2014年05月05日

牢人


渡邊大門『牢人たちの戦国時代』を読む。

いわゆる牢人が歴史上現れるのは,源平争乱期からである。牢人には,

①郷土をはなれて,諸国を流浪する人
②主家を去り,封禄を失った人。

があり,前者は,律令国家で本貫地での税負担に窮乏化し,本貫地から逃げて浮浪人になっものを指す。国家の根柢を揺るがす問題であった。後者は,近世仕官していない武士を差した。江戸時代,浪人が定着する。

元来は,牢人と浪人は使い分けられており,『吾妻鑑』などでは,

浪人は,土地を離れた農民たちを,牢人は主のない本来武士身分にあったものを意味する,

ようである。

南北朝・室町期になると,守護がほろびると,牢人が生み出され,大きな問題となる。例えば,嘉吉の乱で滅ぼされた播磨・備前・美作の守護赤松氏の旧領に,山名氏が入部してくると,赤松氏被官の所領は闕所とされ,赤松支配下のものたちは,居場所を失い,牢人となっていく。かれらは,他国浪々を余儀なくされる。

こうした牢人たちが大量に出現するのが,戦国争乱期である。無数の主家を失った牢人を,例を挙げて紹介しているが,この時期有名なのは,尼子氏再興を懸けた,山中鹿之介である。

こうした主家再興は,そのまま,失った自分の所領や権益を取り戻す戦いでもある。その意味で,牢人は,あらたに入部したり,領有した支配者及びその被官人にとっては,自分たちの所領を脅かす,危険な爆弾といってもいい。

そのために,牢人規制が,その都度の支配者から発令される。古くは,室町幕府の,

浪人に家を貸してはいけない,

というものから,足利幕府の実権を握った三好長慶による,

浪人衆を許容するものは,聞きつけ次第成敗する,

というものまで,そして秀吉政権による,牢人停止令にとどめを刺す。

①主人を持たず,田畑を耕さないような士は村から追放せよ,
②もともと職人・承認の経験がある士なら,田畑を耕さなくても追放としない,
③主人のある奉公人は別にして,百姓は武具類の諸事を調査し,これを没収する,

百姓と武士の身分の厳格な区分を意図し,著者はこう書く,

主人持ちの奉公人身分でもなく,百姓,商人,職人にも属さない牢人は,村から追放されるか,武具を取り上げられる(実質的に武士身分を失う)かの,苦境に立たされた,

のであり,主取りの侍か,帰農するかの二者択一ということになる。

ここで言う奉公人とは,戦いの主力を担ったものであり,

①名字を持ち武士に寄子・被官として奉公する士・足軽
②名字をもたない中間・小者

を指す。主家を失った瞬間,身分を喪失し,社会の邪魔者となる。しかし,彼らが活躍の場を見つけるのは,

関ヶ原の合戦であり,大阪の陣であり,最期に島原の乱である(一説には,文禄・慶長の役も,あふれかえった牢人対策の側面があるとされる)。

この三回に,名が出てくるのが,宮本武蔵である。関ヶ原では,西軍についたという説があったが,近年,黒田家に属す新免家に組していたとされている。大阪の陣では,福山藩・水野家の客将として出陣している。そして,島原では,55歳で,中津城主・小笠原長次の後見として出陣し,一揆側の投石で負傷している。いずれも,仕官せず,最期は,細川家の客分のまま,五輪書を書き上げる。

しかし,大阪の陣後,

①落人を隠し置く者は,厳罰に処す,
②得体の知れない旅人の宿泊の禁止,

と,落人探索は,厳しく,多くの牢人は,失った所領の回復を果たすどころか,仕官の道も,当初は,

古参のもの,つまり,秀吉の代から仕えていたもののみ,

召し抱えてよいとされ,新参のもの,つまり大阪の陣で豊臣方についたものは,召し抱えてはならないという禁止がなされ,それが解かれるのは,十年後であった。

今も昔も,牢人は,あらたな仕官先を見つけるのは至難の業であったらしい。平和の時代に入ると,その困難は一層厳しいものになる。

これは,本書の対象ではないが,島原後,十数年,家光死後の,慶安の変,いわゆる由比正雪の乱も,大阪の陣以降の,改易,減封の中であふれた牢人問題が,背景にあった。

関ヶ原合戦後,牢人となった真田昌幸,信繁(いわゆる幸村)の父子は,配流先の九度山での生活は困窮をきわめ,信之への金の無心の手紙が多く残っている。いま和歌山の名産になっている「真田紐」は,生活を支えるために作製された。後世の講談のように,

来るべき日に備えて,虎視眈々と打倒徳川をうかがっていた,

生活とは程遠く,昌幸は,何度も郷里への帰国を規模していた,という。

秀忠軍三万八千を,わずか二千で上田城で翻弄し,関ヶ原に遅参させた,稀代の武将,真田昌幸も,

所領や軍勢を奪われ…,羽をもがれた鳥に等しい存在であった,

と,著者は言う。真田父子にして,これである。後は,推して知るべし,というところか。


参考文献;
渡邊大門『牢人たちの戦国時代』(平凡社新書)




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2014年05月06日

境目


盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』をよむ。

「戦国諜報戦」は,いささかオーバーというか,境界線での陣取り合戦には情報のやり取りも含まれるので,ここから想定される忍者と早合点すると,少し当てが外れる。

本書は,

信長や秀吉が現れる戦国時代の最終段階に,島津・長宗我部・伊達などの大名が複数の領国を支配するようになる前は,国衆が分立している国の方が多数であり,大きな戦国大名がいる国の方が少数だった,

その時代の,一国全体を統一する側ではなく,言ってみれば,地元での地場の人たちの戦いに,焦点を当てている。

(そうした)多数派を無視して,少数派を戦国時代の代表として記述する従来の戦国像,

への新たな像の提示を目指している。

その焦点を,

境目

におく。こう述べている。

戦国時代の合戦のほとんどは,隣り合う戦国大名間で起きたものである。力がある戦国大名は隣接する大名を攻撃して,所領の拡大を目指していた。一方,攻撃される大名は,侵入を阻止するために,境界を防衛する。そのために必然的に,戦国大名の支配領域の境界付近で合戦が起きる…,

こうした境界をめぐる争いを,研究者は,近年,「境目相論」と呼んでいる。本書は,まさに,それを描こうとしている。

戦国大名は,一般に,武田氏は甲斐,上杉氏は越後のように,一国または複数の国を支配しているものと,一郡または複数の郡を支配領域とする小さな戦国大名があるが,後者を国衆と呼ぶ。その境目が,国境になる。

その視点で見ると,有名な合戦も,

川中島の戦いは,北信濃支配をめぐって,南下する上杉と北上する武田の間の境目での合戦であり,
桶狭間の戦いは,鳴海・大高という,今川・織田の境目をめぐる攻防であり,
長篠の戦いは,武田勝頼の三河・信濃の境目への出撃に呼応した戦いであり,
山崎の戦いは,摂津の高山右近,茨木の中川清秀,伊丹の池田恒興による山城との境目の攻防であり,
賤ヶ岳の戦いは,近江と越前の境目,柳ヶ瀬での対決であり,
関ヶ原の戦いは,畿内と東国の境,不破の関という境目での攻防であり,

と,ある種の境界線で戦われたというふうに見ることができる。

この境目,多くは,地形・水系に由来する。

例えば,山。

一般的な境目になるのが山。山城と近江の国境は逢坂山。古来「逢坂の関」が設けられていた。峠は,多く,分水嶺を分ける。三国峠は,関東側が利根川水系,越後川が信濃水系。その水系が多く,一つの郡を形成する。

例えば川。

川はしばしば境目となる。大井川は駿河と遠江を分け,木曽川は尾張と美濃を分ける。

そうした境目の攻防で,橋頭堡として,城が築かれる。それを,

新地,

もしくは,

地利,

と呼ぶ。新しく得た領地と言った意味だが,そこに城が築かれる。付城とも呼ばれる。したがって,新地は,城のことをも指すようになる。

境目に作られた城は,境目の防衛を担うと同時に,敵方の城への攻撃拠点となる…,

その意味で,敵の城を攻撃するために,周囲に付城を築くが,攻撃拠点であると同時に,橋頭堡の意味も持つことになる。

この攻防の先兵になるのが,その国を追われた牢人衆ということになる。そこには,国を奪われた国衆も含まれる。

牢人については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/396273414.html

で触れた。本貫地を奪われたという意味では,本貫地を取り戻す戦いにもなる。

また,境目の地域は,危険が高いため,村内に散らばって住めず,城の近くに,すぐに城に逃げ込めるように住む,当然他国へ逃散するのを防ぐ意図もある。これを,

寄居,

という。。

また,この境目は,両者の情報戦の主人公は,

草,

と呼ばれる。時代劇で出る,「草」とは,少しニュアンスが違う。『政宗記』にこういうことが書かれている。

奥州の軍(いくさ)言葉に草調儀などがある。草調儀とは,自分の領地から他領に忍びに軍勢を派遣することをいう。その軍勢の多少により,一の草,二の草,三の草がある。一の草である歩兵を,敵城の近所に夜のうちに忍ばせることを「草を入れる」という。それから良い場所を見つけて,隠れていることを「草に臥す」という。夜が明けたら,往来に出る者を一の草で討ち取ることを「草を起こす」という。敵地の者が草の侵入を知り,一の草を討とうとして,逃げるところを追いかけたならば,二,三の草が立ち上がって戦う。また,自分の領地に草が入ったことを知ったならば,人数を遣わして,二,三の草がいるところを遮り,残った人数で一の草を捜して討ち取る。

当然駆け引きが行われる。その主人公は,身分的には,

足軽,

として,足軽衆に組み入れられているが,その実態は,

乱波

あるいは

透波(素波),

と呼ばれる。折口信夫は,こう書いている。

透波・乱波は諸国を遍歴した盗人で,一部は戦国大名や豪族の傭兵となり,腕貸しを行った。透波・乱波は団体的なもので,親分・子分の関係がある。一方,それから落伍して,単独となった者を,すりと呼んだ。山伏も法力によって,戦国大名などに仕えることもあった。山伏の中には逃亡者・落伍者・亡命者などが交じり,武力を持つ者もいて,この点でも,透波・乱波と近い存在である。

草の異称として,

かまり,
しのび,
あるいは
伏,

があるが,

一人前の武士がすることではない活動の象徴として,大久保彦左衛門の『三河物語』には挙げられており,まさに,境目的な,人たちだったということができる。

信長,秀吉,家康という人物を視点に戦国を描くのが鳥瞰的とするなら,ここで描いた地場での戦いは,虫瞰的といえるもので,確かに華々しさはないが,もう一つの戦国史といっていい。


盛本昌広『境界争いと戦国諜報戦』(洋泉社歴史新書y)




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2014年05月14日

間合い


前田英樹『剣の法』を読む。

この本は,何のために書かれたのかが,読んでいて分からない。著者は,

この本は,新陰流の刀法を実技面からかなり詳しく書いたものである。けれども,技の解説書といったものではなく,この刀法が成り立つ根本原理を,誰が読んでもわかるように書いたつもりである。このような原理をつかんでいれば,流祖以来四百数十年にわたって続くこの刀法の中心は崩れないと思う。

と言われる。ならば,

ただ新陰流の原理を伝えるために書いたのか,

それとも,

その精神のもつ普遍性を描きたかったのか,

それとも,

刀身一如という刀と身体の捌きを伝えたかったのか,

いずれとも,読んで判然とせず,ときに苛立った。

いま新陰流を学んでいるものにとっては,あるいは学びたいと思っているものには,さらには武道を心得ている方々には,役に立つかも知れない。しかし,いまどき刀そのものをもっている人間も少ない。まして,刀で立ち会うなどということは,試合ですらない。刀なしでは役に立たない兵法について,詳細に語られる意図が,僕には遂にわからなかった。刀あっての兵法だろうと思うし,それなしならば,単なる作法と同じになるから。

僕はもともと,



と,

剣術家(兵法家)

とは別のものだと思っている。兵法家(剣術家)が士とは限らないのである。僕にとっては,士道とは,ここにある,胸を叩く,

横井小楠

をこそ士と思っているので(剣を嗜む,あるいは剣を究めることがないとは言わないが,あくまで嗜みの一つ。事実小楠は皆伝の腕ではある),

剣客,
剣士,
兵法家,
剣術家,

は,士とは思っていない。せいぜい,

剣術に特化した士,

でしかない。この著書を僕はよく知らないので,そのどちらなのかは知らない。しかし,いま,この兵法が,役に立つ,とは,読んだかぎりでは(剣も知らぬ愚鈍な自分には)少しも感じられなかった。最後を読んで,兵法に耽溺しているご自身の自己弁護のために,縷々書き連ねたのだと,あやうく思い違いしそうになった。

もしあえて言うなら,本書から学んだことは,

間合い,

だと思う。人との間合いだ。著者が,身勢,拍子,間積り,太刀筋,と言っている,

間積り

と間合いが同じものなのかどうかは知らないが。

その面から見ると,結構面白さが見えてくる。僕が読み取ったかぎりでは,相手の構え,目付,拍子,間積りを,いかに崩すか,いかに破るか,に真髄がある,と見た。たとえば,上泉伊勢守が,愛洲移香斎の陰流によって開眼したいきさつについて,著者はこう書いている。

まず,型の始めに取る脇構え(中略)…から敵は,脇構えのままの姿勢で太刀を頭の右横に持ち上げ,前の左足を踏み込んで,こちらの左肩を斜めに切りこんできます。こちらはどうするか。敵と全く同じように,太刀を頭の右横に持ち上げ…,これまた敵とまったく同じ動きで,左足をわずかに踏み込み,斜め切りに相手の左掌を切り落とす…。二人の動きは,相似形を描き,ただわずかな時間のずれで勝敗がわかれるのです。

この動きから,伊勢守が開眼したのは,

まっすぐな体の軸がわずかに前へ移動する,その移動のふわりとした力によって,敵を切り崩す原理です。敵の切り筋を,自分の切り筋で塞ぎながら勝つ,

と。しかし,

相手のほうが先に切るのに,なぜ,あとから出す,こちらの切りが,勝ってしまうのでしょう。…相手は,こちらの左肩を切ろうとしています。こちらは,その相手の,すでに打ち出されている左掌を切ればいいわけですから,それだけ相手よりも動く距離が少なくなる。この間合いの差によって,こちらの切りが先になるのです。
しかし,ここでの勝敗の在り方は,ただ動く距離の大小だけで説明のつく事がらではありません。相手が動く,その動きに対して,こちらの移動が作るわずかな〈拍子のずれ〉が,崩しを生むのです。

と。ここに新陰流の流祖の見た真髄がある,と著者は言っている。

この勝ち口には,限りない自由と有無をいわせない必然とが,完全に,同時にあります。

それをこう説明します。

ここでの自由は,ただ任意に動き回る自由とは違う。「車」の構え(脇構え)から,わずかに踏み込む時,こちらが踏み込む線は,相手が踏み込んでくる線と,まったく同じ線上にるのでなくてはなりません。つまり,双方の四つの脚が,一線上にある。この踏み込みによる軸の移動が,ふわりと相手の軸の移動に乗るわけです。この時に,連動して一挙に為される軸の移動,間合いの読み,拍子の置き方,太刀の切り筋には,原理として言うなら,毛一筋程の狂いがあってもいけません。この一挙によってだけ,勝敗は天地の理のように,必然のものになるのです。

この必然は,彼我の関係性のなかに,

ただ自分だけの考えで,強引に創るのではない。敵と自分との〈間〉にある関係,即ち間合い,拍子,太刀筋の関係から,おのずと創り出されてくる…,

と。そして,ここに,陰流の「陰」の意味も隠されている,著者は言う。

陰流の剣法において,陽は対手です。陰は自分です。この関係の置き方に,陰流の極意がある。……「猿廻」(えんかい。上述の立ち合いを指す)…の型では,打立ち(敵)と使太刀(自分)は,ほとんど同じ動きをします。勝敗が生まれるのは,,二つの動きの間にわずかなずれを作ることによってです。陽の打立ちは先に動き,陰の使太刀はそれに応じて遅れて動く。陰は,始めから陽のなかに潜んでおり,陽の動きに従って外に現れる。現れてひとつの太刀筋になる。

突っ込んだ言い方をするならば,そもそも相手が,そう繰り出すように仕組んでいる,と言ってもいい。著者は,

始めに動くのは相手です。が,それは対手の動きを待っているのではない。相手を「陽」として動かし,動く相手のなかに「陰」として入り込むためです。入り込めば,打太刀の「陽」は,おのずから使太刀の「陰」を自分の影のように引き出し,その「影」によって覆われ,崩されることになります。

ありていに言えば,脇構えが,左肩を打つように,誘っている,と言ってもいいのである。この,

敵に随って己を顕わし,敵がまさに切ろうとするところを切り崩す勝ち方,



随敵

というそうである。上泉伊勢守が求めているのは,

ただ勝つことではありません。勝つことをはるかに超えて,彼我のすぐれた関係を厳密に創造すること,

あるいは,

相手の動きに協力するかのように入り込み,そのまま相手が崩れてしまう位置に身を占め,重く,しかもふわりと居座ってしまう感覚が必要です。

と著者が言うとき,その閉ざされた関係には,誰ひとり入り込む余地はない。例えは,悪いかもしれないが,ダンスに似ている。両者が同じ土俵の上で,緊張した糸を手繰りあいつつ,ひとつの完結した世界を作っている。それは,余人の入り込むことのできぬ,閉鎖空間なのである。

例えば,三代将軍家光の御前で,江戸柳生の柳生宗冬(宗矩の子息)と尾張柳生の連也が立ち会った光景をこう描く。

宗冬は,三尺三寸の枇杷太刀を中断に取っている。その宗冬から四,五間隔てたところに立った連也は,右偏身で小太刀を下段に堤げ,その切っ先は左斜め下に向けている。つまり,右移動軸の線に切っ先を置いた(あるいは,切っ先を左斜め下向させたままの真正面向きか)。その位取りのまま,連也はスルスルと滞りなく間を詰め,たちまち大山が圧するように宗冬の眼前に迫った。この時,宗冬は,真っ直ぐの中断から左手を放し「思わず知らず」右片手打ちに,連也の左首筋から右肋骨にかけて切り下げてきた。連也は,右偏身から正面向きに変化しつつ小太刀をまっすぐ頭上に取り上げ,己の人中路(中心軸)を帯の位置まで切り通すひと振りによって,宗冬の右親指を打ち砕いた。

右偏身(みぎひとえみ。右半身)とは,

右足を前に,左足を後ろにして立ち,左腰だけを四十五度開いて立ちます。この時,右足は真っ直ぐ前を向き,左足は左に四十五度開いて

いる状態で,スルスルと間を詰めて,左肩を(打つように)誘っている,と言えなくもない。

こちらからスルスルと間を詰めていき,その結果,相手は先に打ち出さざるを得なくなる,

新陰流の「目付」では,相手の切りを,自分の左側か右側かの二つに分けて観るのですが,さらに進んで言えば,相手の切りが自分の左側へ来るように誘い込むことが大切…,

このように迎えた時,振られる相手の拳が自分の型の高さにくる瞬間が必ずある。切っ先より一瞬前に拳が降りてくる。。その瞬間を捉えて,こぶしを打つ…,

という。そのように切り下げた,と見ることができる。

この一瞬の見切りは,体が覚えている,その差はほんのわずかなのだろうと,推測するしかない。たしかに,剣術家は専門職には違いないが,

できないことは,決してわからず,わかる,ということは,稽古のなかで積み重なる〈新しい経験〉としてしかできません。

自分の体でできないことは,わからない,というのが芸事一般の決まりです…。

と言われると,そのただなかにあるものにしか見えない,体感覚があるのだろうと,羨望深く,ただため息をつくほかはない。


参考文献;
前田英樹『剣の法』(筑摩書房)



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2014年05月23日

攻城


伊東潤『城を攻める 城を守る』を読む。

城には人格がある。信玄のいう,

人は石垣,人は城,

の意味ではない。建造物としての城自体に,縄張りした人物の人品骨柄,器量が出る。それが,攻城戦において,もろに出る。本書の面白さは,そこにある。

ただ連載物の単行本化のため,著者が断るように,

上田城,

がなかったのは,個人的には少しがっかりしたが,白河城から,熊本城まで,時代は異なっても,城ごとの人格は,攻め手側の人格との勝負でもある。

籠城は,後詰の援軍がなければ,ほとんど勝ち目はない。松平容保の会津城,豊臣秀頼の大阪城,荒木村重の有岡城,浅井長政の小谷城,島原一揆の原城等々,そうならざるを得ない仕儀にて,孤城の籠城になる。追い詰められてか,やむを得ずかはともかく,その瞬間,勝負は決している。その前に,切所はあった。そこに,将の器量の差が出る。

武田勝頼のように,長篠城を攻囲しつつ,織田・徳川連合軍を誘い出した。これは,信玄が二俣城を落とさず,家康を三方ヶ原におびき出したのと同様の,武田流の戦法だと著者は見る。

長篠城を囮にして信長と家康をおびき出し,「無二の一戦」に及ぼうとしたのではないか。むろん連合軍が後詰に来ないと分かれば,長篠城を落とせばいい。

と。しかし,結果は,設楽ヶ原で惨敗する。勝頼は,数年後,高天神城が徳川軍に包囲されたとき,後詰をせず,

これにより,勝頼の威信は地に落ちた,

という。攻めるだけではなく,味方の城が包囲されたとき,どういう姿勢を取るかは,味方は見ている。

秀吉の備中高松城包囲の際の,毛利の後詰,勝家の織田軍に包囲された越中魚津城への景勝の後詰等々。

直接的には,勝頼は,味方の後詰を怠ったことにより,離反が相次ぎ,自滅していった。

攻める側,守る側,ともにわずかな判断ミスが,致命的になる。

大阪城は,第四期の工事が,秀吉死後も続き,最終的には,八キロメートルにも及ぶ惣構堀に囲まれた,総面積四百万平方メートル,

という巨大な城で,難攻不落といっていい。二十万で包囲した家康軍も攻めあぐね,講和に持ち込むと,惣構掘,二之丸堀を埋め尽くし,本丸を囲む内堀だけの裸城にして,ようやく落とした。

攻め手と守り手の側の器量の差が,これほどはっきり出た攻城戦はない。いかな秀吉の器量をもってした築城した城といえども,守将の器量以上の働きはしない。

逆に,廃城となっていた原城にこもった島原一揆勢三万七千は,攻囲する幕府軍十二万四千を翻弄し,功を焦る,指揮官板倉重昌の強引な総攻撃を撃退し,板倉を始め四千四百もの死傷者を出し,一揆方はわずか十七名の死傷者にとどまるという,幕府側は完敗を喫した。

もちろん,その瞬間だけではなく,それまでの経緯抜きでは評価できないが,追い詰められて余裕のないはずの一揆勢に比し,後任の上使派遣を知らされて,功を焦らざるを得ない状況にあった板倉と,どこかにたかが百姓一揆と侮る気持ちがあった,その油断と隙は,攻撃側の乱れとなり,一揆側に衝かれた。それは,そのまま家格の低い板倉を上使として派遣した,家光の油断と隙,といっていい。実際,柳生宗矩が,その人事の危うさをたしなめたが,時すでに遅し,だったと言われている。

ほんのわずかな油断が,ぎりぎり対峙している両者の中に,隙間をつくる。

肥後半国十九万石を秀吉から拝領した加藤清正は,熊本城を築く。

城の周囲五・三キロメートル,本丸は総石垣,本丸に至る道は複雑に屈曲し,幾度となく櫓門をくぐらせ…築城当時,櫓四十九,櫓門十八,その他の城門二十九を数え,井戸に至っては,百二十余に達したという。

しかし築城されたのは,二百七十年前,銃砲主体の近代戦用の城ではない。しかも守り手は三千三百の鎮台兵,つまり農民兵である。攻め手は一万三千の,強兵薩摩軍。しかし,一か月の攻城も,抜けなかった。

大義ないまま,「暗殺の真偽を質す」という名目でたった薩軍は,十分の準備もないまま,

ただ剽悍な薩摩隼人を恃み,「軍を進め一挙に敵城を粉砕戦」という…,

無為無策での攻撃は,ただ無謀に千三百もの戦死者の屍を累々と積み上げただけだ。

攻め手の西郷隆盛の覚悟と守将谷干城の覚悟の差といっていい。私学校の暴発により,やむを得ず立たざるをえなかったにしても,その状況を主体的に変える立場に,西郷はいた。それを桐野にゆだね,状況に流されていった西郷に比し,谷は,持てる力をフルに使って,不利な状況を主体的に乗り切った。

将の差とは,状況の有利不利ではなく,もちろん守る堅城の可否でもなく,兵の強弱でもない。それを戦力にするかしないか,無駄な死にするかしないかは,かかって将の器量による,それは状況をどう主体的に乗り切るかどうかという,まさに将の才覚の問われる機会はない,そしてこれほど優劣のはっきりした戦力を,逆転した攻城戦はない。

それは,原城攻撃の板倉重昌にも言える。

参考文献;
伊東潤『城を攻める 城を守る』(講談社現代新書)




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2014年05月24日

快戦


中村彰彦『ある幕臣の戊辰戦争』を読む。

幕末,「四八郎」という言葉があったそうだ。

攘夷論者の清川八郎(庄内藩郷士),
北辰一刀流の達人,井上八郎(幕臣),
彰義隊副頭取の天野八郎(幕臣),
心形刀流の伊庭八郎(幕臣),

の四人である。本書の主人公,伊庭八郎は,旧幕府遊撃隊を脱走し,函館で死ぬ。

伊庭家歴代当主は,ただの幕臣ではなく,下谷御徒町にある心形刀流道場主で,神田お玉ヶ池の北辰一刀流玄武館,九段坂上三番町の神道無念流の練兵館,南八丁堀浅蜊河岸の鏡新明智流の士学館,と並ぶ,江戸の四大道場の一つであった。

伊庭八郎は,心形刀流の創始者伊庭是水軒から数えて,八代目,軍兵衛の嫡男であった。軍兵衛が急死した後は,一番弟子を宗家とし,養父のもと八郎は,道場経営に当たり,22歳で幕府に召出されるまでつづく。

道場は,当時門人数一千名以上。門人帳を綴じるのに,八寸の錐をあつらえたと言われるほどの盛況であった。

伊庭八郎は,身長五尺二寸,158㎝と小柄,しかし,

眉目秀麗,俳優の如き好男子,
伊庭の麒麟児,
伊庭の小天狗,

等々と称された。得意技は,諸手突き,同時代,突きを得意とした,鬼鉄こと,

山岡鉄舟,

と立ち会い,鉄舟を道場の羽目板まで追い詰めた,といわれる。この時分のエピソードに,牛込の天然理心流の試衛館の隠居(道場主が養子の近藤勇)周斎に,土方歳三とともに,小遣いをねだった,というのがある。八郎,歳三の両者が,ともに,五稜郭で戦死するのも,因縁である。

幕府に召出された八郎は,すぐに講武所剣術教授方に出役を仰せつかり,奥詰衆,つまり将軍親衛隊となり,将軍家茂上洛の際には,道中警護に当たる。第二次幕長戦の最中,家茂が死去し,多くの幕臣は,遺体を守り,東帰したが,八郎は大阪に残る。

幕府は,奥詰衆を遊撃隊へと編成替えし,銃隊編成とされ,小姓組,書院番組,新御番組を加えた,総勢590人に及ぶ部隊となった。

鳥羽伏見の戦いでは,上京を仰せ付けられた130人とともに,鳥羽街道の四ツ塚で,薩軍の銃砲にさらされる。幕府に勝る火器に圧倒される。

遊撃隊は「剣槍二術」と「銃術」を「兼習」する部隊だったはずだが,初めて実戦を経験するうちに剣客としての原点に立ちもどり,「剣槍二術」で戦うことを選択

する。それは遊撃隊だけでなく,会津藩も,新選組も,

抜刀斬りこみ,

を選ぶ。成果はともかく,伊庭八郎は,

薩将野津七左衛門(後の野津鎮雄陸軍中将)をして幕軍流石に伊庭八郎在りと嘆称せしめたと伝えられた

が,抜刀斬りこみ中,砲弾を胸に受け,卒倒する。ただ当時の砲弾は貫通力が弱く,鎧の胸甲にはじき返されたものの,その衝撃で血を吐き,昏倒するにとどまった。

海路江戸へ向かう途中脱走した遊撃隊三十人とともにあった伊庭八郎は,上総で,請西藩一万石の藩主林忠崇を巻き込み,徳川家再興を期して,上総義軍を立ち上げ,榎本武揚の軍艦「大江丸」の助力を得て,真鶴に上陸する。

この間,帰趨を見守る各藩,陣屋からの金穀,武器の教室を受けつつ,脱走遊撃隊は,270人に膨れ上がり,ミニエー銃470挺,大砲二門を備えた,洋式銃隊に変貌を遂げていく。

しかし期待した上野彰義隊も一日で,潰れ,新政府軍は,長州,鳥取,津,岡山四藩兵一千を派遣,箱根で激突することになる。

ここで,伊庭八郎は片腕を失う。

包囲された中で,腰に被弾,三人を斬ったものの,左腕手首近くを斬られ,結局左腕を失うことになる。負傷後,骨が突き出た状態になったため,肘下から,切り直しの必要が出たが,八郎は,

人,吾が骨を削る。昏睡して知らざるべきか,

といって麻酔を拒んで,手術を受けたが,

神色不変,

だったという。隻腕となった伊庭は,しばらく,江戸(東京に改称)でかくまわれ,左の片肘に銃を架して球を撃つ練習をしつつ,元年11月に,五稜郭の榎本軍に合流する。

今一度快戦をしたい,という思い,

言い換えると,死に場所を求めて,伊庭八郎は,函館に向かった。

土方歳三は,三分の一の兵力と,能力の劣るミニエー銃で敵を後退させ,

疾風の花を散らすに似たり,

と称された,戦死を遂げる。

著者は言う,

かつて近藤勇の養父周斎老人に小遣いをねだった伊庭八郎,土方歳三のふたりが,ともに快戦の夢を果たしてから死んでいった,

と。伊庭八郎26歳。土方歳三34歳。

戊辰戦争に当たって,というか,そこをおのれの切所としなければ,別にこだわりなく時代を乗り越えていくことができる。しかし,その状況を潔しとしなければ,それと戦うことになる。その切所は,一回とは限らない。最期は,たぶん,切所で戦うこと自体が,目的化していたかもしれない。しかし,そこで死したもの,生き残ったもの,いずれもその人の人生を使ったのであって,他人の人生ではない。

僕は,こういう人の生き方を見ると,これは武士だから,剣客だから,というのではなく,その人の生き方なのだとつくづく思う。

甘いと言われるかもしれないが,いったんその状況を引き受けた以上,それに(伊庭八郎,土方歳三のように)殉ずるのも,そこから(榎本武揚のように)離脱するのも,それなりに自分の選択だ。

会津戦争で生き残った,佐川官兵衛,山川大蔵は,西南戦争で官軍に参加し,佐川は戦死,山川は生き残った。

参考文献;
中村彰彦『ある幕臣の戊辰戦争』(中公新書)




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2014年06月02日

手抜き


釘原直樹『人はなぜ集団になると怠けるのか』を読む。

副題に,「社会的手抜き」の心理学とある。要は,手抜き,著者はこう定義する。

個人が単独で作業を行った場合にくらべて,集団で作業を行う場合のほうが一人当たりの努力の量(動機づけ)が低下する現象を社会的手抜きという。

この例に,フランスのリンゲルマンの行った実験結果を上げ,一人の力を100%とした場合,集団作業時の一人あたりの力の量は,

2人の場合93%,3人85%,4人77%,5人70%,6人63%,7人56%,8人49%,

となったという。それは,

集団の中では責任感が希薄になる,

のが一因と,著者は推測し,そういう例を,見て見ぬふりから,カンニング,ブレインストーミング,スポーツの八百長,集団浅慮まで,幅広く例を挙げつつ紹介していく。

その原因として,

外的条件(環境要因)としては,

評価可能性 個々人の集団への貢献度がきちんと評価できるかどうか
努力の不要性 自分の努力が集団全体にほとんど影響せず,しかも他の人と同等の報酬が得られる場合
手抜きの同調 他の人が努力していなければ,自分だけ努力するきになれない。強い仲間意識や暗黙の集団規範

内的条件(心理的・生理的要因)としては,

緊張感の低下
注意の拡散

を挙げた。結果として内的条件は,外的条件の結果として発生するので,

どのような条件,とくに外的条件がどのように連結して社会的手抜きにつながるか,

の切り口から,

①期待 
個人の努力が個人のパフォーマンス向上につながるという予期。勉強しても成績が上がることが予期できなければ,期待は低くなり,自己効力感(自分の努力と成果が結びつく可能性が高いと認識している感覚)も低い。
②道具性 
パフォーマンスが何らかの報酬や罰に結びつくと思っている度合(信念)。業績が挙がれば給与が増えたり,賞賛されたり,名誉を得ることができる程度が強ければ,「道具性」が高いことになる。
③報酬(価値)
その人の主観的価値として,仕事や報酬に意味がある

の3要素が個人の動機づけとして高い,とまとめた。

では,どんな人が手抜きするのか。

評価可能性が低く,自分のパフォーマンス(業績)が必ずしも自分の報酬とはならない場合や,自分が努力しても集団のパフォーマンスの向上にはほとんど役に立たない(道具性が低い)場合には社会的手抜きが生じやすい。そのために評価可能性や道具性の認識に敏感なパーソナリティ(気質,正確,能力を含めたもの)の持ち主は社会的手抜きをしやすいと考えられる。

そこで,パーソナリティを,

外交性
情緒安定性
勤勉性
協調性
開放性

の5因子の組み合わせでパーソナリティを測ると,

強調性と勤勉性は手抜きと,負の関係,という実験があるようである。そのほかに,

達成動機(個人的な目標や基準を達成しようと努力する傾向)の高い場合,(中略)どのような時にも手抜きしなかった,

という。それはわかる気がするが,しかし,その動機と,や(らされ)ることのギャップが大きい場合はどうなのかと,ちょっと疑問が残る。

結論として,パーソナリティと社会的関係を見た場合,その人の認知として,

評価可能性(自分の努力が公けに認められる),
努力の不要性(自分の努力が集団全体に役に立つ)
道具性(自分の努力や報酬や罰と直接結びつく),
報酬価値(仕事事態や報酬に価値がある),

すべてに正の反応なのは,

勤勉性

達成動機

であるようだ。突っ込んだ言い方をすると,外的な条件がどうであろうと,自分の,

価値基準が明確である,

と手抜きがしにくい,ということになる。すべてのパーソナリティに効くのは,

評価可能性,

のようである。手抜きを左右する,重要な要因,ということになる。

気になるのは,

腐ったリンゴ効果

である。

自分の利益を優先して集団の利益をないがしろにするような利己的振る舞いをする者が集団の中にいた場合,

その利己的な人一人を認識していないと非協力は50%
その利己的な人一人を認識していると非協力は80%

と,たった一人の林檎でも,集団全体を腐らせる,と。

さて,では社会的手抜きにどう対応するのか,ありきたりだが,

目標の明確化,
正確なフィードバック
個人の役割の明確化

ということが挙げられていた。結局,

個々人のその仕事への意味づけ,

をはっきりさせる,という意味では,やる気をどう高めるか,ということと軌を一にする話に落ち着く。

しかし読み終わって,手抜きを,

本来やれる(はずの)こと,やるべきことをサボること,

と言い換えると,難しいのは,それが,そのひとの「本来できるレベル」と,どう決めるのか,その日その日で,その「本来」というのは変わるのに,ロボットのような機械的な対応を求めていいのだろうか,という疑問だ。

ある組織で,組織改革があった時,その当人が,これは,

スーパーマンを求めている,

とぽつりと言った。孔子ではないが,

人に備わらんことをもとむるなられ,

である。僕は社会心理学者が書いた本を読んだとき,いつも現実とは違う実験結果で現実を推し量ろうとしている,という気がしてならない。今回も,ずっと違和感をぬぐえなかった。

人は,一人一人違う,どの立場から,それを見るかによっても変わる。そもそも手抜きか手抜きでないかは,なんではかるのだろう。

その一瞬,手抜きしているように見えて,その手抜きが,次のパフォーマンスに寄与する,ということは,ありうる。だから,どの視点から見ているかで変わる,と思うのだ。

それと,集団になっている時と,ひとりでやっている時と,出す力が違うのは当たり前ではないかという思いがある。その余力が,次へのステップというか,バネになる。そこで次の手を考える。余力なく,全力でやっていて,組織が回転するとは思えない。同じ作業を永遠に繰り返していては,集団というか,組織自体が生き残れないのだから。

その意味でタイトル『人はなぜ集団になると怠けるのか』は,逆に,人は集団の中にいると怠けるもの,という著者側の先入観でものを見ているのではないか,そしてそれにふさわしい結果が出るように実験している,としか見えないところがある感じが拭えない。まあ,著者の勘ぐり,と言えば言いすぎか。しかし著者の想定している程度の仕事観,労働観では,今日の組織は生き残れない気がしてならない。

参考文献;
釘原直樹『人はなぜ集団になると怠けるのか』(中公新書)




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2014年06月17日

謀叛


谷口研語『明智光秀』を読む。

本能寺の変で一躍歴史に名を残したが,さて,では事跡はというと,ほとんどが残っていない。歴史に登場したのは,彼の生涯五十数年のうち,

後期の足かけ十四年,

である。

その十四年間で光秀は,一介の浪人から,当時の日本でベストテン入りするだろうほどの権勢者へと成り上がった。

と著者は言う。しかし,

これはまったく信長の十四年間と重なるのであり,光秀の伝記を書くはずが,信長外伝になってしまう可能性がある。

とまえがきで書いた著者は,彼についてのほとんどが本能寺の変に関わるもので,本書執筆にあたって,

一つは,「本能寺の変の原因をさぐる」という視点を意識的に避けたこと,
もう一つは,江戸時代の著作物をできるだけ排除したこと,

の二点を留意した,という。結果として,実は,信長抜きでは,ほとんどその人生のない,という伝記になっていることは否めない。

唯一歴史に残った,本能寺の変の前年に光秀の制定した,

家中軍法

も著者に言わせると,

こんなことで戦争ができるのか,

と言わしめる代物らしいが,その後書きで,

瓦礫沈淪の輩を召出され,あまつさえ莫太の御人数を預け下さる,

と書いた。その本人が,「預け下さ」つた主を,翌年弑するのだから,人生は分からない。

その光秀の「瓦礫沈淪」の前半生については,ほとんど分からない。確かなのは,

「永禄六年諸役人附」

の足軽衆の末尾にある「明智」が,光秀と推測される,という程度である。だから,土岐の流れとかと言われる光秀だが,正体は,

光秀と室町幕府との関係は,義昭以前にさかのぼるものではなかったと結論するのが妥当だろう,

ということになる。明智を名乗っているが,

どこの馬の骨か分からない,

ものが,兄義輝の暗殺で担ぎ出され,あちこち転々とする義昭の,まあどさくさに紛れて足軽衆に潜り込んだ,というのが実態ではないのか,と勘繰りたくなる。光秀は,

細川の兵部太夫が中間にてありしを引き立て,中国の名誉に信長厚恩にて召遣わさる,

と多聞院日記にある,というし,ルイス=フロイスは,

彼はもとより高貴の出ではなく,信長の治世の初期には公方様の邸の一貴人兵部大輔と称する人に奉仕していたが,その才略・深慮・狡猾さにより,信長の寵愛を受けることになり,主君とその恩恵を利することをわきまえていた,

と『日本史』に書いた。

まずは,幕臣細川藤孝の知遇を得,信長との交渉役を経て,世に出て行ったということになる。

光秀が『信長公記』に登場するのは,上洛した義昭が,撤退したはずの三好三人衆らに,宿所の本圀寺を襲撃された折,その防戦に当たった人数の中に,

明智十兵衛

として,である。その一年後の,元亀元年の浅井・朝倉勢三万が南下した志賀の陣では,二,三百を抱えるほどになっている。さらに山門焼き討ち後,近江志賀郡を与えられ,坂本に城を築城するに至る。城持ち大名になったのである。

翌年元亀二年,摂津高槻へ出陣した折には,一千人をひきており,四年後の天正三年には,すでに二千人を率いるまでになっている。そして丹波・丹後平定を経て,丹波一国を拝領した後の,天正八年以降は,一万を超える軍勢を擁するのである。

例の佐久間信盛折檻状では,

日向守は丹波国を平定して天下の面目をほどこした,

と,外様にもかかわらず,織田家中第一の働きをしていると,名指され,ひるがえって宿老の信盛の怠慢を責めるだしに使われるほどになっていくのである。

にもかかわらず,備中出陣のため,わずかな人数で上洛した信長の虚をつくかたちでも謀反を起こしたのである。著者は言う。

光秀の心の葛藤をとやかく詮索しても所詮わかろうはずがないが,積極的にせよ消極的にせよ,信長に取ってかわろうという意志はあったとしなければならない。変後の行動,すなわち近江の平定,安土城の接収,朝廷・五山への配慮,細川・筒井両氏の勧誘,そして山崎の合戦,この流れをみれば否定できないだろう。そして,軍事的な背景についていえば,光秀にとって千載一遇,またとないチャンスであったことははっきりしている。

その背景について,与力の筒井のあわただしい動きから,筒井順慶,光秀に,信長から,何らかの指示があったのではないか,と推測する。

「謀反」があまりにも突然のことであり,しかも何の準備もなかったらしいから,光秀をして決断させた(信長から指示された)何事かがあったはずである。

と推測する。それを,著者は,光秀を中心に,細川藤孝,筒井順慶を与力とする体制の解体にある,とみている。

前にも書いたが,フロイスの言う通り,光秀評を,

裏切りや密会を好み,刑を科するに残酷で,独裁的でもあったが,己を偽装するのに抜け目がなく,戦争においては謀略を得意とし,忍耐力に富み,計略と策略の達人であった。また築城のことに造詣が深く,優れた建築手腕の持ち主で,選び抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた,

という,

一筋縄ではいかない,したたかで有能な戦国武将,

というイメージで見るとき,光秀も,

そういうことなら,おのれが,

と,信長にとって代わりたい,と思うに至ることはありうる,とは思う。しかし,そこまで追い詰めたのが,信長の何がしかの指示だとすると,結局,光秀は,

信長に振り回された,

というか,信長の光に照らし出された一人だということができる。しかし,変後の処理を見ると,どうもちょっと,器が小さかったのではないか,という気がしないでもない。変後の秀吉の周到な手際に比べると,光秀は,

おのれを見誤った,

ような気がしてならない。


参考文献;
谷口研語『明智光秀』(洋泉社歴史y新書)




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2014年06月24日

革命


藤田達生『天下統一』を読む。

サブタイトルに,「信長と秀吉が成し遂げた『革命』」とある。何が革命なのか。

著者は冒頭でこう言う。

私たちは,戦国大名領国制の深化,すなわち分権化の延長線上に天下人による統一,即ち集権化があることを,何の矛盾もなく当然のように考えてきたのではないか。近年においても,天下人信長と秀吉や光秀らの数ヵ国を預かる国主級重臣との関係を,戦国大名と支城主の関係と同質ととらえ,戦国大名領国制の延長と見る研究が発表されている。

例えば,『戦国大名』では,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/395650739.html

のように,延長と見ている。その中間にあるのは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/390004444.html?1393535997

の信長論かもしれない。

本書では,

天下統一戦とは,極端に言えば,織田信長以外の武将は誰も考えなかった「非常識」な戦争だった。

集権化とは,戦国時代末期になってはじめて信長が意識的に推進した政策だったことが重要なのだ。天下統一とは,天下人率いる武士団の精神構造も含めた価値観の転換があってなしえたもので,信長や秀吉の改革については奇跡的とさえ言えるのではないか。

という問題意識で展開されている。その意味で,真正面から,

天下統一,

というもののもたらしたものを洗い出している,と言えそうである。

集権化を支えた信長の軍事力の秘密を解く鍵は,実は戦闘者集団である武士と生産者集団である百姓との身分と居住区の截然たる分離,即ち兵農分離にある。これに関連して信長と他の戦国大名との際だった違いとして本拠地移転に着目した。
尾張統一以後,清州(愛知県清須市)→小牧山(愛知県小牧市)→岐阜(岐阜市)→安土(滋賀県近江八幡市)へと本城を移動させるたびに,信長は家臣団に引っ越しを強制させた。長年住み慣れた本領を捨てて,主君と運命を共有する軍団を目指したのである。

こういう兵農分離は,信長の直属軍に,その端緒がある。

近習と足軽隊に重きを置く戦術は,尾張時代の信長の特徴だった。千人に満たない規模の直属軍が,軍事カリスマ信長の意志にもっとも忠実に従う軍団の中核を形成した…,

とされる。その例証で,

信長の軍団の兵農分離は,直属軍からはじまった。

とする。たとえば,有名な,斎藤道三との会談の時,「三間中柄の朱やり五百本」ときされているように,主力の長槍隊は三間柄,あるいは三間半柄を揃えさせていた,というのは,

信長が長さばかりか色も含めて同じ規格の者を大量に準備し,足軽たちに装備したものである。これは,もはや従来のような自前の武装ではなくなっていたことを物語っている。

長槍は長いほど重くしなることから統一的な操作が難しく,日常的に足軽たちに軍事訓練を課さねば,大規模な槍衾を組織的に編成することはできなかった。

そしてさらにこう断言する。

長槍隊に属した足軽たちはサラリーマン的にリクルートされていたことになる。そうすると,信長の軍事的成功は莫大な銭貨蓄積に支えられていたとの見通しが立つ。

事実,信長家臣の中には,商人的家臣の存在があり,津島,熱田,清州という領内拠点都市の有力者を家臣として従え,その商業的特権を保護し,必要な物資や莫大な銭貨を獲得した。それが,

軍団の兵農分離を促進した,

と,著者は見る。

その信長の新たな秩序作りの嚆矢を,天正八年,信長から大和・摂津・河内における一国全域規模の城割(城館の破却)を命ぜられたことに見る。

大和おいては,郡山城を除いて,国中すべてが破却され,これには一国の人夫が動員され,監督のための上使も派遣され,かなり徹底的になされた。この意味は,

城主だった国人・土豪層で在村を選択したものはやがて帰農したのである。要するに,城割によって兵農の地域的分離が進展する

ことになる。さらに,信長は,

重臣と与力大名が協力して領国支配をおこなうよう指導し,城割や築城そして検地に関わる最終決定もおこなっていることが判明する。光秀は,与力大名の細川氏や一色氏に対する軍事指揮権は預けられているが,最終的なそれは,信長が握っている。

そして,戦国大名の延長線上にあるのではない信長像を,こう言う。

織田領の全知行権は信長に属し,勝家クラスの重臣だったとしても,あくまでもそれを預かっている代官に過ぎないと,その本質を理解すべきである。たとえば重臣層は,正面きって信長からの転封命令を拒めたのだろうか。

いまや,信長の一声で,

縁もゆかりもない他国へと,転封によって占領支配をおこなう時代,つまり鉢植大名の時代になったのである。

それが可能になったのは,

中世武士の所領は交換不可能であったが,検地による所領の石高表示…により,それが初めて可能になったことは革命的といってよい。

つまり,城割,検地はセットであり,それが鉢植大名化をもたらすと同時に,軍役に大きな変化をもたらす。

石高制による領主所領の把握は,彼らに対する軍事奉公即ち軍役の賦課基準の確定

をも目的としたものであり,例えば,現存する明智軍法では,百石が最低単位で,

主人が六人の家来を引き連れることを規定している。そして百石以上の所領をもつ家臣については,動員すべき侍・軍馬・旗指物持・槍持・幟持・鉄砲衆の具体的数が示されている…。

この信長の到達したのは,

家臣団に本領を安堵したり新恩を給与したりする伝統的な主従関係のありかたを否定し,大名クラスの家臣個人の実力を査定し,能力に応じて領地・領民・城郭を預ける預治思想

だった,と著者は主張する。それは,

父祖伝来の領地すなわち本領を守り抜く中世武士の価値観が,将軍を頂点とする伝統的な権威構造を再生産し,戦国動乱を長期化し泥沼化させた原因であると判断した。(中略)信長とその後継者秀吉による天下統一戦は,全国の領主から本主権を奪って収公し,あらためて有能な人物を国主大名以下の領主として任命し,領土・領民・城郭を預ける「革命」だった。

当然,この延長戦の上に,秀吉が来る。この分岐点を小牧・長久手の戦いと,著者は見る。これは,

織田体制を継承しようとする信雄と,独自の政権構想を掲げて天下人をめざす秀吉との,「天下分け目の戦い」といっていい,

と。この直後,全国規模の国替を強制し,

それまで同輩的な関係にあった諸大名を命令ひとつで転封可能な鉢植大名にして,彼らに対する絶対的な主従関係を確立した。

最終的には,

天下統一戦を通じて家康をはじめ伊達政宗・上杉景勝などの大大名まで転封させたことである。旧主で織田氏家督であり秀吉に次ぐ正二位内大臣という高位高官にあった織田信雄でさえ,転封命令に服さねば改易に処され…

るところまでの権力を掌握したのである。

信長や秀吉の新領地に対する統治を「仕置」とよび,秀吉の段階で城割・検地・刀狩などの統一策が占領マニュアルとして盛り込まれ(仕置令),一大名によって一国単位で強制された。…これらを性急に強行しようとした国々では,牢人衆―かつての大名家臣だった国人や土豪たち―をリーダーとする激烈な仕置反対一揆が頻発した。
天下人たちは,それを公儀に対する反逆と位置づけて,麾下の大名に命じて徹底的に虐殺した。

その結果,

天下統一戦を通じて,秀吉は麾下の大名領主に対して本領を収公し他所への知行替を強行して鉢植化し,民衆からは武装蜂起すなわち一揆の自由と居留の自由を刀狩令と土地緊縛策によって奪った。秀吉は天下統一によって,中世における領主と民衆の根本的な権利を剥奪したといえよう。

この先に江戸時代の幕藩体制が来るが,このとき,大名は,

将軍から「大事な御国を預」かっている

という認識に変わる。もはや,自らの武力で領国を切り取る戦国大名の面影も消えている。その時代になって初めて,武士道という作法が,逆に,必要になってくるということなのだろう。

参考文献;
藤田達生『天下統一』(中公新書)




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2014年06月25日

姿勢


成瀬悟策『姿勢のふしぎ』を読む。

脳性マヒで動かないはずの腕が,催眠中に挙がったという事実に直面したのがことの始まりで,それ以来三十数年を経て今なお,人の「動作」というものの面白さに取り付かれっぱなしの状態,

という著者の,

肢体不自由者の「動作訓練」と並んで,動作による心理療法を「動作療法」とし,両者を合わせて「臨床動作法」と呼ぶ,

独自の治療効果のある療法の臨床実験の報告になっている。脳性まひから始まった対象は,いまや,脳卒中のリハビリ,四重肩,五十肩,自閉症,筋ジスからスポーツまで,幅広く応用範囲が広がっている。

その基本は,脳性マヒでの実証が背景になっている。

催眠暗示でリラックスできてもそれだけなら醒めれば元に戻りやすいということもあって,催眠に頼らずに同様の効果がえられないか…,

という課題から出発し,ジェイコブソンの「漸進弛緩法」を手掛かりに,

筋緊張のみられる肩や腕,腰や膝,足首などの関節をまず他動的に抑えて緊張させてから,押さえている力を弱めて筋弛緩をはかりながら,緊張感から弛緩感への体験変化を感じ取らせることで,リラックスしていこう,

というやり方に辿り着き,その効果に気づく。(ジェイコブソンについては,著者の別の本『リラクセーション』でも触れた。)

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163475.html

その効果は,

脳性マヒの子の手足が動くか動かないかというとき,ただ単に「動く」というだけでなく「動きすぎるほど動く」…,それこそ本当の話なのです。例えば手足を動かしたりしゃべつたり,からだで何かをしようとするとき,きまって腕や脚が突っ張ったり,その腕が後ろへ跳ね上がるように動いたり,肘を強く屈げて胸へ抱え込む,頸が緊張して頭が俯いたり前後に動く,そっぽをむく,などの動きや緊張はごくふつうにみられることです。

それを,

こうして動きすぎるほどよく動くにもかかわらず,そのからだは本人の気持ちや意思とは関係なく勝手に動いてしまい,どう努力しても自分の思うようには自分のからだを動かせないというのがこの子たちの本当の特徴なのです。

ととらえ,それまでの

動かない,動かせないなどととして捉え,「動かない」ことを基礎にしてこの子たちの特徴,

として考えた,いままでの理論や訓練への明確な反論となっている。そして,こう捉える。

脳の病変で肢体を不自由にしているのは,その病変が脳・神経系や,筋・骨格系のような生理的な機能に影響するというよりも,そのからだの持ち主である主体の自分のからだを動かすためのキーの押し方に影響して,それを未熟,不適切または不全にし,あるいは誤らせたりするため,主体の思うようには動かせなくなると考えるのが最も事実に合っているように思われます。すなわち,肢不自由をもたらした脳の病変は,生理的な過程に直接影響するというよりも,主体が自体を動かす心理的な活動を歪めるのが原因なので,たとえ脳の動きに関わる部分から,脳・神経系,筋・骨格系への生理的,物理的過程に異常がなくても,結果として不自由になるということになるわけです。

つまり,

この子たちのからだは病理学的に動かないのではなく,生理的には動く自分のからだを,その主体者が自分の思うようには動かせないだけ,

なのだから,

適切に動かせば動くようになるものなのです。

ということになる。もちろん,

何もこの子たちを健常者に近づけようなどとしているわけではけっしてありません。その子がもって生まれた体の機能,心の可能性を無駄なく,無理なく,なるべく充分に伸ばし,できるだけ生きがいのある豊かな人生を送れるように援助しようとしている…,

のである。では具体的にどうするのか。

動作のための努力は,まず「動かそう」として自分のからだへ働きかけることから始まります。例えば,握手を意としてそれを実現しようとするとき,まず握手するために必要な力を入れて腕を伸ばし,手を出し,握ろうとします。そうなるように主体は自分のからだに働きかけます。それは……腕に力を入れる感じ,伸ばしていく腕の感じ,手を出す感じ,相手の手を握るために入れる力の感じなどの実感を確かめながら,自分が実際にからだへ働きかけの努力をしていることをからだで実感することです。
動かそうと努力した結果,自分のからだのどこが,どのように動いているのか,現実のからだの動きを冷静かつ客観的に把握し確認するという努力は,動作において欠かすことができません。例えば,握手のとき,腕に力が入っている,腕は適切に伸びている,相手に向かってちょうどいいところまで手は出ている,手は相手の手を確かに握っている,相手の握り返す手を確かに感じている,などというような確かめる努力をしなければなりません。しかもそれは,……握手という動きの進行につれて,一コマ一コマにそのつど意図通り,ないし働きかけ通りに動いているか否かを現在進行形で確かめながら,動きの過程を進めることになります。

このプロセスは,ひょっとすると,スキーを覚えたり,自転車に乗ったりと何か新しいことを身体で覚えていく時と,変わらないのかもしれない。思い出すのは,このプロセスを細密にたどって,ポリオで動けない自分のからだを動けるように再学習したミルトン・エリクソンのエピソードであったが,

このように,自分の主体的な努力によって自分の意図通りの動きを実現した時,それをめざして活動している自分自身の努力活動の状況を自らのものとして実感することを「主動感」と呼んでいます。意図通りの動きが出来れば成功したと満足し,うまくいかなければ失敗したと反省するにせよ,いずれもそれは自分自身の責任によるものとして捉えるのは,それが自分がやったものという「主動感」の裏付けがあるからほかなりません。

この普通の人にとって意識もしない動作を,意識してたどっていく「動作体験」について,こんなことを書いています。

最近は脳性マヒも重度になり,しかも,ほかの傷害が重複して寝たきりの子が(対象として)増えてきました。こんな子たちの教育や訓練には,言葉が役立たないので動作が最も主要な手段になります。それまで寝たきりだった子が,独りでお坐り(あぐら坐り)できたときの独特の動作はまことに感動的です。補助の手を放したとき,全身にグッと緊張がはしって倒れずに坐位で踏ん張れた瞬間,眼がパッチリと見開き,右から左へ,さらに左から右へとゆっくり顔を動かして見回すのです。しかも,その直後からその子が大変化をします。それまで稚く弱弱しかった表情や仕草がしっかりと生き生きしたものに変わってくるのです。その後の心身の成長もまた驚くほど急速になっていくものです。

これを,

タテ系動作訓練法

と名付けていますが,ヨコからタテになることが人にとっていかに大事なのか,という視点から,立つ,について,

人が自分で立てるためには,重力にそって大地の上へ自体をタテにまっすぐ立てられるように彼自身が適切な力を全身に入れなければならないことが分かります。その力は,全身の筋群すべてを統合してからだに基軸をつくり,それをタテ直に立てようとするものですから,これを体軸ないし身体軸として捉えることができます。

として,次のような効果を挙げている。

この体軸は,……自分のからだの全筋群を統合して,初めて形成される彼自身の努力の結晶です。

また,「タテ直一本に通る心棒」として,

自分のからだをタテに立てられるようになると,表情や市靴などの自分自身に対する主体の対応が大変化するだけでなく,身体軸を外界の環境を受け容れて認知し,理解するための手掛かりにしようとします。

そして,

体軸が立てられるようになって外界の認知と対応がしっかりしてくるのは,彼がそれを原点として前後,上下,左右という三次元の座標軸において外界空間を捉え,自分の体軸を基準にして,その枠組みの中にそれを位置づけられるようになったことを意味します。

さらに,

時間の経過に伴って,この体軸が自分自身のよりどころとしての自体軸となって,外界が自分の中でそれぞれのものとして位置づけられてくるにしたがい,彼の心の中で,自分の置かれている外界全体が四次元世界として構成されてきます。その世界を自分と関係づけて認知し,対応し,あるいは活きかけ,活きかけられる基軸が考えられます。それは自分のからだという単なる身体軸にとどまらない主体的活動の中軸ですから,それを「自己軸」と呼ぶことができるでしょう。

こう見ると,ただの姿勢というより,立つ,ということの人間にとっての重要性が際立つ。著者は,よい姿勢とは,と,こうまとめる。

まず頸から肩,および背中から腰までの軀幹部が屈にも反にもならすぜ,自体軸がしっかり直に立てられていること,そしてお尻が引けず,股関節と膝が反らず屈がらず,まっすぐであること…。それらの節の部位がカタチの上でタテ直になっていればよいというのではなく,その形で全体重がかかとにかかるように,体軸にそってしっかり踏み締めができており,全体重が足の裏で確実に支えられるように,自体軸がやや前傾して重心が踵よりもすこし前,土踏まずのあたりにあり,足指のつけ根あたりに踏みつけの力が適切に入っていること。そのため,自体軸のどの部位にも主体によって柔軟ながら強くて確実な力の入っている状態が,もっともよい姿勢と言ってよいでしょう。

と。姿勢とは,構えであり,

物理的および社会的な外界の環境での事象やできごとに対応する仕方ないし態度…,

とするなら,こういう自体軸,あるいは自己軸を意識することで,眼の見え方が変わってくるということなのだろう。確かに,ヨコになっていたり,くつろいでいては,パースペクティブは開かない。姿勢は,そのまま,この世界への対処の仕方,もっと言えば,

対峙の仕方,

なのだから。

参考文献;
成瀬悟策『姿勢のふしぎ』(講談社ブルーバックス)




今日のアイデア;
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2014年06月26日

マインドサイト


ダニエル・J・シーゲル『脳をみる心・心をみる脳』を読む。

キーワードは,マインドサイトである。

マインドサイトについて,こう書く。

マインドサイトとは,自分の心と脳の働きを意識することができる注意集中の形である。マインドサイトをもつことで,心のなかの暗く激しい渦に巻き込まれるのではなく,「いま自分はどんな気持ちでどんな状態にあるか,これからどうなりそうか」に気づくことができます。すると,これまでの決まりきったパターンから抜け出します。いつもと同じような気持ちになり,感情に押し流されていつもと同じ行動をとるという悪循環から抜け出すことができるのです。マインドサイトによって,自分のそのときの感情に「名前をつけて,手なづける」ことができるようになります。

マインドサイトそのものの語義的な定義がないので,憶測になるが,

心を見る眼

という意味と,

心を見るポイント

という意味と,

心のさまざまな側面

というような意味がある,と僕は受け止めた。ただ対自やメタ・ポジションというだけではなく,見方の意味が含まれているように思う。

マインドサイトは特別なレンズのようなものです。

という言い方もあるし,

気づきの車輪,

といって,自転車の車輪のイメージで,中心軸からスポークが外輪へ向かって伸び,外輪の思考,感情,知覚,身体感覚に注意を向けている,その中心軸で気づきを感じる,その中心軸を前頭前野と考えていい,という言い方もしており,マインドサイトの持つ意味の多重性がある。

さらに,手法として,

フォーカシング(自分の心の状態に注意を向ける)

マインドフルネス(瞑想)

が紹介されているので,更に

注意を向ける向け方

という側面でもある。

そして心の表象を,著者は,

自分の心のイメージをつくる「私マップ(me-maps)」

他者の心についてイメージする「あなたマップ(you-maps)」

私とあなたの関係性をあらわす「私たちマップ(we-maps)」

があるとし,

これらがなければ,自分自身の気持ちや他者の気持ちを感じ取ることはできません。

という。この前提としてあるのは,

自分の心をよく知らなければ,他者の心を知ることはできません。自己理解するための力が高まることによって,相手の気持ちを理解して受け入れることができるようになります。脳のミラーニューロンが「わたしたち」という視点を獲得することにより,自己感覚もまた新たな視点を獲得します。心と身体の状態に気づき共感すること,自己を強化して他者とつながり合うこと,個でありながら集団としていられること―これこそが,社会的脳の共鳴回路がつくり出すハーモニーの源なのです。

という考え方なのである。

背景には,最新の脳科学の成果があるが,脳をイメージする時の,

脳ハンドモデル

は出色である。

手の親指を他の指と手のひらのなかに包み込むようにすると,「手ごろ」な脳のモデルができます…。握りこぶしの手のひら側のほうが人間の顔にあたり,手の甲が後頭部にあたります。手首は背骨から脳の根元まで伸びた脊髄と考えてください。親指をピンと立て,他の指をまっすぐに伸ばすと,ちょうど手のひらが脳の内部にある脳幹にあたります。親指を手のひらに折り曲げると,そこが大脳辺縁系のだいたいの位置を示します(両手を同じようにしてもらえば,右脳と左脳の対照的な様子を右手と左手で造ることができます)。その後人差し指から小指をくるっとまるめて元に戻すと,それが大脳皮質となります。

前述の車輪モデルで言う,中心軸,つまり前頭前野の持つ機能が,マインドサイトの機能と重なることに気づく。それには,9つある。

①身体機能の調節 心拍,呼吸,将かなどの私立神経の調節。交感神経というアクセルと副交感神経というブレーキのバランス調節である。
②情動調律 自分の心の状態を変化させて,相手の心の状態に共鳴するよう波長を合わせる。だからこそ相手に思われている,と感じられる。
③感情のバランス調整 感情のバランスを保つ
④柔軟に反応する力 入力と行動の間に「間」を置く力をもち,それが柔軟な反応をつくりだす。
⑤恐怖を和らげる力 前頭前野には大脳辺縁系と直接つながる線維連絡があり,恐怖をつくり出す扁桃体の発火を抑制し,調整する
⑥共感 あなたマップを作る能力。相手の心の状態に波長を合わせるだけでなく,心の中でどんなことが起こっているかを感じ取る力がある
⑦洞察 私マップをつくり,自分の心を知覚する。過去と現在をつなげて,この先何が起こるかを予測する,タイムトラベル装置
⑧倫理観 何が社会のためにいいか,そのためにどんな行動をすべきか,の概念をもつ。ここが破壊されると道徳観念が喪失する
⑨直感 体の知恵へのアクセス。心臓や腸などの内臓を含むからだ内部の隅々から情報を受け取り,「こうしろといっている」「これがただしいとわかる」という直感をつくり出す

要は,マインドサイトとは,脳の,とりわけ前頭前野のもつ能力をどう生かすか,ということだと言い換えてもいい。そのために,

①オープンさ 見聞きした者や心に浮かんだものすべてをありのままに受け容れる
②観察力 経験の中にあってなお自分を観察する力。自己観察によって,自分の生きている瞬間を全体としての文脈からみることができる
③客観性 思考,感情,記憶,信念,意図などの,ある瞬間心にあるものが一時的なものにすぎず,それが自分の全人格をあらわすものではなく,ほんの一面に過ぎないと気づかせてくれるのが,客観性

が,マインドサイトによる心のコントロールのための三要素としている。だから,

心とは関係性のプロセスであり,身体とつながり合うプロセスである。それによってエネルギーと情報の流れを調節するものである,

という定義は,心を実体化しないという意味で,キルケゴールの有名な一節が,瞬時に浮かぶ。

人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。

だから,マインドサイトは,

エネルギーと情報の流れをチェックし,整える,

ためのものと言い換えてもいい。そこで得るのは,

一つ目は,心臓の動きを感じ,お腹の具合に耳を傾け,呼吸のリズムに心を合わせる…身体の状態に耳を澄ますことによって,たくさんの大切なことが伝わってくるということ…。

二つ目は,関係性と心の世界は一枚の布の経糸と横糸だということです。私たちは他者との相互作用を通じて,自分の心をみています。

ということになる。最終的には,マインドサイトで,8つの統合を目指す,とする。

①意識の統合 注意集中する気づきの中心軸をつくりだす
②水平統合 全体思考の右脳と論理,言語の左脳の統合
③垂直統合 あたまのてっぺんからつま先まで,個々の部位の機能を統合し,一つのシステムとして機能させる
④記憶の統合 潜在意識に光を当て意識化する
⑤ナラティブの統合 左脳の論理的物語と右脳の自伝的記憶の統合による,「私の人生はこうだ」と理解する
⑥自己状態の統合 異なった基本的欲求と衝動を抱えた自己を,健全で多層な自己の一面として受け入れる
⑦対人関係の統合 私たちとしての健やかな幸せの状態。共鳴回路によって相手の心の世界を感じ,ともにいる,心の中にいる感覚
⑧時間的統合 未来が読めない,不確かな世界のなかでも,つながりを感じ,心穏やかに生きられる

それぞれが,臨床事例を通して,どう実践的に身に着けていくかが,具体的に紹介されている。いってみると,偏ったり,喪った自分を取り戻し,自分の再生の実践報告である。もちろん読んだだけで,マインドサイトが身に付くわけではないが,自分のボスとしての自分というものを取り戻すとはどういうことなのかが,よく伝わる物語になっている。

自分を取り戻すとは,

自分の一貫したライフストーリーが語れる,

ということなのだということがよくわかるのである。

ただ,最後に,ちょっと気になったことがある。

著者は,自分の核について,

すべての自己の状態の根底には,なんでもありのまま受け容れる核たる無垢の自己(receptive self)があるのではないかと私は考えている。研究者のなかにはこれを,itselfを意味するラテン語の単語ipseにちなんでipseityとよぶ人もいます。Ipseityとは,複数の自己の状態の根底に共通して流れる「自分らしさ」である。

なんとなく,心の中に,

純粋の自分がいる
まっさらな自分がある

という言い方をすることで,世俗的な「自分探し」の「自分」と同じように,自己を実体化してしまったのではないか。あくまで,関係性の中での自分であるからこそ生きる,

マインドマップ

ではないのか。関係性の統合とは,あくまで,メタないしメタ・ポジションを指すのであって,実体ではないはずではなかったか。

もしマインドマップを喩えではなく,実体としてのレンズであったり,実体としての中心軸の自分,としてしまったのでは,それまでのせっかくの議論が胡散臭くなる。自己を関係性の中に徹底して納めなければ,

脳の中の小人,

ホムンクルス(Homunculus)

と同じことだ。自分の中の自分の中の自分の中の自分……。

どこまでもキリはない。

それはともかく,本書が,ナラティヴ・アプローチの参考図書として,セミナーのレジュメに記載されていた意味がよくわかる。それは,ポジショニング次第で,どんな物語を語ることもできる,という意味でもある。自分という世界の多様性と豊かさ,と言ってもいい。

良くも悪くも,本書もまた,著者自身の,

物語

であるのだろう。

参考文献;
ダニエル・J・シーゲル『脳をみる心・心をみる脳』(星和書店)



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2014年06月28日

物語


武光誠『一冊でわかる古事記』を読む。

『古事記』の世界全体が,新書の解説本でわかるわけでもないが,

分かりやすい形で,読者に『古事記』の世界を紹介する,

意図で,著者の眼鏡を通した古事記世界像である。その意味で,かつて読んだきり読み直していない『古事記』を,他人の解説という目を通すと,どう見えてくるのかが,僕にとってのひとつの面白さだ。

古事記も物語であり(日本書紀が官製の物語なのに比し),太安万呂がまとめた,

全体で一つの流れをもつ物語である。

しかも,『古事記』は,

「帝記」「旧辞」と呼ばれる文献をもとにしてつくられた『古事記』の作製のときに,「帝記」にも「旧辞」にも,異なる内容を期したいくつもの異本があった。

それを一本にまとめるにあたって,

「旧辞」にもとづく物語の部分と,「帝記」を写した王家の系譜を帰す部分とを組み合わせてつくられている。

こう著者は解説する。もちろん,これも,著者の説に過ぎない。

物語というのは,一貫した世界を描く。そのために,その物語にそぐわない素材は,カットされる。歴史もまた物語とされるのは,著者が取捨選択して,世界を描き出すためだ。でなければ,ただ事実をつなげても,世界は見えてこない。

そこでは一貫した視界を造るために,外されるものがある,ということだ。と同時に推測されることは,一貫するために,不足を足す,ということがある。極端なことを言えば,その時代でないものを別の次代の事実から持ってきて,自分の描くジグソーパズルの全体像のためのピースにしてしまうということもある。

いまひとつ,物語は,書くということに伴い,言葉自体の連続性に拘束される,つまり,言葉にした瞬間,事実とは別に文章という文脈の拘束力に規制される。たとえば,同じ日の出でも,
朝日,
と書くのと,
日の出,
と書くのでは,次につなぐ言葉の規制力が異なる。つまり,言葉は,言葉によって,文脈を強制される。従って,否応なく,事実からは隔てられる。

そう思って,古事記を見ると,結構面白いところが多々ある。

たとえば,著者はこう言う。

古代人は「言葉には物事を動かす力がある」とする,言霊信仰をもっていた。そのために,個々の神の名はそれぞれの役割を示す重要な名称と考えられていた。天之御中主神の名前をもつ神さまは,世界の中心で万事をとりしきる能力をもつ。高御産巣日神と神産巣日神は,人間や動物が楽しい生活を送れるように見守り,かれらを繁殖させる力をもつ。

しかし,逆の言い方もできる。世界の万物をとりしきる神がいるとして,それに名をつけた瞬間,世界は,その神の御業に見えてくる,それは今日もそうである。われわれは,言葉を持つ(あるいは名づける)瞬間,そのように世界が見える。それを言霊と呼ぶなら,いまも言霊はある。

あるいは,建御名方神が建御雷之男神に打ち負かされ,諏訪湖まで逃げて降伏したという逸話について,

建御名方神の名前は,『古事記』の大国主神関連系譜にはみえない。諏訪側にも,大国主神を建御名方神の父神として重んじた様子はない。
こういったことからみて,建御名方神の話は後に加えられた可能性が高い。

と言う。その背景にあるのは,

六,七世紀に朝廷は,神話の整備や祭祀の統制に力を入れた。これによって,全国の神々を皇祖天照大御神を頂点とした秩序のなかに組み込もうとした…。

という政治的事情である。これまた物語に丸める動機になる。

あるいは,五世紀,南朝の宋朝に,倭の五王,讃,珍,済,興,武が使者を派遣したと,史書にある。それに合わせて,武が,

雄略天皇の実名,「ワカタケ」の「タケ」を漢字にしたもの,

として,雄略天皇に比定されるところから,残りを,

興を,安康天皇,
済を,允恭天皇,
珍を,反正天皇,
讃を,履中天皇もしくは仁徳天皇

にあてようとする。しかし,安康天皇,反正天皇は,中国史書にあわせて,後に系譜に加えられたのではないか,と見られる,と著者は言う。

つまり,中国側にある事実に合わせて,空白を補ったのである。たとえば,讃を,仁徳天皇とする説は,

仁徳天皇の実名の「オオササギ」の「ササ」を「讃」と表記したとする,

のである。もうここまで行くと,歴史も,確かに(創作)物語でしかない。

さらに,著者は,

五世紀はじめに本拠地を河内に遷した王家は,六世紀後半の570年代に最盛期をむかえたと考えられる。この時期に,日本最大の古墳である仁徳天皇陵古墳が築かれた…。
古墳の年代から見て,仁徳天皇陵古墳が五世紀はじめの仁徳天皇を葬ったものでないことは明らかである。(中略)仁徳天皇陵古墳は,有力な大王であった雄略天皇のためにつくられたものとみても誤りではあるまい。仁徳天皇陵ができたあとの河内の古墳は,次第に縮小していった。

さらに,こう付け加える

朝廷で漢字が用いられなかった時代には,「正確な系図を伝える」という発想は見られなかった。(中略)渡来人の知識層が朝廷での活躍が始まる五世紀なかばにようやく,王家の系図づくりがはじめられた。その頃の系図は,次のようなものではなかったかと思われる。

(いわれびこ)……みまきいりひこ(崇神天皇)―― いくめいりひこ(垂仁天皇)――ほむたわけ(いささわけ,応神天皇)――大王の祖父――大王の父――大王
このなかのほむたわけ(いささわけ)は,「七支刀銘文」にみえる倭王旨(ささ)に対応する実在が確実な大王である。……次の三人が五世紀実在した大王である可能性が高い。
おおさざき(仁徳天皇)――わくご(允恭天皇)――わかたけ(雄略天皇)
これに名前が不明な大王を二人加えたものが,倭の五王であ。「おしは」が,倭の五王の一人であった可能性もある。

不足をつないで,一貫性を保たなければ,ひとつの自己完結した世界はまとまらない。歴史も,また,「史記」を含めて,物語であるのだろう。

参考文献;
武光誠『一冊でわかる古事記』(平凡社新書)



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2014年07月02日

知への意志


ミシェル・フーコー『〈知への意志〉講義』を読む。

「ミシェル・フーコー講義集成1」である。「コレージ・ド・フランス講義 1970‐1971年度」。フーコーの講義録である。実際の講義の録音を基にすることになっているが,この年度には,それがないため,フーコーが講義のために残した草稿にもとづいている。

こんな知の巨人について。何か論評できるはずもなく,ただその精緻な論理と奥行きの深さに,昨今の日本の知のレベルの劣化というか,痴呆化に思いが至る。

しかも,これがコレージュ・ド・フランスの講義だということだ。出席者は,大学生,教職員,研究者,その他の興味本位の人たちに,毎週行われている。この知的レベルの高さに,まず驚嘆するしかない。それに比して…,もはや言葉もない。

「知への意志」と題したのこ講義は,

真理への意志が,言説に対して排除の役割を果たすのではないかどうか,すなわち,真理への意志が,狂気と理性の対立が果たしうる役割,もしくは禁忌のシステムが果たしうる役割に―一部において,そしてもちろん一部においてのみ―類似した役割を果たすのではないかどうか知ることである。

と始まる。そしてこう問う。

真理への意志は,他のあらゆる排除のシステムと同様,根底において歴史的なものではあるまいか。真理への意志は,その根底において,他の排除のシステムと同様,恣意的なものではあるまいか。真理への意志は,他の排除のシステムと同様,歴史のなかで変容を被りうるものではあるまいか。真理への意志は,他の排除システムと同様,制度的なネットワーク全体によって支えられ,絶えず再開されるものではあるまいか。真理への意志は,他の緒言説にたいしてのみならず他の一連の実践に対してなされる拘束のシステムを形成するのではあるまいか。要するに,問題は,真理への意志のなかに,いかなる現実の闘いといかなる支配の介入が入り込んでいるかを知ることなのだ。

問いは,それが新しく,鋭ければ鋭いほど,あらたな答えを秘めている。そこには,

真理は権力の外にあるのでもなければ,権力なしにあるのでもない,

というフーコーの立場が含意されているらしい。つまり,

知は,無私無欲でも,正義でも,まして,自由でもない,

ということを,フーコーは暴き続けている流れの中において見なくてはならない。別のところで,フーコーは,次のように語っている,という。

知識人の役割は,他の人々に対して何を為すべきかを語ることではありません。いかなる権利があって知識人はそんなことをしようというのでしょう。……知識人の仕事,それは,他の人々の政治的なのかたちを定めることではありません。そうではなくて,それは,自分自身の領域において行う分析の数々によって,自明性や公準を問い直し,慣習および思考や行動の仕方に揺さぶりをかけ,一般に認められている馴染み深さを一掃し,規則や制度の重要性を測り直し,そして,そうした再問題化から出発しつつ,一つの政治的な意志の形成に参加することなのです。

おのれの専門領域で,既成概念を崩し,そこから政治的な意志形成に参加しろ,ということだ。いまなら,各々の立場で,いまの日本の方向性を正すべく,深掘りし,知の再形成に挑め,ということなのだろう。しかし,怠惰と惰眠のせいで,いま,もう時間は限られているが。

さて,そこで,フーコーは,さらに,問う。

真理への意志という言葉を口にするとき,……問題となっているのは,真理への意志なのか,それとも知への意志なのか。そして,真理と知という二つの概念のうちの一方あるいは他方を分析する場合には必ず出会うことになる概念―つまり認識という概念―についてはどのようなことが言えるだろうか。

そして,さらにフーコーは,問う。この問いの連鎖の中で,ふと思い出すが,清水博が,

創造の始まりは自分が解くべき問題を自分が発見することであって,何かの答えを発見することではない,

と書いていた。そのフーコーの問い。。。

意志という語を,どのような意味で理解すべきであろうか。この意志という語の意味と,認識への欲望ないし知への欲望といった表現のなかで使用されている欲望という語の意味とのあいだに,いかなる差異をみいだせばいいのか。「知への意志」という,ここで他と切り離して考えられている表現と,「認識への欲望」という,より馴染み深い表現とのあいだに,いかなる関係を打ち立てればよいのか。

と。そして,この例題として,アリストテレスの『形而上学』の冒頭が引かれる。こうある。

すべての人間は,その自然本性によって,認識への欲望を持っている。諸感覚によって引き起こされる快楽がそのことの証拠である。実際,諸感覚は,その有用性を抜きにしても,それら地震によつて我々に好まれるものである。そして,あらゆる感覚のなかでも最も我々に好まれるのが,視覚である。

フーコーは,ここの三つのテーゼを読み取る。

①知にかかわる欲望が存在する
②この欲望は普遍的であり,あらゆる人間のうちに見いだされる
③この欲望は自然によって与えられている

そして,アリストテレスの論証を推測しつつ,また問う。

第一の問い。感覚および感覚に固有の快楽は,いかなる点において,認識への自然的欲望のしかるべき例であるのか。

第二の問い。もし,あらゆる感覚が,それぞれの感覚が行う認識活動に応じてなにがしかの快楽を与えるのであるとするなら,動物たちはなぜ,感覚を持つにもかかわらず認識することを欲望しないのか。アリストテレスが,認識への欲望を,すべての人間に備わるもの,ただし人間のみに備わるものとみなしているように思われるのは,いったいなぜだろうか。

そして,フーコーは,こう答える。

アリストテレスは,一方では,認識への欲望を自然のうちに組み入れ,その欲望を感覚と身体に結びつけて,ある種の形態の喜びをその欲望の相関物とすることに成功する。しかし他方,それと同時に彼は,認識への欲望に対し,人間の類的自然本性のなかで,つまり,知恵の境域,自己のみを目的としており,そこでは快楽が幸福であるような一つの認識の境域のなかで,その地位と基礎を与えるのである。
そしてその結果,身体,欲望が省略される。感覚すれすれのところで諸原因の大いなる平静かつ非身体的な認識へと向かう運動,この運動は,すでにそれ自身,知恵に到達しようとする漠とした意志である。この運動は,すでに哲学なのである。

そこから, こうまとめる。

アリストテレスのモデルが…含意しているのは,知への意志が好奇心以外のなにものでもないということ,認識が感覚のかたちで常にすでにしるしづけられているということ,認識と生とのあいだには根源的な関係があるということである。

ここまでの,わずか数行のアリストテレスの文章を掘り下げ,拡大し,敷衍化していく思考のダイナミズムは,とてもひとつひとつの背景と根拠をフォローしきれない。しかしその奥行きと問いの深さのもつ知の巨きさには,感嘆するほかはない。

このアリストテレスに対比して,フーコーは,ニーチェを取り上げる。

ニーチェのモデルが主張しているのは,逆に,知への意志が認識とは全く別のものに送り返されるということ,知への意志の背後にあるのは感覚のような一種まえもっての認識ではなく,本能,闘い,力への意志であるということだ。

さらに,

ニーチェのモデルは,知への意志が,もともと真理と結びついていたというわけではないことも主張している。知への意志は,錯覚を作り上げ,虚偽をこしらえ,誤謬を繰り返し,真理がそれ自身一つの効果でしかないような虚構の空間において自らを繰り広げるものなのだ,と。

さらに,

ニーチェにとって,知への意志はすでにそこにある認識の前提条件を想定するものではない。真理は前もって与えられるものではなく,一つの出来事として産出されるものであること。

ニーチェは,こう言い切っている。

認識それ自体などない,と言うこと,それは,主体と客体の関係が(そして,アプリオリ,客観性,純粋認識,構成的主体といったその他派生物のすべてが),実は認識の基礎として役立つものではなく,逆に認識によって産出されたものである,

そして,ニーチェは,

コギトのような認識の核心のようなものを拒絶し,

主体と客体との関係は,認識を構成するものではない。それどころか認識によってもたらされる第一の主要な錯覚,

と言い切る。むしろ,

主体と客体との関係から解放された認識,それが知なのである。さらに,哲学的伝統で,

意志と真理との関係の核心に見出されるもの,それは自由である,

というものを,ニーチェは根底から,覆す。

真理と意志との連接は,自由ではなく,暴力

である,と。で,フーコーは問う。

真理が認識以後のものであり,認識から出発しつつ暴力として不意に出現するものであることが本当であるとすれば,真理は認識に対して加えられた暴力であることになる。真理は,真なる認識ではない。真理は,変形され,捻じ曲げられ,支配された認識である。真理は,偽なる認識なのだ。真なる認識との関係において,真理は,誤謬のシステムなのである。

そこを,さらに,フーコーは詰める。

更に一歩先へと進めねばならない。もし真理が,認識することの錯覚を破壊するものであるとすれば,そして,もしその破壊が,認識に逆行して,認識そのものの破壊としてなされるとすれば,そのとき,真理は虚偽であることになる。…真理は,認識することへの報いとして言表されるまさにそのとき,真理を語ってはいない,

と。そして,こうフーコーはまとめる。

このようにして明るみに出された力への意志とはいったい何か。それは,存在(不動で永遠の真なる存在)から解放された一つの現実,すなわち生成である。そしてその生成を暴露する認識は,存在を暴露するのではなく,真理なき真理を暴露するのである。
したがって,二つの「真理なき真理」があるということだ。
―誤謬,虚偽,錯覚としての真理,すなわち,真ならざる真理。
―そうした虚偽としての真理から解放された真理。すなわち,真理を語る真理,存在と相互性を持ちえない真理。

真理の絶対性から解放されたとき,真理は相対化され,その地平の延長戦上に,社会構成主義がある,と見なせば,ここまでの論考に,一つの光明が見える。認識は,生成され,真理もまた生成される。飛躍かもしれない…が。

ところで,付録の「オイディプスの知」は,知の問題を分析した,象徴的な論考で,読み応えがある。その最後に,フーコーは,こう締めくくっている。

我々は,知を,意識=良心という観点から思考しているのだ。それゆえに,我々はオイディプスとその寓話をネガティブなものとしてしまったのである。無知と有罪性という言い方がされるにせよ,無意識と欲望という言い方がされるにせよ,いずれにしても我々は,オイディプスを知の欠如の側に置いており,知に結びついた権力を持つ人物をそこに認めようとはしない。神託と都市の証言が,それらの種別的な手続きおよびそれらによって産出される知の形態に従って,過剰と侵犯の人として追い立てる人物。そうした人物を,我々は底に認めようとはしないのだ。

そこにも,知があるとは,ニーチェの結論から必然的につながっていくように思われる。そして,それは。,権力とつながってもいる,と。

参考文献;
ミシェル・フーコー『〈知への意志〉講義』(筑摩書房)
清水博『生命知としての場の論理』(中公新書)




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2014年07月03日

虚点


レペッカ・ブラウン『体の贈り物』を読む。

これは僕の意志ではなく,「ナラティヴ・アプローチ入門』の第三回目用の事前課題として出されたもの(肝心のセミナーには不参加にしだのだが)。まず,僕の手にすることのない類の本,というか小説だ。僕の関心領域の外にあるので,視野に入ることはない。いわゆるベストセラーではないらしいのだが。

推測するに,第三回は,「パラレルチャート」がテーマなので,それに絡めると,ここから,「私」及び登場人物の人生の物語を理解し,描き出そうということなのではないか,と思うが,ま,そこは,セミナーに参加しないのでわからない。

「私」は,USCという組織から,PWA(エイズウイルス感染者の)ホームヘルスケア・エイドとして,ホスピスへ入居す(でき)る前の患者の自宅に,このサービスは,医療行為は行えないらしいので,その他のハウスキーピングも含めた患者のサポートをするために,戸別訪問を行っている。どうやら,USCの創設間近い頃から活動に参加しているらしい。

全体のタイトルもそうだが,各章も,

The gift of ~

で始まり,

汗の贈り物
充足の贈り物
涙の贈り物
(略)
希望の贈り物
悼みの贈り物

と続く。面白いことに,「私」については,ほとんど語られない。患者とのやり取り,患者とのサービス,組織とのやりとりだけが,淡々と語られる。例外は,

今度の人は見た目に一番不気味だった。本当に病そのものに見えた。マーガレットからは,特別に必要なのは体に軟膏を塗ってあげることだけだと言われていた。軟膏はどろっとして不透明で,黄色っぽいゼリー状だった。大きなプラスチックの広口壜に入っている。何の匂いもしなかった。はじめて行って,壜のふたを開けたとき,誰か他人の指が軟膏をすくい取った跡が残っていた。なぜかそれ見てあんなに怯えたのか,自分でもわかない。でもとにかく私は怯えた。私はその人に触るのが怖かった。その人を見るのも怖かった。
腫れ物はどれも黒っぽい紫色で,二十五セント貨くらいの大きさだった。縁は黄色く,その人の肌は黒っぽ茶色だった。腫れ物から液や膿は出ていたりはせず,かさぶたもできてはいなかった。年じゅう軟膏を塗っていたからだ。

というところに(はじめて)感情が出ているくらいに思う。この章が,「姿の贈り物」だ。因みに,マーガレットとは,組織のマネジャーの一人だ。他は,患者を,抱き起したり,食べさせたり,風呂に疲らせたりのサポートを淡々とこなす。

たとえば,上記の軟膏を塗ってあげた患者に,ジュースを飲ませるところがある。

私はスプーンでジュースをすくった。すごく少量だ。澄んだピンク色のジュースの,ほんの一口。スプーンを口の方へ動かしていきながら,片手を彼の手首近くに当てたまま私は言った。「これからこのジュースを口元に持っていきますよ。もう唇のすぐそばにあります。オーケー。さあどうぞ」
かちん,とスプーンの底が下側の歯に当たるのが聞こえた。私は彼の口のなかでスプーンを傾けた。彼は唇を閉じ,飲み込んだ。
「ようし」と私は言った。「いい感じですね。もっと飲みます?」
彼はまばたきした。
「オーケー」と私は言った。もう一杯スプーンにジュースを入れて,口に持っていった。「さ,またジュース,来ましたよ」。彼の唇が,吸いこもうとするかのように動いた。私はスプーンを口に入れて,裏返した。彼は飲み込んだ。
「いいですねえ」と私は言った。「すごくいいですよ」
彼はまばたきした。
結局スプーン六杯分,ジュースを飲ませた。でも,六杯目で,喉がゴロゴロと音を立て,ジュースが一部飛び出してしまった。彼は口を大きく,怯えたようにO字型に開け,クーンと甲高い声を上げた。息が詰まってしまうのでは,と私は慌てた。

という調子である。「私」の感情を表現することはほとんどない。ここにあるのは,自分の感情を押し隠して,淡々と仕事をしかし,丁寧にこなす姿だけがある。いわば,淡々と,

前捌きする援助職のベテラン,

という感じである。

そういうとき,ある意味「私」は,虚点(という言葉があるかどうか知らないが)というか,ここに「虚」として,しかい(存在し)ない,ように見える。だから,「私」の生活も,私の背景も,まったく語られない。性別も,本当はよくわからない。

患者と,すでに死んだ,「私」も世話をしたカーロスの話を,こんなふうに会話する。

マーティは大きく息を吸って,顔にある種の表情を浮かべた。自分が本当に答を知りたいのか,よくわからないまま訊ねるみたいな表情だった。
「死ぬのって,救いになりうると思う?」とマーティは訊ねた。
「思う」と私は答えた。
マーティは息を止めていた。それから,ふうっと吐き出した。口元が柔らかくなった。そして,切なそうに私を見た。マーティは私に知ってほしかったのだ。
「僕,手伝ったんだ」とマーティは言った。
「カーロスのいい友だちだったんだね」と私は言った。
「うん,そうだった」とマーティは言った。「僕は思いやりある行いをしたんだ。僕はあいつに死の贈り物をあげたんだ」

この章は,「死の贈り物」と題されている。

「私」は,病気に感染したマネジャーのマーガレットの送別のミーティングに参加して,マーガレットと,古くから参加しているという話題の後,マーガレットに問われる。

「あなたこれ,永久につづける気じゃないでしょ?」と言った。
「実は,辞めようかと思ってるんだよね」と私は口にした。口にしたのも,そもそもはっきり意識して考えたのも,そのときがはじめてだった。
「それがいいね」とマーガレットは,私が言い訳を並べる暇もなく言った。わたしのことをよくわかっていてくれているのだ。「何かほかのことをするのもいいよね。またやりたくなったら,いつでも戻ってきてペレニアルになればいいし」
ペレニアルとは,UCSでしばらく働いて,それから何か別のことをやり,またしばらく戻ってきて,それからまた何か別のことを,と出入りを繰り返す人のことだ。

「私」が虚点というのをよく表しているのは,マーガレットと会話していて,背後で,夫のディヴィッドが話しているのが聞こえるところだ

次の次の夏に,上の子が小学校を卒業したら彼とマーガレットとで子供たちをディズニーランドに連れて行くんだと言っていた。「次の次の夏」と言ったのを聞いて,私の目がきっとディヴィットの方を向いた。ほんの一瞬だったけれど,マーガレットは見逃さなかった。あとどれぐらい生きられるのだろう,と私が考えているのを彼女は見てとった。
私はマーガレットに謝りたかった。でも何も言えなかった。
マーガレットはまだ私を見るのをやめていなかった。「あなたにやってもらえることがあるわよ」と彼女は言った。
彼女は私の頬に片手を当てた。二たりでリックを車に乗せたあのとき,彼女に触れた手触りを私は思い出した。彼女の手が私の肌にくっつくのを感じた。彼女は言った―「もう一度希望を持ってちょうだい」

この最終章は,「希望の贈り物」と題されている。

「私」は周囲をひたすら反照する。「私」側から,働きかけるのは,患者のサポート,ハウスキーピングについてだけだ。「私」自身については,まったく語られない。

ただ一か所,ミーティングへ出る前,

五時ごろだった。私は家に帰って,猫に餌をやり,しばらく一緒に遊んでいた。ミーティングではピザが出るから,何も食べなかった。しばらくして,気を取り直し,無理して湖畔へ散歩に出た。しばらく歩きまわった。

ここでだけ,私生活が語られる。

「私」が虚点になっている分だけ,絶望的な患者の状況が,感情抜きで無表情に映し出される。その分,状況の絶望が伝わる,しかし,各章では,必ず,ギフトを見つけ出す。まるで,エレナ・ポーター『少女ポリアンナ』の,

どれだけ苦しい状況でも、牧師である父親の遺言の「よかった探し」をする,

ポリアンナ(パレアナ)のように。それも,「私」が虚点で,ただ患者を淡々と映し出しているだけであることによって,際立ち,フォーカシングされることになる。

そして,思うに,この虚点という位置こそが,この種の

サービス

の,あるいは,

サポート

そのものの,あるいは,

それを担う人の,

ポジショニングそのものの象徴なのではないか,という気がする。そう気づいて,思い出したことがある。

旅先でのったタクシーの女性ドライバーが,それまで長年勤めていた介護施設で,あるとき,ふいに糞尿の匂いに耐えられなくなり,辞めた,と。

淡々と,虚点でサポートしていたのに,嫌悪というか,マイナス感情が起こった途端,虚点には立てなくなった,と言うふうに考えられる。前捌きだけでは対応できなくなった,というか破綻をきたしたのだ。

その分岐点が,腫物への不気味さ

である。感情が,虚点を踏み出してしまった,のかもしれない。

参考文献;
レべッカ・ブラウン『体の贈り物』(新潮文庫)
エレナ・ポーター『新訳 少女ポリアンナ 』(角川文庫)



今日のアイデア;
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2014年07月04日

ナラティヴ


アリス・モーガン『ナラティヴ・セラピーって何?』を再読。

「ナラティヴ・アプローチ入門」を受講するのを契機に,かなり前に読んだ,本書を再度読み直してみた。

基本中の基本の再確認だが,結構大事なことを忘れていた気がする。その基本を,おさらいしておきたい。

著者は,イントロダクションで,

ナラティヴ・セラピーは,カウンセリングとコミュニティー・ワークにおいて,相手に敬意を払いつつ非難することのないアプローチとなることを自らに課しています。人々をその人の人生における専門家として位置づけるわけです。問題は人々から離れたものとして捉えられ,人々は本人の人生における問題の影響を減らすのに役立つようなスキル,遂行能力,信念,価値感,取り組み,一般的能力を豊富に備えていると考えられています。
多用な原理がナラティヴな仕事の仕方を支えていますが,私の意見としては,次の二つが特に重要です。ひとつは,絶えず好奇心をもっていること,もうひとつは,あなたが本当に答を知らない質問をすることです。

このことを,この本を読むときに念頭に置いておいてほしい,と勧めている。

さらに著者は,ナラティヴ・セラピーにおいて,

私はも相談者に合うとき,会話の方向性に対する可能性をまるで旅路のように考えることがあります。選択可能な分かれ道や交差点,小道,行路が数多くあるのです。一歩踏み出す度に,前後左右,斜めにと,いろいろな種類の新しい別の分かれ道や交差点が現れます。相談者と共に見出すたびに,私たちは可能性を広げていくのです。どこへ行くか,そして途中で何を捨てていくのかは,私たちに選ぶことができます。いつも違った道に行くことができます。

と。そして,

ナラティヴ・セラピストが相談者にたずねるひとつひとつの質問は,旅路の中の一歩なのです。

と。いわば,共同作業なのである。しかしそのために,

セラピストは,相談者の興味が何か,そして,旅がいかに相談者の好みと一致しているか理解したいと考えます。

例えば,こんな質問をしながら。

この会話は,あなたにとってどんな感じがしますか?
このことについて続けて話をしましょうか?それとも……について話した方がいいですか?
あなたはこのことに興味を感じますか?このことは,時間を割いて話した方がいいでしょうか?

等々。

ナラティヴ・セラピーは,「再著述」の会話または「リ・ストーリング」の会話,

である。ストーリーとは,

出来事が
(過去・現在・未来の)時間軸上で,
連続してつなげられて
プロット(筋)になったもの

である。実は,人は,いくつものエピソードをもっているのに,ひとつの意味でつなげた自分の物語をもっていて,その意味から外れた多くのエピソードは,筋からはずされている。本当は,

すべてのストーリーは同時に存在し得,なにか出来事が起こると,そのときにドミナントである意味(プロット)によって解釈される。

その限りで,

出来事に対して…与えている意味は,自分自身の人生に対する影響力において中立的ではない…,

のである。しかも,

自分の人生を理解する仕方は,自分たちが生きている文化というより広範なストーリーによって影響を受けている。

それには,

ジェンダー,階級,人種,文化,そして性的指向性,

等々がストーリーのプロットを大きく左右する。そのことに,必ずしも自覚的,意識的とは限らない。

では,見つけるべきドミナント・ストーリーに代わるオルタナティヴ・ストーリーは,

代わりのストーリーであれば何でもよいわけではなく,相談者自身によって同定され,相談者自身が生きたいと考える人生に沿ったストーリーでなければなりません。

しかし,

問題をはらんだストーリーの影響から自由になるためには,オルタナティヴ・ストーリーを再著述するだけでは十分ではありません。ナラティヴ・セラピストは,オルタナティヴ・ストーリーが「豊かに記述」される方法を探る…

ことが必要になる。そのために,問題を外在化し(例えば擬人化し),名付け,問題の歴史をたどり,その影響を明らかにすることを通して,

問題に対しいかに対処し,処理したかについての気づきの可能性を広げ,それによって引き出された一般能力と遂行能力に光を当てることになる…,

と同時に,それを通して,

問題と問題のストーリーを支持している幅広い文化の信念やアイデア,それに実践を発見し,認識し,「分解すること」(脱構築)

をしようとする。たとえば,

このストーリーのつじつまを合わせるためには,どのような前提がその背後にあるのだろうか?
このストーリーは,まだ名前も付けていないどんな前提を背景にして成り立っているのだろうか?
問題の生命を支えている,当たりまえと思われている生き方や在り方は,何だろうか?

等々の質問をしながら,

当たり前とされている

ことを分解し,検討する。さらに,

それらの考えは,どのようにして発展してきたのでしょう?
あなたは,これらの考えに納得できますか?
性的・親密な関係における人々の役割について,あなたの信念をいくつか聞かせてくれませんか?

等々。こうした会話を通して,

ドミナント・ストーリーの「荷解き」を助け,異なる視点からそれらを捉えるように援助します。

脱構築の会話で重要なことは,セラピストが「当人の考えを変えよう」としてセラピストのアイデアや思想を押し付けないことです。……セラピストは,答えがわからないがゆえに質問をしているわけですから,好奇心を持ちつづけることになります。

問題を支えている価値観や考え方について,

それが役に立つものか否か,

を明らかにしていく。

役に立たないものだと判断されて初めて,

問題の影響を受けていない期間やユニークな結果(ソリューション・フォーカスト・アプローチで言う例外)

が,クライエントにとっても意味が出てくる。しかし,重要なのは,

ユニークな結果を探るのを急がないことです。人がセラピストに相談に来た以上,問題のストーリーは大きな影響力を持っていて,その人の人生に多大な影響を与えてきたと考えるのが妥当です。セラピストがこれらの影響を探求し,その中で,影響を認識すること…

なのである。だからこそ,

ユニークな結果は,オルタナティヴ・ストーリーの窓口

なのであり,それだけに,

ユニークな結果(ドミナント・ストーリーないし問題の外に位置する出来事)は,セラピストが気をつけて耳を傾けない限り,気づかれないことがしばしばです。人々はこれらの出来事はさして重要ではないと見なす傾向があり,そのことについて早口で話したり,さらっと流してしまうことが多いものです。

ただし,

相談者が注目に値すると認めない限りドミナント・ストーリーにはなり得ない,

ということを忘れてはならない。だからこそ(ここがソリューション・フォーカスト・アプローチとは決定的に異なることだが),

セラピストは,出来事が特別でユニークなものか当人に確かめてもらう必要があります。相談者がそのできごとをいつもとは異なる重要なことだと捉え,ドミナント・ストーリーと矛盾していると考えた場合にのみ,ユニークな結果とみなされる。

そのためにも,

(ドミナント・ストーリーから外れた)……は,あなたにとってどんな意味がありますか?
あなたは,問題が悪化していくのをどうやって止めたんですか?
問題がそれほど支配的ではなく,いばっていないときはありましたか?
問題があなたを止めたり邪魔しようと試みたのに,問題の思い通りにはならなかったときのことを思い出せますか?何が起きたのですか?
あなたが問題に抵抗して,思い通りにやり通したときのことについて話してくれませんか?

といった質問が不可欠になる。

このユニークな結果が後づけられ,地固めされればされるほど,そして新しいストーリーと結びつけられ,意味が与えられるほど,新しいプロットが生み出され,オルタナティヴ・ストーリーがより豊かに記述され…

ていくことになる。

参考文献;
アリス・モーガン『ナラティヴ・セラピーって何?』(金剛出版)




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2014年07月05日

経済視点


武田知弘『「桶狭間」は経済戦争だった』を読む。

信長の政策を経済面に焦点を当てている。その面で,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/400155705.html

の,戦国大名の鉢植化の背景を理解するのには好都合ではある。表題は,桶狭間となっているが,それだけを掘り下げたわけではなく,ただの入口,後は,武田,上杉,毛利などの戦国大名との対比。少し突っ込み不足は,新書の限界として諦めるとして,

桶狭間の戦いが知多半島をめぐる戦い,

という仮説は,面白い着眼には違いなすが,まだ論証が足りない気がする。

知多半島とその周辺地域というのは,実は商工業において重要な地域だった…,

とする根拠が,

知多半島の窯業,

つまり常滑焼の生産地だった。常滑焼というのは,当時の全国的な陶器ブランド,

というのは,どの程度確かなことなのか。日用雑器としての土器にブランドがあったのかどうか,その他の窯業地との比較,他地域の例示等々がないまま,

知多半島の窯業は,12世紀ごろからさかんになったとされ,本州,九州,四国の多くの中世の古墳群から土器が発見されている。(中略)中世の遺跡から知多半島の土器が発見されていないのは,本州,九州,四国の中ではわずか二,三県である。つまり,中世から知多半島の土器は日本全国に流通していたのである。知多半島は,中世から日本最大の土器生産地域であり,もっといえば中世ではにほん有数の工業地帯だったわけだ。

と言われても,にわかには信じられない。いや,経済視点を除いて,地政学的にこの地域に意味があったのではないか,という他の視点の検討抜きでは,どうもいまひとつ説得力が欠ける。

ところで,信長が,津島を抑え,経済力を持っていたことは,通説である。謙信が直江津,柏崎の関税収入だけで,

年間四万貫,

だいたい三十万石の収入に匹敵する,ということから,その二つの港よりはるかに栄えていた津島からは,

三十万石

以上の収入があり,遠江,駿河,三河,終りの一部を支配する,百万石の今川義元と,尾張一国約六十万石と,津島の収入を合わせると,ほぼそれに匹敵し,動員兵力は,

ほぼ互角

だったのではないか,という話は,説得力がある。その証拠に,最近発掘されつつある清州城は,

南北2.7キロ,東西1.4キロもの惣構えをもつ巨大な城下町だった。あの大阪城にも匹敵するものだった,

という。そう考えると,織田対今川の軍勢,

二千対二万四千

というが,実勢は,織田方は一万近く,しかも,義元本陣は,四,五千,別に奇襲しなくても,十分勝てる計算になる,という理屈である。

さて,その信長の経済政策の画期を,整理しているところが分かりやすい。

一つは税制,

本年貢以外の過分な税を徴収してはいけない,

関所の税を課してはならない,

という信長の指示が残されている。それも,収穫高の三分の一と,江戸時代に比しても低い。それに対して,武田は,土地の貧しい甲斐のせいもあるが,度重なる重税,棟別税,後家役まで課したのと好対照である。

第二は,貨幣納税の貫高制から,米での納税の石高制に変えたこと,

これも換金のための農民の負担を減らしている。

第三は,金銀を貨幣として設定したこと。ここでは,

金と銀,銅銭の交換価値が明確に定めてあり,史上初めての試み。

という。

第四は,検地。それも,かなり細かな歩の単位まで,実測していたと言われる。このことが,大名を鉢植化することになるのだが。

第五は,楽市楽座。多く寺社が座の後ろ盾になり,冥加金をとるという既得権益になっていた。それは一種の価格破壊につながる,と著者は言う。

安土に楽市楽座をつくれば,畿内にある「座」は大きな影響を受ける。安土に売り上げを奪われないために,価格競争をせざるを得なくなる。

結果として,京都の座は消滅していく。

第六は,枡や単位の統一。このことは,関所の撤廃と同時に,物流の革命をもたらす。

第七は,インフラ整備。関所の撤廃と同時に,道路をつくる。『信長公記』には,

入り江や川には,船橋を造り,石を取り除いて悪路をならす
道幅は三間半(6m)とし,街路樹として両側に松と柳を植える

等々を指示したとある。

傑作は,安土城を一般公開したことだ。これは,以前も以後もあり得ない。しかも,大勢が押し寄せたため,百文を徴収したという。

こうした信長の視界に,全国があったことが分かると同時に,自分を遥か高みにおいて,戦国武将どころか,天皇も,自分の眼下においていたように思えてならない。

最後に苦言をひとつ,

足利義昭を,「義輝」と誤植するのは,まあ勘違いとして許されるとしても,その後,今度は,武田義信が出てきて以降,再三,義昭を「義信」と誤植するのは,いくらなんでもいかがかと思う。誤植の多寡は,出版社の格をしめす,とはよく言うが,そういうものだと思う。昔,先輩が,一冊の単行本を上梓して,

ひとつ誤植があった,

とひどく悔やんでいたのを思い出す。それは,編集者の矜持でもある。


参考文献;
武田知弘『「桶狭間」は経済戦争だった』(青春出版社)




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2014年07月13日

クーデター


半田滋『日本は戦争をするのか』を読む。

解釈改憲をはじめとする現政権の進めている憲法空洞化は,

クーデターである,

そう本書は断罪する。

本書は,

安倍政権が憲法九条を空文化して「戦争ができる国づくり」を進める様子を具体的に分析している。法律の素人を集めて懇談会を立ち上げ,提出される報告書をもとに内閣が憲法解釈を変えるという「立憲主義の破壊」もわかりやすく解説した。

と「はじめに」に書くように,解釈改憲が閣議決定される前までの,安倍政権の言動を,つぶさに分析している。

はじめに憲法空洞化ありきだから,理屈と膏薬は,どこにでもつく。ほとんど,ウソと屁理屈で,本当は理由などいらないのだろう。

集団的自衛権の行使容認に踏み切ること自体に目的があり,踏み切る理由はどうでもよい…,

と言わしめる所以である。空念仏のように,「我が国を取り巻く安全保障環境が一層悪化している」と言いつつ,それを緩和するための政治家として為すべき外交努力を一切しないのも,その伝なのだろう。

だから著者は,こう言う。

なぜ,事実をねじまげるのだろうか。憲法を変えさえすれば日本はよくなるという半ば信仰に似た思い込みがあるのだろうか。

近隣諸国との緊張を高めてナショナリズムをあおり続ける背景には「占領期に米国から押し付けられた日本国憲法を否定し,自主憲法を制定する」との強い意思を示す狙いがあるのだろう。

と。しかし,その自民党憲法改正草案は,

驚くべき内容である。現行憲法の特徴である「国民の権利や自由を守るための国家や為政者を縛るための憲法」は,「国民を縛るための国家や為政者のための憲法」に主客転倒している。近代憲法の本質が権力者が暴走しないように縛る「立憲主義」をとっているのに対し,自民党草案は権力者の側から国民を縛る逆転の論理に貫かれている。

そういう時代錯誤の為政者を生んだのが,国民だとすると,国民の中にある,ドストエフスキーのいう「大審問官」を求める,そう水戸黄門の印籠を求める心性が反映している,としかいいようはない。そう考えると,絶望感に駆られる。

しかし,そういう改憲手続きの手間さえ,安倍政権は省こうとしている。つまり,現内閣の閣議決定による,

解釈改憲

である。そのための道筋は,

①安保法制懇からの報告書を受け取る
②報告書を受けて,あらたな憲法解釈を打ち出し,閣議決定する。
③その解釈にもとづき,自衛隊法を改正したり,必要な新法を制定したりする

で,すでに②まで経た。ここには,国民は不在であり,議会も全く不在である。そして,ロードマップを兼ねる国家安全保障法の制定を目指す。

武器の輸出の緩和
武器輸出三原則の見直し,
秘密保護法
教育基本法の改正

こうして,実質憲法は骨抜きにされていく。ついには,徴兵制を口にされるところまで来ている。自民党憲法草案の現実化である。

国会論議を経ないで閣議決定だけで憲法の読み方を変えてよいとする首相の考え方は,行政府である内閣の権限を万能であるかのように解釈する一方,立法府である国会の存在を無視するのに等しい。憲法が定めた三権分立の原則に反している。(中略)
首相の政策実現のためには,これまでの憲法解釈ではクロだったものを,シロと言い替える必要がある。歴代の自民党政権の憲法解釈を否定し,独自のトンデモ解釈を閣議決定する行為は立憲主義の否定であり,法治国家の放棄宣言に等しい,

為政者が「法の支配」を無視して,やりたい放題にやるのだとすれば,その国はもはや「法治国家」ではない。「人治国家」(ありていに言えば独裁国家であるのだ=引用者)ということになる。ならず者が街を支配して,「俺が法律だ」と言い放っているのと何ら変わらない。

「人治国家」とは,ありていに言えば独裁国家であるのだ(そのせいか,中韓とは敵対しつつ,妙に独裁国家・北朝鮮とはパイプが強まっている,ように見えるのは,勘ぐりすぎか?),そして,著者は,

首相のクーデター

と呼ぶほかはない,と言い切る。麻生の言う,

ナチのやり口をまねる,

まさにそのままである。それが,たんなる糊塗やごまかしではなく,確信犯であるのは,安倍氏の発言からも見て取れる。

安倍氏は,国会答弁でこう言い切った。

「最高の責任者は私です。政府答弁に私が責任を持って,その上で私たちは選挙で国民の審判を受けるんですよ。」

著者は,こう解説する。

意味するところは,「国会で憲法解釈を示すのは内閣法制局長官ではなく,首相である私だ。自民党が選挙で勝てば,その憲法解釈は受け入れられたことになる」ということだろう。

と。選挙で大勝し,内閣支持率が高い,

思い通りにやって,何がわるい,

ということなのだろう。そして,憲法とは何かの質問に対して,

(憲法が)国家権力を縛るものだ,という考え方は絶対掌王権時代の主流な考え方
憲法は日本という国の形,理想と未来をかたるもの

と述べた。ここには,

国民の権利

自由の保障

もない。この延長線上に,自民党の憲法草案がある。

憲法を普通の政策と同じように捉えている
立憲主義の考え方が分かっていない

といっても,たぶん聞く耳というか,そういう考え方は視野にないだろう。まして,国民の自由などは。

さて,安倍氏がただひたすら求めている集団的自衛権は,何をもたらすのだろう。

僕の理解では,集団的自衛権とは,

他の国家(アメリカを想定していい)が武力攻撃を受けた場合に直接に攻撃を受けていない第三国(日本である)が協力して共同で防衛を行う国際法上の権利である。

その本質は,

直接に攻撃を受けている他国を援助し,これと共同で武力攻撃に対処する

ところにある。なお,

第三国が集団的自衛権を行使するには,宣戦布告を行い中立国の地位を捨てる必要があり,宣戦布告を行わないまま集団的自衛権を行使することは,戦時国際法上の中立義務違反になる。

そして,著者は言う。

集団的自衛権は東西冷戦のゆりかごの中で成長した。驚くべきことに第二次世界大戦後に起きた戦争の多くは,集団的自衛権行使を大義名分にしている。

ベトナム戦争は,南ベトナム政府からの要請があったとして,集団的自衛権行使を理由に参戦した。

このときの集団的自衛権行使の仕方には,

アメリカのように攻撃を受けた外国(南ベトナム)を支援するケース

韓国のように,参戦した同盟国・友好国を支援するケース

の二つがある。そして,著者は言う。

集団的自衛権を行使して戦争に介入した国々は,「勝利」していない

と。

自国が攻撃を受けているわけでもないのに自ら戦争に飛び込む集団的自衛権の行使は,きわめて高度な政治判断である。一方,大国から攻撃を受ける相手国にとっての敗北は政治体制の転換を意味するから文字通り,命懸けで応戦する。大義なき戦いに駆り出された兵士と大国の侵略から時刻を守る兵士との士気の違いは明らかだろう。

こういう説明のないまま,集団的自衛権行使を,内閣の閣議決定のみで,事実上,

憲法九条

の解釈を変えて,改憲した。集団的自衛権の必要性を説明するために政府の挙げた事例は,個別自衛権,つまり,現状のままで対応可能なのに,である。その説明もない。

しかし,ほとんどその境界線をあいまいのまま,対外的な国際公約としてようしている。

この違いを分かりやすく解説しているのは,

http://www.asahi.com/articles/DA3S11221914.html

である。あいまいのまま,いかにも,自衛の延長戦上に,集団的自衛権があるように思わせたいのであろう。

手続き上と言い,
国民への説明の内容と言い,

ほとんど詐欺同然,泥棒猫の仕業である。

しかし,いままで,アメリカの

ブーツ・オン・ザ・グラウンド(陸上自衛隊を派遣せよ)

の要請を,歴代政権が,九条を楯に拒んできたが,もはや,後方支援ではなく,前線に,戦闘力として参加ができる。つまり,アメリカ兵に代わって,あるいは一緒に血を流してくれる。アメリカ政府が歓迎するわけである。

そしてたぶん,日本が独自に集団的自衛権を行使することはない。恐らく。ほとんどアメリカの集団的自衛権行使に参加することになる。しかもアメリカの(そしてイスラエルの)同盟軍として。それは,アラブを敵にするということになる蓋然性が高い。同時に,それは,スペインやイギリスで起きた無差別テロの標的にもなるだろうリスクをはらんでいる。その言の説明は一切ない。突然,銀座で自爆テロが起きるかもしれない。

ここまですることは,誰かの利益になるからするのであろうと推測はつく。現政権がそのお先棒をかついているのだとして,われわれ国民にとっての利益でないことだけは確かである。

参考文献;
半田滋『日本は戦争をするのか』(岩波新書)



今日のアイデア;
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2014年07月16日


宇佐美文理『中国絵画入門』をよむ。

よく考えると,例えば,山水画,水墨画,というように,結構中国絵画の影響を受けているのに, 中国絵画について,ほとんど知らないことに気づく。

著者は,

気と形を主題にした中国絵画史

というイメージで本書を書いたと説明する。そして,

中国絵画について何かを知りたいと思われた方,そこで知りたいと思うことはなんなのか。それを知ることがなければ読んだ意味がないと思うことは何なのか。

それをまず書くという。

中国絵画の流れを何か一本スジを通して記述できないか,

という問題意識で俎上に上ったのが,



である。では,気とは,何か。

最初は,孫悟空の觔斗雲のような形

で表現されていた(後漢時代の石堂の祠堂のレリーフにある),霊妙な気を発する存在としての西王母の肩から湧くように表現されていた気が,

逆境にもめげず高潔を保つ精神性を古木と竹で表現した(金の王庭筠の「幽竹枯槎図」の),

われわれが精神や心と呼んでいるものも,

気の働きと考えるようになり,そういう

画家の精神性が表現されたということは,画家のもっている気が表現された,あるいは形象化された,

という気まで,いずれも,気を表現したと見なす。

簡単に言えば,中国絵画における気の表現は,気を直接形象化した表現から,実物の形象を使いつつ気を表現するという

ところまで変換していく。そこから,

どのようにすれば気そのものを形象化することなく,気を表現できるか,という問題が,常に中国絵画の中心課題として存在していた,

と著者は見る。この転換点になったのは,(「帝王図鑑」の)


気韻生動

と言われる,

(皇帝を描いた場合)皇帝が,皇帝たる風格(精神性も含めて)を感じさせるものでなければならない。それが人物画の肝要な点だと考えられた

ところだという。つまり,

絵画にとって重要なことは,形を写し取ることではなく,形を超えたもの,人物画では気韻あるいは人物の精神性であると考えたのである。

それは,たとえば,静物では,(李迪「紅白芙蓉図」)の,

芙蓉の気,それは,読者の方がこの絵を見て感じる,その匂い立つ美しさそのものが芙蓉の気なのである。

と著者は言う。

ともかくこの絵から感じとられたこと,それがまさにこの絵のもっている気にほかならない,

ということが重要なのだと言う。

その気には,いまひとつ,

筆墨の気

がある。いわゆる,

筆気

である。これは,

筆意ともよばれ,線の流れに作者の心の流れを読み取ろうという発想である

という。気の表現は,

直截的形象化,描かれた対象のもつ気の表現,作者自身の気の表現,線のもつ気,墨の気など,

様々な形を使ってなされてきたが,この,

形をもたない気が形をとって現れること

を,

気象,

と呼ぶ。これが,

中国芸術全般を支配する思想

といっていい,と著者は断言する。気は,

万事万物を構成する「もと」

であり,物質はもとより,

我々の「精神」も気のはたらき

であり,陰陽の気の交代が昼と夜であり,

世界のすべては気を原理として生成変化し,……気でできた世界は形をめざして動いている。簡単に言うと,世界とは造形力そのものなのだ。

しかし,と著者は言う。気が画家自身の気の表現であるとしても,

画家がもっている気がそのまま画面の形象になるという気の思想だけですべては片づかない。いかめしい顔をしていても心は優しいというのはきわよめてよくある話である。

で,著者は,

外見と内面が一致しないとする発想を,「箱モデル」と呼ぶ。箱の外見からは箱の中身が分からないからである。対して,気象の発想によるものを「角砂糖モデル」と呼ぶ。角砂糖全体は中心部分も含めてその性質は同じである…から,外見と中身は一致し,中身は外見から推知できるのである。

後者のそれが,

作者の持っている気がそのまま作品に現れるもので,それは生得のものだ,

という考え方に通じ,人格主義につながる。

中国の芸術は,しばしば作品ではなく,作者によって価値を判断する。…絵が上手いとか下手とかという問題をわきにおいて,絵を描いた人物自体の価値を基準としようとする,

考えへとつながり,さらに,蘇東坡の,

形が似ているかどうかで絵を論じてはいけない

につながる。形をこえたものを求める形象無視の頂点に来たのは,

文人画

である。

絵画も文人が描けば芸術だが,画工が描けばそうではない,

というように。その頂点に,

牧谿

がくる。牧谿は光の画家と言われるが,それは,レンブラントの,光と影とは全く違う。

牧谿のひかりは,…「気そのものが輝いている」光である。光が三次元空間に充満している。我々の言葉で言う「空気」が光っているのである。それが照らされた光ではない,

から影がない。ここにあるのは,

透徹した精神性

である。それは,

絵画がまるで言葉によって語りかけ,それに絵を見ている人間がこたえているようなもの,

である,と著者は言う。

書もそうだが,作者の精神性というものが,最後に,作品を凌駕する。

個々の作品ではない,

らしいのである。

数千年を,一冊で読み切るのは無理には違いないが,読み終えて,そこかしこで,老荘,孔孟の気配を感じた気がしたのは,錯覚だろうか。

参考文献;
宇佐美文理『中国絵画入門』(岩波新書)



今日のアイデア;
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2014年07月19日

九条


松竹伸幸『憲法九条の軍事戦略』を読む。

昨年刊行されたものだ。もはや時機を失したか,と悔いつつ,失いつつあるものの大きさに思い至る。

はじめにで,著者はこう書く。

「九条と軍事力の関係が相容れないという点では,護憲派と改憲派は共通している…。だが私は,この既成事実に挑戦することにした。護憲派にも軍事戦略が必要であると考えるにいたった。」

と。その意味では,本書の主張は,堂々の議論と,国民全体のコンセンサスを経るという,改憲プロセスを念頭に置いての論旨というふうに考えられる。しかし,議論も討議もないまま,泥棒猫のようにこそこそと既成事実を積み重ねて,実質改憲を果たし,集団的自衛権の行使を可能とし,武器輸出三原則を放棄し,あろうことか,イスラエルと共同開発まで踏み込むとは,著者の予想を超えている。

おそらく,今後,いままでの対米従属の政治路線からは,アメリカの戦争に従属従軍し,いまそうであるように,イスラエル側に加担し,アラブを敵に回すことになるだろう。ついこの間,3.11のために祈ってくれたガザの子供たちのことは報じられないまま,その子供たちが戦車に蹂躙されているのを,黙認している日本政府の行動は,世界に,日本のポジションを明確に語っている。

では,われわれは,一体何を喪おうとしているのだろうか。

九条のもと,専守防衛を旨としたきたが,それは,

「専守防衛とは相手からの武力攻撃を受けたときに初めて防衛力を行使し,その防衛力行使の態様も自衛のための必要最小限度にとどめ,また保持する防衛力も自衛のための必要最小限度のものに限るなど,憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略をいう…」(大村防衛庁長官 参議院予算委員会 81.3.19)

つまり,

日本側が反撃を開始するのは相手から武力攻撃を受けたときであり,
その反撃の態様は,自衛のための必要最小限度の範囲にとどめ,
その反撃をする装備も自衛のための必要最小限度

というものである。これに合わせて,自衛権発動の三要件というのがある。

「憲法第九条のもとにおいて許容されている自衛権の発動については,政府は,従来からいわゆる自衛権発動の三要件(我が国に対する急迫不正の侵害があること,この場合に他に適当な手段のないこと及び必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと)に該当する場合に限られると解している」(参議院決算委員会提出資料 72.10.14)

「他に適当な手段がない場合」を除くと,専守防衛の要件と重なっている。この趣旨は,

「外交交渉とか経済制裁などで相手国の侵略をやめさせることができるならそうすべきであって,武力で自衛するのはそういう手段ではダメな場合に限る」

という意味である。

こういう専守防衛の考え方を,

九条にしばられている

故,と考えるのは,的外れである,と著者は言う。

「そもそも自衛権という概念は,憲法九条で発生したわけではない。武力行使を禁止する国際法が発展するなかで,その例外措置のようなかたちで生まれたものである。武力行使は違法だが,自衛の場合は違法性が阻却されるという考え方である。」

それは,アメリカ独立戦争時を嚆矢とし,当時のアメリカのウェブスター国務長官のイギリス側への書簡がある。

「英国政府としては,差し迫って圧倒的な自衛の必要があり,手段の選択の余地がなく熟考の時間もなかったことを示す必要があろう。加えて,…非合理的もしくは行き過ぎたことは一切行っていないことを示す必要があろう。自衛の必要によって正当化される行為は,かかる必要性によって限界づけられ,明白にその範囲内のものでなければならない…」

これは今では「慣習法として定着したといわれている」として,著者は,

「国際法上の自衛権とは,憲法九条のもとにおける自衛権の三要件とほぼ同じなのである。日本は憲法九条があるから自衛権さえ制約されているというひとがいるが,自衛権発動の要件は,日本も外国も変わらないのだ。」

と言う。この慣習法とは別に,国連憲章第五十一条が,自衛権発動について,

第一,各国が自衛権を発動できるのは,(国連安保理が)必要な措置を取るまでの間に限定されること
第二,各国が自衛措置を取った場合,安保理に報告しなければならないこと
第三,自衛権が発動できるのは,武力攻撃が発生した場合に限定したこと

の三つの制限を設けている。第三項は,英語だと,現在完了形ではなく,現在形である。つまり,

「自衛権の要件を厳守することは,九条のある日本だけの制約ではない」

ということを,著者は強調する。

そして,むしろ,いままでの日本の姿勢が,世界的には武器になってきたのだと,次の二点を象徴として挙げる。

第一は,武器輸出三原則
第二は,集団的自衛権行使の制約

武器輸出は,かなり緩和されてはきたが,それが功を奏したのは,

国連軍備登録制度

制定である。

「その資格を持った国がひとつ存在した。武器を輸出してこなかった日本である。日本はこの制度を創設するために,『軍備の透明性』と題する国連総会決議の案をもって各国を説得し,調整し,最終的に決議の採択にまで持ち込んだのである。」

これが果たせたのは,武器輸出三原則があったからである。武器規制に関しては,

世界的に注目されている

のは,もはや過去のことだ。三原則は,

防衛装備移転三原則

に変え,武器見本市に初参加し,防衛副大臣が,ライフルを構えていた写真が配信された。もはや,政府は武器商人の露払いになっている。

いまひとつは,言うまでもなく,集団的自衛権である。日本が海外で殺傷行為をしていないというイメージは,世界的には確立していた。そのことではたせる役割はあったし,ある。しかし,もはや,その意味で,「普通の国」と成り果てた。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/401642428.html

で触れたので繰り返さない。

このつけは,集団的自衛権を行使した瞬間,日本が攻撃の対象となる,ということを意味する。それは,対アラブならば,日本国内のどこかが無差別テロの標的になる,ということにほかならない。

まだ間に合うのかどうかは,もはや微妙であるが,本書の掲げた「九条をバックとした軍事戦略」は,実質的に,不可能になりつつあることだけは確かである。

参考文献;
松竹伸幸『憲法九条の軍事戦略』(平凡社新書)



今日のアイデア;
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2014年07月22日

知性


田坂広志『知性を磨く』を読む。

律儀なファンではないが,以前に,何冊か強い印象を懐かされた本を読んでいる。基本的に,その知性に惹かれていることが,普段は読まない「ノウハウ」チックな本書を手にした動機である。

著者は問う。

「学歴は一流,偏差値の高い有名大学の卒業。
頭脳明晰で,論理思考に優れている。
頭の回転は速く,弁もたつ。
データにも強く,本もよく読む。
しかし,残念ながら,
思考に深みがない。(中略)
端的に言えば,「高学歴」であるにもかかわらず,深い「知性」を感じさせない…,
ではなぜ,こうした不思議な人物がいるのか?」

と。著者は,

知能

知性

をこう区別する。

「知能」とは,「答の有る問い」に対して,早く正しい答えを見出す能力
「知性」とは,「答の無い問い」に対して,その問いを,問い続ける能力

と。さらに,

知識

知恵

知性

をこう整理する。

「知識」とは,「言葉で表せるもの」であり,「書物」から学べるもの
「智恵」とは,「言葉で表せないもの」であり,「経験」からしか摑めないもの
「知性」の本質は,「知識」ではなく,「智恵」である

と。そして,いまひとつ,「専門性」について,

「我々は,『高度な専門性』を持った人物を『高度な知性』を持った人物と考える傾向にある」
しかし,
「『高度な専門性』を持った人物が無数にいながら,肝心の問題が解決できない」
と。

フクイチの放射汚染はまだ続いており,太平洋全体に汚染が広がりつつある。しかし,少なくとも,汚染を止める手立てを,専門家は何一つ構築できていないどころか,めどさえ立っていない。

ふと思い出すのは,アーサー・C・クラークが言っている言葉である。

「権威ある科学者が何かが可能と言うとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能と言うとき,それは多分間違っている」

と。著者は,サンタフェ研究所で,

「この研究所には,専門家(スペシャリスト)は,もう十分いる。われわれが本当に必要としているのは,それらさまざまな分野の研究を『統合』する『スーパージェネラリスト』だ」

という発言に触発されて,これからは,

「垂直統合の知性」を持ったスーパージェネラリスト

が必要と説く。それは,

さまざまな専門分野を,その境界を超えて水平的に統合する「水平統合の知性」

ではない。その例を,アポロ13号の事故の時,NASAの主席飛行管理官を務めていたジェーン・クランツに,そのモデルを見る。そこでは,混乱し絶望的状況の中で,

「我々のミッションは,この三人の乗組員を,生きて還すことだ!」

と明確な方向性を示し,次々に発生する難問を,専門家たちの知恵を総動員して,次々とクリアし,無事に帰還させた。そして,ここに,知性のモデル(「スーパージェネラリスト」)を見つける。

「まさに『知性』とは,容易に答の見つからない問いに対して,決して諦めず,その問いを問い続ける能力のこと。」

として,「七つのレベルの思考」を提示する。

第一は,明確なビジョン
第二は,基本的な戦略
第三は,具体的な戦術
第四は,個別の「技術」
第五は, 優れた人間力
第六は,すばらしい「志」
第七は,深い思想

この字面だけを見ていると,常識的に見えるかもしれないが,たとえば,

戦略とは,「戦い」を「略(はぶ)く」こと
技術の本質は,知識ではなく,「智恵である」

というように,ひとつひとつに,著者なりの「知略」が込められている。

このすべてに僕は賛成ではないが,すくなくとも,自分なりの体験と知恵から「知性」を描き出そうとする,オリジナルな思考のプロセスがよく見える。

智恵をつかむための智恵とは,

「メタレベルの知性」

という著者の「知性」のメタ・ポジションには,深く同意するところがある。

ライルは,知性について,

Knowing how(ある事柄を遂行する仕方を知っている)

Knowing that(何かについて知っている)

に分けた。そして,こう書く。

「ある人の知識の卓越や知的欠陥を問題にしている場合においてさえも,すでに獲得し所有している真理の貯蔵量の多寡は問題ではない」

と。ただ,このKnowing howとKnowing thatは,同じクラスと考えず,クラスが別と考えると,

Knowing howについてのKnowing that

というメタレベルの「知」であることも含意していることになる。

僕は,必要なのは,智恵とか知識とか知能というレベルではなく(それがあることを前提にしないと話は進まないが),

メタ・ポジション

での思考力なのだと思う。自分の経験を智恵にすることが必要だとは思うが,著者の言うように不可欠とは思わない。むしろ,

目利き

出来るメタ化の力なのだと,感じた。

参考文献;
田坂広志『知性を磨く』(光文社新書)
G・ライル『心の概念』(みすず書房)



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2014年07月23日

劣化


佐伯啓思『正義の偽装』を読む。

帯には,

稀代の社会思想家

とある。しかし,読んで,異和感のみが残った。福田恆存はまだしも,件の長谷川三千子を麗々しく引用するあたり,そのレベルの人かと,ひどく幻滅した。

著者は,本書について,

「時々の時事的な出来事や論点をとりあげつつ,それをできるだけ掘り下げて,使嗾的に論じるというのが連載の趣旨なのです。」

という。そのうえで,

「私には今日の日本の政治の動揺は,『民主主義』や『国民主権』や『個人の自由』なる言葉を差したる吟味もなく『正義』と祭り上げ,この『正義』の観点からもっぱら『改革』が唱えられた点に在ると思われます。われわれは,本当に信じてもいないことを『正義』として『偽装』してきたのではないでしょうか。」

と書く。この文章に,詐術がある。自分は,

「この世の中に対する私の態度はかなりシニカルなものです。」

といって,まず部外者に置く。そうすることで,上記の「偽装」については,責任を逃れている。そして,

さしたる吟味もなく,

「正義」と祭り上げ

もっぱら「改革」が唱えられた

本当に信じてもいないことを「正義」と「偽装」

しているのは,著者ではない,「愚かな日本人」ということになる。著者の論拠は,保守だから,主として,

サヨク

野党

がその批判の対象になる。しかし,かくおっしゃる世の中で,ご自分はのうのうと大学教授を享受している,この社会の当事者である点を,置き去りにしている。かつて,吉本隆明が,丸山眞男の当事者意識を痛烈に批判していたのをふと思い出す。当然,僕は,この著者の言うところの,

サヨク

に該当するらしいのだが,しかしいまどき左翼だの右翼だのというふるい分けというか,レッテル張りに意味があるのだろうか。せいぜい石破氏のデモを「テロ」と名付けたり,安倍氏が批判者を「左翼」というラベル貼りする以上の実態はないと思うが,未だラベル貼りすることで,自分をその埒外に置きたい人がいるらしい。けれども,自分を埒外におこうと,どの立場に立とうと,時事に対して,批判することはもちろん自由だ。しかし,評論家であることは許されない。この日本において,自分だけ埒外にいることはできない。自分または自分の家族も巻き込むことを意識しない当事者意識の欠けた意見は,基本,聴くに値しない。

しかし,本書へのいらだちは,それだけではない(当事者意識のないどころか,高みから見下ろしているのは,この手の論客のお得意技なので,そのことはさて置いても)。

たとえば,

「『自由』や『民主』『富の獲得』『平和主義』といった戦後の『公式的な価値』は,実は,一皮むけば,すべて自己利益の全面肯定になっている」

と書く。「公式的な価値」って,誰にとって,誰が,と言う茶々は入れない。そういう言い回しで,皮肉たっぷりに言うのが,ご自分の存在基盤になっているらしいので,言ったところで,痛痒を感じまい。問題は,これは,著者の仮定にすぎないということだ。そう著者が仮に仮説として言った,ということだ。ところがである。つづいて,

「すると人はいうでしょう。人間とはそういうものだ。どうして利己心をもって悪いのか。そうです。別に悪くありません。誰もが自分の生命や生活を第一に考え,自己利益を目指し,富が欲しい。これは当然と言えば当然です。しかし,戦後の『公式的な価値』は,この本質的にさもしい自己利益,利己心を『正しいもの』として正義にしてしまったのです。それに『自由』や『民主』や『経済成長』や『平和主義』という『錦の御旗』を与え,『政治的正しさ』を偽装してしまったのです。」

こういうのをマッチポンプと言う。ご自分で問い,それに「さもしい」という問いにはなかった価値判断までも加え,「(自分ではないアホな国民が)正しいものにしてしまった」と言っている。この論旨は,詐欺である。

そもそも仮定は,著者がした。この仮定を受け入れなければ,たとえば,「自己利益」という前提を外せば,別の結論になる。こういうのを,前提に結論を入れている詐術という。

決められない政治,責任を取らない云々と批判のある風潮に対して,こう言う。

「『決断をする』にせよ,『責任をとる』にせよ,これは指導者に求められる責務なのです。そして,『決断』も『責任』も,それなりの力量や先見性をもった『主体』でなければできません。『決断』はいうまでもなくまったく未知で不確定な未来へ向けてひとつの事柄を選び取ることで,そこには先見性と強い意志がなければなりませんし,『責任』の方も,選択の結果がいかなる事態を引き起こすかというある程度の因果関係の推論がなければ意味を持ちません。」

ここまでは,まあ,いい。しかし,ここからがお得意の論旨の展開である。

「こうしたことを予見できるのは,人並み外れた能力なのです。ということは,われわれは,人並み外れた力量を指導者に求めているのです。(中略)ところが他方で,われわれの理解する『民主主義』とは,『民意を反映する政治』であり,われわれの常日頃の思いや感情や不満が正字に反映されるべきだ,という。指導者とは,われわれのいうことをよく聞き,われわれの不満を代弁してそれを解消してくれるはずの者なのです。端的に言えば,民主主義のもとでの政治家とは,『庶民感覚』をもった者で,できる限り我々に近い人であるべきなのです。
こうなると矛盾は覆い隠すべくもないでしよう。われわれは,一方で,指導者に対してわれわれにはない卓越性とたぐいまれな力量を求め,他方では,指導者はわれわれとチョボチョボであるべきだといっているのです。」

こうやって,単純化して,あえて,論点を明確にするというやり方はある。しかし,この矛盾は,著者が立てた仮説に基づく。その仮説が違っていれば,話はかみ合わない。

たとえば,「無責任」で問題にしていることは,こういう抽象的なことではない。もっと具体的な,あのこと,このことである。ひとつひとつの具体的なことについて,責任を取っていない,と言っているのである。

最近の例で言えば,原子力規制委員会の田中委員長は,合格を認定したが,

「再稼働の判断には関与しない。安全だとは私は申し上げません」

と言い,菅官房長官は,

「規制委が安全性をチェック。その判断にゆだねる」

と言い,岩切薩摩川内市長は,

「国が責任を持って再稼働を判断すべき」

と言う。そして,

「もし事故が起きたら、その時の責任は?」

と質問されて,岩切薩摩川内市長は,

「これは国策だから、国が責任を取るべきだと思う」

と言う。責任とは,たとえば,この一連のなすり合いのような,具体的な言動,事案について言っている。

あるいは,メルトダウンしたフクイチは,いまだコントロールできず,全太平洋を汚染つつあるのに,

コントロールロー出来ている,

という平然とウソを言い,ウソがまことの如く頬かむりしているという,個々の具体的な言動を指している。それを一般論に置き換えて,それは,

ないものねだりだ,

ということで,無責任を容認しようとする,この論旨こそが無責任な,論旨のすりかえである。たとえば,政治も,国家→県→市町村という政治レベルのクラスを意識的にぼかし,一般論として,ひとしなみに捉えて,政治家は,

われわれの不満を代弁してそれを解消してくれるはずの者

と言い替えてしまう。まさに,巧妙かつ卑劣である。この手の論旨に満ち溢れていて,もういちいち指摘するのも辟易する。

G・ライルは,知性は,

Knowing that
だけではなく,
Knowing how

がなければだめだという。著者は,シニカルに逃げて,

Knowing how

を一切示さない。自分なりにどうするかを示さなければ,所詮知識のひけらかしか,批判への評論でしかない。自分は安全なところで,時代を享受しながら,時代をシニカルに皮肉る。知性的なふりをした,巧妙なプロパガンダ以外の何ものでもない,

社会思想

の「偽装」である。しかし,ご自分が当事者意識を持とうが持つまいが,ご自分の子息,縁者の子息は巻き込まれる。あるいは,黒澤明がこずるく兵役を免れたように,この手の人には,抜け道があるのかもしれない。でなければ,ご自分を対岸においてものを言う神経が理解不能だ。

たしか,ミルトン・エリクソンをベースにする,NLP(神経言語学的プログラミング Neuro-Linguistic Programming)には,ミルトンモデル(その反対はメタ・モデル)というのがあり,物事をあいまいに糊塗する言葉遣いというのを列挙している。たとえば,

一般化
省略
歪曲

とあるが,とくに気になるのは,省略の一種(だと思う),

遂行部の欠落(あるいは遂行主体の曖昧化)

といわれるものだ。

誰が,
誰にとって,

という主体が,対象が,意識的にぼかされる。NLPのテキストは言う,

「話し手は,自分に当てはまるルールや自分の世界モデルを,他人にも押し付けようとする時に,遂行部の欠落を使います。」

あたかも,

すべて,
みんな,

ということで,何かを手に入れようとする子どものよく使う手のように。

「みんなそうだよ」。

参考文献;
佐伯啓思『正義の偽装』(新潮新書)
G・ライル『心の概念』(みすず書房)



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