2013年12月27日

俯瞰



滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕』を読む。

このところ立て続けに,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11386475.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11327874.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11388160.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11388944.html

を読んでみて,所詮歴史も物語とはいえ,官兵衛を図にすると,こうも,官兵衛が巨大になるのかということを実感させられた。まあ,眉に唾つけつつ読んだと言っても,官兵衛の秀吉旗下での位置づけがはっきりしない。そんなところに,本書が出た。まあ,泥鰌本と言えば言えるだろうが,官兵衛の配置図というか,ポジションをうかがわせるものになっている。

貧農の出から出発した秀吉は,一門,譜代の家臣を持たぬ,それこそ,今どきははやらぬのかもしれぬが,裸一貫から,天下人に駆け上がった。他の戦国武将が,小豪族から成り上がったにしろ,それなりに一門眷属をもっているのに,本当に眷属自体が少ない。

まず出発は,糟糠の妻,おねを得たところから,始まる。頼ったのは,おねの実家筋からである。

おねの父である杉原定利,おねの叔父にあたる杉原家次,おねの兄である木下家定,おねの姉ややの夫,浅野長政である。

木下姓自体が,おねのははの実家木下から貰い受けたと想定されているのである。

美濃攻めの功績で,歴史上,知行宛行状の添え書きに,

木下藤吉郎秀吉

の名が始めて登場する。この時期が創業期の家臣団になる。

一門衆として,杉原定次,木下家定,浅野長政,姉ともの夫,三好吉房,母なかの親戚,小出秀政
家臣として,蜂須賀正勝,前野長康,山内一豊,堀尾吉晴といった尾張衆,

となっていく。右腕になったのは,蜂須賀正勝である。ただこの時期は,信長から与力として,付属している状態なので,必ずしも秀吉の直臣ではない。

美濃攻略後,加わったのが,

生駒親正,加藤光泰,仙石秀久,竹中半兵衛といった美濃衆,である。同時にこの時期,秀吉は,幼若より身近に使えさせて,ひとかどの武将になっていくものを,育てようとしている。

第一世代が,神子田正治,尾藤知宣,戸田勝隆,宮田光次,

である。その後,第二世代に,福島正則,加藤清正,加藤嘉明ら,いわゆる賤ヶ岳の七本槍が登場する。

浅井長政を倒した後,秀吉は,初めて,北近江三郡の一国一城の主となる。そこで,浅井旧臣を取り込んで,急増していく。例えば,こんなふうだ。

一門衆 羽柴秀長,羽柴於次秀勝,杉原家次,浅野長政,木下家定,三好吉房
近江衆 宮部継潤,脇坂安治,寺沢広政,田中吉政,増田長盛,石田正継,石田三成,大谷吉継,片桐且元,中村一氏
尾張衆 蜂須賀正勝,前野長康,山内一豊,堀尾吉晴,桑山重晴,加藤清正,福島正則,加藤嘉明
美濃衆 竹中半兵衛,生駒親正,加藤光泰,仙石秀久,坪内利定,石川光政,佐藤秀方
播磨・摂津衆 黒田官兵衛,明石則実,別所重宗,小西行長,
腰母衣衆 古田重則,佐藤直清
黄母衣衆 尾藤知宣,神子田正治,大塩正貞,一柳直末,中西守之,一柳弥三右衛門,小野木重勝
大母衣衆 戸田勝隆,宮田光次,津田信任

初めて官兵衛が出てくる。中国攻めにおいて,官兵衛が活躍したことは間違いないが,本能寺の変後の大返し,賤ヶ岳の合戦では,『黒田家譜』や『太閤記』を除くと,官兵衛の活躍ははっきりしない。

歴史史料上は,秀吉が,秀長宛てに出した書状に,

砦周辺の小屋の撤去を,官兵衛や前野長康,木下定重に命じるように指示している,

というところがある。一方,三成は,近江衆の一員として,吏僚として活躍している。著者は言う。

賤ヶ岳の戦いにおける秀吉軍の勝利の背景には,陣城や防衛網の構築と,超スピードの大返しが大きな要因であった。情報の収集・分析能力,全体のプランニング,用意周到な準備と遂行能力が勝敗を決したという点では,賤ヶ岳の戦いは,高松城の攻城戦や中国大返しと同様の新しい合戦と言える。そして,それらを準備し実行したのが,三成や大谷吉継,増田長盛ら,近江衆を中心とした吏僚たちであり,中国戦線で鍛えられたかれらは,秀吉軍に不可欠な存在となっていたのだ。賤ヶ岳の戦いではどうやら帷幄の中心には官兵衛ではなく,三成がいたようなのである。

と。戦いの中心を,動員から,兵站までの全体像を描いたとき,重要なのは,後方活動や机上の仕事を受け持つ吏僚の役割であり,兵站の確保が大切になる。

敵軍を圧倒するために,秀吉軍の動員兵力は合戦を経るごとに,加速度的に増大していく。三木城・鳥取城・高松城の攻城戦では,2万~2万5000人だったのが,賤ヶ岳の戦いでは5万人,小牧・長久手の戦いでは7万人,四国攻めや越中攻めでは10万人,九州攻めや小田原攻めでは,20万人,文禄・慶長の役では30万人が動員されている。
兵数が増大するほど,兵站が難しくなるのは言うまでもない。兵站を担ったのは,一貫して吏僚派奉行であり,

三成・吉継が中心をになった。合戦の場で,吏僚の存在感が増して言った,と著者は想像する。このあたりに,武断派と文治派の対立の根を,著者は見ている。

そして,著者はこう最後で締めくくっている。

秀吉家臣団は,秀吉が一代で築きあげたものである。しかもその主なファクターは,信長の与力,新しい領地での在地武将,旧信長家臣,外様大名といった外部から加わった新戦力であった。彼らの忠誠は強烈なカリスマ性をもつ「秀吉」個人に向かっていたのであり,それが「豊臣家」への忠義となるには,時間が足りなかった。

要は,秀吉の個性によって,つないできた統一のタガは,彼の死によって,信長が急死ししたとき,秀吉がそうしたように,次の天下取りに近いものへと,靡いていくのは,当たり前といえば当たり前だ。

それが徳川家康であったということだ。

家臣団全体を俯瞰してみるとき,大友宗麟が国元に送った手紙に,

内々の儀は宗易(千利休),公儀の事は宰相(秀長)

と言われており,政権内の実権は,この二人と,各大名との取次と呼ばれた役職との二重構造になっていて,取次として上杉,佐竹など有力大名との折衝を担ったのは,三成であった。

その意味で,中国戦線,九州攻め以降は,実質官兵衛は蚊帳の外にいたとみた方がいいようなのである。

家臣団肥大の中で,吏僚が政権内で力をつけていくのは,どの武家政権でもある。それが制度として政権維持にまで高度化される前に,秀吉の死去で,政権は瓦解していく。その中に官兵衛を置いてみたほうが,官兵衛が徳川へとシフトしていく理由も背景もよく見える。

泥鰌本の官兵衛ものに欠けている,家臣団の中での俯瞰とその位置づけは,ものをみるときの鉄則のように思えてならない。



参考文献;
滝沢弘康『秀吉家臣団の内幕』(ソフトバンク新書)

今日のアイデア;
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2013年12月28日

ラマルク説



杉晴夫『人類はなぜ短期間で進化できたのか』を読む。

サブタイトルに,「ラマルク説」で読み解く,とある。本書のベースは,ラマルク説なのである。

本書は,

入門書としては類例のない,人類の進化だけでなく,人類の進化の延長として捉えた人類文明社会の進化を考察するところまでを扱っている。その意図を,はじめにで,こんなエピソードを紹介して,説明している。

1981年にアフリカ大陸南部で,何億年も前に絶滅したと思われていた原始的な魚類シーラカンスが初めて生きた状態で発見され,大きな話題となった。当時,末広恭雄東京大学教授が,生きたシーラカンスの標本を入手する探検隊を組織したとき,「なぜこんなことをやるんですか」との新聞記者の質問に対して「われわれ自身を知りたいからです」と答え,われわれ人類の進化のルーツを生物学的にたどることの意義を強調した。
この考えがただしいなら,原始人類が家族,社会を形成していった跡をたどり,現代の人類の文明社会の成立につなげて考察する本があってもよいであろう。

で,ラマルク説である。ラマルクの

用不用説は,動物が一代で発達させた器官がその子孫に伝わること,つまり獲得形質の遺伝を前提としている。進化論の入門書によると,このラマルクの考えは,ワイスマンという学者の研究によって否定されたことになっている。しかしこの実験は,マウスの尾を20代以上にわたって切り続けても,尾の短いマウスはうまれてこなかったという無意味極まるものであった。
尾を切るという所業は単に動物に被害を加えるのみで,動物が環境に適応しようとする努力による器官の用,不用とは何の関係もない,

と切り捨てる。そして,ラマルク説は,誤解されているという。

ラマルクという人は,人(動物)が一代で獲得した能力がその子孫に伝わると主張しました。つまり英会話の得意な人の子は,はじめから英語がしゃべれるというのです。何とばかばかしい説でしょう。

と紹介されている現状に対して,改めて,ラマルクの説を,こう説明する。

ラマルクは,進化は生体に内在する力によって起こる,

と考える。それは,

(1)循環系における血液,体液の運動と,
(2)神経系における電気信号の伝わり,である。これらの働きによって,環境に対する適応力の増大,

つまり合目的性と,単純なものから複雑なものへの変化が徐々に起こるとする。

それに,現代の知見を加えて補足すると,

(1)は,身体の内分泌系のホルモンなどの働きを指しており,
(2)は環境の変化を感知する感覚神経,身体運動を起こす運動神経,体内の器官の活動を支配する自律神経の働きが含まれる。これらの神経系の働きや内分泌系の活動は大脳の脳幹部で統御されている。さらに子孫に遺伝子を伝える男女の生殖腺における精子,卵子の形成は内分泌系のホルモンによって調節されている,

と。だから,

ラマルクが洞察したように,生体がその生存を賭けて周囲の環境に適応しようとする結果が,神経系から内分泌系に伝わり,更に内分泌系から生殖腺における精子,卵子の核酸の遺伝子や卵細胞の細胞質に影響を与えている,

と。そして,進化論と対比して,こう言う。

ダーウィンの進化論の中核をなす自然淘汰は,その当否の検証に地質学的時間を要するので原理的に検証不能である…のに対して,ラマルクの生体に内在する力,つまり現代の言葉でいえば生体の神経系,内分泌系,生殖腺の環境に適応しようとする働きは,現在は困難としても,理論的には将来,検証が可能,

である,と。さらに,

ダーウィンの進化論とラマルクの進化論の違いは,前者が進化の原因をもっぱら自然の選択に帰するのに対して,後者は生体に内在する力を仮定することである。しかしダーウィンの進化論も,生存に適した形質が子孫に伝わるとする以上,ラマルクと同様に獲得形質を仮定せざるをえない,

という。たとえば,

地中生活をするモグラや暗黒生活をする洞穴の生物などの眼が退化して消失する現象は,ラマルクの用不用説では使用しない器官は退化すると明快に説明される。しかしダーウィンの自然淘汰説では,そもそも生存に有利な形質のみを考え,器官の退化の説明は考慮されていない。ダーウィンはこの現象を自然淘汰で説明できないことを大変気に病んでいたという。

つまり,ダーウィンの進化論は,実質破綻していた。では,なぜ生き延びたのか。それは,

メンデルによる遺伝子の法則の大発見と,これに続く遺伝子の突然変異の発見,

による。しかし,

実はこの時点で,ダーウィンの考えた生物形質の変異は,現在では単なる形質の個体差による彷徨変位と呼ばれる現象で,遺伝しないことがわかっている。したがって形質の変異を獲得形質の遺伝と考えたダーウィンの説は実質的に滅びていたのであり,彼の名が消えても不思議ではなかった。

その後,遺伝子の突然変異を進化と考える研究者よって,ネオ・ダーウィニズムとして引き継がれているのが,現状ということになる。

しかしその進化論では,なぜ生物は下等なものから高等なものへと変化していったのかという定方向性進化が説明できない。遺伝子のランダムな突然変異では,有利不利は半々であり,

ひたすら「気の遠くなるような長い年月」をかければ,アメーバ―が進化して人類になる,と単純に考えているのだろうか,

と疑問を呈する。そして,ほとんどの説明が,用不用のラマルクを使って説明していると,随所で例を挙げている。たとえば,人類の祖先が樹上生活を選んだことは,

後の人類の発展にとって根本的に重要であった。樹上を棲息域とすれば,当時としては身体が小さく,牙や角のような武器もなく無力であったものが,外敵に襲われる機会も少なくなる。したがって平地で暮らしているウマのように外敵の襲撃から遁れるために蹄を進化させる必要もなく,ウシやゾウのように角で武装する必要もなく,……これが霊長類が他の動物に比べて特殊化の度合いが少なかった理由である。生物の進化を調べると,いったん特殊化した動物はもはや元の状態に戻ることはできない。

と説明する。こういう説明の仕方,つまり,

原因が結果を生む因果律が働いて起こる歴史的事実を,遺伝子という志向性をもたない物質に怒る突然変異の積み重ねで説明できるとは思われない。ネオ・ダーウィニズムは人類の進化に対し,納得のいく説明を与えられないと考える。現に人類進化の歴史を解説する人々は,皆筆者と同様な説明をしている。つまり,無意識のうちに「生体に内在する力」すなわち神経系などの働きを考えるラマルキニズムの説明を行っている,

のである。あるいは,野生のオオカミから犬(シェパードからチワワまで)への変化は,ネオ・ダーウィニズムの突然変異では説明できない。個々の遺伝子のランダムな突然変異の確率からは,オオカミからチワワへの変化には,数億年がかかる。しかし,

人類がイヌなどの家畜を飼育しはじめたのは,現在から約一万年前に過ぎない。

ここでも,動物の進化におけるラマルクの先見性が見える,と著者は言う。

また,たとえば,人類の基本的特徴は,直立二足歩行,大きな脳容積,歯の退化,であるとされるが,

この人類化石の判定法すべてが,ラマルク流の考えによるものである,

と著者は言う。

こうみてくると,結局,突然変異説も,自然淘汰説も,用不用説も,未だ同列の仮説なのだ,ということを改めて再確認し,頭に刷り込まれる理論でモノを見ることの危うさを点検するには,ある意味格好の本なのかもしれない。

ところで,印象深いのは,上記人類化石の特徴である,直立二足歩行,歯の退化を具えたのは,アウストラピテクス(猿人。現在は440万年前とされるアルディピテクス・ラミダスが最古の霊長類)が長く,霊長類の最古とされてきたが,この時代から,仲間同士の殺人がなされている。

この殺人は人類が原人からホモ属に進化するとますます頻繁に,しかも大量になってくる。人類学者のバイネルトは,「霊長類の化石に殺された痕跡があれば,それはサルではなく,人類と断定してよい」とまで言い切っている,

という。

今も続く,地球上で,ホモ・サピエンスのみが,仲間同士の殺し合いをしているのである。憂鬱になる記述である。


参考文献;
杉晴夫『人類はなぜ短期間で進化できたのか』(平凡社新書)

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2013年12月29日

王統



水谷千秋『継体天皇と朝鮮半島の謎』を読む。

武烈天皇崩御の後,王位継承者が絶え,応神天皇から数えて五代目に当たる,越前三国に住む,普通なら天皇になれそうもない遠い傍系の王族が,五十七歳で,それまでの王統の血が絶えて,白羽の矢が立った。父も祖父も曾祖父も天皇ではない。

大和から越前まで派遣された使者は,一目見てこの人こそ天皇にふさわしい,

と感じたというが,即位して二十年間,大和盆地の外に都を置き続け,大和の磐余玉穂宮を都としたのは,亡くなる前五年から八年とされている。

それだけに,

実は王統の血は断絶しているのではないか,実は応神天皇五世孫などではなく,近江か越前の地方豪族で,王位を簒奪したのではないか,

等々と謎の大王とされている。

著者は,記紀と考古学の成果から,

地方に土着した傍系王族,

の一人と見る。たとえば,

播磨に土着した顕宗・仁賢兄弟は,履中天皇の孫,

継体の前に王位継承者候補となった倭彦王は,丹波にいた,

等々の例を挙げ,後年のような臣籍降下という制度がない時代には,どんな傍系でも王と名乗り,地方に土着していた,とする。継体は,そういう一人ということだ。

しかしほとんど晩年にいたるまで,大和に入れず,樟葉宮(枚方市),筒城宮(田辺市),弟国宮(長岡京市)と,大和盆地の外縁を転々としていく。

継体支援勢力は,大伴氏,物部氏,和邇氏等々だが,この豪族たちの本拠地は,大和盆地の東側であり,西側,つまり葛城氏の支配地域に,なかなか入れなかった,と著者は見ている。

ただ,継体天皇の背景に,渡来人が深くかかわっている,と著者は見る。その一例として,和歌山県の隅田八幡宮の人物画鏡の銘文に,

癸未年八月曰十大王年男(孚)弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人尊所白上同二百桿所此竟

とあり,

曰十(おそ)大王の年,男(孚)弟(おふと)王,意柴沙加(おしさかの)宮にいますとき,斯麻,長く奉(つか)えんと念(おも)い,開中費直(かいちゅうのあたえ),穢人今州利(えひといますり)の二人の尊を遣わして白(もう)すところなり。同二百桿を上め,此の竟(かがみ)を作るところなり,

と読める。503年,継体の即位する四年前,斯麻王則百済の武寧王が,意柴沙加宮(忍坂宮)にいたとき,この鏡を送ったと解釈されている。

そのつながりは,武寧王の棺は,日本にしか生息しない高野槇でつくられていたことからも,知れる。しかも,訃報をきいてから送ったのでは間に合わない。生前から,調達する手はずが整っていたのではないか,と見られている。

五経博士の倭国への派遣,

百済の軍事的応援,

等々,継体期の百済との深い関係を考えると,渡来人を介した,深い関係が推測されるのは間違いない。

しかし,この継体天皇即位の経緯を見ると,邪馬台国の卑弥呼の死後,国が乱れた後,宗女壹與(台与)を立てて修めたことを思い出す。倭人伝に言う。

卑弥呼の死後,男の王が立つが,国が混乱し互いに誅殺しあい千人余が死んだ。
卑弥呼の宗女「壹與」を13歳で王に立てると国中が遂に鎮定した。

と。つくづく,邪馬台国,倭国,ヤマトと,つづく王権の流れが,シャーマニズムというか,宗教的権威というか,血統というシンボルというか,がないと収まらないらしいことを,思い知らされる。

ただの馬の骨が天下を制しても誰もついて行かない,というか,いつも自分たちのオーソライズに利用することをし続けてきた,ということなのかもしれない。

いまもそれは続いている。

横井小楠の,

人君なんすれぞ天職なる
天に代わりて百姓を治ればなり
天徳の人に非らざるよりは
何を以って天命に愜(かなわ)ん
堯の舜を巽(えら)ぶ所以
是れ真に大聖たり
迂儒此の理に暗く
之を以って聖人病めりとなす
嗟乎血統論
是れ豈天理に順ならんや

という詩がいまも意味があるのはそのせいだろう。いつになったら,この呪縛から解かれるのか,あるいは,永遠に続くのか,気になるところだ。




参考文献;
水谷千秋『継体堪能と朝鮮半島の謎』(文春新書)

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2014年01月09日

いのち



清水博『〈いのち〉の普遍学』を読む。

本書は,

仏教と科学の視点から「〈いのち〉を問う」ことを目的にして,竹村牧男さんと私の間で…始まった往復書簡が,本多弘之さん,竹内整一さんと,対論の相手を変えて引き継がれ

たものを中心において,第一部で,「〈いのち〉の科学」,第三部「〈いのち〉の普遍学からの構想」を配置して,

〈いのち〉の居場所としての地球の危機を考える…共通の精神が…貫いて流れている…

ものとなっている。

著者は,「はじめに」で,こう書く,

往復書簡の主題が「〈いのち〉への問い」であるように,人間が生きていくことは,「未来に向かって問いかけ」,そしてその答えを自分なりに見つけては,また「問いかけていく」ことの繰り返しであり,答えはすでに問いかけのうちに隠れているのです。
したがって生きていくために必要なことは,「正解」を探すことではなく,自分を包んでいる新しい状況に対する問いかけ方を知ることです,

と。そして,これから必要なのは,自分一人を主役として際立たせることに生きがいを求めることではなく,

皆が主役となって役割を分担しながら共に生きていく「生活共創」の時代,

だとも。それには,

多くの人びとがそれぞれの貴重な〈いのち〉を与贈し,共に主役となって,時代を越えて愛されるものごとを,ドラマの共演のように一緒につくり出していく創造的な活動です,

とも。

ところで,〈いのち〉という表現について,なぜ生命ではなく,〈いのち〉なのか。

〈いのち〉とは,それ自身を継続していくように地球の上ではたらいている能動的な活き(はたらき)のことです。

だから,

生きものをモノという面から捉えるために使われてきた「生命」という概念だけでは不十分であり,現実に不足しているコト(関係性)の面からも生きものを具体的に捉える方法が必要,

として,〈いのち〉という概念を使う,という。これは,

日本人が昔から使ってきた「命」に近いのではないか,

と。そして,〈いのち〉を語るとき,生きものが生きている居場所抜きでは語れない。

生きものの〈いのち〉とそこに生きている生きものとは,たんなる全体と部分以上の関係にあります。またそればかりではなく,生きものの〈いのち〉が存在している場所でなければ,居場所とは言いません。その意味から,居場所には居場所としての〈いのち〉があります。その〈いのち〉は,生きものの〈いのち〉を加えあわせたものではなく,居場所に広がって遍在する「全体的な〈いのち〉」です。さらに居場所から取り出した生きものの性質は,居場所にあるときの性質とは一般的に全く異なってしまいます。

この関係を,こう説明します。

居場所の部分である生きものたちの内部には,それぞれ居場所全体の〈いのち〉の活き…を映す活き「コペルニクスの鏡」(と仮称します)があり…,その「コペルニクスの鏡」に映っている全体の〈いのち〉の活きが個々の生きものの性質を内部から変える…,

として,人間の身体と約60兆個の細胞との関係で例示します。

人間の身体は…約60兆個と言われる非常に多くの多様な細胞たちの居場所です。また,それらの細胞は,それぞれの〈いのち〉をもって自律的にいきています。その身体が一つの生命体として統一された活きをもっているのは,細胞たちがそれぞれ共存在原理にしたがって共創的な活動をしているからですが,…人間の身体の〈いのち〉という全体とこれらの細胞たちの〈いのち〉という部分を,全体と部分に分離することなく,一つのものとしてつないで「生きていく複雑系」としている活きがあるから,

その統一性が生まれてくる。この全体と部分がわけられないことを,

居場所の〈いのち〉の二重性

と著者は呼びます。つまり,

その居場所の〈いのち〉の活きと,その居場所で生活している生きものの〈いのち〉の活きを機械的に全体と個に分けることは原理的にてきません。(中略)生きものの〈いのち〉が居場所の〈いのち〉に包まれると,生きもののうちにある「コペルニクスの鏡」がその居場所の〈いのち〉の活きを映し,居場所の「逆さ鏡」が生きものの〈いのち〉の活きを映して,互いに他に整合的になるように変わる〈いのち〉のつながりが居場所と生きものの間に生まれるからです,

と。それを量子力学の粒子と場になぞらえ,

粒としての〈いのち〉と場としての〈いのち〉,

あるいは,

局在的な存在の形と遍在的な存在の形,

と,その二重性を表現しています。それをサッカーを例に,こう説明しています。

場の〈いのち〉の活きであるチームの活きは,個々の粒としての〈いのち〉の活きである選手の活きを単純に足し合わせたものものではないということです。それは,居場所に場として広がった「一つに統合された活き」,すなわち一つの「全体的な〈いのち〉」の活きです。

こうして広がった場こそが,

居場所に広がった〈いのち〉の遍在的な形態,

なのだ,と。

考えてみれば,人は,さまざまな場で生きている。家庭であり,企業であり,地域社会であり,国家であり,…の中で,継続して生きていくためには,その場所が,

居場所,

にならなくてはならない。そのためには,

粒の〈いのち〉と場の〈いのち〉の活きが,互いに整合的になることが必要

なのだという。そして,

ある場所に場所的問題が存在するということは,自己の〈いのち〉をそこへ投入してみると,〈いのち〉の二重性の形をつくれないことがわかるということです。それは,その場所が自分の居場所にならないからです。したがって,自分の〈いのち〉が相互誘導合致の活きによつて〈いのち〉の二重性をつくることができたと感じることができるまで,―その場所が自分にとって居場所になったと感じることができるまで―場所の環境条件を変更したり,自分の〈いのち〉の活き方を変えたりする努力をしてみるのです。

そこに,自分のポジションと役割が見つかることで,自分がそこにいることで場そのものが動き変化していく,そういう場と自分の関係をつくっていく,ということは,一人ではできない。いじめを考えたとき,

個々の〈いのち〉と場の〈いのち〉,

だけではない,もうひとつ必要な気がする。そのヒントは,場所的世界を劇場に見立てた,「場の即興劇理論」にあるように思える。すなわち,

場としての舞台,

舞台上の役者,

見えない形で参加しいてる観客,

の三者のうち,観客ではないか,という気がしている。それを,西田幾多郎を借りて,

「どこまでも超越的なるとともにどこまでも内在的なる(存在)」としてしかとらえられない「他者」(=「絶対の他者),

であり,それは,自己の無意識の深層に存在している,と同時に,

それが自己(役者)が存在している場所的世界(劇場)を超えて自己が関係するどのようなる劇場をも大きく包む存在,

とも呼びます。それを,著者は,「観客の声なき声」とも呼ぶ。

観客を,こう説明すれば,イメージがわくはずです。

関係子(役者)は重層構造をした〈いのち〉の居場所(劇場)に存在して,そしてそれぞれの居場所で〈いのち〉のドラマを同時並行的に演じていると考えます。たとえば,一人の人間の場合,簡単に見ても,家庭と,企業と,地域社会と,日本と,アジアと,世界と,地球というように,重層的な居場所で同時に即興劇を演じるように生きています。役者がそのうちの一つの居場所における即興劇を意識しているときに,それより大きな居場所において進行している〈いのち〉のドラマの影響が即興劇の観客の活きに相当します。

役者と舞台が整合的になるのは,その居場所よりも。重層構造の上でより大きな居場所の相互誘導合致の活きから,対応して考える,ということなのだと言える。

それは,狭く限定した「島宇宙」だけで問題解決しないというふうに言いかえると,なんだかありふれてしまうか。しかし〈いのち〉は,その小さく限定した中だけで,自己完結してはいけない。またそういう視野で見ている限り土壺にはまる。

つまりより上位の視界の中で,その視野の中において見ることで,一見相互誘導合致の活きが損なわれているように見える〈いのち〉も,その活きが生き返る解決が見える,ということなのではないか。

とりあえず,そういう「問いかけ方」をすることで,その場で生きる道が見えてくる。居場所が未来からくる,とはそういうことではないか。

浄土が未来から呼びかけてくると,心から信受するところに,「正衆聚」が与えられる,そこで現生は安心して未来からのはたらきをいただく「いま」になる,という。そのことに通ずる,ような気がする。

それは,親鸞の「如来の回向」とつながり,清澤満之の「天命を安んじて,人事を尽くす」の意欲へとつながる,と思える。

参考文献;
清水博『〈いのち〉の普遍学』(春秋社)

今日のアイデア;
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2014年01月14日

異議



清水昭三『西郷と横山安武』を読む。

著者は,あとがきで書く。

対朝鮮とのかかわりの中で,今なお正視すべきはあの国是の如きかつての「征韓論」である。またこれを行動として実現してしまった「韓国併合」とその消えぬ波紋のことである。けれども,こうした日本人としてまことに恥ずべき思想や行動を可とせず,抗議の諌死を遂げた人物が,たった一人存在していたのは,なんという救いであったろう。その人物こそ草莽の士で,西郷隆盛と生き方としては対照の関係にあった横山安武である。彼はわが国最初の内閣総理大臣伊藤博文の初代文相森有礼の兄でもあった。
横山安武は,唯一,日本人の良識である。彼こそ幕末維新を生きた真の知識人だったのである。

いまもなお,薩摩藩士,横山安武の抗議の建白書は,現代日本をも鋭く刺し突く槍である。いまなお,嫌韓,ヘイトの対象にして,言われなく他国を侮蔑する者への,無言の刃である。

読めばわかるが,建白書は,維新政府そのものへの痛烈な批判になっている。五箇条の御誓文に反する,政府の施策,政治家の生きざまへの,真摯な怒りである。これもまた,今に通ずる。150年たっても,未だに,維新はなっていない。

五箇条の御誓文はいう,

広く会議を興おこし,万機公論に決すべし

上下心を一にして,盛に経綸を行ふべし

官武一庶民に至る迄,各の其の志を遂げ,人心をして倦ざらしめん事を要す

旧来の陋習を破り,天地の公道に基づくべし

知識を世界に求め,大おおいに皇基を振起すべし

と。

これと比較しながら読めば,彼が何に絶望していたかが,見えてくる。

では安武はどんな建白書を書いたのか。明治3年である。

方今一新の期,四方着目の時,府藩の大綱に依遵し,各々新たに徳政を敷くべきに,あにはからんや旧幕の悪弊,暗に新政に遷り,昨日非とせしもの,今日却って是となるに至る。細かにその目を挙げて言わんに,第一,輔相の大任を始め,侈糜驕奢,上,朝廷を暗誘し,下,飢餓を察せざるなり。
第二に,大小官員ども,外には虚飾を張り,内には名利を事とする,少なからず。
第三に,朝礼夕替,万民古儀を抱き,方に迷う。畢竟牽強付会,心を着実に用いざる故なり。
第四,道中人馬賃銭を増し,かつ五分の一の献金等,すべて人情情実を察せず,人心の帰不帰に拘わらず,刻薄の処置なり。
第五,直を尊ばずして,能者を尊び,廉恥,上に立たざる故に,日に軽薄の風に向かう。
第六,官のために人を求るに非ずして,人のために官を求む。故に毎局,己が任に心を尽くさず,職事を陳取,仕事の様に心得るものり。
第七,酒食の交わり勝ちて,義理上の交わり薄し。
第八,外国人に対し,条約の立方軽率なるより,物議沸騰を生ずること多し。
第九,黜陟の大典立たず,多くは愛憎を以て進退す。春日某(潜庵のこと)の如き,廉直の者は,反って私恨を以て冤罪に陥る数度なり。これ岩倉(具視)や徳大寺(実則)の意中に出ずと聞く。
第十,上下交々利を征りて国危うし。今日在朝の君子,公平正大の実これありたく存じ奉り候。

そして,別紙を添える。ここに安武の満腔の思いがある。全文を載せる。

朝鮮征伐の議,草莽の間,盛んに主張する由,畢竟,皇国の委糜不振を慷慨するの余,斯く憤慨論を発すと見えたり,然れ共兵を起すに名あり,議り,殊に海外に対し,一度名義を失するに至っては,大勝利を得るとも天下萬世の誹謗を免るべからず,兵法に己を知り彼を知ると言ふことあり,今朝鮮の事は姑らく我国の情実を察するに諸民は飢渇困窮に迫り,政令は鎖細の枝葉のみにて根本は今に不定,何事も名目虚飾のみにて実効の立所甚だ薄く,一新とは口に称すれど,一新の徳化は毫も見えず,萬民汲々として隠に土崩の兆しあり,若し我国勢,充実盛大ならば区々の朝鮮豈能く非礼を我に加へんや慮此に出でず,只朝鮮を小国と見侮り,妄りに無名の師を興し,萬一蹉跌あらば,天下億兆何と言わん,蝦夷の開拓さへも土民の怨みを受くること多し。
且朝鮮近年屡々外国と接戦し,顧る兵事に慣るると聞く,然らば文禄の時勢とは同日の論にあらず,秀吉の威力を以てすら尚数年の力を費やす,今佐田某(白茅のこと)輩所言の如き,朝鮮を掌中に運さんとす,欺己,欺人,国事を以て戯とするは,此等の言を言ふなるべし,今日の急務は,先づ,綱紀を建て政令を一にし,信を天下に示し,万民を安堵せしむるにあり,姑く蕭墻以外の変を図るべし,豈朝鮮の罪を問ふ暇あらんや。

震災の復興,福島のコントロールがいまだしなのに,と考えると,そのまま今日に当てはまる。

信を天下に示し,万民を安堵せしむるにあり,姑く蕭墻以外の変を図るべし,豈朝鮮の罪を問ふ暇あらんや,

は,今のわれわれを突く刃である。

ふと思い出したが,マザー・テレサの講演を聞いて感動した日本の女子大生が,マザーに「私もインドに行き貧しい人の為に働きたい」と伝えたそうです。マザー・テレサの返事は,「日本にも貧しい人,苦しんでいる人はいます。目の前で苦しんでいる人を助けてあげてください」というエピソードが,胸に迫る。隗より始めよ,である。

明治5年,西郷隆盛は,安武の碑文を書いた。

朝廷の百官遊蕩驕奢して事を誤る者多し。時論囂囂たり。安武乃ち慨然として自ら奮って謂う。王家衰頽の機此に兆す。臣子為る者,千思万慮以て之を救わざるべからず。然して尋常諌疏百口之を陳ずと雖も,力矯正する能わざれば,則ち寸益無きのみ。一死以て之を諌めんに如かず,

しかし,淡々としたのこ文は,他人ごとに見える。西郷は当事者であったにもかかわらず,である。

その西郷隆盛自身が,翌年征韓論に敗れ,7年後城山で自害するのは,皮肉である。

それにしても,いつから,義を重んじなくなったのか。義を見てせざるが士なら,義を失ったものに,士という言を使うこと自体がおこがましい。横井小楠の理想はどこに消えたのか。

堯舜孔子の道を明らかにし,
西洋器械の術を尽くさば,
なんぞ富国に止まらん,
なんぞ強兵に止まらん,
大義を四海に布かんのみ,

といった気概と希望が満ち満ちている横井の夢を泥まみれにして,大義なき国に貶め,他国を塗炭の苦しみに陥れても,少しも惻隠の情すらなく,他国を侮って悔いなきものどもの国にしてしまい,またしつつある,この国に,

どんな,「天地の公道」があるのか。

どんな,振起すべき「皇基」があるのか。

今上天皇の心に,少なくとも,それがあることが,わずかな救いでしかないとは,情けなく,恥ずかしい。




参考文献;
清水昭三『西郷と横山安武』(彩流社)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#横山安武
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2014年01月15日

芸術の脳



酒井邦嘉編『芸術を創る脳』を読む。

編者の酒井邦嘉氏については,『言語の脳科学』について,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11237688.html

で触れたことがある。言語脳科学の専門家である。その著者が,本書の意図を,

ふたつの意図を込めた。それは,芸術家一人一人が持つ独自の頭脳」と「芸術を生み出す人間一般の脳機能」を明らかにすること,

と述べる。そのための手法として,各分野で活躍中の,

曽我大介(指揮者,作曲家)
羽生善治(棋士)
前田知洋(クロースアップ・マジシャン)
千住博(日本画家)

との対談という方法を取り,

芸術を創っていく過程や創造的能力の秘密

を探ろうとしている。それを,

人間が芸術を生み出す能力は,より基本的な言語能力と密接に関係していると思われる。そこで,芸術に関する興味深い問題を,私の専門である「言語脳科学」を手がかりに考えることにした,

というわけである。是非の判断は,読んでいただくほかないが, 読んでみての私的印象では,

ひとつは,言語の専門家である小説家あるいは詩人が対象にいないこと,
いまひとつは,どうしても対談の散漫さ(会話は受け手に左右される)を免れず,掘り下げは不十分であること,

二つの憾みを残す。それと,ないものねだりかもしれないが,たった一人を相手にした方がよかったという印象をぬぐえない。

ただ,「言語を芸術と置き換えても整合性が取れる」と,上記の『言語の脳科学』について,千住氏が言及していることと,「言語は人間の言語機能を基礎にする」という著者の仮説からいうと,あえて文学者を設定する必要はなかった,ということかもしれないが。

さて,対談者ごとに共通項を拾い上げていくのは,素人には手に余るので,各対談者について,ちょっと引っかかったところを取り上げて,読んでみたいと思ってもらえれば「よし」としたい。

「(間宮芳生先生から伺ったところでは)作曲中にインスピレーションが沸きだしてくる瞬間というのがあって,その瞬間はあらゆることが理路整然と素晴らしく順序立てて頭の中に湧き出してくるそれが止まらなくなって書き続けるのです。それなのに,例えば,ベートーヴェンの時代だったら,女中が「だんな様,ご飯ができましたよ!」とやってくる。そうすると集中力がプチッと途切れてしまいます。(中略)その瞬間に途切れてしまったものを,後からつなぎ合わせる必要が出てきます。そのつなぎ目がどの作品にもあるというのです。
そのとき私はよくわからなかったのですが,いざ自分が作曲をするようになったら,その意味がとてもよくわかるようになりました。そうしたら,ほとんどの曲に継ぎ目がみえてくるわけで,そこに何らかの無理が残っているのです。」(曽我大介)

これは,ある意味,意識の流れを言語化(コード化)しているまさにその瞬間のことに他ならない。言語は,意識の1/20から1/30のスピードしかない。その集中している最中に途切れると,意識の流れは,遠ざかり,消えてしまう。後からは再現不能の,瞬間の,今しかない。そのことは,拙い経験でもわかる。思っていることを言語化しようとしている時に,他に気を取られると,その思いの方が消えて行く。

「将棋でもたくさんの手が読める,よく考えて計算できるという能力はもちろん大事なのですが,もっと大切なことがあります。それは,『この手はダメだ』と瞬間的にわかることです。(中略)プロ棋士は,アマチュアの高段者より10倍も100倍もたくさんの手が読めるわけではなくて,読んでいる手の数はほとんど同じくらいでしょう。それでも,バッと見たときに選んでいる手がたぶん違う。」(羽生善治)

その能力は,目利きだが,それは理屈ではない。たぶん手続き記憶による。10歳くらいまでに「体内時計」のように体に組み込まれた,将棋のセンスのようなものらしい。だからといって英才教育が成功するとは限らない。「好き」で「面白い」「やりたい」が必要なのかもしれない。

棋士は,対戦した全体を再現できるが,それについて,羽生さんは,こう言っている。

「それは歌や音楽を覚えるのとまったく同じでしょう。最初の数小節を聞いたら,誰の歌かとか何の音楽家がわかるのと同じで,将棋も慣れてくると『あっ,この局面は矢倉の一つの展開だな』とか,「これは振り飛車の将棋だな」とわかってきますよ。
音楽でも一つ一つの音符をバラバラに覚えているわけではなく,メロディーやリズムのまとまりを聴いて認識しますね。それと同じで,ひとつひとつの駒の配置を覚えているのではなくて,駒組みのまとまった形や指し手の連続性から捉えているのです。」

これって,どこかの研修で教わった,記憶術と似ている。つながりに意味があれば,全体の時系列が一気に蘇る。

「マジックを創作するときに,…複雑怪奇なものになってしまうことがあります。でも明確な言語化できない限りは,たとえ自分がとても気に入ったものであっても,あまり良いマジックではない。(中略)第二に,私にとってマジックとは『対話(ダイアローグ)』です。マジックの台詞を考えるとき,お客さんとキャッチボールするように構成していきます。…私はこのようなスタイルを『呼吸型』と呼んでいます。」(前田知洋)

だからこそ,前田さんは,ロベール・ウーダンを引いて,「人はただ騙されたいのではなく,紳士に騙されたいと思っている」と,言う。そしてこんな逸話を紹介する。

二人の絵描きが腕を競う話です。…それぞれの絵が宮殿に持ち込まれます。一人目がキャンバスを覆う布を取ると,見事な葡萄が描かれてましたすると,窓から鳥が入って来て,その絵の葡萄をつたのです。その絵を描いた画家は意気揚々として,「どうだ,鳥の目も騙すような葡萄を描いた自分は,この国一番の絵描きだ」と言って,もう一人の絵描きに「どんな絵を描いたのか,その布を取って見せろ」と迫りました。迫れた絵描きは何もしようとしません。その絵は,なんとキャンバスを覆う布を描いたものだったのです。「動物を騙す絵描き」と「絵描きさえも騙す絵描きという発想がおもろいでしょう。

落語の「抜け雀」を思わせるエピソードだ。もちろん,前田氏は,内輪受けのあざとさを自覚したうえで,あえて紹介している。マジシャンの矜持と受け止めていい。

「芸術は,何も人がびっくりするようなことではなくて,皆が忘れてしまっていること,忘れているけれども人々が必要とすることを提案できるかどうかで真価が問われるのです。」(千住博)

それを「切り口の独創性」と呼ぶ。そこが,その人とのオリジナルなものの見方だからだ。あるいは,認知の仕方といってもいい。いわば,自分の方法を見つけるとは,ものごとへの切り込み方を見つけることだといっていい。それが,各主題ごとに様々に横展開していくことになる。だからこそ,

「実は芸術は,とても簡単なことをやっているのです。『私はこう思う。みなさん,どうですか』と問いかけているのです。」

と。だから答えではなく,「わからない」という感想もまた一つのメッセージなのだ。ということは,すべての生き方,がそこに反映する。いや反映しなくてはならない。

「私たち絵描きは,アトリエに入ったときには,もう勝負がついているのですよ。アトリエに入って,『さあ,何を描こうか』というのでは手遅れなのです。」

ジムで運動しているとき,散歩しているとき,食事しているとき,常住坐臥,すべてが準備と予習であり,すべてが,無駄ではない,

人生に無駄なし(大阿闍梨 酒井雄哉)

なのであり,

「人生そのものが製作のプロセスでもあって,毎日何を食べて,誰と話をして,どんな本を読むかということが大切なのです。」

美しい絵を描きたかったら,美しい人生を過ごせ,

ということに尽きる,と。自分の人生,生き方,が自分のリソースなのだということだ。

ところで,最後に,脳と芸術に関わるエピソードを二つ。

認知症の人と羽生さんが将棋を指したとき,盤面が理解できていた,という。そして,次の指し手をちゃんと考えていたのだ,という。

もうひとつ,認知症の人にマジックを見せたところ,健常者と変わらぬ反応を示した,という。

人間的な脳の高機能が保たれているのだ,という。僕は,ふと思い出したが,脳溢血で倒れた人が,意識しして笑うことはできなくなった。しかし,確かV.S.ラマチャンドランの本で読んだ記憶があるが,おかしい漫才のようなものを聞くと,自然に笑みがこぼれたのだ,というエピソードを。

人の脳の奥深さは,まだまだ分かっていない。失われた意識レベルの奥に,まだ知られぬ機能が生きているということらしい。

参考文献;
酒井邦嘉編『芸術を創る脳』(東京大学出版会)

今日のアイデア;
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2014年01月27日

絶滅


フレッド・グテル『人類が滅亡する6つのシナリオ』を読む。

正直言って,大変読みにくい。自分で,いくつかの学説を整理して,シミュレーションした世界を,それぞれについて描いてもらった方が,危機感は,イメージしやすい。正確を期すためか,個々の学者の考えをいくつも,フォローしていくために,肝心の危機が,伝わりにくいのが難点。よほど科学の個々の学説の違いに興味ある人以外は,ついていくのが大変だろうと感じる。

人類の滅亡と地球の滅亡とは別なので,本書はあくまで,地球が存続するが,人類が滅亡の危機に瀕するシナリオということになる。

著者は言う。

私は以前,プリンストン大学教授のスティーヴン・バカラに「カナダやアラスカ,シベリアの永久凍土が解け,地中に閉じ込められていたメタンや炭素が大気中に放出されたらどういうことになるか」と尋ねたことがある。彼の答えは「あらゆる種類の怪物が姿を現す」だった。
この本は,その「怪物」について書いた本だ。

切り口は,6つ。

スーパーウイルス
大量絶滅
気候変動
生態系
バイオテロ
コンピュータ(サイバーテロ)

これですべてかどうかはわからない。ただ,いずれも,人類に起因する。一番重要なのは,

気候変動,

と著者は言う。

そして,大量絶滅と気候変動と生態系は,リンクしている。そのキーワードは,

ティッピングポイント,

つまり,ゆっくりと予測可能な変化をしていたシステムが,突如急激な予測外の変化を始める時点のこと。たとえば,

すでに思い荷物を背負ったラクダは,ワラを一歩乗せただけで背骨が折れる,

という,その瞬間のことらしい。そして,その瞬間を過ぎてしまったら,

最早戻す方法は全くない,

というのである。まるで,経営や組織について言われる,湯でカエル現象,

カエルを熱湯に入れるとすぐに飛び出すが,冷たい水にいれて徐々に水温を上げていくと,温度の変化に気づかず,やがて暑い湯の中で死んでいく。緩やかな変化に気づかず,いつしか手遅れなることのたとえ,

そのもののようだ。しかも,地球規模の変化には,何十年,何百年,何千年とかかるはず,というのが常識だとすると,もっと短いという説がある。

恐竜の絶滅などの大きな出来事も,数日や数週間といった,…短い期間で起きていた可能性がある,

と。ティッピングポイントの目安は,氷河である。例えば,

グリーンランドには,もしすべて解けて海に放出されれば海水面を6メートル以上押し上げる,

(南極大陸の氷床がすべて解けると)海水面を約80メートル押し上げる,

と言われる。いまのままのペースで解けていくとすると,300年という。しかし,ティッピングポイントを超えたとすると,もはや取り返しがつかないのである。

24億年前,藻類が放出した大量の酸素によって,当時繁栄していた嫌気性バクテリアが一気に滅びた,

とされる。そして,

酸素濃度の変化自体はゆっくりと進行したのだが,状態移行は急激だったのではないか…。ブレーカーが落ちるのに似ている。酸素が少しずつ増えても,ある時点までは何も変化がないように見えるが,突然スイッチが入ったように様相が激変するのだ。

そのスピードが速すぎれば,変化に対応するいとまがない。いま,そのティッピングポイントに近づいていないという保証はない。では我々はどうすればいいのか。

ティッピングポイントへの到達を未然に察知し,防止できるようにする,

しかない,のである。それにしても,国家にもそれはある。いま,わが国は,その,

ティッピングポイント,

に差し掛かりつつある気がしてならない。これは,自分たちでコントロールできるはずなのだが…!

参考文献;
フレッド・グテル『人類が滅亡する6つのシナリオ』(河出書房新社)

今日のアイデア;
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2014年01月30日

原発



内藤克人『日本の原発,どこで間違えたか』を読む。

本書は,1984年刊の『日本エネルギー戦争の現場』その文庫版『原発への警鐘』(1986年)の部分復刻である。

ある意味安全神話という塗装メッキがすでに,30年も前に剥がされていたのである。

序で,著者はこう書く。

巨大複合災害に打たれてそのとき,私たちの社会はなおも「原発122基構想」(2030年時点の達成計画)へ向けて疾駆する途次にあったのである。

安倍政権は,その構想の復活を図っている,と言ってもいい。また中断した構想を継続しようとしている。

一度決定すると,容易に変更できない体質は,戦前と変わっていないと著者は言う。そう,もはや大鑑巨砲時代が終了したのがわかっていたのに,戦艦大和を作り続け,特攻としてしか使い道のないしろものでしかなかった。著者は,戦史研究家の,戦争突入についての,

意思決定が遅く,一度決定すると容易に変更できない。なんとなれば,変更にはまた(決定までと)同じプロセスを必要とするからだ。つまり状況の変化が万人の目に明らかになって,初めて決定を変更する…,

を引用するが,僕はそうは思わない。それは,そうすることで利益を得,得をするものがいる利権構造だからではないのか。万人の目に変化が明らかになっていても,その変化を見ず,再稼働,新規建設に邁進するのは,そういうこととしか思えない。

著者は,冒頭で,三点を指摘する。

第一は,「この国においては,人びとの未来を決める致命的な国家命題に関してさえも,『国民的合意』の形成に努めようとする試みも,政治的意思さえもほとんど見受けられることはなかった。国の存亡にかかわるエネルギー政策が,原発一辺倒に激しく傾斜していった過程をどれだけの国民が認知し同意していたであろうか」。
第二に,これまで原発一極傾斜大政を推し進めてきた原動力のひとつに,あくなき利益追求の経済構造が存在していたことだ。原発は建設は重電から造船,エレクトロニクス,鉄鋼,土木建築,セメント…ありとあらゆる産業にとって大きなビックチャンスであった。
第三に,これは著者の個人的感想にすぎないにしても,…ひとたび原発が立地した地域社会には特有の「暗さ」が感じられたことだ。そうした地域では原発が立地するまでは活発であった賛否の声は消え,地方議会においても反対派はほぼ淘汰の憂き目に逢っていた。地域の住民たちは雇用の機会を得たことの代償に,あるいは迷惑施設料(「電源三法交付金」)など「原発マネーフロー」の僅かな余恵と引き換えに,原発については「黙して語らない」を信条と強いているかのようであった。

原著の序で,著者はこう警告していた。

音もなく,臭いもなく,色もなく,そして何よりも,人の死に関してもたらされるものが“スローデス(緩やかな晩発性の死)”である。十年,二十年かけてゆっくりとやってくる。“見えざる死”にたいして,ひとは無防備で,弱い,

と。それはいま福島で,日々人体実験が行われつつある。

原発の絶対安全神話は,仮定で成り立っている。T65Dと呼ばれる推定値である(1986年に DS86に,2003年新しい線量推定方式としてDS02になっているが)。これは,広島長崎での被爆者の発病率から推定された暫定値だが,その十分の一以下でも人定に影響がある,という説が出ていたが,このT65Dが独り歩きをして権威性を帯びていく。ICRP(国際放射線防護委員会)勧告の年間5レムという数値は,この推定値から割り出されたものだ。これが間違っていれば,すべてが崩れる。いずれにしても,仮説にすぎない。仮説にすぎないものにすがって,安全が神話化されている。

マンクーゾ博士は,闇に葬られた「マンクーゾ報告」で,

原子力発電所で働く作業者の被爆線量は年間,0.1レム以下に抑えるべき,

と。実にICRPの50分の一と指摘していたのだ。彼は言う,

放射線被ばくというのは,時間をかけて徐々に表れてくるものです。(中略)二十年も三十年も結果が出るまで時間がかかるんです。

そしていう。

スローデスを招くんです。死は徐々にゆっくりやってくるんです,

と。そういえば,第五福竜丸に乗っていたマグロはガイガー計数管でも測れるほど高い放射能をもっていたのに,サンプルの海水は低い数値して示さなかった。

自然にある放射能と人口のそれとの違いは,生体内に蓄積されていく,ということなのだ。そして,その体内被曝は物理的には測れない。

つまり結果が異常となって体に現れるまでわからない,ということなのだ。しかも,それは,十年,二十年とかかる。

いま福島,だけではない,日本全体が生体実験の真っ最中なのだ。これだけの危機を,国民的な合意もないまま,招きながら,そして,いま福島第一原発で,正確に何が起きているかもわからないまま,汚染がまき散らし続けられ,再度原発を稼働させようとしている。

これはエネルギー問題ではない。国のあるいは,国民のあり方,将来にかかわる問題なのである,とつくづく思う。

参考文献;
内藤克人『日本の原発,どこで間違えたか』(朝日新聞出版)

今日のアイデア;
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2014年02月24日

向き合う


柴山哲也『日本はなぜ世界で認められないのか』を読む。

答は,ここにある,と思った。

著者は冒頭で書く,

…世界企業ランクと大学ランクの低迷ぶりを比較するだけで,日本の「失われた20年」の内容がはっきり見えるようだ。
日本はもう世界に冠たる経済大国でも技術大国でもない。下手をすると衰亡するに任せた国家ということになってしまいかねない。これこそ日本人の多くが直面せざるを得ない淋しい現実だということを,深く認識すべきなのである。

未だにモノづくり大国という。世界のどこへ行っても家電製品は,棚の隅に追いやられ,シェアは微々たるものになっている。そういう現実をきちんと見るところからしか未来はない。しかし,いまやられているのは,公共事業へのじゃぶじゃぶの税金の投入であり,円安誘導による企業の業績支援であり,武器三原則を放棄しての武器輸出である。それは,裏を返すと,日本は,重厚長大の,そんな武器にしか輸出の活路はないのか,ということなのかと疑いたくなる。

どうしてこんな体たらくになったのか。

著者は,さまざまな現実に向き合わず,糊塗してきた結果だと言いたいらしいのである。

福島の原発事故(ドイツでは汚染水漏れは事故と呼ばず原発スキャンダルと呼んでいるらしい)二度被曝した日本は,安全神話にすがったというが,実はそれだけではない。

…敗戦で植民地を失ったイタリア,ドイツが脱原発が進行した最大の理由は廃棄する処理場がないことだった。

と著者が指摘するように,小泉元総理の言う最終処分場がないままでは,原発は限界が来る,という現実を,政治家も,ジャーナリズムも,国民も,見ないふりをしてきた。本来,すでに行き詰っている,にもかかわらず,再稼働,新設へと舵を切ろうとしている。

米国第三代大統領のジェファーソンは,「新聞の批判の前に立つことのできない政府は崩壊しても仕方がない」といった。

しかし,日本では,沖縄密約事件もそうだが,新聞自体が,政府の矢面に立たない(立ちかけた毎日は,週刊新潮と世論によって倒産の憂き目にあった)。まして,政府は批判など,馬の面にションベン,解釈改憲で,人を戦場へ赴かせ,人を殺し,殺されるという状況を,実現しようとしている。そして,その事実に多くの国民は,目をそらしている。

すでに,津波前に地震で原発が破損していたという情報が出始めているが,かつて東電内部で,津波と原発への影響を分析し,国際会議に英文レポートとして報告されていたと言われる。それも,東電も政府も握りつぶしてきた。

著者は言う。

日本も民主主義を標榜しているのだから,たとえ政府や東電が嘘をつき間違ったことをしていても,メディアがしっかり監視していれば,国民へのダメージは最小限度に食い止めることができる…,

と。しかし日本のメディアは,記者クラブの囲い込みを出ない。記者クラブは,戦時下の,国家総動員法に基づいて
国家統合されたときにできた戦時体制の持続だ。いわば,大本営発表をそのまま報道する,というのに近い。いま,その悪癖から脱しているとは到底言えない。

著者は,自分の体験で,米国人も,中国人も,韓国人も,

いくら金持ちになっても,過去の罪から逃げている日本人を心の底のどこかで軽蔑している,

と。たとえば,

そうしないと,広島,長崎の被爆の歴史も相手にはなかなか通じなくなる。原爆投下は自業自得ではなかったか,という反論に出会っても,沈黙せざるを得なくなることがある。

真珠湾奇襲は,アメリカ人にとって,パールハーバー・シンドロームとして,何かあると,湧き上がってくる。9.11では,「第二のパールハーバー」と,ニュースキャスターが叫んだ。ことほど左様に,

普段の米国人は日本人に対して,…敵愾心は持っていない。…しかし自動車摩擦や経済摩擦がこじれたときや日本製品がアメリカ市場を席巻して米国の労働者の雇用などにつながったりすると,,米国のパールハーバー・シンドロームは突如,再燃する。

しかしわれわれ日本人は,ほとんど奇襲やパールハーバーでの戦死者のことを思い出しもしない。ただの手違い程度だと思っている。

本当にそうか。誰も真摯にそのことを突き止めようとはしてきていない。真珠湾奇襲についてさえ,これである,他は推して知るべしだ。

本当にそれでいいのか。著者は問う。

それにしても日本はなぜ大東亜戦争を始め,なぜあのような無残な敗北を喫するに至るまで戦争をストップさせることができなかったのだろうか。その根本を問うことが,今こそ必要になってきた。
実は,日本の戦争責任は連合国による東京裁判で裁かれてはいるが,日本自身の手によって総括したことはない。このことは,日本が国際的に認められない最大の原因になっている。

と指摘する。最近ドイツでは,収容所の看守が逮捕された,というニュースが流れた。90歳を超えている。その姿勢である。かたや,日本では,A級戦犯が首相になっいる。この違いは大きい。

90年代の「失われた十年」は,二十一世紀にはいると,「失われた二十年」へと延長され,2010年代になると,「失われた三十年」が取りざたされるようになった。

しかし,政府も企業も,非正規雇用を増やし,人件費削減にただ走り,結果として,人材を枯渇させ,あらたな事業開発が鈍化し,さらなるリストラに走り…と,ただ貧困を増幅しただけだ。

海外諸国の目に対して鈍感で,海外からの批判にも耳を傾けず,自画自賛をくり返し,内部改革を拒否し続けた日本が,近隣の中国や韓国に追い抜かれるのは,当然の帰結だった。

著者の言は,耳に痛いが,今の現状を直視する王道以外,失われた何年を克服する手立てはない。しかし,いま政府がやっているのは,過去踏襲の公共事業による景気浮揚であり,お札の増刷によるデフレ脱却だ。

そうやって生き残るのは,もはや競争力のない古い体質の企業だけだ。本来体質改善すべきこの機に,先延ばさせているだけだ。企業の自己革新と体質改善を促すには,今のように,企業を甘やかす円安政策は,逆効果でしかない。

結局,明治維新以来,一度も自主的に自己変革したことのない体質は,今回もまた続くのではないか。しかし,それは,国の衰亡しか意味しない。


参考文献;
柴山哲也『日本はなぜ世界で認められないのか』(平凡社新書)


今日のアイデア;
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2014年03月08日

真相


フリップ・シノン『ケネディ暗殺(上・下)』を読む。

サブタイトルに「ウォーレン委員会50年目の証言」とある。ウォーレン委員会の全委員(この中には,後のフォード大統領も含まれる),その下で,調査に当たった若い調査員(ほとんどが若いバリバリの弁護士)の,委員会での活動を追っている。そこで,何が明らかになり,意図したかどうかは別に,何が明らかにされないままに残ったかを,つぶさに追う。

そして,報告書発表後の陰謀説ただならない中で,明らかにされたこと,開封された秘密にも言及し,委員会のスタッフたちが,CIAとFBIに,意識的に妨げられ,調査の方向を歪められ,隠されてきた一つの真実に,著者は辿り着く。

著者は,『9・11委員会』の調査報告書が,なぜ真実にたどり着けなかったか,本来責任を負うべき人間が免責されたかを追い詰めた『委員会9・11委員会調査の本当の歴史』を出版しているが,本書は,まさに,「ウォーレン委員会の真実の歴史」を描いている。

誰が何を妨げたか,誰が,どう消極的だったのか,何か明らかにされ,何が隠されたのか,何百という人間に会い,ほかのどの作家にも見せられてない秘密扱いの文書や私信,法廷筆記録,写真,フィルム,そしてその他多くの各種の資料に目を通すことを許された。本書内の発現や引用はすべて,側注巻末のソースノートが詳細に示すように,出典が明示されている。

と言い,こう指摘している。

わたしの目にあきらかなのは,この50年間―実際には,アメリカ政府の上層部の役人たちが,暗殺と,それにいたる出来事について,嘘をついてきたということである―とくに,誰よりCIAの高官たちが。

と,だから,当時のフーヴァーの後任のFBI長官ケリーは,

もしFBIダラス支局があのとき,FBIとCIAの他の部署でわかっていたことを知っていたら,「疑いなくJFKは1963年11月22日にダラスで死んでいなかっただろう」

と,言っている。防げる程度の情報を持っていた。もっていたのに,防げなかったことも,隠蔽の動機になっている。

本書は,当時メキシコのアメリカ大使館にいた,外交官の,国務省のロジャーズ長官にあてた,オズワルドのメキシコ滞在期間での行状に関するメモ(1969年)から,始まる。そして,それを50年後,著者が確かめることで終わる。

そのメモは,重大な方向を示していたが,それを送られたCIAはそれを,「さらなる措置は必要ない」と,CIAの防諜活動の責任者アングルトンの署名付きで,国務省へ返答した。その時点なら,まだより真実に迫れた可能性があったにもかかわらず,である。

著者は,責任者のリストとして,次の人々を挙げる。

第一に,CIAの元長官である,リチャード・ヘルムズを挙げる。ウォーレン委員会に,カストロを標的とした暗殺計画(これに,ケネディ大統領も,弟のロバート・ケネディも関わっている)を話さないという決定を下した。そして,アングルトンとメキシコ支部の責任者スコットが,フーヴァーのウォーレン委員会への手紙,「オズワルドがメキシコシティーのキューバ大使館にずかずか入っていって,ケネディ大統領を殺すつもりだと断言したことを報告する手紙,を行方不明にさせた,と著者は推測している。

アングルトンが隠そうとしたのは,CIAメキシコ支部がオズワルドについて知っていたすべて,さらには,CIAが,暗殺の四年前にさかのぼって,オズワルドを非合法に監視していた(なぜオズワルドをターゲットにしたのかはわからいまま)こと等々がある。

第二に,FBI。FBIは,暗殺日の数時間から,オズワルドに共犯者がいたという発見につながりそうな証拠を追うことを,わざと避けていた。著者は推測する。

フーヴァー(FBI長官)にとって,暗殺を暴行歴のない不安定な若いはみだし者のせいにするほうが,FBIが防げたかもしれない大統領殺害の陰謀が存在した可能性を認めるより,楽だった。(中略)もしFBIが1963年11月にすでにそのファイルに存在していた情報にもとづいてただ行動していればケネディ大統領は死ななかっただろうと断言したのは,フーヴァー自身の後継者のクラレンス・ケリーだった。

暴行歴のないどころか,オズワルドは,七ヶ月前,退役将軍ウォーカーを狙撃し,ニクソンも狙撃すると,公言していた。さらに,ケネディ射殺後,逃亡中に,職務質問した巡査を,射殺している。

第三は,委員会のトップ,ウォーレン最高裁首席判事。ケネディ家との個人的関係から,委員会に,大統領の司法解剖の写真とエックス線写真を,再検討することを拒んだ。それは,

医学的証拠が今日も手のほどこしようがないほど混乱したままになることを保証した,

と,著者は言う。さらに,スタッフに,メキシコでつながる,シルビア・ドゥランの事情聴取をさせなかった不可解な命令も含まれる。

著者は,断言する。

もし…ケネディの司法解剖の写真とエックス線写真を再検討することをゆるされていたなら,医学的証拠と一発の銃弾説についての議論の多くはとうの昔に片が付いていたかもしれない。

第四は,ロバート・ケネディ。著者は,(ウォーレンより)

もっと大きな責任を負っている。

と言い,こう説明する。

ロバート・ケネディ以上に真実を要求すべき立場にいたものはいなかった(中略)。それなのに,ロバート・ケネディは,兄と自身の非業の死のあいだのほぼ五年間,ウォーレン委員会の答申を完全に支持しているとおおやけに主張し続け,そのあいだずっと家族と友人には委員会は勘違いをしていると確信しているといっていた。

ロバート・ジュニアは,その理由を,

兄の暗殺における陰謀の疑念をおおやけに生じさせることで,差し迫った国民的問題,とくに公民権運動から注意をそらすかもしれないと恐れていた,

と言う。

著者の辿り着いた真実は,

カストロ支持者だけでなくキューバの外交官もスパイも参加するダンスパーティにオズワルドが参加していたという事実だけだ。

しかしそこでは,おおっぴらに,

来客の一部が,誰かジョン・F・ケネディを暗殺してくれないか,

と口にしていたのだ。ケネディが必死で叩き潰そうとしていたキューバ革命の生き残りのために。

著者は言う。

事実は,われわれがパーティでオズワルドを見たということだ,

とその目撃者は,50年目に再度それを確認した。その大事な情報が,その当時,ウォーレン委員会に届くことはなかった。

ケネディ暗殺の陰謀説の一部は,とくに陰謀の法的定義を考えれば,それほど強引なものではない。それにはふたりの人間が悪事をたくらむことしか必要ではないからだ。ほかの人間がひとりでもオズワルドにケネディ暗殺を焚きつけていれば,定義上,陰謀は存在したことになる。

と著者の言うように,

使嗾の機会があったという事実は,大きい。

ところで,本書は,陰謀説の根拠となっているらしいことが,いかにいかがわしいデータから出ているか,を示している例がいくつか出ている。暗殺本で著名になったマーク・レインについても,レインからもらった電話で腹を立てた,地元新聞記者エインズワースがかけたいたずらが,大騒ぎになっていくエピソードを紹介している。

この記者は,現場にいて,三発の銃声と,その場にいた人が,教科書倉庫の上部を指差しているのを確認し,走り出して,警官射殺と逃げ込んだ映画館での逮捕を,そのとき目撃している。

著者は,ウォーレン委員会のスタッフたちの地道な,ひとつひとつ洗い出していく手際もきちんと紹介している。たとえば,オズワルドの収入と,支出を,きちんと洗い出している,オズワルドが遮蔽のために積み上げた段ボールについた指紋を特定する,オズワルドは,どこへ逃走しようとしていたのか。手にしていたバスの乗り継ぎ切符から何が推測されるか等々。

著者は,

わたしは委員会の当時若かったスタッフ法律家の大半には賞賛の念しかいだいていない。彼らは明らかに暗殺についての真実にたどりつこうと奮闘していた。

と付言している。

因みに,オリバー・ストーン監督,ケビン・コスナー主演の『JFK』のギャリソン検事を,上記の新聞記者エインズワースは,ギャリソンから電話を受けて,

イカれていると同時に,選挙でえらばれた高位の公務員が,ギャリソンが信じていると明言するばかばかしい話を信じられるという事実に不安を覚える,

と一蹴している。


参考文献;
フィリップ・シノン『ケネディ暗殺』(文藝春秋)



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2014年03月09日

奇襲


一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵』を読む。

本書は,

米陸軍軍事情報部が1942~1946年まで部内向けに毎月出していた戦訓広報誌に掲載された日本軍とその将兵,装備,士気に関する多数の解説記事などを使って,戦闘組織としての日本陸軍の姿や能力を明らかにしてゆく,

ものである。戦死者数については,

日本陸軍:戦死1,450,000、戦傷53,028
日本海軍:戦死437,934、戦傷13,342

アメリカ陸軍:戦死41,322、戦傷129,724
アメリカ海軍:戦死31,484、戦傷31,701
アメリカ海兵隊:戦死19,733、戦傷67,207

アメリカ軍の太平洋戦線での戦死は107,903、負傷171,898、その他(事故などで)死亡48,380

という数値がある。

日本兵の戦死者の六割が餓死とも言われる。病気になっても後送されることはなく,

戦争末期に至るまで,退却の際に味方重傷病者を捕虜とされぬよう殺害していた,

から,実際の戦闘で死んだ者は,もっと少ないかもしれない。しかしも後退を続ける戦線では,飛行機の特攻機だけではなく,陸戦でも,それと似た自殺攻撃が数々ある。たとえば,

木に縛り付けられた狙撃兵。

米兵はこう証言する。

日本軍が狙撃兵を木に縛り付けておくのは我が方の弾薬を浪費させるためだと思っている。(中略)三日経った日本兵の死体を木から切り降ろしたことがある。78発の弾痕があり…,

と。さらには,敵戦車に手を焼いて,

対戦車肉攻兵

を考え出す。その攻撃手順は,

①待ち伏せた一人が対戦車地雷などの爆雷を手で投げるか,竿の先に付けて戦車のキャタピラの下へ置く,②二人目が火炎瓶などの発火物を,乗員を追い出すために投げつける。③これに失敗すれば戦車に飛び乗り,手榴弾や小火器で展視孔を潰す,

というものだが,著者も言う通り,戦車には常に援護の歩兵がおり,そううまくいかない。で,こういうことになる。

日本兵が戦車正面の道路に横たわっていたのが見つかり,撃たれると体に結び付けられた対戦車地雷が爆発した。

こういう人命軽視の作戦を,軍中枢では,机上の空論で立てていた。犠牲は,一人一人の国民の人生を丸投げすることで支払われる。この種の作戦は,卑怯すれすれだから,

丘の頂上で日本兵が白旗を降りだした。(中略)彼はこっちへ来いと言った。兵が立ち上がると丘の麓に隠れていた敵が発砲した。

とか,

降伏するかのように泣きわめきながら近づいてきた。十分近づいたところで立ち止まり,手榴弾を投げてきた。

等々,「卑怯な日本軍」(戦訓広報誌)を演じることになる。これでは,ゲリラ兵と同じである。ついには,沖縄戦では,

蜘蛛の穴陣地

という人間地雷原を作り,

戦車の接近が予測されると蜘蛛の穴に入る。各自が肩掛け箱形地雷などをもっている,

という作戦を立てる。しかも,

手首に引き紐を結びつけるよう命じられているので,投げてから一秒後に爆雷は爆発する。

もちろん兵は爆発に巻き込まれる。

戦死者の中には,こういう人の命を虫けらのように扱われた兵が含まれる。その他に,撤退の命令がないための,ばんざい突撃などの自暴自棄の夜襲攻撃を加えれば,無意味な死者の数は,もっと増えるだろう。

しかもこういう作戦を考えた参謀たちは,八原博通大佐,後宮淳大将は,のうのうと生き残り,対戦車必勝法として,誇らしげに戦後語っている。しかも,八原は米軍に投降している。

戦訓広報誌は,日本兵の短所を,こう書いている。

予想していないことに直面するとパニックに陥る,戦闘のあいだ決然としているわけではない,多くは射撃が下手である,時に自分で物を考えず,「自分で」となると何も考えられなくなる,

将校を倒すと,部下は自分で考えられなくなるようで,ちりじりになって逃げてしまう,

と。著者はこう締めくくる。

米陸軍広報誌の描いた日本兵たちの多くは,「ファナティック」な「超人」などではなく,アメリカ文化が好きで,中には怠け者もいて,宣伝の工夫次第では投降させることもできるごく平凡な人々である。上下一緒に酒を飲み,行き詰ると全員で「ヤルゾー!」と絶叫することで一体感を保っていた。兵たちは将校の命令通り目標に発砲するのは上手だが,負けが込んで指揮官を失うと狼狽し四散した。それは米軍のプロパガンダに過ぎないという見方もできようが,私は多分多くの日本兵は本当にそういう人たちだったのだろうと,と思っている。その理由は,彼らの直系たる我々もまた,同じ立場におかれれば同じように行動するだろうと考えるからだ。

また嫌な時代の足音が聞こえ始めていることが気になる。徴兵,集団的自衛権,他国への兆発(多く自己肥大の結果)等々。挙句の果てに,命を使い捨てにされる。こういう太平洋戦争中の悲惨さを,もっともっと周知されるべきだろう,とつくづく思う。

参考文献;
一ノ瀬俊也『日本軍と日本兵』(講談社現代新書)

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2014年04月03日

地球外生命


長沼毅・井田茂『地球外生命』を読む。

銀河系の恒星の数はおおよそ数千億個,だとすると一千億個以上の地球型惑星が存在し,生命を宿しうる「ハビタブル惑星」も100億個以上ある,と考えられている。ただ,系外惑星系は,太陽系とは似ても似つかぬ惑星系が多く,…中心星の近傍の灼熱領域(太陽系での最内縁の水星の軌道のはるか内側)に,スーパー・アースと呼ばれる大型地球型惑星をもっていて,何個ものスーパー・アースがひしめき合っている…,

にもかかわらず,氷を主成分としたスーパー・アースが複数見つかっている,という。

地球外生命の発見もそんなに遠くないと思われる中で,本書は,地球の生命を掘り下げ,

地球生命にとって良かった条件を洗い出し,…どの程度普遍化できるか,

を探っている。なぜなら,

わたしたちは,地球に住んでいる,共通の祖先から枝分かれした単一の生物しか知りません。この生物を手がかりにして,宇宙の環境にどのような生命が存在しうるかを考えるしかありません。手始めに,地球の生物が生きていける限界を押さえておきます。

地球上の生物を生き方で分けると,

動物(多細胞) 陸上と海に数十億トン
植物(多細胞) 陸上と海に1兆~2兆トン
微生物(多細胞,単細胞) 陸上と海に2000億トン~3000億トン,地下に400億トン

動物の中の3.6億トンが人である。しかし,普通,生物は,

バクテリア(細菌)
アーキア(古細菌)
真核生物

と分けられる。

真核生物の細胞膜はバクテリアに似ており,遺伝子のはたらきなどはアーキアに似ていることから,バクテリアがアーキアを食べて,食べられたアーキアが核になって,真核生物になったとされるが,地球上のすべての生物は,単一の系統,共通の祖先から発している。

ではそもそも生命はどう誕生したのか。

ひとつの説が,アレクサンドル・オパーリンの原始スープ説。

まず無機質から有機物が生成され,その有機物が海の中で結合して,アミノ酸,塩基,リン酸などができ,それらが長くつながってタンパク質やDNA,RNAなどの核酸ができ,生命に至った…。

いまひとつは,ギュンター・ヴェヒタースホイザーのバイライト仮説。

パイライト(黄鉄鉱)ができるときにはエネルギーが生じ,このエネルギーで二酸化炭素を取り込んで糖質などの有機物が作れる。

いまひとつは,外来説。そのひとつがか,ジョセフ・カーシュビングの火星起源説。

生命誕生は40億年前,当時地球には陸地がなく,陸地がないと,生命活動に重要なミネラルが海に供給されない。しかし40億年前の火星には陸も海もあり,生命誕生に都合がよい環境だった。また火星からの隕石の飛来は,13000年前に南極に落下した例があり,隕石の中に入っていると,摩擦を受ける大気圏通過は,10秒くらいで,中心部は40℃までしか上がらない,とされている。

では知的生命体への進化は,どのように行われたのか。

実は地球上では,大酸化事件が数回起きている。生命誕生期には,酸素はほとんどなく,当時の生物は嫌気型であった。しかしシアノバクテリアという海中の光剛性バクテリアが,30億年前から,酸素を発生させ,20~24億年前,酸素の蓄積量がティッピングポイントを超え,地球表面が一変する。

酸素呼吸は無酸素呼吸に比べエネルギーの発生量が10倍以上大きく,酸素呼吸の第一世代微生物が地球生態系で1人勝ちしていく。

その酸素呼吸のトップランナーが,私たちの祖先細胞に食べられたか,あるいは侵入したかして,そのまま細胞内に居座ったオルガネラがミトコンドリア,

というわけである。著者は言う,

もし私たちの祖先の細胞にミトコンドリアの前身のバクテリアが侵入せず,細胞内小器官になってくれなかったら,多細胞化,ひいては大型生物の出現はなかったでしょう。ミトコンドリアとなったバクテリアが現れたのは,シアノバクテリアが光合成の廃棄物として酸素を吐き出すという,地球規模の環境汚染をしてくれたおかげです。地球に限らず,いったん酸素が大気や海洋に放出されたら,やがて酸素を消費する生物が出現するでしょう。それは宇宙においても普遍的なシナリオだと思います。
この生物は,酸素呼吸により大量のエネルギーを得る半面,酸素呼吸で生じたラジカルが遺伝子を傷つけるので,遺伝子を安全に収納する細胞を特殊化させるでしょう。つまり,卵子と精子による有性生殖もまた普遍的と思われます。多細胞化して生物種が増え,生態系が複雑になると,…センサーとその情報処理系,すなわち感覚器官と脳が発達するでしょう。
つまり,生命が誕生し,酸素がある環境なら,多細胞で神経系を持ち,有性生殖を行う生物が生まれるチャンスは十分にあると思われます。

ワクワクするのか,ぞくぞくするのか。探査計画は目白押しである。

参考文献;
長沼毅・井田茂『地球外生命』(岩波新書)



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2014年04月08日

眠り


内山真『睡眠の話』を読む。

実験的に,徹夜をすると,簡単な判断を要する時間がビール大ビン一本飲んだ状態に匹敵する…,

ということを聞くと,確かに,眠りは人間にとって大切なのだが,五人に一人が不眠に悩んでいるという。

本書は,睡眠に悩む人との対話を踏まえて,

睡眠と私たちの生活,睡眠と心や身体の健康,睡眠と脳の働き…

について,睡眠学の立場から解き明かしていく。では,睡眠とは何か。

眠っている時には,私たちは人間ではなく霊長目に属するただの哺乳類になる。

のだそうだ。爬虫類などの変温動物から恒温動物になることで,環境に対する適応力を飛躍的にのばしたが,その分,

体温を保つために常にエネルギーを燃やし続けなければならず,変温動物に比べると大量の食物が必要となった。

さらに,

内外からの情報を処理し,身体をよりうまく働かせるための大脳を発達させた。(中略)発達した大脳は,体温を一定に保つ恒温動物としての限界をさらに超えて,膨大なエネルギーを消費する。そして活性酸素のような有害な老廃物も産生するし,機能変調が起こりやすいという脆弱性を持つ。長時間働かせていると身体が供給できるエネルギー量では足りなくなる。これを防ぎ,大脳をうまく働かせるために上手に管理する,

これが睡眠であり,

身体が休む時間帯に大脳をうまく沈静化して休息・回復させ,必要な時に高い機能状態の覚醒を保証する機能をもつに至った,

ということであり,

身体が休む時に,脳の活動をしっかり低下させ休養させるシステム,

これが,睡眠ということになる。当然不足すれば,機能不全に陥る。このシステムは,

意外にシンプルな仕組みでできている。体内の温度を積極的に下げることで,まるで変温動物のようになって脳と身体をしっかり休息させるのだ。皮膚から熱を積極的に逃すシステムが働くと,身体の内部の温度が下がると同時に,頭の内部にある脳の温度が下がっていく。体内の温度が下がると,生命を支えている体内の化学反応が不活発化する。つまり,代謝が下がり,休息状態になる。

すると,眠くなるらしいのである。眠らないでいると,

起きていた時間に比例して脳脊髄液の中にプロスタグランジンD2が増えてくる。(中略)長く起きていたという時間に関する情報が脳脊髄液中の睡眠物質の量に転換され,この睡眠物質の増加という情報が神経情報となって,脳の眠りを引き起こす部位,視床下部に伝達されるのだ。そして,視床下部の眠りを引き起こすGABA神経系が働き出す。GABA神経系は,より奥にある目を覚ましておく神経活動を支える部位,結核乳頭体のヒスタミン覚醒系を抑制し,

われわれは眠くなる。では,よく知られた,レム睡眠,ノンレム睡眠は,どういう機能があるのか。一晩の睡眠の80%位がノンレム睡眠と言われているが,

健康人が夜七時間の睡眠をとる時,まず浅いノンレム睡眠から次第に深くなり,深い睡眠がしばらく続く。そして,寝返りの後,浅いノンレム睡眠が出現し最初のレム睡眠に移行する。入眠から最初のレム睡眠までの時間は平均すると90分くらいである。レム睡眠が5~40分続いた後,再びノンレム睡眠に入っていく。その後,レム睡眠はノンレム睡眠と交代しながら90~120分程度の周期で出現する。

レム睡眠時は,夢を見ることが知られているが,

夢はレム睡眠というごく浅い眠りに随伴する内的体験だ。本当に完全に脳が休んでいる状態では意識が途切れるわけで,夢体験が起こることは考えにくい。脳がある程度の活動状態に保たれているために夢見を体験することができる。

というのも,

レム睡眠中には,外界からの情報が遮断されているからだ。

音や光だけでなく,身体の感覚も脳に伝わらないように遮断されている。なぜなら,

まどろんだ状態での夢体験に応じて身体が動いてしまうと,…瞬く間に眼が覚めてしまう。筋肉が動いたというフィードバック信号は強力に眼を覚ましてしまうからだ。

で,この間は,

脳からの運動指令が,脊髄のあたりで遮断された状態にある。

この時金縛りが起きる。「睡眠麻痺」と呼ばれる。夢を見ている時,外界の刺激はないのだから,当然素材は,脳の内部情報になる。

脳の奥のほうにある記憶に関連した大脳辺縁系と呼ばれる部分が活発に活動し…,同時に大脳辺縁系で情動的反応に関連した部位も活発に活動している…。一方で,記憶の照合をしている,より理性的な判断機能と関連する前頭葉の機能は抑制されている。

フランスの脳生理学者ミッシェル・ジュヴェの発言がいい。

レム睡眠中には,動物も人間も危機に対処する行動をリハーサルし,いつでも行動できるよう練習している,

と。つまりは,イメージ・トレーニングである。

では,ノンレム睡眠は,どういう機能なのか。

ノンレム睡眠には,まどろみ期,軽睡眠期,深睡眠期とあり,軽睡眠期がノンレム睡眠の80%を占める。

まどろみは電車の座席できちんと坐っていられ,乗り越さない睡眠。軽睡眠は,誰でも自分が眠っていると感じられ,だらんと首が保てなくなる。降りる駅でどあが閉まる直前に目が覚める。深睡眠は,自分が熟睡していると感じる。多少の音では目が覚めない。電車を乗り越すのはこの状態。

ノンレム睡眠は,脳を休めるためだが,軽睡眠が多いのは,完全に働きを停止してしまっては生物にとって危険だからと考えられる。

長い間覚醒していればいるほど,その後の深いノンレム睡眠である徐波睡眠が増加する。一種のホメオスタシス維持機能ということになる。

深いノンレム睡眠中は,子どもの成長や身体の修復に関係する成長ホルモンが活発につくられる。

細菌やウィルスなどの外敵が身体に侵入すると,防御機能が働き,白血球がこれらを排除する。こうした時,つくられる免疫関連物質,インターロイキンなどの免疫物質の中には体内の免疫機構を活性化するとともに,深いノンレム睡眠を誘発する作用を持つものがある。感染時に眠たくなるのはこうした物質が働いている証拠と考えてよい。

これも体に備わった防御機構なのだといっていい。睡眠効果のもっと面白いのは,新しい技能を身に着ける時,練習による向上度もあるが,十分睡眠することで,手続き記憶が強化され,練習した以上に技能が向上する,という。

睡眠中の技能向上は苦手な動作ほど大きい,

というのは,脳の機能としてもちょっとわかる気がする。寝ている間に定着する,ということなのかもしれないが,ノンレム睡眠の方がより効果的ということらしく,夢のリハーサル効果ではないのが意外だと言えば,言える。

ところで,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163590.html

でも書いたように,フェイスブック上のコミュニティ「早起き賊」に加わっているが,朝型夜型は,体質というか,

体内時計の周期が24時間より長めだと夜型になりやすく,この周期が24時間より短い,ないし24時間に近い場合には,朝型になる,

という。

体内時計の細胞では,時計遺伝子というタンパク質の設計図に基づいて時計機能を担うたんぱく質が製造される。この細胞内での一種の化学反応が24時間周期でゆっくり変動し,直接一日という時間をとらえる。

ま,遺伝子で決まる,ということか。しかし,習慣化で,変えることもできる,そんな気がする。そこが,人間の人間たる所以なのだ。

睡眠障害対処12の指針の四に,こうある。

早寝早起きではなく,早起きが早寝に通じる,

と。まさに早起き賊が,常々言っていることだ。


参考文献;
内山真『睡眠の話』(中公新書)



今日のアイデア;
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2014年04月12日

多宇宙


青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』を読む。

人間原理については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163436.html

宇宙のあり方については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163082.html

でそれぞれ触れたが,ここでは,「人間原理」をキーワードに,最新の宇宙論の最前線を紹介している。

人間原理とは,

宇宙がなぜこのような宇宙であるのかを理解するためには,われわれ人間が現に存在しているという事実を考慮に入れなければならない,

つまり,人間が存在するべく宇宙がつくられている,という目的論的な考え方である。「はじめに」で,著者が言うように,

たしかに,もし宇宙がこのような宇宙でなかったとしたら,われわれ人間は存在しなかったろう。地球も太陽も存在しなかっただろうし,銀河系も存在しなかっただろう。

しかし,なぜそういう考えが出てきたのか,著者は,本書の目的を,

人間原理とはどんな考え方なのか,
なぜそんな考え方が生まれたのか,
その原理から何が出てきたのか,

を考えることだとしている。

この考えが出てくる背景には,アインシュタインの,

神が宇宙を作ったとき,ほかの選択肢はあったのだろうか,

という問いである。もちろん,神は,言葉の綾である。言い換えると,

あれこれの物理定数は,なぜいまのような値になったのか,

となる。そこで,著者は,基本的な四つの力(重力,電磁力,強い力,弱い力,)に関わる,二つの例を挙げる。

ひとつは,重力である。

もし重力が今より強かったら,太陽やその他の恒星は,押しつぶされて今より小さくなるだろう。強い重力で圧縮された中心部の核融合反応は急速に進み,星はすみやかに燃え尽きてしまうだろう。地球やその他の惑星も,いまよりサイズは小さくなり,表面での重力は強くなるため,われわれは自重で潰れてしまうだろう。逆に,もし重力が今より弱かったなら,天体のサイズは大きくなり,中心部の核融合反応はゆっくりと進み,星の寿命は延びるだろう。

いずれにしても,地球上にわれわれは存在しない。

二つ目は,強い力と電磁力との強さの比である。

もしも強い力が今よりも弱かったなら,電気的な反発力が相対的に強くなり,陽子はそもそも原子核の内部に入ることはできなかっただろう。その場合,初期宇宙の元素合成の時期に,水素原子核(陽子)よりも大きな原子核は生じなかっただろう。この宇宙は水素ばかりの,ひどく退屈な世界になっていたはずだ。逆に,もし強い力が今よりも強かったなら,陽子同士が結びついてしまい,水素(つまり単独の陽子)は早々に枯渇しただろう。水素の存在しない宇宙は,この宇宙とは似ても似つかないものになっていたはずである。

つまり,物理定数が今の値でなかったとしたら,宇宙の姿は,いまの宇宙ではなかった,ということである。

では,なぜ今の値なのか。その問いに,ハーマン・ボンディは,コインシデス(偶然の一致)を示して,議論を提起した。本書では,3つを紹介している。

①電子と陽子の間に働く電磁力と重力の比が,1040
②宇宙の膨張速度の目安であるハッブル常数から導かれた「長さ」(大雑把な宇宙の半径)と電子の半径(核力の到達距離)の比が,1040
③宇宙の質量(宇宙の質量密度×半径の三乗)を,陽子の質量で割った,宇宙に存在する陽子(あるいは中性子のような,電子と比べて思い粒子)の個数が,1040

これに対して,人間原理を打ち出してきたのが,ブランドン・カーターなのである。そして,

コペルニクスの原理,

つまり,人間が宇宙の中心にいる,

ことを否定した考え方に,過度に拡張しすぎている,として,

a.われわれが存在するためには,特別な好都合な条件が必要であること,
b.宇宙は進化しており,局所的なスケールでは決して空間的に均質ではないこと,

を理由に挙げた。そして,ボンディの挙げたコインシデンスを,「コンベンショナル(普通)」な理論で説明するには,

人間原理,

を受け入れなければならない,といったのである。ボンディのコインシデンスの①,②については,すでに説明がつく。問題は,③である。カーターは,こう言う。

宇宙は(それゆえ宇宙の性質を決めている物理定数は),ある時点で観測者を創造することを見込むような性質を持っていなければならない。デカルトをもじって言えば,「我思う。故に世界はかくの如く存在する」のである…,

と。これは,著者が言うように,

「この宇宙の中で,存在可能な条件を満たされた時期と場所に」存在しているという話ではすまず,「そもそも宇宙はなぜこのような宇宙だったのか」という問題と関わっている,

のである。しかし,カーターは,話をこう展開する。

物理定数の値や初期条件が異なるような,無数の宇宙を考えてみることには,原理的には何の問題もない。

もし,宇宙が無数にあるなら,「知的な観測者が存在できるような宇宙は,世界アンサンブルの部分集合に過ぎない,
とするなら,

われわれは無数にある宇宙の中で,たまたま我々の存在を許すような宇宙に存在している,

というだけのことになる。このカーターの提起の,

世界アンサンブル,

という考え方は,宇宙のインフレーション理論,

宇宙誕生の10-36秒後に始まり,10-36秒後には終わった(中略)。その一瞬の間に1030倍にも膨張した,

とされる。そして,

宇宙誕生は一度きりの出来事ではない,

というのが,物理学者の考え方なのだ。とすると,そこから,自然に,

宇宙はわれわれの宇宙だけではない,

という,多宇宙ヴィジョン,

が生まれ,膨張する宇宙の中に,

海に浮かぶ泡のような領域…を,泡宇宙か島宇宙,

と呼ぶ。そして,

われわれの宇宙は,無数にある泡宇宙のひとつに過ぎない。いわゆる「地平線宇宙」―どれだけ高性能の望遠鏡が開発されようとも,そこから先は未来永劫決して見ることができないという意味での「地平線」の内側―

にいる,ということになる。宇宙の理論の,

多宇宙ヴィジョンは,ほとんどデフォルト,

と著者は言いきる。人間原理は,この時点で,反転し,人間による,観測選択効果になった,と。

いま,アインシュタインが言った,

宇宙は,ある必然性があってこのような宇宙になっている,

さまざまな定数の値が,他のどの値でもなく,この値でなければならぬ,

という理論を目指して,科学者は様々な仮説にチャレンジしている。


参考文献;
青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのか』(講談社現代新書)




今日のアイデア;
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2014年04月14日

言葉


北山修『意味としての心』を読む。

ヴィトゲンシュタインの言葉に,

もっている言葉によって,見える世界が違う,

と言った趣旨のものがあった(と記憶している)。

ここにあるのは,精神科医で精神分析家である北山修の言葉集(辞典)といっていい。凡例では,

さまざまな機会にあらわしてきた,精神分析的観点からみた臨床語を集め編集した,

とある。たとえば,「あい」からはじまり,

「あふ」はその語源説のひとつに上下の唇が相寄るときの音から出たという連想があるように,二つが互いに寄り合ってぴったり一致する,調和する,一つになる,という意味で,ものともの,人と人との間の基本的意識を示しています。特に「合う」の場合は,「出会い」がさらに進んで,受け入れる,矛盾しない,ぴったり当てはまるという適合,合致,調和のニュアンスが強調されます。(中略)「医者に会う」「先生に会う」とは言っても,「通行人に会う」とは言わないように,対人関係にいつて,「会う」が使われる場合は会う意味があるときで,無意味に会うことは会うではなくて,むしろ会っていないことになります。よって通常は,会うこと,合わせること自体に大きな意味や高い価値があり,…このような意識を伴う「あふ」という言葉は,面接と対話を価値ある形式とする日本語臨床の基本語となります。

という具合である。この「日本語臨床」という言い方には,特別な意味がある。著者はこういう。

日本人は普段より「滅多なことは言わない方がいい」と考え,饒舌や雄弁をそれほど好まないなど,言葉にあまり期待しない傾向があるため,精神医学や臨床心理の領域でもむしろ非言語コミュニケーションの重要性が説かれ,その視点から多数の心の理論が翻訳を通して輸入され,外国製の概念や理論で臨床の現象が割り切られることが正しいとされる風潮も見られます。心を描写するための言葉が日本語に豊富にあるにもかかわらず,研究者たちが日本語を生かすことが稀という傾向も強くありました。

その問題意識の中に,土居健郎の「甘え」論がある,と考える。そして,

もともと解釈や言語化という精神分析の技法論に見られるごとく,言葉と精神分析臨床は切っても切り離せないものであり,フロイトは夢,機知,言い間違いの精神病理などの分析で,言葉と意識・無意識に関して様々な相から検討を試みています。

として,

言語を主たる治療媒体とする精神分析理論の発展に向けて言語学者,文化人類学者,精神病理学者,言語心理学者などの知見から学ぶことは多く,日本語の中での精神病理の特徴や治療のための言語の機能について明確にしていく作業も必要です。言語論とともに重要なのは意味論的視点であり…,

とする,言葉の意味と機能に着目する著者の姿勢そのものの蓄積が,本書ということになるのではないか。

精神分析療法は,「心の台本を読む」ことを仕事とする,という言い回しが,何度か出るが,それを,「劇」になぞらえて,こういう言い方をしている。

「筋書きを読む」という仕事には,最初に劇の展開があり,問題が劇化され,その劇が繰り返され,やがて筋書きが読まれて,そしてその洞察を通し筋書きを考え直して書き替え,協力して新たな劇を創造するなどの作業が,段階的なものとして含まれるでしょう。そして,劇的な関係を引き受けてこれを分析する分析的治療者の仕事とは,劇の比喩で言うなら,出演しながら筋書きや心の台本を読むことになります。

あるいはこうも言う。

精神療法の言語的な仕事が「人生物語を紡ぐこと」,そして「人生を語り,語り直すこと」と説明されることが多くなってきましたが,これは古典的精神分析で言うところの過去の再構成という仕事です。

更に,

人生を物語として言葉で語って,それを二人で考えていこうとする分析的臨床的態度は,日本においても臨床心理学の基本となっている,

あるいは,また,

頼まれてもいないのに生きがいの動機づけや構造を指摘して,他人の生きがいによけいな解釈で水をさすことは,分析家の「野暮」と「愚の骨頂」「いらないお世話」となるでしょう。そして抱えられた空虚を埋めようとして何かがなされる場合,内側からの自己表現や創造としての何ものかが,たとえ野暮ったくて不器用なものでも,まずは貴重な意味ある生成となることがあります。精神分析とは,症状から,夢から,些細な言動から,そういう意味を取捨選択して発見し共有することに徹底的に貢献し「意味ある人生」にしようとする仕事なのです。
 
と。

精神分析では,言葉が媒介になる。

自由連想法の設定(セッティング)では分析者と後ろ向きの被分析者の二人はほとんど顔を合わせることがありません。それで,治療的に検討され取り扱われる素材は,被分析者により言葉で報告されるものがほとんどとなります。被分析者の無意識的反応を把握し,これを言葉で描き出すという営みの中で,そこに織り込まれてゆく分析的セラピスト側からの応答を「解釈」と呼びます。

そうして,

それまで無意識であった台本が読み出され,それが人生として生きられながら語られて,心の表と裏を織り込んだ人生物語を紡ぎ出すことになるのです。

と。そこで言葉が,他の療法に比して,格段に重要になる。そのことについて,フロイトの「言葉の橋」という言葉を手掛かりに,こう言っている。

両義的な言葉は,人々に共有されやすい意識的な意味と,個人が個別の内面に抱いている個性的な意味との間の橋渡し機能を果たしているのであり,私は,この議論を,心の内面と外面,内界と外界の間に橋をかけ,その内と外を結び付けているという言葉の機能の,精神分析研究の歴史的出発点としたいのです。

と,それを分析的な言い方で表現すると,

すでに意識されている意味と抑圧されて意識されにくい意味との間に橋をかける,

となるはずである。そのことの効果を,こうまとめている。

私は,「話す(ハナス)」には,対象を外界へ放す(ハナス)機能と,対象を自己から離す(ハナス)機能があると考えて,内的体験を外界へ伝えながら内外を分離させる言葉の機能を,総合的に「橋渡し機能」と呼びたいと考えています。

さて,精神分析家の北山修の言葉から見えるのは,こんな風景として,では,作詞家,

北山修,

あの,フォーククルセダーズのメンバーであり,提供したのも含めるレコーディングされたのが400曲,作りっぱなしのも含めると700曲に上るという,作詞家としての言葉から見えるものは別なのかどうか。

たとえば,橋田宣彦と旅の宿で嵐が通り過ぎる間に作ったという,

人は誰もただ一人旅に出て
人は誰もふるさとを振り返る
ちょっぴり寂しくて振り返っても
そこにはただ風がふいているだけ(「風」)

の向こうには,何が見えているのか。例えば,こんなことを,あとがき代わりの,「私の歌はどこで生まれるのか」に書いている。

「かける兎」の如き私が,昼間は跳びはねて遊び,あるいは懸命に働き,夜になり「疲れた兎」が横たわり目を瞑ると,あるいは勝って酔った気分で横になると,眠り始めた兎の背後から亀がゆっくりと立ち現れるのです。夜な夜な出現するこの亀は,歩みはのろいし,目を閉じ夢と眠りの中に生きているようなのです。

この夜から朝の間にある「考える亀」という,移行の領域において考える「私」は,自分に正直な「素の自分」です。亀でも兎でもない,そして亀でもあり兎でもあり,その真ん中で「本来的」とでもいうべき状態であり,「私は私」なのです。そこで朝起きたら患者に何を言うか考えたり,よいイデアを思いつきながら眠りにまた落ちたりしています。…そして外からは寝ているように見えますが,実は泣いていたり,誰かを罵っていたり,吠えたり,読んだり,そして歌ったりして,ここに歌詞の元がたくさん生まれているように思うのです。

そして私個人の場合,覚醒の手前で時に「なき」ながら考えているので,そこでこそ再び旅の歌も生まれ,そこが人生のクリエイティヴィティの原点です。また,分析のセッション中で精神分析家の「私」が何も見ずに目を瞑り暗闇の中でぼんやりと考えていますと,この状態が度々発生します。気持ちの上で揺れながらも,その旅の途中で,本来の自分として,考えはまとまっているなあと感じます。

そして外向けの歌作執筆活動では,亀から兎への間で引継ぎがあって,例えば朝型の亀の「歌」を日中兎が選択的に書き移し,「私」が修正加工し歌として書き直すところが外向きの創作の核心です。

この個人の自己対話を見ていると,著者自身が,創造性の項で,

フロイトは,子どもの遊びの中に創造性の発露を発見し,それが大人になると空想や劇に姿を変えると考えました。願望充足を特徴とする空想や白日夢は通常個性的すぎる内容であり,他者に伝えたとしても不快感をもたらすことが多いのに対して,詩人は個人的な空想を受容される形で伝えることで他者にもたらします。このことに注目したフロイトは,神経症者と比較して,創造的行為とは,抑圧のゆるさと,空想や白日夢を公共性の高いものにする強い昇華の能力とを同時に有するものと考えました。

と述べていることと照合してみると,まさに,

言葉によって見えているものは,

作詞家のそれも,

精神分析家のそれも,

北山修というひとりの人の見えているものに違いない。と感じるのである。

参考文献;
北山修『意味としての心』(みすず書房)





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2014年04月17日

第二の敗戦


船橋洋一『原発敗戦』を読む。

著者は,原発事故の当時の当事者に取材してまとめた『カウントダウン・メルトダウン』の後,大宅壮一賞受賞の折り,「恐るべき『戦史』」との選評を得たことから,改めて取材した「フクシマ戦史」。著者自身,

事故に取り組んだ東電の現場の人々や本店の幹部の人々にできるだけ直接,話を聞いて,危機の現場はどうだったのか,危機の司令塔は何をしていたのか,危機のリーダーシップはどこにあったのか,その感覚を共有したいと思った,

と語るように,再度の取材の中で本書はまとめられた。本書の後半は,

チャールズ・カストー(元米NRC日本サイト支援部長)
増田尚宏(福島第二原発前所長)
折木良一(前防衛省統合幕僚長)
野中郁次郎(一橋大学名誉教授)
半藤一利(作家)

との対談が組まれているが,対談相手,半藤一利氏は,

日米の危機対応,組織構造,リーダーシップのあり方の違いなど,あの頃(第二次大戦中のこと)と全く変わっていないことに驚かされます。

と述べているように,第二次大戦での敗戦になぞらえて,それとの類比・類推のなかで,日本人の,日本文化の,日本組織の,日本のリーダーの宿痾を剔抉している。

半藤とのやりとりに,こんなくだりがある。

半藤 じつは私,アメリカの技術力に改めて恐れ入ったのですが…。
船橋 まさに今回,「第二の敗戦」だと思うのはそこなんです。技術,物量,ロジスティクス,それからインテリジェンス。日本は底が弱かった。
半藤 日本はロボット大国と言われておりました…。
船橋 活躍したのはアメリカの,アイロボット社のパックボットという軍用ロボットでした。もっともアメリカの強さを見せつけられたのは,モニタリング力です。炉のなかの状況は日米,東電いずれもわからない。しかしアメリカは空からのモニタリングという技術をもっていました。あの炉は何度で放射線量はどれほどかと,それを1万8000m上空から無人偵察機グローバルホークで撮っちゃう…。
(中略)
船橋 日本のインテリジェンスの特色は3つあります。「(情報が)上がらない,回らない,漏れる」です。(中略)日本では,まず下から上に上がらない。上も上で,吸い上げる力が弱い。それは政策トップが戦略目標とゲームプランを明確に持っていないためです。各省全部バラバラ,そしてタコ壺。だから回らない。特に,防衛省と警察庁,それから外務省の間は回りません。従って統合的アプローチ,つまり「政府一丸になって」取り組むのが苦手。それから情報が漏れやすい…。

その弊害が,もろに今回出た。そして,「はじめに」で,こう書く。

危機の時,その人の本当の器量がわかる。
危機の時,リーダーシップが否応なしに問われる。
危機の時,その国と国民の本当の力が試されるし,本当の姿が現れる。
日常漠と思っていたそのようなことを今回,私たちは痛感した。
しかし,それもこれも,どこかで聞いたようなことばかりではないか。
戦後70年になろうというのに,いったい,いまの日本はあの敗戦に至った戦前の日本とどこがどう違うのだろう。
日本は,再び,負けたのではないか。

著者のこの深い敗北感は,第二次大戦になぞらえる心情は,実は,危機の当事者たちにも,共有されている,と言うことに深刻に驚かされる。

福島第一原発の現場は,過酷事故対処に必要なものは何もなかった。水もガソリンも,バッテリーも。

なかでも人員が決定的に不足していた。しかも補充は少なかった。人員の不足は単に頭数の問題ではなかい。作業に必要な知識,技量を有する人材が不足していたし,交代して対応する態勢ができなかった。

同じ半藤との対談で,

半藤 …吉田所長という指揮官以下の50人あまりの現場の方たち,いわゆるフクシマ・フィフティは頑張った。しかし事故の規模からいって,アメリカなら50人とか70人なんてことはあり得ませんよね。
船橋 あり得ないです。なにしろ原子炉が6つもあるわけですから,国務省の幹部もカストーも,1000人以上の規模で当たるべきだったとはっきりそう言ってました。

と指摘している。これを,

まるでガダルカナルではないか,

と思ったと,対策統合本部に詰めた外務省幹部が証言している,と言う。それは,大岡昇平の『レイテ戦記』にもあったと思うが,

ここでは戦力の逐次投入による戦力消耗と戦闘敗北の典型的例,

とみなされている。要は,一気に戦力を投入せず,現場の様子を見ながら,ちびちびと投入したという現実を,そうなぞらえているのである。

日本サイト支援支部長のチャールズ・カストーが,フクシマ第一原発の吉田昌郎所長に初めて会ったときの最初の質問が,「作業員たちはちゃんと寝ていますか?」でした。

と,半藤との対談で,著者は紹介しているが,この発想にあるのは,

長期戦を前提にした,危機への対応,

であり,そのために大量の人的投入が不可避なのだと分かる。同時に,思い出すのは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163418.html

でも書いたが,

ゼロ戦の搭乗員の生命無視の軽量化

ゼロ戦に対抗して設計製作されたF6F (Grumman F6F Hellcat)

との対比だ

F6Fは,頑丈であること,単純化されて生産性が高いこと,防弾フロントガラス,コクピットを張り巡らした部厚い装甲,装甲されたエンジンとタンク,等々パイロットを守るために,ゼロ戦相手とわかっていても,機動性すら犠牲にしている。それは,人命尊重というより,ベテランパイロットの操縦を前提にしない,徴兵された普通の兵士が操縦することを前提にした設計思想だ。

それに対して,ゼロ戦は,軽量化と機動性を確保するために,防弾燃料タンク,防弾板,防弾ガラス,自動消火装置等々の防御部分がカットされ,被弾するとあっという間に火を噴く。それを回避するために,パイロットの個人技に依存した。

昭和天皇は1945年9月,…日光の湯元のホテルに疎開していた皇太子明仁親王にペン書きの手紙を出した。その中で,「敗因について一言いわしてくれ」として,「我が国人が,あまりに皇国を信じ過ぎて,英米をあなどったことである」と「我が軍人は,精神に重きをおいきすぎて,科学を忘れたこと」を敗因として挙げた,

と言われる。というより,人命を大事にするためにどうしたらいいかを考えるのに対して,人命よりも軽量化と機動性を大事にする,どちらが科学にとってハードルが高いか,だ。

著者は,それと同一の発想を,

炉心溶融



炉心損傷

に言い換えたところに見る。

東電も,保安院も,メルトダウンには病的なほど神経質になった,

という。

あくまでも真実を探求する科学的精神の欠如と異論を排除するムラ意識があるのではないか。
「原子力ムラ」などといういびつで同質的な既得権益層が跋扈し,研究者の科学的かつ独立精神を蚕食した。

それは科学の敗北ではないか,

と。いまなお,現場では戦いが続いているのに,国を挙げて,何千の単位の態勢を取っているとは聞こえてこない。

思えば,STAP細胞騒動でも,科学者も,研究者も,科学的に細胞の有無を検証しようとするよりは,論文の欠点をあげつらい,あまつさえ,最後は一人の責任に押し付けて,知らぬ存ぜぬとは,とうてい科学的対応とは言えない。ここにも,何か象徴的な騒動を見る。

遅まきながら,本書を読んで,改めて,『カウントダウン・メルトダウン』を読みたいと思った次第。


参考文献;
船橋洋一『原発敗戦』(文春新書)




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2014年04月24日

アドラー


アルフレッド・アドラー『個人心理学講義』を読む。

最近,あちこちでアドラーが云々と言われ,読んだかと聞かれる。ずっと,どこかでせせら笑って,スルーしていた。どこかで,僭越ながら,フロイトの幅と深みにかなうはずはないと思っていたからだ。

あまり喧しいので,一応目を通すつもりでWebの紀伊國屋,アマゾンを捜したが,本人の書いた(速記起こしも含め)モノが品切れか,廃刊で,やっと,この本だけが手に入った。入門書や解説書は山のようにあるようだが,そういうのは読む気がしない。生意気だが,他人の目や理解,評価の色眼鏡を通してではなく,自分の目でチャレンジしなくては,話を聞いただけで読んだ気になるのと一緒だ,と思っているところがあるからだ。

そんな経緯で,この本を手にしたが,正直言って,時間を無駄にしたと思っている。少なくとも,この本からは,皆が大騒ぎする理由が皆目読み取れない。頭の悪い僕自身の理解不足を棚に上げて,あえて言い切るが,中井久夫を読んだときの強烈なインパクトやミルトン・エリクソンの衝撃には及びもつかない。

少なくともこの本では,フロイトを批判して別れたが,別の因果論を立ててそれによってものを見ようとしているとしか見えない。フロイトの性欲シフトを批判して,ただ別にフォーカスする色眼鏡を拵えただけだ。今日,フロイトが批判されている因果論を,通俗にしたとしか,頭の悪い僕には受け取れなかった。

たとえば,

サディズムと子どもに対する虐待で告発された男性のケースがある。彼の成長を調べると,いつも彼のことを批判していた支配的な母親がいたことがわかる。それにもかかわらず,彼は学校では優秀で知的なこどもになっていった。しかし,母親は彼の(学校での)成功には満足しなかった。そのため,彼は家族への愛から母親を排除したいと思った。母親には関心を持たず,父親に献身し強く結びついた。
このような子どもが,女性は過酷で酷評するものであり,女性との関わりは,どうしても必要な時でなければ,進んでは持ちたくないと考えるようになったことは理解できる。このようにして,彼は,異性を排除するようになった。その上,不安な時にはいつも興奮するので,このようなタイプの人は,いつも不安を感じずにすむ状況を求めている。後には,自分自身を罰したり拷問を加えたい,あるいは,子どもが拷問されるのを見たいと思うかもしれない。さらには,自分自身や他の人が拷問を加えられるのを想像するのを好むようになるかもしれない。彼は,いま述べたようなタイプなので,このような現実の,あるいは,空想上の拷問の間に,性的な興奮と満足を得るようになるだろう。
この男性のケースは,誤った訓練の結果を示している。彼は自分の習慣との関連を理解していなかったし,もしも理解いたとしても気づいた時には遅すぎたのである。無論,二十五歳や三十歳の人をで適切に訓練することはきわめて困難なことである。適切な時期は,早期の子供時代である。

一読してわかるのは,アドラーの側に人の生き方についての正解がある,と思っているとしか見えないところだ。だから,

子どもの指導に関しては,主たる目的は,有益で健康な目標を具体化することができる適切な共同体感覚を育成することである…。普遍的な劣等感が,適切に活用され,劣等コンプレックス,あるいは,優越コンプレックスを生じないようにするためには,子どもたちを社会の秩序に調和するように訓練することによってしかない。

時代の制約があるにしても,今日の社会構成主義とは,ちょっと異質な考え方といっていい。この背景にあるのは,アドラー独自の劣等感についての考えがある。

優越性と劣等性に結びついたコンプレックスという言葉は,劣等感と優越感の追求の過度な状態に他ならないということを忘れてはならない。そのように見ていくと,二つの矛盾した傾向,即ち,劣等コンプレックスと優越コンプレックスが同じ個人の中に存在するという見かけ上のパラドックスを回避することができる。というのは,優越性の追求と劣等感は,普通の感情として,当然のことながら,相補的なものであることは明らかだからである。もしも現在の状態に,何らかの欠如を感じないのであれば,優越し成功することを求めるはずはない。

劣等感は病気ではない。むしろ,健康で正常な努力と成長への刺激である。無能感が個人を圧倒し,有益な活動を刺激するどころか,人を落ち込ませ,成長できないようにするとき初めて,劣等感は病的な状態となるのである。優越コンプレックスは,劣等コンプレックスを持った人が,困難から遁れる方法として使う方法の一つである。そのような人は,自分が実際には優れていないのに,優れているふりをする。そして,この偽りの成功が,耐えることのできない劣等である状態を補填する。普通の人は優越コンプレックスを持っていない。優越感すら持たない。われわれは,皆成功しようという野心を持っているという意味で優越性を追求する。しかし,このような努力が仕事の中に表現されている限り,精神病の根源にある誤った価値観へと導くことにはならない。

だから,

劣等コンプレックスを見出すケースにおいて,優越コンプレックスが,多かれ少なかれ,隠されているのを見出したとしても驚くにはあたらない。

社会適応は,劣等感と優越感の追求の社会的な結果から引き起こされている。劣等コンプレックスと優越コンプレックスという言葉は,不適応が生じた後の結果を表している。これらのコンプレックスは,胚珠の中にも血流の中にもない。ただ,個人と,その社会環境の間の相互作用のなかでのみ起こるものである。なぜあらゆる人にコンプレックスが起こらないのであろう。すべての人は劣等感を持ち,成功と優越性を追求する。このことがまさに精神生活を構成する。しかし,あらゆる人がコンプレックスを持っていないのは,劣等感と優越感が共同体感覚,,勇気,そしてコンプレックスの論理によって,社会的に有用なものになるよう利用されているからである。

いまひとつ前述の引用からみられる,アドラーの特徴は,原型とライフスタイルである。

原型,即ち,目標を具体的なものにする初期のパーソナリティが形成されるとき,(目標に向かう)方向線が確立され,個人ははっきりと方向づけられる。まさにこの事実によって,後の人生で何が起こるかを予言できるのである。個人の統覚は,それ以後,必ずこの方向線によって確立された型にはまっていくことになる。子どもは,任意の状況をあるがままに見ようとはせず,個人的な統覚の枠組みに従って見る。状況を自分自身への関心という先入観にもとづいてみるのである。

そして,

原型がまさしく現れるのは,困難な,あるいは新しい状況においてである。

われわれは,ある環境の条件の下で,ライフスタイルを見る。(中略)好ましくない,あるいは,困難な状況に置かれたら,誰の目にもその人のライフスタイルは明らかになる。……ライフスタイルは,幼い頃の困難と目標追求から育ってきたものなので,統一されたものである。

例として,ある男性(三十歳)のケースを挙げている。

彼は,いつも最後の最後になって,人生の課題の解決から逃れている。彼には友人がいたのだが,その友人のことを強く疑っていたので,その結果,この友情はうまくいかなかった。友情は,このような条件の下では育たない。なぜなら,このような関係においては,相手が緊張するからである。言葉を交わすくらいの友人はたくさんたにもかかわらず,本当の友人がいなかったのは容易に想像がつく。(中略)
その上,彼は内気だった。赤い顔をしており,話す時には時々いっそう赤くなる時があった。この内気さを克服できれば,よく話せるようになるだろうと考えていた。……このような状態のときには,人にいい印象を与えることができなかったので,知人の間で好かれることはなかった。彼はこのことを感じており,結果としてますます話すのが嫌いになった。彼のライフスタイルは,他の人に近づくと自分自身にだけ注意を向けるというものであるといえよう。

で,アドラーは,こう診断する。

劣等感を減じることである。劣等感をすっかり取り除くことできない。実際私たちはそうすることを望んではいない。なぜなら,劣等感は,パーソナリティ形成の有用な基礎となるからである。しなければならないことは目標を変えることである。…ケース…の目標は,他の人が自分より愛されるということを理由に逃避するというものである…。私たちが取り組まなければならないのは,このような考えである。

アドラーは,自分の心理学を個人心理学と名付けたが,それは,

個人の生を全体としてみようとし,単一の反応,運動,刺激のそれぞれを,個人の生に対する態度の明確に表された部分とみなしている。

重要なことは,行為の個々の文脈,,即ち,個人の人生におけるあらゆる行為と動きの方向を示す目標を理解することである。この目標をみれば,様々なばらばらな行為の背後にある隠された意味を理解することができる。それらは全体の部分として見ることができる。逆に,部分を考察する時,それを全体の部分として考察すれば,全体についてよりよく理解することができる…。

精神の運動は器官の運動に似ている。どの心のうちにも現在の状況を超えていき,将来に対する具体的な夢を仮定することで,現在の欠陥と困難を克服しようとする目標,あるいは理想という概念がある。この具体的な目的,あるいは,目標によって,人は自分が現在の困難に打ち勝っていると考えたり感じることができる。将来,成功すると心のうちで考えているからである。この目標という観念がなければ,個人の活動はどんな意味も持たなくなる…。
この目標を定め,それに具体的な形を与えることは,人生の早期,即ち,子ども時代の形成期の間に起こる…。成熟したパーソナリティの一種の原型,あるいは,モデルが,この時期に発達しはじめる…。

たぶん,このあたりの考え方が,アドラー信者の魅力の根拠なのだろうとは推測がつくが,僕には,「…で,それがどうした?」という感覚で,スルーしがちだ。まあ,権力というか,成功志向の人にとって意味のある言葉なのだとは思うが,僕には…。

で,個人心理学が目指すのは,

「社会」適応である,

とアドラーへは言い切る。それが,目的である。それが,すでに社会構成主義とは相いれない。正解がありき,だからである。

個人は,ただ社会的な文脈の中においてだけ,個人となる。

誤った原型を持った少年が,後の人生,例えば,十七歳か十八歳という成熟しかけている年齢になったときどうなるか…。

社会適応の欠如は,原型において始まっている…。

どんな思想家も,おのれの中に,一般化原則を見つけ,それを一般化する。フロイトにもそれがある。だから,同意できるところがなくもない。しかし,どんな生き方が,有用で,無用なのかを,切り分けられる思想を,僕は好まない。それは,俺の勝手だからだ。

どこに正解がある,という思想は,現代にはなじまい,改めてそう確信した。

まあ,僕ひとりの妄想かもしれないが…!


参考文献;
アルフレッド・アドラー『個人心理学講義』(アルテ)

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2014年04月27日

戦国大名


黒田基樹『戦国大名』を読む。

昨今の研究の蓄積で,

戦国大名と織豊大名・近世大名とは,領域権力ということで,基本的な性格を同じくし,社会状況の変化に応じて,その様相を変化させていった…,

と捉える見方が有力になっているとし,

中世と近世を分かつキーワードとなっていた,「太閤検地」「兵農分離」「石高制」などの問題は,実は研究の世界だけにおける,ある種の幻想であったことがはっきりしてきている…,

ということから,改めて,

戦後大名は総体として,どのような存在で,どのう特質をもつものと考えらるのか。

を示したのが本書ということになる。

相模の北条氏,甲斐の武田氏,駿河の今川氏,越後の上杉氏,安芸の毛利氏,豊後の大友氏,薩摩の島津氏等々が,代表的な戦国大名だが,

大名家当主を頂点に,その家族,家臣などの構成員を含めた組織であり,いわば経営体ととらえるのが適当,

と著者は定義する。

一定地域を支配する,領域権力を持ち,支配が及ぶ地域が面的に展開し,「国」と称され,戦国大名が支配する領域を領国と呼んでいる。それは,

線引きできるような,いわゆる国境で囲われた面として存在していた。その領国では,戦国大名が最高権力者として存在した。領国は,他者の支配権が一切及ばない,排他的・一円的なものであった。そこには天皇や室町幕府将軍の支配も及ばなかった。

だから,「国家」と称されていたのである。その権力構造は,

支配基盤としての「村」と,権力基盤としての「家中」の存在に特質付けられ,…その構造とは,領国支配を主導し,「家中」に対し主人として存在する大名家当主とそれを支える執行部,それらの指揮をうけ奉公する「家中」,両者かに支配を受ける「村」の三者関係,

となっている。羽柴秀吉が,

給人(家来)も百姓も成り立ち候様に,

といったように,戦国大名の権力が成り立つには,

軍事・行政の実務を行う家来と,納税する村の両方が,それらの負担が可能な程度に存続していることが前提になっていたのである。

したがって村に対して,一方的な収奪を行うということはありえないことになる。村々を潰せば,大名の存立基盤そのものが危機に陥る。戦国大名の支配基盤は,

政治団体としての「村」にあった。村が当時における社会主体であり,大名への納税主体であったことによる。村は一定領域を占有し(村領域),そこから得られる,用水や燃料などの資源をもとに,生産・生活を行っていた。時に,それらの生産資源をめぐって,隣接する村との間で,武力を用いて激しい紛争を行うこともあり,まさに「政治団体」として存在していた。その村の構成員が百姓であった。…戦国大名の支配基盤は,個々の百姓家ではなく,それらを構成員とした政治団体である村であった,

と捉えられる,としている。そして,戦国大名同士の,存亡をかけた戦争になると,

例えば北条氏では,永禄十二年(1569)からの武田氏との戦争のなかで,村に対し,奉公すべき対象として「御国(おくに)」をあげるようになり,「御国」のためになることは,村自身のためでもある,あるいはそうした奉公は「御国」にいる者の務めである,

と主張するようになる。だから著者は,

こうした戦国大名と村との関係は,現代の私たちが認識する国民国家と国民との関係に相似するところがある。このことから戦国大名の国家は,いわば現在に連なる領域国家の起源に当たる,

と指摘している。思えば,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/390004444.html?1393535997

にあるように,信長の全国制覇は,分国支配の延長線上にある。

そう考えると,,戦国大名の家臣団構造,税制,流通政策,行政機構などを分析したうえで,戦国大名と織豊・近世大名の画期とされた,

兵農分離,太閤検地,石高制,楽市・楽座,貨幣政策

等々は両者の異質さよりは,両者の連続性に目を向けるべきだと主張するのはよくわかる。

ただである,確かに,領域権力としてはそうだろうが,各戦国大名レベルで見ると,

豊臣政権に服属した時点で,戦国大名ではなくなり,豊臣大名と定義される。戦国大名は「惣国」における最高支配権者という存在ではあったが,豊臣政権に服属したことによって,自力救済機能が抑制されるからである。

もちろん領国内の支配は独立的に展開できるし,豊臣政権から領国内の民衆に対して公事賦課があるわけではない。しかし,江戸時代の学者・萩生徂徠が「武士を鉢植えにする」と云い方をしたように,豊臣政権は,専制的に,大名を移封・転封させることができた。いわゆる「鉢植え大名」である。

その意味では,戦国大名は,天下が統一されて以降,独自に兵を動かすことも,陳情することもできなくなっており,豊臣政権,徳川幕府下では,戦国大名は,明らかに自律性,支配権限が制約されていることは間違いない。

かつて,戦国大名に服属した大小名が,領国としては独立していながら,戦国大名の支配下にあった「国衆」と言われた存在と,戦国大名自身が同じになったといっていい。

参考文献;
黒田基樹『戦国大名』(平凡社新書)





今日のアイデア;
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2014年04月29日

復活


三池純正『九州戦国史と立花宗茂』を読む。

凋落する大友宗麟の旗下で,島津,毛利,竜造寺と戦い続け,秀吉の力で,大友家の面目を保った後,秀吉による九州再編の中で,立花宗茂は,大友配下から,初めて,秀吉直属の,柳川九万石大名に取り立てられる。

著者は,奥州盛岡城の南部盛直の言葉を引用して,

上方では奉公をよくする者は,たとえ小者でもサムライに取り立てられるため,誰もが我劣らじと奉公に励んでいる。それが秀吉の軍隊のからくりに違いない,

という。それは,新たに取り立てた大名に対する天下人の意図を言い当てていて,

秀吉は中世名主たちを小者から侍へ,そして大名へと取り立てていったが,それはそのまま「唐入り」という大陸侵略への道と結びつく「からくり」であった,

という。

しかし,考えてみれば,これは秀吉の旧主織田信長のやり方そのものではないか。秀吉自身が,卑賤の身から,大名へと取り立てられたし,信長旗下には,そうして取り立てられた者たちが,競って先陣を争い,関東へ,中国へ,四国へと,怒涛のように進出していった「からくり」でもあった。

だから,旧臣であっても,その働きが悪ければ,佐久間信盛,林通勝のように追放される憂き目にあう。それが他の者に,「我劣らじと」働かせる原動力にもなる。

ある意味そういう人材の登用と使い捨ても,秀吉は信長から学んだのではないか。

さて,そうして見込まれた宗茂は,大陸侵略の前線を担わせる目的があったということになる。

では秀吉のもくろみは何か。こういう説を紹介する。

(全国)統一の過程でみずからを朝廷権力のなかに位置づけた秀吉は,朝権の及ぶ範囲を拡充する方途をとって政権のフロンティアを拡大し,大陸侵攻と国内統一は朝権の拡大として並行的に進められた。

秀吉は後陽成天皇を北京に移し,養子の秀次を中国の関白にし,天皇家や公家に北京周辺の百カ国を与えるとし,従来の冊封という中国への朝貢を前提とした外交関係から,秀吉か覇権を拡大して東アジアの頂点に立とうとした。

事実秀吉は,現在のフィリピンに使者を派遣して服属を要求し,拒否すれば派兵するとまで言っている。これはかつて鎌倉時代にモンゴルが日本に伝えてきた内容と同じで,秀吉自身が東アジアの頂点に立とうとしていたことがうかがえる。

そんな中で,宗茂も二度にわたり朝鮮出兵の先兵として,文禄には,軍役として,戦闘員,水主,水夫,職人,雑役人夫を含めて,二千五百人を率いて渡鮮,慶長には五千人を率いて,まさに先兵役をはたした。

その後,秀吉後の政権交代期,宗茂は,関ヶ原の合戦では,小早川,島津とともに,西軍についたものの,本戦の関ヶ原に間に合わず,手前の大津城攻城に足止めされたまま敗戦に立ち至る。結果として,改易となり,流浪することになる。

この間,家臣に支えられ,あるいは加藤清正の厚誼に与りつつ,家康,秀忠との交渉を粘り強く続ける。そして六年後,一万石を持って,秀忠に召しだされる。宗茂四十歳。

その後秀忠に近侍しつつ,江戸御留守番となり,四年後三万石に加増となり,御咄衆を経て,柳川藩主田中家の改易を機に,奇跡的に,旧柳川領十一万石の大名に返り咲く。宗茂五十四歳である。

家臣宛に,

我ら事,柳川・三潴郡・山門郡・三池郡拝領致し,まかり下り候,本領と申し過分の御知行下され,外聞実儀これに過ぎず候,

と喜びを伝えている。

豊臣も滅んで元和偃武以降,もはや武功でおのれを誇示できない時代,武で名を成した宗茂が,文で権力者にすり寄る様子は,何かちょっと哀れに見えるが,本人は必死であろう。

御咄衆というのは,宗茂のほか,丹羽長重,細川興元,佐久間安政で,四人ずつ二組に分かれて,隔日に秀忠御前に伺候する。宗茂が選ばれたのは,

宗茂公は生得の気風正直を宗として,時めく人に諂い給うこともなく,武家の古風を失い給わざれば,

という。事実,この席で,

大津城攻めの時は,まず大津城を攻め崩し,東国大名たちの首を一つ一つ取る覚悟であった,

と,そのときの大津城主京極家のものがいても,豪胆に話したと,話題になっている。

しかし,そんな話をせざるを得ない宗茂の胸のうちは,本音のところどうだったのか,と思う。わずかの戦いの帰趨次第で,この立場は逆転していたかもしれない。

武門というものが生き残るのは,結局「武」ではなく,「略」の時代になっていたということのあかしであり,そうして復活した立花宗茂は,そういう時代のひとつの象徴なのかもしれない。



参考文献;
三池純正『九州戦国史と立花宗茂』(歴史新書y)



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2014年04月30日

文体


古井由吉『鐘の渡り』を読む。

文章と文体は違う。古井由吉の文章は,文体としか言いようはない。今日の作家で,文体と呼べる文章を書くものは,大江健三郎と古井由吉しかいない。後の作家は,なべて,ただの物書きに過ぎない。

つくづく,またそう実感した。

文体とは,(日本語で言うなら)他国語に翻訳不能な文章といっていい。意味は伝わっても,それは,もはや文章でしかない。そこに,その作家の日本語がある。

まったく久しぶりに古井由吉を読んだ。もう,ん十年まえに,古井由吉論をまとめた。

http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic1-1.htm#%E8%AA%9E%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96

たぶん,そこですべてを言い尽くしたと,勘違いしていた。そこでは,古井由吉の作品の構造分析をしたつもりであった。しかし,久しぶりに最新作を読んでみて,気づいたことがある。

夢と現の境目,

が彼の描いてきた世界だということに,改めて,というかいまさらながら,何か大事なことを見落としていたような,忘れ物をしたような感覚に,気づいた。

 原っぱにいたよ、風に吹かれていた、年甲斐もない、と友人はおかしそうに言う。見渡すかぎり、膝ほどの高さの草が繁り、交互に長いうねりを打っていた。風下へ向って友人はゆっくり歩いていた。夜だった。いや、夜ではなく、日没の始まる時刻で、低く覆う暗雲に紫色の熱がこもり、天と地の間には蒼白い沼のような明るさしか漂っていないのに、手の甲がうっすらと赤く染まり、血管を太く浮き立たせていた。凶器、のようなものを死物狂いに握りしめていた感触が、ゆるく開いて脇へ垂らした右の掌のこわばりに残っていた。いましがた草の中へふと投げ棄てたのを境に、すべてが静かになった。
 雨はまだ落ちていなかったが,服は内側からしっとり濡れていた。地面は空よりも暗く,草の下に転がる得体のしれぬ物がたえず足に触れたが,足はもう躓きも立ち止まりもせず,陰気な感触を無造作に踏みしめて乗り越えていく。そのたびに身体が重くなる。しかし風が背後でふくらんで、衰えかけてもうひと息ふくらむとき、草は手前から順々に伏しながら白く光り、身体も白く透けて、無数の草となって流れ出し、もう親もなく子もなく、人もなく我もなく、はるばるとひろがって野をわたって行きかける。野狐が人間の姿を棄て、人間の思いを棄て、草の中に躍りこむのも、こんなものなのだろうか、とそんなことを友人は考えたという(「哀原」)

これは,僕の好きな作品の書き出しだ。このまま七日間失踪する。あるいは,

それは木目だった。山の風雨に曝されて灰色になった板戸の木目だった。私はその戸をいましがた、まだ朝日の届かない森の中で閉じたところだった。そして、なぜかそれをまじまじと眺めている。と、木目が動きはじめた。木質の中に固く封じこめられて、もう生命のなごりもない乾からびた節の中から、奇妙なリズムにのって、ふくよかな木目がつぎつぎと生まれてくる。数かぎりない同心円が若々しくひしめきあって輪をひろげ、やがて成長しきると、うっとりと身をくねらせて板戸の表面を流れ、見つめる私の目を眠気の中に誘いこんだ。ところがそのうちに無数の木目のひとつがふと細かく波立つと,後からつづく木目たちがつきつぎに躓いて波立ち,波頭に波頭が重なりあい,全体がひとつのうねりとなって段々に傾き,やがて不気味な触手のように板戸の中をくねり上がり,柔らかな木質をぎりぎりと締めつけた。錆びついた釘が木質の中から浮き上がりそうだった。板戸がまだ板戸の姿を保っていることが,ほとんど奇跡のように思えた。四方からがっしりとはめこまれた木枠の中で,いまや木目たちはたがいに息をひそめあい,微妙な均衡を保っていた。密集をようやく抜けて,いよいよのびのびと流れひろがろうとして動かなくなった木目たちがある。密集の真只中で苦しげにたわんだまま,そのまま封じこめられた木目たちがある。しかし節の中心からは、新しい木目がつぎつぎに生まれ出てくる。何という苦しみだろう。その時、板戸の一隅でひとすじのかすかな罅がふと眠りから爽やかに覚めた赤児の眼のように生まれて,恐ろしい密集のほうへ伸びてゆくのを,私は見た。永遠の苦しみの真只中へ,身のほど知らぬ無邪気な侵入だった。しかしよく見ると,その先端は針のように鋭く,蛇の舌のように割れてわずかに密集の中へ喰いこみ、そのまま永遠に向かって息をこらしている……。私も白い便箋の前で長い間、息をこらしていた。(「木曜日に」)

これは処女作である。このころから,この現と夢,幻想と現の境を描ききっている。

日常の中の,こんな夢と現の境が,底流するテーマなのだ。そんな危うさを,本短編集にもずっと通奏低音のように響く。それは,ほんのわずかなずれから始まる。

梅雨時の夜の更けかかる頃に,同年の旧友と待ち合わせた酒場へだいぶ遅れて急ぐ途中,表通りから裏路へ入って三つ目の角を見込むあたりで,蒼い靄のまつわりつく街灯の下に立ちつくす半白の男がいる。近づけばその友人で,やがて私の顔を認めて目を瞠ったなり,妙にゆっくりと手招きして,地獄に仏とはこのことだ,と取りとめもなく笑い出した。
 また何の冗談だとたずねると,道に迷ったと言う。知った足に任せて歩くうちに路の雰囲気がどうも違うようなので,さては角をひとつはずしたかと見当をつけなおして,しばらく行くと見覚えももどったようで,ようやく店までまっすぐのところまで来たかと思ったら,初めの角にいる,三度まわって三度同じところに出た時には小便洩らしそうになった,ワタシハイマ,ドコデスカと泣き出さんばかりだった,と笑いづけた。
 あんた,もう何年,あの店に通っているんだ,と呆れて顔をあらためて見れば,手放しで笑いながらも憔悴の影がある。(「明日の空」)

僅かなずれに,足を取られれば,そのまま失踪ということもある。そんな危うさが,さりげない日常に口をあけている。見ないつもりなら見ないですむ。しかし,いったん見てしまうと,目がそらせなくなる。

母親は壁ぎわにしゃがみこんで泣き出した時にはまだ,ただもう途方に暮れきっていた,とやがて思った。泣くだけ泣けば心が空になり,子たちの手を引いて長い階段を降り,夜更けの街をあてどもなくさまよった末に,気を取り留めて,先の望みもない日々の苦にもどっていたかもしれない。しかし女の子におずおずと顔をのぞきこまれて,どうして泣いているのとたずねられた時,子たちへの不愍さのあまり,母親の心は一度に振れた。
 切符をなくしてかなしくて,という言葉を女の子は,いましがた切符を出して改札口を通り抜けたのを見ているので,まだ分別の外ながら,引き返しのきかぬ声と聞いた。立ちあがると母親の面相は一変していた。
 最短区間の切符を買いなおして連絡通路をまっすぐに行く母親の,周囲からきっぱりと切り離された後姿が見える。女の子はその脇で,力を貸すようにひたりと寄り添い,乱れもない足を運んでいる。母親の鬼気は吸いこまれるままになったか。もう片側に男の子は手を引かれて,遅れがちの短い足をちょこちょこと送っている。ときどき,脇見をしている。
 人は追い詰められて,姿ばかりになることがある。外からそう見えるだけでなく,内からしてそうなるようだ,と二十歳ばかりの男がそんなことを思ったものだ。若年の間にいっとき挿まる,老いのような境だったからか。(「地蔵丸」)

母子心中を,そう想像しているのである。その一瞬,二十歳の若者も,現と夢の境にいる。

この短編集の中では,表題にもなっている,「鐘の渡り」と「八ツ山」がいい。

「鐘の渡り」は,最近では珍しく,三十代の男の話だが,『杳子』に比べると,淡泊だが,捨てがたい魅力がある。

……暮れた道を走ったこともあるけれど,人の道は夜目にもかすかに光ったものだと話を逸らすと,人のからだには燐がふくまれているからな,息に吐いて,汗に滲んで,道にこぼして行くんだ,と朝倉は答えて,
――ひとりきりになって考え込む人間も,雨の暮れ方などには部屋の内に居ながらうっすらと光る。境を越えかけたのを悟った病人を見たことがあるか。
 そう言ってこちらへ向き直った。そのとたんにあたりの林が一斉に燃えあがり,頭上には雨霧が立ちこめているのに西のほうの空の一郭で雲が割れたらしく,斜めに射しこむ陽の光を受けて木々の枯葉が狂ったように輝きながら,八方でまっすぐに揺らぎもせずに降りかかり,足もとの朽葉も照るようで,朝倉の顔も紅く染まり,それでいていきなり闇につつまれて遠い火をのぞくような眼を瞠った。ほんのわずかな,十と数えぬ間のことで,あたりが雨もよいの暗さにもどると,見たか,と朝倉は言って,何をと問い返す閑もあたえず,背を向けて歩き出した。
 追って雨が降りかかってきた。(「鐘の渡り」)


参考文献;
古井由吉『鐘の渡り』(新潮社)



今日のアイデア;
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