって,図は変わるとはいえ,こうそれぞれが勝手読みをするのを歴史と言ったら,カーが嗤うに違いない。

こう言うのは,版元を見て判断する,というのが僕の基準だが,それは当たっている,といっていい。

さて,本書は,小和田哲男『黒田如水』から学んだということばが,プロローグに載せられているが,その小和田氏の,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11388160.html

とは,真逆の結論からスタートしている。といっても,中身は,それに近いのが笑えるが。著者はこう書く,

「豊臣秀吉を天下人にした稀代の軍師」という通説的理解に疑問を抱く一人だが,秀吉死後,官兵衛とその嫡男・長政の父子は,家康の天下取りに大きく貢献し,関ヶ原の合戦後,家康から,「御粉骨御手柄ともに比類なく候。いま天下平均の儀,誠に御忠節ゆえと存じ候」という賛辞をたまわる。

と。しかし,これは,社長が功労者に言うセリフであって,だからといって,

豊臣秀吉を天下人にした稀代の軍師,

から,

家康を「天下人」にした黒田官兵衛,

と入れ替わる根拠とも思えない。ただ仕える主人を変えただけだ。どこに焦点をあてるかで,変わることには,著者自身が気づいているらしく,さんざん官兵衛を持ち上げた挙句,あとがきではこう書く。

秀吉の天下がほぼ定まった同(天正)十三年頃,官兵衛はキリスト教に入信するが,このころ宣教師ルイス・フロイスが『日本史』に書き残した言葉が,世間が官兵衛をどう評していたか如実に表しているように思う。

「関白の顧問を務める一人の貴人がいた。彼は優れた才能の持ち主であり,それがために万人の尊敬を集めていた。関白と山口の国主(毛利輝元)との間の和平は,この人物を通して成立した…」

このことから,こう逆に推測する。

官兵衛の事績として知られるのは毛利との交渉だけという見方もできる。実際に福岡藩の正史である『黒田家譜』を除くと,一級史料で彼が秀吉の天下統一に獅子奮迅の活躍をしたという事実や評価は見られない。

つまり,後世の彼の評価と当時の現実とは大きな落差がある。これを,著者は,こう言う。

官兵衛を実像以上の存在に見せようとしたプロデューサーがいたと考える。ほかならぬ秀吉である。

そして,こう説明を加えていく。

秀吉の官兵衛評については『家譜』に掲載される次の話が有名だ。あるとき秀吉はふざけて近臣の者に,自分が死んだら誰が天下を給ったらよいかを問い質してみた。誰もが家康や前田利家,毛利輝元ら大身の大名の名前ばかり挙げた。そこで秀吉は,「汝ら知らずや」,つまりおまえたち誰もわからないのかといい,「黒田如水なり」として,官兵衛の名を挙げたという。『家譜』は,だからこそ秀吉は官兵衛に大国を与えなかったのだといい,一般的にもそう理解される場合が多い。しかし,この手の話が後世まで語り継がれる要因のひとつは,秀吉得意のプロパガンダの結果であったと考えた方が理解しやすい。

なぜなら,

下層階級出身の秀吉には譜代の臣はおらず,世に名前の通った家臣もいない。だからこそ秀吉は,彼自身がプロデューサーになって自分の配下の者を世に売り出そうとした。

と。そういえば,賤ヶ岳の七本槍(本当は,『柴田退治記』では9人だったようだが)でいう,

福島正則
加藤清正
加藤嘉明
脇坂安治
平野長泰
糟屋武則
片桐且元

等々もその例だし,

中国大返し

美濃大返し

という命名もまた,その例だろう。

事実,秀吉は,祐筆となり,側近だった大村由己に,

『天正記』
『播磨別所記』
『惟任退治記』
『柴田退治記』
『関白任官記』
『聚楽行幸記』
『金賦之記』

と次々に,ほぼ同時進行で,軍記を書かせているが,それにも目を通し,口も出している。あの『信長公記』の太田牛一にも,『大かうさまくんきのうち』『太閤軍記』を書かせている。

当時の軍記物は,皆の前で詠み聞かせる。直後にこうやって物語を読み聞かせ,宣伝していくのである。戰さの直後に,こう読み聞かされれば,そこに載りたいという動機が生まれてもおかしくない。現実と,同時進行で歴史を創り出そうとしていた,と言えなくもない。信じたかどうかは別に,自分の出自についても,

御落胤説

まで物語にしようとする,秀吉である。

こう考えると,実は,あとがきの,この焦点の当て方の方が,本文よりはるかに面白い。が,この説を図として,展開すると,実は官兵衛を主役とする本書には都合が悪く,秀吉の類い稀なプロデュース能力だけが際立ってしまう。

だから,著者が,

官兵衛は秀吉を恐れ,その官兵衛を家康が恐れた。

等々というのは,たわごとにしか見えない。官兵衛は,絶えずその時の仕えるべき相手である秀吉や家康に,疑われないよう,慎重に連絡し,許可を得て動いている。所詮,

秀吉あっての官兵衛であり,家康あっての官兵衛である。

そこを見間違えては,官兵衛像は虚像に過ぎない。

参考文献;
跡部蛮『秀吉ではなく家康を「天下人」にした黒田官兵衛』(双葉新書)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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posted by Toshi at 05:00| Comment(4) | 書評 | 更新情報をチェックする