2014年10月30日

妄想


小路田泰直『卑弥呼と天皇制』を読む。

タイトルからして,嫌な予感がした。大和王朝は,卑弥呼の存在を知らない。中国史書からその存在を知って,帳尻を合わせようとして見事に破たんしている。にもかかわらず,両者を地続きとして,構想しているのではないか,と。その予感が,そのまま当たって,どういったらいいか。これだけ妄想を積み重ねると,まあ,一つの物語としても,笑うに笑えない。

著者は,はじめに,こんなエピソードを紹介している。

名だたる考古学者,古代史家のシンポジュームで,素人ながら,一つの質問をしてみた,という。

「なぜ古代日本のの中心(王権の所在地)は奈良にやってきたのか。しかも盆地の南部にと。」

すると会場の空気が一変し,「そんなことわかるわけがない」と嘲笑された,という。しかし,笑った方も笑った方だが,問う方も問う方だ。黄河文明は,なぜ黄河なのか,と問うのに似ているからだ。理由はつけられても,それを確かめようはない。そこにある意味をいくら考えても,その時代の意味には届かない,それだけのことだ。

で,反撥した著者は,その理由らしいことを語っているが,それは興味のある方が,読んでいただけばいい。しかし,それは検証できない。検証できないことは,妄想に過ぎない。

しかし,著者は,冒頭から,妄想(仮説と呼び換えても同じだ。仮説も検証されなければ妄想に過ぎない)を積み重ねる。

『魏志倭人伝』でいう,卑弥呼は,

「鬼道に事え,能く衆を惑わす」

という,その「鬼道」とは,

「一般にはシャーマンとして神に仕える能力のことだとされているが,それは間違いである。祖先に仕える能力のことであった。」

と書く。しかし,「間違い」とする根拠はどこにも示されない。示されないまま,この仮説(妄想)を前提に話を進めてしまう。

「『鬼』とは神のことではなく,祖先のことだからである」

と。その言を証明するつもりなのか,『日本書記』の,倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)を持ち出す。その根拠がよくわからないが,こう説明する。

「『やまとととびももそひめ』を一音だけ改めれば『やまとほととびももそひめ』となる。漢字で書けば,『倭火所火百襲姫』といったところか,天皇の代替わりのことを日嗣というが,そのことを前提にすれば,この名は大和(倭)の王家の火を百台受け継いでいく最初の女王ぐらいの意味になる。血統でつながっていく王家の初代といえば,まさに祖先に仕える能力を手にした最初の王ということになる。」

ここに見られるのは,明らかに,卑弥呼と倭迹迹日百襲姫を同一人としているという,暗黙の前提に立っているとしか見えない。しかし,どこで,それは論証されたのか。

倭迹迹日百襲姫のエピソードを,『日本書紀』から拾ったうえで,

「ということは倭迹迹日百襲姫も,祖先に仕える能力において人並み優れた女性であったということになる。『鬼道に事え,よく衆を惑わ』せた卑弥呼像は,倭迹迹日百襲姫と重なり,それによってより鮮明になるのである。」

と書くが,それは,倭迹迹日百襲姫のことであって,卑弥呼のことではない。にもかかわらず,

「記紀でいうところの崇神天皇の時代(倭迹迹日百襲姫の時代でもある)は,まさに大和王権の国家祭祀の対象が,自然神から祖先神へと移り行く過渡期の時代であったと思われる。その時代の移行を担ったのが,多分,倭迹迹日百襲姫であり,卑弥呼だったのである。
卑弥呼は祖先崇拝の時代を切り開いた最初の王だったのである。」

となり,いつの間にか,倭迹迹日百襲姫について論証したことが,そのまま卑弥呼に当てはめられている。え,卑弥呼は崇神天皇の時代の人なの,と絶句する。

そして,さらに読み進むと,

「社会が身分化すれば,まつるべき神も自然神から祖先神に変更されなければならなかった。自然数しいから祖先崇拝への転換はかくて起こり,卑弥呼=倭迹迹日百襲姫は生まれたのである。」

と,とうとう,卑弥呼=倭迹迹日百襲姫になってしまう。

どうやら,先に結論ありきで,卑弥呼=倭迹迹日百襲姫を前提にして,記紀を読むから,そう見えてくる,ということに他ならない。

記紀を歴史書として読むのはかまわない。しかし,卑弥呼=倭迹迹日百襲姫を前提にして読んだとすれば,それは,史料の読解ではない。論点先取りというか,初めに結論ありきでしかない。

たとえば,倭迹迹日百襲姫の墓と想定される箸墓も,ここでは,そう断定し,しかも,イコール卑弥呼の墓として,話が進められる。

たとえば,倭迹迹日百襲姫は大物主神と結婚したが,神が夜しか現れず,姿を見せないので,朝にも姿を見せ欲しいとせがむ。すると,神は,「吾形にな驚きましぞ」といって,翌朝姫の「櫛笥」のなかに「美麗しき小蛇」となって現れた。それを見て,つい神の戒めも忘れて叫んでしまい,神は,恥じて御諸山に登ってしまった。姫は自分のしたことを恥じて,「箸」で自らの「陰」を突いて死んだ,というエピソードを,

「卑弥呼の行ったことは,結局彼女自身が死ぬことだったのである。自然死ではなく,悲劇的な死を遂げるということだったのである。」

とまとめる。意識的か無意識的か知らないが,倭迹迹日百襲姫を卑弥呼にすりかえている。そして,

「そのために彼女の行ったのが,死後自らのために巨大な前方後円墳を造らせるということだったのである。」

と,箸墓の主は,卑弥呼にすり替わる。まず,箸墓,倭迹迹日百襲姫の墓も推定である。まして,卑弥呼の墓とはまだ到底確定できない。しかし,それをあっさり,すり替えを通して,確定し,いつの間にか,卑弥呼=倭迹迹日百襲姫であるかのように導いていく。そしていう。

「『卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩,徇葬する者,奴婢百余人』…の『径百余歩』の巨大な『冢』は,ほぼ間違いなしに箸墓のことであった。」

と。まあ,ここまで行けば,後は,何を言っても許される。たとえば,こうだ。

「ちなみに,だから箸墓は前方後円墳というあの独特の形をしていたのである。人形をしたあの形は,箸墓建設の目的が亡き卑弥呼の可視化,偶像化であったことの一つの証拠であった。箸墓が,前方後円墳とは言いながら,前方部が末広がりのバチ型をしているのは,卑弥呼が女性だったから,その裳姿を象ったものと思われる。」

妄想もここまでいくと,面白いと言えば,面白いが,これでは嘲笑への反証どころか,嘲笑を重ねられるだけである。

この先にあるのは,記紀を歴史書として見よ,という戦前の復活である。著者はこう書く。

「『古事記』『日本書紀』をもとに,三世紀よりもさらに遡る歴史を描くことも可能なはずである。」

どうやらここが,隠れた狙いらしいのである。その延長にあるのは,紀元節の歴史化である。だから,

「日本は最初から世界文明の形成に参画している。」

と豪語する。いやはや,ここまでいくと,笑ってはいられない。こんなところにまで,夜郎自大が浸透しているのである。

参考文献;
小路田泰直『卑弥呼と天皇制』(歴史新書y)





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2014年11月03日

思想


佐藤正英『日本の思想とは何か』を読む。

著者は,冒頭でこう書いた。

「日本の思想は,のっぺらぼうの布筒のようなもので,ときどき流行する思想が,構造化されないままに,雑然と同居している。欧米諸国におけるキリスト教(ヘブライズム+ヘレニズム)に対応する座標軸が見出せない。日本の思想を通底している持続低音は『つぎつぎになりゆくイキホヒ』であって,祭祀の究極の対象は標榜とした時・空の彼方に見失われている,と丸山眞男は説いている(『中世と反逆』)。優れた洞察であるが,日本の思想の一面に過ぎないのではなかろうか。」

と。では,何をここで提示されたのか。

「日本の思想は,否みようのない私たちの思想である。日本の思想を対象化するとは,私たち自身の思想を捉えることでなければならないであろう。」

その通りである。そして,書き手自身の思想が,そこで問われる。

「日本の思想は奥が深い。『古事記』や『古今集』,説経節,小林秀雄などにおいて語られ明かされている日本の思想を捉えかえす」

という。そして,

「本書は,日本の思想に身を置き,日本の思想を基軸にして倫理学を構築することによって,日本の思想を内から捉えることをめざしている。」

と。そして,

「倫理学とは,ひとである生きものであるところの私たちが,ただ生きているのではなく,よくいきようとする衝迫に駆られて,事物や事象,またもう一人の己である他者に出会うありようを,総体として明かし,対象化する」

という。まあ,

いかにいくべきか

を突き詰めて考える,ということに,つづめてしまえばなる。しかし,自己完結させるのではなく,おのれの生きている文脈の中で,それを考えようとすれば,

人はいかにいくべきか,

だけではなく,

この世の中はいかにあるべきか,

この世界はいかにあるべきか,

そのために,

おのれはいかにあるべきか,

に至るほかはない。日本は,周縁の後進国であり,常に,中国の文化圏の中で,そして明治以降は,西欧文明との格闘の中で生きていかざるを得ない。

そのとき,日本の思想という限り,その最先端で,闘ってきた思想が例示されなければならない。しかし,本書にあるのは,

神話から始まって,和歌,仏法,儒学,

と,ただ流れを追っているとしか思えない。そして,その流れを辿るだけでは,

のっぺらぼう

としか印象に残らない。個人的に言えば,尖った思想家はいたはずだ。それを,ただ思想の流れを著述する文脈の中に埋もらせて,顕現させるのを怠っている。思想という限り,しかも『日本の思想』という限り,世界に伍する尖りがいるはずだ。しかし,

伝承としての倫理思想

として,

〈もの〉神の祀り
花鳥風月
仏の絶対知
武士

文明

と並べたトピックを見る限り,どこにも尖りがない。たとえば,仏法に絡めて,聖徳太子を挙げているが,十七条の憲法そのものが剽窃の寄せ集めであり,有名な,「和を以て尊しとなす」は,『論語』『礼記』から持ってきているのであり,これを思想の中に取り入れること自体が,いささか,著者の見識を疑う。

逆に,それなら,たとえば,

紫式部
親鸞
荻生徂徠
本居宣長
夏目漱石

と並べてみれば,思想の尖り度が違うはずである。所詮,思想は,個のものである。おのれの,

いかにいくべきか

を突き詰めた果てにしか,思想としての昇華はこない。この著者は,そのぎりぎりと追い詰めていく思想のエッジ,というか断崖の縁が見えていない。

むしろ,こう問うべきだ。我が国に,

世界と拮抗できる思想はどこにあるか,

と。ぼくなら,

親鸞

にまず指を折る。大乗の他力を極限まで突き詰め,ついに,往生のために祈ることを計らいとし,

すべての計らいをてばなし,

「善人なほもて往生をとぐ,いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく,『悪人なほ往生す,いかにいはんや善人をや』。この条,一旦そのいはれあるに似たれども,本願他力の意趣にそむけり。」

とまで言い切る,宗教そのものの放棄に至る極限に至りついた。これ程の宗教家は,世界にはいない。

参考文献;
佐藤正英『日本の思想とは何か』(筑摩選書)






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2014年11月08日

敗者


渡邊大門『東北の関ヶ原』を読む。

関ヶ原の合戦は,関ヶ原での戦いに焦点が当たり,それ以外の地域での戦いには関心が払われていない。しかし,本書では,主人は,

上杉景勝

そして,

「『直江状』『小山評定』等々の検討を含め,『東北版 関ヶ原合戦』の全貌を明らかにすることにしたい。」

という。圧巻は,直江状の真贋検証である。

越後から会津120万石に移封され,領国整備に余念のない中,上洛をしない景勝は,謀反を疑われる。そんな中での,直江兼続の手紙,いわゆる直江状である。

家康の意向を受けた,西笑承兌(直江兼続とは旧知であり,それ故兼続宛てに手紙を出した)からの手紙への返書である。

西笑承兌の手紙は,景勝の上洛が遅れていることについて,家康が不審に思っており,上方では不穏なうわさが流れている,景勝の神指原の築城,越後河口への箸の構築などを咎め,それについて(兼続が)意見しないのは間違っている,と嗜めた上,以下のとを問うた。

①景勝に謀反のことがなければ,霊社の起請文で申し開きすることが家康の内意である。
②景勝が律儀であることは,家康も承知しているので,釈明が認められれば問題はない。
③近国(上杉に代わって越後に移封された)堀監物が景勝謀叛について報告しているので,きちんと陳謝しなければ釈明は認められない。誠意を見せること。
④この春,加賀の前田利長も謀反を疑われたが,家康の道理によりおさまった。これを教訓にすること。
⑤京都で,増田長盛,大谷吉継がすべてを取次いでいるので,釈明は両氏に伝えること。榊原康政にも伝えるとよい。
⑥景勝上洛が遅いためこのようになったので,一刻も早く上洛すること。
⑦上方で取沙汰されているのは,会津で武器を集めていること,道や橋を造っていることだ。家康が上洛を待っているのは,高麗へ降伏を促す使者を遣わしているからで,降伏しなければ再出兵もありうる,その相談もあるので早く上洛してほしい。
⑧愚僧と貴殿とは数年来親しく付き合ってきましたから,今回のことは笑止と考えています。会津存亡のとき,思案を巡らせることです。

原本はないが,その写しが残っている。直江状は,これへの返書なのである。この直江状が有名なのは,手紙本文の追而書きである。

急いでいるので,一度に申し上げます。家康様または景勝様が下向するとのことですので,すべては下向したときに決着いたしましょう。

とある。これは,

そのときは闘って雌雄を決しましょう

という意味として,家康への挑戦状として受け取られ,家康を挑発している感じであり,これが,

直江状

を世に知らしめた。しかし,

「ただ,追而書は一部の軍記物語や書籍に見られるもので,現在では実際に書かれていたか疑問視されている。」

ものの,肝心の直江状をどうとらえるかは,論争が続いている。その中で,著者は,白峰旬氏に拠りつつ,次のように結論づけた。

①もっとも成立年の早い下郷共済会所蔵文書中の「直江状」(寛永十七年)を用いるべきで,それより新しい写しは,字句の異同や修飾語が付加されている。
②本来の「直江状」は,語調の整わない箇所がある荒削りなものであったが,のちに転写をかさねるうちに美文調に変化していった。
③「直江状」は,西笑承兌書状への返書であり,内容的に照応している。

ということで,信憑性が高い,と見る。そして,

「結論から言えば,『直江状』とは『兼続の家康への大胆不敵な挑戦状』ではなく,『上杉家と堀家の係争の事案に関するものであった』ということになる。」

「つまり,堀氏が上杉氏の動きを報告し,それを一方的に受け入れた家康に対して,上杉氏は釈明をしている」ということになる。そして,「兼続が求めているのは公正な裁定であり,それが受けいれられないならば上洛できないという趣旨」となる。

直江状の時代は,

「書札礼つまり書状の形式・文字などについて規定した書札礼が徹底していた。たとえば,相手の身分(官位や家格など)によって用いる文書を変えるなどである。…当時の人々は,相手の身分を頭に入れながら,礼を失しないように書状を描いた。逆に,書状で用いられる字句や文書がふさわしくないと,偽書(あるいは捏造・改竄)と疑われても致し方ないといえる。」

その意味からみると,直江状に後年手が加えられていることは確かである。

「西笑承兌書状を確認すると,理路整然と順序立てて,兼続に必要な情報を的確に伝達している」のに対して,「直江状」は,何度も同じ釈明を繰り返している。「普通の感覚であれば,相手方の質問に対して,一つひとつ順番に対応する形で応答することだろう。」と疑わしい点は,多々あるが,しかし,

「筆者は原『直江状』なるものが存在し,それにさまざまな文言の修飾や付加がなされ(改竄・捏造というべきか),今に伝わる『直江状』が存在したと考える」。

ただ,

「改竄・捏造という類のものであるのは確かであり,『直江状』…(は)歴史史料としては一次史料同等の価値があるとは考えられず,用いない方が無難なのではないだろうか。」

と結論づけている。

結局景勝は上洛できなかった。家中への手紙で,景勝は,こう言っている。

「今度上洛が実現しなかったのは,第一に家中が無力であったことである。第二に,国の支配のため,秋まで上洛を延期してほしいと奉行衆に回答したところ,重ねて逆心の讒言を信じて,若し上洛のことがなければ,会津を攻撃するとの回答があった。こちらには考えがあるとはいえ,もともと逆心の気持ちはないので,すべてを擲って上洛する気持ちを固めた。あわせて讒人(堀直政)究明のことを申し入れたところ,ただ上洛せよとのことで,それさえ期限を区切って催促するばかりである。上洛はどうしてもできないのである。何通かの起請文は反故にされ,讒人究明もかなわなかった。」

と。結果として,家康は,五万五千を率いて会津攻めに踏み切る。後は,御承知の通り,その期に,石田三成が,上方で挙兵し,急遽西へ戻ることになる。

直江状が話題になるのは,三成との事前密約があることを前提にしている。しかし密約はなかった。そのしるしが,三成の真田昌幸宛ての書状である。

「私(三成)から使者を三人遣わしました。そのうち一人は昌幸が返事を書き次第,案内者を添えて私の方に下してください。残りの二人は,会津(上杉景勝・直江兼続)への書状とともに遣わしているので,昌幸の方から確かな人物を添えて,沼田を越えて会津に向かわせてください。昌幸のところに返事を持って帰ってきたら,案内者を添えて,私まで遣わしてください。」

この冒頭で,挙兵に当たって事前に知らせなかったことを詫びている。

「このような事情を看取すると,この時点で昌幸にさえ西軍決起の情報が届いていなかった様子がうかがえる。」

更に翌月,昌幸宛ての三成の手紙。

「とにかく早々に(昌幸・信繁から)会津に使者を送り,公儀(秀頼)が手ぬかりなく三成と相談していることをお伝えいただきたい。言うまでもないことですが,お国柄もあり,景勝は何かと気になさる方です。しかし,このように昵懇の間柄になれば,さほど気にすることはないので,物腰柔らかく景勝に気にいられるよう申し入れ,成し遂げることです。」

結局関ヶ原での敗北をうけて,景勝は,120万石から30万石に減封され,幕末まで加増されることはなかった。

敗者は,すべての責任を押し付けられる。石田三成,安国寺恵瓊,そして直江兼続もまたしかり。兼続の「直江状」の挑戦的な文面への書き換えは,

「兼続が家康に反抗的でなければ上杉家は没落しなかった」

という恨みが籠っているのかもしれない。

それにしても,敗者には,松浦静山の名言(野村克也氏のというほうが有名かも),

勝ちに不思議の勝ちあり,負けに不思議の負けなし。

が的を射ている。

参考文献;
渡邊大門『東北の関ヶ原』(光文社新書)





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ラベル:敗者
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2014年11月10日

秀頼


福田千鶴『豊臣秀頼』を読む。

「天下人の血筋を誇りながら,凡庸な性格が豊臣家を滅亡させた」

と言われることが多い,豊臣秀頼に焦点を当てた。

「父は天下人豊臣秀吉。母は戦国大名浅井家に生まれた茶々(淀)。ゆえに,祖母は天下人織田信長の妹市であり,信長は大伯父にあたる。」

血筋から言えば,貴公子である。しかし,過去,彼は,あまり好意的には受け止められてこなかった。

「秀頼の死から四百年となる現在でも,秀頼や生母茶々に対する人々の視線は陰湿で悪意に満ちており,徳川贔屓の江戸っ子でなくとも,凡庸な秀頼と淫乱な悪女茶々の所業によって豊臣氏は自ら滅亡したのであり,自業自得である,というような評価が根強く残っている。」

という著者の,秀頼復権の書である。

大坂夏の陣で,細川忠興は,

「秀頼は大阪小人町近辺まで出陣し,先手は『伊藤丹後・青木民部組中』であった」

と書状で伝えている。この地は,

「徳川方の小笠原秀政・忠脩父子が討死し,弟の忠政…も瀕死の深手を負った激戦区である。物語を辛口で評することで知られる忠興が,激戦区への秀頼の出陣を疑わなかった点は,秀頼が大阪城本丸の奥に隠れて何もしなかった軟弱者であるかのようなイメージを否定する…」

と著者は書く。『大坂御陣覚書』によれば,

「秀頼は,梨子地緋縅の甲冑を着し,天王寺へ出張するため桜御門を出て,父秀吉から相伝した金の切割(縁を切り裂いた幟)二十本,茜の吹貫(吹き流し)十本,玳瑁(鼈甲亀)の千本槍を押し立てて。太平楽と名づけた七寸(約二百十二センチ)の黒馬に梨子地の蔵を置き,引き立てていた。」

という。秀頼は,六尺五寸(百九十七センチ)という大兵だった(『明良洪範』)というので,さぞや見栄えがしたであろう。小柄であった秀吉の,初期の合戦,宇留間(現在の各務ヶ原鵜沼)攻めの時の様子を,『武功夜話』ではこう書く,

木下藤吉郎様の出立は,黒かわの尾張胴,黒鹿毛の馬に跨り,御馬印は麻一枚,薄萌黄,御印は無し。」

と。天下人の御曹司の姿は,天と地と程違う。

「秀頼の教養は,当代一流の学者を招聘して習得し,高められた。慶長二年(1597)五歳の折に早くも『南無天満大自在天神,住吉大明神』の神号を墨書して残しているが,それ以後も『豊国大明神』をはじめ,『龍虎』そのほか多数の筆跡があり,神号仏号・古歌・漢詩だけでも相当な達筆が現存している。和歌・連歌・詩歌・漢詩等をはじめ,貞永式目・憲法・二十二代集・職原抄・禁秘抄・徳失鏡・貞観政要・三略・呉子・四書五経等,法制・文学・儀式・故実・兵学・儒学等に及んだ…。」

もちろん武芸に関しても,

「肥満のために馬にも乗れなかったかのように伝えるものもあるが,天下人を狙う者として,そのような育てられ方はしなかっただろう。事実,弓術の六角義弼,槍術の渡辺内蔵助糺,薙刀・棒・長刀を使う穴沢盛秀,居合術の片山久安が秀頼のそばに仕えており,彼らから『武』に対する教育をうけていたと考えられる。ほかにも,鷹狩・茶道にも親しんでいたことがわかっている。」

そして,十四歳の時,『帝鑑図説』を復刻出版した。

「慶長十一年三月に西笑承兌が寄せた『帝鑑図説』跋文には,『秀頼公が朝夕にこの書を手にして読み,本書の出版を命じたもの』と出版の経緯を説明し,『妙年に及ばずして学に志し,老成人の風規がある』と秀頼の人となりを称賛している。」

これは,家康が,同じ時期に,家康が「伏見版」「駿河版」といわれる政治学の書籍を古活字本として出版していたから,「秀頼版」の出版で,家康に抵抗するという秀頼の意思と同様,『帝鑑図説』が,明王朝で十歳で即位した万暦帝の帝王学教育のために編纂された例になぞらえて,

「為政者として秀頼を立てていく」

ということを表明する秀頼周囲の人々の思惑もあったと,著者は推定する。

こうした秀頼の真骨頂が発揮されるのは,「勢いのある堂々とした書風」と「格調高い気品を感じさせる」家康への書状である。

原文は,

今度若鷹兄鷹
一連弟鷹二聯拜
受被思召寄御懇
意之至難 申尽
別而自愛無比類
存候猶尊顔之時
御礼可令申候
 卯月六日 秀頼

大御所御方にて
 誰にてもご披露

読み下し分は,

今度,若鷹,兄鷹一連・弟鷹二連を拝受,
思し召し寄せられ,御懇意の至り,
申し尽くし難し,別けて自愛比類なく存じ候
猶尊顔の時,御礼申せしむべく候
恐々謹言

著者は,これは,お礼にかこつけた秀頼の挑戦状と見る。

「書状の形式は,家康の側近に披露を依頼する形式の披露状という丁寧なものだが,子細に見ると,さまざまな書札礼上の工夫がなされているようにみえる。」

として,次のように分析する。

「まず,敬意を示すべき相手の行為を表す用語の前には,一字程度の空白をあける闕字という方法が用いられる。この場合は,家康の好意を示すのは,三行目の『被思召寄』の箇所である。ここに闕字を用いるならば,「被 思召寄」というように,『思』の地の前に一字程度の空白がなければならないが,それがこの書状にはないどころか,意識して詰めて書かれたようにみえる。」

他方,

「秀頼の行為を示す四行目『難申尽』は,『難 申尽』となっていて,心持ち『難』と『申』との間に,闕字があるともないともいえないような微妙な空白がある。さらに六行目には秀頼の行為を示す『存候』があるが,これも五行目の字配りを整えて改行し,自らの行為を示す用語が行頭にくるように工夫されている。行の途中で改行すれば平出という書式になるが,それでは目立ちすぎるので,自然な形で『存候』が行頭に来るように字間を整えたものと考えられる。」

と。表向きは披露という厚礼の形式をとりながらも,

「秀頼自らの行為には敬意を表し,家康の行為には敬意を表さないという書札礼である。…これを一瞥したときの家康の表情はいかばかりだったろうか。」

と,著者は想像する。この文書の意図を詳らかにするには,

「七行目の『御礼可令申候』を『御礼を述べます』と訳したのでは,秀頼の意図を十分に伝えるものとはならない。」

として,

「ここは,『御礼を述べます』ではなく,『御礼します』という,少し広い意味で訳す必要がある。加えて丁寧語の『令』があるので,『御礼をします』を丁寧に訳せば,『御礼を致しましょう』になる。」

とこだわる。それは,

「秀頼と家康の間では,贈答を詳しくみると,そこには互酬関係が成立していないことに気づくからである…。贈答儀礼に関しては,進物を贈られたら相応なものを贈り返すという互酬の関係(両敬)が成立しているかどうかが重要なカギになる。返礼がない場合は片敬であり,返礼をしない側が上位,進物をしただの側が下位に置かれる。」

両者の関係を見ると,たとえば,二条城では両者の互酬関係が成り立つのに,

「大坂城では,家康が派遣した名代に対する互酬の関係は成立しているが,家康が贈った銀子千枚に対する秀頼の返礼が確認できない。」

つまり,大坂城における贈答儀礼には,秀頼は,家康への返礼をしない片敬で対応したのである。この大坂でのやり取りの四日後が,上記の手紙である。

「本来ならば,大坂城への名代派遣や家康の進物に対する礼を述べるべきところだが,そのことには一切触れずに,次回お会いしたときにこちらの御礼を致しましょう,とやり返したのである。」

つまり,

「家康に直接会ったときに返礼すると伝えることで,近く第二戦をいたしましょうとの宣戦布告である。再度の会見で秀頼が家康のもとに出向く可能性がないとはいえないが,返礼をしない秀頼の態度をみる限り,家康が大坂城に挨拶に出向くように求めているようにみえる。」

と。会見を終えた家康は,腹心の本多正純に,

秀頼は賢き人なり

と言ったと言われる。しかし,著者はこう書く。

「ここで秀頼が家康に本気で詰めの勝負に挑む決意をさせてしまい,三年後の大阪冬の陣の引き金を大きく引いてしまったことは,若気の至りとはいえ,爪を隠し通せなかった秀頼の勇み足だったといえなくもない。」

しかし,考えてみれば,家康の裔,徳川慶喜は,鳥羽伏見の敗退を知ると,おのれひとり側近とともに,部下を見捨てて江戸へ逃げ帰った。それに比べれば,秀吉の子,わずか二十一歳の若武者は,父とおのれの名誉は守っているのである。

参考文献;
福田千鶴『豊臣秀頼』(吉川弘文館)





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2014年11月12日

パフォーマンス


佐藤綾子『非言語表現の威力』を読む。

どうも,一読の印象は,「パフォーマンス」「パフォーマンス学」という言葉で受けるイメージとは異なって,本書のほとんどは,表現力,つまりは,プレゼンテーションや,スピーチ,コミュニケーションといったところに矮小化されてしまっている気がしてならない。

もともとパフォーマンス学というものが何たるか知らないくせにと言われそうだが,それなら単にコミュニケーション学というはずである。

さて,まあ,閑話休題。

本書の目的は,「最高の自己表現力」を身につけていただくために,

「人間の自己表現の基本的仕組みについて」
「私たちの言葉が相手にどのような構造によって伝わるか」
「『非言語表現』のメッセージ伝達における『自分をどう見せるか』の方法」
「『自分の気持ちをどう言葉で話すか』という『言語表現』の仕組みと技術について」
「好感的対話を続ける方法」

という構成で語られていく。やっぱり,パフォーマンスではなく,あくまで,自己表現らしい。

しかし「パフォーマンスの概念」図を見ると,人生の,

オンステージ

バックステージ

にわけ,日常生活を,

舞台

と言い,そこで社会の中での役割を演じる

パフォーマー

として生きている,その背景に,

自己分析のための心理学
言語訓練のためのスピーチ・コミュニケーション学,
自己の演技力養成のための演劇学

が必要といい,さらに,世阿弥の,

我見(自分の目)
離見(観衆の目)
離見の見(最高の自分を見せていく見せる目)

まで持ち出す。しかし,ここで言うパフォーマンスは,結局,

スピーチ

プレゼンテーション

演説

といった,設えられた(というか特化された)舞台での,魅(見)せる自分の演出ということに尽きるらしいのである。

それはそれでプレゼンテーションやスピーチのスキルとして有効には違いないが,そこに焦点をあてるために,そこでどんなに魅力的なスピーカーでも,その舞台を降りた人生という舞台で,化けの皮が剥がれれば,それは所詮化粧に過ぎないのではないか,という疑問は終始つきまとう。

筆者は,安倍首相のスピーチや五輪のプレゼンを絶賛する。それ自体は否定はしないが,そこで演じられたものが,結局噓であっても,演じたもの勝ちなのであろうか。

どう自分を見せるか,伝えるか,

の重要性を強調し,そのスキルを具体的に説明すればするほど,反面教師として,

安倍首相のスピーチという舞台から降りた,議会での答弁,弁舌,さらにその弁舌の背景にある現実,

を重ねてみるとき,それに欺かれている人もいるだろうが,ここで言うパフォーマンスが,その程度の,

その場でとにかく聴衆を魅了すればいい,

という程度のことだとすれば,それはパフォーマンスではなく,

弁論術

に過ぎない。孔子の言う,

言は必ず信,行は必ず果,

と言っているのは,そんな見せかけのパフォーマンス(悪い意味で「パフォーマンス」というときのニュアンスを思い浮かべればいい)ではないはずだ。本当のパフォーマンスというのは,

人生という舞台で,

担っている役割をどう演じているか,

ということなのではないか。著者が挙げる,

安倍首相のプレゼンテーション,スピーチ,

オバマ大統領のスピーチ,

ヒトラーの演説,

どれをとっても,その場でのパフォーマンスに限定すれば,確かに優れているかもしれない。しかし,その人が,演じている,あるいは演じなくてはならない,

社会的役割

というパフォーマンスと対比しなければ,本当には,その是非,可否の評価は,不十分なのではないか。それがなければ,かつてギリシャの,

議会,法廷,公衆の面前などにおいて,聴衆を魅了・説得する,あるいは押し切るための,実践的な「雄弁術」「弁論術」「説得術」としての,

レトリック,

であり,悪い意味の,

詭弁家
ソフィスト

と同じことを薦めているようにしか見えない。

もし,その程度のパフォーマンスが,「パフォーマンス学」の領域なら,弁論術と言い替えたほうがいい。

ふと思い出すのは,『孟子』の,

恭者は人を侮らず,儉者は人より奪わず,…悪んぞ恭儉と為すを得んや。恭儉は豈声音笑貌を以て為すべけんや。

を思い出す。恭敬でつつましい人という人柄が,見せかけの言葉つきや笑い顔でつくろえるものか,と。しかし,繕えるのだろう。プレゼンで,明らかな噓を真実として押し通したのだから。そう考えて,パフォーマンス学を学びたいと思うか,胡散臭いと,遠ざかるかは,人それぞれ,生き方,価値観次第だろう。その言に勝敗が短期でついても,所詮,と思うのは,僕の選択に過ぎないのだろう。

ところで,著者の言う意味のパフォーマンスの延長で,第一印象を決めるものとして,

アルバート・マレービアン(おなじみの表記だと,アルバート・メラビアンになる)

の,

ヴォーカル38%
ヴィジュアル(著者は,正確には,「フェイシャル」だと訂正している)55%
ヴァーバル7%

を,日本人対象に,自分の新たな集計で,

コトバ8%
声(周辺言語)32%
顔の表情60%

とし,

「人柄は,二秒でわかる」

といい,そのこつを,ズレを見るのだとして,

第一は,表情。表情が表している感情と声の調子のズレ。
第二は,顔の上下が表している感情のズレ。目元と口の周りのギャップ。
第三は,顔の上半分と下半分の筋肉のズレ。

を挙げる。名人芸にはかなわないが,しかし,人は,一瞬で生きているのではない。

パフォーマンス

を,その場,そのときの,スピーチに限定することで,作りあげられるものと,人生という舞台での素とのギャップの方が,僕には大事に見える。焦点を当てている部分が違う,と言われそうだが。

最後に苦言。「パフォーマンス」と「パフォーマンス学」を商標登録しているという。僕は,かつて,「ロジカル・コミュニケーション」という言葉が商標登録されているとして,厳重抗議を受けたことがある。当たり前に使っている「パフォーマンス」という言葉を,商標登録するという神経というか図々しさということ自体に異和感を懐く。自分が造語した言葉でもないのに,登録したもの勝ちののような所業は,この著者の品性を疑わせる。それを,おのれのパフォーマンスで糊塗できるのかどうか,失った人格的信用の前には,感情も理論も効かないというのが,(プレゼンテーションの)LEP(Logos Pathos Ethos)理論ではなかったのか。

参考文献;
佐藤綾子『非言語表現の威力』(講談社現代新書)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)





今日のアイデア;
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2014年11月15日

日清戦争


大谷正『日清戦争』を読む。

これを読んでいて,不意に頭をよぎったのは,

「そろそろどこかで戦争でも起きてくれないことには,日本経済も立ちゆかなくなってきますなあ。さすがに日本の国土でどんぱちやられたのではたまらないから,私はインドあたりで戦争が起きてくれれば,我が国としては一番有り難い展開になると思ってますよ。」

という発言をしたという,葛西敬之JR東海代表取締役名誉会長のことだ。そういう発想がどこから来るかというと,経営者としての努力ではなく,風が吹けば,といった他力を頼むやり方だ。それを,日清戦争をしたがっていた,軍部と政治家,実業家,ジャーナリストに当てはめるのは,正しいかどうかは知らないが,当初から,清国と戦争をしたがっていた,ということが不思議でならない。少なくとも,

「無理を重ねて開戦に踏み切った」

というのは事実なのだ。当初消極的だった伊藤博文首相も,煽る野党とジャーナリズム,世論に押されて,開戦に踏み切ることになる。この構図は,実は,対米開戦の構図にすごく似ている。似ているのは,

戦闘行為が始まってから宣戦布告した(対米戦は意図的に遅らせたが),

ということと言い,少なくとも,日本の政治,野党,ジャーナリズム,世論が,日清戦争の時を嚆矢として,夜郎自大な国になっていった気がしてならない。

そもそも他国の朝鮮を挟んで,あたかも自国の権益の対象であるように,(朝鮮の宗主国である)清国と競い合い,戦争の火種を捜していたように感じる。この挑戦に対する日本の姿勢は,

琉球

に対する姿勢と近似していたように感じる。強引に,琉球処分をし,(宗主国)清との朝貢関係を断ち切らせたのと同じ論法を,朝鮮に対して使おうとしていたように思える。

開国後,日清の貿易競争によって,外国産綿布の輸入,金地金や米穀・大豆の輸出急増で貧窮化した民衆による,東学農民の蜂起に,朝鮮政府が清への出兵要請したのを受けて,日本もそれに対抗して,(求められてもいないのに)出兵を決定する。しかし,この段階では,

「公使館及び在留邦人保護」

と,目的が限定されたいた。伊藤首相は,

「日清強調を維持しつつ清と交渉を行って朝鮮の内政改革に着手し,朝鮮を清と日本の共通の勢力圏にしようとし,清軍との衝突回避方針」

を取った。しかし,その出兵決定の閣議で,強硬派の陸奥外相は,

「日本も清国に対抗して出兵し,『朝鮮に対する権力の平均を維持する』必要がある」

と述べ,タテマエとは別に,

「閣僚のだれもが出兵の真の目的は朝鮮での清国との覇権抗争にあると理解していた」

のである。したがって,

「陸奥は日清開戦論者として行動し,川上操六参謀次長も開戦準備を進める。」

という状態で,それを煽るように,

「朝鮮への出兵が報道されると,新聞紙上に対清強硬論が掲載され,義勇兵送出の運動も始まった。国民の間で対清強硬論・開戦論が力を増し,開戦論者の背中を押す」

ことになった,という。一方の,清国の対朝鮮政策の責任,李鴻章は,開戦回避を図ったが,国内の主戦論の反対にあって,開戦も回避も,はっきりと意思決定できないまま

「一挙に大軍を送って日本軍を圧倒することで,あるいはまったく派兵しないことで,開戦を回避するという思い切った高等政策をとることができず,政治的・戦略的に拙劣な,小出しに増援部隊を送るという選択肢をとらざるを得なくなる。」

この援軍増派を,日本側は,

「清の対日開戦意図を示したもの」

と受け止め,開戦への扉を開くことになる。そして,豊島沖で,清国海軍と遭遇した日本の巡洋艦群は,発砲し,

豊島沖海戦

が始まることになる。日本側記録では,清国側が発砲して,戦闘が始まったときしているが,著者は,

「イギリスやロシアから,清に対する先制攻撃を控えるようにとの警告があったので,日本側は資料を改竄し,清の先制攻撃による開戦だと強弁した可能性がある」

と述べる。この戦闘は,「宣戦布告あるいは開戦通告以前に」攻撃したのである。これが7月25日。これより前,朝鮮では,「開戦理由を探せ」という陸奥の指示に従い,大鳥公使は,朝鮮政府に,「内政改革の具体的提案」を行っていた。しかし,朝鮮政府は,

「内政改革着手は日本軍撤兵後である,と撤兵を要求した。」

朝鮮の当然の要求に,

「改革の意思がないと判断した大島は,日本軍で応急を包囲して軍事的威嚇によつて要求実現を図る計画を立てた。」

陸奥は,それを容認したが,閣議では異論が出たため,陸奥は,

「正当と認むる手段を執らるべし」

と,曖昧に指示した。現地では,「外相の中止命令を無視して大鳥とすでに漢城にいた大島義昌混成第九旅団長が動」
き始めていた。そして,23日,

「歩兵第二十一連隊長武山秀山中佐が率いた第二大隊と工兵一小隊が,御前五時頃に応急の迎秋門から侵入,警備の挑戦軍と交戦のうえ占領し,国王を拘束した。」

翌二十四日,大院君の下で,新内閣が組閣される。著者は言う,

「後日,不都合な事実は隠され,ここでも歴史の書き換えが行われる。」

と。戦闘が,朝鮮国内と,海上で始まっている。未だ,宣戦布告はなされていない。そして,その宣戦詔書めぐって,紛糾する。

開戦対手国はどの国なのか,

である。

清国一国と戦争するのか,
清および朝鮮と戦争するのか,

しかし,清が先に宣戦上論を出したため,対抗して,

「戦争相手国を『清国』」

とする宣戦詔書が交付される。一体,何のための戦争なのか,誰のための戦争なのか,なぜ,ああも戦争をしたがっていたのか,実のところわからない。そして,結果として,徴兵された国民と,軍夫として徴用された国民が,多く死傷することになる。

当初の作戦方針は,

「黄海・渤海の制海権を掌握し,秋までに陸軍主力を渤海湾北岸に輸送して,首都である北京周辺一帯での直隷決戦を清軍と行う」

という短期決戦であった。しかし艦隊決戦の機はなく,結果として,年をまたぐ長期戦へと変わる。これに似た,甘い見通しの計画が齟齬をきたし,ずるずると現地の状況に引きはずられていくというシチュエーションも,のちに,日中戦争を通して,何度も目撃させられるのと同じことが起きた。

この間,朝鮮では,清国軍の敗走で,日本軍と清国軍との戦いの帰趨が,決しようとしていたが,親日派政権への抵抗が根強く,反日・反開国の第二次農民戦争が起きている。ここで日本軍は,

「できるだけ多くの東学農民を殺す方針」

をとり,川上参謀次長は,

「悉く殺戮せよ」

と命じている。一体何の権限で他国の国民を殺せと命じることができるのか。どういっていいか,その傲慢さは,この後敗戦まで続く。その心性が,またぞろ復活し始めているのは,ひょっとして,国民性なのか?

第二次農民戦争への(日本軍主導の)ジェノサイドによる犠牲者は,3万を優に超え,負傷後の死亡などを加えると,五万に迫る,と言われる。この正確な犠牲者すら分かっていないのである。

中国国内に侵攻した日本軍は,旅順攻撃で,さらに虐殺事件を起こす。ここでは従軍した欧米のジャーナリストと観戦武官が,それを目撃しており,

「11月21日の市街戦と翌日以降の市街の掃討で,日本兵が敗残兵を捕虜にせず無差別に殺害したり,捕虜と民間人を殺害したことを目撃して驚き,これを日本軍による虐殺として非難」

し,さらに開戦詔書で,

「戦争を戦時国際法を遵守して行うことを宣言」

し,世を挙げて,(たとえば,福沢諭吉が)

「文明国である日本と野蛮国である清の戦争」

といい,「文野の戦争」と言っていた日本側の宣伝に,疑問を呈した。

その後,講和全権大使として来日した李鴻章を襲撃したり,割譲された台湾で,それに反対して,独立を期した「台湾民主国」を殲滅していく過程といい,その後の朝鮮での閔妃暗殺といい,総てのやり方が,野蛮で,卑劣で,非人間的で,読み進のが苦痛であった。しかも,平然とその事実を改竄していくことと言い,これ以降,敗戦まで(いや,いまも続いているか)の日本の政治と軍の在り方を,日清戦争の前後で,あからさまに,象徴的に示している。

この事実を,われわれ日本人は,ほとんど知らない。

「大学の歴史学科一年生向け授業で,『第二次農民戦争』『旅順虐殺事件』『台湾民主国』についてアンケートを実施すると,予想した通り正解率は低かった。これらの歴史用語は,韓国や中国の日清戦争に関する歴史教育では必須であるにもかかわらずである。」

このことも,いまの日中韓との歴史認識に深くかかわる。単に,点としての事案(慰安婦とか南京虐殺とかといった)個々の「事件」の認識の差ではない。まさに,この明治以降の日本の東アジアでの在り方,関わり方という,「歴史」の認識の問題なのだ。中韓が「歴史認識」と言っている,この言葉の本当の意味を,僕も含めて,われわれは勘違いしているのではないか,と思い知らされる本である。しかも,これは本当は,単に「歴史」の認識の問題ではなく,「歴史」の事実の是非の問題ではないのか。われわれは,余りにも多くの事実を知らなさすぎる。

参考文献;
大谷正『日清戦争』(中公新書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年11月16日

信長像


神田千里『織田信長』を読む。

この著者の『島原の乱』には大変お世話になった記憶がある。そんなことで思わず手にした。それと,いくつかの信長本に,神田説の引用もあったことを覚えている。

既に信長については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/406501271.html

http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140828-1.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/400155705.html

等々,何度も触れた。上記の,

金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』

にも引用された,神田氏の信長論である。

革命児,

天下統一の野望

等々を,

織田信長観の『箱』

と,著者は呼ぶ。

「様々な学問上の成果の登場にもかかわらず,信長の『箱』は牢固として健在なのが現状である。」

とし,それを,「リセットする」必要がある,とする。で,本書は,

「いままでひろく知られてきた信長像を再検討してみたい。」

として,

第一に,本当に『革命児』であったか,を考えるために当時最大の伝統的権威である将軍や天皇に,どう対処したか,まずは,足利義昭擁立は,「天下を平らげんとする目的でなされたのか,また義昭は傀儡だったのか等々。ついで,天皇や朝廷にどう関わったのか。利用すべき単なるシンボルでしかなかったのかどうか。

第三に,「天下取り」の野望の持ち主であったのかどうか。

第四に,諸宗教勢力にどう対処したのか。

第五に,信長観の「箱」からでてみると,「従来注目されてこなかった」信長の一面を提示したい。

と狙いを挙げ,こう言う。

「歴史上の人物について考えることは,その時代について考えることでもある。この新たな信長像の可能性を通して,これまで注目されてこなかった,この時代の一側面を書きらかにすることが出来れば,望外の幸せである。」

と。将軍との関係については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/406501271.html

で触れたが,要点を触れておくと,

「流浪の身であり,軍事力の上では取るに足りない義昭が,当時の人々の間で…権威を保持していることは,現代人には理解しがたい。しかしそれがこの時代の,否応ない現実であった」

ということを前提にするなら,

「実質的な軍事力は信長側にあることが明白であるにもかかわらず,信長の行為はあくまで,,義昭への『参陣』なのであり,供奉であると,信長も義昭も認識していた」

ということ。

入京の主役は,「公方様の御上洛にただちに供奉する」と信長が書いているように,あくまで足利義昭である。「少なくとも世間への建前として,信長はあくまで,自分は足利義昭の上洛に従うお付の者であると公言」していた立場である。信長,義昭以外の第三者からみても,「この軍事行動の主役が足利義昭その人であった」ということ。

三好三人衆に,義昭が急襲されたとき,信長は,わずか十人前後の騎馬武者だけで,岐阜から駆け付けたが,「この人数では戦力として物の数ではない。独力で三人衆の攻撃を撃退した義昭の軍勢に比べて,ほとんど軍事的な意味はないといってよいであろう。にもかかわらず,信長は,一目散に義昭の許に馳せ参じたのだとすれば,信長の行動は将軍義昭への,命を捨てての忠義を自ら実践し,周囲へもアピールするという意味しかないといってよい。」このとき,尾張,美濃,伊勢,近江,若狭,丹波,摂津,河内,山城,和泉などの諸国から,八万人の武士が,信長上洛の知らせを聞いて上洛した,という。将軍にアピールしたのである。

信長と義昭が不和となったとき,五カ条の規定が作成されたが,一般には,信長が義昭に迫って将軍の実権を獲得し,傀儡化したとする証拠とみられているが,それでは,「なぜ,義昭の天皇や朝廷に対する業務の怠慢を信長はチェックできないのか,諸国の武将らに馬をねだるような御内書を,信長は検閲できなかったのか,信長の許可なしに不適切な論功行賞が成し得たのか,が説明できない」。

越前朝倉討伐は,「上意」による若狭国武藤討伐のためであり,それを背後で操っていたのが朝倉氏と判明したための越前侵攻というのが,「信長の言い分」であり,「姉川合戦も,戦場に足利義昭を迎えて,その上覧の下に行われるはずであった。」また「三好三人衆を討伐すべく行った出陣も,信長,公家衆と奉公衆,美濃衆らがまず出陣し,…足利義昭が出陣している。要するに,信長軍は将軍の軍隊として行動していた。」

朝倉・浅井氏と延暦寺とが和睦をしているが,ほぼ敗勢のなかで信長が和睦できたのは,「足利義昭の力が大きかったことは否めない。当初から義昭と信長との対抗関係を想定して,義昭が朝倉,浅井の蜂起の背後で糸を引いていた,という穿った見方もなくはないが,勘ぐり過ぎだとおもわれる。義昭は信長の後ろ盾として大きな力をもっており,信長にとっては,そうした意味で大事な主君だった。」

信長・義昭が決定的に決裂したのを示すが,「十七条の諫言」であるが,ここで述べているのは,当時の将軍に求められる資格である。「第一に天皇や朝廷に厚く奉仕すること。第二に首都である京都の領主として,家臣や京都住民の信頼にたる存在であること,配下の者への恩賞も処罰も公正なものであるべきこと,そして世間から芳しくない評判を受けるような真似はしないこと,である。」信長は,「義昭に,あなたは家臣や京都住民の尊敬に値する将軍ではない,と宣言したのである。」

信長は,義昭の離反を「御謀反」と表現しているが,その後も何度も,「公方様のなされようは言語道断であるが,君臣の間のことなので」と繰り返し,再三和睦をはかろうとした。「やはり織田信長は将軍の力を必要としていたのだろう。足利義昭に復帰の希望があれば,受け入れてよいとの意向を表明し,さらに義昭復帰が無くなった時点でも,その子供を代役に考えていたことが分かる。言い換えれば可能性のある限り,信長は将軍の臣下として振舞うという立場を追求していたと考えられる。」

そして,こうまとめる。

「実質的には実力で足利義昭を圧倒しているのに,主君を立てると主張しても欺瞞ではないか,と現代人には思えるところである。しかし中世には家来が実力行使により,自分の主張を主君に認めさせることが公然と行われていた。将軍に譲歩を迫るために,幕臣たちが軍勢を率いて将軍御所を包囲する『御所巻』が室町時代には存在した。織田信長が実力で足利義昭を圧倒したとしても,主君を重んじなかったとは必ずしもいえない。むしろ信長は,将軍をあくまで主君として立てる,というカタチで収めかった」

と。この将軍との関係性から伺えるのは,既存の権威をないがしろにしたり,傀儡として利用するというだけではない姿勢である。それは,天皇・朝廷との関係にもうかがえるはずである。

正親町天皇に,譲位を迫ったという言い方をされてきたが,「室町時代にあって,天皇の譲位の儀式は『室町殿』すなわち室町将軍家によってとり行われていた」のであり,応仁の乱以降,幕府の衰微に伴い,将軍家にはそれを行うことが出来ず,後土御門天皇以降,生存中に譲位できず,正親町天皇も,譲位が叶うとは思っていなかったのだろう。信長の申し出で,「後土御門天皇以来,望んではいたが実現しなかったのに,奇特なことであり,朝廷再興の時がきた」と喜んでいた,という。「信長は,足利義昭が将軍の役割を放棄した後に,その代役を買って出たのだと考えられる」。

軍事的威圧と解釈された馬揃えについても,当時の公家には,「お祭り騒ぎ」と受け止められていたし,正親町天皇自身が,「馬揃えの最中に一二人の使者を信長のもとに派遣して,『これほど面白い遊興をみたことはなく,喜びも一方出なかった』との言葉」を伝えており,そうみると,その後,左大臣に任命するとの申し入れに,「織田信長は,譲位の儀をとり行ってから,左大臣を受けたい」と回答したことの意味も,変わってくる。

伝統的権威を重んじる姿勢に鑑みるとき,「天下」の意味が,あらためて問われてくる。これも,すでに明らかにされているが,天下は,全国の意味ではない。

一つは,将軍それ自身,あるいは将軍の管轄する政治などか『天下』の語で表現されている。

二には,京都を含む五畿内(山城,大和,摂津,河内,和泉の諸国)を「日本の君主国」と呼び,その君主を「天下の君主」と呼んだ。

したがって,「天下布武」とは,「正統な将軍の足利義昭の威令が『天下』すなわち五畿内にいきわたること」であり,信長自身,「足利義昭が京都を回復してから『天下』は平和になった」と認識していた。

「天下布武」が,五畿内ということならば,それを越えた,対武田,対毛利,という戦いは,天下統一でないとすれば,何のための戦いなのか。

本書では,対毛利は,織田と毛利の境目戦争であり,対武田は,徳川と武田の境目戦争,と位置づける。

国郡境目相論

という藤木久志氏の説の援用である。境目については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/396352544.html

で取り上げたが,毛利との関係で言うなら,交渉相手であった安国寺恵瓊自身が,

「当毛利家と和睦すれば,平和になるのですから,天下を握っておられる方にとっては上分別というものでしょう」

と評価していた,という点から,毛利を打倒して中国制圧を考えてはいなかった,と著者は見る。ただ,少し疑問なのは,美濃にしろ,伊勢にしろ,近江にしろ,若狭にしろ,丹波にしろ,加賀にしろ,越前にしろ,いずれも以前の戦国大名は,ほぼ壊滅させられている。革命児のイメージから,今度は,余りにも逆に振れ過ぎているのではないか,仮に天下は,当初はそういう意図であったにしろ,どこかで変わったのではないか。でなければ,信長死後,秀吉の全国制覇に,地続きですんなりつながっていかない気がしてならない。

では,結果として,著者は,どんな信長像を提示しているのか。

「我こそ天下人,という野望を前提とする」見方から変えたのは,次のような信長像だ。

義昭が京都出奔後の毛利への手紙に,「将軍家のことは,総ての事について広く評議をおこない」とあるところから,「信長が諸大名との共存をめざし,合議の許天下のありようを決める」と宣言しているとみる。そして,甲斐平定後の天正10年に,関東諸大名に対して,「惣無事令」を発したことをもって,天下人としての将軍の役割である「和睦勧告」を果たそうとしていたとみる。後年,家康が,「信長御在世の時に候ごとく,各々惣無事尤もに候」という,北条に申し入れたのを傍証としている。

世間の慣習を省みず,自由闊達な天才児というよりは,「信長ほど世間の評判に細やかに気を使った人物は滅多にいない」というイメージである。

この点は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/406501271.html

で谷口克広氏も強調していた点だ。例の,十七箇条の諫言にみられる「足利義昭への非難は,恩賞が不適切なために,あるいはその裁定が不当であるために評判を落としている,元号が不吉だとの評判に耳を貸さない,この時節に兵粮米を売り,評判を落としている,宿直の若衆などに依怙贔屓すれば天下の評判はさんざんである,他人の評判をきにしないから『悪い御所』とよばれるのだ,と総て世間の評判を顧ない…!に集中している。」

勝頼が天神城の支援をしないで信濃国の評判を落とし,離反を招くと想定していた信長にとって,世間の不審を招いたのが佐久間信盛らの追放の原因ともしている。

さて,しかし,

「臣下に馬をねだるとは,主君としてみっともないからおやめください」と義昭に諫言した信長の脳裏に,若年の折,平手政秀の諌死を思い描いていた,

とまでいくと,少し,革命児から,逆方向に触れ過ぎの,あまりにも当たり前の信長像に見えてならない。

参考文献;
神田千里『織田信長』(ちくま新書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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2014年11月17日

天下


松下浩『織田信長 その虚像と実像』を読む。

著者は,史実にもとづいて信長の真実の姿を明らかにする,という課題の他に,「近江の中世から近世への過程をたどる」のを第二の課題としている。思えば,元亀の浅井・朝倉との死闘は,近江が舞台であったし,安土城も近江にある。

さて,本書の意図は別にしても,一番の特徴は,信長の目指したものをどう明確にしたかだろう。

まずは「天下」。

既にいろいろ指摘があるように,「天下布武」の天下は,その印文を推した相手,例えば,信玄や謙信や,輝元が「宣戦布告」とは受け取らない意味,つまり,

「天下布武という言葉は,信長の独善的な解釈ではなく,当時の共通した理解の上に成り立っているもの」

とする指摘は当を得ている。

たとえば,越前出陣に際しての手紙で,「今度之儀天下之為,信長為」と使っていたり,上洛出仕命令に,「禁中御修理,武家御用,其外為天下弥静謐」と使っていたり等々,

「当時の用例から,天下とは天皇あるいは将軍を中心とする伝統的社会秩序を内包する社会領域を指す言葉」

であり,

「具体的には京都を中心とする地域を指すと考えられる。」

当然,転化し,全国制覇ではなく,「京都を中心とした朝廷・幕府などの中央政治の再建」といった意味になる。つまり,義輝暗殺後の混迷した状況を,

「信長は義昭を奉じて上洛し,義昭を十五代将軍にすることによって幕府を再興し,中央正字の安定を図ることを目指ししていた」

と考えられるし,そう手紙の相手の戦国大名も受け止めていた,と見なすのが妥当である。だから,

「全国制覇などという荒唐無稽な夢物語」

ではあり得ない。それでは,手紙を見た対手に喧嘩を売っていくことしかならないのだから。

では義昭を追放して以降も,「天下布武」を使い続けるが,その意味はどう変わったのか。

それには,

「いまだ足利義昭が京都にいる段階では天皇-将軍というラインで『天下』成敗の権限が信長に委任されているが,元亀四年(1573)に足利義昭が京都を逐われてからも信長は『天下』という言葉を使用しており,将軍義昭の存在を欠いても信長が『天下』を成敗するという立場をとっている。この場合の論理については,…毛利輝元宛書状案に,『天下被棄置上者,信長令上洛取静候』との文言が見られ,将軍が天下を捨て置くからには,代わって,信長が上洛し,天下静謐を果たすと述べているのである。あくまで将軍の代わりに『天下』を成敗するという姿勢」

である,というところに見ることが出来る。

たとえば,長篠の合戦については,「今度三州敵悉討果,弥天下為静謐候」と述べ,荒木村重征伐に協力するよう指示した中川清秀宛ての朱印状では,「荒木事非我々一人,為天下無道族候」等々の文言に見られる。

著者は,こう書く。

「『天下』とは,あくまで天皇を中心とする世界であり,その平和を乱すものに対する成敗を,信長は自身の戦争の大義名分としているのである。かかる論理は上洛当初から一貫している。変化しているのは,上洛当初は将軍義昭を媒介とし,将軍より委任を受けるという形をとっているのに対し,将軍が京都を逐われてからは,それを自身の果たすべき責務と主張している点であろう。」

そして,その転機は,

「天正三年一一月に右近衛大将に任ぜられた」

ことと推定する。

「右近衛大将は常置の武官の最上位の官職であり,王朝の守護者としての地位にあたる。かかる官職を得たことが,将軍を媒介としない,天下委任の論理を制度上保証したのではないだろうか。」

この論理が,そのまま秀吉に使われていくことを思うと,結構有効な視点なのかもしれない。そうみたとき,同じ年の一一月に,織田家の家督を信忠に譲り,尾張,美濃の領国を譲ったこと,翌天正四年から築城が開始された安土城が,合戦の拠点ではなく,政治シンボルとして,天下人信長の城として,天下を統治する城として築かれ,さらに,直線の大手門,天皇の行幸を想定したこと等々と,つながっていくのである。

それは,逆に言うと,それまでの「天下」とは「天下」の意味が変った,ということなのであり,

「信長が天下統一を具体的に意識し始めるのは自身が天皇との直接結びつきを追求し始める足利義昭を追放して以降であり,さらにいうと天正四年の安土築城開始前後と考えられよう。」

と。その視点から見れば,

「信長の戦いの論理は一貫して天下静謐,すなわち天皇の平和を実現すること」

という名目であったと言っていい。これなら,秀吉の全国制覇,,九州征伐や小田原征伐の大義名分となった惣無事令ともつながる。

最後に近江について,著者は面白い指摘をしている。

「信長は近江の在地社会を温存しつつ,上級支配を展開したのであり,近江の中世を根本的に解体したわけではない。」として,こう述べる。

「近江の中世的在地社会が解体されるのは豊臣政権期,天正十三年の国割を契機としてのことである。豊臣政権のもとで大名権力が国替えを強制されるなか,在地領主たちも主君とともに在地を離れるか,武士を捨てて農民として土着するかの選択をせまられるのである。」

と。しかしである。

「それでも中世近江の自立性が完全に失われることはなかった。江戸時代において,地域支配の末端を担ったのは村落共同体であるが,それは中世の村落自治の伝統を受け継ぐものといえよう。近代においても明治初年の地方支配の再編の中で,大区小区政が採用されず,旧村の系譜を引き継いだ区制が施行された。そして現代において,滋賀県では地方文書が家文書ではなく区有文書として伝わっている地域が多い。地域の『おとな衆』が文書を年番で管理するこういう所有形態は,まさに中世近江の惣村における共有財産の管理システムを想起させる。」

その是非は,置いても,この在地社会のしぶとさには,脱帽である。

参考文献;
松下浩『織田信長 その虚像と実像』(淡海文庫)





今日のアイデア;
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2014年11月18日

ことば


白井恭弘『ことばの力学』を読む。

サブタイトルに「応用言語学への招待」とある。応用言語学は,主たる対象が外国語教育であったものが,現実社会のあらゆる場面で重要な役割を果たしている言語についての,「現実社会の問題解決に直接貢献するような言語学」なのだという。

その意味では,実践的なもののはずだが,

「本書で扱われる多くの現象の背後にあるのは,言語とパワー(権力)の関係です。『ことばの力学』というタイトルはその状況を端的に表そうとしたものです。昔から,言語はしばしば,権力を持つ側によって,自分の権力を保持するために使われてきました。たとえば,『美しい英語』というイデオロギーを使って,権力者はそれを話せない者を差別し,自分の正当性を強め,支配してきたわけです。」

だから,たとえば,

「言語が無意識のうちに,私たちの思考や判断に影響を与えるということも,本書の重要なテーマです。同じ現象でもどのようなことばを使って話すかによって,人に与える印象は大きく変わってきます。また私たちは,人がどのようなことばを使うかによって,その話し手に対して知らず知らずにさまざまな印象を持ち,それが私たちの判断に微妙な影響を与え,時には,差別につながることもあります。知らず知らずのうちに無意識の思考に支配されていることを『意識』しておけば,その支配から遁れることができるかもしれません。」

その意味では,本書は,言語についての既成概念や偏見を一つ一つ解きほぐしていく。

たとえば,「科学技術の議論ができない言語がある」という偏見。

「これは『言語そのもの』に問題があるのではなく,科学技術の語彙がその言語にはまだ導入されていないので,英語などの教科書を使った方が(短期的には)早い,というだけのことです。日本でも,江戸時代に初めて西洋の学問が入ってきたときには,同じ問題がありました。オランダ語の医学書を訳した蘭学者の苦心はよく知られています。今では日本語で科学技術を扱うことは出来ない,などと考える人は誰もいません。」

と,そして,「世界の言語はすべて平等」と,言う。

次は,方言。否定的なニュアンスがついてしまっている」が,

「言語学においては,言語のすべての変種が方言と呼ばれます。方言には地域による変種にかぎらず,社会階層や民族集団などによる変種もあります。たとえば,アメリカのアフリカ系アメリカ人(黒人)が話す英語の亜種AAE(African-American English)は,地域を超えた広がりをみせています。」

で,方言と言語の線引きは難しいのだという。たとえば,

セルビア語とクロアチア語
ノルウェー語とデンマーク語とスウェーデン語
インドネシア語とマレーシア語

は,お互いに意思疎通できるが,別の言語とされている。しかし,津軽弁と薩摩弁では,意思疎通ができないのに,方言とされる。つまり,

「方言も言語も,言語のある種の変種であることに変わりはな」いと考えることが,バイリンガルの問題とつながる。」

もうひとつの偏見に,

「バイリンガルの人は頭が混乱していて,モノリンガルの人のほうが認知的に優れている」

というのがある。だからフィリピンから来た花嫁に,子供とタガログ語で話すことを禁じたりする。しかしこの偏見は,既に覆されている。

「認知心理学の分野では,バイリンガル児のほうがモノリンガル児よりも認知的に優れている,ということが定説になっている。」

「人間の脳は非常に柔軟にできているため,必要な訓練をすれば,それに耐えられるように変化していく…。バイリンガルがモノリンガルに比較して,特に注意をどこにむけるかをコントロールするタスク(課題)に置いて優れていることがわかっています。これは,日常的に二つの言語を処理しなければならないという,いわば脳のトレーニングの帰結だとも言えるでしょう。」

ではなぜ両言語を母国語に近い使いこなしの出来るバイリンガルが育つのか。バイリンガルには,言語知識の容量に限界はないのか。

「ひとつは,『資源の共有』ということです。日本語と英語がまったく別々に習得されるのならば,英語の知識が増えると,日本語の知識が減ってしまうということがあるかもしれませんが,実はかなりの部分で,言語知識は共有されます。ただし,どこがどう共有されるかは,まだはっきりしていません。たとえば,『名詞』という概念は,多少の違いがあっても,ほとんどの言語にあるので,ひとつの言語で『名詞』という概念を習得すれば,もう一つの言語でも容易です。また日本語と韓国語は似ているので,両言語を使うときの脳活動の部位は,日本語との違いが大きい英語や中国語に比べて共通する部分が比較的多いという研究もあります。これは,似ている言語の場合,この『資源の共有』が行われやすい可能性を示唆しています。(中略)脳がふたつの言語を別々に記憶,処理しているのではなく,二つの言語に共通する部分は共有しているため,と考えるのが(ジム)カミンズの二重言語共有説(もしくは,二言語相互依存説)です。主として共有されるのは,日常会話能力(BICS=Basic Interpersonal Communicative Skills)ではなく,教科など,複雑な内容を扱う学習言語能力(CALP=Congnitive Academic Language Proficiency)のほうです。バイリンガルといっても,ただ日常会話ができるレベルと,複雑な内容を議論したり掻いたりというレベルとでは,話が違うのです。これはある意味で納得のいく話で,たとえば,片方の言語で教科書を読む能力を身につければ,もう一つの言語でもかなりの程度その能力が転移するからです。」

「もう一つの理由は,言語習得の方法です。言語習得は,『インプットを理解すること』によっておこると考えられています。インプットとは,言葉を聞いたり読んだりして理解することです。ですから,日本など,外国語によるコミュニケーションの機会の少ないところで勉強すると,言語習得の重要な機会が失われます。」

このことは,方言についても言える。AAE(African-American English)を,

「英語の方言と見なすのではなく,英語とは別の言語だと考えるエボニクス(Ebonics)という呼び方も使われるようになりました」

というような考え方からすれば,

二言語(方言)併用

ということも,考え方としてありうる。つまり,標準語と方言を並行して学ぶ,という考え方につながる。

「自分の母語(または母方言)に誇りを持ち,時と場合に応じて,使い分けていくことが理想てきです。」

と。それはそのまま手話に通じるのである。手話も,

「立派な自然言語,つまりコミュニケーションの手段として自然に出来上がった言語」

だからである。ただし,「日本語対応手話は,ある意味では日本語をもとに人工的につくられたシステム」なので,ここでいう言語には該当しない。

たとえば,「耳がほとんど聞こえない,音声言語の習得が困難な子ども」の場合,

「まず手話言語(日本手話)で母語を確立することが大切です。そして,さらに幼児期から文字によって日本語に接触させ,手話言語と書き言葉のバイリンガルを目ざせばよいでしょう。」

最後に,認知症だからと言って,言語能力が衰えているのではないということ。このことは,言語能力とは何らを考える例になる。

「知識には,『宣言的知識』と『手続き的知識』があります。前者は何かを事実として知っていて,それについて説明できるような知識(Knowing what)を指し,後者は,何かのやり方を知っているという知識(Knowing how)を指します。」

だから,意味内容は忘れても,手を動かすことは出来る,ということが起こる。

「言語能力は基本的には,手続き的知識だと言っていいでしょう。……認知的に能力の低下がおこっても,言語能力そのものは変わらない,特に発音,文法などはしっかりしているというケースがふつうです。」

こうした言語知識の二重構造,いつものライルにならえば,

Knowing that

Knowing how

となるが,喋れるからと言って,誰もが日本語教師にはなれない,ということである。逆に言えば,

「日本の英語教育では,文法訳読を重視して,宣言的知識ばかり教えているので,使うために必要な手続き的知識が身につかない」

ということになる。応用言語学が,語学教育ににすら,未だ充分適用されていない日本の現状に絶望的になる。教育勅語的な道徳や国家への忠誠心にばかり血道を挙げ,先進国中最下位の教育投資しかしていない日本の未来に,一体誰が責任をとれるのか,と恐ろしくなる。

参考文献;
白井恭弘『ことばの力学』(岩波新書)





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2014年11月22日

検証


平山優『検証 長篠合戦』を読む。

本書は,同じ著者の『長篠合戦と武田勝頼』の姉妹編,というより,同書で漏れた,史料の検証と合戦における両軍の戦力,物量の比較検討部分を独立させている,という。

従来の信長・徳川の三千挺の鉄炮が三段撃ちで,武田騎馬隊を撃破したという通説に対し,三千挺への疑問,三段撃ちへの疑問,騎乗しての戦闘への疑問等々の批判が相次ぎ,通説が揺らいでいる。

本書は,

両軍の鉄炮装備
武田騎馬衆の運用

を詳細に検証し,通説及び通説批判をも,正していく。

まず史料について,

『甫庵信長記』が,慶長十六,七年の初版から寛永元年晩に至るまで,徳川方武士,武田遺臣などの指摘を受けて,記述の改訂,増補を繰り返していた,という事実,つまり同時代人の目の検証を経ている,という意味で,

「あまりにも『甫庵信長記』を貶めてきたのではないか。」

と著者は言う。その意味で,『信長公記』の太田牛一,『甫庵信長記』の小瀬甫庵,それに『三河物語』の大久保忠教も,

「戦国合戦を知る生粋の戦国人である。」

として,同時代の三人の史料は,利用しなくてはならない,といい。「三千挺の鉄炮と三段撃ち」を頭から否定する姿勢ではない。思えば,卓見ではないだろうか。あわせて,いわくつきの,

『甲陽軍鑑』

も,「山本菅助」が実在していたように,またその言葉遣いが,室町時代の古語がふんだんに使われていること,甲斐・信濃の方言が多用されていること等々から,史料として,再評価されていい,と見なす。

こうした史料を背景に,検証を進めていく。

まずは鉄炮及び鉄炮運用について。

「織田信長といえば,鉄炮の大量装備と,その天才的な戦術公案により天下統一へ向けて急成長を遂げたというイメージ」が強いが,ところが,信長と鉄炮についての研究は,少ないし,史料も希少なのだという。それどころか,

「信長自身が発給した文書を調べてみると,鉄炮に関する記載は意外なほど少なく,管見のかぎり,それはわずか一五点を数えるのみで,ここからは信長が大量の鉄炮を装備していた形跡を読み取ることは難しい。むしろ,発給文書における鉄炮関係の記事にかぎっていえば,信長と比較して後進性ばかりが取りざたされる武田氏のほうが,鉄炮の保有を示す記事が登場する時期や文書数も,遥かに彼を凌ぐ。」

という。しかし,『信長公記』を中心に丹念に調べて,いわゆる三段撃ちについて,すでに,天文二十三年(1554)に,今川方の村木城攻めで,信長は敵城の狭間に鉄炮の射撃を集中させたが,そのときに,

鉄炮取りかへ

射撃したという記事が,『信長公記』にある。著者は,

「鉄炮を取り換えながら射撃するのは単なる交代ではなく,銃手はそのままで,後方に控える数人が弾込めをして手渡すという,いわゆる「鳥打ち」「取次」とされる方法」

ではないかとし,この射撃は当時の常識であり,弾込めの時間ロスを補う工夫として早い時期からあった,と見なす。ここに,交代射撃の嚆矢を見ようとする説をたしなめている。

鉄炮隊の編成は,信長の直属の旗本鉄炮衆五百の他,各武将の保持する鉄炮とはわけられており,

「諸手之鉄炮」

という言い方に見られるように,随時各武将から鉄炮放(銃兵)を提出させ,臨時編成する。長篠合戦でも,『信長公記』には,細川藤孝から鉄炮足軽100人,筒井順慶から鉄炮衆50人と,長篠に出陣しなかった武将から強力鉄炮を,参陣している諸将の部隊から鉄炮を引き抜き,臨時に鉄炮衆を編成した。

「織田領国全域(まだ敵勢力が存在したため,必ずしも必ずしも全域を支配下に置いていないところもあるが,それは尾張・美濃・伊勢・近江・越前・若狭・大和・和泉・摂津・河内などに及ぶ)に動員をかけたとすれば,たちまち数多くの鉄炮があつまったことであろう。信長が大量に鉄炮を集めることが可能であった秘密は,武田氏を凌ぐ領国の規模に合ったともいえるだろう。」

として,『甫庵信長記』の,

「兼ねて定め置かれし諸手のぬき鉄炮三千挺」

は,「事実を正確に伝えている」と著者は見る。さらにおもしろいことに,長篠の古戦場で出土した「鉄炮玉の玉目(銃弾の重さを匁で表記したものをいい,大きいほど口径が大きくなる)」から,

「信長が使用した鉄炮の大きさは,実に様々で,決して統一されたものではなかったことがわかる(このことは,信長による大量注文生産にもとづく旗本鉄炮衆や鉄炮衆編成という大方のイメージに再考を迫る事実といえよう)。」

とする。つまり,「諸手抜」の鉄炮,

「つまり,信長の家臣たちが個々に所持していたものを寄せ集めた事情を反映している」

ということを意味する。その鉄砲玉の原産地は,70%が国内,30%が輸入という。戦争激化に伴い,国内だけでは賄いきれなかったことの反映である。

では武田氏はどうかというと,弘治元年(1555)の川中島合戦で,300挺の鉄炮衆の編成をするなど,重要な戦線では重点配備されていた。また陣立て表などをみるかぎり,旗本鉄炮衆があり,加勢の鉄炮衆がありで,基本は,織田と同じく,「諸手抜」で編成されていたことが分かる。

それでは,武田氏と織田・徳川とでは,鉄炮運用において何が違っていたのか。

「それは,鉄炮・魂薬・弾丸の入手,確保の問題に尽きるだろう。」

と著者は見る。

「(武田方が)深刻であったのは,家臣に鉄炮と玉薬を多く準備させようとしても,それが困難であったことが大きい。」

鉄炮を重視しても,畿内やその近国を掌握している信長に比して,入手するのが難しく,敵国である駿河商人を頼ったり,猟師を動員したり村々の所有する鉄炮を召出させたりしていることが,文書などから伺えるという。はては,鉛不足から,

「悪銭を鋳つぶし鉄砲玉への転用に踏み切った」

ことが,文書及び弾の成分分析から,読めるという。つまり,

「武田氏は,玉薬と弾丸の補充に苦慮しつつも,懸命にその不足を克服しようとしていたことは十分に窺い知ることができる。」

だから,上田原の合戦で,武田信玄と戦った村上義清は,鉄炮50挺を投入したものの,一挺につき玉薬と弾丸が三包しかなく,それを撃ち尽くしたら,鉄炮を捨てて斬りこむことになっていた,と『甲陽軍鑑』に出ているそうだが,武田も似た状況ではないか,と著者は見る。

物量の圧倒的差が,武田敗戦の遠因に違いないが,その他に,馬防柵で待ち構える織田・徳川に,無謀に勝頼は突入させた,と通説は言う。

「武田軍の重臣層は,土屋昌続を除き,馬防柵際で戦死した者はほとんどおらず,敗北が決定的となり勝頼が退却を命令した後に戦死している」

という事実から,撤退戦の難しさを示していても,敗戦の結果であって原因ではない。

「武田軍が総崩れになった合戦は,長篠合戦だけである。そして,総崩れになったが故に,武田軍は追撃戦を受け甚大な被害を受けた。」

しかし,著者は,

「不利な条件が重なったにもかかわらず,武田軍の攻勢が早朝より午後二時までの長時間に及んでいたことや,三重の馬防柵をすべて打ち破った場所もあったこと(主力攻撃が実施された徳川軍陣前),鉄炮の弾幕をかいくぐり生き残った武田軍将兵が,少数ながらも徳川軍の陣地に切りこんだとされること,最初の攻撃局面では武田軍が相手を押していた場面もあったことなどを勘案すれば,武田軍は,攻撃目標の徳川軍撃破を目指したが,それを援護する織田軍鉄炮・弓隊を沈黙させられず,もともと寡兵であったがゆえ組織的戦闘の継続が困難となり敗退したわけである。当時の武田氏にとって,織田・徳川軍に匹敵する軍勢召集は,領国規模からいって不可能であった。」

とまとめている。これが彼我の国力差による冷静な分析なのだろう。ただ,特筆すべきは,

「武田軍の将兵は,長篠合戦で織田軍の鉄炮衆に数多くの味方を討たれ,危機的状況に立たされていたにもかかわらず,馬場信春らの指揮官を捨てて決して逃げなかった」

と記録されていることだ。そこには,

「矢玉飛び交うただ中で敵と渡り合うことを『場中の勝負』として称賛し,さらに敵を討ち取ることが出来れば,それを『場中の高名』と呼称し,一番鑓,二番鑓に次ぐ戦功」

とする,勇敢さを誇りとする気風があった,とする。そして,「武田勝頼だけに敗戦彼の責任を負わせること」について,

「そもそもこうした高名の基準と名誉の在り方を確立し,将兵達に浸透させた」

武田信玄その人にまで遡るしかない。領国の限界,領国の貧しさ,将兵の質も含めた,総てを背負った武田氏の負の遺産そのものなのかもしれない,と著者は見ているのである。

最後に,合戦をこう総括する。

「①織田・徳川と武田軍には『兵農分離』と『未分離』という明確な質的差異はなく,ほぼ同質の戦国大名の軍隊であり,
 ②合戦では,緒戦は双方の鉄炮競合と矢軍が行われ,やがて接近した敵味方は打物戦に移行し,鑓の競合と『鑓脇』の援護による戦闘が続く,
 ③打物戦では敵が崩れ始めると,騎馬衆が敵陣に突入(『懸入』『乗込』)し,敵陣を混乱させ,最終的に敵を攻め崩す,
 ④戦国合戦では,柵の構築による野陣・陣城づくりは一般的に行われており,それ自体は特異な作戦ではなかった,
 ⑤合戦において,柵が敷設されていたり,多勢や優勢な弓・鉄炮が待ち受けていたりしていても,敵陣に突撃するという戦法は,当時はごく当たり前の正攻法であった,」

だから,

「武田勝頼が長篠合戦で採用した作戦は,ごく普通の正攻法であり,鉄炮や弓を制圧し,敵を混乱させて勝利を目指すものであったと考えられる。しかしそれが成功しなかったのは,勝頼や武田軍将兵が経験してきた東国大名との合戦と,織田信長のそれとの違いであったと思われる。それは,織田・徳川軍が装備した鉄炮数と,用意されていた玉薬の分量,さらには軍勢の兵力の圧倒的差という形で表れたと考えられる。」

それがすべてであろう。

なお,姉妹編『長篠合戦と武田勝頼』については,別途紹介したい。

参考文献;
平山優『検証 長篠合戦』(吉川弘文館)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年11月23日

勝頼


平山優『長篠合戦と武田勝頼』を読む。

平山優『検証 長篠合戦』の姉妹篇になる。同書については,昨日,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/409358085.html?1416602810

で触れた。本書は,勝頼の出自にかなりのペースを割く。それは,勝頼が背負っているものが,長篠合戦に踏み切る勝頼の決断にかなりの影響を与えているからだと,僕は思う。

従来,長篠合戦は,

旧戦法の武田勝頼対新戦法の織田信長

と評され,それは,

信長軍の三千挺の鉄炮の三段撃ち対武田軍の騎馬戦法

と言われたきた。しかし,そもそも,その「三千挺の鉄炮の三段撃ち」や「騎馬戦法」に疑問だ投げかけられ,近年それが否定されつつある。

一方の武田勝頼評は,変らず散々である。それは,長篠合戦の大敗が,その契機である。で,本書で検討しなければならないのは,

「武田勝頼という人物の生い立ちや政治動向と,長篠合戦の背景を探ること,加えて巷間膾炙される長篠合戦像の成否」

であると,著者は書く。

勝頼は,同時代にどう評価されていたのか。

まずは,武田遺臣が編纂した『甲陽軍鑑』では,

「強すぎたる大将」

と称されている。因みに,「馬鹿なる大将」は今川氏眞,「利口すぎたる大将」は武田義信,「臆病なる大将」は上杉憲政,とされている。それは,

心強く,機転がきき,弁舌明らかで智恵がある,

と称する。しかし,そのために,

心強いために弱気を嫌い,慎重な行動を求める家臣をとうざけ,主君の意を汲むものばかりになる,

という。武田遺臣たちにとって,勝頼は,そういう人物だったということであり,決して「暗愚」ではなかったのである。

また,織田信長は,

「勝頼は信玄の掟を守り,表裏を心得たる恐るべき敵である」

と書状で書いているし,勝頼滅亡後,その首級と対面した際,

「日本にかくれなき弓取りなれ共,運がつきさせ給ひて,かくならせ給ふ物かな」

と,述べたと言われる。上杉謙信も,

「勝頼は片手間であしらえるような対手ではない。信長は,畿内の戦略を一時中断してでもその鋭鋒を防がなくては,ゆゆしき事態を招く」

と,信長に認めている。しかし,

「勝頼が家督を担った十年間は,讒人を登用し,親族の諫言には耳を貸さなかった」

との,穴山梅雪(勝頼の従兄弟)の評もある。で,著者は書く。

「だとすれば,そうした資質の持ち主であった勝頼を後継者に指名した武田信玄の政治判断にこそ,問題の萌芽があった」

し,それが,勝頼の出生以来背負っていた宿命である,と。本書では,

「勝頼が信玄の家督を相続したことが,彼自身に如何なる影響を与え,その思考や行動を規定したか」

を追求しなくてはならない。それが,長篠合戦で,「会戦を回避する選択肢」を選ばす,「あえて決戦を決断した」判断の背景を探ろうと意図している。

武田勝頼,この名に,一つの歴史的背景がある。

「勝頼だけがその諱に武田氏の通字『信』ではなく,諏訪氏の通字『頼』が冠せられている。」

ここに,勝頼の背負っているものが現れている。つまり,

「勝頼は,信玄の息子ではあるが,生まれながらにして諏訪氏を継ぐべき人物とみなされていた…。」

のである。本来継ぐべき義信が信玄との対立で,自害に追い込まれた結果に過ぎない。それだけに,

「武田家当主の地位を,諏訪氏の勝頼が継いだことに対し,複雑な心情をとりわけ甲斐衆がもっていた」

と推測させる逸話が,『甲陽軍鑑』にある。信玄の寄合衆をつためたものが,勝頼の武運長久を祈願して,百日間籠ったところ,霊夢を見て,

「諏方明神 たへる武田の子と生レ 世をつぎてこそ 家をうしなふ」

という歌を聞かされたという。

こうした家中の雰囲気の中で,信玄の死によって,勝頼は家督を継ぐが,信玄の遺言が重い足かせになる。それは,

①勝頼は嫡男武王丸信勝が成人したら,速やかに家督を譲ること(勝頼はそれまでの陣代である),
②勝頼が武田軍を率いるときは,「武田家代々ノ旗」「孫氏ノ旗」など武田家当主を象徴する一切の事物の使用を禁ずる。
③諏訪方法性の兜の着用は認める

というものである。信玄にどんな慮りがあったにせよ,

「この遺言は勝頼に政治的に大きな打撃を与えることになったといえるであろう。それは信玄の意図を超えて,一族,家臣たちの中に,勝頼はあくまで信勝家督までの陣代(中継ぎ)にすぎないという認識を不動の物にしてしまった可能性が高いからである。」

この足枷が,勝頼に,避けられたにもかかわらず決戦へと長篠合戦を決断させたことに影響があったはずである。

「武田家中における権威を名実ともに確立させること,これが勝頼の真意であり,信長,家康を撃破して,父信玄の『3ヶ年の鬱憤』を晴らすことが,自身の『本意』達成でもあり,諏訪勝頼を,武田勝頼に昇格させるもっとも確実な方法だったのであろう。」

と,著者は推測し,

「長篠合戦の敗因は,勝頼と信長・家康との間にだけでなく,勝頼と武田家中の中にも伏在していた」

と,結論づけている。

少し先を急いだ,長篠合戦の争点の中,2つだけ,著者の論点を紹介しておきたい。

まずは騎馬隊について。

結論だけ書くが,軍役定書などをみると,武田,上杉,北条といった東国の軍隊に共通してみられることだが,

「騎馬武者は,『貴賤』(身分)に関わりなく,鎧兜や手蓋,脛楯,指物などを着用した完全武装の出で立ちであった。このことは,騎馬武者だけを一見しただけでは,武田軍では彼らの身分が判然としなかった。」

その他に,

「武田・上杉・北条氏の軍隊には,『一騎相』『一騎合』『一揆相』という身分の低い武士が多数おり,彼らは文字通り騎馬にて参陣した」

さらに,

「『(甲陽)軍鑑』などにしばしば登場する『馬足軽』『馬上足軽』」があり,これは,「家臣たちが軍役定書によって引き連れた家来たちのうち,騎馬の『被官』『忰者』を『馬足軽』と読んだことが想定される。」

だから,

「武田軍では,騎馬武者は侍身分や一騎合衆のような小身の侍などのみで構成されていたわけではなく,被官,忰者,傭兵,軍役衆など,実に多様な身分の人々によって構成されていた」

したがって,

「武田軍には物主指揮下の騎馬武者が多数存在していた」と著者は考える。その例として,岩村衆を挙げる。

「岩村衆は総人数千五百八十余を数え,…鑓六百余本,鉄炮五十余挺,弓四十余張,歩者二百五十余人,馬上五百余騎…,以上のことから,岩村衆は,…騎馬衆は…五百余騎が統括されており,その兵力は岩村衆では,鑓六百余人に次ぐ…。」

つまり,騎馬隊は存在するのであり,だからこそ,

「信長が柵を構築させたのは,単に武田の軍勢を警戒してというだけでなく,騎馬衆にとりわけ注意を払っていたからにほかならない。」

のである。では,待ち構える敵陣への突撃は愚策であったのか。著者は言う。

「(信長の例などをも挙げながら)以上の事例を見ると,鉄炮や弓矢などを装備して待ち構える敵陣に対して,突撃を仕掛ける攻撃法は,当時としては正攻法であった可能性がある。鉄炮があるのに,それをものともしないで突撃を仕掛けたという記録は,意外に多くみられる。武田勝頼が軍勢に攻撃を命じ,武田軍将兵がそれを実行に移したのも,当時としてはごく当然の戦法だったからであろう。武田軍が敗れ去ったのは,織田・徳川の鉄炮装備が,東国戦国大名間で実施された合戦では経験したことのないほどの数量であったことや,敵陣に接近するまでに多くの将兵が戦闘不能に陥り,肉薄して織田・徳川方の鉄炮を沈黙させるに至らなかったことにある。」

そして,だからこそ,「長篠合戦の戦法そのものを批判する記録は一切ない」のだろう,と。

「長篠合戦での武田勝頼の戦法を無謀と捉える一般の考え方は,戦国合戦の正攻法を理解していないことに由来する」

と,著者は言い切る。

次は,三段撃ちである。これも,詳細な論証は省いて,結論だけ取り上げる。

三段撃ちの傍証になるのは,朝鮮の役で,日本軍の鉄炮に苦戦した明軍が,捕虜や投降兵を通じて,導入した,

三段の鉄炮射撃法

を図示している明の『軍器図説』である。では,三列が動いて移動しつつ射撃をしたのか。

「『(長篠合戦図)屏風』には,銃兵が二列に配列されている様子が描かれていた。ところがそれをみると,銃兵の先頭は折り敷き,後列は立射であり,彼らが動いて互いに発射場所を譲り合うような描き方をしていない。これはすなわち,移動を前提とする輪番射撃は,やはり実践では不向きで,採用されていなかったからであろう。実際の輪番射撃とは,三列に配置された銃兵はその場を動かぬことが原則であり,まず最前列だけが折り敷き,戦闘中は決して立ち上がらぬよう指示され,後の二列は交互にずれて立ち位置を決め,同じく動かぬよう命じられていたのではなかろうか。」

と結論づける。火縄銃の連続射撃では不可避の,鉄炮の不発,次弾装填遅れ,銃身内部の残滓の除去,火の再点火などの火縄銃の不備を補うために,信長は,直属の御弓衆によって,脇を固めたのではないか,と著者は推測する。これが,従来の三段撃ちの批判への再批判になっている。。

結局勝頼は,敗退し,多数の重臣を失った。しかし,武田遺臣にとって,これが武田家滅亡の原因とは考えていないらしいのである。

「武田家滅亡の直接の要因となったのは,上杉景勝との甲越同盟締結による北条氏政との甲相同盟破綻と,北条・織田・徳川同盟の成立にあった」

との見方が根強い。しかし,それも,勝頼の政治センスの問題なのかもしれない。かつて,上杉謙信は,

「信玄は,織田・徳川両氏と敵対したということは,あたかも蜂の巣に手を突っ込んだようなもので,せずともよいことを始めてしまった」

と。それは,

「如何に老獪で百戦錬磨の武田信玄であっても,これを収拾するのは容易ではない」

と謙信が認識していたことになる。信玄においてそうなら,ましてや勝頼においておや,であったのかもしれない。しかし,それもまた勝頼にとって,負の遺産であった。

参考文献;
平山優『長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館)





今日のアイデア;
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2014年11月26日

最前線


日本史史料研究会編『信長研究の最前線』を読む。

副題に,「ここまでわかった『革命児』の実像」となっているが,14人の競作のせいか,必ずしも理論的な背景が一致していない憾みがあり,旧態依然のイメージから書いている人もあって,結果としては,印象が散漫になった。

「本書は一般の歴史愛好家の方を対象にして,ほかりやすく『現在の信長研究の到達点』を示すべく刊行をけいかくした。」

という。そこで,「第一部 政治権力者としての実像」で,義昭,天皇,官位を扱い,「第二部 信長の軍事的カリスマ」で,桶狭間,長篠,四国政策を扱い,「第三部 信長の経済・文化政策」で,流通・都市政策,宗教を扱う,という流れになっている。

ただ,明智謀反の原因を,あたかも四国政策の変更に起因すると考えているらしい,

「明智光秀は,なぜ本能寺の変を起こしたのか」

のあとに,

「信長は,なぜ四国政策を変更したのか」

を入れることは,この本自体がすでに,それを原因と想定していることを露呈していて,いい感じは持てない。変更していない,とする論文も著書もあり,すこし偏りがすぎ,公平な編集ではない。

しかも,帯にある,「尾張衆ばかりを優遇していた」は,ない。これは,もっともニュートラルで戦国大名研究家の見る信長で,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/390004444.html

で挙げた,池上裕子『織田信長』で強調されていた。そのことは,荒木村重謀叛ともからむ,信長家臣団の構造にも起因することなのに,一本も論文がないばかりか,本文中でも,

「信長家臣団における『勝ち組』『負け組』とは」

でも佐久間信盛にしか言及がない。いささか偏りが過ぎる。

多くは,既に各書で取り上げられている以上の突っ込みはないので,各論文が短いせいもあるかもしれないが,なんとなく上っ面をなぜた感がなくもない。

その中で,気になったのは,

「織田・徳川同盟は強固だったのか」

「信長は,秀吉をどのように重用したのか」

「信長を見限った者たちは,なにを考えていたのか」

の三本だ。

「織田・徳川同盟は強固だったのか」で面白いのは,書札礼から,両者の関係変化を見ていて,三方が原の戦い時点では,既に信長は,家康を家臣と捉え,長篠の合戦では,家康を国衆に位置づけている。そして,

「家康は,武田氏滅亡後,駿河国を信長から与えられ,知行宛行をうけている。それは主従関係になったことを示している。家康にとって信長は,『上様』だったのである。」

それは,同じ信長家臣団に組み込まれたとすれば,家康は,あきらかに,宿老クラスの秀吉より格下ということになる。そういう位置づけを考えてみることで,小牧・長久手の戦での両者の関係も,また別の視界が開けてくるはずである。つまり,家臣団第一位の柴田勝家を倒した後の秀吉の前では,家康が生き残るための手段は,限られていたはずなのである。局地戦の帰趨は,高く自分を売るのにしか使えはしなかった,ということである。

「信長は,秀吉をどのように重用したのか」で,気になったのは,天下統一を信長が考えていなかったのだとすると,どこで,秀吉がそれを意識したのか,ということだ。僕は,四国派兵の段階前後で,信長の思考が変わったのであり,家臣,少なくとも宿老クラスの,秀吉,明智光秀,柴田勝家らは,その変化に気づいていたはずだし,そのことは,家臣団の知行宛行にも大幅な変更をもたらすはずだ。それが,光秀に影響を与えたと,僕は想定している。

ここでは,そうしたことは論旨の埒外なのだが,面白いのは,二つである。ひとつは,秀吉分国である中国地方において,

「分国を統治するうえで,権限の分掌をやこなっており,但馬国では弟の長秀(秀長)を竹田城代,因幡国では与力の宮部継潤を鳥取城代に配置し,それぞれに一国の支配を担当させた。」

さらに,「分国形成にともない,秀吉の『軍団』は『家中』に改編されていった。秀吉の軍事力は,蜂須賀正勝・竹中重治・黒田孝高など,信長から付属された与力によって支えられていたが,天正八年(1580)に秀吉が黒田孝高に宛行状を発給したように,秀吉と与力の関係は封建的主従制に転じようとしていた。」

つまり,家康が信長に対して家臣化したように,信長から秀吉に付属された各与力が,秀吉の家臣化していった,ということである。中国方面の秀吉の力が増すにつれて,摂津茨木の中川清秀,池田恒興も,秀吉の与党化していく。このことが,後の山崎の合戦で,摂津勢が,秀吉側の先方をつとめる伏線にもなっている。

もうひとつは,こうした秀吉の権勢は,信長五男秀勝を養子にしたということも効いている,という。

「秀勝は信長の五男であり,羽柴氏は次代以降に織田一門として遇されうる立場も確保したのである。」

天正九年以降,「長浜領で,秀勝単独による判物・掟書・安堵状も発給されるようになった。まず前線から離れた長浜領において,秀吉から秀勝への権力移譲が先行的に進められた」。

それは,さらに秀勝の成長に合わせ,「軍事行動の指揮権,さらに中国地方の分国の支配権も,秀吉から秀勝に順次委譲していく構想」だったのではないか,と想定している。

その是非は別として,信長葬儀の主催にしても,秀勝がいればこそ,名目が立った。改めて,養子秀勝の存在の持つ意味に焦点を当てたところは,興味深い。

「信長を見限った者たちは,なにを考えていたのか」では,信長から切り捨てられた家臣,見限った家臣が,他の戦国大名に比べて,異様に多いことに着目し,前述の池上裕子氏の,「信長から離反した者はいわゆる外様であった」を挙げているが,これ以上に,尾張閥については,掘り下げられていない。そして,別所長治,荒木村重,松永久秀を例にとって,

「松永久秀・別所長治・荒木村重は,信長の上洛や西国への進出に置いて功績があった。しかし,信長はそれらを無視し,彼らと対立する筒井順慶や浦上宗景,傲慢な羽柴秀吉を登用した。そのため,長治や村重は家臣や与力関係にある国人に対する面目を潰された。そのうえ,信長の目指した政策は,在地の国人や百姓との関係を損なうものであった。」

だから,この三人は,「与力や国人や家臣,百姓に対する支配を信長に脅かされるなかで,自らの将来が見えたからこそ,信長を見限らざるを得なかった」。しかし,外様ではない,「一益・勝家・秀吉は最初から信長の影響下で家臣団を形成し,信長より付けられた与力によって成り立っていたため,信長を見限ることはできなかった」とする。

確かに,その面はあるが,家臣団内部の権力争いでもある。見方を変えれば,家臣団が固定し,既得権化していなかった,というふうにも取れる。それに慣れないものにとっては,結構厳しい自他との戦いを強いられるはずである。

ハンデキャップが大きかったはずの秀吉が,自分ほど家中で,寝る間も惜しんで奉公したものはない,と言っていたことに較べると,この分析は,少し甘い,という気がしてならない。

参考文献;
日本史史料研究会編『信長研究の最前線』(歴史新書y)





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2014年12月04日

外交交渉


加藤祐三『幕末外交と開国』を読む。

1853年7月8日(嘉永六年六月六日),浦賀沖に巨大な蒸気船二隻に,帆船二隻のペリー率いるアメリカ東インド艦隊が現れた。その船に向かって,浦賀奉行所の役人二人が小さな番船で近づいた。

「幕府は『ウィンブルという旗を掲げた船が旗艦であることをよく知っていた。』と記録している。」

旗艦サスケハナ号に近寄ってきた二人の役人が,「I can speak Dutch!(自分はオランダ語が話せる)」と叫んだ。ペリー艦隊は,たったひとりのオランダ語通訳ポートマンを応対に出す。

「この出会いは,きわめて象徴的である。最初の対話で発砲交戦を避けることが出来た。それには日米双方の事情があった。見えざる糸が『戦争』を回避させ,『交渉』へと導いた。やがて接触を重ねるうちに,双方ともに『交渉』の重要性を認識し,それに伴う行動を優先させていく。」

両者の事情とは,

幕府は,海軍力を持たないため,彼我の戦力を分析し,戦争を回避する方針,「避戦」を基軸にすえて,「外交に最大の力点を置き,情報を収集し,分析し,それを政策に生かしてきた。」

たとえば,

第一に,アヘン戦争における清敗北の情報を「自国の戒め」と捉え,文政の強硬策を撤回して,穏健な天保薪水令に切り替えた,
第二に,ペリー艦隊来航の予告情報を,前年の内にオランダから入手,準備した。
第三に,ペリー来航の地を,長崎か浦賀と想定して,オランダ通詞の配置を変え,浦賀奉行所の体制を強化した。

他方,アメリカのペリー艦隊側は,

第一に,巨大な蒸気軍艦の石炭や千人近い乗組員の食料などに必要な,独自の補給線を持たず,イギリスに頼らざるを得ず,日本と交戦状態になれば,イギリスは中立宣言をし,イギリス支配下のアジア諸港に寄港できず,補給できなくなる。
第二に,ペリーは「発砲厳禁」の大統領令を背負って来日した。アメリカ憲法では宣戦布告権をもつのは大統領ではなく,議会であり,議会の多数派は,民主党であり,「発砲厳禁」は,何としても交戦をさけなくてはならないということが,大前提であった。

10日間の第一回来航以降,十二代将軍家慶の死去,十三代将軍家定即位などの中で,幕府は,「来春」の再来航に備えなくてはならない。

その論点は,

①鎖国という「祖法」を破棄して平和裏に条約を結び開国するか,それとも「祖法」を死守して戦争をも辞さないのか。
②開国して海外の新たな政治・文化・技術などを導入すべきか,それとも旧来の方策に徹して体制を維持すべきか。
③条約の持つ意味をどう考えるか。とくにアヘン戦争の結果である南京条約の締結以降,急速に国際法にのしあがった最恵国待遇(条項)をどう理解するか。言い換えれば,最初にどの国と条約を結ぶのが有利か。

である。幕府は,大きく政策を変え,

①アメリカ大統領国書を回覧,各界からの意見をもとめるよう老中が決断し,
②ロシア使節プチャーチンを長崎で応接し,ペリーの再来航時期まで,交渉引き延ばしを図る。
③大型船の所有・建造の禁止を説くかどうか,老中諮問し,解禁を決める。
④海からの攻撃に備える「海防」策に着手。

等々を決断する。ところが,

「この大型船解禁に関する老中諮問よりも二か月も早い7月24日に阿部(老中首座)は解禁の決意と,それに伴うオランダ商館長への蒸気船購入をきめていた」

という史料があり,老中首座の阿部正弘(伊勢守)は,「諮問の形式をととのえ,解禁に踏み切った」と考えられる,と著者は見る。

そうして,第二回来航に備えた幕府は,四ヶ月に及ぶ日米交渉を行い,日米和親条約締結に至ることになる。その詳細は,本書を読んでいただくに如くはないが,ペリーによる幕府側の応接掛評が残されている。
 
林大学頭 五十五歳くらい,中背で身だしなみがよく,厳粛でしかも控え目である。高名なレヴァーディ・ジョンソン(上院議員)に似ている。
井戸対馬守 五十歳くらい。背が高く,かなり肥っているが,感じのよい相貌。わがロンドン駐在ブキャナン(のちの大十五代大統領)にどこか似ている。
伊澤美作守 自称四十一歳,五人の中で一番の好男子である。陽気で,冗談や洒落が好き。道楽者との評判。通詞たちによれば,彼は外交交渉については一番自由な考えをもっており,我々にもそうであったが,日本人にも人気があるようだ。我が国の音楽が大好きだと身振りで伝えた。

著者は,最後にこの交渉経過をこうまとめる。

「ペリー艦隊の来航により幕府は大統領国書を受理し,状況を見つつ対応を考え,徐々に体制をととのえていった。1854年2月8日の横浜応接から本格的な交渉に入り,争点が対立する一方で,互いに贈答と招宴を重ね,相互理解を深めた。条約交渉では,幕府がアメリカ側主張の欠陥を見出し,そこを突破口として双務性の主張を行い,最終的に新しい条約を生み出した。
これが可能であったのは,なぜか。老中や応接掛の国際情勢の理解力,対応力,語学力,さらには交渉力などが重要な要点である。」

と,この時期,植民地になるか,戦争に敗れ不平等条約を強いられるか,であった。日本は,交渉を通して,領土割譲も,賠償金もない,条約締結に漕ぎ着けた。

「この幕府の高い外交能力は特筆されてよい」と,著者は言う。今日の日本の外交官が,議論の最中に「シャラップ」と口走る程度の悪さを露呈しているのと比べると,その知性と教養は,群を抜く。そしてこう続ける。

「老中・阿部正弘をはじめ,交渉にあたった林大学頭ほか奉行・与力・同心にいたるまで,交渉相手のペリー一行にたいして格別の偏見も劣等感も抱かず,熟慮し積極的に行動した。外交に不可欠な情報の収集・分析,政策化の三拍子を組織的に駆使し,条約に多くの対等性をもたせることができた。」

と,ところが,わが国ではこれを正しく評価しないまま,百五十年が経過している。その原因は,

「歴史の一国主義的理解が世界史の理解をゆかめたこと」
「ペリーの行動や片言隻句を針小棒大に誤解・曲解し,…資料の収集・批判を軽視してきたこと」

を挙げ,

「あらためて正しい歴史認識の重要性を痛感する。」

と。慰安婦問題一つとっても,都合のいいことのみを取り上げ,不都合なことには耳を閉ざす,議論に負けると,シャラップと,言ってはならない言葉を平気で吐く。一方では,世界中が苛立っているのに,フクシマについて,頬かむりして,あたかもすべて片が付いたかのようにふるまう。日本が,世界からつまはじきにされるのも遠くはない。

参考文献;
加藤祐三『幕末外交と開国』(講談社学術文庫)






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2014年12月06日

旗本御家人


氏家幹人『旗本御家人』を読む。

巻末で,この本が書かれたころ話題になった,例の「死亡届を出さす,年金を受け取っていた」ことに絡んで,「憤まんやるかたない気持ちになった」かもしれないが,として,著者はこう書く。

「ところで,この国は昔はそれほどご立派だったのだろうか。たとえば将軍以下の武士が支配していた江戸時代はどうか。『武士は今の役人よりずっと誇り高く責任感が強かったし,なにより恥を知っていた。だから年金詐取のような破廉恥な行為はありえない。庶民だって,人情に富み親や高齢者を大切にしたから,老人の孤独死なんて皆無だったのでは。』…はたしてそうか。確かに武士のなかには,高潔で優れた人物もすくなからずいただろう。それは否定しない。しかし一般的に言えば,当時の武士たちの多くは,欺瞞と甘えに満ちた慣習にどっぷりつかっていたと言わざるをえない。」

と,だから,「家の当主が死亡しても,その事実を隠ぺいし病気療養中と偽って俸給を頂戴し続けた者がいた」という。武士の中の武士,旗本御家人が,である。そして,

「問題は,このような行為が一部の悪質な幕臣によって行われたのではなく,ほとんどの幕臣が当然のように行っていたことだ。」

という。たとえば,永年勤続表彰として下賜される「老衰御褒美」というのが,あった。

「実は既に死んでいるのに,高齢や病を理由に退職届を出し,『老衰御褒美』の金銀を受け取るケースが少なくなかった…。」

しかし,こんなとんでもない詐欺が習慣化したのは,

「幕府が見ぬふりをしてきたから,将軍の寛大な措置として俸給の不正受給を許してきたからにほかならない。…老中から小役人まで,組織全体が馴れ合い甘え合って,不正を慣例化させるに至ったのだろう。…隠蔽と癒着にまみれた薄汚い世界は,一方で,寛大な優渥(恩恵)に包まれた安穏な世界でもあった。死者の俸給の不正受給の黙認が,『武士は相身互い』あるいは『武士の情け』といった言葉で表現される互助精神の具体化だったことも事実である。」

さて,そんなもたれ合いの幕府の職制を通した,幕臣列伝に,本書はなっている。

まずは,幕府役人の用語。「おさそい」と「おたく」,

「『おさそい』とは『不首尾にて免ぜらるヽ也。何も子細あらされども,病気と称してこれを辞退する事なり』。要するに職務上の過失等を犯した幕府の役人が,罷免されたり病気と称して辞任することを意味していた…。」

「『御宅』とは,『余程おもき事件にて御とがめ』をこうむること。幕臣が重大な過失を犯した場合,夜になって名代の者が若年寄の御宅に呼び出され(だから御宅か),監察官である目付立会いの下,役職の剥奪(『御役御免御番御免』)と厳重な謹慎を申し渡された…。」

そんな結末もあるにしても,いささか風変わりな事例だけをピックアブしてみる。

幕臣の異動願いは,「場所替願」と呼ばれたが,高齢の幕臣のためのポストに,「老衰場」というのがあった。それは,

御旗奉行
御槍奉行

がそれで,太平の世になると,いくさの時代の誉れの役職も,高齢者のポストに化す。そこは,「臨終場」ともなった。

前述の「老衰御褒美」とは,

「幕臣は,死ぬまで将軍に御奉公が原則だったが,七十歳に達し,体力,気力ともに衰えたとき,老衰御褒美を頂戴して役職を辞することができた。」

という,その記録を観ると,「幕府が高齢の幕臣のためにいかに多くの『閑職』を用意したかがわかる」という。驚くべきは,幕末,西洋式の「歩兵(撒兵)」「騎兵」「砲兵」からなる将軍直属の常備軍を設けたが,「撒兵渡辺恒蔵の小普請入りと老衰御褒美を願い出た文書」がある。渡辺は,七十九歳。著者は言う。

「最大の課題であった近代的軍備の確立より,高齢の幕臣たちの処遇が優先された奇怪さ。幕府と幕臣の組織的な緊張感の欠落」

が見て取れる,という。

「十七歳原則」というのがある。「大名や旗本の当主が十七歳未満で亡くなると,養子が許されず,家は断絶とする相続の法」があり,このために,「官年」という,大名や旗本が幕府に届け出る年齢が,実際よりも,五,六歳サバを読んでいた,という。十七歳以上であれば,若年で没しても,養子を取って家を存続させることが出来るのである。

「官年(幕府に届けた年齢)が私齢(本当の年齢)より高いのは,年齢の詐称ではなく,幕府の制度のひとつで,お蔭で,たとえ赤ちゃん(嬰児)であっても,十七歳だと称して家を相続できるようになっていた。家の存続のためには,極端な年齢詐称も半ば,合法とみとめられていた」

というわけである。

就活は,今も昔も大変で,「対客登城前」と呼ばれた。「百俵七人泣き暮らし」という諺があり,封禄米だけでは食べていけないことを諷している。役職に付ければ,「家禄が役高に不足する場合は,不足分が足高として支給」される。

「加えて,年三回に分けて俸給米(蔵米)を支給される際にも,役職(とりわけ激職)を務める者には上等な米が支給されるが,役職についていない幕臣には下等米が回されるのが原則だった」

というから,「非役の小普請」から脱するべく,小普請支配(小普請の旗本御家人を支配,監督する役職)のもとへ請願に出かけるか,早朝,老中や若年寄ほか幕府上層部が江戸城へ登城する前に邸に参上する。これを,「対客登城前」あるいは「対客」と呼んだ。これを幕臣は,「出勤」「勤めに出る」と称していたという。まあ,就活である。

勝小吉は,七歳で勝家の養子になり,十六歳から「勤め」はじめ,出奔したりといろいろあったが,結局番入り(武官への採用)はならず,三十七歳で,海舟に家督を譲る。

幕臣の就職難が始まったのは,舘林藩の綱吉と,甲府藩の綱豊(家宣)が将軍となり,多くの藩士が幕臣になってから,という。

それでも,成功した者はいる。筆頭の一人は,根岸肥前守。小身の旗本から,勘定奉行,町奉行などの要職にまで昇進した。しかし,根岸は,幕臣安生家の三男として,根岸家に養子に入ったということになっている。しかし,出自については,前身は「臥煙(火消人足)」で,蓄えた金で御徒の株(いわゆる御家人株)を手に入れ,幕臣の末端から出世を遂げた,と,生前からささやかれている。しかも,「一パイの文繍(体中の入れ墨)ありたり」とさえも。

しかし,そこに垣間見えるのは,

「与力や御徒等々御家人の地位は『株』として実質的に売買が許されていたから,百姓町人でも,金さえ出せば,御家人すなわち御目見え以下の幕臣になることができた。いや,それだけではない。ひとたび御家人になれば,御目見え以上の旗本に昇格し,さらには幕府の要職に就くことだって可能だった」

という,制度の柔軟性ではなかろうか。

「われわれが今日想像する以上に,幕臣社会とりわけ御家人社会には,庶民出身者がおおかったのである」

と。本書が拠っている,大谷木醇堂『醇堂叢稿』には,こうある。

「所謂非格御取立(俗に成上り立身と云)の人にハ筋目正しきものは少なく,その家をおこしたるものは,或いは前栽売の太郎兵衛,魚商の次郎兵衛,豆腐屋の三朗兵衛など多き事也」

と。幕末の,

勝海舟,
小野友五郎,
大鳥圭介,
平山敬忠,
榎本武揚,

もそうだし,

川路聖謨,
井上清直,

もこれに加えてもいい。

まあ,これは,武士がどうの町人がどうの,ということではない,人としてどうか,ということに結局行き着く過ぎないのかもしれない。

参考文献;
氏家幹人『旗本御家人』(歴史新書y)







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2014年12月07日

幕臣


氏家幹人『幕臣伝説』を読む。

旧旗本の大木醇堂が,明治になって綴った『醇堂叢稿』に,主として,よっているので,前作『旗本御家人』の続編と言えなくもない。前作については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410162722.html?1417810594

で,昨日書いた。

冒頭に,幕臣の鳥谷部春汀『旧幕の遺臣』によって,幕臣気質について,こう触れている。

「徳川武士共通の短所は,余りに個人的にして共同団結の精神に乏しきにあり。故に旧幕の遺臣に人材少なからずと雖も,彼等の協力によりて成りたる何等の事実を見ず,また彼等はかつて偉大の計画をなしたることなし。」

と辛辣である。春汀によれば,旧幕臣は個人としては様々な長所を備えているが,協同団結して事を成し遂げるという点では,人材に乏しい,というわけである。

春汀は,勝海舟を評して,

「一代の巨人なりしと雖も,その性格は個人的にして,首領の器に非ざりき」と,手厳しい。海舟にして然りとすれば,後は推して知るべし,

「才能抜群であっても,なぜかリーダーシップとしての資質をかいている」幕臣たちの生き方は,春汀によれば,

「かくの如く個人的にして共同団結の精神に乏しきがゆえに,また概して野心少なく平和の生活を好む。見よ幕府の遺臣にして,権力の争奪,利益の取り遣りの為に,他人を排してまで進むの行動に出づるものありや。自家の功名富貴を求るがためには,如何なる危険をも冒し,如何なる面倒をも忍ぶ意力を有するものありや。余はこれを見ざるなり。」

という体たらくになる。では幕臣醇堂は,どんな生き方を求めていたのか。

「照り降りなく,平均して,吉も無ければ,凶もなく,いつも同様と謂ふが人間世の最上策にて,富まず貧しからず,楽しみもなく苦しみもなく,笑ふことはなく泣くことなく,喜ばず憂へず,伸ず屈せずして生を全ふし,おはりたきものなり。」

かような安穏無事が一番という処世術も,

「ここまで徹底すると驚愕を覚える。」

と,著者。維新後の貧困にあえぐ,落ちぶれた旧幕臣の開き直りか,と思いきや,醇堂は,れっきとした旗本の嫡男でありながら,

「両番士の俸禄は,その並高と称するものは三百俵を以て例とす,これより身を起こして要路の顕職に昇るもあれども,一代限りの立身出世は,予これを欲せざる也」

と書き,

「それよりも結局三百俵を代々維持して,其子其子と部屋住より召出されて,御小姓組・御書院とかはるがはるに勤続相承くることこそ無上の幸福にて,そのうへに亦幸慶とすべきは与頭・組頭に昇りて,又其れより御手先・御持頭を経て,御槍奉行か西丸御留守居に上れば,これこそ至大の幸福也」

とまで書く。「御槍奉行」か「西丸御留守居」かとは,老齢の旗本の閑職で,勘定奉行や町奉行のような要路につくのではなく,名誉の閑職がいい,というのである。

ここから浮かぶのは,

「英雄的気質や企業家精神とは相容れない幕臣たちの寡欲で現状に甘んじる気質」

である。どうやら,しかし,これは,幕臣だけではなく,多くの日本人の気質に重なる気がするが,どうだろうか。

本書は,そんな幕臣の中から,奇人・変人と,余り日の目を見ない役職を拾っている。刃傷沙汰あり,御庭番あり,吉原遊女との心中あり,奇人学者あり,狂歌の蜀山人あり,三味線名人ありと,多士済済だが,変わり種を,いくつかピックアップしてみると,

大奥の御伽坊主

という坊主頭の年配女中がいた。常時四人ほどいたと言われる。何をするのか,というと,大奥の広敷添番を勤めた山中共古が語っている(三村竹清『本之話』)。

「大奥の坊主といふは,女にて髪を剃りたる坊主なり,将軍の閨房の世話をするものにて,御手つき中臈二人並びて,中に将軍休む,其時いろいろのことを将軍にいふといけぬ故,坊主は次の間にうつふして悉く聞き取り,御年寄へ申上るなりといふ」

と。著者は,こんなふうに推測する。

「将軍や世子が何月何日に誰と交接したかは,将軍家の血統を維持するためにもっとも重大な事項であり,正確な記録が残されなかったはずはない。おそらく御伽坊主が記録を作成し,その記録は老女たちによって厳重に管理されていたのだろう。
御伽坊主が次の間で聞き耳を立てたのも,中臈がおねだりなどせぬように監視するためだけでなく,将軍と中臈との間で,子づくりの行為がなされたかどうかを確かめるためだったのではないだろうか。」

当然,若君姫君を取り上げる,お産婆さんもいる。「『恩賜例』という,幕府から「御褒美」や「下され物」が下賜された事例を期したものがある。その中に,「さつま婆」「いつみ」「きん」等々といった,お産婆さんの名がある」。これは,江戸幕府の役職の沿革を記した『明良帯録』にも,載っているという。彼女たちは,代々,

「大奥では中臈と同格で,四谷坂町に拝借地があり,…五人扶持を給され」

ている。しかも,『恩賜例』に出るくらいだから,将軍夫妻から,「折々多額の褒美を頂戴」し,「暮らしぶりは裕福だった」らしいのである。『校合雑記』によると,吉宗の時代,

「長福丸(家重)を取り上げた『御祝儀』として,薩摩姥に白銀五十枚と樽肴,巻物が下され,小次郎様(田安宗武)のときは銀二十枚と樽肴,巻物だった。不審に思った吉宗公が役人に尋ねると,先代のときから御嫡子を取り上げた産婆には銀五十枚,御次男様以下は二十枚と決まっておりますと答えた。
すると,吉宗公,『樽肴と巻物が減少するのは理解できるが,銀は御産御用を務めた者の労をねぎらって下賜するものである。長男であろうと次男であろうと,産婆の苦労に違いがあるとは思えない,長男のとき同様五十枚を与えるように』と仰せられ,薩摩姥は長福様のときと同様,銀五十枚を頂戴した。」

というエピソードがある。しかしも彼女たちは,将軍家御用達のお産婆として,大名家にも出入りしていたという。なかなかの収入と言っていい。

もう一つ下ネタで,「公人朝夕人(コウニンジョウシャクニンと読んだらしい)」という役職の幕臣がいる。定員は,一名。代々世襲という。役目は,

「君辺に侍して御装束の節,御轅の跡に御筒を持也。便竹といふ。君御用道具の第一なり。俗に装束筒と云う。」

とある。将軍が礼服(束帯)を着て参内(内裏に参上)し,装束が邪魔で小用ができないときに,小便を受ける筒状の尿瓶を差し出すのである。しかし,参内は,寛永十一年(1634)の家光以降なく,二百三十年後の家茂のときは,公人朝夕人を従えていない。つまり,この役目は,江戸初期にその役目を終えているのに,代々上田家が世襲されていたのである。

役人の仕事には,今も昔も,目的をとうに終えていても続いているものがあるに違いない,と思わせる役目である。

参考文献;
氏家幹人『幕臣伝説』(歴史新書y)







今日のアイデア;
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2014年12月08日

ノンキャリア


門松秀樹『明治維新と幕臣』を読む。

本書は,戊辰戦争の混乱期,全国統治の空白が生じかねない状況下,明治新政府は,その危機的状況に対応するため,

「幕臣の継続登用」

をはかり,

「各奉行所などの幕府機関を,所属する人員も含めて継承」

することで乗り切った。その多くは,

「ほぼ無名といってよい小身の旗本や御家人であった。彼らは著名な幕臣たちとは異なり,政府の政策形成に関与できるような上級ポストではなく,行政実務に当たる中・下級のポストに登用された。(中略)実際の予算や政策の形成過程では,長年の経験を積み,実務に精通したいわゆる『ノンキャリア』の存在」

である。本書は,そうした「『ノンキャリア』の幕臣たちに光を当てることを試みた」ものである。

旗本御家人については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410162722.html?1417810594

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410218701.html?1417897473

で,その体たらくぶりを散々挙げたが,逆に,その職務に忠実な気質が,明治新政府の立ち上がり期の行政を支えた。

幕臣の気質について,本書でも,

「太平の世が続くことで,武士の『家』の固定化も進み,武士の主従関係の根本である『御恩』と『奉公』の関係についての意識が薄れていくことで,知行・封禄は『御恩』,すなわち主君に対する『奉公』の対価ではなく,『家』が代々相続すべき固有の財産という意識が強まっていく。その結果,(中略)『役料』や『足高』のみが職務に対する対価であり,職務を遂行する以上は当然えられるべき俸給であると解されるようになる。その結果,…幕臣,ひいては武士は,『御恩』と『奉公』の関係に基づく臣下ではなく,役職に就いて働くことで『役料』『足高』という『俸給』を得るサラリーマンに転じていった…。」

と,その気質を述べている。これを前提にすると,本書の主題である,幕臣がそのまま新政府の行政を担うという流れが,理解しやすい気がする。

江戸開城後,徳川家は700万石から70万石に減封,静岡へ移封される。そのとき勝海舟が,幕臣の身の振り方の概算をまとめている。それによると,

旧徳川氏家臣 凡そ三万三千四百戸
朝臣 五千人
静岡行 一万五千人
帰農 六百人 後大抵帰参
大蔵省附渡 百三,四十人
外務省同断 百人
金川(神奈川奉行所を接収・改組) 同断
田安・一橋家へ従属 
諸侯の末家は其本家に附する者
静岡・在職人数 四千九百二十四人

私事ながら,母方の実家は,幕臣で,鳥羽・伏見以降の混乱で一家離散,遺児は下僕に背負われて,彼の実家だか親戚だかにかくまわれ,維新後はその姓を名乗って生き延びた,という伝承がある。ここに載らない幕臣の人数も少なくないはずである。

新政府は,鳥羽・伏見で幕府軍を破った後,慶喜以下を朝敵として追討令を発すると同時に,

「幕臣に対して帰順を呼びかけている。そしてこの呼びかけに応じた幕臣に与えられたのが『朝臣』という身分であった。」

「朝臣」は,「あそん」ではなく,「ちょうしん」と訓む。「朝廷の臣」を意味し,

「陸続徳川の家臣,朝臣となり候願い候者有之,皆上京せり。実に千を以て数ふ也」

と,松平慶永が回想している。「朝臣」の身分の要件は,「旧禄高の書上(調書)の提出」と「天皇に対して忠誠を尽くすという誓約書の提出」が求められていた。全員がその身分を得られるわけではないが,

「『朝臣』に関する審査基準は,家長もしくは嫡男など,一家の主もしくはそれに準ずる立場にあること,反政府活動に関与していないこと,明治元年(1868)九月二十五日(慶応四年九月八日に改元)の『朝臣願』の提出期限を守っていること,そしてそれに加えて,…禄高を得られる身分であること,」

である。「朝臣」の待遇は,

「家禄として一定の収入が保証された」

が,規準があり,旧録五千石以上は,家禄を千俵,三千石以上は,五百俵,千石以上は三百俵,五百石以上は二百俵,三百石以上は百五十俵,二百石以上は百俵,百石以上は五十俵,四十石以上は四十俵,四十俵未満は従来通り,とするというものである。

その狙いは,一方で戊辰戦争が継続する中で,数千の幕臣が政府側に留まり,反政府活動を抑止する効果があったが,同時に,行政の継続,連続性を保った効果も大きい。

「戊辰戦争において戦地となった場所は例外として,全国津々浦々が混乱を極め,略奪や暴行が横行したという事態に至っていないということは,少なくとも社会生活を維持できるような秩序が保たれていたということになる。行政が機能しない状態にはほとんどならなかったということになろう。」

たとえば,江戸城開城と同時に,東征総督府は,

「江戸町奉行に対して江戸市中の取締りに引き続きあたるように命じた。さらに,徳川宗家の静岡移封を決定した五月二十七日には,奉行以下,与力・同心を継続登用するものとして,『禄高扶持米等是迄通被下置候事』,すなわち待遇を改善せずに従前どおりとすることを達している。」

この他,開港地となった函館,神奈川,兵庫や長崎,大阪,京都など遠国奉行をおいて幕府が直接支配していた各地でも,奉行所の接収と,その人員の継続登用を行っている。これによって,

「400万石に及ぶ幕領の統治を,幕府が整備した行政組織をそのまま活用することで実現しようとした」

のである。では,そういう風潮を幕臣はどう見ていたのか。旧幕臣である渋沢栄一は,「武士は二君に仕えず」というのは少数派で,十中八,九は明治政府における出世を望んでいた,と振り返っている。著者は,

「忠誠心の問題に悩むことができたのは比較的高禄の旧幕臣にかぎられているかもしれない。江戸町奉行所が接収され,奉行以下,与力・同心に至るまでの全員が継続登用された…が,同心の禄高は三〇俵二人扶持,手取りの俵数に直しても四〇俵程度である。この収入を現代の現代の貨幣価値に…,あえて換算すると,100万円から200万円前後の年収に相当する。(中略)江戸町奉行所をはじめ,さまざまな奉行所で行政実務の最前線にあった同心クラスの旧幕臣は,忠誠心の問題に悩むよりは,日々の生活を支えていくことをそもそも悩まなければならなかったであろう。」

と。しかしその継続登用も,明治十年(1877)前後を画期として,行政機能の維持を目的として登用された幕臣たちは減少していく。

明治5年(1872)には,勅任官に占める旧幕臣は7%,判任官で35%を占めていた。しかし,

「明治政府が求める人材の要件が,行政機能の維持を優先することから近代化政策の推進に代わっていくことで,旧幕臣の入れ替え」

が生じていく。そして,最終的には,明治二十六年(1893)の文官任用令によって官僚の試験任用制度が確立するまで続く。

「明治政府の草創期に政府を支え,また維新の改革が軌道に乗るまで支え続けたのは,無名に近い,行政の現場にあった旧幕臣たちであった。」

ということは,改めて再認識するのは悪くはないとつくづく思う。

参考文献;
門松秀樹『明治維新と幕臣』(中公新書)






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2014年12月12日

不正


榎木英介『嘘と絶望の生命科学』を読む。

著者は,あとがきで書く。

「告白しよう。STAP細胞の論文が最初にメディアに取り上げられた夜,私は興奮していた。理由は二つある。一つはSTAP細胞が発生学上の大発見だったからだ。もう一つは,小保方氏が『後輩』だと知ったからだ。」

と,しかし,現在進行形なのでと断りながら,

「STAP細胞が明らかにした様々な問題は,理研特有の問題ではなく,日本特有の問題でもないということだ。30年以上前のアメリカの研究不正を扱った『背信の科学者たち』…を20年ぶりに読んでみたが,STAP細胞の問題が決して特殊な事例ではないことを改めて思い知らされた。」

と。そして,こう言うのである。

「実は小保方氏のSTAP細胞論文が騒動になりはじめたとき,バイオの科学者たちは,それほど驚かなかった。もちろん,画像の切り貼り,画像の流用,文章のコピーペーストなど次々と明らかになる疑惑を目の当たりし,多くの研究者はさすがに絶句したが,実はバイオ研究の論文が結構適当で,ときにウソが交じっていることは,バイオ研究者のあいだでは広く知られたことだったのだ。」

だから,「バイオ研究の一部は,虚構の上にそびえたつ」と。では,研究不正とは,何か。

研究不正には,

捏造(Fabrication)
改竄(Falsification)
盗用(Plagiarism)

の3つがあり,頭文字をとって,FFPと呼ばれる。

「ねつ造とは,存在しないデータを都合よく作成すること」
「改ざんとは,データの変更や偽造をすること。都合の良いデータだけをピックアップすることや,逆に都合の悪いデータを削ることも含まれる」
「盗用とは,他人のアイデアやデータ,研究成果を適切に引用せずに使用すること」

「このほかに,研究に関わっていないのに論文の著者になるといったような『不適切なオーサーシップ』や,個人情報の不適切な取り扱い,プライバシーの侵害,研究資金の不正使用,論文の多重投稿等も研究不正に含まれる。」

と。そして,

「東邦大学医学部の准教授だった藤井善隆氏は,なんと172本の論文にねつ造を行ったことが発覚し,不名誉な世界記録をつくった」

という。だからといって,

「バイオ研究に不正が多く発生している印象ではあるが,必ずしもそうではない,というデータもある。…松澤孝明氏によると,バイオ系の研究不正の割合は,37.7%。自然科学系ら限れば,74.1%にも達するが,研究者人口も多いので,必ずしもバイオ系で突出して研究不正が発生しているわけではない…。」


にしても,不正があまりにも多い気がするのは,僕だけだろうか。しかしである。

「アメリカの国立衛生研究所(NIH)から助成を受けていたバイオ研究者の3人に1人が,過去3年間に上位10位までの悪質な行為に関与していた」

というネイチャー誌の記事もある。では,まっとうに研究している研究者はいないのか。捏造,改竄,盗用の対極にあるのは,

「責任ある研究活動」(RCR:Responsible Conduct of Research)

という。それは,

「研究者のプロフェッショナルとしての責任をまっとうするやり方で研究を遂行すること」

とされる。しかし,ステネック氏らによると,

「『ねつ造,改ざん,盗用』と『責任ある研究活動』との間には『QRP』(QRP:Questionable Research Practice)があるとしている。」

ここには,

論文の多重投稿
先行研究の不十分な調査
自説に有利な実験結果の選択的な発表や誇張
自説に不利な実験結果の非公開や発表遅れ

等々。つまり,

「ねつ造,改ざん,盗用」と「責任降る研究活動」とは,連続している,

ということなのだ。その間には,

データはあるのに切り貼りしてしまった,
再現性があるのに,データの見栄えをよくしてしまった,

等々,必ずしも不正とは言えないルール違反がある。では,

「不正とそうでないものの境界はどこにあるのか…これが意外に難しい。」

と,著者は言う。たとえば,

「ある論文では,たった一つの画像に,ちょっとだけいじったあとがあった。ある論文では,二つの画像に。ある論文では三つの画像に。その先に,総ての画像やグラフがどこか別のところから持ってきた,完全なニセ論文がある。どこに線を引くのか。そして,誰がその線を引くのか。」

そもそも,研究というのは,

「研究者は,まず“真実”はこうだろうと想像し,『最初はあいまいな仮説』を立てるところからはじまる。つまりこの段階では『ねつ造』であるといえる。そして,人間が未知のことを理解するのは,パトリック・ヒーランが『科学のラセン的解釈』説で述べているように,『最初はあいまいな仮説(つまり『ねつ造』)→試す→都合のいい部分を残し,不都合な部分を変える(拡大・分化,つまり『改ざん』)→試す,のラセン的上昇で,〈知〉が生産される』ので,ある発見のプロセスがこのようだから,発見にはある種の『ねつ造→改ざん』作業が必然なのである。」

というところがあるのだから。そのせいかどうか,いまバイオ研究者で,

「胸を張って自分は一切の不正,あるいは不正と疑わしい行為にかかわっていない,と宣言できる研究者はもしかして少ないのかもしれない。病巣は想像以上に深い。」

と著者は推測する。。そんな馬鹿な,と思いたいが,「実験を行う分野で不正が発生しやすい」。例えば,こんな例を挙げられれば,頷かざるを得まい。

「実験を何回もすれば,ときに変なデータが出てくる。実験のウデの問題なのか,それとも,試薬がおかしかったのか。では,そんな『異常値』が出たときにどうするのか。異常値だけ集めるか,異常値を分析の対象から外してしまうか……異常値だけ集めたデータと,異常値を外したデータは全然異なるものになるかもしれない。つまり,自分の主張にあうデータだけを集めることができてしまうのだ。」

そう考えると,「異常値の一個くらいは消した経験がある研究者」は多いだろう。さらに,

「(画像の)加工しなくても,ウソはつける。何十回も何百回も実験を行って,たまたま自分のたてた仮説にピッタンコの写真がとれた。そういう写真を「チャンピオンデータ」と呼ぶ。いわば,『奇跡の一枚』みたいなものだ。……しかし,たまたま出たチャンピオンデータだけを貼り合わせると,あたかもその仮説が証明されたかのようにみえてしまう。」

確かに,これは,捏造,改竄,盗用には当たらないが。だが,これを研究者個人の倫理のみに押しつけるのは,どうだろう。

「松澤氏によれば,『研究不正等の推定発生件数はの変動傾向が,わが国の科学技術政策の変遷に比較的よく一致している』という。」

つまり,STAP細胞問題も,理研の独立行政法人化を背景に考えないと,浅いものになってしまう。そう考えれば,独立行政法人化された国公立大学でも,同じことが起きているということを暗示している。深い底は,見えてこない。

参考文献;
榎木英介『嘘と絶望の生命科学』(文春新書)






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2014年12月22日

天体衝突


松井孝典『天体衝突』を読む。

2013年ロシア南部のチェリャビンスクに落ちた隕石は,

「これまで潜在的に指摘され,あるいは実際に,地球史や生命史においては,それが本質的な役割を果たしてきたことが近年明らかにされた天体衝突という現象が,人類あるいは社会に,実際に大きな被害をもたらすことを実証した天体衝突」

であったらしい。天体衝突は,小惑星か彗星ということになる。

「素性的にいえば小惑星は岩石的物資で,彗星は,氷を主成分とする『汚れた雪だるま』と形容される物質である。……彗星はもろいので,それが衝突すると,普通は,大気上空(50㎞以上の上空)で爆発してしまう。。隕石のように破片が地表で回収されるということはない。」

「衝突した天体の破片が地上で回収されると,その物質は隕石と呼ばれる。」

チェリャビンスクで回収された最大のものは,600㎏といわれる。回収された隕石の総量は,4~6tとされるが,それは小惑星の質量の0.03~0.05%に過ぎない。その3/4が,アブレーション(熔発)によって蒸発し,残りが塵になったと考えられている。

「小惑星の大気圏通過時は,前面の大気が圧縮され,超高温(場合によっては1万度を超えるほど)になる。小惑星の表面はこの熱で加熱され,温度が上昇し,気化し,発光する。これをアブレーション(熔発)という。」

らしい。このため通過する小惑星は明るく輝く「火球」に見える。チェリャビンスクの場合,太陽より明るかったという。被害は,広範囲に及び,建物だけで,3613棟,その大半は,「大気中で生じた衝撃波による」という。

「衝突が人口密集地の近くで起こり,したがってその被害が広範囲にわたったため,天体衝突が文明にどのような影響をもたらすか,その影響を推定することができる,初めてのケースになった。」

人類が初めて天体衝突による天変地異を経験したというケースということらしい。しかしもちろん天体衝突が稀というわけではない。しかし,わずか20m弱の大きさで,その爆発エネルギーが500㏏,爆発高度が25㎞と高かったにもかかわらず,この被害である。この100年前,ツングースカ爆発では,爆発エネルギー5~1.5Mt(メガトン:TNTt7h 100万tと同程度のエネルギーを表す)と,一桁大きく,爆発高度が6~8㎞と低かったため,チャリャビンスクとは比較にならない大きさだったが,人跡未踏の地だったのが幸いした。

高速で地球に衝突した場合,何が起きるのか。

「天体が超高速で大気圏に突入すると,……天体先端部の大気中の生じたこの高圧部分は,パルスとして,大気圏中にも伝播する。その伝播速度は,大気中を伝わる音波(縦波)よりもずっと速く,これが衝撃波と呼ばれる密度の高い高圧波である。(中略)天体の前面に当たる大気は圧縮され,高圧を発生するが,側面や後端部では,そのような圧力は発生しない。そのため天体は,先端部と後端部,あるいは側面とで,異なる圧力を受け,結果として,全体として押しつぶされるような,あるいは引き裂かれるような力を受けるようになる。
前面で発生する圧力は,大気の密度と,天体の運動速度の2乗に比例する。…大気の濃い部分に達するに従い,圧力は急速に大きくなる。そのため圧縮する力も大きくなり,それが天体の強度を超えると,破壊が起きる。破壊が起こると,衝撃波が各破片の前面で発生するようになり,衝撃波は全体として強くなる。破片は破壊以前に比べて軽いため,減速も大きくなり,衝撃波は進行方向にも伝播するようになる。これが爆発による衝撃波である。」

衝突天体の大きさが1㎞になると,大気圏通過中の爆発は起きず,地表に激突する。

「天体が地表に超高速(標的物質を伝わる縦波速度以上という意味)で衝突すると,地殻との接触部で,衝撃波が発生する。衝撃波は,地殻,マントル内部,それから衝突天体とそれぞれの内部に伝わる。…衝突天体は,接触後すぐには減速されないから,衝突後は地殻にもぐりこむ。その間,衝突天体内部に伝わる衝撃波は後端に向かって進行し,例えば,10㎞の直径とすれば,数秒もしないうちに後端に達する。そこで反射すると,衝撃波は,今度は圧力を開放する波(爆発のように,それが通過すると,その通過した部分を破壊し,吹き飛ばす波)として逆方向に伝わっていく。それが,衝突本体から地殻,マントルへと伝わり,先を行く衝撃波に追いつくと,その相互作用により方向が変わる。結果として,その軌跡が放物線を描くように,破片が放出される。」

単純に,衝突の掘削による一時的なお椀型の穴のクレーターと,この穴が大きい場合,すぐに変形し始め,内部からその穴の空白を埋めるような力が働いて,そこが押し上げられ,中央が山のように盛り上がったり,その壁が崩れたれたり,その外側にひび割れが同心円に広がったりと,さまざまな衝突のクレーターのバリエーションは,月面に見ることができる。

そもそも地球に対して月(地球の直径の1/4)のような大きな存在そのものが,実は珍しい存在らしい(冥王星の衛星カロンくらいしかない)のだが,アポロ計画で,

「月の岩石は基本的には,地球のマントルと似ていること」

が明らかにらなり,月と地球は,「兄弟の関係」にあり,

「地球形成の最終段階で,原始地球に火星サイズの原始惑星が衝突し,周囲にまき散らされた破片の集積により,月が生まれた」

という「ジャイアント・インパクト仮説」という考え方があるくらい,地球にとって,天体衝突は,その地球史上頻繁に起こっている。ではどのくらいの頻度で起きるているのか。

100㎞サイズの天体で,数十億年に一回,
10㎞サイズの天体で,数千万年から1億年に一回,
1㎞サイズの天体は,100万年に一回,
100mサイズの天体なら,1000年に一回,
50m(ツングースカ程度の)サイズの天体は,100年に一回,

と推定されている。しかし,数㎞以下でも,文明に影響する。

「その理由の一つは,人類が生物として,衝突による地球環境の影響を受けやすいことがあげられる。そしてもう一つは,文明が沿岸域や大きな川沿いに生まれ,衝突の直接的影響を受けやすいからである。」

と,著者は警告する。今日では,恐竜の絶滅は,天体衝突によるものと,ほぼ考えられるようになっている。メキシコ・ユカタン半島地下にある,6500万年前の白亜紀末の巨大なクレーターは,その衝撃の大きさを推定させている。

衝突したのは,小惑星。地表に対して,約30度で,南南東の方面から衝突した。その大きさは,直径10~15㎞,衝突速度は秒速約20㎞。この衝突によるエネルギーは,10の23~24乗J,広島型原爆の10億倍。

その結果起きたのは,

「衝突直後には,衝突地点周辺は,時速1000㎞を超える爆風に襲われる。衝突の瞬間に発生する蒸気雲の温度は1万度を超え,北米方面に広がっていく。周辺では森林火災が発生する。クレーターの形成に伴って,破片が放出され,宇宙空間にまでとばされる。それが再び大気中に突入し,大気を加熱する。再突入した破片の温度は,260度にも達し,その影響は数時間続く。」

この熱で,「大気の主成分窒素が酸化され,大量の一酸化窒素が発生する。…長期的な変動としては,オゾン層も消滅した」とされる。ユカタン半島は浅い海に覆われていたらしいが,クレーターに向かって海水が浸入し,300m超えの津波が発生したと推測されている。深刻なのは,中・長期的な変動で,

「衝突に伴い大量の塵が巻き上げられる。森林火災により大量の煤が発生し,大気中を漂う。衝突地点に厚く堆積していた硫酸岩は蒸発し,硫黄を大気中に放出する。」

数ヵ月から数年大気中に滞留して,太陽光を遮り,地球を寒冷化し,衝突後10年くらいで最大10度の寒冷化が起きる,と予測されている。しかも,大気中の硫黄は,酸素と反応して,硫酸となり,地球に降り注ぐ。海は酸性化することになる。

これまで地球上に生きていた種の99.9%は絶滅している,と言われる。つまり,「種が生まれた総数は絶滅した種の総数とほぼ同じ」なのである。こうした種の死滅も,あるいは進化も,天体衝突という「激変」と無縁ではない,のではないか,という説が大勢になっている。ということは,我々にとって,天体衝突は,大きな天変地異どころか,文明そのもの,人類そのものの存続を左右するほどの影響がある。プラトンの書いた,アトランティスは,そういう意味では,象徴的な意味をもつ。

「宇宙からの天体衝突を監視し,衝突する可能性がある場合にはそれに対処する方策を,世界で考えようという機運が高まっている。」

というのも,至極もっともな話である。

参考文献;
松井孝典『天体衝突』(ブルーバックス)





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2014年12月24日

生態学


江崎保男『自然を捉えなおす』を読む。

本書は,サブタイトルに「競争とつながりの生態学」とあるように,生態学の立場からの自然の捉え方なのだが,しかし,「序」で,視点を変えるのは人だけで,その視点の差は,「立ち位置」に左右される,と書いているところから見ると,本書が,さまざまな学問的な立ち位置によって,自然の切り取り方が,こうも変わるのだということを,書こうとする,意図があるのだと思う。

で,のっけから,生物学,生理学,生態学の違いから。

生物学は,生物はどのように生きているのか,生きてきたのか,その仕組み,メカニズムは何か
生理学は,生物個体がどのように生命を維持しているのか,そのメカニズムは何か
生態学は,集団レベルの生物学であり,静物に関する社会学であり,経済学であり,「生命」ではなく「生活」の科学

と区分けされる。この違いは,たとえば,「なぜ鳥は渡りをするのか」という問いに,至近要因と究極要因があり,
究極要因は,進化の産物と考えられるものであり,至近要因は,学問分野ごとに変わる。生理学なら,「鳥に渡りの衝動を起させる日長の変化」であり,生態学なら,「渡っていく先にある,繁殖に十分な量の餌」となる。

「現代の生物学者のアタマの引き出し構造は,タンスの引き出しのような,すべてが一つの面を向いたものではなく,『樹木の枝のように四方八方の斜め上にむかって伸びており,枝=各引き出しを引き出すと,そのなかには至近要因群が収納されており,そのはるか奥にはいつも,究極要因群を収納した貯蔵庫そのものである幹の内部が,うっすらと影をまとって見えており,引き出しを戻すと枝が幹に接し,つながるようになっている』といったイメージ…

という。進化を背景にして,各枝先に,生物学の各分野がある,ということになる。

生態学,つまりエコロジーは,もともと,

Ecology=oikos+logos

で,オイコスとは,「家」を意味し,原義から,「生活の科学」なのだという。

さて,そこで地球の自然を研究対象とする生態学の「自然の切り出し方」は,たとえば,日本列島の場合,

「森林・河川・海域・湖沼・草原・水田農耕地・都市」

という七区分になる(「湿地」を入れると,8区分)。それぞれには,特有の生物集団が生息し,その地域生物集団を,

群集
あるいは
生物群集

と呼び,その機能を説明するには,よく知られている食物連鎖が分かりやすい。それは,

「動物は他の生物を食わないと生きていけない(=動物の定義,動物とは他の生物を食う生物である)。たとえば森の住人であるハイタカは多種多様な小鳥を食って生きている,小鳥たちは虫を食って生きている,虫たちは植物の葉っぱを食って生きている」

というものだが,現在の食物連鎖概念は,「植物の光合成による,有機物生産を起点とする生食連鎖のみならず,動植物の死体や死物(デトリタス)を起点とする腐食連鎖にも広がってい」るらしい。

「腐食連鎖とは,たとえば森林土壌中には樹木の落ち葉や動物の死体・排泄物といったデトリタスが大量に蓄積されているが,デトリタスは有機物であり,生物が必要とする(化学)エネルギーが炭素結合として含んでいるので,これを食う多様な動物たち=デトリタス食者や,これらを無機物にまで分解してしまう多様な菌類・バクテリアといった分解者,さらにこれを食う菌食者が生息しており,それらがさらに消費者たる動物たちに食われる連鎖・つながりである」

と。つまり,「食物連鎖が人を頂点とする消費者たちの食料生産機能を担っているのに対し,腐食連鎖は地球全体の廃物処理の機能を担っている」ということになる。それは,

「植物を起点とする『生食連鎖網』とデトリタスを起点とする『腐食連鎖網』という2つの閉鎖的なネットワークが,いきものと死物の二つの回廊(コリドー)を介してボトルネック状につながっており,有機物は群集内を循環することになる」

ということなのである。ここで,ジョージ・タンズリーが発明した概念,

生態系(エコシステム)

が,意味を持ってくる。上記の循環システムは,

「有機物つまり生物体とデトリタスを構成する炭水化合物は群集のなかを循環するのですが,菌類やバクリテリアがデトリタスを最終的に無機物に分解・還元してしまうと,それらは二酸化炭素と水とアンモニアであり(生物体を構成しするタンパク質を完全分解するとこうなる),これらはもはや有機物ではなく生物体を構成しないので,定義上生物体の枠外にでてしまい,狭義の物質(炭素[C],窒素[N],酸素[O],リン[P])は群集の中を循環しないのです。」

タンズリーは,しかし,「群集を抱え込んでいる『無機環境を含めて生態系』と定義」したので,

「生態系内の無機環境にとどまっている無機栄養塩を,植物が光合成で体内に取り込むことになり,生態系のなかを物質が循環することになる。」

この循環を支えているのは太陽エネルギーであり,エネルギーは,生態系内を一巡する間に,生物たちが使いつくし,宇宙に放散してしまうので,

「生態系は太陽をバッテリーとする物質循環装置」

という言い方になる。しかし,これは,地球全体で起きているのであって,上記の区分での生態系では,真の循環は起きていない。たとえば,一方向に流れる河川では,循環が起きるはずはない。で,

「各種生態系には宇宙から光エネルギーが注ぎ込まれていると同時に,広義の物質である無機物と有機物が,有機物に同居する化学エネルギーとともに,隣接する系から流入する。そして,元から存在する物質とともに系内の食物連鎖という循環的な物質移動過程において,群集の食物生産機能と廃棄物処理機能に活用された後,系から流出していく」

として,「流入+系内での循環(的移動)+流出」という物質の動きを,生態系と見なしているらしい。その視点(生活の視点・エコロジカルな視点)からみると,

生物群集は一般的に形態上安定している

ものなのだという。特別な理由がない限り,「絶滅しない」という。では,そのメカニズムは,どうなっているか。

「捕食―被食の関係が織りなす食物連鎖網ネットワーク……たとえば,末広がりの投網のイメージです。最上位に人間がいます。(中略)いっぽうこの食物連鎖とつながりながらも,概念的には別物として,地表あるいは土壌中のデトリタスを基盤とする腐食連鎖の投網ネットワークが存在しているはずです。ただし,腐食連鎖を上にたどっていくと次第に地上の捕食者が登場するので(たとえば,落ち葉を食ったカタツムリをマイマイカブリが捕食する),現実にはこの投網ネットワークは途中から生食連鎖に乗り入れしていることになります。…また,ある種は複数種の餌をとり,同じ種が複数種に食われるので,これらのネットワークの上下のつながりを構成する一本一本の連鎖は,三次元に複雑に互いに交差しており,さらにこれに,競争と利用を動機とする複雑きわまりない捕食以外の生物間相互作用が,縦ではなく横あるいは斜めにつながり繊維として各種個体群をつなげているので,結果として複雑な三次元網目構造が形成されています。」

それぞれの関係は,大きさ(個体数)と太さ(関係の強さ)を時間的に変動させているので,実体は,「四次元網目構造」で,変動幅をもったバランスがある,という。

しかし,それが,隕石衝突による恐竜絶滅のようなリセットがなかったにもかかわらず,なぜ簡単に,地球各地で崩れているのか,について,著者は明確な答えを出していないように見える。そして,

「(恐竜に代わってヒトが頂点捕食者になって)この世は安定の方向に向かった。」

と言う。

「人は,その社会があくまでも他の生物たちがつくるつながり構造の存在を前提として成立している事実に気づくのにかなりの時を要した。」

という。少しぬるくないか,と,思う。

「このことに気づいた今,私たちは人という知性をもった動物として,自らが自然のなかで最上位頂点捕食者のニッチを占めているのであり,群集という地域生物共同体のなかで,そのメンテナンスという共通目標にむかって,『意識的に』貢献することができる唯一の役割であることを自覚しなければなりません。」

とくると,もはや,地団駄ふみたいくらいピンボケである。これが生態学の尖端にいるものの発言なのだ,というのが現実である。

それにしても,本書を読了して,

「生活する空間スケールも種によって大きく異なっています。一般的な植物個体が一生,芽生えたその地(大樹の根際の直径でもせいぜい数メートルの範囲)から離れられないのに対し,動物個体は原則,かなりの範囲を動き回ります。そして人という,すでに月に達した個体がいる特殊例を除いても,翼をもつ鳥たちの一生の行動半径がいかに大きいかはよく知られていることです。なかでも,キョクアジサシという鳥は夏の北極圏で繁殖し,非繁殖期は南極で過ごすので,わたる距離は往復三万2000キロにもなるのです。」

という奥行のある自然を,さまざまな視点から,具体的に見せてくれるのかという期待を,見事に裏切られた感があるる。その要因の多くは,学問としての,自然の切り取り方の異同の細部に力を注ぎ過ぎて,「自然の見え方」の奥行が,ときにまったくわからなくなることがあったせいだと思う。

読みながら,ときに投げ出したくなった。それは,その些末なこだわりが,随所で,話の腰を折り,せっかくの興味を削ぎ取られたせいだ。行動学と生態学の違いだの,動物社会学と行動生態学の違いだの,生態学の中の,群集生態学だの生態系生態学だの個体群生態学だの機能生態学だの等々の区分けへのこだわりが,煩雑すぎ,見方の違いが自然の見え方をこれだけ変える,という具体的に変ったものの描写を後背へ追いやってしまい,興味が切れてしまう。そのために,

「自然を捉えなおす」
というより
「とらえ直そうとする視点の違い」
の方に力点があるようにしか見えなかった。

おそらく,視点の違いで,これだけ自然の見え方が変わる,と言いたかったのだろうが,見え方の違いではなく,見方,つまり学問側の自然の切り取り方の細部に拘泥しすきて,肝心の見え方の違い,ひいては,自然の奥行の深さの方が,地に沈んでしまった感がある。一体何を書きたかったのだろう,と何度も首をひねった。

参考文献;
江崎保男『自然を捉えなおす』(中公新書)






今日のアイデア;
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2014年12月26日

官僚


矢部宏治『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』を読む。

沖縄の地上面積の18%が米軍基地であるが,上空は,100%支配されている,

という。しかし,それを沖縄だけのことと思っては大間違いである。実は,日米地位協定によれば,

「日本国の当局は,…所在地のいかんを問わず合衆国の財産について,捜索,差し押さえ,または検証を行なう権利を行使しない。」

つまり,場所がどこでも,米軍基地の内外を問わず,日本中,「アメリカ政府の財産がある場所」は,一瞬にして治外法権エリアになる,ということを意味している。墜落した飛行機の機体,破片,総てはアメリカ政府の財産と見なされ,警察も消防も手出しできない。

これは,独立を回復し,安保条約が改定された以降も,引き続き維持され,

「占領軍」が「在日米軍」と看板を掛け替えただけ,

の状態が続いている。そもそも,日米地位協定と国連軍地位協定の実施にともなう航空法の特例に関する法律第三項には,

「前項の航空機(米軍機と国連軍機)およびその航空機に乗り組んでその運航に従事する者については,航空法第六章の規定は,政令で定めるものをのぞき,適用しない」

とある。「最低高度」や「制限速度」「飛行禁止区域」を定めた航空機の運航に関わる規定が,まるごと適用除外になっている。つまり,米軍機は,日本国中どこをどう飛んでもいいのである。

しかも,最高裁は,砂川事件判決で,

「米軍は日本政府が直接指揮をとることのできない『第三者』だから,日本政府に対してその飛行差し止めを求めることは出来ない。」
「日米安保条約のような高度な政治的問題については,最高裁は憲法判断をしない。」

という(いわゆる「統治行為論」という)判決を出し,日本国内では,憲法よりも,安保法が,つまり米軍の行動が優先される,つまり,憲法の適用除外とされたに等しいのである。これ以降,総ての騒音訴訟は,

「米軍機の飛行差し止めは出来ない」

という判決が続くことになる。日本国憲法第八一条には,

「最高裁判所は,一切の法律,命令,規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である」

という規定がある。最高裁自体が,憲法違反を平然としている,ということである。基地問題に手を付けた,鳩山前首相は,

「官僚たちは,正統な選挙で選ばれた首相・鳩山ではない『別のなにか』に対して忠誠を誓っていた」

と語っているそうだが,ウィキリークスで暴露された通り,日本のトップクラスの官僚,高見澤防衛省・防衛政策局長,斎木外務省・アジア政策局長が,堂々と,アメリカ側に,鳩山元首相を批判していたという事実が,鳩山元首相の印象を明確に裏付けている。

では彼らは何に忠誠を誓っているのか。結論を先に言えば,

日米合同委員会

に対してである。そこは,

外務省北米局長を代表とする,各省庁から選ばれたトップ官僚と,在日米軍のトップによる月二回の会議,

である。憲法学者の長谷川正安名大名誉教授は,されを,

安保法体系

と名づけた。これが,砂川判決によって,

日本国内法はもとより,日本国憲法の上位に位置する,

ことが確定してしまっているのである。著者は言う。

「官僚というのは法律が存在基盤ですから,下位の法体系(国内法)より上位の法体系(安保法体系)を優先して動くのは当然です」

という。本当にそうなのか,それでは,件のアイヒマンと同じではないのか。ただ,指示された職務を忠実に果たすだけで,国を滅ぼすことも平然とする。そこには,人はいかにいくべきか,という倫理そのものが欠けている。すでに,ずいぶん前から,モラルハザードが起きている。

これと同じことが,原発でも起きている。原発訴訟で,例外を除いて,

「とりわけ児童の生命・身体・健康について,ゆゆしい事態の進行が懸念される」

と言いつつ,しかし,結論は,

「しかし行政措置を取る必要はない」

と無理に接ぎ木したような判決が多く出されている。ここにも,同じ背景を疑いたくなる。

放射能汚染がひどく営業停止に追い込まれたゴルフ場が東電を訴えた裁判がある。そこで,「除染方法や廃棄物処理の在り方が確立していない」という理由で,東京電力に放射性物質の除去を命じることは出来ないという判決が下された。著者は言う,

「おかしな判決が出るときは,その裏に必ず何か別のロジックが隠されているのです。…砂川裁判における『統治行為論』,伊方現原発訴訟における『裁量行為論』,米軍機騒音訴訟における『第三者行為論』など」

として,ここでも,基地問題と同じ適用除外がある,と指摘する。

「日本には汚染を防止するための立派な法律があるのに,なんと放射性物質はその適用除外となっていたのです!」

大気汚染防止法第二七条一項,土壌汚染対策法第二条一項,水質汚濁防止法第二三条一項,いずれも,「放射性物質による汚染,汚濁は適用除外となっている。そして,環境基本法第一三条のなかで,放射性物質による各種汚染の防止については,

「原子力基本法その他の関連法律で定める」

とし,「実は何も定めていない」のだという。だから,汚染被害を訴える農民に,環境省担当者は,

「当省としましては,このたびの放射性物質の放出に違法性はないと認識しております。」

と言い切る。つまり,法的に放射能汚染は,

「法的には汚染ではないから除染も賠償もする義務がない」

ということになる。裁判で門前払いされるわけである。そして最悪なのは,2012年の法改正で,この一三条が削除され,同時に,適用除外とされた条文も削除され,結果として,他の汚染と同じく,

政府が基準を定め(一六条)
国が防止のために必要な措置をとる(二一条)

で規制することになったが,その基準は決められていない。だから,幾ら訴訟を起こしても,「絶対に勝てない」だけではない。環境基本法と同時に改訂された原子力基本法の第二条二項に,

「(原子力に関する安全性の確保については)わが国の安全保障に資することを目的として,おこなうものとする」

とあり,原子力の問題も,基地問題と同様,安保法体系のなかに組み込まれたことを意味する。つまり,裁判の判断の埒外に追いやられたのである。つまり,官僚のさじ加減にゆだねられたのである。

議員立法で「原発事故 子ども・被災者支援法」が可決されても,政府はたなざらしにし,動かないことに対して,法案作成者の議員の一人が,被災者への意見聴取を求めたのに対し,復興庁の水野靖久参事官は,こう言い放った。

「政府は必要な措置を講じる。なにが必要かは政府が決める。そう法律に書いてあるでしょう」

と。これほど,いまの日本の実情を如実に示すものはない。議員立法に対しても,官僚は動かない。こうした背景にあるのが,

日米原子力協定

である。「廃炉」も「脱原発」も,日本側には何一つ決められない。しかも,日米原子力協定第一六条三項には,

「いかなる理由こによるこの協定またはそのもとでの協力の停止または終了の後においても,第一条,第二条四項,第三条から第九条まで,第一一条,第一二条および第一四条の規定は,適用可能なかぎり引きつづき効力を有する」

とあり,協定の終了後も効力がつづく。しかしも日本側からは,

「ひっくり返す武器が何もない」

と著者のいう状況なのである。これは,基地をめぐる地位協定よりも最悪である。つまり,選挙で選ばれた首相が,脱原発を表明しても,官僚が無理といえば,撤回せざるを得なくなる。この日米原子力協定が,憲法の上位にあることになるのである。

いずれも,「原発村」「安保村」といわれる。しかし,原発の規模は年間二兆円円,安保は年間五三〇兆円,

「なぜなら占領が終わって新たに独立を回復したとき,日本は日米安保体制を中心に国をつくった。安保村とは,戦後の日本社会そのものだから」

と,著者は言う。その日本のありようを示す,象徴的な発言は,キッシンジャーが周恩来に,なぜ米軍は他国(日本)に駐留し続けるのか,という問いに,

「もしわれわれが撤退するとなると,原子力の平和利用計画によって日本は十分なプルトニウムを保有していますから,非常に簡単に核兵器をつくることができます。ですから,われわれの撤退にとってかわるのは,決して望ましくない日本の核計画なのであり,われわれはそれに反対なのです。」
「日本が大規模な再軍備に乗り出すのであれば,中国とアメリカの伝統的な関係(第二次大戦時の対ファシズム同盟関係など)が復活するでしょう。…要するに,われわれは日本の軍備を日本の主要四島防衛の範囲に押しとどめることに最善を尽くすつもりです。しかし,もしそれに失敗すれば,他の国とともに日本の力の膨張を阻止するでしょう。」

と述べているとされるところに現れている。その意味で,日米安保条約は,

「『日本という国』の平和と安全のためではなく,『日本という地域』の平和と安全のために結ばれたものだ」

ということを思い起こさなくてはならない。国連(連合国)の「敵国条項」が,まだ日本にだけ(ドイツは事実上脱した)適用されていることを忘れてはならない。その延長線上に(占領軍としての),在日米軍がいる。その根拠法は,国連憲章第一〇七条と講和条約六条に基づいていて,「敵であった国」ということが続いている(イラク占領を「イラクの日本化」といったブッシュ大統領の発言はこの文脈で見ると,アメリカの本音が透けて見える。しかしそのイラクは,日本と異なり,米軍を撤退させたのである)。

中国の,

「日本政府による尖閣諸島の購入は,世界反ファシズム戦争における勝利という結果への公然たる否定で,戦後の国際秩序と国連憲章への挑戦でもある」

という発言は,その文脈から見るとき,敵国条項が生きている前提に立っての非難なのである。

では,我々は,どうすればいいのか。少なくとも,本書にはいくつかの提案があるが,現状では,国内有事とアメリカが判断した際,自衛隊は米軍の指揮下に入ると,密約で合意されている。しかも集団的自衛権自衛権行使を容認したいま,自衛隊が米軍世界戦略の先兵と化すことを意味する。

時間はそれほどない。しかし,少なくとも,基地問題については,今日の事態は,

日本側が,駐留を希望した,

ということに起因する。その拒絶の動きから始めなくてはならない。先例はある。フィリピンであり,ドイツである。いずれも,基地を撤去させた。周辺諸国との和解,関係改善を果たし敵国条項を実質的になくすことに成功したドイツのシュミット首相は,かつてこう言った。

「日本は周囲に友人がいない。東アジアに仲のいい国がない。それが問題です。」

と。その重要性が,30数年たってもなお有効であるばかりか,実は政府は今日,それとまったく正反対の行為を繰り返し,むしろ悪化させているということは,何という状況であろうか。

参考文献;
矢部宏治『日本はなぜ「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル)





今日のアイデア;
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