2014年07月27日

世界観


千田稔『古事記の世界(コスモス)』を読む。

著者は,あとがきで,こう書く。

「本書では,『古事記』の底流をなしている自然をぬきだして,日本人の自然観と,そこから見えてくる,カミ意識に主たる焦点を定めた。古来,この国のカミ意識は,万物に神霊が宿っているというアニミズムであった。欧米などの一神教からは,見えない世界であって,原始宗教とさげすまれた位置づけをされてきた。だが,地球のいわゆる「環境問題」が深刻化の様相を呈しつつある昨今,自然界のすべてに神霊が宿り,人間も自然界に属しているというアニミズム的認識こそが,『環境』論を考えるとき,『共生』よりも,強い倫理性を発信できると思い,そのようなことが『古事記』によって示唆されているのではないかという思いで,本書を綴ってみた。」

と,しかし,序では,

「『古事記』は史書である。史書に登場する神々のすべてを,単純にアニミズムという枠内に収めることはできない。なぜならば,純粋な自然の霊への信仰だけでなく,『古事記』という政治的色合いをもった史書に収められている自然と神の関係からは,創作性をぬぐいさることができない場面もあるからである。そのために,本書では,無垢の自然に宿る神と,政治性をおびた人格神的なものとを交錯させながら述べることになる。」

と,『古事記』の性格のむずかしさを言い当てている。で,構成としては,

「ある種博物誌のような体裁をとっているが,それは,『古事記』という一つの宇宙論的記述を,腑分けして,解き明かそうとした試み…,」

として,

「史書としての『古事記』をいっぽうに意識しながら,『古事記』の中に見出される自然に目を注ぎ,この国の自然観の源流をたどってみたい,」

と,天と地そして高天の原,ムスヒとアマテラス,海,山,植物,鳥,身体,

と,章分けされている。しかし,一番面白いのは,



である。まず,言う,

カミ

の語源が分からないのである。



が語源ではないか,とあたりをつけていたらしいが,

そうではないのだという。で,いくつかの説が載せられている。

大野晋は,

「カミの語源としてこれまで上げられた,『上(カミ)』,鏡(カガミ),畏(カシコミ),カミの『ミ』は『ヒ』の転化で太陽のことであるという諸説は,いずれも古代の音のうえで『カミ(神)』の語源とはいえないとして,しりぞけた。そして南インドのタミル語との比較研究によれば,カミ(神)の古形カムは『カ』と『ム』との複合によつて成りたった語で『カ』は光線・雷光で『ム』は王・領主であると判明した。」

という。

本居宣長は,「まだ思いつかない」としたうえで,

「すべてカミ(迦微)というのは,…天地の諸々の神をはじめ,それをまつる神社に坐す御霊をも指し,また人は言うまでもなく,鳥・獣・木草の類,海・山などその他何であっても,尋常でないほどすぐれたるところがあって,かしこきものをカミと言う。」

谷川健一は,

「神(カミ)はクマと音が通じていて,クマシネは神に捧げる稲のことでその稲を作る田をクマシロというとして,…『和名抄』の岩見国邑知郡と淡路国三原郡に神稲(くましろ)郷…もそれに準ずるとする。」

もうひとつ谷川は,

「『クマ』は山の籠ったところを指す形容語という説があるが,『カミ』も幽暗なところに在すものという意味であると説く。」

さらに,古代朝鮮語のcomあるいはkumaは,どちらも暗い空間という意味である,ということから,著者は,

熊野

のことを想起する。そして,

「牟婁(むろ)という地名が熊野にあること,『むろ』は『もり(杜)』に由来するならば,大和の三輪山,すなわち『古事記』の御諸山の『みもろ』に通じることから,『熊野』という地名と『カミ』とのつながり」

は検討に値すると,留保しつつ,著者自身は,『カミ』の由来を,

「本来『カミ』は荒ぶる存在であったため,白いイノシシも黒いクマも『カミ』として認識されたが,黒いクマがより獰猛であったために『カミ』のシンボル性を強く表現した」

と考えるに至る。それは,本居宣長の,あらぶるものすべてが「カミ」とするものの延長線上にあるが,そういうものとして,カミを見ていく,と言う仮説の上に立って書いている,と表明のと同様である。

もうひとつ著者が注目するのは,道教の影響である。『古事記』の撰録と献上を太安万侶に命じたのは元明天皇であるが,諡が,

天淳中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)

である。

天淳中原

とは,天の瓊(たま)を敷きつめた原,瀛は瀛州(中国の東の海に浮かぶ不老長寿の薬のある三神山の一つ)という意味で,真人とは,道教で高い位の千人をいう。

その元明天皇に強い影響を与えた斉明(皇極)天皇も,宮の近くにある多武峰の山頂に,両槻(ふたつきの)宮あるいは天宮(あまつみや)と呼ばれる観,つまり道教寺院をつくった。

ということは,『古事記』を作った人々には,道教の世界観で,見えていたものがある,そうして見えた景色がある,ということなのだ。

その意味で,『古事記』の冒頭,

「天地初めて発けし時,高天の原に成れる神の名は,アメノミナカヌシ(天之御中主)の神。次にタカミムスヒ(高御産巣日)の神。次にカミムスヒ(神産巣日)の神。この三柱の神は,みな独神と成りまして,身を隠したまひき。」

でいう,「高天」に神が住むという信仰は,道教由来ではないか,と言う。

「おそらく,高天の原は,…中国の経典を参考にしてつくられた言葉であると思われる,」

と,著者は推測する。その意味するところは,

「『古事記』は稗田阿礼の口誦によったとする素朴な成立事情だけからは説明できない,」

ということになる。そして,この『古事記』の冒頭は,『日本書紀』にはなく,一書第四の諸説の一つとして載せているだけである。このことを,著者はこう推測する。

「これは,天武天皇の命によってつくられた『古事記』の高天の原の記述には,政治的宗教的意図があることを明示していると読みとれるのである。『日本書紀』の編纂者たちは,それを過小評価しようとしたのである。」

実は,その言葉が,その言葉を使っている人の見ている世界を示す。その言葉の意味に,大袈裟に言えば,世界観がある。人は,世界を,おのれの世界観で見ている。というより,おのれの世界観しか,そこに見ない。別に現象学的な意味だけではなく,そういうものの見方なのだ。とすると,その言葉が,どう意味で使われたのか,はその世界を共有するためには必須になる。

世界観と言う言い方が大袈裟なら,景色といってもいい。たとえば,

ササギ

という鳥の名がある。仁徳天皇を,

大雀命(おおさざきのみこと)

とよぶ,このサザキである。これには,



の字を当てて,

スズメ

であったり,

ササギ

であったりし,『日本書紀』では,鷦鷯の字で,ササギ,と訓ませている。これは,今日,

みそさざい

を意味する。雀かミソサザイかでは,見えているものが違うのである。

『古事記』の宇宙を見るのは,一筋縄にはいかないのである。

参考文献;
千田稔『古事記の世界(コスモス)』(中公新書)




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2014年08月02日

言霊


佐佐木隆『言霊とは何か』を読む。

著者は,言霊の,一般的な理解の例として,『広辞苑』を引く。

「言葉に宿っている不思議な霊威。古代,その力が働いて言葉通りの事象がもたらされると信じられた。」

と。しかし,一見して,異和感がある。言と事をイコールと感じるからといって,誰の言葉でも,その言葉通り実現すると,信じられたのか,と。

著者は,

「古代日本人にとって『言霊』とはどんなものだったのかを具体的に検討」

するのを目的として,

「言葉の威力が現実を大きく左右したり,現実に対して何らかの影響を与えたりしたと読める材料のみを取り上げ」

て,

「言葉の威力がどのようなかたちで個々の例に反映しているのかを,『古事記』『日本書紀』『風土記』に載っている神話・伝説や『万葉集』に見える歌などを読みながら,一つ一つ確認していくことにしたい」

とまえがきで述べる。それは,結果として,言葉が一般的に霊力をもつという辞書的通念への批判の例証になっていく。

まず,「言霊」の「こと」は,一般的に,「事」と「言」は同じ語だったというのが通説である。あるいは,正確な言い方をすると,

こと

というやまとことばには,





が,使い分けてあてはめられていた,というべきである。ただ,

「古代の文献に見える『こと』の用例には,『言』と『事』のどちらにも解釈できるものが少なくなく,それらは両義が未分化の状態のものだとみることができる。

という。ただ,まず「こと」ということばがあったと,みるべきで,「言」と「事」は,その「こと」に当てはめられただけだということを前提にしなくてはならない。その当てはめが,未分化だったと後世から見ると,見えるということにすぎない。

「『言霊』の『霊(たま)』は,『魂』の『たま』と同じ語であり,

霊魂,精霊

のことだと,一般には説明されている。

で,「言霊」使用例(「言霊」を読みこんだ例は『万葉集』には三首しかない)の分析に入る。たとえば,

①神代より 言ひ伝て来らく そらみつ倭国は 皇神の 厳しき国 言霊の幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり…(山上憶良)

②志貴島の 倭国は 言霊の 佐くる国ぞ ま福くありこそ(柿本人麻呂)

③言霊の 八十の衢に 夕占問ふ 占正に告る 妹相寄らむと(柿本人麻呂)

これ以外に,『古事記』『日本書紀』『風土記』を含めて,「言霊」の確かな用例はないのだという。で,ここから,その意味をくみ取っていく。

③の「夕占問ふ」とは,「夕占」である。

「夕方,道の交差点になっている辻に立ち,そこを通行する人が発することばを聞いて事の吉兆・成否を占う,」

という意味である。おみくじを引いて,神意を知るのと同じというと,言いすぎか。

②は,その前の長歌をうけている。そこには,

「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 事挙げせぬ国 然れども 辞挙げぞ吾がする 言幸く ま福いませと 恙無く ま福くいまさば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重浪しきに 言上げす 吾は 言上げす吾は」

とあり,①も②も,

「皇神(すめかみ)」「神(かむ)ながら」を承けたかたちで「言霊」という語が用いられている,ということである。

として,著者は,ここで用いられた

「『言霊』が神に対する意識と密接な関係があったことを物語る,」

として,こう説く。

「人間の口から発せられたことばが,その独自の威力を発揮し,現実に対して何らかの影響を及ぼす,といった単純な機構ではない。神がその霊力を発揮することによって,『言霊の幸はふ国』を実現し『言霊の佐くる国』を実現するのだというのが,(①と②の)『言霊』に反映する考え方なのである。」

当然,③の占いも,

「行為が向けられた相手は神であり,『占正の告る』の主体も神だということになる。つまり,人間が『占』を行って,神に『問ふ』のであり,神がそれに応じて『占に告る(占いの結果にその意思を表す)』のである。」

と述べ,『広辞苑』に代表される通説の説明は不十分で,

「(三例の)「言霊」は神を意識して用いられたものであるのに,…神とのかかわりが視野にはいっていない,」

と言う。そして,

「三例の『言霊』は,神がもつ霊力の一つをさすもの,」

と考えると,ことばに対する当時の日本人の考え方は,原始的なアニミズムを脱し,

「『言霊』については,早い段階で,人間には具わっておらず神だけがもつ霊力だと考えられるようになっていたのではないか」

と推測する。そして,以降,ことばの威力を,文献にあたりながら,

いかに神の霊力

を意識していたか,を検証していく。

呪文
祝詞
国見・国讃め
国産み
夢あわせ

等々を検討したうえで,

「本書では,ことばがその威力を発揮して現実に何らかの影響を与えた,と読める材料だけを古代の文献から集め,その内容を具体的に分析した。『古事記』『日本書紀』『風土記』の神話・伝説や『万葉集』の歌を見る限り,ことばの威力が発揮され,それが現実に影響を与えるのは,神がその霊力を用いる場合である。人間の発したことばを聞き入れた神がその霊力を発揮して現実に影響を与える,というかたちになっているのが普通である。」

とまとめる。つまり,

「人間の発することば自体に威力があって事が実現するのではなく,人間の発することばを聞き入れた神が事を実現してくれる…,」

というわけである。

「ことばに霊力がやどると信じたのは,人々の間で日常的に何気なく交わされることばではな(く)…儀礼の場で事の成就を願う非日常的な状況において,特別な意識をともなって口から発せられることばに霊力がこもる…」

ということである。上記の万葉三首以降,「言霊」をもちいた歌は,数えるほどしかない。そこでも,強く神対する意識がある。では,どこで,

「人間の発することばにまで拡大され,さらにまた,ことばそのものに霊力がやどるという解釈にまでかくだいされることになった,」

のか。著者は,江戸時代の『万葉集』で,上記三首の解説を調べる。

江戸時代前期,契沖の『万葉代匠記』
江戸時代中期,賀茂真淵『万葉考』

では,神との関係を明確に意識している。しかし,

江戸時代後期,橘千蔭『万葉集略解』

では,

この歌に神霊がやどって,

と,神意抜きの解釈に変わる。師の真淵が「神の御霊まして」という説明の神意をはき違えてしまったらしいのである。

これ以降,

言霊とは,ことばの神霊のことであり,発することばにおのずから不思議な霊力がある

というように変わっていく。それは,とりもなおさず,

自然や神への畏れ

をなくしてしまった現れなのではないか,と思う。だから,

ことばをもちいた祝詞や和歌や諺にも言霊が宿る,

と際限なく拡大していく。それは,人の不遜さ,思い上がりに通じるものがあるような気がしてならない。人というより,日本人の,と言った方がいい。その不遜さは,またぞろ,妖怪のように復活してきた気配である。夜郎自大とはよく言ったものである。

参考文献;
佐佐木隆『言霊とは何か』(中公新書)




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2014年08月07日

家と血と藝


中川右介『歌舞伎 家と血と藝』をよむ

昨年の五代目歌舞伎座の杮葺落興業では21演目が上演され,演目ごとの配役表のトップ,つまり主役に据えられた役者は,十人。

坂田藤十郎,尾上菊五郎,片岡仁左衛門,松本幸四郎,中村吉右衛門,中村梅玉,坂東玉三郎,坂東三津五郎,中村橋之助,市川海老蔵,

である。しかし,この十人は,家としては,七家となる。

市川團十郎家(海老蔵)
尾上菊五郎家(菊五郎)
中村歌右衛門家(梅玉,橋之助,坂田藤十郎)
片岡仁左衛門家(仁左衛門)
松本幸四郎家(幸四郎)
中村吉右衛門家(吉右衛門)
守田勘彌家(坂東玉三郎,坂東三津五郎)

本書は,「この七家の家と血と藝の継承の歴史を描く」が,

「全体としては,明治以降現在までの歌舞伎座の座頭をめぐる権力闘争の歴史でもある。」

しかし,どういう権力闘争なのか,というと,

「『歌舞伎座の舞台で主役を演じること』を求めての闘争である。他の劇場で主役を演じることができても,歌舞伎座の舞台に立てなければ意味がないのだ。それは歌舞伎座が劇界で最高位の劇場だからである。そうなったのは明治以降でしかないのだが,逆に言うと,明治以降の歌舞伎の世界は歌舞伎座を頂点とした構造となっている。さらに,その歌舞伎座で主役を勤めることができるのも,いま挙げた七つの家が中心という構造になってしまった。」

何が主役を張る決め手になるかと言うと,「藝」ではあるが,「人気」も必要であるし,「政治力」も必要になる。

「歌舞伎の場合は,役者個人の『藝』や『人気』もさることながら,その『家』の歴史や格式といった要素が大きく左右する。……門閥で成立している世界といったほうがいい。そして,門閥を支えているのが『世襲』制度である。」

だから,七家は,親子関係だけでなく,「複雑きわまりない姻戚関係」によって,

「ひとつの巨大ファミリーを形成している。『歌舞伎役者の八割は親戚』である。」

という。しかし,

「この『世襲』『門閥』による七家寡占体制は,しかし,四百年続く歌舞伎史の最初期から続いているものではなく,この百年ほどの間に確立したものに過ぎない。」

本書は,まさに,この体制の形成史そのものになっている。

「戦国武将列伝の歌舞伎役者版を描つもり」

で,語られていく。その複雑な関係は,たぶん,振り返らないとよくわからない。たとえば,

「いまや歌舞伎界は七代目松本幸四郎の子孫なくしては成り立たない」

ほどと言われるが,その七代目は,三重県の土木業を営む家の子として生まれ,藤間流家元,二代目勘右衛門の養子となり,九代目團十郎の家に住み込むようになり,高麗蔵襲名,幸四郎襲名を果たした人物だ。著者は言う。

「七代目松本幸四郎の最大の功績は三人の息子を戦後を代表する幹部役者に育て上げたことだと言われる。ただ育て上げただけではない。三人を,市川宗家,中村吉右衛門,尾上菊五郎それぞれの後継者にまでしたのだ。すなわち,息子たちが十一代目市川團十郎,八代目松本幸四郎(白鷗),二代目尾上松緑であり,他に娘婿が四代目中村雀右衛門だ。そして孫が十二代目團十郎,九代目幸四郎,二代目吉右衛門,三代目松緑,八代目大谷友右衛門,七代目中村枝雀,曾孫が十一代目海老蔵,七代目染五郎,四代目松緑となる。」

と。これだけで,四家が関わることになる…。

さて,話を戻すと,本書は,「宗家」と呼ばれる團十郎家の,十二代團十郎の死から,語られていく。そして,最後は,中村勘九郎の息子・七緒八の,歌舞伎座での初舞台で締めくくられる。

「この勘九郎の子・七緒八は,初代中村歌六の六世代目の男系の男子にあたる。さらにこの子は尾上菊五郎家の血も引いており,三代目菊五郎から数えて八世代目,その父の初代尾上松助からだと九世代にわたり血脈が確認できる。五代目菊五郎は中村羽左衛門家に生まれているので,この子は十一代羽左衛門から数えると八世代目になる。さらに,祖母(十八代勘三郎の妻)が中村歌右衛門家の出なので,こちらをみると,五代目福助から五世代目になる。…これに横や斜めの関係もあるので,歌舞伎の幹部役者のほとんどが,彼の親戚である。」

しかし,

「歌舞伎の世界は世襲といえども,必ずしも実子が継いでいるわけではない。そして名家に生まれただけでは主役は務められない。名家だからと言って,いつまでも続くわけではない。」

という。たとえば,明治以降劇界で天下を取った役者,

「九代目團十郎,五代目歌右衛門,六代目歌右衛門に共通するのは,その名が自動的に与えられたのではなかったということだ。自分の力で獲得した名跡である。六代目菊五郎にしても,五代目の実子だが,義兄・梅幸を押し退けての襲名であり,その後に苦労があった。初代吉右衛門は父がいたとしても傍系の人で,彼が創業者に近い。みな,『役者の子』(養子を含む)ではあったが,エスカレーターに乗るようにして,出世したわけではない。」

坂東玉三郎は,「現在の幹部クラスのなかで数少ない『大幹部』の『実子』ではない役者」だ。

「このことは幹部の血縁でなくても才能と運があれば主役を勤められることの証拠ともいえる。しかし彼が今日のポジションに到達できたのは,徳川時代からの名門家の養子になったからでもある。その手続きを踏んでいなかったら,彼の今日のポジションはない。」

つまり,

「坂東玉三郎という当代随一の女形は,歌舞伎の可能性と限界と矛盾の象徴」

でもある。著者はこういう。

「二十一世紀になってもなお,歌舞伎の舞台では血統による世襲と門閥主義により,幹部役者の家に生まれた者でなければ主役を演じられない。逆に言えば,幹部の子として生まれれとりあえずチャンスが与えられ,誰の眼にも『あれはダメだ』と映らない限りは主役あるいは準主役としてでることができる。」

こんな箱庭の芝居に,いまを生きているものの息吹はない。いま一種の演劇ブームである。ものすごい数の小さな劇場に,若い人が押しかけている。その熱気とエネルギーは,歌舞伎座にはない。僕は,顰蹙を買うかも知れないが,税金で守らなくてはならないような伝統芸能は,いらないという主義だ。それはもはや死んだものだ。死んだものは,いま必要ではないということだ。囲われた「伝統芸能」は,いまという時代と格闘しない。そんなものは文化ではない。文化は過去にはない。いま,われわれ自身が,あらたな伝統の担い手なのであって,もしあるとするなら,そこにこそ,金を投入すべきだと考えている。亡くなった勘三郎は,そのことに敏感であった。コクーンで彼を観たとき,その熱意を感じた。しかし,それを継ぐ者はいない。歌舞伎が,そういう古典芸能に陥るかどうかの,いま瀬戸際にあるように思える。

参考文献;
中川右介『歌舞伎 家と血と藝』(講談社現代新書)




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2014年08月10日

奥行


今野真二『日本語の考古学』を読む。

著者は,

「『考古学』は……「(具体的な)モノを通して」過去の文化を考える学問だ…。本書ではこれから,日本語という言語を対象に『考古学』的なアプローチをしてみようと思う。ここで扱う『モノ』とは,写本や印刷物などの文献である。
過去の日本語を分析するためには,残された文献に就くことになる。…本書が扱うのは,かつて誰かが手で書き写した,あるいは活字を用いて印刷した,具体的なモノとしての書物である。

と「はじめに」で書く。つまり,電子化されたテキストではない,ということだ。なぜなら,

「例えば,同じ『土左日記』の写本であっても,写した人が違えば,漢字や平仮名の使い方が違っていることがある。もっと細かいことを言えば,同じ漢字でも書き方が違ったり,同じ文を書いていても改行箇所が違ったりする。あるいは書き間違えが含まれていたり,注釈のようなメモが書き加えられていたりする。使われている紙も異なる。このように,一つ一つの情報はささいなものだったとしても,そこには,過ぎた「時間」を復元するためのなんらかのヒントがあるのではないだろうか。」

と。だから,言葉としてのまとまりをどう意識していたかとか,どこを文章を区切るか(文のまとまりをどう意識していたか)とか,一つの行をどう意識するか(改行はどこで何を持って意識されたか)とか,等々細かな日本語の過去を洗い出す。そして,それは,

現在につながっている,

という。

たとえば,われわれにとっては,「楷書以外で書かれた漢字」に出会うことはないが,

「書体の歴史を考えたとき,楷書体はむしろ新しい書体である。中国において楷書体が成立したのは初唐だと考えられている。秦の始皇帝(中略)が統一してできた書体が『小篆』である。始皇帝が統一する以前の篆書から派生したものが『隷書』である。(中略)隷書を簡捷化した草隷…をさらに省略化した『草書体』がうまれ…,後漢に入ると盛行していたことがわかっている。隷書から草書が発生する過程で,現在の行楷書に当たる書体が派生し…楷書が完成するのが…初唐…と考えられている。」

朝鮮半島を経て伝わる中国文化は,中国と日本とでは,百年位のタイムラグがある。だからほぼ百年後,平城宮から出土した木簡は,楷書で書かれている。そう考えると,たとえば,現在残されている『万葉集』の西本願寺本(鎌倉時代後期に書写された)は,楷書体で書かれている。

「わたしたちが手にしている最古の写本と,『原万葉集』との間には,失われた時間が横たわっている,ということである。ほぼ楷書体しか知らない現代のわたしたちには想像もつかないような大きな『質的変化』がそこに秘められているかもしれない。」

と,さらに,

「今から一万年あまり前から縄文時代が始まったというみかたがある。社会生活をしているのだから,おそらくは日本語(につながるような言語)が使われていたと考えてよいと思うが,そうだとすれば,日本列島上で日本語は一万年以上使われていることになる。その中で,文献に日本語が足跡を刻むのは,七世紀以降で,現代までたかだか千五百年ぐらいということになる。その千五百年の中で,明治…以降はまだ百五十年にもみたない。局所的といっていもよい。しかしその明治期の日本語でさえ,…現代の日本語とは異なっている。わたしたちが思うほど,現代は絶対のものではない。」

たとえば,漱石の文庫本を,例にとると,まずは,表記が換えられている。

仮名遣いや用いている漢字など

が違うだけではない。著者は,「仰向」と言う表記を例に挙げる。最初の刊行(大正三年 岩波書店)では,

あふむけ

とルビがふられている。この時代の「あふむく」は,発音は,

アウムク

である。しかし,文庫本では,

あおむけ

とルビをふる。つまり,現代日本語としての発音を示したことになる。あるいは,

蒼い

は,

青い

に表記が換えられている。あるいは,

さうして



そして

に換えている例もある。印刷されたものについてですら,このような表記の転換が行われている。

「厳密に言えば『本文』を変えたことになるであろう。『作者』を,テキストの改変ができる唯一の人と定義するならば,このテキストの作者はだれということになるのだろうか。」

という著者は,夏目漱石ですらこれである。書き写しを繰り返した,たとえば,紫式部『源氏物語』,紀貫之『土左日記』(紀貫之は左の字を使っている)の作家となると,はなはだ覚束ないのではないか,と言っているのである。

そもそも書写原本とまったくおなじテキストを作ろうとして書写したとしても,不注意から写し損なうことも考えられる。あるいはちょっとした箇所について,原本に何らかの「錯誤」があるのではないかと考えて,書写者の判断で「本文」を変える可能性はつねにある。

藤原定家は,紀貫之の自筆本を,

もとのまま書いた

という。たとえば,

いひ/つかふものにあらすなり
いま/はとても見えすなるを

という文章について,為家筆者本では,

「『さ』には,漢字『散』を字源とする異体仮名(散)が使われているが,定家はこの〈散〉を『す』と判読している。(中略)定家にとって,仮名『さ』にあたる〈散〉はすでになじみのうすいものであった可能性がたかい。」

つまり,どんなにそのまま写そうとしても,

書く時に使用する仮名字体そのものも,変化している可能性がある

という制約があるということらしい。

こうやって一枚一枚薄皮を剥がすようにして,日本語の原風景を探っていく仕事は,実は,過去のことではなく,いまにつながっている気がしてならない。たとえば,繰り返しを示す,

「〱」

があるが,これを行の頭に持ってこないようにするという意識が,16世紀の鎌倉時代に書写された『竹取物語』に見える。いまだと,禁則処理として扱われることにつながる,意識である。

最後にもうひとつ,椿は,

ツ婆木

豆波木

と表記される。「木」は,

「『ツバキ』の『キ』という音ではなく,その『意味』において『椿』という樹木と関連づけられており,『万葉仮名』つまり仮名としてではなく,漢字として使われている…」

というのである。

都婆伎
とか
都婆吉

の表記の場合は,音を利用して書いている。つまり,

古代においてすでに,漢字「木」が樹木を指す日本語「キ」と強く結びついていた

わけである。その意味で,

エノキ
ヒノキ

のそれも,「木」が意識されなくなっている例と言えるらしいのである。

『新撰字鏡』をみると,漢字の和訓に万葉仮名が当てられている。

村 牟久乃木(ムクノキ)
槙 万木(マキ)
樟 久須乃木(クスノキ)
桐 支利乃木(キリノキ)

こうした背景にあるのは,その時代の語構成の感覚である。しかしその特徴は,

「『ミナト』に単漢字『港・湊』をあてるようになると,もともとは,『ミ(水)+ナ(助詞のノ)+ト(戸)』という語構成をなしていたことがわからなくなり,『まつげ』に単漢字『睫』をあてるようになると,もともと『マ(目)+ツ「助詞ノ+ケ(毛)」であることがわからなくなる。同じように,〈燃料にする木〉という語義の『タキギ』はよく考えれば,『タキ+キ』という語構成をしていることがわかる。動詞『タク』の連用形『タキ』に『キ=木』が複合している。現在では,単漢字『薪』をあてることがほとんどなので,『よく考え』ないと,そのことに気づきにくい。しかし『万葉集』には『燎木伐(たきぎこる)』…とある。『燎』字には〈やきはらう〉という字義がある。また,『多伎木許流(かきぎこる)』ではやはり,『タキギ』の『ギ』に『木』字が使われている。』

日本語の考古学は,このように丹念に,砂を払い,いわば,日本語の根っこ探っていく試みと言える。その奥行きの中に,いまの日本語がある,ということがよく伝わってくる。

語源が気になっている僕には,語源すら,日本語と表記として使った感じとの「音」を使ったり,「意味」で使ったりというその使い分けまで踏み込んでいくと,書くことと話すことの言葉の乖離にことばの深い奥行が見えてくる気がする。

参考文献;
今野真二『日本語の考古学』(岩波新書)



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2014年08月15日

自己目的


豊下樽彦・古関彰一『集団的自衛権と安全保障』を読む。

冒頭で著者は,憲法解釈の変更についての,記者会見で,具体的な例を挙げたとを取り上げた。それは,

「事実上朝鮮半島有事を想定しつつ,避難する邦人を救助,輸送する米艦船が攻撃を受けた場合」

であった。そして,

「このような場合でも日本自身が攻撃を受けていなければ,日本人が乗っているこの米国の船を日本の自衛隊は守ることができない」

と述べて,集団的自衛権行使ができない現状では,国民を守れない例とした。しかし,基本的に,これは,嘘である。いろんな意見がすでに出されているが,著者は,

「実はこうした事例は,現実には起こりえない。なぜなら在韓米軍が毎年訓練を行っている『非戦闘員避難救出作戦』で避難させるべき対象となっているのは,在韓米国市民14万人,『友好国』の市民八万人の計二二万人であり,この『友好国』とは,英国,カナダ,オーストラリア,ニュージーランドというアングロ・サクソン系諸国なのである。」

つまり,

「朝鮮半島有事において米軍が邦人を救出することも,ましてや艦船で避難させることも,絶対ありえないシナリオなのである。」

にもかかわらず,平然と,

「お父さんやお母さんや,おじいさんやおばあさん,子供たちかもしれない」という情緒で,訴えたのである。著者は,

「こうしたトリックまがいの手法をとらざるを得ないところに,安倍首相が主導する集団的自衛権をめぐる議論の“支離滅裂さ”が象徴的に示されている」

という。僕はそうは思わない。論理が破綻しようが,支離滅裂だろうが,説明した実績だけが残る。ある意味,国民を馬鹿にし,見下し,いずれついてくる,と思っている節が見え,そちらの方が,半ば事実になりつつある現状を見ると,空恐ろしい。

あるいは,「安倍首相が“執念”をもやす」機雷掃海についても,同じことが見て取れる。著者は言う。

(想定されているらしい)「ホルムズ海峡は,オマーンあるいはイランの領海によって占められ公海は存在しないのである。とすれば,安倍首相の公約(海外派兵は致しません,を指す)に従えば,海上自衛隊の掃海艇はホルムズ海峡の手前で引き返してこなければならず,そもそも掃海活動など行えないのである。」

と。しかし,論理的矛盾,奇奇怪怪の「ためにする議論」であろうと,蟻の一穴という既成事実を積み重ねるための詐術といっていい。著者は,

「公海の存在しないホルムズ海峡での機雷掃海というシナリオの立て方それ自体のなかに,自ら宣言した公約を簡単に破棄してしまう意図が当初より孕まれているのである。」

という。というより,その意図を実現するための詐術としての論理でしかない。いや,論理というより,こじつけである。

著者は,こう嘆息する。

「なぜ集団的自衛権をめぐる議論は,これほどリアリティを欠いているのであろうか。それは,本来であれば何らかの具体的な問題を解決するための手段であるはずの集団的自衛権が,自己目的となってしまっているからである。」

そして,こう付け加える。

「それはつまるところ,集団的自衛権の問題が,安倍首相の信念,あるいは情念から発しているからである。」

それはまさに,国家の私物化である。おのれの実現したいことが,国民の望まないことであっても,何が何でも,実現してしまおうというのは,北朝鮮同様の独裁国家になりつつあることを示している。

集団的自衛権を足掛かりに,目指していることは,

戦後レジームからの脱却

である。著者は言い切る。

「最大の眼目は,青年が誇りをもって『血を流す』ことのできるような国家体制を作り上げていくところにある」

と。そこには,現象的には,靖国参拝,「村山談話」「河野談話」の見直しとして現れ,そこから仄見えてくるのは,

東京裁判史観からの脱却

という課題の具体化なのである。自民党憲法改正草案,国家安全保証基本法などにみられるのは,

「サンフランシスコ講和条約を基礎として米国が作り上げてきた戦後秩序そのものへの挑戦」

であり,だからこそ,

「米国主導の戦後秩序を否定する信条と論理を孕み,それに共鳴する広範な支持基盤を有した政権が初めて登場し,いまや日本を担っているのである。」

と著者は危惧を示している。

「これこそ,日本の孤立化が危惧される所以であり,日本をめぐる安保環境の悪化をもたらしている」

と。その危惧は,ジャパンハンドラーの一人として,アーミテージらとともに,集団的自衛権行使できるよう,介錯改憲を求めてきたはずの,元国防次官補・ジョセフ・ナイの,

「集団的自衛権が『ナショナリズムのパッケージで包装』される,つまりは,『好い政策が悪い包装』で包まれるならば近隣諸国との関係を不安定にさせるので反対である,との立場を表明した」

発言に見ることができる。著者は,

「ジャパンハンドラーの最大の誤算は,日本が集団的自衛権を解釈変更して海外での武力行使に踏み出すことを強く主張する政治勢力が,実は,『東京裁判史観』からの脱却というイデオロギーによって色濃く染められていることであった。」

と。それは,アメリカが築き上げた戦後秩序への挑戦なのである。だから,日本に続いて韓国を訪れたオバマ大統領は,日本に明確な警告を発した。

「従軍慰安婦問題について『恐るべき言語道断の人権侵害』と断じ,その上で,突如として安倍首相の名前を上げ,『(首相は)過去というものは誠実かつ公正に認識されなければならないことを分かっている,と考える』と,異例の形で厳重に “釘をさした”のである。これは,安倍の「歴史修正主義は断じて許さない」というオバマの宣言とみることができる。」

そして,安倍の進める集団的自衛権に対して,「歓迎する」と言いつつ,

①「日米同盟の枠内」であること
②近隣諸国との対話

という厳重な二条件を課した。

「要するに,集団的自衛権の行使は米軍の指揮下で行われねばならないこと,しかしその前提として,中国や韓国との『対話』が不可欠の条件である」

ということである。結局,

「米国の政権は,中国や北朝鮮の脅威を煽りたて日本を米国の軍事指揮下に“動員”しながら,現実には,日米同盟の枠を越えたレベルから自らの国益に沿って行動」

するということである。これのどこが,誇れる国なのか。めざす戦後レジームからの脱却とはこういうことなのか?

在日米軍のために辺野古で着々と進めている工事と言い,どうも言っていることとやっていることが,支離滅裂。ただ国の岩盤を砕いている気がしてならない。

参考文献;
豊下樽彦・古関彰一『集団的自衛権と安全保障』(岩波新書)





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2014年08月23日

家臣


谷口克広『信長・秀吉と家臣たち』を読む。

谷口克広氏の近刊『信長と将軍義昭 - 提携から追放,包囲網へ』を予約購入する際,つい間違えて,一緒に購入してしまった。

実は数年前,新書版で読んでいるはずで,それを失念して,タイトルだけで,Kindle版でまた購入してしまった。こう言うことは,恥ずかしながら,結構ある。読んだことを忘れている。購入してから書棚にあることに気づく場合もあるが,読みだしても気づかない場合もある。どこかで読んだような,と思って初めて気づくこともある。読んでいないで,積読だと,同じ本を何冊も購入したこともある。

こんなレベルの読み方なので,右から左へ,読み飛ばしているから,身になってはいない。

今度は,秀吉,信長からすこし外して,家臣という側面に焦点を当てて,読み直してみた。

信長と秀吉の関係をみるとき,いつも思い出すのは,信長の,秀吉正妻おねへの手紙である(というよりは,返事である。ということは,おねが秀吉の浮気を訴えた手紙が存在するということになるが)。

「藤吉郎れんれん不足の旨申すのよし,言語道断曲事候か。いず方を相尋ね候とも,それさまほどのは,又再びかのはげねずみ相求め難き間…これより以後は,身持ちようかいになし,いかにもかみさまなりに重々しく,悋気などに立ち入り候ては,然るべからず候」

おねをなだめつつ,やきもちをたしなめている手紙である。よく,信長の気遣いの例として出されるが,それ以上に,秀吉及びおねへの(ただならぬ)厚意を感じる。他に,こうした,個人的な家臣の妻にあてた手紙があるのかどうか知らないが,おねがそういう手紙を直々,信長に出して個人的なことを訴えられる関係が面白い。そこには,おねと信長の関係以上に,「はげねずみ」と呼ぶ秀吉への信長の親しみを,ここから感じる。

では家臣としての,秀吉はどういう家臣だったのか。

秀吉が,確実な史料に登場するのは,永禄八年(1565)で,

「尾張と美濃の境目に本拠地を構えている坪内氏に宛てた証文で,信長が坪内氏に発給した宛行状の副状である。当時秀吉は二十九歳だが,もう信長の奉行人ないし武将格にまで出世している。」

微賤の身から小者として仕えた秀吉は,後に小早川隆景に手紙で書いたように,「家中のものの真似のできない」ような「寝る間も惜しむ」働きぶりを示す。著者はこう書く。

「宣教師ルイス・フロイスも言っているが,信長は早起きである。それに,突然たった一人で駈け出すこともある。側近にしてみれば,常に目を離せない主君なのである。秀吉は小者ながらも,まず直接信長に知ってもらい,次には目を懸けられるよう一生懸命に努めたものと思う。おそらく睡眠時間を大幅に削って頑張ったのだろう。」

と。ついに,天正元年(1573),小谷攻めの功で,北近江三郡を与えられる。十二万石の一国一城の主となる。さらに,天正八年,播磨,但馬を与えられ,五十万石大大名になる。その動員兵力は,備前・美作の宇喜多直家の軍と合わせると,三万になる。

著者は言う。

「信長は能力至上主義者だから,低い地位の者を抜擢した例はたくさんある。それにしても,秀吉ほどの出世は類がない。出発点が小者の身分で,最後は(中国)方面軍司令官にまで登り詰めるのだから,これ以上ありえない出世である。小者なら小者の仕事,奉行なら奉行の仕事を常に全うするし,部隊指揮官に出世したなら,戦いの中で自分の指揮する部隊を最大限に生かそうとする。天賦の才に恵まれていたのは確かだが,それ以上に,現実を直視しながら他人の何倍も努力を心掛けていたというのが,秀吉の出世の秘訣であろう。」

と。あの信長が,秀吉のおべっかなんぞに欺かれはしない。そうではない,陰日向のない勤勉さと努力を,よく分かっていたのだと思う。

「例えば,元亀元年から天正元年までの三年間,秀吉は浅井攻めの最前線である横山城に置かれる。何度も敵の逆襲をしのぎ,見事にその地を守り抜く。その多忙の間,秀吉が畿内の地に発した文書が二十点近くも見られるのである。度々京都に上っていたことがわかる。」

あるいは,こんなエピソードがある。播磨攻めの最中のことである。

「秀吉の猛烈な働きを見て,信長は,……いつになく優しい手紙を秀吉宛に送る。
『よく働いた。戻ってきて一服せよ。』
しかし,秀吉はきかない。
『いえ,このぐらいでは,たいした働きではありません。』
とせっかくの慰労を断って,隣国の但馬まで攻め込み,いくつかの城を落とすのである。
秀吉が安土に報告に上がるのは,十二月になってからだった。ちょうど信長は三河に鷹狩りに行っていたが,出発する前,秀吉が来たら褒美として渡すように,と天下の名物『乙御前釜』を用意していた。信長がこれほど家臣に気を遣うことは珍しいことである。」

この主従の関係は,阿吽の呼吸に見える。

「秀吉は,信長の家臣としての務めについてよく知っていた。思い切り働いて成果を上げさえすれば,信長は必ず認めてくれるということを心得ていたのである。」

だから,

「三木城攻めの時も秀吉は,ずっと不眠不休の努力を続けた。二年近くの攻囲の末ようやく攻略した後,彼は有馬温泉に行き,二日二晩眠りつづけたという。」

では,秀吉の家臣は,どうか。例の高松を撤退した秀吉は,一日一夜で姫路城まで戻る。そこで交わされた会話が,『川角太閤記』に出ている。

「風呂からあがった秀吉は,城に蓄えていた金銀や米をすべて家臣に分け与え,籠城の覚悟のないことを示す。そして,(信長馬廻りで,監察として派遣されていた堀)秀政に向かって次のように宣言する。
『此の度,大博奕を打ち,御目に懸くべき候』
それに対する秀政の弁,
『御意の如く,世間の為体(ていたらく),博奕も成目に来たり,風も順風と見え申し候。帆を御上げなさるべく候。こなたなどの御身上からは,か様の時,二つ物懸の御分別御尤もかと存じ奉り候』
この秀政の言葉の後,側にいた(祐筆の)大村由己が,『名花の桜,唯今,花盛りと見え申し候,御花見御尤もかと存じ奉り候」,さらに黒田孝高が『殿様には御愁嘆の様には相見え候得ども,御そこ心をば推量仕り候。目出度き事出で来るよ』と…」

秀吉をあおったという。問題は順序である。秀政は,信長のトップクラスの側近である。黒田は,秀吉の与力に過ぎない。秀政の発言こそが,この場では意味がある。そして,この両者の関係こそが,のちのち,天下取りに大きく寄与する。山崎では,秀政は,一手の指揮を執り,中川瀬兵衛,高山右近を指揮する。清州会議の結果,信長家家督が三法師となると,秀政は,その傅役となり,秀吉を支えることになる。

ついでながら,秀吉の家臣のように扱われているが,黒田官兵衛も,竹中半兵衛も,蜂須賀小六も,直臣ではない。あくまで,秀吉与力として信長から派遣されている。弟小一郎もまた,あくまで与力である。秀吉ではなく,信長の家臣である。その意味で,いわでもがなだが,半兵衛は軍師ではない。半兵衛の子,重門の書いた,『豊鑑』にもそんなことは書かれていない。『信長公記』には,半兵衛死後,

「六月廿二日,羽柴筑前与力に付けられ候竹中半兵衛,播磨御陣にて病死候。其名代として,御馬廻りに候つる舎弟竹中久作播磨へ遣わされ候」

という記述がある。竹中家の家臣を統率させるという意味である。半兵衛が,軍師でなければ,官兵衛が軍師であるはずもない。


参考文献;
谷口克広『信長・秀吉と家臣たち』(学研新書)


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#谷口克広
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2014年08月24日

自己認識


ミシェル・フーコー『主体の解釈学』を読む。

本書は,1982年,コレージュ・ド・フランスで行った講義録である。編纂者の,フレデリック・グロは,

「フーコーは,獲得された研究成果について話すというよりは,ほとんど手探りするようにして,探求の進行を一歩一歩伝えようとするのである。講義の大部分の時間は,彼が選んだ文献の粘り強い読解と,その逐字的な注釈に充てられる。講義ではいわば『仕事中』のフーコーがみられるのだ。」

と,この年の講義の特異性を伝えている。そのせいか,たびたび,フーコー自身,

今日も少し立ち止まってみたいと思います。

ちょっと枝葉末節にこだわり過ぎて申し訳ありません。

みなさんにはあまりにも細かすぎて,足踏みしているような印象を与えるかもしれませんね。

等々と断りを入れている。確かに,あまりにも微に入り細に渉って,ギリシャも,ヘレニズム・ローマも,キリスト教にも,まったく学識のない自分がついていくのは大変だったが,そうか,ここまで綿密に,細心に文献を読みこんでいくのか,という,フーコーの学者としての読みの深さと視野の広さに同時進行で立ち会った気分ではあった。

本講義は,フーコー自身,まだ未完のまま,

自己への配慮

という観念を取り上げるところから,始まる。そして,ギリシャの

汝自身を知れ

との関係へと踏み込んでいく。通常考えている,「汝自身を知れ」は,デカルト以来というべき,

自分を見つめ,
自己の中に自己を見つめ,
そこに主体の真理を解釈する,

といった,「反省の病」(訳者)ともいうべき,自己との関係にある,自己認識,自己解釈とは別の,

自己との関係を結ぶことができるのか,

という問いへのフーコーなりの解答なのだといってもいい。

それは,キルケゴールの,

人間は精神である。しかし,精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし,自己とは何であるか?自己とは,ひとつの関係,その関係それ自身に関係する関係である。あるいは,その関係に関係すること,そのことである。自己とは関係そのものではなくして,関係がそれ自身に関係するということである。

という,自己の中に自己完結して,入子のように入り込んでいく,自己との関係とは別のありよう,という意味と言ってもいいのかもしれない

しかし,それを,細部にわたって解釈したり咀嚼していくことは,到底僕の力の及ぶところではない。そこで,フーコー自体が,最終講義で,こうまとめているところから始めたい。

「本年度の授業で私が特に示そうとしたことは,次のことです。フランスの歴史的伝統や哲学的伝統においては―このことは西欧一般に妥当すると思われますが―,主体や反省性や自己認識などの問題の分析全体の導きの糸として特に重視されていたのは,〈汝自身を知れ〉という自己認識でした。しかしこの〈汝自身を知れ〉ということだけを独立して考えてしまうと,偽の連続性が打ち立てられ,うわべだけの歴史が作られてしまいます。つまり,自己認識の連続的な発展のようなものが考えられてしまうのです。この連続的発展は二つの方向で復元されます。第一に,プラトンからデカルトを経てフッサールに至る,根源性という方向,第二に,プラトンから聖アウグスチヌスを経てフロイトに至る経験的拡張の方向での連続的な歴史です。このどちらの場合も,〈汝自身を知れ〉を導きの糸としており,そこから根源性ないし拡張へと連続的に展開されるのです。しかしどちらの場合も,明示的にであれ,暗黙の内にであれ,主体の理論が練り上げられずに背後に残されてしまいます。」

つまり,「汝自身を知」ろうとすることではなく,「汝自身を知」るとはどういうことかが,取り残されている,といいうのである。そのために,フーコーがここでしようとしたのは,

「この〈汝自身を知れ〉を,ギリシャ人が〈自己への配慮〉と呼んだものの傍らにおくこと,さらに自己への配慮という文脈や土台の上に置くことなのです。」

そして,

プラトン主義的モデル(想起のモデル)
キリスト教モデル(自己の釈義と自己放棄モデル)
ヘレニズムモデル(自己の関係の自己目的化モデル)

の三つ(の仮説)を立てて,自己と自己との関係性の在り方を掘り下げていくことになる。

プラトン『アルキビアデス』で言っている〈汝自身を知れ〉は,

「魂が自分の本性そのものを知ること,そしてそれによって魂と本性を等しくするものに到達することであることに気づかされます。魂は自分自身を認識します。そしてこの自己認識の運動において魂は,記憶の底ですでに知っていたことを再認するのです。魂は自分自身を認識します。したがって〈汝自身を知れ〉という様態においては,次のような自己認識が問題になっているのではないことは強調しておきたいと思います。つまり,自己の自己への関係,自分自身に向けられた視線が,内的な客観性の領域を開き,そこから魂の本性とは何かを推論する,ということではないのです。そうではなく,魂とはその固有な本質において,そして固有な実在性において何であるのかということを認識すること以上のことではなく,またそれ以下でもないのです。そしてこの魂の固有な本質の把握が真理を開示してくれる。この真理は,魂を認識対象とするような真理ではなく,魂が知っていた真理なのです。」

として,

「人が自己を知るのは,すでに知っていたことを再認するためなのです。」

そして

「自分自身を認識しなければならないのは,自己に専心しなければならないからです。」

と言う。で,(プラトン主義的モデルでは)

「第一に,自己に配慮しなければならないのは,人が無知だからです。人は無知であり,自分が無知であることを知らないのですが,(出会いや出来事や問いかけの結集として)自分が無知であること,無知であることに無知であることを発見するのです。……そこで自分に専心することによって,この無知に対抗しなければならないこと,あるいは無知に終止符を打たなければならないことさえ発見するのです。これが第一点です。自己への配慮という命法を生じさせるのは,無知の発見,無知の無知の発見なのです。」

そして,第二点は,

「自己への配慮が肯定され,誰かが実際に自己を気づかおうと企てた瞬間に,自己への配慮は『自分自身を知る』という点に集約されます。自己を知れという命法が自己への配慮に覆い被さるのです。自己の認識は,魂が自分自身の存在を把握するというかたちをとります。魂は叡智界の鏡の中で自分を見ることによって自己を認知し,自分の存在を把握するのです。」

そして第三点。

「自己への配慮と自己の認識の接点にあるのが,ほかならぬ想起なのです。魂が自分の存在を発見するのは,自分が見たものを思い出すことによってです。プラトン主義的な想起においては,自己の認識と真実を知ること,自己への配慮と存在への回帰が,魂の一つの運動の中で合流し,まとめられている…。」

これに対して,キリスト教的(修徳的・修道院的)モデルが,三,四世紀につくられる。その特徴は,

「聖書」に書かれ神の言葉や,啓示によって与えられた真理を知るために,心の浄化をする,ということが自己認識の前提となっており,その特徴は,第一に,

「自己を知ることと真理を知ることと自己への配慮の関係は循環的になっています。」

つまり,

「天獄で救われようと思うのなら,〈聖書〉に書かれていたり,〈啓示〉によつて現れたりする真理を受け入れなければなりません。しかしこの真理を知るためには,心を浄化するような知というかたちで自分自身を気づかっておかなければならない。反対に,こうした自分自身による自分自身の浄化的な知が可能になるためには,〈聖書〉や〈啓示〉の真理とすでに根源的な関係を持っていることが条件になっているのです。キリスト教においては,この循環こそが,自己への配慮と自己認識の関係についての根本的な点であるとおもわれます。」

第二点は,

「キリスト教では,自己の認識はさまざまな技法を通して実践されます。この技法の持つ本質的な機能は,内的な幻想を吹き払うこと,魂と心の内部に作られる誘惑を認めること,そしてひとが陥りかねない誘惑を失敗させることにあります。そのためには,魂の中に広がるプロセスや動きを解読するための方法が必要になります。この解読によって,こうしたプロセスや動きの起源や目的や形式を把握するわけです。」

つまり,自己の釈義が必要になる,ということである。第三は,

「キリスト教では,自分自身に返るのは,本質的かつ根源的には自己を放棄するためです。」

プラトン主義とキリスト教の間にかくされていたモデルが,ヘレニズム的モデルである。その特徴は,「自己を到達すべき目標としてたてようとした」というところにある。セネカやマルクス・アウレリウスを例にすると,

哲学には,「人間にかかわる,人間に関係する,人間を見る部分がある。哲学のこの部分は,地上で行うべきことを教える。」もうひとつは,「人間を見るのではなく,神の方を見る。哲学のこの部分は,天上で起きていることを教える。」

この両者の議論の順番は,

「まず自分自身を吟味し,考察すること,そして次に世界を吟味し,考察すること,」

なのである。「人間に関する哲学と神々に関する哲学」の順番の理由は,

「第二のももの(神々に関する哲学)だけが,第一の哲学(人間に関して何を為すべきかを問う哲学)を完成できるのです。…第一の哲学は…人生の中で不明確なさまざまな道を見極めるための光明をもたらしてくれる。…第二の哲学は,闇から私たちを引き離し,光源にまでみちびいてくれるのです。」

ここで言っていることは,

「主体の現実的な運動,魂の現実的な運動です。この運動が,この世界を形づくる闇から引き離し,世界を越えたところに上昇させてくれるのです。」

これは,言ってみると,主体自身の運動,メタ・ポジションづくりといっていい。この運動は,

「第一に,自分自身から逃れ,自分自身から身を引き離す運動であり,こうして欠点や悪徳からの離脱」

を果たすことになる。第二は,

「光がそこからやってくる地点への運動は,神へ私たちを導いてくれるのですが,だからといって,神において自分自身を喪失してしまったり,神においてみずからを滅ぼしてしまったりすることもない。そうではなく,私たちは神との本性の共有,神と共同して働くことへといたるのである。…つまり人間理性は神の理性と本性を同じくしているのです。…神が世界に対してなしていることを,人間理性は人間に対してなさねばなりません。」

第三に,

「このように光まで連れて行き,私たち自身から引き離し,神との本性の共有にまで導いてくれる運動において,私たちは最も高い地点まで昇ることになります。しかし同時に…その瞬間にこそ私たちは,まさに自然の最も奥深い秘密に分け入ることができるのです。」

僕には,すべてが理解できているわけではないが,フーコーが,セネカに代表されるヘレニズムモデルに,あらたな主体のありようを見ている,というように見えた。この運動は,

「この世界から離れて,どこか別の世界へ行こうとしているのではありません。現実から身を引き離して,なにか別の現実であるようなものに到達することではないのです。…世界の中でおこなわれ,世界の中で実現される主体の運動なのです。…この運動は,神と本性を共有する私たちを,頂上まで,この世界の最も高い地点に連れて行きます。この世界の頂上にいるとき,まさにそのことによって,自然の内奥が,秘密が,懐が,私たちに明らかにされるのですが,その瞬間にも私たちはこの世界を離れることはないのです。(中略)私たちは神が世界を見ている視点に到達しますが,この世界に対して本当には背を向けることなはしに,私たちが属している世界を見るのであり,したがって私たちは,この世界における私たち自身をみることができるのです。」

だから,視点の運動なのだと思う。自分対して,自分のいる世界に対して。だから,

「自分を知るためには,自然に対する視点を持っているという条件が必要」

であり,ここで言う自己認識は,自己分析とは無縁なものであり,

「自然についての知が解放的な効果を持つ」

のである。つまり,

「自然についての知,世界を踏破する大いなる視線,また私たちがいる場所から退き,ついには自然全体を把握するに至る視線…」

のことを指している。間違いなく,自己完結した自己対話を指していないことは確かであり,セネカの目指していることは,

「世界から離脱して,そこから目をそらし,別の現実を見ようという努力ではないのです。そうではなくて,中心的であると同時にひじょうに高い一点に身を置き,世界の全体的な秩序,私たち自身がその一部をなしているような全体的な秩序を見下ろすことなのです。…すなわち,世界認識そのものの努力,できるだけ高く身を引き上げ,そこから全体的な秩序としての世界を,…見下ろそうとする努力なのです。すなわち俯瞰的な視点であり,…この自己の自己への俯瞰的視点は,私たちが一部をなすこの世界を包み込み,そうしてこの世界そのものにおける主体の自由を保障してくれるのです。」

この主体における視点の運動は,そのまま認識の運動でもあり,それが単なる閉塞した自己認識でないことは,よく見える。その流れというか,そこに力を入れるフーコーが,この講義自体で,ハイデガーと対決をはかり,講義最後で,

「西洋哲学の問題がこのようなもの―すなわち,世界はいったいどのようにして認識の対象であると同時に主体の試練の場ともなりうるのかという問題,テクネー(技法)を通して世界を対象として自分に与えるような認識の主体があり,また,この同じ世界を,試練の場という全く異なった形式で自分に与えるような自己経験の主体があるということはどういうことなのか,という問題―だとしましょう。もし西洋哲学への挑戦がこのようなものだとするならば,なぜ(ヘーゲルの)『精神現象学』がこの哲学の頂点にあるかがよくおわかりでしょう。」

と述べて,ヘーゲル『精神現象学』を復権させた,その背景が,よく見えてくるような気がする。『精神現象学』を若いころ,ひとりで,逐語的に読んだときの,その朧な記憶から見ると,そこにある自己というものの,あるいは,自己と自己との関係の深さと奥行きというものは,現象学的な自己完結の世界に比して,圧倒的な広がりがあることだけは確かに思える。と同時に,昨今はやりの「自己」「自己対話」「自己発見」が,いかにうすっぺらで,何周もの周回遅れの気がしてならない,日本の精神風土の貧弱さを思わざるを得ない。

まあそれはさておき,セネカの運動のためには,様々な訓練が必要で,その一例として〈死の省察という訓練〉というのがある。この訓練は,

「ある一日に一月,一年,さらには人生全体が流れてしまうかのようにその一日を生きる,という訓練です。そして生きつつある一日の各時間は,人生の年齢のようなものであるのだから,夕べに至ったとき,ひとはいわば人生の夕べ,まさに死ぬ時に至っている。これが最後の日という訓練です。この訓練は,…一日の各時間が人生という長い一日の瞬間であるかのように,一日の最後の瞬間が人生の瞬間であるかのようにして自分の一日を組織し経験することなのです。このようなモデルにしたがって一日を生きることがてきたならば,一日が終わって眠ろうとする瞬間に,『私は生き終えた』と,喜びとともに笑顔で言うことができるのです。」

これに倣ったマルクス・アウレリウスは,

「最高の人格とは,日々をおのが終焉の日のごとく暮らすことだ」

と書いている。ここには,瞬間に対する俯瞰的視点と,生全体に対する回顧の視点がある。視点の運動とは,こう言うことを言うのだろうと,思う。

大事なことは,この三つのモデルは,いずれも,

自己自身による自己自身の変容

ということである。それは,

いかにして真理を語る主体

たりえるかという,実践的な真摯な問いである。こういう問いは,和辻哲郎が羨望を込めて言った,西欧の,

視圏

に関わるように思える。そういう視点は,日本人には,持てるのか,いや,持ったことがあるのか,読むにつれて,おのれの薄弱な自己基盤(コーチングでいうファウンデーションのことではない,この世界を俯瞰するに足る知の不足のことだ)に,身震いした。それは,自己認識する自己の視点のことであり,見られる自己のことでもある。

参考文献;
ミシェル・フーコー『主体の解釈学』(筑摩書房)




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2014年08月28日

天下


金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』を読む。

信長については,何度か触れた。もっともニュートラルで戦国大名研究家の見る信長は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/390004444.html

で挙げた,池上裕子『織田信長』である。

一方,革命性を強調した信長像は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/400155705.html

藤田達生『天下統一』である。

本書は,信長像を等身大の戦国大名として描く。

「はじめに」で,著者は,自分の問題意識を,こう書く。

「織田信長は本当に全国統一をめざしていたのだろうか。」

それを説明するための本書なのだ,という。そのために,

「信長が義昭を擁して上洛した永禄11年(1568)以降を対象に,とりわけ義昭が京都から追放された元亀四(天正元)年から本能寺にて信長が斃れる天正10年までの期間を中心として,信長と朝廷・天皇とのあいだに起きた事件・できごとを,一つ一つ丁寧に,史料にそくして考えてその歴史的意義をとらえ直し,最後にそれらを総合したうえでの信長の統治者(天下人)としての姿勢をうかがうという構成をとる。」

という。すでに,岐阜城・安土城の発掘がすすみ,その意図を推測する成果がでており,

岐阜城の庭園の室町将軍帝都の類似
安土城の正面の真っ直ぐな大手道に,当初から天皇行幸を構想した城造り

等々が指摘され,専売特許のように言われた,

楽市楽座

も,信長の創意というよりは,戦国大名領国で実施されている政策の継承という見方がされつつあり,さらには,領国支配のやり方も,他の大名と比較して先進性がなく,むしろ遅れていたとする考え方が,戦国大名研究の中で形成されつつある,という。

そこで,「天下統一を目指したのか」という問いについては,

天下布武

という信長の印章にも使われた,

天下

という言葉の意味が問題になる。

天下の意味には,(神田千里氏の整理によると)

①地理的空間においては京都を中核とする世界
②足利義昭や信長などの特定の個人を離れた存在
③大名の管轄する「国」とは区別される将軍の管轄領域を指す
④広く注目を集め「輿論」を形成する公的な場

の四つがあるが,「天下」の領域は,五畿内であるとするのが通常らしい。ただ,

戦国時代は,③の「将軍の管轄領域はほとんど京都を中核とする世界に限定されていた」という意味では,③と①は同義になる。で,

「信長の時代における『天下』の認識はここから出発しなければならない。」

とすると,天下布武の「天下」は何を意味していたのか。もしそれが,従来いわれているように「全国統一」なら,他の戦国大名に喧嘩を売るというか,宣戦布告しているようなものだ。

だから,(神田千里説に従えば)

「『天下布武』とは,足利義昭を連れて入京し,畿内を平定して凱旋するという一連の戦争を遂行した結果,将軍を中心とする畿内の秩序が回復することを勤める。」

という永禄11年に実現した状況を指す,のだという。そして,上洛後の信長の政治理念は,

天下静謐

だと,著者は考える。それは,

「室町将軍が維持すべき『天下』の平和状態を,のちに義昭や信長自身が発給文書のなかで用いる言葉」

でもある。そして,

「信長は天下静謐(を維持すること)を自らの使命とした。」

と見る。

「当初はその責任をもつ義昭のために協力し,義昭が之を怠ると強く叱責した。また対立の結果として義昭を『天下』から追放したあとは,自分自身がそれを担う存在であることを自覚し,その大義名分を掲げ,天下静謐を乱すと判断した敵対勢力の掃討に力を注いだ。」

太田牛一の『信長公記』の,「足利義昭を擁して上洛した永禄11年(1568)から没する天正10年(1582)まで,一年を一巻(一冊)で記した15巻本の自筆本のひとつ…池田家文庫本…の巻一(永禄11年)に」,

信長公天下十五年仰せ付けられ候。愚案を顧ず十五帖に認め置くなり。」

という奥書がある。別の自筆本では,

「信長京師鎮護十五年,十五帖の如くに記し置き候なり。」

ともある。つまり,「天下を十五年にわたりお治めになったといった意味」となる。側近くにいた,太田牛一からみれば,

「十五年間の信長の役割は,信長の死から二〇年ないし三〇年後の牛一にとって,『京師警護』,『天下を仰せ付けた』と認識されているのである。」

ということになる。その時代のうち,

「義昭を『天下』から追放した天正元年以降の十年間,信長と天皇・朝廷とのあいだでおきたむさまざまなできごと」を,具体的には,

天正改元
正親町天皇の譲位問題
蘭麝待切り取り
右大臣任官
絹衣相論
興福寺別当職相論
左大臣推認
三職推認

を丹念にたどりながら,信長の行動基準は,あくまでも天下静謐の維持という点にあった」ことを,描き出している。その点から見ると,秀吉の全国統一は,諸大名を鉢植化したところからも,

「信長と秀吉の間にはおおきな断絶がある」

と著者は見る。この面から,秀吉の事跡は別の証明があてられる必要があるのかもしれない。

ただ,著者は,本能寺の変が,用意なく,大童で遂行されたことに着目し,五月に,朝廷がというより,正親町天皇が,

「征夷大将軍に推認」

しようとした事実に注目する。信長がそれにどう返事したかは,どこにも記録がない。しかし,四国攻めが「天下静謐」とは関係ないところから発せられているということに疑問を呈し,将軍を意識した行動ではないか,と推測する。

あくまで,「天下静謐」という仮説を前提にすれば,ということだが,信長の中で,

天下

がいつの時点かで,全国に変わったという境界線があるのではないか,という受け止め方をすると,興味がわく。まだ,これについては,明確な答えは出されていない。

天下の意味が,五畿内から,途中で,全国統一に変わったとする説は,他でもあった,その変化を,信長がどこで,麾下の武将たちに明言したのか,それが秀吉にどう受け継がれたのか,と問題意識の立て方を変えると,本書は,その端緒に立っている気がする。その視点で見ると,本能寺の変にも別の光が当たるのではないか。

参考文献;
金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』(講談社現代新書)




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2014年09月08日

終焉


服部茂幸『アベノミクスの終焉』を読む。

素人としての感想に過ぎないが,アベノミクスの印象は,じゃぶじゃぶの公共投資,でもって土建屋が活況で,人手不足。その余波で,いろんなところ(特に3K職場)が人手が足りない。一見好況のようだが,大企業が好調の割に,賃金は下がりっぱなし,非正規雇用のみ増え,円の価値は下がり,といって輸出が増えているわけではなく,貿易収支の赤字が続く,で,何番目の矢か知らないが,結局武器輸出頼みとカジノ誘致って,そんなのに日本の将来はあるのか,というものだ。

この数年のうちに,精神と文化も含めて,大事な日本の岩盤が壊されていくような不安がある。こちらは,どうせ老い先短いが,若い人の無関心が気になる……というところだ。

ほんとうはどうなのか。筆者は,

「アベノミクスが始まる前からその批判者であった。」

という。その意味で,経済学者の論拠を知りたいと思って,読み始めた。ただ,あとがきで,

「2013年10月,第三・四半期のGDP速報がでた。そこでは経済成長率が1%程度だったことが告げられた。14年四月には消費増税があり,第二・四半期には経済が落ち込むことはほぼ確実である。」

とあるように,それ以前に書かれていることを念頭に置かなくてはならない。

まえがきで,

「アベノミクスは異次元緩和という第一の矢,公共事業拡大による国土強靭化という第二の矢,成長戦略という第三の矢からなるとされる。(中略)アベノミクスの主役は第一の矢,脇役が第二の矢であり,第三の矢はまだ登場していない…。」

主役の矢については,

「安倍が無制限の金融緩和を訴えてから,株価上昇と円安が急速に進行した。(中略)しかし,黒田東彦が日銀総裁,岩田規久男が日銀副総裁に就任するのは13年三月であり,異次元緩和が始まるのは四月である。三月までの出来事はいわば『前史』である。
株価上昇も円安も異次元緩和が始まってしばらくするとストップした…。13年の上半期には高かった経済成長率も,下半期には低迷している。」

金融緩和の目的の一つは,円安による輸出拡大であった。しかし,

「12年末に円安が始まると,輸出は再び増加し始めた。円安効果を発揮していたようにみえた。ただし,増加したといっても,…12年のピークにも達しなかった。さらに円安が止まった時から少し遅れて,輸出も減少に転じた。円安が輸出を拡大させたとすれば,円安が止まれば,輸出増大が止まるのも当然であろう。他方,円安にもかかわらず,輸入の伸びは著しい。」

しかも,14年第一・四半期の経常収支は1兆4000億円の赤字である。

「日本の長期停滞の原因はデフレであり,そのデフレの原因は日銀が金融を緩和しないためだ」とする,いわゆるリフレ派の黒田,岩田両氏が日銀の総裁,副総裁に就任して始まった異次元緩和は,しかし,輸出拡大による経済復活に失敗し,

「輸出の拡大が,貿易収支,経常収支を悪化させるとともに,日本の経済回復を妨げている。」

つまり安倍とリフレ派の主張とは真反対のことが生じている。しかも,目論見に反して,

「賃金と可処分所得は名目においても低下が続いている。その結果,実質賃金と実質可処分所得は急減することとなった。」

実は,このいわゆる,失われた20年と言われている金融危機以降,日本の実質賃金も,実質可処分所得も低落傾向にあったが,

「11年以降では,実質賃金はせいぜい微減である。家計実質可処分所得は増加している時期さえみられた。ところが,異次元緩和導入以降,両者は大きく低下した。」

のである。その結果,消費が落ち込むことになる。実は,

「2013年第一・四半期の経済成長率は年率で5%近い。第二・四半期の経済成長率も高かった。このように,アベノミクスが始まってからの半年間の経済成長率はきわめて高かった。しかし,安倍政権が誕生したのは12年12月であり,異次元緩和が始まるのは,13年4月である。13年前半の高成長は異次元緩和の成果ではあり得ない。」

のである。そう,安倍政権に政権が代わって以降,

「皮肉にも,異次元緩和が始まると,経済成長率は低迷する」

のである。

「第三・四半期の経済成長率は年率で1%,第四・四半期にはほとんどゼロである。14年第一・四半期の成長率は6%と極めて高いが,消費増税前の駆け込み需要によるところが大きい。」

リフレ派の目標はデフレ脱却のはずである。現在日銀は,消費者物価上昇率を年率で2%へと引き上げ,それを安定化させることを目標としている。それはどうか。

「13年6月,消費者物価上昇率が前年同月比でプラスとなり,11月には1.6%にまで引き上げられた。13年10月以降,内閣府が調査した1年後の物価見通しの指標も3%を超えている。」

当然現在のインフレは,コストプッシュ型,つまり円安が原因である。

「12年には国内企業物価の低下は消費者物価よりも大きかった。それが13年後半には,国内企業物価の上昇率は2%を超え,消費者物価の上昇率を大きく超えるようになった。」

しかし輸入物価の上昇が止まれば,輸入インフレは止まる。

「13年5月から円安は止まっている。13年末から,輸入物価の上昇も止まった。それと期を同じくして,消費者物価も国内企業物価も上昇が止まっている。」

当然消費増税の影響は別とすると,

「これまでの消費者物価の上昇が輸入インフレの結果でないことが明らかになるまでは,本当にデフレから脱却できたかどうかの判断を行うことはできないはず…」

ということになる。この点でも,アベノミクスの成果は,まだ出ていない。

第二の矢については,

「耐久消費財と民間住宅投資は,経済の回復が始まった09年から急増している。この急増の一部分は,エコカー減税,エコ・ポイントなどの政策によるものであろう。アベノミクスが始まると,再び耐久消費財と民間住宅投資は急増する。この急増も14年4月の消費増税を無視しては考えられないであろう。政府支出の増加も大きい。」

という意味で,第二の矢の効果が上がっているといっていい。耐久消費財,民間住宅投資,政府支出でGDPの四割を占める。これが,アベノミクスの経済成長を支えた,と著者も認める。ただ,

「公共事業に代表される政府固定資本投資はGDPの5%を占めるにすぎない。建設業の就業者も全体の数%程度である。政府固定資本投資を現在のように年率二割で急増させても,それは日本のGDPを1%増加させるにすぎない。」

しかしそうして増加させることで,建設会社の設備能力と人手不足とで,需要には対応しきれない。震災復興事業も拡大している。民間の住宅,工場建設も増え,現実には,業界のキャパを超えており,自治体の公共事業への応札がない事態も起きている。バブルである。しかし,それは人手不足だけを波及させていくようにしか見えない。

さて,こうしたアベノミクスのバッボーンになっている,日本のリフレ派は,アメリカのバーナンキの,

「90年代以降の日本の長期停滞……の原因は日銀が金融を緩和させずに,デフレを放置していることにある」

という主張を受け継いでいる。その意味では,著者の,バーナンキ,グリーンスパンの

「アメリカの住宅バブルの最中に,家計はバブルの中で返済できない負債を蓄積させている」

という警告を知りながら,それに反論し,逆に,「低金利政策と金融の規制緩和によって,金融不安定性を拡大」させ,結果として,08年の危機を招来させた,経済学への手厳しい指摘は,翻って,それをまねて踏襲するアベノミクスへの批判と警告になっている。著者はこういう。

「08年の危機はバーナンキに代表される経済学が何重にも間違っていたことを示している…。」

と。それをクイギンにならって,ゾンビ経済学というが,しかし,「08年の危機はゾンビ経済学を死滅させたかにみえた」が,アベノミクスによってそれが復活した。その復活の理由を,四つ挙げる。

①危機が本当に明らかになるまで危機を否定した。
②経済現象は多面的であり,失敗の唯一の原因というものはおそらくないであろう。それを利用して,成果を自分の手柄とし,失敗の責任を他に押しつけた。
③多数派の力によつて,失敗を犯しても,自らの責任を免責している。
④政治的に有力な集団と結びつき,その利益を擁護した。

これは今,既に我々の目の前で起きつつある。

参考文献;
服部茂幸『アベノミクスの終焉』(岩波新書)




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2014年09月12日

視野


菊池章太『阿修羅と大仏』を読む。

「インドで生まれた仏教は,広大なユーラシア大陸でさまざまな文化と混ざりあい,変質をかさねながら,東のはての島国にたどりついた。日本の仏教文化のはじまりとなった大和の地は,そうした長い道のりの終着駅でもあった。」

と前書きで書き,

「仏像や仏画にこめられた信仰の軌跡をユーラシア・スケールでたどってみたい。」

それをコンセプトに書く,と。それは,日本の仏教の来歴をたどる何千年もの旅でもある。たとえば,中宮寺の半跏思惟像は,著者によれば,三十年以上前には,「菩薩像」と表示され,その後十年して行くと,「弥勒像」と表示が変わり,現在は,中宮寺のホームページには,「如意輪観音像」と表示されている,という。

では,広隆寺の半跏思惟像は,「弥勒像」とされているが,それでいいのか。

ユーラシアからみると,半跏思惟像を,弥勒と呼ぶ例は,皆無という。多く,弥勒像は,X字に脚を交差させた交脚像である。雲崗石窟には,交脚の弥勒像が数多くつくられているが,その交脚像の左右に,

「片脚を膝の上にのせ,手を頬にあてて考え込んでいる人の像がしばしばみられる」

という。この半跏像は,

釈迦が考え込んでいるときの姿

をあらわすという。

「釈迦がまだ悉達多太子と呼ばれていたときの」「樹下で思惟する」

思いにふけっている姿を表す,と言う。なぜ太子思惟像が弥勒の脇にいるのかと言うと,両者には接点がある,という。

「弥勒はまだこの世にあらわれていない。世にあらわれていないから,当然まだ真理にめざめていない。つまり悟りを開いていない。その準備段階である。弥勒は兜率天人たちのもとにいてこの世にあらわれる日を待っている。それまで思惟をめぐらしている。
かたや悉達多太子もまだ真理にめざめていない。家にあってもやもやしている。考えごとの最中である。思惟のまっただなかにいる。つまり,どちらも真理にめざめるまえに考えにひたっているすがたということになる。」

半跏思惟像は,朝鮮半島にも伝わったが,弥勒と呼んだ例は見つかっていない。

「広隆寺の半跏思惟像…は,…(韓国の)徳寿宮旧蔵の半跏思惟像とほとんど瓜二つである。広隆寺の像は日本製ではないであろう。そして弥勒像でもない。」

では何の像か。

「推古天皇の十一年(603)十一月のことである。聖徳太子のもとにある仏像をまつる者を大夫らに求めた。そのとき秦造河勝が進み出てこれをたまわり,蜂岡寺を建てておさめたという。これは『日本書紀』にきされている。」

蜂岡寺,いまの広隆寺である。平安時代の寛平五年(893)までにまとめられた寺の財産目録によると,

「金色弥勒菩薩像一躯」とあり,割注に,「居高二尺八寸」「所謂太子本願御形」と記されている,という。さらに,中宮寺も,太子ゆかりの寺であり,

「中宮寺の半跏思惟像は太子思惟像と呼ばれるのがふさわしくないか。この場合悉達多太子に聖徳太子の姿がかさねられている。」

と推定する。

「ユーラシアにおける長い伝統のむなかでは太子思惟像が本来の呼び名だったのだから。」

と。そしてこう言う。

「私たちは広隆寺の半跏思惟像を弥勒と呼んできた習慣にひきずられすぎてはいないか。日本だけで考えるとそうなってしまう。しかしユーラシアに目を転じるとそれがはっきりする。そこでは,弥勒像は交脚像であり,あるいは巨大立像であった。かたや半跏思惟像は太子思惟像をあらわしている。これが仏教の伝統にほかならない。」

その半跏思惟像は,

「考えあぐねている若い悉達多太子のすがたである。…日本ではそれが聖徳太子にかさねあわされている。。さらに聖徳太子を観音の生まれ変わりとする信仰がシンクロナイズしている。」

と。広い視界の中でものを見ることの重要性を,改めて考えさせられる。特に,今日,自閉し,自画自賛の罠にはまっている潮流を見るとき,さらに広くユーラシアの端っこのわが国への重なり合わさった時間の軌跡が,そのまま古層のように堆積しているのに思い至るとき,それを広げて,辿る視点の重要性を考えさせられる。

例えば,六世紀の,北魏で始まった巨大な廬舎那仏づくりは,唐代までつづき,龍門に高さ17メートルの廬舎那仏がつくられた。ここから東アジアの大仏ブームが始まる。奈良の大仏は,その東漸の結果なのだと見るとき,まったく違った様相が見えてくる。

「廬舎那仏は大宇宙に君臨し,世界のすべてのブッダを統括する存在である。唐王朝の皇帝もまた世界の中心である中国に君臨し,周辺世界の国々を統括する存在と意識されている。こうして廬舎那仏の宗教的意味に政治的意味がオーバーラップしてくる。」

「聖武天皇が全国に国分寺を建立させ,その諸国国分寺を統括する総国分寺としたのが東大寺」である。その開眼法会は, 「聖武太上天皇と光明皇太后と孝謙天皇が臨席した。百官百寮が参列し,内外から一万人あまりの僧侶が招かれた」空前絶後の大法会であったという。

「開眼の導師はボディセナである。南天竺国つまりインドから日本へ帰化した人で,漢字をあてて菩提僊那とよばれた。」

「開眼供養では舞楽が奉納されている。…倭舞とならんで,唐古楽や高麗楽や林邑楽も披露された」が,中国,朝鮮,ベトナムと,「まさしくユーラシア・スケールの祭典だった。八世紀の日本はすでにインターナショナルだった」という,そういうスケールの中に奈良の大仏をおいて見ると,政治的意味と宗教的意味を重ねあわせる思想まで,唐にまねたという流れが見えてくる。

ユーラシアの果てだからこそ,時間軸が,層として堆積している。それを自己完結して考えているだけでは,決して視界は開けない。

興福寺の阿修羅像についても,

「フェスタのためにつくられた。」

と結論づける。「フェスタにつかうために造像された。それがユーラシアにおける長い伝統であった」と。フェスタは,日本で言う花会式である。

「ユーラシアではもっと盛大な祭りだった。誕生釈迦像を山車に載せて町中を練り歩く。これを行像と呼んでいる。」これに随行したのが十大弟子と阿修羅を含めた八部衆の像である。

そう考えたとき,興福寺の像が乾漆でつくられている理由が見えてくる。

乾漆像は,粘度の上に麻布をかぶせ,漆を塗り,それに麻布をかぶせて漆を塗るを繰り返し,漆が乾いたところで中の粘土をかきだす。だから,

「木の心棒のほかに中味ははいっていない。張り子の虎とおなじである。この技法は中国で行像のために考案された。それが中央アジアや日本に伝わったのである。」

度々火災にあった興福寺の仏像がそのたびに運び出されたのは,乾漆像で軽量であったのが幸いした。

確かに,帯にあったように,本書を読むと,「仏像の見方が変わ」る気がした。

参考文献;
菊池章太『阿修羅と大仏』(幻冬舎ルネッサンス新書)





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2014年09月25日

アイヒマン


ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』を読む。

本書は英語で書かれたらしいが,英語で言う,

Crime against humanity

は,独語では,

人道に対する罪

人類に対する罪

の二つの言葉がある,と訳者は言う。当該語には,二つの意味が込められている。それは,単なる戦時の犯罪という以上の意味を,アーレントは込めているといっていい。

しかし,英文の(翻訳である)本文中では,アーレントは,こう書く。

「追放(例えば,在日韓国人を迫害したり国外へ追い出すことと言っていい)とジェノサイドとは,ふたつとも国際犯罪ではあるが,はっきりと区別されなければならない。前者は隣国国民に対する罪であるのに対して,後者は,人類の多様性,すなわちそれなしには〈人類〉もしくは〈人間性〉ということばそのものが意味を失うような〈人間の地位〉の特徴に対する攻撃なのだ」

しかしやっかいなのは,アイヒマンを単なる極悪人,人非人ということでは片づかないことなのだ。

「アイヒマンという人物の厄介なところはまさに,実に多くの人が彼に似ていたし,しかもその多くの者が倒錯してもいずサディストでもなく,おそろしいほどノーマルだったし,いまでもノーマルであるということなのだ。我々の法律制度と我々の道徳的判断基準から見れば,この正常さはすべての残虐行為を一緒にしたよりもわれわれをはるかに慄然とさせる。」

その意図は,本書の副題が,「悪の陳腐さについての報告」とあるところからも推測される。

アイヒマンは,粛々と任務を果たし,初めは,

移送,

続いて,

強制収容

続いて,

殺戮

へと至る,ユダヤ人,ジプシーの輸送を担当し,結果として,六百万の人間の殺戮に加担した。殺戮されることを承知の上で,大量の人間をいかに輸送するか,関係部署との折衝,貨車の手配,運行スケジュールの調整等々を果たした。

もちろん,殺戮を指示したのは,ヒトラーだし,その移送と行先を指示したのは,上位者に違いない。しかし,殺戮されることを承知の上で,いかに効率的に大量の人間を輸送するかを考え,実行したことに違いはない。

アイヒマンは,しきりに言う。自分はユダヤ人を憎んでもいなかったし,殺そうとも思わなかった,と。

それに対して,アーレントは,最後に締めくくる。

「アイヒマン裁判で問題になったより広汎な論点のなかでも最大のものは,悪を行う意図が犯罪の遂行には必要であるという,近代の法体系に共通する仮説だった。おそらくこの主観的要因を顧慮するという以上に文明国の法律が誇とするものはなかったろう。この意図がない場合,精神異常をも含めてどんな理由によるにせよ善悪の弁別能力が損なわれている場合には,われわれには犯罪は行われていないと感じる。『大きな犯罪は自然を害い,そのため地球全体が報復を叫ぶ。悪は自然の調和を乱し,罰のみがその調和を回復することができる。不正を蒙った集団が罪人を罰するのは道徳的秩序に対する義務である』(ヨサル・ロガド)という命題をわれわれは拒否し,そのような主張を野蛮とみなす。にもかかわらず私は,アイヒマンがそもそも裁判に附されたのはまさにこの長いあいだ忘られていた命題に基づいてであるということ,そしてこの命題こそ実は死刑を正当化する究極の理由であるということは否定できないと思う。ある種の〈人種〉を地球上から永遠に抹殺することを公然たる目的とする事業にまきこまれ,そのなかで中心的な役割を演じたから,彼は抹殺されねばならなかったのである。」

しかし,これは,そのまま今日のベンヤミン・ネタニヤフをはじめとするイスラエル政権とその中枢の人々へも適用される,ということを,ユダヤ人であるアーレント自身が照らし返している。パレスチナ人には,裁く権利がある,と。

本書を読みつつ,僕は,いくつかのことを思い出していた。

第一は,スタンレー・ミルグラムの実験である。これは,いつも言われていることなので,他に譲る。しかし,人は,その立場になると,その役割を遂行しようと,平然と冷酷になれる。

第二は,いまは潰れた雪印食品の,ミートセンターの出来事だ。センター長は,会社の売り上げ不振をカバーする方法として,輸入牛肉に国産牛のラベルを貼ることを,三人の課長に提案する。一人は反対したが,二人は,黙っていた。後日新聞記者に「なぜ黙っていたのですか」と聞かれた二人の一人は,「サラリーマンだから,わかるでしょ」と答えた。ここにアイヒマンを見る。アイヒマンは,どこにでもいる,それをさせるのは,何か。

アーレントは,アイヒマンについて,

「彼は愚かではなかった。完全な無思想性―これは愚かさとは決して同じではない―,それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だったのだ。」

と書く。愚かではなかったが,無思想だった。思想とは,イデオロギーの謂いではない。しかし,このアーレントの概念に,ほとんどの日本人,僕も含めた,ほとんどのわれわれに該当するのではないかと,僕は感じている。自分の頭で考える,という程度のことではない。そこで,思い出したのが,吉本隆明の『マチュウ書私論』での,

「人間の意志はなるほど,選択する自由をもっている。選択のなかに,自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが,この自由な選択にかけられた人間の意志も,人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは,相対的なものにすぎない。」

という言葉である。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/397281789.html

に書いた。吉本は,

「秩序にたいする反逆,それへの加担というものを,倫理に結びつけ得るのは,ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である」

とも言う。この場合の,「秩序に対する反逆」を,「ラベルの張り替えへのNo」と置き換えればいい。それが言えるのは何によってか。それを,

倫理

に結びつける,というのは,個人としての倫理,別の言い方をすると,

ひととしてどうあるべきか,

ではないか,と思っている。そして,それをおのれの生きている文脈に鑑み,

(ここで)自分はいかにあるべきか,

とつなげ,さらに,それを,

自分の生きているこの世の中はいかにあるべきか,

へとつながっていく。それを考えることを,僕は思想性と呼びたい。いま流行の,

いかに生きるべきか,

を自己完結して考えているだけでは,思想性とは言わない。それは倫理を自己完結させているだけだ。だから,

「関係性の強いる絶対性」

とは,客観的にあるのではなく,自分の中に,意識的無意識的に,絶対性として強いるものを感じる,という意味だとすると,吉本の言っているより,もっと広げている(和らげている)かもしれないが,

人は知らず,おのれにとっては,

と,考えて初めて,

人間と人間との関係が強いる絶対的な情況,

というもの(このとき,人も状況も個別,固有化されているが)から,思想も,発想も,意識的か無意識的かは別に,逃げられない,ということに気づく。そのことを考えているかどうか,だといっていい。

誰もが,加害者になりうるのである。それを,自分の意志ではない,命令だから,上司が,国が命ずるから,という理屈は,アイヒマンの場合,許されなかった。ことが重大だったから,ということはない。そういう言い訳は,通用しない。

例は悪いが,エゴグラムで言う,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06423.htm

CPの強さが,ある程度その社会的役割や立場からもくるというのは,ひどく暗示的に思う。

それは,無思想である,つまり,いかにいくべきか,いかにあるべきかについて,無自覚である場合,陥る陥穽なのである。それは,また,誰もがアイヒマンになりうるということでもある。それは,今日のイスラエルを見ればわかる。

参考文献;
ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』(みすず書房)
スタンレー・ミルグラム『服従の心理』 (河出文庫)






今日のアイデア;
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2014年09月30日

発見


下定雅弘『精選 漢詩集』を読む。

著者は,本書の意図を,

「自然への隋順と融和を含む日頃のさまざまな幸福に,東洋の感性と,老荘思想を主とする東洋の思想が何気なく寄り添っている,…中国詩人の詩を中心にしながら,この東洋人の幸福感―生きる喜びが詠われている名作を読んでいこう。」

と述べる。その例に挙げたのが,陶淵明の詩である。

「『菊を採る東籬の下,悠然として南山を見る。山の気は日夕に佳し,飛ぶ鳥は相い与に還る。此の中に真意有り,弁ぜんと欲して已に言を忘る。』(『飲酒』其の五)とあるのは,『荘子』の中に出てくる話が下敷きになっている。…私たちは,『荘子』のどんな話か知らなくても,此処に何となく東洋的な味わいがあることを感じる。」

僕自身は,こう言う言い方が嫌いである。「東洋的」と丸めた瞬間,思い出すのは,右翼の大物に,書籍についてクレームを付けられ,肩に手を置いて,

「同じ日本人じゃないか」

と言われたと書いた作家の感じたと同じ,寒気である。こういう言い方は,詩人のそれではない。詩人は,何を下敷きにしようと,その言葉の向こうに,

自分にしか見えない視界

を見ている。いや,逆かもしれない。自分が見たものに,

言葉

をつける。その瞬間,その詩人の見た光景が,以降の人の見える世界を決める。それは,

風景(あるいは光景)

の発見であると同時に,

言葉

の発見である。人は,持っている言葉によって,見えている世界が違う,という。しかし,詩人が発見した風景が,以降,共有財産になる。そういう目で見ると,漢詩の発見した風景が,いかに,根強く,日本人の感性に影響を与えているかが,わかる。しかし,それは,たぶん,洋の東西を問わない。ひとしなみに,人間だからである。

そんな例をいくつか拾ってみる。

風は白浪を翻して花千片,雁は晴天に点じて字一行(白居易)

ここで,浪が白く泡立つのを「白い花」に見立てて,波の花に見る,和歌の言い方は,白居易の発見した風声である。波の泡立ちを「浪の花」に見える心情を詩人は作り出した。

あるいは,同じ白居易,

慈恩の春色 今朝尽く
尽日徘徊して寺門に倚る
惆悵す春は帰りて留め得ず
紫藤花の下 漸く黄昏

『和漢朗詠集』に収められたせいもあり,春の心情に決定的な影響を与えた,という。たとえば,

待てといふに留まらぬものと知りながら強ひてぞ惜しき春の別れは(詠み人知らず)

君にだに尋はれてふれば藤の花たそがれ時も知らずそありける(紀貫之)

草臥て宿かる比や藤の花(芭蕉)

春,黄昏,藤の花,に同じ光景を見,同じ心情を懐く。詩人見せる言葉の力である。その言葉が描く光景の力である。

やはり,同じ白居易,

靑苔 地上 残雨を銷し
緑樹 陰前 晩涼を逐う

は,「雨後の清涼」「納涼」というテーマとして,

夕立のなごりの露をそめすてて苔のみどりに募る山蔭(定家)

に生きる。そもそも,雨上がりの涼しさが,光景として,初めて描き出され,それが心情として,共有化されたのだ。

冒頭の陶淵明の詩,

廬を結んで人境在り,而も車馬の喧しき無し
君に問う何ぞ能く爾ると,心遠ければ地もまた自ら偏なり
菊を採る東籬の下,悠然として南山を見る
山の気は日夕に佳し,飛ぶ鳥は相い与に還る
此の中に真意有り,弁ぜんと欲して已に言を忘る

日本には,空を悲しむ感情はなかったという。この詩をはじめ,中国の詩人にとっては,「悲秋」の感情である。いま,われわれは秋にもの悲しさを感じるのは,詩人の見せた光景から端を発している。

しかし,本書を読みながら,結局,読み下した詩を読むことは,本当の意味で,漢詩を楽しんだことになるのか,という危惧を感じ続けた。訳詩ともちがう,独特の日本語になっている。

昔から,素読というと,

子曰く,

である。しかし,それは訳ではない,微妙な日本語を読んでいるのではないかという気がしてならない。たとえば,

上よ
我は欲す 君と相い知りて
長えに絶え衰うること無から命めんことを
山に陵無く,江水為に竭き
冬に雷 震震 夏に雪雨り
天と地との合するとき 乃ち敢えて君と絶えなん

とは恋の歌である。「子曰く」なら,おごそかさが必要かもしれないが,この訓読は,明らかに,詩を歪める。

天よ
私は願います,あの人と愛し合って,とこしえにこの愛が絶えることがありませんように
山の峰々が崩れ,河の水が枯れはて,冬に雷が鳴り響き夏に雪が降り,天と地が合わさって
この世に最後が訪れるとき,その時にあの人と別れましょう

がその訳である。いわゆる素読が,基本的に原語そのものを歪めていることに気づくはずである。こういう読みは,いかがなものだろうか,とそんなことを考えさせられた。で,思い出すのは,井伏鱒二の訳詩である。

勤君金屈
満酌不須辞
花発多風雨
人生足別離(于武陵「勤酒」)

を,

コノサカズキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

この軽身が,読み下しでは消えてしまうのである。

最後に陶淵明の詩。

慵(ものう)しと雖も興猶お在り
老いたりと雖も心猶お健やか

我が意を得たり。

参考文献;
下定雅弘『精選 漢詩集』(ちくま新書)




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2014年10月01日

漢語


高橋睦郎『漢詩百首』を読む。

前にも漢詩については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/406252031.html?1412021752

で取り上げた。漢詩の訓読については,いささかの疑問を持っていたが,本書で,少し,意味を理解したような気がする。

著者は言う。

「日本語は,固有の大和言葉と外来の漢語・欧米語から成っている。とくに漢語の来歴は古く,大和言葉と分かちがたく,外来語と意識することがないまでに日本語の血肉となっている。」

と述べ,例えば,敗戦時に多くの日本人の脳裏に浮かんだのは,

国破れて山河在り

という杜甫の漢詩の一行だったのではないか,という。この,

国破山河在
城春草木深

を,千数百年前のわれわれの祖先が,送り仮名や返り点を付けることで,日本語で読もうとした。そして,

国破れて山河在り
城春にして草木深し

と読んだ。だから,

「この驚異的な,あえていえばアクロバティックナ発明によって,漢詩という外国の詩はなかば日本の歌に,いや,ほとんど日本の歌になった。」

と。さらに,

「私たちの祖先は漢詩を日本語として読む工夫をしただけでなく,自分でも漢詩を作ることを試みた。」

本書には,中国の詩人60人に対して,日本人の詩人40人が載せられている。

中国人は,『詩経』は詠み人知らずのため,『論語』の孔子,

逝く者は斯夫の如きか,昼夜を舎かず

から始める。次は,荘子の,

知らず,周の夢に胡蝶と為るか,胡蝶の夢に周となるか

を採り,

「後世の詩人はほとんど孔子型と荘子型にわけられるのではないか。たとえば,中国の詩の歴史上,最高峰と目される二人のうち,杜甫が孔子型,李白は荘子型といえよう。」

と,冒頭に二人を持ってきた所以である。中国詩人の最後は,毛沢東で,

九嶷山の上 白い雲は飛び
帝子は風に乗って翠微に下る

を採る。一方日本人は,聖徳太子,憲法十七条から,

春従り秋に至るまでは,農桑之節なり
民を使う可からず 其れ農せずは何をか食わん
桑せずは何をか服ん

を採り,詩人,鷲巣繁男の,

地崖 白雪を呼び 
青夜 孤狼を発す
幻化 星暦を司り
詩魂老いて 八荒

で締める。ちょうど百人の詩人列伝になっている。こうして,我々の祖先は,漢語を自家薬籠中のものとすることで,

「自分たち固有の文芸や詩歌を豊かにしていったわけです。…たとえば明治維新に欧米の文明を受け入れて自分のものにしたのも,かつて漢字を通して中国の文明を受け入れて血肉化した経験があったからでしょう。ついでにいえば,現在中国で使われている漢字熟語60パーセントが明治維新に欧米語を受け入れるに当たって日本人が作った和製漢語だとききました。」

というところへ至る。漢字へのそういう意識が,真名としての漢字に対して,漢字を借りることで作り出したかなを,

仮名

と呼ぶところに現れている。

「日本人は中国から文字の読み書きを教わると同時に,花鳥風月を賞でることも学んだ。花に関してはとくに梅を愛することを学んだが,そのうち自前の花が欲しくなり桜を賞でるようになった。梅に較べて桜は花期が短いので,いきおいはかなさの感覚が養われる。その成果が漢詩にも現れた典型」

として,

宿昔は猶し枯木のごとかりしに
迎晨一半紅
国香異けこと有るを知り
凡樹同じきことなきを見たり

を挙げる。これは,同時代の,

世のなかにたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

と歌う在原業平と同じ感性・心性の表現になっている,と。

しかし,もはや漢詩を作れる人はいなくなった。これは,

「日本人全体の漢語力の低下であり,漢語力の低下は漢語を日本語化した日本語力の低下をもたらしかねない。」

と著者は言う。著者の次の言葉は,僕は大きく頷きたい。

「グローバル時代の今日,必要なのは英語力で日本語力ではない,という極論もある。しかし,グローバル時代に適応する底力は国語力であり,国語による教養にあることは,グローバル時代の走りともいえる明治開国期の先人たちの漢語力を含む国語力の豊かさが,力強く証明している。」

持っている言葉によって,見える世界が違う。狭く貧弱な言葉しか持たない者には,狭く貧弱な英語理解しかできない,と僕は思う。

『詩経』序には,

「詩は志の之く所なり。心に在るを志と為し,言に発するを詩と為す」

とある。僕は,それを敷衍して,

文もまた志の赴くところ

と言いたい。陸游の

汝果たして詩を学ばんと欲せば
工夫は詩の外に在り

と。どこか,小楠を思わせる。

参考文献;
高橋睦郎『漢詩百首』(中公新書)




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2014年10月04日

葛藤


谷口克広『信長と将軍義昭』を読む。

冒頭で,昨今の研究の進展で,信長に関して,

http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140828-1.html

でも触れたが,

①『信長公記』の研究,城及び城下町の研究などで,信長の政権についての研究が目立つようになった,
②信長の革新性や強権性ばかり強調するのではなく,人間的弱点や現実的な面が知られるようになった,

ということを挙げて,「特に注目されるのが」

信長の権力と将軍の権力との関係

である,という。従来は,

信長の傀儡政権

とみなされてきた義昭の,将軍としての実権

が見直されてきた,という。で,本書は,信長が,義昭を奉じて,

「上洛前後から将軍追放までの約五年間を中心として,二人の関係」

を描こうとした。

信長政権と義昭政権の関係について,従来の,義昭政権は,

「『傀儡政権』論はもう通用しない」

という立場をとり,

「義昭政権と信長政権とは『相互補完関係』にあった,したがって,『二重権力』もしくは『連合政権』」

論にもとづいて,信長・義昭による政権を語っていく,という方向を著者は選ぶ。その例として,最近の論考を基に,

「上洛後のおよそ一年間に幕府が発給した文書は多数あるが,その中で目立つのは,禁制と安堵状である。久野(雅司)氏の2009年論文には,『足利義昭政権奉行人奉書・関係文書目録』が掲げられており,百五十二通の文書が記録されている。これによると,その期間には禁制十三通,安堵状五十五通を数える。そのすべてが畿内宛て,そして山城におけるものが大部分を占めている。幕府が畿内政権としての力を振るっていることを示す手がかりになるであろう。久野氏は,義昭のもとで実務に長けた奉行人などが,このような政務をきちんとこなしていたと評価し,結論として,義昭政権は決して『傀儡政権』ではなく,畿内における最大の政権として厳然として機能していた」

という考えに同意している。しかし,

備後鞆に移ってからも「鞆幕府」が存在したとか,幕府の終了は,義昭が豊臣秀吉に参礼した天正十五年(1587)である,という説はとらない。

「やはり義昭政権は,いかなる形にせよ元亀四年(天正元年)(1573)七月の追放をもって終わったと見なすべきだと思う。」

というのは穏当ではないか。発給すべき禁制も安堵状も,追放され毛利に頼っている状態では,出しようはない。

「その後の義昭の打倒信長の執念は延々九年間も続く。しかし,日本中の大名を総動員した大信長包囲網構想は,しょせん実現性のない義昭の妄想にすぎなかったと片づけてよかろう。」

と。そもそも,天下とは,後でも触れるが,

畿内及び京
京都の政権
世間

といった意味があるが,著者は,

「『天下』を政権の意味とするにせよ,人間社会の意味でとらえるにせよ,『京都』という地域をはずしては成り立たないことだけは間違いない…」。

だからこそ,義昭は,

「ひたすら京都帰還を思い描いて」

いたからこそ,御内書を乱発して,画策したのだ。しかし,上洛直後は,信長を,

御父,織田弾正忠殿

とまで呼び,『言継卿記』に,信長が京都を離れる折,

「おのおの落涙どもなり,御門外まで送らるる。」

とまで記された関係が,信長打倒の御内書を乱発するまでになったのか。決定的になったのは,有名な,

十七カ条の意見書

である。著者は言う。これは,

「この意見書内での信長の対義昭批判は,政策上などという次元に基づいたものではない。義昭という人物への不信,つまりもっと人間的な尺度から将軍としての品格を問うたものといえるだろう。」

という類のものなのだ。この中で,著者は二点に注目する。

ひとつは,「天下」「外聞」という言葉を何度も使っていること。天下には

①京都のこと,京都を中心とする畿内
②京都におかれた政権。幕府を指すこともあるが,将軍が在京することが条件
③漠然と世間,あるいは世の中。そこで起こる輿論。

といった意味があるが,信長は,

天下の為
天下の沙汰
天下の褒貶
天下の面目
天下の嘲弄
天下の覚え

という使い方を頻繁にし,天下を世間の噂,評判の意味として使い,

「信長はこの『天下』を足場にして,意見書において将軍義昭を批判している」

という。それは,義昭の失政を糺すのではなく,

「義昭の人間性に対するもの」

であり,

「世間は人間的に優れた将軍を望んでいる」

という主張になっていることである。

第二は,信長は,この意見書の写しをあちこちにばらまき,ついには,武田信玄の目にも触れて,

「信玄が信長は『ただの人間ではない』と唸ったという」

ほど,信長が流布させた。狙いは,

「いかにも『外聞』を重視した信長らしい」

宣伝活動になっている。この後,信長は,何度も決裂,講和を繰り返し,槙島城明け渡しでは,義昭の息子義尋まで取ったが,ついに殺すことはなかった。その信長の心理を,細川藤孝宛の書簡にある,

「公方様の御所行,是非に及ばざる次第に候,然りといえども君臣の間の儀に候条,深長に愁訴申し候のところ,聞こしめし直され候間,実子を進上申し候」

と,「君臣の間」という言葉を使い,自分の実子を人質にしてもいいとまで述べている。著者は,述べる。

「『将軍』の地位には,信長をもってしても越えがたい権威があった,としか言いようがない。この『権威』を背景にした『御逆心』に対しては,対処法が大変むずかしかったのだろう。」

と。結局義昭を追放にとどめたのは,だから,

「『外聞』に気を遣ったためである。『天下』の支配を目標とする信長にとって,『外聞』を無視することにより,『天下の執り沙汰』(世論)を悪化させてしまうことは,是非とも避けなければならないことなのである。」

だから,槙島開城,追放後も,再度堺で,義昭帰洛の交渉をもつ。しかし,この期に及んでも,帰洛の条件に,信長が人質を出すことに固執し,交渉相手の秀吉が,あきれはてて,

「いくら上意とはいえ,そんな難題を認めると大変なことになる。将軍は行方知れずになったようだ,と信長様に報告しておく。さっさとどこへなりと行かれるがよかろう」

と言い捨てて帰ってしまった,という。著者も,

「これほど落ちぶれていながらも,将軍位を保持しているだけで,いまだに優位に立っていると思っているのであろう。」

と書く。義昭は,二十人ほどの供と紀伊へ向かい,二年後,鞆へ移る。

「義昭は最後まで信長に負けたことを認めなかった。その意地は,ある意味で敬服に値するだろう。彼のこの意地を支えたものは,ひとえに『自分は将軍である』というプライドであった。彼の場合,将軍である自分が御内書の形で命令すれば,大名以下がその命令を奉戴して動くのは当たり前,と信じているのである。」

義昭が帰郷するのは,天正十五年(1587)のこと,翌年には出家して「昌山」と号す。そのときまで将軍であり続けた。

参考文献;
谷口克広『信長と将軍義昭』(中公新書)




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2014年10月05日

起源


岡谷公二『神社の起源と古代朝鮮』を読む。

神社を訪ね歩きながら,新羅の影を探るという趣旨の本だけに,直截,論究するのを期待すると,ちょっとまだるっこしい。しかし,状況証拠を積み上げていくうちに,新羅の影が,色濃いものになっていくところがある。

著者は,谷川健一氏の強い影響を受けているらしいことは,かつて,谷川氏の『青銅の神の足跡』などの本を読んだことのあるものには,蹈鞴,鞴,といった製鉄の跡を追いかけていた影と重なるものがあり,あれもまた渡来系の足跡をたどるものだったことを思い出させてくれた。

著者は,本書の動機を,金達寿氏の,

「神社も神宮も新羅から入ってきたのです」

の言葉に対し,

「神社を日本固有のものと信じている多くの日本人は,驚きや,強い反発,異和感を覚えるであろう。金氏は韓国人だから,そこに我田引水の匂いをかぐ人もいるだろう。しかし私は今,この言葉は多くの真実を含んでいると思っている。神社の成り立ちに,古代朝鮮,とりわけ新羅-伽那の地域が或る役割を果たしたことだけは断言できる。私たちにとってもっとも身近な神社であるお稲荷さんや八幡様が,最初渡来人の祀った神であったことは,すでに多くの人によって論じられている。…本書は,金氏の言葉を内側から検証しようとしたこころみである。」

と述べている。司馬遼太郎も,かつて,

「新羅人は,…日本の原始神道と相通じる神を持っています」

という言い方をしていたが,本書は,

「日本の原神道と朝鮮の古代の信仰との間の密接な関係」

を探るための,旅となっている。

ただ,「日本の原神道と朝鮮の古代の信仰との間の密接な関係」を朝鮮側にたずねるのは,なかなか難しい。

「日本の神社に相当する聖地は,朝鮮半島では,山神堂,ソナン堂,コルメギ堂,堂山などともよばれる堂(タン)だが,仏教,儒教をそれぞれ国教とした高麗,李氏朝鮮の下で弾圧,或いは排除されて消滅するか,儒教化してしまって,日本の『延喜式』に当たるような文献も皆無にひとしく,その古代でのありようは把握できない。」

のだから,という。さらに,国内も,「古代の一時期からはじまった新羅蕃国視,明治以降の朝鮮蔑視から,白木,白城,白井,白国,白鬚などと名前を変えたところが多かった」という。しかし,それでも,「新羅神社と名乗る神社は全国に数多く」,

「日本で最も数の多い神社のそれぞれの一つである八幡神社,稲荷神社が,元来は新羅系の秦氏が祀った神社」

であり,新羅の影響は広く,深く,大きい。新羅の痕跡を尋ねるには,

渡来系の氏族を尋ねる方法
製鉄の軌跡を訪ねる方法
記紀などの神話から尋ねる方法
神社の由来・名前から尋ねる方法

等々が,素人なりに,思い浮かぶが,本書でも,それをいくつか試みている。そして,それが重なっていくのが,印象深い。

たとえば,天日槍(あめのひぼこ)。

天日槍は,記紀などに登場するが,例えば,『日本書紀』では,

「新羅の王の子天日槍来帰り。将(も)て来る物は,羽太の玉一箇・足高の玉一箇・鵜鹿鹿の赤石の玉一箇・出石の小刀一口・出石の矛一枝・日鏡一面・熊の神籬一具,幷せて七物あり。即ち但馬国に蔵めて,常に神の物とす。一に曰く,初め天日槍,艇に乗りて播磨国に泊まりて,宍粟邑に在り,時に天皇,三輪君が祖大友主と,倭直の祖長尾市とを播磨に遣わして,天日槍を問わしめて曰く,『汝は誰人ぞ,且,何れの国の人ぞ』とのたまふ。天日槍対へて曰さく,『僕は新羅国の王の子なり。然れども日本国に聖皇有すと聞りて,即ち己が国を以て弟知古に授けて化帰り』とまうす。仍りて貢献る物は,葉細の珠・足高の珠・鵜鹿鹿の赤石の珠・出石の刀子・出石の槍・日鏡・熊神籬(ひもろぎ)・膽狭浅の大刀,幷せて八物なり。仍りて天日槍に詔して曰はく,『播磨国の宍粟邑と,淡路島の出浅邑と,是二の邑は,汝任意のままに居れ』とのたまふ。時に天日槍,啓して曰さく,『臣が住まむ処は,若し天恩を垂れて,臣が情の願しき地を聴したまはば,臣親ら諸国を歴り視て,則臣が心に合へるを給はらむと欲ふ』とまうす。乃ち聴したまふ。是に天日槍,兎道河より沂りて,北近江国の吾名邑に入りて暫く住む。復更近江より若狭国を経て,西但馬国に到りて,則ち住処を定む。是を以て,近江国の鏡村の谷の陶人は,天日槍の従人なり。故,天日槍の出嶋の人太耳が女麻多鳥を娶りて,但馬諸助を生む。諸助,但馬日楢杵を生む。日楢杵,清彦を生む。清彦,田道間守を生むといふ。」

とある。『古事記』では,「昔,新羅の国主の子有りき。名は天之日矛と謂いき。」として,不思議な逸話を載せている。

新羅の阿具奴摩という沼野ほとりであるいやしい女が昼寝していると,日が虹のように輝いて,その陰上をさし,このときから妊んで赤玉を生んだ。それをうかがっていた男は,その赤玉を女から乞いうけ,腰につけていた。この男が谷の田を作っている人々の食料を牛の背に乗せて谷に入ってきたところ天之日矛にあった。天之日矛は,男が牛を殺して食べるのではないかと疑って,捉えようとしたので,男は,赤玉を贈って,許してもらった。天之日矛は,玉を持ち帰って床のあたりに置くと,美しい女と化したので,婚して妻とした。妻は種々の美味佳肴を作ってもてなしたが,男は奢って,妻に罵言を吐いたところ,女は,「凡そ吾は,汝の妻なるべき女に非ず。吾が祖の国にいかむ」といって,小舟に乗って逃げて難波に留まった。それを追った天之日矛は,難波で渡しの神にとどめられ,やむなく但馬に住んだ。

天之日矛の子孫を,田道間守らを挙げた後,天之日矛が持ってきた宝を,「珠二貫,又浪振る比礼…浪切る比礼,風振る比礼,風切る比礼,又奥津鏡,辺津鏡」の八種を挙げる。

この『古事記』の逸話と同じ話が,書記では,天日槍渡来の生地の直前に,「意富加羅(おほから)の王の子,名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)。…伝に日本国に聖皇有すと聞りて,帰化く」とある。

『日本書記』と『古事記』では,天日槍の渡来の時期も,動機も異なるが,天日槍に関連することは,『筑前風土記』『摂津風土記』『新撰姓氏録』『古語拾遺』等々にも出てくる。著者は,

「それゆえ彼の渡来は,古代にあって広く知られた伝承であり,決して無稽な作り話ではなく,なんらかの事実を反映している…」

し,天日槍が,「個人ではなく,集団であろう」というのが,大方の見方と指摘する。『新撰姓氏録』には,

「『新羅国王子天日矛命之後也』として三宅連,糸井連,橘守が挙げられているのに対し,『出自任那国人都怒我阿羅斯止也』として,大市首,道田連,辟田首の三つの氏族があげられている」

という,といったところから考えれば,「弥生時代以降,朝鮮半島から人々が波状をなして渡ってきた」記憶の名残りとして考えられる。

この天日槍から,いくつかの説がある。

天日槍の逸話は,新羅の創世神話に似ている。

「アメは,…朝鮮の意味であり,…立派な武器と宝物を持って行った人々を指す」(金錫亨)

天は「海」であり,挙げる八種は,航海の安全を期するための呪物であり,天日槍の裔とされる三宅連が公海に関連した氏族であり,天日槍の集団は海と深いつながりがある。(上田正昭)

現に,新羅人は航海を好み,その造船技術は優れていて遣唐使として唐に渡った人は,帰途新羅の船に乗りたがったという。

天日槍が巡歴したコースに残る地名とそれにまつわる伝承,その周辺の鉱山や砂鉄の採取場の遺跡などから,天日槍の集団が,金属精錬の集団である。(谷川健一)

「此の御世に,始めて弓・矢・刀を以て神祇を祭る。更に神地・神戸を定む。又,新羅の王子,海檜檜来帰り,今但馬国出石郡に在りて大きな社と為れり。」(『古語拾遺』)

この記事の後に,倭姫命をして初めて伊勢に神を祀らせたとの記事があり,これについて,

「天日槍の渡来が,神社の成り立ちやその祭祀に在る役割を果たしたことを,(『古語拾遺』の編者斎部)広成自身が認めていた」

のではないか,著者は推測する。さらに,天日槍の持ってきたものの中の,「熊の神籬(ひもろぎ)」について,

「朝鮮半島の人にとっては,クマは,熊ではなく,神聖,首長の意味」(金錫亨),「朝鮮語のコムでして,『聖なるもの』という意味」(金達寿)であり,これは,江戸時代の日本の藤貞幹,金沢庄三郎も唱えており,「神籬にかぎらず,古代神道関係の用語には日韓同源語が少なからず見出される。…ヒは霊,モロは三諸山のモロである。古代韓語では宗などの字を当て,神を祀る聖所をマルと呼んでいるが,それと同系語であろう。キは古代韓語では支・城などの字を当てている」(三品彰英)。

そして,著者は,持ってきた以上,大きなものではなく,柳田國男の,「たとえば能登の飯田でなどで榊みこしといふもの,是は白木造りの台の上に,ただ榊の枝を挿したてたもので,これを神籬だと神官はいって居る」の,榊みこしに比定している。

そして,熊が聖なるものというなら,「熊の神籬」が「天津神籬」と同じ意味かも知れない,もしそうなら,と,『日本書紀』の,天忍穂耳尊を降臨させようとした高皇産霊尊が,

「吾は天津神籬及び天津盤境をお越し樹てて,当に吾孫の為に斎ひ奉らむ」

と言ったのを想起する。

大挙して渡来した先進地帯の人が,ただ人だけが来たのではないはずで,文化,祭式をもってきたことは十分想定できる。それを詳らかにする手掛かりは,朝鮮半島にはほとんど残っていない。しかし,

「神社が日本独自のものだという考えは,そろそろ改めねばならない」

という発言は,今日の日韓を見るとき,なおのこと深く同意したい。

参考文献;
岡谷公二『神社の起源と古代朝鮮』(平凡社新書)





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2014年10月13日

捏造


原田実『江戸しぐさの正体』を読む。

江戸しぐさというのが,社員教育やマナー教育で跋扈している,という。その真偽は知らないが,地下鉄か何かの広告で,こぶしうかせというのを,イラスト入りで見た記憶はある。そのときは,気にも留めなかったが,考えてみたら,椅子などに腰を下ろす,「座る」ではなく,

坐る

のが常態で,あぐらにせよ,正座(これも明治以降生まれたという説がある)にせよ,たとえば,車座になって坐っているところで,こぶしうかせは意味があるとは思えない。



は,

人+人+土

で,人が地上に尻を付けて坐ることを示す。身の丈を縮める意味があるらしい。



は,「人+人+土」+广(いえ)

で,本来は,家の中の坐る場所を指す。

さて,本書は,文科省までが,その配布した道徳教材に,

「『江戸しぐさ』が江戸時代に実在した商いの心得」

と明記していることや,それを公民教科書で扱っていることに,危機感を覚え,その正体を暴こうというのが動機のようだ。

最初の提唱者,芝三光の頃は,200位とされた「江戸しぐさ」が,いつの間にか8000とされ,まだまだ増える気配である。それ自体が,すでに胡散臭い。

著者は代表的なものを,いくつか取り上げて,丁寧に反証しているが,たとえば,「傘かしげ」について,疑問を呈している。

ひとつは,傘の普及は,江戸自体後期,傘を差したもの同士がすれちがうシチュエーション自体が,頻繁であったとは思えない。

和傘は,スプリングの入った洋傘に比べ,すぼめたまま手で固定するのが楽な構造になっている。

なにも強引にすれちがわず,一方がすぼめてよければすむ。

江戸の商家や職人の家は,道に面したところに開け広げの土間をつくり,そこを店頭や作業場にしている。そこで「傘かしげ」をやられては,店先がずぶぬれになる。

等々である。現に,傘が普及する以前の庶民の雨具といえば菅笠と簑であり,安藤広重の描いた「大橋あたりの夕立」(「名所江戸百景」)には激しく降る夕立に傘をすぼめて急ぐ町人の姿が生き生きと描かれている。他に,笠と蓑か茣蓙をかぶっている人もいる。

それに,和傘は,

数十本の骨が用いられる。これは洋傘と違い,傘の開き方が,竹の力により骨と張られた和紙を支える仕組みとなっているため,すぼめた際に和紙の部分が自動的に内側に畳み込まれる。その上,自然素材を多用した結果,洋傘に比べて重い。

という。どうも,洋傘をイメージした「しぐさ」ではないか。あるいは,電車にも広告の出ていた,「こぶし腰うかせ」については,「江戸しぐさ」には,こうある。

「川の渡し場で,乗合舟の客たちが船の出るのをまっているとき,後から乗ってきた新しい客のために,腰かけている先客の2~3人は,腰の両側にこぶしをついて,軽く腰をうかせ,少しずつ幅を詰めながら,一人分の空間をつくる…。」

しかし,しかし狭い渡し船でそんなことをするよりは,いったん腰を上げたほうが早い。だから,茶店のイラストが使われる。どう見ても,市電かなにかのに長いシートでの席の譲り合いのイメージであり,江戸という時代の生活臭がしない。だから,

「『江戸しぐさ』は盛んに江戸時代を称揚するが,それらはいずれも現代的な常識に彩られたもの」

と著者が言うのはもっともだ。生前,提案者の芝は,「江戸しぐさ」は,

「芝の造語」

と言っていたらしいが,いつのまにか,横浜生まれの芝が,

「私の子供の頃,『江戸しぐさ』という言葉は年中耳にしたものでございます。半世紀前までは『江戸しぐさ』が生きておりました」

と言ったことになる。その詐術が,単なるマナー運動にとどまるうちはいいが,安倍政権の後ろだてを得て,学校教育に浸透し始め,「江戸しぐさ」が権威を持ち(イデオロギー化するということだ),禁止されているものとして,

「戸閉め言葉」
「ちょうな(手斧)言葉」
「水掛け言葉」

などを「逆(さか)らいしぐさ」として挙げはじめたとき,すでにそれは,「敵性用語」的になる危険が,確かにある。

「戸閉め言葉」とは,でも,だって,しかし,そんなこと言っても,と相手の言葉を遮る言葉,
「ちょうな言葉」とは,手斧で叩き斬るような乱暴な言葉,
「水かけ言葉」とは,それがどうしたの,と相手の気分に水をかける言葉,

という。それは,相手への反論をしたり疑問を呈することを封じるものである。そのまま,今日の政府の問答無用の振る舞いに近い。単なるマナー運動と見過ごすには,ちょっときな臭さを覚える。

そもそも「しぐさ」という言葉が,いつからあったのか,と調べてみたが,

「シ(為・サ変動詞スルの連用形)+クサ(物事の種)

と,語源はあるが,来歴がわからない。で,手持ちの古語辞典には,しぐさはなかった。『大言海』は,

しぐさ 「仕種」をあて,テダテ,シカタ,シウチ
しぐさ 「科」をあて,所作,ミブリ

と区別してあげる。それ以上はわからなかったから,ここからは,妄想に近いが,

しぐさ

という言葉を使ったこと自体で,既に馬脚を現している気がする。たぶん,「仕種」が古い。そこにあるのは,テダテ,
の意である。身振りには,古くは,所作という言葉を使ったのではないか。

それに,商人というなら,ナニワではないのか。なぜ,「ナニワしぐさ」ではないのか。なぜ「江戸」にこだわったのか。たとえば,奥野卓司氏は,

「『江戸文化』は江戸時代という期間のなかでの,日本各地の文化のことであるはずだが,いつの間にか江戸という一都市の文化にすりかえられてしまっている。少なくともその前半は,上方,西日本のほうが,江戸よりも先進的で高度な文化的成熟がみられたはずなのだが,…『江戸文化』に関する本でも,『江戸文化』は『江戸の文化』という先入観を与えるように書かれている場合が多い。」

という。「江戸しぐさ」もその系列であるというより,意識的にそうしている。

「彼が生きた時代の歴史観から『江戸文化』を記述して」いる,と著者は想定している。この辺りは,もう少し掘り下げる必要があるだろう。本書が,その端緒となってくれるといいのだが,なにせ,

噓も繰り返せば真実になる,

というナチのやり口をまねると公言してはばからぬ為政者の下なので,気味が悪いというより,恐怖が先に立つ。

参考文献;
原田実『江戸しぐさの正体』(星海社新書)
大槻文彦編『大言海』(冨山房)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
奥野卓司『江戸〈メディア表象〉論』(岩波書店)







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2014年10月14日

教える


向後千春『教師のための「教える技術」』を読む。

この本は,

「学校の先生や,塾の講師,家庭教師,研修講師といった教えることを仕事にしている人たちのための本」

だそうである。著者の言う通り,確かに,

「『教え方』について真っ向から教えを受けたということがない」

のだ。それでも教職について何とかできるのは,

「学校や塾という枠組みの中で,学ぶ人たちがあなたを『先生』として見ているので,あなたが何をしても,それを『先生からの教え』として捉えている」

おかげであり,それがいったん崩れて,逆回転すると,「教える技術」がないと回復できない,と著者は考え,「教師」つまりプロとしての教える仕事をしている人を想定し,

●教師という役割と立場,つまりプロの仕事して一定水準の品質が期待されていること(失敗が許されないこと)
●大人数を扱うため,クラス運営の技術が必要である

を前提にし,教師力に必要な,

①教える技術
②授業デザイン力
③クラス運営力

三つの能力を身につけていく方法を,本書では展開しようとしている。

と,ここまで書いて,少し気になることがある。閑話休題。

どうでもいいことだが,「能力」という言い方が引っ掛かる。スキルではないのか,ということだ。僕は,能力は,

知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)

だと思っているので,能力は,本で伝えることはできない。なぜなら,やってみようと思うところまでは,伝えられないし,何とかしようと思うところまでは,引っ張ることはできないというか,書き手にはわからない。その意味では,こうやればできる,と思わせる「スキル」の提案なのに,能力と看板を書き換えるのは,羊頭狗肉ではないのか,とちょっと疑問を呈しておく。

ついでながら,Gライルではないが,知識には,

Knowing that(そのことについて知っている)

Knowing how(どうやるかを知っている)

の二つがあり,スキルについての知識は,やってみる経験を積まなければKnowing howは手に入らない。その意味で,上記の能力の要素には,

体験(やったことがある)

気力(がんばれる)

体力(やり切れる)

も必要なのかもしれない。

さて,ちょっと横道に入りすぎた,本書の紹介に戻る。

まず「教える技術」については,

①運動技能
②知識獲得技能(宣言的知識)
③問題解決能力(手続き的知識)
④学習法略技能
⑤態度技能

を順次具体的に提示されている。それぞれには深入りしないが,これはOJTにも通ずるところが多々ある。必要なのは,教える側が,教える側の土俵(知っているという教壇)に立つのではなく,教わる側の土俵(知らない,やる気がない,わからないという土俵)に一緒に立つということだと感じた。それは,教わる者との協働作業だからにほかならない。その視点で言えば,相手が学ばないのは,共同責任なのである。

「授業デザイン力」は,授業の構想力といっていい。これは,ロバート・ガニエの,

①学習者の注意をひく
②学習の目標を知らせる
③すでに学んだことを思い出させる
④新しい学習内容を提示する
⑤学習のやり方を説明する
⑥練習をさせる
⑦フィードバックを与える
⑧学習成果を評価する
⑨学習したことを他の場面にも活かせるようにうながす

という「9教授事象」をモデルに,使うことを薦めている。さらに,授業に魅力という付加価値をくわえるために,「ARCS動機づけモデル」を提案している。これは,

A(Attention)
R(Relevance)
C(Confidence)
S(Satisfaction)

つまり,引きつけ,自分に関連づけ,自身を持たせ,やってよかったと思わせる,ということになる。

なんとなく,例の,山本五十六の,

やってみせて,言って聞かせて,やらせてみて, ほめてやらねば人は動かじ。
話し合い,耳を傾け,承認し,任せてやらねば,人は育たず。
やっている,姿を感謝で見守って,信頼せねば,人は実らず。

と,マインドとして重なる部分がある。ただ,いまは,山本の上から目線では,だめだと思う。

「わかった?」
とか
「大丈夫?」
とか

という問いかけが,イエスという答えしか実は求めていない(としか相手に受け取られない)のと同じく,相手の土俵の上に一緒に立つことだ,同じ土俵に立てば,こういう問いはしようがないはずである。

クラス運営については,アドラー心理学に拠って,

①タイプ 自分がどういうタイプの教師であるか
②プロセス クラス崩壊は一人の子供の荒れから進展するので,そのプロセスを知ること
③クラス会議をして,相互尊敬と相互信頼の雰囲気を創り出すこと

を提案する。これについては,信頼という土俵が成り立たなければ,すべてのスキルは無効化すると思っているので,日々のおのれの振る舞い,ありようには留意がいるが,しかし,それは,その人の生き方を反映するという気がしてならない。つまり小手先では無理である。

さて,こうして読み通すと,昔,認知心理学や学習心理学を学んだときのことを思い出させてくれる。しかし,あえて苦言を呈したい。

本書には,著者自身が,

「一冊の本の中で扱う内容としては,分量が多すぎたかもしれません。」

というほど,「教える技術」の総覧は提示されている。しかし,提案された「教える技術」を学ぶための手順と,そのためのスモールステップはどこにも提示されていない。さらに言うと,「教える技術」を学ぶための「学習法略」が示されていない。ゴールが高みにあるだけに,「教える技術」を学ぶためのの絶対条件は何か,逆に言うと,それを身につけていなければ,本末転倒となるような,骨格は何かの優先順位,つまり,学習ステップが示されていない。それは,まず何を学び,次に何を学び,そうして,最終的にどうなるのか,の全体ステップの提示でもある。本書のいう「教える技術」に即して,そのガイドラインが欲しいところだ。

参考文献;
向後千春『教師のための「教える技術」』(明治図書)
G・ライル『心の概念』(みすず書房)





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2014年10月21日

怨霊


山田雄司『怨霊とは何か』を読む。

将門の怨霊だの,道真の怨霊だのというのは,過去のことと言いたいが,さに非ず,今日も,我々の心性の中に生きている。大手町の一角の「将門の首塚」は,関東大震災後,その上に大蔵省の仮庁舎が建てられたが,

「しばらくすると大蔵官僚の中で病気となる者が続出し,工事関係者にもけが人や死亡者が相次ぎ,早速整爾大蔵大臣をはじめ二年間に十四人が相次いで死亡し,けが人も多く,特にアキレス腱が切れる者が多かったという。これは将門が足の病のために敗戦の憂き目を見たという故事に関係があるのではないかという噂が広がり,塚の上の庁舎は取り壊されて,昭和三年(1928)三月二十七日に盛大に将門鎮魂祭が行われた…。」

ということでなだめたはずが,その後も「将門の祟り」はつづき,

「昭和十五年六月二十日には都内二十ヶ所あまりで落雷があり,大手町の逓信省航空局をはじめ,付近一帯が延焼した。この年は将門没後千年にあたったことから,庁舎はただちに移転され,一千年祭が挙行され,河田烈大蔵大臣自ら筆をとって古跡保存碑が建立された。」

空襲で焼け野原になった後も,

「GHQのモータープール建設用地として接収され,米軍のブルドーザーによって焼け跡の整地が行われていたところ,ブルドーザーが地表面に突出していた石にぶつかったのが原因で横転し,日本人運転手と作業員の二人がブルドーザーの下敷きになり一名が即死し一名が大けがをした。また,労務者のけが人も絶えなかったこともあり,施行者が調べてみると,ここは将門塚のあった場所で,ブルドーザーがぶつかった石は,塚の石標であったことがわかった。」

そこで町内会長が司令部に塚の由来を説明し,壊さないよう陳情し,塚は残されることになった。

他にも,四谷怪談を歌舞伎や芝居等で上演する前には,お岩様ゆかりの寺や神社にお参りをしないと祟りがあると言われている,という話など,我々の中に生きていることはある。

では怨霊とは何か。著者は,

「怨霊とは死後に落ち着くところのない霊魂であり,それが憑依することにより個人的に祟ることから始まって,疫病・災害などの社会全体にまで被害を及ぼす存在」

と考えられているとし,

「本書では,日本三大怨霊といわれる菅原道真(845~903),平将門(916~40),崇徳院(1119~64)がどのようにして怨霊となって人々を恐怖におとしいれ,さらにはいかなる鎮魂がなされたのか,そして,近世を経てどのように受け継がれて現代に至っているのか,を具体的にあきらかにしていく。」

と,述べている。細部はともかくとして,面白いのは,道真にしろ,崇徳院にしろ,本人は,たとえば,菅原道真は,

「望郷の思いを抱き寂しい生活を嘆きながらも,決して醍醐天皇を怨んだりするようなことはなく,仏教に帰依していた」

し,崇徳院にしろ,

「思ひやれや都はるかにおきつ波立ちへだてたるこころぼそさを,と詠っていても怨念と化す姿勢は窺われない」

という。にもかかわらず,『保元物語』で言うように,筆写した五部大乗経に,舌を噛み切ってその血で大乗経の奥に誓状を書き,諸仏に制約して経を海底に沈めた,というような姿を描き,怨念を煽り立てたのは,陥れた側の後ろめたさもあるが,疫病,天変地異などによる社会の不安定化を反映した不安の投影という面もある。さらに,崇徳院の側に組した側の,つまり敗者の側の,

「崇徳院の復権,さらには自らの復権を行うために,怨霊の存在を語っていった」

という,生臭い理由があり,社会的な不安が,その原因を見つけたがっている心性と重なった,という面もあるに違いない。

こうした怨霊を意識する背景には,

「生命体は肉体の中に霊魂がとどまっていることにより生きている」

という霊魂観がある。

「魂は気のようなものだと考えられていたことから,睡眠中や失神したときには鼻や口から抜け出すことがあった。」

と考えられていて,そのカタチは,『和漢三才図絵』によると,

「人魂はオタマジャクシのような形をしていて,色は青白くてほのかに赤く,静かに空を飛び,落ちたところには小さくて黒い虫がたくさんいる」

という。だから,魂は,ときに生きていても,抜け出す。「生霊」という。では,なぜ怨霊と化すのか。慈円の『愚管抄』には,

「怨霊とは,現実世界において果たせなかった復讐を,冥界において果たすために登場する存在であって,相手を攻撃するだけでなく世の乱れをも引き起こす存在」

と記す。怨霊という言葉自体は,漢訳経典にはなく,中国仏教にはない言葉,つまり日本の仏教者が創り出した言葉であろう,と著者は言う。初見は,『日本後記』に,延暦二十四年(805),廃太子された早良親王の怨霊という言葉がでる。

このとき,これを鎮めたのが興福寺僧善珠。

「善珠は早良の怨霊を調伏したのではなく,仏法を説いて聞かせることによって鎮めたのである。『怨をもって怨に報い』るのでは怨念の連鎖がとどまることがないため,そこからの解脱を説くことによって怨霊をなだめた」,

この善珠の,「呪術的力による調伏」ではなく仏法を説く流れは,最澄・空海を経て,

「怨霊に対して説いて聞かせ,成仏することを願う」

というスタイルが確立した,と著者は言う。しかし,

「室町時代までは,怨霊の存在が信じられて,災異の原因を怨霊に帰結させて国家的対応がとられることも少なくなかった。それと同様に,神社などで発生する『フシギ』な現象すなわち怪異が発生すると,神意を読み解くために朝廷に報告されて,先例が調べられたり,卜占が行われたりして,その対処のために神社で祈祷・奉幣などが行われた。しかし,こうした怪異のシステムも戦国時代にはなくなっていく。
戦国時代を境に神観念は大きく転換した。さまざまな現象の背後に神意の存在を感じ,さらなる災異が起きないように神をなだめるという国家による神々への対応は行われなくなった。それと対照的に,豊臣秀吉,徳川家康といった国家の主導者に神号をあたえて神として祀り,以後傑出した人物が神として祀られる先鞭となった。この現象は,相対的に神の地位が下がることにより人が神になることができるようになるとともに,神に対する崇敬心が希薄になったことを意味しよう。」

と。しかし,我々の中に,いまも,非業な死を遂げた人のために,

「その霊を慰めるために慰霊施設が必ずと言っていいほど建立される。交通事故で亡くなったひとのために,事故のあった場所に仏像が安置されるし,天変地異のために命を落とした人のために,石碑などが建立される。」

ここには,

「外的要因により自らの意思に反して命を奪われた人の慰霊は当然行われなければならない」

という考えが,我々の中にあるということを反映している。それはかつての慰霊がそうであったように,

「関係者の心を整理して慰める行為」

には違いないが,そうしなければ「祟る」という深層心理が根強く残っているともいえる気がする。それは,非命に倒れたものへの慰霊でもあると同時に,残されたものの立命でもあるようだ。

参考文献;
山田雄司『怨霊とは何か』(中公新書)






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2014年10月27日

江戸イメージ


奥野卓司『江戸〈メディア表象〉論』を読む。

江戸文化ないし江戸ブームについて,著者はこう書く。

(テレビ,映画,芝居,漫画,小説,或いは歌舞伎等々)「これらメディア表象に見られる『発明された伝統』と『編集された歴史』(とここではいったん呼んでおこう)によって,今日のイメージとしての『江戸時代』『江戸文化』はつくられ,人々の間にひろがっているのではないだろうか。」

と。そして,

「これらの〈メディア表象〉によってつくられた『現代の日本人の江戸文化イメージ』を,国内外でのフィールドワークやインタビュー調査によって検証するとともに,その時代時代で江戸時代の文書・図絵・史料が意図的に行われてきた変化のありようを比較することによって解読していこうとするものだ。つまり江戸時代の『史料』の検証ではなく,現代社会における文化行為としての『江戸メディア表象』の変化と,それが現代のわれわれの『江戸時代観』にどのように影響しているかを検討してみたいと思っている。」

と,はじめにで述べる。しかし,結論を先にすると,結論ありきで,書き始められており,論証というよりは,繰り返し,同じタームが繰り返され,いささか辟易した。別に学術論文ではないにしろ,まずメディアの種類ごとに,映画,小説,歌舞伎等々の表現する江戸イメージをきちんと示してほしいし,その比較の中から,どう変わったかを,系統だって示してほしい。でなければ,雑駁なエッセイと変わらない。その意味では,前書きの意気込みに比して,少し肩透かしを食らった感じではある。

よく出るタームで言うと,まずは,

「江戸文化」という物語,

である。人生で過去の見え方は,いまの生き方を反映するのと同様,過去の歴史の見方も,いまの日本のありようを反映する。そんなことは当たり前ではないか。しかし,

「江戸文化ブームを語ることは,江戸時代を語ることではなく,現代社会,とくにそのサブカルチャーを語ることに他ならない。」

「時代の『江戸時代』『近世文化』イメージが,その時代のメディアによる部分的な協調やみたくない部分の削除,つまり『伝統の発明』と『歴史の編集』によってつくられてきたためである。」

と語る時,何をそんなに大袈裟に,と言いたくなる。かつての立川文庫の猿飛佐助や真田十勇士,水戸黄門,あるいは時代劇映画の,いや講談のというほうがいいか,遠山の金さんや,大岡越前,清水次郎長を出すまでもなく,あるいは吉川英治の『宮本武蔵』等々,そのときどきの時代が必要とするところから,作り出されたものに過ぎない。それを,ことごとしく,

「それぞれの時代の語り手が,その時代,時代の価値観で,近世の事柄を語っているのだ。」

と言われても,別に当たり前すぎて,何の感慨も浮かばない。

次のタームは,「鎖国」というものへの疑義。そもそも「鎖国」という言葉は,

「江戸時代に存在したわけではなく,日本を訪れた船医のエンゲルベルト・ケンペルが記述した『日本誌』が後に翻訳されて,その中の表現が誤訳されたものである。ケンペル自身は,むしろ日本の外交政策の巧妙さとして肯定的にドイツ語で記述したのだが,それが後(1727年)に英語に訳されたとき『keep it shut』と誤訳された。さらにそれがオランダ語に再度翻訳され,1770年代に日本に入り,1801年(享和元年)になって,元長崎オランダ通詞の志筑忠雄が「鎖国」と誤訳したのである。この誤訳がなされたのが1801年であることからわかるように,江戸時代初期ではない。むしろ日本に対する外国の諸要求が強まってきたとき,それへの防御を正当化するために政治的に誤訳されたものである。」

という。この是非はともかく,本書の趣旨は,鎖国の実態は「海禁政策でしかなく」,長崎,津島,琉球,エゾを通して,大航海時代の世界の情報が入ってきた。したがって,

鎖国が文化を熟成させた

というのは成り立つのか,ということなのである。その狙いは,孤立した「日本」だけが独自に文化を成熟させたというよりは,入ってくる同時代の情報を利用しつつ,作り上げたのではないか,というところに行きつく。

たとえば,京劇と歌舞伎の共通性に着眼し,

「当時の中国本土,琉球,台湾,インドネシア,ベトナム他と,日本との文化伝播・融合の流れを考えれば,歌舞伎と京劇の成立過程において,それらが相互に影響しあいながら,それぞれのスタイルを確立していったと考える方がむしろ自然であろう。さらにこの過程において,歌舞伎では人形浄瑠璃の大きな影響もあった。とすれば,演劇だけではなく,歌舞伎,人形浄瑠璃とアジア各地における人形芝居の流れや民族音楽との絡みも当然考えなければならないはずである。」

それは,次のターム,

当時は大航海時代というグローバリズム

の時代であったということにつながる。たとえば,時計。

「西欧の機械時計は,一日を24時間,一時間を60分と定め,通年で不変なものとして時を刻んでいたが,江戸時代の日本では,昼の長い夏期と短い冬期で時間を調整し,季節に合わせて昼と夜をそれぞれ六等分する不定時法を採用していた。西欧の機械時計が日本に持ち込まれたところ,上方や江戸,名古屋のからくり師たちがこぞってそれを日本の不定時法に利用できるように,さまざまな工夫を凝らし,和時計として改良し実用化した。」

あるいは,カイコの改良の例がある。

「当時農民たちも,稲やカイコがよく育つように,経験的に多様な個体の掛け合わせを繰り返し,新たな品種を数多く生み出していた。そしてその過程で,『養蚕秘録』…などの文書に残されているように,生き物の遺伝に一定の法則性があることを農民が見つけ出していた(当時,西欧においても,メンデルの遺伝法則はまだ確立されていなかった)。」

そういう例があると,「江戸時代の日本は,西欧科学とは異なる,独自の科学技術の発達の道をとっていた」と考えたくなるが,幕府が長崎貿易を統制し,銀の輸出を制約した。銀輸出の対価としての絹糸が日本に入ってこなくなった。その結果,

「絹糸を自国で生産せざるをえなくなった。」

という背景がある。つまり,「閉じてはいなかった」からこそと言いたいようなのである。

しかし,どこに焦点を当てるかで,一つの事実も,違ったように見えてくる。その意味では,江戸時代の何かに焦点を当てるということ自体が,現代の何かを象徴しているのではないか。

「最近では日本の技術の巧みさは,江戸時代の職人から連綿と続く伝統にもとづいているといったことが強引に『論理づけ』られている。その典型が日本の伝統的な技術を応用して建築されたとされる東京スカイツリーの喧伝である。たとえば,伝統的木造建築物である『五重塔』に使われている『心柱』が応用されていると言われる。それは,たしかに当時では優れた技術であったには違いないが,現在の技術からすれば,わざわざ江戸時代の技術に頼らなくても十分高層における風の影響を少なくする構造を設計できたはずだ。」

といい,こう指摘する。

「にもかかわらず,江戸時代の大工の巧みな技をとり入れたということが,さまざまなメディアで一定の説得力をもって語られている。これは,現代の日本の技術が国内外で信頼性を失っていることの逆説的なあらわれである。」

と。これはなかなか卓見ではある。

その意味では,本書の趣旨を,江戸時代のイメージの変遷に,現在のありようを垣間見る,という切り口にしてみた方が,はるかに面白いと,読み終えて初めて気づく。

結論として,著者は,こう書く。

「歴史は『ヒストリー』である以上,人間のつくったストーリー,つまり『物語』である。何が正確な『江戸文化』なのかを延々と論じていても(そうした論争は日常的に行われているが),意味のないことである。つまり,現代社会に生きる私たちの近未来にとって,意味のある『江戸文化』であるかどうかが大切なのだ。今,私たちに課せられているのは,一七世紀,一八世紀のグローバルな『世界』の中での江戸自体の文化を,日本を含む東アジアの観点から相対化していくことだろう。そしてそこから自分の『江戸時代』見出し,自分たちの社会の近未来のあるべき姿を考えることだろう。」

確かに正しい。しかし,ちょっと待って,と言いたくなる。それが本書の最初に,

「現代社会における文化行為としての『江戸メディア表象』の変化と,それが現代のわれわれの『江戸時代観』にどのように影響しているかを検討してみたいと思っている。」

と,狙いを提示していたのではなかったのか。揚げ足取りかもしれないが,一回りして,当初の目的が,これからの課題にすり替わってしまった,という感じである。肩すかしとは,この意味である。

参考文献;
奥野卓司『江戸〈メディア表象〉論』(岩波書店)






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2014年10月29日

革命


松本健一『「孟子」の革命思想と日本』を読む。

冒頭,象徴的な言葉から入る。

「天皇家に姓がいつからなくなったのか。名字がいつからなくなったのか。ひと言でいえば,天皇家は姓を持たないで,姓をあたえる役なのです。」

その姓がないことと,『孟子』の「易姓革命」つまり,王朝の姓が変わり,国が変わる,との関連をみ,さらに日本には,「革命」と言う言葉でなく,「維新」が使われることとの関連につながる。それは,国のありよう自体を左右する。

『孟子』の思想的核心は,「湯武放伐論」にある。

(斉の宣王問いて曰く)「臣にしてその君を弑す,可ならんや。曰く,仁を賊(そこな)う者之を賊と謂い,義を賊う者之を残と謂う,残の人は,之を一夫と謂う,一夫紂を誅せるを聞けるも,未だ君を弑せるを聞かざるなり。」

つまり,「仁義」の徳のない君主は,「一夫」にすぎず,これを討っても,「君を弑する」ことには当たらない,とするのである。だから,孔子の核心が「仁」なら,『孟子』の核心は,「義」である。その考え方の基本は,

「民を貴しとなし,社稷之に次ぎ,君を軽しとなす。是の故に民に得られて天子となり,天子に得られて諸侯となり,諸侯に得られて大夫となる。諸侯社稷を危うくすれば,則ち[其の君を]変(あらた)めて置(た)つ。犠牲既に成(こ)え,粢盛既に潔(きよ)く,祭祀時を以てす。然くにして旱乾水溢あれば,則ち社稷を変(あらた)めて置(た)つ。」

である。民を第一位に置くから,社稷を危うくするなら,天子をも廃す。社稷も,いけにえを供えても旱魃洪水があれば,社稷すら作り変える,と。

因みに,孔子には,

「子路,君に事えんことを問う。子曰く,欺くこと勿れ,而してこれを犯せ。」

とはある。つまり諌めるところまでである。となると,「易姓革命」を避けるには,

「革命を起こさず,王権の秩序を半永久的に維持するためには,どうしたらよいか。王朝が革命の対象とならないためには,王から姓をなくしていく。」

という発想になる,著者は,天武期の藤原不比等のなしたことではないか,と想定している。

「日本では天皇家,それと同時に,支配者であるところの,大君から天皇になった皇室の人々は姓を持たないけれども,その人々というのは姓を与える役割になる。なぜそういう役割になりうるのかというと,これは天つ神の御子だからだという,神格の位置づけにしていく。日本神話により即していえば,高天原から降ってきた,天つ神の子孫であるという定義になる。」

その意味を担っているのが,

天皇

という名づけである。中国では,天子と皇帝とは分けている。

「天子とは天の声を聞く人(多く女),皇帝とはその声を受け取って地上に政治を行う人ですから,本当は二つの,別の存在なのですね。これを一人にしてしまったのが日本で,天子の天と皇帝の皇の地を合わせて,天皇という字,称号をつくったのです。」

『雨月物語』にも出てくるが,『五雑俎』という本に,

「凡そ中国の経書は皆重価を以て之を購う。独り孟子無しと云う。其の書を携へて往く者有れば,舟輒(すなわ)ち覆溺す。此亦一奇事なり。」

と出ていて,『孟子』だけが,日本に伝わらないという伝説が出来上がっている。というよりも,四書五経という以上,伝わっていたが,排除されてきた。しかし,徳川家康が,自分の天下取りを合理化するのに使ったりしているのを見ると,都合が悪いものは巧みに排除してきたということになる。

この辺りに日本という風土文化の,良くも悪くも,特徴がある。しかし,幕末変動期になると,『孟子』は,吉田松陰をはじめとして,蘇ってくる。松蔭は,『孟子』が,君子が,仁と徳とを持たなかったら,王位を奪ってもいい,諌死もいい,国を去ってもいい,と言ったことに対して,「我ガ国今日ニアリテ論ずベキニハ非ザレドモ」と断って,

「易ト去ルト死スルト此ノ三臣アラバ国家亦信ムベシ」

と全面肯定している。でなければ,

「恐れ乍ら,天朝も幕府・吾藩もいらぬ。只六尺の微軀が入用。」

という心映えにはならない。それは,西郷隆盛の山岡鉄舟を評したという,

「命もいらず,名もいらず,官位も金も入らぬ人は,仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは,艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」

という言葉につながる。それは,至誠や義の心映えにつながる。この言葉に続けで,西郷の文章は,『孟子』を引用する。

「孟子に,『天下の廣居に居り,天下の正位に立ち,天下の大道を行ふ。志を得れば民と之に因り,志を得ざれば,独り其道を行ふ。富貴も淫すること能わず,貧賤も移すこと能わず,威武も屈すること能わず』と云ひしは,今仰せられし如きの人物にやと問ひしかば,いかにも其の通り,道に立ちたる人ならでは彼の気象は出ぬなり」

と言っているという。

この「精神(エートス)」は,北一輝へと引き継がれている。

「革命」という言葉を日本は使わず,「維新」と称する。これは,『詩経』に,

「旧邦の周が長くつづしいたのは,その命を『維(こ)れ新た』にしたという言葉が出てくる。」

ところによる。つまり,「古いものや制度を,新たにしていく」,坂本龍馬が,

「今一度せんたくいたし申し候」

と姉に送った手紙の意味になる。しかし,革命(レボリューション)とは言わず,「維新(レストレーション)」というのが,われわれの特徴だが,北一輝は,

「維新革命」

と言い切る。

「維新革命以後の日本は天皇を政治的中心としたる近代的民主国なり」

と。その北が「自分は支那に生まれたら,天子になれたと思うよ」と言ったという。

著者はこう北一輝を評する。

「北の独創性とは,『孟子』の革命思想を利用しながら,『万世一系』神話を形づくった日本も実は中国と同じように朝廷内で宮廷クーデターや王権をめぐっての権力闘争が行われていた,と看破したところでしょう。ただ,日本のばあいは,まず天皇家が姓をなくすことによって易姓革命の可能性を封じたのです。それゆえ,後の覇権者たちは王朝を倒すのではなく,天皇=朝廷をみずからの「権威」として利用するために残しつづけたのです。その,易姓革命を不可能にした日本の支配原理をふまえると,北のばあいも,「天皇ヲ奉ジテ」の軍事クーデターによる『民主革命』方式にならざるをえない,と考えたところに『日本改造法案大綱』の独創性が生まれたわけです。」

今日の中国でも,『孟子』は軽んじられている。しかし,著者は言う。

「欧米や日本から中国には民主主義がないと批判されています。しかし,私の考えでは,民主主義制度がないだけであって,民主思想というのは,二千年前からある。孟子のなかに見事にある。そう考えると,もしかしたら,中国で現体制が倒されるとか,あるいは革命が発動されるときには,また孟子が持ち出されるかもしれないという気がします。」

それは,革命のない国にしてきた日本の尺度では測れない,という気がする。記憶で書くが,確か竹内好(だと思う)が,中国と日本では,時間の感覚が全く違う,と。つまり,あの国は,十年や二十年の単位では測れない,ということだ。多くの日本人が,その点を見誤っている。

参考文献;
松本健一『「孟子」の革命思想と日本』
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 05:13| Comment(0) | 書評 | 更新情報をチェックする