2014年12月28日

心の進化


鈴木光太郎『ヒトの心はどう進化したのか』を読む。

心の進化をたどることは,いまの我々が,ヒトたるにたるとはどういうことか,を照らし出すものになっている気がする。

ヒトをヒト足らしめているものは何か,「ヒトと近縁であるチンパンジーとはどこが違うのか」についての一つの目安は,いわゆる6大特徴といわれているものである。つまり,

大きな脳
直立二足歩行
言語と言語能力
道具の製作と使用
火の使用
文化

である。ホモ・サピエンスというのは,知恵あるヒトである。名付け親は,系統分類をおこなった,リンネである。しかし,その他にも,

ホモ・ファーベル(ものを作るヒト)
ホモ・ロクエンス(しゃべるヒト)
ホモ・モビリタス(移動するヒト)
ホモ・ソシアリスト(社会的なヒト)
ホモ・レリギオスス(神や超自然的な存在を信じるヒト)
ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)

等々ヒトの特徴を表した命名がたくさんある。

本書では,

「カタカナ書きの『ヒト』は生物学的な人間を指す。」

として,他の動物との比較を意識して使われている。ここでもそれに倣ってみよう。

さて,360万年前,アフリカのサヴァンナで,我々の祖先は,二足歩行をしていた。その足跡が残っている。それによって手が使えるようになったが,

「まずその筆頭はといえば,移動能力が格段に高まったことだ。」

と,著者は言う。瞬発力はピューマやガゼルにはかなわないが,

「霊長類のなかでは,地上をもっとも速く走ることができるようになり,しかも長距離を走ることもよくできるようになった。」

このヒトの持久力が,ほかの動物の四足走行よりも格段に優れているらしいのである。

「ヒトは走るために生まれついている」

とさえ言われる。その理由は,

「私たちの脳のなかには,持久走などの長時間の有酸素運動を…快く感じさせるシステムがある(「脳内報酬系」と呼ばれるシステムがこれに関わっている)。」

のだそうだ。狩猟生活を営んできた遺産らしいのである。
さて,移動能力を得ることで,出アフリカといわれる現象が何度かある。一度は,180万年前,北京原人やジャワ原人となる。その後,10~5万年前にかけて,何度も出アフリカし,一部はクロマニョン人,ネアンデルタール人に,そして,1万4千年前までには,未踏のアメリカ大陸へまで進出する。いまや,70億人である。チンパンジーは,15万頭ほどでしかない。しかし,
「現代人は,数万年前のホモ・サピエンスから基本的なところは変化していない。つまり,ホモ・サピエンスとしての解剖学的特徴はほとんど変化していない。」
だから3万年前のクロマニヨン人の赤ちゃんを現代に連れてきてこの社会と文化の中で育てれば,普通の現代人の生活を送るし,逆に,現代の赤ちゃんをクロマニヨン人に預けても,立派なハンターに育つ,と著者は言う。
「5万年前頃には,…人の特徴の大部分は…すでに存在していた」
と。
さて,ヒトは,「手の動物」なのだそうだ。
「手の指を頻繁に使うことは,左右の手の分業を生じさせた。」
例のペンフィールドのホムンクルスにあるように,脳のどこが身体のどこを司っているかは,詳しくわかっている。で,我々の運動神経は,左右で交差しているが,利き手である右を担当するのは左脳であり,左脳はまた言語脳でもある。
「これはおそらく偶然ではない。手で細かな操作を行う,すなわち順序だった手や指の動きを制御することと,音声や単語を並べ,その順序を規則にしたがって入れ替えることには多くの共通点があるからだ。」
火の痕跡は,80万年前の遺跡から見つかっているが,火には,明かりや暖の他に,道具の製作や加工に利用でき,石は,熱すると,剥離しやすくなるものがある。そして,調理である。火を通すことで,消化しやすくなり,栄養価の高い食べ物を食べられ,摂取できるカロリーも格段に増す。
「ヒトの脳は,実はエネルギーを驚くほど多量に消費する。身体の2%しかないのに,身体全体が消費するエネルギーのうち20%から25%を食う。」
加熱処理は,脳を大きくし,「600ccから900cc」に増えた。それは,エネルギー摂取と相まって,
「(堅い生肉を食べるために)重装備だった歯,あごや咀嚼筋が,華奢なものに変化している…。咀嚼筋が弱くなったことによって頭蓋全体をきつく縛っていた筋肉の拘束は弱まり,これによって,脳は大きくなることができた…」
という可能性がある。この火の管理,たとえば火の勢いを調節するために火吹き筒を吹く,という行為が,
「息の調節が,言語の発生の制御―専門的には「調音」と呼ばれる―のもとにある。」
と著者は推測する。
25万年前には,脳は,現在と同じ1350ccになっていた,と言われる。300万年で,三倍になった。
「新生児の頭は,この大きさでも妥協の産物だ。産道を通れるぎりぎりの大きさで生まれてきて,その後脳はさらに成長し,4倍の大きさになる。」
その拡大の中でも大きくなったのは,前頭前皮質,小脳,側頭葉,前頭葉である。
この前頭前皮質が,自分がいましていることを意識的にモニタリング(「ワーキング・メモリー」と呼ばれる)や,未来のことを順序立てて考えること(プランニング)に関わっている…。さらに,社会的な行動のコントロールにも,道徳的判断やリスクの判断,他者への共感にも関わる。
「小脳…のニューロンの推定数は1000億個だ。大脳皮質のニューロンの数140億個と比較すると,小脳の方が格段にニューロン数が多い…。大脳皮質と小脳の間にはきわめて密な連絡がある…。この小脳こそ,身体の微妙で精密な動きに欠かせない。身体の動きの指令は前頭葉後部から出されるが…,その指令にしたがって,実際に個々の筋肉の動きの調節や順序やタイミングを調節するのは小脳であり,そうした動きが記憶されているのも小脳だ。」
いわゆる手続き記憶に関わっている,とみなすことができるのだろう。そして,側頭葉から前頭葉にかけての白質と呼ばれる部分で,ここが大きく膨らんで,神経線維で満たされている。他の領野との連絡が密に張り巡らされている。この構造は,
「言語機能と関係している。…言語の理解を担当しているのが,ウェルニッケ野…,言語の理解をもとに表出(発話)を担当しているのは,前頭葉のブローカー…である(このブローカー野は,大脳基底核と小脳と協働することで,発話をもたらす)。ブローカーとウェルニッケ野は,弓状束という神経線維の太い束で結ばれている。つまり,側頭葉の内部の部分がふくらんだことは,ひとつには,言語の理解と表出の緊密な連携を反映している。」

いつから話していたかは,言語能力に関わる遺伝子FOXP2が,ネアンデルタール人の化石のDNAから解読され,50万年前に,ホモ・サピエンスの祖先とネアンデルタール人の祖先とが分岐するので,この時代に,話す能力を持っていた可能性がある,とされている。

ヘッケルの反復説,つまり「個体発生は系統発生を繰り返す」という。動物胚のかたちが受精卵から成体のかたちへと複雑化することと,自然史における動物の複雑化との間に並行関係,つまり人類進化の痕は,個の成長のなかに見ることができるとすれば,心の進化もまた,個の心の成長の中に見ることができる。昔読み漁ったピアジェが自分の子供の成長の軌跡に発見したのは,それであった。

脳のシナプス結合が最高になる一歳以降,子供は能動的にさまざまな知識や能力を身につけていく。ひとつは,ことば,いまひとつは心の理論。

「私たちは,相手の心の状態を読んで次の行動をとる。相手がなにをどう思っているかをつねに気にかけながら(場合によっては意図的に気にかけないようにして),自分の対処法を決めている。(中略)私たちが目にすることができるのは相手の行為やしぐさや表情だけであり,耳にすることができるのは相手が発することばと声だけである。しかしふつうは,私たちは,それら外に現れたものを通して,相手がなにを意図しているか,いまどんな感情をもっているか,なにを躊躇しているか,なにを思い悩んでいるかを,すなわち相手の心がどんな状態にあるかを推測する。」

これを「心の理論」と呼ぶ。これがなければ,カウンセリングもコーチングも成り立たない。この発達は,4~5歳ころに獲得される。ここではじめて,「他者の視点に立つ」ことが可能になる。

「他者の視点に立つことができるというこの能力は,自分がどういう人間かを自覚し始めること(「認知的自己」の出現)とも無関係ではない。というのも認知的自己は,他者と自分の違いがわかり,他者から自分がどう見えるかを意識することから始まるからである。」

これは,鏡の中の自分がわかることとも対応している。だから,

ホモ・イミタトゥス(まねするヒト)

がヒトの特徴でもある。指差し行為は,ヒトしかしない。なぜなら,

「指差しで指示されている方向とは,指差した人間からの方向である。見ている側は,その指差した人間の位置に身をおかないかぎり(あるいはそれを想像しないかぎり),指されている方向を特定できない。」

それは,注意の共有でもある。すでに,ヒトの社会がある。さらに,ヒトは,モノにも心を見る。天変地異や自然現象にも「心の理論」を当てはめる。その先に神や超自然現象を見る。

ホモ・レリギオスス(神や超自然現象を信じるヒト)

でもある。

結びの,収容所の中で仲間に言ったフランクルの言葉は,ヒトとは何であるかを示して,印象深い。

「自分たちのことを思いながら待っていてくれている人たちのことを思うように言う。『どんな苦境にあっても,だれか―友,妻,生きているだれか,亡くなっただれか,あるいは神―が僕たちのそれぞれを見守っていて,ぼくたちがその人や神を失望させないことを願っているのだ』。…人間は待っていてくれる人がいるからこそ生きられるのかもしれない。」

参考文献;
鈴木光太郎『ヒトの心はどう進化したのか』(ちくま新書)







今日のアイデア;
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2015年01月13日

征夷大将軍


二木謙一監修『征夷大将軍の真実』を読む。

源頼朝の鎌倉幕府の九代から,足利幕府の十五代を経て,徳川幕府の第十五代徳川慶喜までの,全将軍を描く。

征夷大将軍は,東国蝦夷制服を目的に,延暦十三年(794)桓武天皇が平安遷都と同時に,大伴弟麻呂(おとまろ)を征夷大将軍に任じ,蝦夷討伐を命じたのが,嚆矢とされる。従来,坂上田村麻呂を最初の征夷代将軍としてきたが,このとき田村麻呂は,副将軍であった,という。

しかし,その以前から蝦夷征伐軍を派遣しており,和銅二年(709)には,巨勢麻呂が,「陸奥鎮東将軍」に,養老四年(720)には多治比県守が「持節征夷将軍」に任ぜられ,延暦七年(788)に紀古佐美が「征討大将軍」に任じられたことがある。

しかし,一貫して蝦夷征伐がその役割であり,延暦十三年の征討では,実質,坂上田村麻呂が指揮を執り成果を上げ,翌年征夷代将軍に任命された。田村麻呂の活躍で,征夷大将軍の称号が,武臣第一の栄職,との伝統が生まれた。

以上が,征夷大将軍の前史である。

その後も東国に兵乱が起きるたびに,臨時に征夷大将軍が任命されたが,この称号の転機は,

「寿永三年(1184)正月,木曽義仲の征夷大将軍任命である。」

という。ここで意味が,征夷ではなく,「内乱に対して」任命され,

「『東国の兵馬の権』を握る武将としての職」

に変わる。「源頼朝の征夷大将軍は,義仲の前例にならった」ものであった。

この征夷大将軍というのは,

「中国で皇帝に代わって東方に遠征した将軍」

をまねたものだが,日本では,台頭してきた武士たちの間では,朝廷から大権を与えられる征夷大将軍を,

「天下第一の武将」

を指すものと認識するようになり,特に,

「源頼朝以降の征夷大将軍は臨時の閑職ではなくなって常設の官職となり,700年物長期にわたった武家政権の,頂点に立つ者の呼称となった。」

という。なお,征夷大将軍を,大樹公と呼ぶのも,中国出典で,『後漢書』「馮異伝」によると,

諸将が手柄話をしているときに馮異はその功を誇らず,大樹の下に退いた,

という逸話によるらしい。ついでに,幕府というのも,中国出典で,

皇帝に代わって遠征した征夷大将軍の幕舎

を指す。

ところで,本書によると,そういう歴史の始まりである源頼朝は,上洛した折,征夷大将軍を望んだが,

「後白河法皇は,…権大納言兼右近衛大将を頼朝に与えた。この役職は朝廷の公事に参加する義務があり,後白河は頼朝を京に留め置けば,位の頂点に君臨する自身を尊崇するしかなく,やがては頼朝を籠絡できると考えた…」

ようだが,頼朝は鎌倉へ帰る前に,それらを辞任し,「前右近衛大将」という肩書で,「前右近衛大将家政所を開設した」。幕府を開くのに,征夷大将軍の肩書はいらなかった,ということらしい。二年後の建久三年,後白河法皇崩御後,朝廷は,頼朝に,征夷大将軍に任じた。しかし,建久五年(1194),その征夷大将軍を辞任している。

「征夷大将軍はもともと令外官で朝官の職としては低く,近衛大将のほうがはるかに上位で,武家政権の首長としては『鎌倉殿』の地位で十分だった」

と,著者は書く。事実,源氏三代では,「鎌倉殿」が重視されていたようである。

鎌倉,室町,江戸幕府の全39人の将軍を見ていて,おもしろいのは,鎌倉幕府は,結局執権北条家が実権を握り,四代目からは,たんなる傀儡将軍を,京から親王を迎い入れてきた。室町時代も将軍は,名ばかりの時代が長い。徳川家康は,

「徳川氏が征夷大将軍として永遠の政権掌握者とするために,鎌倉幕府や室町幕府の在り方を研究」

したようで,強固な幕府組織を構築したため,幼少な将軍や病弱な将軍でも老中を中心とした幕閣が支える体制を作り上げ,結果として,傀儡と同じ形になっていった。ただ一度,延宝八年(1680),三代将軍家綱が危篤に陥った折,後継問題で,

「幕政を専断する大老酒井忠清は,鎌倉幕府の親王将軍に倣って有栖川宮幸仁親王を次期将軍に推し,北条氏のように執権政治を目論んだ。」

ということがあった。だが,弟がおり,

「忠清が押し切る形で決まりかけたが,春日局の義理の孫の老中堀田正俊は,徳川家の正当な血統として綱吉を強く推して反対した」

結果,綱吉が五代将軍になった,という。

この武家政権の歴史の中で,平氏と,織豊時代だけは,異質である。

織田信長が最終的に何を考えていたかははっきりわからないが,安土城に残された遺構や最近の研究から考えると,幕府を設立するという意思はなかったのではないか,という色合いが強い。秀吉の場合は,明らかに,その身分や経緯から,征夷大将軍にはなれなかったという説もあるが,大阪城という立地から考えると,別の見方も成り立つ。この二人だけが,ひょっとすると,武家政権の700年の中では,平氏とともに,武門の棟梁としては,異質な政権,という気がする。

ともに,政権基盤を確立できない間に,崩壊したので,ただ独裁制のみが際立つが,その色合いだけでも,他の政権とは異質である気がしてならない。





参考文献;
二木謙一監修『ほんとうは全然偉くない 征夷大将軍の真実』(SB新書)

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2015年01月15日

慶次


今福匡『前田慶次と歩く戦国の旅』を読む。

正直,歴史好きに世評高いという,「前田慶次」については,ほとんど知らない。したがって,慶次に関わる本を読んだのは,これが最初である。

前書きに言う。

「本書は,後世,傾奇者として有名になった前田慶次が著したとされる『前田慶次道中日記』の行程を辿りながら,慶長六年という無視されがちな年の列島の光景をすくいあげていこうとするものである。」

若い頃ならいざ知らず,六十九歳の慶次には,傾奇者の欠片も見えない。

傾奇者として有名な,佐々木道誉もそうだが,個人的な趣味であって,本人自身がどんな生きざまであるかとは,関わりがない,と思っている。多くは,後世の人間が,おのれを仮託した思いを背負わされているだけではないのか。

むしろ,慶次は,本来,前田家を継ぐべき人間であったという経歴の方に惹かれる。

慶次,すなわち前田宗兵衛は,

前田家の当主,つまり利家(又左衛門)の長兄利久(蔵人)は実子がなく,滝川一益の甥(と言われている)の慶次を養子に迎え,同じく利家の兄五郎兵衛の娘を利久の養女として娶せられた。

当然,前田家の当主となるべく迎えられたのである。しかし,織田信長が,荒子城主前田利久に対して,弟利家に家督を譲るように命じた。その理由は,

内子縁により,異姓を以て宗を継がしめる故

という。つまり,慶次を養子に迎えていることを指している。まあ,はっきり言って,犬千代時代から信長につかえ,赤母衣衆でもあり,信長と肉体関係もあった利家への贔屓と言っていい。

この理不尽さが,彼を傾奇者にしたと言っていい。世をすねなくてはやっていけないのである。前田家家臣として,関東御陣(小田原攻め)まではあった,とされる。

前田家出奔に当たっては,利家が,世を憚らざる行状を叱りつけたのに対して,

「万戸候の封といふ共,心に叶はずば浪人に同じ。只心に叶ふをもって万戸候といふべし。去るも止まるも所を得るを楽と思ふなり。」

と嘯いたと言う。五千石位を知行していたはずの慶次にとって,「心に叶わない主人にいやいや仕えていても,幾ら知行が多くても浪人と同じ」と出奔したという。普通は,後藤又兵衛が,黒田家を出奔して,「奉公構」と,諸家に触れられて,ついに大坂城に入場するしかなかったように,他家に仕えることは叶わなかったはずである。しかし,秀吉の口利きなのか,上杉の客将として迎えられることになった。

この背景にあるのは,豊臣秀吉が前田利家の甥の名を聞きつけ,召出すように命じた。その折,「大層変わった姿形で伺候するように」という注文がついた。

「前田慶次は髪を頭の片方に寄せて結い,虎の皮の肩衣,異様な袴を着して登場した。衆目が集まる中,慶次は秀吉の面前で拝礼する際,わざと頭を横に向けて畳につけたため,頭は下げても顔はそっぽを向いている格好になった。その時に髷の部分がまっすぐ上を向くように,横に結っていたのである。秀吉はすっかり面白がって,
『さてもさても変りたる男かな。もっと趣向があるであろう。そのほうに馬一頭をとらせる。直々に受けるがよい』と声を掛けた。秀吉の面前で褒美を受けるには,それなりの礼儀が必要である。慶次は,…いったん退出した。間もなく慶次は普通の衣服に改め,神も結い直し,礼法にかなった装束・所作で再登馬した。」

というエピソードで,秀吉から,

「今後はどこなりとても,思うがままに傾いてみせるがよい。」

と,「天下御免」を許されたというのである。しかも,武功は数え切れず,

「学問歌道乱舞にも才能を発揮し,とりわけ『源氏物語』の講釈,『伊勢物語』の秘伝を受けており,まさに文武の士」

であるという。

本日記は,その慶次の,上杉の減封・移封された米沢までの二十六日間の旅なのである。しかも,前年の慶長五年に,関ヶ原の合戦があった翌年のことである。その意味では,まだ徳川時代の街道整備がなされる以前の,変わりゆく街道の様子を伝えているが,慶次らしさは,ほとんど見受けられない。傾奇者どころか,ところどころさしはさむ歌にも,僕にはほとんど見るべきものがなかった。

みどころは,時代の転換期,織豊から徳川治世へと整っていく前の,中世の名残りをとどめたところくらい,と言うと言いすぎであろうか。

関ヶ原合戦直後というのに,そういうことについての言及はほぼなく,徳川については「と」の字も触れていない。一か所,浅香山で,塚を見つけて,「いかなる塚ぞ」と,村人に問う。

「石田治部少とかいう人が,今年の秋のはじめ頃京より送られてきた」

と答える。関ヶ原合戦の翌年である。早くも,

「京よ共り送られてきたという『石田治部少』を村の境へ送り出す」

いわゆる「虫送り」「神送り」の変形である。

「とかいう『石田治部少』を送る一行の中心は,六体(治部少,治部少の母,治部少の妻等々)の人形,青草・柳の葉で編んだ『ふねと』であり,五色の幣を立てている。五色の幣も五行思想にちなんだものである。
先頭には松明百丁をともし,鉄炮二百丁,弓百丁,竹鑓,旗指物にいたるまで取り揃え,赤い地に蘇芳で染め,紙でこしらえた袋の上書きに,「治部少」と書き付けてあった。武具を用意できない者たちは,紙や木の柴を用いて武具らしく作り,大きな杖,刀などをさして行列に加わり,馬乗りは馬乗り,徒歩だちは徒歩だちとわけて進んでいる。
人形を載せた輿の周囲には,称名念仏を唱え,かね,太鼓をたたき,笛を吹く一団がある…。」

在所では巫女が祈祷し,憑依して,

「今年慶長六年,田畠の荒れたるは,わが技にはあらずや」

と叫ぶ,という。慶次は,書く。

「死んだ後までも,人々を畏怖させる,石田三成という人物も,ただの人物ではなかった」

と。

しかし,この本を読んで思い出したが,小田原攻めで,周囲から目立つ美麗な鎧兜と旗印で,先駆けをし,討死した武者がいた,と記憶している。名前を探したが見つからなかった。傾奇者というなら,こう言うタイプの武者こそそうなのではないか。老いた前田慶次には,そういう気概も意気も,この日記からは感じとれなかった。

参考文献;
今福匡『前田慶次と歩く戦国の旅』(歴史新書y)




今日のアイデア;
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2015年01月23日

名字


武光誠『名字と日本人』を読む。

もうずいぶん昔のことだが,いっとき,自分の過去を探ろうとしたことがある。しかし,菩提寺の過去帳も,区役所の戸籍も空襲で焼け,曾祖父より先へはたどれなかった。本書では,「先祖さがしと名字」の章を設けているが,この二つのない場合,手掛かりが薄く,探るのは難しいようだ。尾張藩士だから,藩関係からたどれば,本家もあるし,そこから別れた二分家の一つでもあるから,探りようはあったが,別に由緒正しき家系でもない。その事実を知っただけで,やめた。過去に,おのれの出自に意味があるのではなく,出自は,おのれ一代でつくるべきもの,ということだなのだろうと,受け止めたからだ。

しかし,名字ということへの関心だけは残った。だからか,この本が,「姓(かばね)」の記事の中で紹介されていて,取り寄せた。肝心の元の記事を読んだ本が何だったかがわからなくなっているのだが。

天皇家が姓がないことについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/407928557.html

で触れたが, 日本では,二十九万余の名字があるらしい。ただその中には,斎藤と斉藤,島田と嶋田と嶌田,中田と仲田のような,「同じ概念から起こったとみられる名字」があるので,それらを一つと見なすと,9~10万通りになる。

名字は,武家身分の者だけが名字を公称することが許されていたので,江戸時代明治の戸籍制度ができたときに,適当に付けたものだろう,という先入観が強いが,著者は,

「江戸時代の農民や町人の多くが,名字を私称したり屋号をや通称を代々つたえていた。」

という。

「長野県坂北村の碩水寺の,天明三年(1783)と文化一三年(1816)の二度の本堂債権のさいの寄進帳…。二度の寄進帳に出てくる,何百と言う寄進者のひとりひとりが,すべて名字をなのっていた。」

あるいは,

「文化一三年(1830)に,富士山の御師で大蔵景政という者が作成した富士講…の名簿がある。それは,信濃国南安曇郡の南半分三三か村…の二三四五人中で,名字のないものはわずか一六人である。」

公的な五人組帳には名字を書かないで,同じ村の寄進帳には名字を書くと言う使い分けをしている例もあるようである。つまり,

「江戸時代の農村では名字を私称することがふつうで,名字をもたない農民が例外的なものであった…。とくに中部地方以東では『水呑百姓』とよばれた小作人まで名字を名乗っていたことを示す文献が多く残っている。」

という。地域的に領主や上層農民が名字を許さなかった例を除くと,ほぼ名字を私称していた,というのである。この「私称」と言うところが,名字の特徴なのである。

名前の言い方に,氏名,姓名,名字,苗字等々があるが,姓,氏,名字(苗字),それぞれが全く由来と歴史が違うのである。

まずは,名字と苗字。文部省が,「名字」。学校教育上は,「名字」が正解。法務省は,「氏」を正式名称としているので,「氏名」が使われる。

「氏」は,「藤原氏」「大伴氏」等々のように,もとは古代の支配層を構成した豪族を指した。「氏」の構成員は,朝廷の定めた氏上(うじのかみ)に統率されていた。地方の中小豪族や庶民は「氏」の組織をもたない。

「姓」は,天皇の支配を受けるすべてのものが名乗る呼称とされた。古代の豪族層と一部上流農民は,「臣(おみ)」「連(むらじ)」「造(みやつこ)」「直(あたい)」「公(きみ)」「首(おびと)」「史(ふひと)」「村主(すくり)」「勝(すくり)」などの「かばね」を与えられ,庶民の多くは,「山部」「馬飼」などの「かばね」を含まない姓で呼ばれた。

天武天皇が684年(天武13)に,八色の姓(やくさのかばね)が制定され,「真人(まひと),朝臣(あそみ・あそん),宿禰(すくね),忌寸(いみき),道師(みちのし),臣(おみ),連(むらじ),稲置(いなぎ)」の八つの姓が定められ,さらに,一般の公民は,670年(天智天皇9年)の庚午年籍,690年(持統天皇4年)の庚寅年籍によって,すべて戸籍に登載されることとなり,そこでも漏れたものは,757年(天平宝字元年),無姓のままの者,新しい帰化人等々にも氏姓が与えられるようになった。

つまり,姓は,朝廷に与えられるものであった。それに対して,名字は,平安時代末に武士の間で生まれた通称である。

「たとえば,北条時政の名字が『北条』であり,彼の姓は「平朝臣」である。」

ただ,氏姓制度は平安中期に崩れたので,「かばね」はすたれて省略され,「平」が姓となる。

「平素は『北条時政』と名のっているが,朝廷の公式行事の場では『平良孫時政』と称した。」これは,江戸時代末まで朝廷支配に関する場面では,「姓」が用いられ,「徳川家康に位階や官職を与える文書には『源朝臣家康』と書かれる。」ことになる。因みに,

毛利輝元は,「大江朝臣輝元」
前田利家は,「菅原朝臣利家」

となる。その意味で,羽柴秀吉が「源でもなく平でもなく『豊臣』の姓」を賜った意味が,よりよく見えてくる。

さて,通称である名字が広まると,ということは,

各地の在地の武士たちの力が強まると,

と言い換えてもいいが,「菅原」「藤原」は,姓をもとにしたものになのに,「名字」と受け取るようになっていく。

「名字」の名は,領地をあらわしている。しかしやがて,中世になると,「出自をあらわす名」を意味する「苗字」と書かれるようになる。江戸幕府は「苗字」を正式表記とした。「苗字帯刀」の苗字である。

本来,姓と苗字は,別のもので,姓は朝廷から与えられるもの,苗字は私称するもの,である。朝廷から与えられる必要がない,「勝手に自称した通称」であり,そういう自立というか,矜持を背景にしているように思える。事実,鎌倉武家が,私称を事実上公称を上回るものにしていく。

名字の十大姓と呼ばれているのが,鈴木,佐藤,田中,山本,渡辺,高橋,小林,中村,伊藤,斎藤,であるが,人口の10%は,この名字と言われ,上位100位の苗字を持つものが,人口の22%と言われているそうだ。

因みに,佐久間ランキング(佐久間英『日本人の姓』〈六芸出版〉による)は,

http://www11.ocn.ne.jp/~dekoboko/hobby/myouji/sakuma/index.html

に出ている(自分の名字は,183位。70万人いるらしい)。その中で一位なのは,鈴木姓で,人口の1.3%,この背景には,

「熊野信仰を持つ全国の有力農民の間でこの名字が好まれたことを抜きには説明できない」

と,著者は次のように,説明する。

「熊野大社の神官は,古代豪族物部氏の同族の穂積氏であったが,かれらは中世に『穂積』が主に『すすき』とよばれるようになると『鈴木』を苗字にした。そして,中世に熊野大社は各地に山伏を送って意欲的に布教した。熊野大社を祀るようになった武士は,自分の名字を鈴木に改め支配下の農民に自分と同じ苗字を与えた。ゆえに,『鈴木』の苗字は熊野大社の末社の分布が濃い東海地方や関東地方に多い。」

では,次に多い佐藤姓については,

「藤原秀郷の子孫にあたる藤原系の武士が名のった名字である。秀郷の五代目の子孫にあたる藤原公清,公脩の兄弟が,祖先の秀郷が下野国佐野庄…の領主であったことにちなんで『佐野』の『佐』と『藤原』の『藤』とをあわせた『佐藤』を名字にした。」

と言う。では三位の「田中」は,と言うと,

「人びとが新たに土地をひらいて集落をつくったときに,そこの有力者が村落の中心部分に住んで『田中』と名のった。そして,その名字がしだいにそこの中流以上の農民のあいだにおよんでいったのだろう。ゆえに,『田中』の苗字は,『鈴木』や『佐藤』の苗字の広まらなかった近畿地方から北九州にかけての地域に比較的多い。」

と言う。それは,中村性,山本性,小林姓も,田中に似た性格をもつ,と言う。

「『山』や『林』は,村落をまもる神社が作られた神聖な場所をあらわす。集落の指導者で,代々神社のそばに住んでまつりを行なっていた家が,『山本』や『小林』の名字を名のった。」

日本の名字で「貴少姓」は,一,二万位とされる。名字は,多く,地名と深いつながりを持っている。「貴少姓」も,地名に基づくことが多い。著者は,

「苗字は地名からつくられる。」

と言う。地名発祥は,全体の70%と言う。古代豪族の姓は地名や職名に由来するが,その70%は住んでいた地名に由来する,という。

考えれば,私称したのは,在地の有力農民,そこから力をもった武士である。地名には,意味があるのである。

ひとつひとつの名前には,おそらくいろいろな由来がある。著者は,先祖さがしは,日本史につながり,日本の特徴が見えてくるという。確かに,わずかいくつかの例をあげただけで,遠く開けていく視界がある。

なかなか名字の来歴は,奥が深い。


参考文献;
武光誠『名字と日本人』(文春新書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2015年01月30日

連歌師


綿抜豊昭『戦国武将と連歌師』を読む。

連歌というと,例の,

ときは今天が下しる五月かな

という明智光秀の,本能寺直前の「愛宕百韻」の発句が思い浮かぶ。戦勝祈願の連歌会は,よく催されたようだが,ことが本能寺の変とつながるだけに,それと絡めた解釈がなされてきた。

それにしても連歌は,今日すっかり忘れられた存在である。しかし,南北時代以降,戦国期は,武士,貴族挙げて,文化の華であった。

著者は,

「『連歌』が知られなくなる契機になったのは,明治維新による社会状況の変化がまず第一に挙げられる。それまでは将軍家や仙台藩伊達家では,年頭に連歌会が催されてきたが,幕藩体制ではなくなった明治時代になると,それらは行われなくなった。
また,『連歌』に代わって,『俳諧の連歌』がよく詠まれるようになり,それが『俳諧』と称され,さらにその一部にしかすぎなかった最初の部分『発句』が独立して,一つの作品として盛んに詠まれ,『俳諧の句』となり,それをちじめて『俳句』と称するようになると,『連歌』はわすれられていく。」

と述べている。俳句の芭蕉は,

「世にふるもさらに宗祇の時雨かな」

と詠んだが,それは連歌師。宗祇の,

「世にふるもさらに時雨のやどりかな」

を受けている。江戸時代には,芭蕉の句で,宗祇の句が背景にあることが分かるほどに,まだ連歌は親しまれ,知識となっていたということがわかる。あるいは,俳書『おくれ草紙』に,

花近し髭に伽羅たく初連歌

と載っているが,これだけで連歌師宗祇のことだとイメージできるほどに,身近であった。芭蕉は,『笈の小文』で,

「西行の和歌における,宗祇の連歌における,雪舟の絵における,利休が茶における,其貫道する物一なり。」

と書くほど,連歌(師)の位置は高かった。著者は,和歌・連歌を詠むという表の文学的活動以外に,裏稼業として,情報伝達がある,と言っている。

「関ヶ原の合戦のおり,石田三成から徳川家康弾劾状が諸大名に送られた。常陸の大名佐竹義宣にそれを届けたのが連歌師・猪苗代兼如とされる。」

と,あるいは,駿河の今川氏親に抱えられていた宗長は,甲斐の武田信虎の包囲に合った今川二千の兵を救出するため,和議の使者として,みごとその任を果たしたと言われる。連歌師・宗長にみる,戦国武将に抱えられた連歌師の役割を,お抱え連歌師以外に,

文化人の接待
今川家の記録者
京都との連絡役,交渉役,
他の大名との連絡役,交渉役

を果たしていたとされる。連歌が,武士にとっても公家にとっても教養として高い位置を占めていたことが背景にある。

宗砌という連歌師の書いた『宗砌袖内』には,

「歌一首を分けて,連歌の上下に成す」

とあるように,連歌は,和歌の五・七・五・七・七を,二つに分けて,上句(五・七・五)と下句(七・七)から成る。この連歌を多くの武士が嗜んだ。足利義輝は,

歌連歌ぬるきものぞといふ人の あづさ弓矢をとりたるものなし

とまで言い,「本当の武士というものは,和歌や連歌を詠むことができる者をいう」と言い切っている。昨今の無教養,野卑で,下品なトップに聞かせてやりたいものだ。サムライ心とは,「暴虎馮河」の輩ではないのだ。著者は,

「連歌は,変化に富んださまざまな人生の局面における心情を詠むとともに,自然界の四季折々の変化も詠む。そうしたことが書かれたものを単に『読む』のではなく,そうしたことを自らが『詠む』のが連歌である。……連歌で自然現象や人間の本質などについて表現するという行為を重ねて,『〈自然〉と〈人間〉の理解力を高める』ことができる。戦術ならともかく,戦略を立てる立場の者にとって,それは生き残るために必要な能力であろう。」

と。連歌は,上句と下句を詠みあわせていくため,コミュニケーション・ツールになり得る。たとえば,初の準勅撰連歌集『菟玖波集』に,

我ひとり今日のいくさに名取川    前右近大将源頼朝
君もろともにかちわたりせん     平(梶原)景時

というやり取りが載っている。著者は,

「自分がひとりで今日の合戦で名をあげる,という頼朝の気負いに対して,景時…は家来として,一緒に名をあげる,という忠節心を詠んだところか。頼朝の句は『名取川』に『名をあげる』を掛け,それに付けた景時の句は『徒歩』と『勝ち』を掛けたところが技巧,さらに『我ひとり』に『君もろとも』,『いくさ』に『かち』を付けて応じたところが機知に富み,即興にもかかわらずうまい。」

と述べている。このコミュニケーションである。

さらに,連歌は場を共有する。共に過ごす時間が長い。つまり,連歌は,

「和歌に比して,話をする機会,時間を多くとることができる」

というメリットがある。連歌には,

そもそも連歌とは,上句(五・七・五)と下句(七・七)で詠むだけでなく,さらに,五・七・五と七・七をつけて,長く連ねて続けていく「長連歌」というのがある。戦乱の時代,「百韻連歌」という百句つづけるものが多く行なわれたという。そうなると,「大体,十人くらい」が,一座をなす。その意味で,集団の「結束を図る」のにも利用された。千句連歌というのもあり,そうなると,百とまではいかないまでも,かなりの人数になる。そこを仕切るのに,専門の連歌師が必要になる。

五百年ほど前に成立した和歌の本に『七十一番職人歌合』というのがある。そこの百四十二の職人が,「連歌師」である。連歌師は,ある意味ディレクターでもある。百韻で,十人くらい,順番に句を続けていくが,どうしても,その場を仕切る人が必要になる。

ただ順番に読めばいいのではない。たとえば,

「共同作業ですることであり,たとえば,自分の句を押しつけたりする者がいたり,本来なら初心者が詠むことを控えて,重きをなす人に譲ったほうがよい『月』や『花』を詠んだ句を出したりするので,誰かがしきったほうが,全体のまとまりがよくなる。」

だけではなく,「百韻連歌」は,百韻全体で,一つのまとまった作品となる。その意味では,

「全体を意識していないと,一つの作品として完成度の高いものにならない。各句を見るとともに全体を見通す人が必要とされたのである。」

連歌会での連歌師の仕事で大切なことは,

「連歌が作品として完成し,会の運営がうまくいくよう,全体の流れを整えていくことである。具体的には,全体を意識して,ここではこういう句が欲しいといったアドバイスや,ここでこういう句をいれるとうまく流れていかないからこうしたほうがいいとか,こういう視座で付けるとよいとかいうアドバイスとともに,必要に応じて流れの要所で句を自らが詠むなどし,進めていくのが仕事」

なのだという。そういう連歌と連歌会という者を,戦国武将は,競って嗜んだ。その理由を,著者は,

連歌そのものの享楽
連歌会での家臣や同輩との連帯感の形成
連歌師から中央や他国の情報収集
連歌師を通じた情報の伝達
戦勝祈願といった祈祷
古典教養の学習

等々を挙げた。

「連歌は他人の詠む句に深く関わるという点で,『つながり感』の度合いが異なる。公家以外の連歌会では,現存する絵画資料を見る限り,同じ連衆であるお隣さんとの距離がかなり近い。」

という実際的なメリットが確かにあったのだろう。

「連歌には省略表現や『表の意』だけでなく,『裏の意』を持つ表現などが多い。それでも不都合を生じさせないためには,価値判断の共有が必要である。連歌会は,価値観を共有しているかをお互いが検査する場であると同時に,同じ価値観を共有する集団に属することを認識・確認しあう場でもあった。」

それは,ある意味,「教養を戦わせる場」でもある。戦国期,武士はおのれの教養を高めることにも競い合っていた。それが,トップになっていくための条件であった。茶の湯も,能もまたそうである。

今日,とりわけ戦後のトップ層は,欧米に比べて,知性と教養に見劣りがする,と言われて久しい。ダボス会議でもそうだが,一対一になったとき,すぐに,その無教養さは露呈する。ただ売り上げを誇っただけでは,一員にはなれない。政治家も企業人も,サムライというものの,「文」にもっと着目すべきだ。そんなことをつくづく感じた。トップの恥は,個人ではなく,そういう人物を選んでいる国民の民度を反映している。

参考文献;
綿抜豊昭『戦国武将と連歌師』(平凡社新書)







今日のアイデア;
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2015年02月07日

変える


小熊栄二『社会を変えるには』を読む。

新書500ページを超える,新書としては,大作である。しかし,読むのに難渋するところはなく,改めて,世界の,その中の日本の,そしてその中のわれわれのポジションを,ちょうどグーグルの地図を,地球規模から,拡大して,ピンポイントで,いま,ここの自分に辿り着くような,そんな社会運動の地図の役割を果たしている。

ノウハウについも若干触れてはある。著者自身が,いくつかの運動に関わり,デモにも参加した体験からの方法論だが,むしろそこではなく,改めて,「社会を変えるとはどういうことか」を,民主主義の原点,社会,政治思想の歴史を辿り直しながら,現時点を再確認して見せているところにこそ,見るべきものがある。あくまで,著者の「現状認識」の拠ってきたる背景と見ていい。

だから,著者は,あとがきで,こう書く。

「そこで読者にお願いしたいのは,この本を『教科書』にしないでほしい,ということです。私は権威になって,説経する気はありません。自分の書いたことが正しくてほかはまちがっているとか,西洋の思想は立派で日本はだめだ,などということを主張する気はありませんし,その逆もありません。『説教』の材料を『最新のもの』に変えているだけでは,『説教と実感』の対立という構造を変えることはできません。
ましてや,あなたの説教はすばらしい,どうぞ正しい答えを教えてください,私たちは何も考えずにあなたに従います,等々という姿勢をとられたら,この本で書いたことが何もつたわらなかったことになります。」

新しい正解を待っているだけでは何も始まらない。

「そのために,自国の歴史や他国の思想から,違った発想のしかたを知り,それによって従来の自分たちの発想の狭さを知る。その後,従来の発想をどう変えるか,どう維持するかは,あらためて考える。そのたるめに,歴史や他国のこと,社会科学の視点などが,必要になるのです。本書で私は,そういう視点を提供することを考えました」

と。しかし,それでは,今までの,著者の言う,

「政府だ,市場だ,NPOだ,と『正解』の材料をつぎつぎとかえたり」したのとどう違うのか,そうではないのではないか。もうそういう流れは,大なり小なりわかっている,いま必要なのは,著者自身が,今どうすべきかを,主張する思想なのではないのか。この本が実践論のノウハウを語る本ならいざ知らず,ここまででは,あくまで序論にすぎないのではないか。

思想の,社会運動の布置は見えた,

として,本論は,その現状認識の先を,自分の言葉と思想で,どう考えるか,にあるのではないか。その意味で,

思想史はあるが思想がない,

という気がしてならない。哲学概論はあるがおのれの哲学がない,という従来とどこが違うのだろう。

著者は,ここまで材料を提供したのだから,後は自分で考えろ,実践しろ,と言う。一体いままでとどこが違うのか,ただ,俯瞰し,整理して見せただけではないのか,それもほとんど西欧の思想を。たとえば,

「本書で紹介した視点,たとえば,『ポスト工業化』や『再帰性の増大』にしても,社会を見るための視点のひとつです。」

というが,それ自体が,著者の言う,

「政府や帝国大学卒業生が,西洋の文物をよくわからないまま輸入して近代化を進めた」

過去とどこが違うのか。「よく理解している」分違うというのか。それなら,自分の言葉で語るべきだ。(ヴィトゲンシュタインの言うように,)

持っている言葉によって見える世界が違う,

のであれば,輸入の言葉では,輸入の風景しか見えない。最低限,それを咀嚼して,自分の言葉にしなければ,自分の現実から生まれた言葉ではないのではないのか。

僕は,別に正解を求めて,あるいは,実践の後ろ盾を得たくて,本を読むのではない,自分の言葉で,自分の思想を語り,それを実践する思想に出会いたいのである。そこで初めて,対話がある。

上から目線ではないと言いつつ,自分の思想は語っていないのである。現状認識などは,百人いれば,百語るだろう。そうではない,自分の現状認識に基づいて,社会を変える思想を提供しなくては,結局,今までの横書きを縦書きに買えただけの著作とどう違うのか。

たとえば,著者は言う。

「運動とは,広い意味での,人間の表現行為です。仕事も,政治も,芸術も,言論も,言論も,研究も,家事も,恋愛も,人間の表現行為であり,社会を作る行為です。…。
『デモをやって何が変るのか』という問いに,「デモができる社会が作れる」と答えた人がいましたが,それはある意味で至言です。『対話して何が変るのか』といえば,対話ができる社会,対話ができる関係が作れます。『参加して何が変るのか』といえば,参加できる社会,参加できる自分が生まれます。」

と。正論だと思う。しかし,「デモをテロ」といい,対話をした後も,「見解の相異」と嘯く為政者の政権下では,まったくそれは牧歌的な手法にしか見えない。

すでに,日本の現状,民主主義国家の体を装いつつ,実は,政府も議会も,政治家も,国をコントロールできていないということについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/411281361.html

で触れた。それを背景に考えるとき,著者の実践論も,少し甘さを感じる。空(航空)も,米軍基地も,原子力発電も,さらに電波すらも,日米合同委員会マターだと言われる。これは,独立国の形態なのか,そういう現状認識から見ると,結局教養人のいう,正攻法でしかない。しかし,でも,ここにしか突破口がない,としいうなら,それなりの現実認識に基づく思想を立てないと,いつまでも,他国の思想を紹介して,現状認識をするだけでは,突破口はない。

ただ,個人的には,関係の物象化を,

人間と人間の関係が,物と物の関係として表れてくる,

を復習し,吉本隆明の,

関係の絶対性

の意味を別の角度で考えるきっかけにはなった。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/397281789.html

で触れたが,著者はこう書く,

「これを応用すると,『人間の能力』も,関係が物象化したものです。たとえば,家族がそろってニュース番組や芸術番組を見ながら夕食をとり,時事問題や芸術について会話があるような家庭で育った子どもは,お笑い番組をみながら夕食をとる過程で育った子どもより,自然と『能力』が高くなります。意識的な教育投資をしたかということではなく,長いあいだの過程の人間関係という目に見えないものが蓄積されて,『能力』となってこの世に現れる…。」

因みに著者は,これを,(ピエール・ブルデューの)「文化資本」という概念で見ている(著者自身による,この光景の帰納としてこの言葉があるのではなく,この(ピエール・ブルデューの)言葉の演繹としてこの風景がある)。この言葉で世の中を見ている。すでにこれ自体が,(著者自身の)関係の絶対性を顕現していることに,著者は無自覚である。

話を元へ戻す。さらに,こう言っている。

「市場経済の中ではみんな平等の人間だと言われますが,実際にこの世に現れるのは,『資本家』と『労働者』という,生産関係の両端でしかありません。『文化資本』のもとになる親の資産や学歴だって,もとはといえば,生産関係のなかで得られたものです。」

「こういう考え方によれば,『個人』とか『自由意志』というものは成りたちません。『個人』といっても,関係が物象化しているものだ。」

ということになる。対立は,個人対個人のそれではないのだ,ということになる。この物象化を,絶対性と見た,ということが,ようやく腑に落ちた,という個人的な感想だが。

参考文献;
小熊栄二『社会を変えるには』(講談社現代新書)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2015年02月23日

島原の乱


五野井隆史『島原の乱とキリシタン』を読む。

神田千里『島原の乱』(中公新書)

に,かつて強い感銘を受けた。それまでにも,個人的に,マリオ バルガス=リョサ『世界終末戦争』に触発されて,島原の乱を連想し,

鶴田倉造編『原史料で綴る天草島原の乱』,西村貞『日本初期洋画の研究』,石井進・服部英雄編『原城発掘』,助野健太郎『島原の乱』,鶴田倉造『天草島原の乱とその前後』,戸田敏夫『細川藩資料による天草・島原の乱』,煎本増夫『島原の乱』

等々を読み,さらに,村井早苗『幕藩体制とキリシタン禁制』,姉崎正治『切支丹宗門の迫害と潜伏』,海老沢有道『増補切支丹史の研究』,海老沢有道『キリシタンの弾圧と抵抗』等々も追いかけた上で出会った,神田千里『島原の乱』のもつ,複眼的な記述に強い印象を受けた記憶がある。

だから,期待も大きかったが,少し切り込みが単線に過ぎる気がしてならない。たとえば,

乱側に,松倉家の旧家臣がおり,幕府側に陣借りする形で,松倉旧家臣がいる,

乱側に,無理なりの形でキリシタンになり,加わったものがいる一方で,神仏を信ずるものにとってはキリシタンは悪夢の再来であるとして,藩側で戦ったものもいる,

唯ひとり生き残った絵描き右衛門作が,四郎にかわって指揮を取っていたという目撃談と,軟弱な裏切り者の絵師とていうギャップに,絵師に韜晦する,一筋縄ではいかない複雑な右衛門作像がある,

一旗揚げる最後の機会と幕府軍の各藩に陣借りする牢人もいれば,そのために一揆に加わった牢人もいる,

等々,と言う複雑さ一つとっても,この乱のもつ,構造の複雑さは,変り行く社会構造を背景にして,

(移封した有馬家と共に同行せず)土着した(土着というより,多くは兵農分化していなかった)旧有馬家臣,
(関ヶ原以来この地に土着ないし浪々した)旧小西家家臣,
廃絶された加藤家等々,潰れた各藩のあふれている牢人,
松倉家を致仕した旧家臣,
棄教させられたキリシタンの立ち返り,
キリシタンに無理なりさせられた農民,
戦国の習いに従って,村ごと城に逃げ込んだ一般農民,
一揆勢と藩側の勝敗の帰趨を見ながら,藩から一揆側へ,一揆側から藩側へと右顧左眄して生き残りを図る村々,

等々,という様々な要因が絡み合っていて,確かに農民一揆だが,当初各藩,幕府が,

たかが百姓一揆,

と侮るような戦力ではなかった背景だけからも,この乱のもつ複雑な構造が見えてくる。

乱の見方でも,当初から,

幕府,諸藩から,キリシタン立ち上がりの一揆として位置づけられていた,

のに対して,ガレオン船の船長として長崎に来たポルトガル人コレアは,

「彼らは領主に抵抗して起ち上がって反乱を起こした。キリスト教のために起こしたのではない。ところが殿の役人たちの目的は,彼らの暴虐を隠蔽するためまた日本の領主と皇帝(将軍)の名誉を失わないために,キリスト教のために蜂起した,と発言することにあった。」

と,書いた。彼は,宣教師援助の廉で逮捕され,乱後処刑された。ここには,宣教師側の言い訳があるかもしれないが,といって,もちろん,キリシタン信仰のために,立ち上がったというのは,少し単純化しすぎるであろう。

著者は,

「一度転んだキリシタンたちを糾合して蜂起に駆り立てることになった背景には苛酷な年貢徴収があり,…苛政が一揆発生の要因であったであろう。」

と書く。

勿論,飢饉の続く中,松倉側の重税と未進への過酷な苛政があったということは,多く上層農民層,つまり旧有馬家家臣たちにとっても,それは過酷な状況であった。

そうした絶望的な状況について,神田氏は,かつてこう書いた。

「飢饉という非常事態に際して,今や禁断の果実となったかつての信仰を回復することがこの危機を打開する,困難にして唯一の方法として考えたとしても不思議ではない。こう考えて初めて『キリシタンの葬礼』をしないことによる『「天竺」の怒り』が飢饉を招いたとする,人々の終末観を理解することができるように思われる。『天候不順・凶作・飢饉・領主の苛政や重税』を『棄教したことに対する天罰』と考え,これを『バネとしてキリシタンへの復宗運動が起こった』という鶴田倉造氏の指摘は,大きな説得力を持っていると思われる。」

そう考えると,それを悪夢と考える人もいるのである。キリシタン領主の下,キリシタンが力を持った時代の負の問題,例えば,非キリシタンの迫害,寺の焼き討ち,墓の破壊,人身売買等々が,非キリシタンにとっては,まさかの悪夢の再来なのである。当然,その反発もある。

そうした領民層の複雑な構造への目配りが少し足りないと同時に,反乱側の構想についても,

原城立籠りが当初から計画されていたものではない,

と,捕えられた渡辺小左衛門の口書だけから判断するのは,どうであろうか。著者自身も,

「領民による蜂起は一度キリシタン宗に立ち戻ることによって幕府の検使下向を促し,その際に恨み言を申し述べようとするためであった。」

とする当時の見方を述べているし,乱首謀者たちには,マニラへの移住という策をたて,そのために人を沖縄まで送り出そうとした気配もある,とされるなど,さまざまに構想があったのではないか,という気がする。

確かに,島原藩居城・島原城,唐津藩の富岡城,ともに一揆勢は,あと一歩で攻め落とし切れず,やむを得ず,原城に籠城に至ったけれども,両城攻略の目的は,そこに籠城することであったとすれば,それによって,何かを果たそうとしたのではないか,という推測も成り立つ。

一揆勢と幕府方とは,何回か矢文のやり取りをしているが,そこから読み取れるのは,

①籠城したのは,国家に背いたり,松倉に不満があるのではないこと,
②後生の救いを失わないために,信仰の容認を求めて蜂起したこと,
③現世のことについては将軍や藩主に忠誠を尽くすが,来世のことについては,天使,天草四郎の下知に従う,

という主張が共通してみられる,と神田氏はまとめ,

「『上様』への怨恨か,『地頭』即ち松倉勝家への怨恨かという幕府上使衆の問いに,『誰に対しての恨みでもない。(殺された)キリシタンの数だけ殺す』と原城内から答えた」

ものもいる,と加えている。

こう見ると,単純にキリシタンの乱とも,苛政に反発した一揆とも,一概に言えない複雑な土地柄を反映しているように見える。飢饉は,この土地だけではないし,重税も,飢饉なればこそ,どこでもありえた。それが,この地だけに,有馬の過半の農地が無人の野となるほどの一揆が起きたのか,そのための,

俯瞰の視点

虫瞰の視点

の両方がいるし,内と外,東アジア全体を見渡す視点もいる。その意味では,僕には物足りない思いが残った。

僕は,記憶で書くが,幕府がオランダを頼んで,海上から砲撃したように,一揆側にも,スペインを頼んで,キリシタンの移住を画策していたという話を読んだことがある。その両方があって初めて,島原の乱の規模の大きさがわかる気がするのだ。

参考文献;
五野井隆史『島原の乱とキリシタン』(吉川弘文館)
神田千里『島原の乱』(中公新書)






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2015年03月02日


12通の往復書簡から成っている,甲野善紀・前田英樹『剣の思想』を読む。

前田英樹氏については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/396988408.html

で触れたことがある。甲野善紀氏については,直接ではないが,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163234.html

で触れた。

前田氏が,あとがきで,

「スポーツ式の,つまり西洋式の身の置き方,動き方は,老熟ということを知らない。老熟を知らない世界に名人が生まれるはずはないのだ。」

と述べている。若い者のスポーツと武術との違い,つまりこの本の趣旨を,この一言で言い尽くしている。甲野氏は,それを受けて,

「武術においては,術を身につけた者が老人になっても,術を知らぬ血気の若者などを手もなくあしらったというのは,その身体の運用方法に無理がなく,単なる慣れで体を動かしていた人々とは動きの原理が根本的に違っていたからだと思うのです。」

と述べている。しかし,そんな名人芸も,単なるほら話と受け取られるのが今日の状況です。

「スポーツ選手の頂点は,残酷なほど若い時にやってきます。酷使して,あちこち壊れかかった体を残して現役を退いた時には,かれらは後進の指導とかいうもの以外,スポーツに対して何をしたらいいのかわからない。」

それは,

「スポーツの技術は,体を摩耗させ,ごく短期間で限度に達してしまうことと切り離せない。それは,この技術が,たとえば,職人の手先技などと違って,体全体を激しく使って成り立つものだからでしょうか。決してそうではないと,私は思う。原因は,スポーツの動作体系そのもののなかにこそある。この体系が根ざしている運動の一般法則が,多量に行えば身を損じるという,あきらかな条件のなかに置かれていることに因っているのです。」

と前田氏は言う。そして,

「私が誉めそやしたい技術は,もっと別なところで,おそらくは黙々と生きている奇術です。年齢の積み重なりと強くかかわり,それによってのみ少しずつ可能となってくるような技術なのです。」

という,前田氏は新陰流,甲野氏は,井桁崩しの考案者である武術研究家,ともに,剣術を念頭に置いている。両氏とも,武道という言葉を嫌う。甲野氏は,

「武道という名称が世に広く用いられるようなになったのは明治の始め,武術一般がおちぶれ,蔑視された後に隆盛となった講道館柔道の創始者加納治五郎の『術の小乗を脱して,道の大乗に』という名言がなにより大きな原動力になっていると思います。この一言で,剣術は剣道に,空手道,合気道,杖道,居合道と現在広く行なわれている武道は,皆,『~道』というようになり,単に武の世界のみならず,茶の湯や生け花も,『茶道』『華道』と」

言うようになった,と言っている。それはそのまま,スポーツへと地続きとなっていく。剣術という呼び方は江戸時代からで,それ以前は,宮本武蔵も,兵法といい,上泉伊勢守も新陰流兵法と名のっている。それについて,

「江戸期を通じて『術』はすでにその中身をなくして広まっていき,遂に柔道式の乱取り稽古を生んでいく…。…剣術,柔術の呼び名が一般化して行った江戸期は,剣術であれ柔術であれ,『術』と呼ばれるに足る中身を根本からなくしていった時代でした。反対に,兵法の呼び名が一般的であった時代には,数々の恐るべき術があり,我が術の成否に日々の命を託して生きるほかない人間が限りなくいた。兵法が生み出されたのは,このような『術』からです。言い換えれば,『法』は,『術』が『術』に克たんとする激しい願いから念じられていた。…日本の戦国期とはこういう時代です。上泉伊勢守の兵法や千利休の茶の湯は,この時代が抱き続けた或る願いの突如とした結実のように起こってきたに違いない。」

と,前田氏は言う。では,その身体使いとはどんなものか。たとえば,

「フィギュアスケートの選手が取る腰のかたちは,新陰流剣術で言う『吊り腰』の形に時としてまったく一致していることがある。腰の背骨のところを垂直に吊り上げられているような姿勢です。この姿勢によって,むしろ体重は上に吊り上がるのではない。体重は,下腹内部のほぼ中央ないしやや前方よりのところから真下に降りるようになる。このような立ち方を一貫して保った歩行が,上泉伊勢守以来の新陰流のものです。こうした歩行では,足が『浮く』と言われる。浮いた足は,地を蹴りません。膝はやや折ったカタチ。進行方向に顔が向いている時は,額と前脚の膝と足指の付け根あたりとは,床に対して垂直のほぼ一線で並んで移動する。」

と言う。これは,まさしく能の「仕舞」の所作である。柳生家は金春流と深いつながりがあり,

「現在の能役者の進退こそ,新陰流の足法を最もよく継承,具現している」

と言う。こうした所作は,その時代の,

歩行文化

の反映であるから,

「能と新陰流剣術とが,発生当時,同一の歩行文化を土壌とし,その土壌から或る共通の純粋な動作体系を,はっきり自覚して引き出すことに成功した」

ということになる。当然,その時代の歩行文化を反映するのだから,今日それが失われているのは,当然のことになる。

「新陰流の移動においては,移動する際に生じる体の軸を何より重んじます。四足獣が歩行する時の移動軸は,言うまでもなく,その脊椎と一致している。軸と脊椎とは,ここでは同義語です。直立歩行する人間では,この二つは直角の方向に分裂している。従って,人間はそのままでは,どうしたって四足獣の運動の一貫性,適切性には敵わないでしょう。靭帯の移動軸は,脊椎の軸から切り離されたために,まことにバラバラな,曖昧なものになっている。」

それをスポーツでは,

「移動軸がバラバラになった靭帯を,そのまま運動の一般法則に従わせ,徹底して酷使する。酷使に耐えられる体力さえ作っておけばそれでよいというわけです。」

対して,新陰流では,

「移動軸は,足法との緊密な連関を通してまったく新しく立て直されなくてはならない」

という考えで,そのために,

「脊椎の曲げによる上体の捻り屈みを禁じる必要がある。(中略)たとえば,刀を縦に真直ぐ振り下ろす場合には,上体を後ろに反らし,横に振る場合には,振る方向の反対側に状態を捻る。あるいは,斬り込む直前にいったん状態をたわめて引く。こういった種類の動きは,すべて日常動作がもたらす基本的な弊害として,消し去らなくてはなりません。どのようにして消し去るのか。
吊り腰による浮き足の足法を身に付けた場合には,ただ真直ぐ正面向きに歩くだけなら,上体はぶれません。反動動作は自然に消える。この時,移動軸は体を左右対称に割った真ん中の線におのずと決まる。」

とする。これを,甲野氏は,「武の技の世界には,『居付く』ということを嫌う伝承が古来から受け継がれて」いるとして,こう述べている。

「この言い伝えに従うならば,床に対して足を踏ん張らないのは勿論のこと,下体に視点を置いて上体を捻ったり頑張ったりしないこと,また腕を動かす時,腕や肩や胸を蹴る形で,つまり固定的支点を肩の関節に作らないようにすることが大事で,そのために,体各部をたえず流れるように使うことが重要なわけです。足や腰を固定して身体をまわすから捻れる…。」

武術では,老人が膂力のまさる若者を手もなくあしらったのは,

「その身体の運用方法に無理がなく,単なる慣れで体を動かした人々とは動きの原理が根本的に違ってきたからだ…」

というものである。今日の「なんば走り」等々が見直されているのは,甲野氏の発見が大きい。このことは,日本の太刀が世界でも珍しい両手保持となったことと深くつながっている。

「片手保持の『太刀打』では,太刀は振られる腕の延長としてあり,それ以上ではありえない。その使い方は,刀剣を単なる道具として手首や肘関節でこねるようにして使う剣技より,はるかによく運動の一般法則を脱することができます。けれども,この時,太刀といったいになって振られる腕は,体全体の動きから見れば,やはりひとつの道具のように機能している。肩先から太刀の切っ先までが一本の武器となって旋回するわけです。
両手保持の刀法ではそうではない。…刀は決して腕で振ってはならない。体全体の軸移動のなかに斬り筋の一貫した体系が成立するのです。」

として,こういう例を挙げる。吊り腰で,移動するのに,斬りの動作を重ねることについて,

「移動軸が身体の中心線にある場合には,斬りはその中心線に沿った真直ぐの太刀路しか使えません。斬りが斜め袈裟に入るのなら,移動軸はその太刀路に合わせ,体の中心線をはずれた別の位置に正確に立てられなければなりません。」

として,少し細部にわたるが,こう分析してみせる。

「大ざっぱに言って三つある。すなわち,体を左右に分ける中心の軸と,左右の肩から両膝を縦に通って地に達する二本の軸とがそうです。八方に開かれた吊り腰の足法は,これら三本の移動軸によって統括され,言わば積分される必要がある。なぜか。その移動が八方に開かれた二つの身体の攻防は,それ自体が無際限に続くほかない性質のものだからです。八方に開かれた移動の関数は,積分されて三つの移動軸に収まる。敵手に対して体が真正面を向いて移動する時には,中央の軸が活きて働いています。右肩,右腰が前方に出た『右偏身(みぎひとえみ)』の移動では右軸が活きて働き,左肩,左腰が前に出た『左偏身』の移動では左軸が活きて働いている。一つの軸が働く時には,他の二つは潜在的状態であり,潜在して一本の軸を支えていると言えます。」

新陰流では,「敵手を斬るとは,自分と敵手との間に」接点を創り出すことであり,「敵手の移動をそれとの接点で瞬時に崩す」ことが,敵を倒すことだ,と言う。それが間合いと拍子ということになる。

最後に,昨今,名人,名人芸が減ってきたのについて,思い当ることがある。前田氏が,上達下達,について触れたところがある。これは,『論語』にある,

君子は上達し,小人は下達す,

から来ている。

「凡人は,とかつつまらぬことに悪達者になる。励めば励むほど,反ってそういう方向に突き進んでしまう。やがて手に負えない厄介者になり,俺はこんなにすごいと言って回りを睥睨する。実は並み以下の者でしかないのに。これが『下達』という意味でしょう。この裏には,『上達』とは何と難しいことか,という孔子の嘆きと,また驚きがあるに違いない。」

まさに,自戒をこめて,今日の毀誉褒貶のハードルの低さとも関わり,汗が出た。

参考文献;
甲野善紀・前田英樹『剣の思想』(青土社)








今日のアイデア;
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2015年03月16日

おのずからとみずから


竹内整一『「おのずから」と「みずから」』を読む。

語源的には,「おのずから」は,

「オノ(己)+ヅ(の)+カラ(原因,由来)」

で,ひとりでに,という意味になる。「みずから」は,

「身+つ(助詞)」

で,それ自体,つまり,自分から,の意となる。

しかし,日本語では,

みずから

おのずから

も,「自ずから」を当てる。そこには,

「『おのずから』成ったことと,「みずから」為したことが別事ではないという理解がどこかで働いている。」

と,著者は述べる。その例として,

「われわれは,しばしば,『今度結婚することになりました』とか『就職することになりました』という言い方をするが,そうした表現には,いかに当人「みずから」の意志や努力で決断・実行したことであっても,それはある『おのずから』の働きでそう“成ったのだ”と受けとめるような受けとめ方があることを示しているだろう。」

もちろん,婉曲的な言い回しで,敢えて「結婚します。」ではなく,「結婚することになりました。」という言い方をしたがる,ということはあるにしても,「そうなるなりゆきで,こうなりました」ということを言外に含んでいる。そう言えば,「さようなら」も,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/402221188.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163568.html

等々で触れたが,「そういうことなので,おわかれします」という言い方は,再見,Good by(神の身許にあれかし),Auf Wiederserhen(再び会いましょう),Au revoir(またあいましょう)等々にくらべると,「そういうことなので」と,おのずからのニュアンスがある。

似た例で,「出来る」も,

「『出来る』とは,もともとという意味であり,ものごとが実現するのは『みずから』の主体的な努力や作為のみならず,『おのずから』の結果や成果の成立・出現において実現するのだという受けとめ方があったゆえに,『出(い)で来る』という言葉が,『出来る』という可能性の意味を持つようになった」

と,言う。当然それは,諸々の出来事は,

「『おのずから』の働きで成って行くのであって,『みずから』はついに担いきれない」

という,責任が取りきれない,という考え方に通じていく。それを,

「『みずから』は『おのずから』に解消されてしまっている」

と,著者は言う。当然それは,ただ主体の責任を溶かしこむだけではなく,

「『みずから』が『おのずから』の働きに不可避に与りつつもなお,かけがえのない『みずから』を生きているという受けとめ方がそこにある」

というのも事実である。お蔭様という言い方と通底する考え方である。お蔭様については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/415123076.html

で触れた。そこに,「なるべくしてなった」という力を強く感じとっている,ということである。

著者は,本書で,

「『おのずから』と『みずから』とを,ともに『自(か)ら』という一語で語りうるような基本発想において,日本人は,繊細でゆたかな情感を持った独自の思想文化を育ててきたのであるが,しかし同時にそれは,自立的・合理的な思考を欠く不徹底で曖昧な思想文化でもあるという批判をも生みだしている」

として,「おのずから」と「みずから」の「あわい」を,様々な例で,問い直している。それは,

「日本人の自然認識,自己認識のあり方をあらためて相関として問い直すことであり,また,その問いにほぼ重なる問いである,超越と倫理との関わりへの問いをも問うことになるだろう。」

と。たしかに,

自然(おのずから)
「どうせ」の発想(無常感)とおのずから
よしなやと面白や
空即是色

等々と並んで,伊藤仁斎,国木田独歩,柳田國男,夏目漱石,森鴎外,清沢満之,正宗白鳥等々を通して,探っていく試みは,ちょっとっ面白い切り口に違いない。なにせ,無意識に,

「~することになりました。」

と使っている言葉に,言外に逃げがあることを,意識している人はいないであろう。成り行きで結婚したのだから,成り行きで,「別れることになりました」と,しれっとして言えるのである。それは,「戦争することになりました。」とも「人を殺すことになりました。」とも言い替えていけるのである。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/402142102.html

でも触れたが,「仕儀」は,「おのずから」を言外に含んだ,重宝な言葉だ。「戦争する仕儀になりました」は,言外に何か理由がありげに,ただ成り行きでそうなったと言っているだけのことだ。

「おのずから」を,自然のルビに使うことがある。自然は,natureの訳語に当てられる前は,「じねん」とも呼び,

おのずからそうなっているさま
あるがまま,
人の力では予測できないこと

「殊更らしいことを嫌っておのづからなところを尊ぶ」

という言い方,あるいは西田幾太郎の,

「無心とか自然法爾(じねんほうに)とか云ふことが,我々日本人の強い憧憬の境地」

という言い方をしてきた。しかし,それは,親鸞においては,

「こちら側の『みずから』のはからいは,決して阿弥陀の『おのずから』の働きと重なるものとしては受けとめられていない…。」

それを,著者は,こう,読み解く。

「『己を尽す』べく『みずから』の『無限の努力』が要請され,しかもそれ自体が『自己のものではない』『おのずから然らしめるもの』なのだ,という異様な論理がここにはあるだろう。(中略)親鸞において厳密にしかも繰り返し注意されている。つまり,『現実』はどこまでも『絶対』と区別されながら,かつ『相即』するものとして捉えられているのである。『即』とは,そうしたきわめて微妙な『あわい』としての『即』なのである。『おのずから』は,『そとから自己を動かいのではなく内から動かすのでもなく自己を包むもの』なのである。」

自分が信ずることは,おのずからのしわざである。しかし,おのずからのせいにゆだねるわけでもなく,だからこそ,祈るべく尽力する,という感じであろうか。

それは,清沢満之の,

「我等は絶対的に他力の掌中に在る」

という言い方と重なる。そこには,自分の意志で結婚するのだが,大いなる何かに動かされての縁としての結婚だというニュアンスが,ある。もしそこに,自分の努力や意志を前提にしなければ,ただの成り行きにまかせになる。

道元は,「生死即涅槃」「煩悩即菩提」という言い方をしたが,

「道元の説く,その『即』は,決して無媒介な連続性・同一性をいみするそれではない…。座禅という修行を介さないかぎり,その『即』は現成しない。しかしかといってそれは,修行を経て覚証に至ればそうであるという意味の『即』に限定されるものではない。証は修行を経てその結果として到達するものではなく,端的に修行の実践そのものの,瞬間,瞬間においてのみ証せられるものなのである。」

と。この,「即」が「あわい」である。一元論の思い込みでも,二元論でもない。しかし,これは,堕すれば,無責任に陥ることは,必然である。修行,尽力抜きで,

「~になりました」

という時代に,いま,いよいよシフトが甚だしい。

清沢満之のように,

如来がいるから信ずることができるのか,人間が信ずるから如来がいるのか,

という問いをもつことの重要性は,そこに在るような気がする。

参考文献;
竹内整一『「おのずから」と「みずから」』(春秋社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)






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2015年03月25日

冤罪


三田村鳶魚『江戸の盗賊 鳶魚江戸ばなし』を読む。

江戸時代初期,江戸が繁華になるに従って,「大草履組」「小草履組」と名のる泥棒が集団で,跋扈したらしい。それが無くなったに当たっては,慶長十三年(1608)にできた,本丸,二ノ丸,三ノ丸,西丸といった内曲輪に加えて,寛永十三年(1636)に,外曲輪ができ(これが総曲輪),それとともに,山下門,幸橋門,虎ノ門,赤坂,四谷,市谷,牛込,小石川,筋違,浅草,に郭(かく)門ができたことが大きいらしい。

「江戸の警備の上には,なかなか大きな事柄だった…。」

と鳶魚は語っている。いまは,「赤坂見附」という名前が残っているが,見附というのは,

「城の外郭に位置し,外敵の侵攻,侵入を発見するために設けられた警備のための城門」

のことで,江戸城には外濠および内濠に沿って36の見附があったとされている。しかし,「江戸の見附は,そんなに多いものではない」らしい。延享期(1744~47)にできた『江戸惣鹿子』などでも,31しかない,というが,ともかく,これによって,外敵への備えができた。さらに,寛永八年(1631)からは,町奉行所ができ,

「これ以後は,おおきな泥坊になると,江戸回りを舞台にする。江戸の中を舞台にして踊ることはできなくなった。」

ということだ。しかし,なかなかそうはいかないのは,江戸の町が,どんどん人口を吸収して拡大していったからで,元文期(1736~40)になると,どこまでが江戸で,どこからが田舎であるかがわからなくなった。

で,明暦の大火(いわゆる振袖火事)以後、放火犯に加えて盗賊が江戸に多く現れたため,寛文期(1661~72)に,初めて火付盗賊改を置く。そして天和三年(1683)に,加役というものができ,御先手組のものが兼務するようになる(で,加役というと火付盗賊改のこととなった)。その最初の者が,中山勘解由である。

「火付盗賊改の方は,町奉行の方の与力・同心と競争の心持があって,手柄を奪い合うことは,後々まであった。後のことですけれども,町奉行所の方の吟味を『檜の木の舞台』といい,加役の方の調べを『オデデコ(御出木偶)芝居』といっている。そこで功をあせるから,早く白状させようともすると,どうしてもこうしても罪にしなければならぬという気持ちもある。うまくゆくこともあるし,また失敗もある。」

と言っているが,当時の人も,かなり酷評しているらしく,

「怪しむべきでもないものを縛っているのも多いようである。調べが厳しいので,言わないうちは死ぬまで責める,というやり方だから,どのみち助からぬというので,目前の苦を逃れるために,罪を認めてしまう者がある,通り者とか,博打打ちとかいう者が,勘解由のために押さえられて,島流しになったものがたくさんいる」

という状態である。そんな逸話の一つが,無宿の伝兵衛が,火付けをしたというので,市中引き回しの上,一日晒し,火あぶりの刑になることが決まっていた。しかしその高札にある犯行時に,「数珠屋にまだ弟子奉公をしていて,火事の当日は,主人方にいた」という噂が広まった。

それを南町奉行所の大岡越前守の手附同心中山五右衛門・小川久兵衛が聞き出し,大岡越前守に上申し,それに基づいて,月番の北町奉行所へ通達したところ,北町奉行の諏訪肥後守は,早速刑の執行を中止し,改めて詮議をし直した,という。

現在の冤罪事件と構造がよく似ている。

きっかけは,火付盗賊改方の目明しが,夜見回りの最中に,土蔵のところで寝ていた胡乱な男をつかまえ,いろいろ脅し,言わなければ拷問してでも言わせる,と脅されて,ちょっと「たわけ者」のところがある伝兵衛は,やってもいない罪を認めたということになる。

現在の裁判よりすごいのは,そうして詮議し直した結果,目明しが死罪,掛りの火付盗賊改方の同心は,役を召し放されて,閉門の処分となった。きっかけを作った二人の同心は恩賞を置けた,という。実は,この後がある。

「(この件に)一番驚いたのは幕閣でありまして,罪もない者を極刑に行うようなことがあっては大変だというので,
老中の松平左近将監は,…命を両町奉行所へ伝えました。それは,無実の罪で極刑に行われようとした顛末を触れに書いて,町の辻々へ貼らせた。その末に,今後重罪の者はもちろん,小さい罪の者であっても,科なき者が科に行われるような場合には,親類身寄りの者から,御仕置以前に遠慮なく再吟味を願い出るように,ということであります。」

DNAで明らかに冤罪とわかっていても,死刑に処せられたものが,名誉回復さえされない現代と比較しても,為政者の姿勢の格差に,愕然とする。どちらが近代的なのであろうか。

結構成物 日光の彫物と大岡越前守

という当時の「物揃」にあり,「頭尽」に,

役人の頭 大岡越前守

と,越前守の評判が高いのも,『大岡政談』という講談が,必ずしも,見てきたような噓でない証である。しかし,それ以降,他の名がないのは,際立た例なのかもしれない。

ただ,「親族身寄」まで広げて再審を願い出られるようになったのは,

「随分思いきった拡げ方だと思います。親類だけでなしに縁類を加えたのが,なかなか目立って見える。それですから,てきめんに再審事件が出てきてもおります。」

という次第で,実際に冤罪が晴らされた例がある。

どうも犯罪というのには,時代を映しているところがあるらしく,享保期(1716~35)になると,武家も町家も,奉公人に,渡り奉公人が増え,一季半季で,次々と奉公先を変えていく。その間に,

「取り逃げするとか,前の主人のところへ忍び込んで泥坊するということが多かった。」

という。その当時から,「請宿及び戸籍制度」をしっかり立てていないのがいけない,という議論があった,という。身許というのは,人別の確かだったらしい江戸時代ですら,江戸というのが,東京と同じく,大都会でということが分かる。なにより,人で不足なのである。

そんな使用人の犯罪で締めておく。ある商家に縁付いて,お産で亡くなった女性の弔いもすんだ雨の夜,

「あたりも静かになった時分に,亭主のおります座敷の窓から,死んだ女房が覗き込んで,私のもっていた小袖の中に,何々の模様のがある,あれは平生から気に入って秘蔵していたものだが,死んでみると,それを娑婆に置いてゆかなければならぬ,そのことが忘れられないために,冥路の妨げになり,六道の辻にも迷うわけである,どうかあの小袖を渡してもらいたい,と言った。亭主もそれを聞いて,なんだか不憫になってきた。」

幽霊が出たのを不審とは思ったが,小袖を渡した。すると,また少しして,同じように幽霊が出てきて,今度は箪笥の中に真金一両を使い残しておいた,それをくれ,というに及んで,亭主もおかしいと思い,小判を持ってでて,女が窓越しに手を伸ばしたところをつかまえて,押さえつけた,という。よくみると,それは,死んだ女房が嫁に来るとき,里付に来ていた女であった,という。

「都合のいいことには,昔の幽霊は足があったので,幽霊の足が無くなったのは,尾上松緑以来の話です。」

とは,オチである。文化年間,尾上松緑が『東海道四谷怪談』を演じるにあたって,凄味のある演出として,幽霊の足を隠して,人魂といっしょに登場するという手法はないものかと考えた,という。それまでの日本の幽霊には足があったそうである。

参考文献;
三田村鳶魚『江戸の盗賊 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)





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2015年03月26日

取締り


三田村鳶魚『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』 を読む。

奉行所は,南北二ヶ所(元禄期,短い間中町奉行所)があった。奉行所は,裁判だけでなく,捕物出役に出かけていく。老中の下知で,例えば慶安の変での丸橋忠弥捕縛のような例の他に,取籠り者があるとの訴えによっても出役する場合がある。

その場合,当番与力一人が,同心一人を連れて出役する。継上下(つぎかみしも)で出勤している(のちには,羽織袴に変るが)与力は,着流しに着かえ,帯の上に胴締めをし,両刀をさし,手拭いで後ろ鉢巻をし,白木綿の襷にジンジン端折り(着物の背縫いの裾の少し上をつまんで,帯の後ろの結び目の下に挟み込む)する。槍を中間に持たせ,若党二人に草履取り一人を従えている(本来一騎二騎と数えるが,いつのころからか馬に乗らず槍一本持たせるだけになった)。

「供に出る槍持は,共襟の半纏に結びっきり帯で,草履取は,勝色(かちいろ)無地の法被に,綿を心にした梵天帯を締める。供の法被は勝色で,背中に大きな紋の一つ就いたのを着ている。」

与力は,御目見え以下でも,一応御家人という身分である。ひとりで歩くということはない,ということである。

「同心は羽織袴ででておりますが,麻の裏のついた鎖帷子を着込み,その上へ芝居の四天(歌舞伎の捕手)の着るような半纏を着ます。それから股引,これもずっと引き上げて穿けるようになっています。」

という身なりである。さらに,小手・脛当,長脇差一本(普段は両刀だが,捕物時は刃引きの刀一本),鎖の入った鉢巻きに,白木綿の襷,足拵え,という格好になる。供に,物持ちがつき,紺無地の法被に,めくら縞(紺無地)か,千草(緑がかった淡い青)の股引きを穿く。

刃引きの刀に差し替える,ところが味噌なのだろう。その辺りをリアルにやっていたのは,『八丁堀の七人』というテレビドラマであった。

で,町奉行所の前に呼び出されると,奉行から,与力に「検使に行け」と命じられ,同心には,「十分働け」と言い付ける。さらに,桐の実を三方に載せて,各々水杯をする。与力は,一番手,二番手と捕物にかかる順序を定め,町奉行自身,表門を,八文字に開かせて,出役一同を表玄関まで見送る。

与力と同心の,この身なりの差は,

「与力は…,決して捕物に手を下さない。槍を持たせていくのは,同心の手に余った場合,その槍で敵を弱らせて逮捕の便利をはかるためで,傷つけたり殺したりすることはありません。まったく同心援助のためであります。」

という。

町奉行所は,月番で勤務につく。同心は,三廻りといって,廻り場をきめて巡回させる。三廻りは,

隠密廻り
定廻り
臨時廻り

月番だと,新しい仕事を引き受け,非番は,前の月に受け付けた事件を片づける,ということになる。

まあ,例の仕事人の中村主水の,定町廻りは,月番でも非番でも,毎日出る。江戸市中をおおよそ四筋にわけ,代わりあって巡回する。

「廻り方は竜紋の裏のついた三つ紋付の黒羽織,夏なら紗か絽です。暑い時分には菅の一文字笠,寒天とか風烈とかには頭巾を用いるが,概して冠り物のない方が多い。そうして,御用箱を背負わせた供と,紺看板,梵天帯に,股引,草鞋で,木刀一本さした中間が一人,そのほか手先が二三人ついております。」

こういう一行が巡回しているのである。テレビや映画のように,一人でうろうろするわけではない。

江戸には,自身番と辻番というのがある。辻番は,武家地にある。自身番は,町家に江戸中で三百位ある。自身番は,大道に面したところに,九尺二間の建物で,巡回の度に,同心が声を掛けていく。

自身番は,書役が雇われて通っていて,多いところで三人,夜も人が詰めている。

その意味で,江戸は,木戸番がおり,自身番があり,辻番がある,という防犯の仕組みにはなっていた。発祥はともかく,交番が,日本になじめたのは,この辺りに原因があるのかもしれない。江戸の町々には,木戸があり,木戸番がいて,夜の四ツ(午後10時)に締めてしまう。後は,潜りから出入りさせ,怪しい者が通ると,木戸番が拍子木で次の木戸番に知らせた。

八丁堀の同心には,「背中に胼(ひび)をきらせた」という言葉があったという。まあ,いまの刑事だと,靴を履きつぶすというのに近いか。多く,十二歳から見習いに出て,二十年,三十年の功を積まなければ,廻り方までになれない。

「炎天,寒夜の嫌いなく,雨風に吹きさらされて苦労する。廻り方と言って威張る頃までには,背中に胼(ひび)もきれましたろう。そういう苦労をして,大勢の囚人を取り扱っておりますから,廻り方にぼんくらな奴はいない。自分の仕事にかけては,随分功名を急いだところもありましたが,滅多に捕り違いとか,調べ損ないとかということはありませんでした。」

という。そこが,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/416204136.html?1427227894

で述べた火付盗賊改との違いなのかもしれない。

「牢へ入れるというのは軽いことではない。いかに相手が町人どもでも,容易ならぬことでありましたし,また,牢屋の方にしましたところで,いかに定廻りが召し捕ったものであるにしても,入牢証文というものがなければ,伝馬町では受け取りません。入牢証文は,同心が調べて,すぐに同心の手でこしらえる,というような造作のないものではない。……廻り方は,囚人を大番屋に預けおいて,夜分になりましても,すぐに奉行所へ取って返して,一件書類を出して,入牢証文を請求するのであります。…町奉行の御用部屋…手附の同心…へ一件書類を出しますと,それが吟味方へ回る。吟味方のほうでは,その書類を見ました上で,御用部屋から出た入牢証文を当番方へ渡す。それから,その入牢証文が伝馬町…に渡される。」

という次第で,ほぼ一日を要する。大番屋に預けられていた囚人は,町役人に付き添われて,牢に入れるのだが,そのとき,吟味方の与力がひと調べして,入牢と決まれば,嫌疑から刑事被告人に変る,のだという。

吟味を受けると,出来上がった調書に拇印を押す。口書・爪印がすむと,奉行の申し渡しになる。

「御奉行様の御白洲というものは,一つの事件について二度か三度のもので,大概三度目は申渡しになる。それは吟味方の方で十分吟味をととのえて,口書・爪印を済ませまして,御用部屋手付の同心が擬律(ぎりつ)までして,申渡しの文句も整えてある。御奉行様は駄目を押せばいいのです…。」

というわけだ。それにしても,整った官僚組織という印象がある。その中で,前回,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/416204136.html?1427227894

で触れたように,冤罪を発見して,それを覆せるというのは,組織の柔軟性というか,トップの裁量の余地が大きいという気がしてならない。もちろん,そうではないケースも多くあったようではあるが,同じ官僚機構ではあっても,今日裁判制度が硬直しているのが,かえって鮮明に見えてくる。

元来が御先手組という,戦時の先方をつとめるという軍役の名残りで,荒っぽいことで悪名高い火付盗賊改も,制度が整うにつれて,少しやり方が変わる。宝永二年(1705)から五年までこの役にあって,勘定奉行に栄転した平岩若狭守という人は,懇意だった所司代松平紀伊守に,「まず三奉行に相談を遂げる」と語り,死刑と決まった者にも,

「その前日に呼び出して,今度おまえの犯した罪は,どうしても死罪を免れ難いものであるが,今まで申し述べたほかに,まだ何か申し開く筋がありはせぬか,その辺りのことを十分考えて申し立てるようにしろ,百に一つも申し開くことがあれば,また取りはからい方もあるから,と言って聞かせます。」

と。さてさて,結局制度を生かすも殺すも,人だということがよくわかる。

加役(火付盗賊改の)は述べ135人,そのうち三人罰せられているが,多くその処断に瑕疵があった場合だが,冤罪以外に,闕所処分にしたケースで,所有財産を売り払って幕府の御金蔵におさめる決まりだが,中根主税という加役は,遊女まで売り払った。それが科条になり,八丈島へ遠島処分になっている。

いろいろ毀誉褒貶はあっても,この辺りの仕置きをみると,いまの為政者に比べて,遥かに骨がある。

参考文献;
三田村鳶魚『捕物の話 鳶魚江戸ばなし』(Kindle版)





今日のアイデア;
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2015年04月03日

あの世


岸根卓郎『量子論から解き明かす「心の世界」と「あの世」 』を読む。

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本書は,いわゆる宇宙論の中で,「人間原理」と言われる立場に立っている。著者は,それを,

「私たち〈人間〉は単なる宇宙の観察者であるばかりか,〈宇宙の創造者〉でもあり,しかもその〈宇宙〉はまた私たち〈人間〉に依存している」

とし,こう説明する。

「宇宙の〈万物〉や宇宙で起こるさまざまな〈出来事〉は,すべて〈潜在的に存在〉していて,私たち〈人間〉がそれを観察しないうちは実質的な存在(実在)ではないが,〈観察〉すると突然〈実質的な存在〉(実在)になる。」

と,それを象徴的に,

「月は人間(その心)が見たときはじめて存在する。人間(その心)が見ていない月は存在しない」

という言い方をする。それを解くための背景が,量子論なのである。一件,スピリチュアリティに堕しそうで,しかし量子論の論拠を外さない。そこが,説得力を持つゆえんであろう。

人間原理については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163436.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/394437227.html

で触れたように,現代宇宙科学の一大潮流ではある。

「〈宇宙〉は,〈人間による認知〉を待っている」という,その人間原理を例証していく,第一が,「光と同様,粒子と見なされていた電子などの物質粒子にも,波としての性質,物質波がある」という「物質波理論」である。

マックス・ボルンやニールス・ボーアらは,「〈物質粒子の波〉は,その〈粒子の発見確率〉を表している」とし,

「電子を波と考えると,電子の発見確率は,その電子の波の振幅が最大の場所で最大となり,幅がゼロの場所では最小となる。」

というのである。そして,

「〈電子の波〉もまた〈確率波〉である」

こと,そして,

「〈電子の波〉は,〈観察〉すると一瞬にしとて〈一点に収縮〉するという電子の波の収縮,いわゆる〈波束の収縮〉」

をも明らかにした。別名,「波動関数の収縮」とも「量子飛躍」とも呼ばれるが,この解釈は,「コペンハーゲン解釈」と呼ばれる。

たとえば,電子が一個入った箱を二つに分断して,京都とパリに置いたとする,箱を開けるまでは,両方の箱の中には「電子の波」が共存している。しかし,どちらか一方で,箱を人間が開けた瞬間,「波束は収縮」して,開けた方の箱だけに,「一個の電子」が見つかることになる。

注目すべきは,箱を開けた瞬間に,瞬時にその情報が伝わる,ということである。波束の収縮における情報伝達のスピードは,アインシュタインの特殊相対性理論で言う拘束を超える,ということである。

有名な光の波動性と粒子性を確かめるヤングの「光の干渉縞の実験」があるが,ジョン・ホイーラは,「二枚の半透明鏡を用いる実験」で,光の粒子と波動性の二面性の解明の他に,光と人間の意志の関係についても解明しようとした。そこでは,

光のパルスが第一の半透明の鏡を通過する〈事前〉に,検出器の前方に第二の半透明の鏡を置くか,通過した〈事後〉に,遅れて置くかを選択することによって,光がに波として行動するか,粒子として行動するかを確かめる,

というところにあった。結果は,人間が光が第一の鏡を通過する前に,検出器を第二の鏡の前に置かないことを選択するか,通過した後に置くことを選択するか,で,前者だと光は粒子となり,後者だと光は波動となる,のである。

「光自身は,(第一の鏡)を通過したばかりの時点では,自分が〈後〉で〈粒子〉になるか〈波動〉になるかは知らない」

のである。人間の意志による,事前か事後かの選択で左右される,ということである。これを「遅延選択の実験」と言う。その実験の重要性は,

「〈人間〉は,光が検出器に到達する〈前〉に,光が〈粒子〉として振舞っていたのか,〈波動〉として振舞っていたのかを,〈過去〉にまで遡って知ることができる」

ということであり,さらに,

「〈人間の心〉は,〈光の未来〉に対してはもちろんのこと,〈光の過去〉に対しても,〈影響〉を与えることができる」

という点である。それは,当然光だけでなく,電子についても,

「電子の波のエネルギーになっているのが光子」

であり,電子もまた,波動性と粒子性を持っている。さらに,一つの電子は,複数の状態を同時に取ることができる。それを,「電子の状態の共存性」というが,

「〈電子の状態の共存性〉とは,〈一つの電子〉が〈同時〉に〈複数の場所に共存〉できる」

という。これを,「状態の重ね合わせ」ともいう。

たとえば,箱の真ん中に衝立を立てて箱を二つに区切ったとする。このとき,一つの電子は,左右に同時に存在することが出来る(状態の共存性)。この場合も,〈粒子〉であると同時に〈波〉でもある。この場合,複数の電子があるのではなく,〈波であった〉一つの電子が同時に共存している。

しかし,観測者が箱の片方を開けると,瞬間に,複数個共存していた電子が,

ただの一個の電子

になって,電子がどちらにあったかが確定する。つまり,人の観測によって,開けた場所に存在する状態に,瞬間に変化した(波束の収縮性)のである。

波として共存していたものが,一点に収縮して,粒子,

にしか見えなくなる。著者は,

「電子の波は〈発見確率〉に関係しているから,その波を〈人間が観測〉した〈瞬間〉に,波は〈発見確率100%〉の幅のない〈針状の波〉となって〈一点〉のみでしか発見(観測)されない」

と説明する。見えないものが人間と接触すること(相互作用)で,「観測された状態以外の状態が〈消えて〉なくなる」のである。これが,冒頭で言った,「月は人が見ている時にしか存在しない」ということの意味である。これが,有名なシュレディンガーの「猫のパラドックス」につながる。ノイマンは,「人間の観察によって,猫の生死がどちらかひとつに決まる」とし,その,

「波束の収縮性は数学的には証明できない」

と言い,数学的には導けない,「波束の収縮は,観測装置を準備した人間の意識の中で起こる」と結論づけた。著者も,それを肯って,

「万物を構成するミクロの世界の電子は,私たちの体の外だけではなく,私たちの体の中にもあるから(電子の非局在性),私たち〈人間の心〉はそのような非局在的な〈電子の心〉を通じて〈万物の心〉にも影響を与えるからであり,しかもミクロの世界の電子の行動は,マクロの世界の人間が〈観察するまで〉は,〈確率的〉であるが,人間が〈観測〉すればその〈瞬間〉に〈確定〉する(波動の収縮性)」

と説明する。そして,これは,身近な世界だけのことではなく,敷衍すれば,

「個々の電子が持つ〈量子性〉〈粒子性や波動性や状態の共存性や波束の収縮性〉は,〈空間的〉には宇宙全体へ,〈時間的〉には何十億年もの過去未来へと〈双方向〉に広がっており〈非局在性〉を有している」

ことであり,この原理は宇宙にも広がり,

波動性の宇宙(見えない宇宙)と粒子性の宇宙(見える宇宙)

という二重性,多重性からなっている(多元宇宙)という考えにつながる。著者は,波動性の宇宙(見えない宇宙)を「あの世」と言い,粒子性の宇宙(見える宇宙)を「この世」と言っている。

これを象徴するのが,「シュレディンガーの猫のパラドックス」である。放射性物質と猫を入れて,一定時間後に蓋を開けて中を見る,

「人が蓋を開ける前に猫の生死が決まっているのか(決定論),箱を開けた瞬間に決まるのか(確率論),そのいずれが正しいのかを問う」

ものである。シュレディンガーは,量子論への反対の立場からこの思考実験を提示した。

ここでは,生きているか死んでいるかは,観測されるまでは確率的であり,観測されて初めて確定する,という実証派,人間が観測する前に確定しているとする実在派のことは,ここでは端折って,ヒュー・エベレットの「並行世界説」,多重宇宙論からの解釈を紹介しておく。

「〈生きている猫の宇宙〉と〈死んでいる猫の宇宙〉が〈共存している宇宙〉を考え,その宇宙が観察を繰り返すごとに〈生きている猫の宇宙〉と〈死んでいる猫の宇宙〉に〈分岐〉し,〈生きている猫〉と〈死んでいる猫〉とがそれぞれ〈別の宇宙〉に〈重ね合わせ〉の状態で並存している」

というのである。つまり,人間が観察するまでは,〈生きている猫の宇宙〉と〈死んでいる猫の宇宙〉が共存していたのに,観察によって,分岐した,ということになる。しかも,

「観察によって分岐した複数の並行多重宇宙は,互いに関係が断ち切られ影響し合うことがなくなるので,それらの宇宙を観察する人間もまた分岐して複数存在する。」

つまり,量子の世界が,開く新しい視界である。すでに,アインシュタインの世界像は,崩れかけている。この先はどうなるのか,その意味で,補論の「タイムトラベルは可能か」は,現時点での量子論の最先端を示していて,興味深い。過去へのトラベルは,なかなか難しそうだ。

最後に,

「エネルギーが十分あるときには粒子(物質)と反粒子(反物質)が生成されるが,その粒子(物質)と反粒子(反物質)が消滅すると純粋なエネルギーに還る」
「粒子(物質)は,純粋なエネルギーから生成され,純粋なエネルギーとなって消滅する」

という,この世界がエネルギーの変形ということが,

「万物は気の凝集によってできたものであり,その気は宇宙合そのものを形成している。」
「生とは気の集結であり,死とは気の気の解散」

と,易でいう,「気」そのもののように見え,改めて,『易経』に感嘆した次第である。

ここで紹介された並行宇宙論は,ブライアン・グリーン『隠れていた宇宙』を紹介する折,改めて,マルチバース論(多宇宙あるいは並行宇宙あるいは多元宇宙と言われる宇宙論)を総覧する際,また関わってくる。それは,後日。

参考文献;
岸根卓郎『量子論から解き明かす「心の世界」と「あの世」 』(PHP)
高田真治・後藤基巳訳注『易経』(岩波文庫)






今日のアイデア;
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2015年05月10日

感情



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清水真木『感情とは何か』を読む。

著者は,感情について,冒頭で,こう書く。

「私たちは,言語を手がかりにして感情を獲得し,感情を理解し,感情を共有します。感情は,私たち一人ひとりが何者であるかを告げるものであるとともに,私たちが身を置く世界の真相を普遍的な仕方で明らかにするものでもあります。具体的な感情をそのつど正しく受け止めることは,,自立的な自足的な生存への通路なのです。みずからの心に姿を現す感情の一つひとつを丁寧に吟味し,これを言葉に置き換える努力は,誰にとっても必要であり,価値あるものであるにちがいありません。」

これは,「やばい」ひとことで,さまざまな感情の彩りを表現することへの警鐘として語られているが,著者の感情の捉え方を象徴しているようである。

だから,

「感情とは何か」

という問いの意味を,こう書く。

「感情という現象には,一つの特殊な性質があり,この性質によって気分や知覚から区別されます。すなわち,感情を惹き起こす原因となるものが何であるにしても,感情が心に生まれるためには,感情の原因となる事柄が『私』のあり方との関連においてそのつどあらかじめ把握されていなければなりません。これは,感情を知覚や気分から区別する標識です。感情とは,『私とは何者なのか』を教えてくれるものであり,『私とは何者なのか』という問に対する答えは,感情として与えられます。」

さらに,

「気分や知覚は,物の見方や価値評価とは関係なく成立するものであり,この限りにおいて,自然現象に分類されるべきものです。…これに反し,感情は,各人の個性を反映します。」

とも。そして,

「感情の経験とは,自己了解の経験,『私とは何者なのか』を知る経験として受け止められるべきものです。なぜなら,感情の本質は,私と世界の関係をめぐる真理(=真相)の表現である点にあるからです。」

だから,

「『感情とはなにか』という問は,私と世界の関係を存在論的な仕方で問うものであると言うことができます。」

本書の大半は,プラトン,アリストテレス,からデカルト,スピノザ,ヒューム,アーレントまでの,哲学史の中での「感情」の取り扱われ方にページが割かれる。正直言って,西洋哲学に関心のない向きには,些事に渉る議論は,退屈で,迷惑このうえない。

しかし,本書は,「感情の哲学史」を目指し,

「感情の哲学史とは,情動主義との対決の歴史として,そして,感情の快楽の意味を明らかにする試みの歴史として記述されねばならない」

とし,古来以来の,「理性と感情の対立」というテーマを取り上げず,

「『感情とはなにか』を問うことにより本当に問われているものは何か,このような点が明らかになることにより初めて,哲学史に照明を当てる確度が定められ,哲学者たちのテクストに陰翳が生まれ,見解の『幹』と『枝葉』がおのずと区別されて行きます。」

という進め方を取る。それでも細部は,結構煩雑だが,著者が前提にしている考え方は,昨今流行の「アンガー・コントロール」というものとの違いを説くところによく表れている。「アンガー・コントロール」は,

「『怒り』(anger)の名を与えられた感情のコントロールではなく,怒りの表現として普通には受け取られている発言や行動と怒りの感情を結びつけることを容易にするような『気分』のコントロールにすぎません。むしろ,ほんとうの意味に置ける怒りのコントロールが可能であるなら,それは,怒りを変化させ,別の感情を産みだす操作でなければならないでしょう。」

つまり,怒りの代わりに,「憐み」や「悦び」「妬み」「敬意」を覚えさせるのでなければ,それはアンガー・コントロールではなく,怒りにともなう行動のコントロールを言っているだけだ,と言うのである。

それで思い出したが,前にも,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163273.html

で取り上げたが,ジル・ボルト・テイラーは,こう言っている。

「わたしは,反応能力を,『感覚系を通って入ってくるあらゆる刺激に対してどう反応するかを選ぶ能力』と定義します。自発的に引き起こされる(感情を司る)大脳辺縁系のプログラムが存在しますが,このプログラムの一つが誘発されて,化学物質が体内に満ちわたり,そして血液からその痕跡が消えるまで,すべてが90秒以内に終わります。」

生理的な反応の怒りは90秒まで,それ以降は,それはそれが機能するよう自分が選択し続けている,ということである。つまり,思いの偏りで,視野が狭窄しており,怒りつづけなければ,思いの秤のバランスが取れなくなっている,というように,である

著者の言うように,

「コントロール可能なのは,気分だけであり,気分から区別された感情というものは,外部からの一切のコントロールを受けつけないものなのです。」

では,感情とは何か。

「感情の本質は自己了解である。」

と,マルブランシュ(1674~5の『真理の探求』)を例にとって,

「情念の役割は,さしあたり,身体と心を含む一つの全体としての私の自己保存を支える点に求めることが出来ます。情念の体験を手がかりに,私は,好ましいものを選びとり,好ましくないものを斥けるからです。つまり,情念を情念として受け取ることを可能にするのは,体に対する私の『愛』であることになります。」

と述べる。そして,

「私の正体は,放っておいてもどこかから自然に涌いてくる身ではありません。(中略)フランシス・ベーコンが…用いた…表現を借用するなら,特別な道具を用いて自分を哲学的な『拷問』にかけ,自分の『秘密』を自分に対して『自白』させるくるしいプロセスでしょう。自己了解を目標とする拷問とは,『私は何者なのか』という問に対する答として不知不識に到来する感情から目を逸らすことなく,これを吟味し,説明するよう自らを強いることにほかなりません。」

と集約する。それは,終り近くで,アーレントを借りて,こう述べるところにつながる。

「感情は,『伝達可能』であるかぎりにおいて,公的であるかぎりにおいて感情として受け止めることが可能となります。感情は,単なる内面的,個人的,私的な現象なのではなく,むしろ,これが有意味な経験となるためには,なによりもまず,他人からの承認を想定して何らかの仕方で言葉へと置き換えられるプロセスが必要なのです。このかぎりにおいて,私の感情は,その都度あらかじめある特別な仕方で普遍性を具えていると考えなければならないことになります。」

それは,感情を自分が自分の感情として受け止めるには,言語に置き換える作業が必要であり,言葉に置き換える作業が,他人による承認,他人との共有を想定して遂行されるものであること,そして,その

「他人による承認の基準が『共通感覚』あるいは『趣味』と呼ばれるものであること,さらに,このような基準の正体が『共同体感覚』であり,公的領域に由来するものであること」

を教えてくれるのである。それは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163222.html

で触れた「嫌悪感」のように,社会的に形成される感情もある,ということにつながる。だからこそ,最後の,

「感情は,意見を異にする者たちのあいだのオープンな討議と合意形成の場としての公的領域を形成し維持する意欲,『公共性への意志』と呼ぶことのできるような意欲を基礎とするものであること,したがって,反対に,このような意欲を持たない者には,本当の意味における感情に与る可能性が閉ざされていると考えることが許されるに違いありません。」

という言葉がが生きる。

そう言う指摘に鑑みるなら,今日の,ヘイトスピーチを底辺とし,憎悪と嫌悪感のみでつながる為政者をトップとして,その嫌悪感と憎しみを言語化しようとしない(あるいは言語化するのを避けている,逃げていると言うべきか),いまの日本の今日のありようは,世界から,決して理解されないであろう。

かつて,憎しみ合うアイルランド紛争の最中,ロジャーズが試みた,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410724005.html

での,エンカウンター・グループにおける,「感情の言語化」による,相互の(相手に対して閉ざされた)「鋼鉄のシャッター」の開扉を目の当たりに見たものにとっては,なお一層,各々を自己完結した閉鎖されたところに押込めていく,今日の為政者の悪意を思うとき,いずれ自分の死後の日本のことにしろ,絶望に駆られる。恐らく,このまま日本は,再度孤立し,絶望的などん底を味わわされる羽目に陥るだろう。

一体何度同じ轍(すべては明治以降のことなのだが)を踏めば,我々は,覚醒するのだろう。いや,覚醒は来ないかもしれない,それほど,絶望している。

参考文献;
ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(新潮文庫)
清水真木『感情とは何か』(ちくま新書)







今日のアイデア;
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2015年05月18日

記憶力


高橋雅延『記憶力の正体』を読む。

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サブタイトルに,「人はなぜ忘れるのか」とある。

冒頭,ウイリアム・ジェームズの,

「もし私たちがあらゆることを忘れないとすれば,ほとんどの場合,何も覚えていないのと同様に困ったことになる。ある一定の時間を要した出来事を思い出すためには,もとの出来事と同じだけの時間が必要になり,新しいことを考えることができなくなってしまう。」

を引きながら,忘却力のお蔭で,われわれは,

「次々と新しいことがらを覚えたり,自分の考えを先に進めていくことができる」

と指摘している。さらに,バルザックの,

「多くの忘却なくしては人生を暮らしていけない」

を引きつつ,辛い出来事も,時間の経過とともに忘れ,辛さが軽減していくことも,忘却の効果をあげている。

ただ,忘れると一言で言っても,二つの意味がある。

「その一つは,長い年月がたってしまうことで,記憶が消滅してしまうケースです。…もう一つは,どこかに記憶としては残っているけれども,それをうまく引き出せないケースです。」

忘却といえば,ヘルマン・エビングハウスの「忘却曲線」が有名だが,その彼が,記憶の現れ方を,三つに区分している。

第一の記憶は,「我々がその目的で意志を働かせれば,失われたかと思われた意識の状態を,ふたたび意識のなかに呼びもどすことができるもの」。それで元の状態を再現できないことを,忘れた,ということになる。

第二の記憶は,「かつて一度意識のなかに存在した精神状態が,なん年もたったあとで,まったく意志の働きなしに,明らかに自発的に,ふたたび現れてくる」,自然に再現される記憶。無意図的記憶と呼ばれる。

この二つは,現在,「意識的記憶ないしは顕在記憶」と呼ばれる。

第三の記憶は,無意識的記憶ないしは潜在記憶,と呼ばれ,それが再現されても,「過去のことを思い出している」と意識されない記憶。

これは,スキルに関わるもので,手続き記憶と言われるものになる。一旦覚えた自転車の乗り方やスキーは,体が覚えている,といってもいい。

エビングハウスの記憶は,ある意味学習の忘却曲線だが,いわゆる自伝的記憶と呼ばれる記憶は,それとはまったく異なって,

「最初の一年間は,ほとんど忘却が起こらず,それ以降は,きわめてわずかずつ忘却される」

というのが,思いでの忘却曲線の特徴とされる。

本書は,「自伝的記憶を中心に忘却や記憶をめぐるトピックス」を扱っている。

たとえば,フラッシュバルブ記憶というのがある。ケネディ暗殺や3.11のようなショッキングな出来事を知った時の自分の状況に関する鮮明な記憶のことである。

フラッシュバルブつまり,「フラッシュライトのように,非常に詳細に記憶されている」ということだが,

「出来事そのものの鮮明な記憶ではなく,自分がいつどこでどのような状況のもと,その出来事を知ったかという自分自身に関する記憶が鮮明であるというものです。」

その出来事を知ったときの「驚き」によって,脳内に生理的な変化が起こり,記憶として焼き付けられる,と著者は言い,

「『驚き』という感情的ストレスが強ければ強いほど,生理的な変化が強く起こり,それだけ記憶が鮮明に焼き付けられる…。」

それは長期間にわたって細部まで保存されているが,しかし,写真のように細部まで正確に記憶されているわけではない。多くの記憶間違いが起こる。

「だれもが経験的に知っているように,何かを覚えるためには,繰り返すことが重要です。だとすれば,繰り返し思い返されるフラッシュバルブ記憶がいつまでも鮮明であるのは,ある意味,何も不思議なことではなくなってしまいます。逆に言えば,私たちがふだんの何気ない出来事を忘れていくのは,それを思い返すことがないからなのです。」

その意味では,感情的ストレスに関与した場面の記憶は良く,それ以外の記憶は悪化する,というのは,

「一つは注意の集中」

であり,

「もう一つは,感情ストレスの関与した出来事が起こった後の反すう,思い返し」

という,まあ,当たり前のことが,記憶を左右する。しかし,

「感情ストレスの強さは,ある適度レベルまでは記憶をよくするのですが,その最適レベルを超えると,今度は逆に記憶が悪化してしまうのです。」

PTSD(心的外傷後ストレス障害)の場合,フラッシュバックのようなつきまといとともに,記憶の欠落をも生む。これは,感覚的記憶ないしは身体記憶といわれる,無意識的記憶の特徴らしい。

無意識的記憶には,

快不快といった感情の関与するもの,
視覚的パターン,
身体の記憶,

というものがある。

身体の記憶は,スキルのような手続き記憶に当たるが,単純接触効果によって,接触頻度が増えるにつれて,意識していないが好印象を持ってしまう,というのが感情の関与するものだ。視覚的パターンは,健忘者に隠し絵を見せる。一日立つと,それを見た記憶を健忘者は持たないのに,隠し絵のパターンは,無意識で覚えていて,素早く再認する,という例がある。所謂勘といわれるものも,パターン認識だが,無意識記憶に入れられるだろう。

言ってみると,知識も含め,我々の頭にある記憶は,主に,

エピソード記憶(自伝的記憶に重なる),
意味記憶,
手続き記憶,

になるが,

「私たちの記憶は,さまざまな記憶が無味乾燥に並んでいるのではなく,それぞれのテーマにまつわる『物語』として,関連した複数の出来事があつめられて(意味づけられて)いるのです。」

だから,

「『過去から未来へ向かって生き続ける一人一人の人間の存在』との関係から記憶を考えたとき,当人自身やまわりの状況が変ることによって,想起される記憶が変り得る可能性が常に存在するのです。」

ということを忘れてはならない。つまり,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/416479966.html

でふれたジャネが言うように,

「愉快なときには,何でも薔薇色に見え,哀しいときには,何でも黒色に見える」

のであり,そのときの気分にかなう記憶が思い出される。ナラティブ・セラピーで言うように,いまの生き方が,

自分のドミナント・ストーリーを決める,

別の気分の自分には,

オルタナティブ・ストーリー,

が語れる。記憶もまた,いまの自分の生き方が,語らせる,一つの物語なのだ,という気がする。

参考文献;
高橋雅延『記憶力の正体』(ちくま新書)








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2015年05月21日

心脳問題


マリオ・ボーリガード『脳の神話が崩れるとき』を読む。

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「脳の神話」と言うか,原題は,

Brain Wars

サブタイトルが,

Scientific battle over the Existence of mind and the proof that will change the way we live our lives

いわゆる「心脳問題」を,著者は終始,唯物論に反対する立場から書いている。

つまり,すべての精神活動は,脳の機能に過ぎないという,古くは,デモクリトスの原子論,ヒポクラテスの,

「脳が損傷を受けると精神の働きも損なわれるのだから,脳は意識,思考力,そして感情の座するところなのである。」

に対する,たとえば,ウイリアム・ジェームズの,

「科学で測ることができるのは,『脳の状態に変化が起これば,精神状態にもそれにともなった変化が起こる』と言う相互関係だけである。」

という指摘にある,「脳が損傷を受けたことにより人の精神機能に変化が起こったからといって,精神や意識が脳から生まれているという証明にはならない。」

という考えや,脳の働きをマップ化した,ペンフィールドの,

「意識,論理思考,想像力そして意思力といった高次の精神機能は脳が生み出したものではない。精神とは脳と相互に作用する,非物質的な現象である。」

という立場の側にいる。

脳もまた肉体の一つである,

等々と言う考え方とは違う。だからと言って,いたずらに,神秘主義であったりスピリチュアリティであるわけではない。マインドの驚異的な力を明らかにしようとはしている。確かに,

プラシーボ効果,
ニューロフィードバック,
神経可塑性,
催眠,

辺りは,脳のもつ機能の凄さを実証する実験や実例を挙げていくのたが,臨死体験に関わる,

超能力,
臨死体験,
神秘体験,

辺りからいささか,科学の常識を外れていく。しかし,著者は,

「量子宇宙には,心脳問題など存在しない。精神世界と物質世界の間に,明確な境界がないからである。」

といい,

「どれだけ科学コミュニティの中で唯物論の学説が根強かろうと,それでは心脳問題の答を見つけ出すことはできない。私たちは,宇宙における精神の力とその中心的役割とを見つけるために新たなモデルをみいださなくてはならないのだ。」

として,「人の精神がもつ普遍的な,そして驚異的な可能性を示す根拠」をたくさん示すのが,本書の目指すことであり,

「心的現象の存在,そして心的現象が人間の脳や肉体に及ぼす影響を示す確かな証拠は数多くある。その証拠はまた,人の精神とは肉体の外で起こる現象にまで作用するのだということ,そして脳が機能していないように見えたとしても人は意識的に常識を超えられるのだということをも物語っている。」

と述べる。精神活動や意識を,実体化して語っておられるのが聊か気になるが,この辺りは,「あの世」と言われる,分岐していく多次元世界の話,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/416694519.html?1428004473

と,多次元宇宙の話,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/416793184.html?1428175950

ともつながる,量子論に関わってくる。

本書で,主張の色調が変るのは,臨死体験からである。その流れて,幽体離脱の例を挙げておく。

巨大な脳底動脈瘤のバム・レイノルズは,低体温循環停止法(体温を極端に下げて肉体を冬眠状態にし,血管を取り換える手術)を受ける。バムは,麻酔を受けて,意識を失った。ところが,執刀医が,歯科ドリルのような音を立てるのこぎりで頭蓋骨を切開される頃,

「彼女は,体から飛び出して手術室の天井へと舞い上がり,自分に手術を施す石たちの姿を見下していた…。」

そして,意識を失っているはずなのに,医師たちの,予定の右太ももの大腿動脈が細すぎるため,急遽左に切り替えるやり取りを聞いており,冷却されて臨床死状態に成っている頃,本人は,

「ふわふわと手術室から抜け出し,光のトンネルに入って行ったというのだ。彼女はそこで,トンネルの終点で彼女を待っている,…祖母をはじめ,もう死んでしまった家族や友人の姿を見たという。やがて安らぎと温もりとに溢れた無常の光に包まれたかと思うと,自分の魂が神の一部に,すべてを創造した光の一部になってゆくのを彼女は感じていた。だが,この超常体験は突然終りを迎える。亡くなったはずの叔父が,彼女を肉体へと連れ戻したのだ。そのときの感覚を彼女は『まるで氷水のプールに飛び込むようだった』と語っている。」

こうした臨死体験は,アメリカ,ドイツの調査で,人口の4.2%が持っている,と言う。そして,大まかなところ体験は似ている。多く,この体験を通して,「自らの人生を理解し,どう生きるべきだったかに気付く」という。大体,この臨死体験中,バムの例では,医師の会話,別の例では,病院の屋上まで上がっていき,干してある運動靴を見た(後で確かめると,正しかった),と言う例もある。

多くの臨死体験を調べたリングとクーパーは,

「通常の感覚とは異なる別の感覚を通して現実を認知することができる」

と言う。しかし,僭越ながら,似た体験ということは,人間の脳の機能として,そういうものが,『ガンダム』のニュータイプのように,未開拓のままある,ということではないか,と考えた方が,精神を実体化するよりは,まっとうだと思うのだが。

著者は,「たったひとつの事例でしかない」と,多少の蔑みを込めて紹介するが,

「前頭葉にある角回(視覚,言語,認知などに関連するさまざまな処理を行うと考えられている)という部位に電気刺激を与えると,患者は『ベットに横たわる自分を上から見ているようだったが,見えたのは脚を含む下半身だけだった』とはなした。」

という例がある。これは,池谷裕一氏も紹介していたはずである。一つの事例があれば,それを確かめるのが科学者ではないか。神秘体験や幻覚を起こす,側頭葉の部位もある。

僭越ながら,実体化した精神を検証するすべはないが,脳の機能として,超人的な感覚をもたらすと考える方が,精神が脳とは別に実体化してあると考えるよりも,検証のしようがあるように思えてならないのである。それこそが科学のはずだと思えるのだが。

参考文献;
マリオ・ボーリガード『脳の神話が崩れるとき』(角川書店)
池谷裕二『脳には妙なクセがある』(扶桑社)







今日のアイデア;
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2015年05月27日

問い


伊東乾『なぜ猫は鏡を見ないか?』を読む。

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「仕事の全体像がわかる主著を」という依頼を受けた著者は,本書の意図を,最終章で,

「音楽人としての私の根本的な動機,松村(禎三),橘(常定)の二人の師との出会いから出発して(一章・二章),いくつかの大切な契機と初期の仕事(三章・四章),リゲティの示唆とめまいの経験による変化(五章・六章),博士としての仕事(七章)とそれによる新しい作曲・演奏(七章・八章),大学に研究室を構えて以降の展開,解剖,脳機能可視化,ブーレーズとの指揮メソッド作り,オーム裁判と豊田亨君のことなど「多方面の仕事」をコンパクトにまとめ(九章),開高健賞以降のドイツ,シュトックハウゼンと果たせなかった仕事やバイロイトでの展開(十章)などを時系列に沿って記しつつ,…最後に三・一一以降の現状と,ひとまずのまとめを一一章に記した。」

と,語っているように,物理学の博士であり,作曲家・指揮者である,自分の全体像を,

「私個人に修練すべき仕事(作曲・演奏)」

「私個人に限局されない仕事(演奏・基礎の探求)」

として描いている。そして,

「この本を私は,単に読み物として書いていない。ここから共に演奏し,また本質的な探究を共に考える,未来の仲間への呼びかけとして記している。」

と書くように,現代音楽の最前線の問題意識と成果が,惜しげもなく,披露されている。僕のような素人が読むべき本ではないのかもしれない。

それにしても,松村禎三,橘常定から始まって,ジョン・ケージ,ルイジ・ノーノ,見田宗介,三善晃,村上陽一郎,武満徹,ジョン・ピアーズ,マックス・マシューズ,レナード・バーンスタイン,磯崎新,井上道義,山田一雄,黛敏郎,若杉弘,ジェルジ・リゲティ,高橋悠治,観世栄夫,ブーレーズ,團藤重光,ホセ・ヨンバルト,カールハインツ,シュトックハウゼン,安藤四一等々,数え切れないほどに,現代音楽の最先端ばかりではなく,最先端の知性との知の格闘は,実に読み応えがある。

それも,

「音楽にとって本質的な問いとは何か?まずそこから自問自答が始まった。あれから30年が経つ。様々な問いを立てて,それに応える形をとって,私は私なりの音楽を作り,また私なりの演奏をしてきた。そんな動機の問いと,おのおのの答から導かれた実際の音楽によって具体的なバリエーションをお話していこう。」

と冒頭にあるように,常に「問い」があるからこそなのではないか。清水博氏の言う,

「創造の始りは自己が解くべき問題を自己が発見することであって,何かの答を発見することではない。」

そのものである。著者の問いは,

「人はいつ『歌』を獲得したのだろう?」

というような,「本質的な」問いが多い。リゲティに言われた厳しい指摘から始まっているが,いま,

「リゲティあたりに『模倣』と腐されない仕事をしよう,またそれを国内外に通じる言葉でも発信し,演奏し,基礎から音楽を積み上げる仕事をしよう。」

という決意に基づいている。誰かのやったことでないことをするには,誰も立てていない問いを立て,それに基礎の基礎から探求し直して,明らかな答えを探す必要がある。東大物理学部に,「作曲指揮研究室」を立ち上げたのも,またそういう問いの連続の中にある。

問いは,本書の各章のタイトルを見ただけでも納得できる(括弧内はサブタイトル)。

なぜ猫は鏡を見ないか(音の鏡と再帰的自己意識)
なぜ聴覚が生まれたのか(自己定位器と聴覚の起源)
なぜ魚群は一斉に翻るか(体の外部に開かれた聴覚)
なぜ音は調和して聞こえるか(物理的音波と認知的音像)
なぜ楽器で言葉を話せるのか(二足歩行と柔軟な調声器)
なぜ猫の仔とトラの区別がつくのか(両耳で聴く差異と反復)
なぜ歌は言葉より記憶に残るか(シェーンベルク=ブーレーズ・パルスの解決)
なぜ異なる歌を同時に歌いはじめたのか(長短と強弱の音声リズム)
なぜ理屈をこねても人の心は動かないのか(悟性が情動に遅れる理由)
なぜ落語家は左右に話す向きを変えるのか(潜水艦から空港騒音対策へ)

等々。そして,その問いは,作曲へとほとんどがつながっている。それは,民謡を採取したバルトークについて,

「バルトークはこれを『学説』として発表したわけではない。あくまで『楽案』として変奏を労作し,『楽曲』にまとめた…」

と語っているが,それは,そのまま,

「本質的な仕事をしたい。」

という著者自身について語っているに等しい。たとえば,「なぜ楽器で言葉を話せるのか(二足歩行と柔軟な調声器)」の章で,金属楽器に弱音器を挿入するというくだりで,

「弱音器をつけた金属楽器は『非現実話法』で語っている,という立場に立てば,複雑極まりないマーラーの総譜に従来とあきらかに別の視点から,系統だった解釈が可能になる。それが正解か誤解かを芸術音楽の指揮者は問わない。重要なのは,仮に誤読であっても一本の強い筋,響きの実体が伴った筋金入りの解釈の芯棒が通れば,そこから新しい音楽を読みだすことができる事だ。(中略)
さらに作曲の立場からは,こうした仮説を楽曲の構築原理に採用することで,新たな音楽言語のグラデーションを設けることができる。(中略)弱音器なしの奏法,金管楽器より変音が穏やかな弦楽器の弱音装着,金管の各種弱音器による異なる変音度合いを一種の『音階』のように見立てて,完全に『リアル』な世界から段階的に仮想性を増し,最後にはどう聞いてもウソっぽい,うさんくさくいかがわしい響きまで,弱音器を系統だって使い分けることができる。」

と書いている通りである。「音楽」を脳の問題として捉える,というのは,そういう先に来ている。

ひとつ例を出しておくと,たとえば,ルドンの「一つ目の巨人」を,初め両目で,次に,右目を閉じて見る。次に左目を閉じて見る。

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ほとんどの人が最初に両目で見たときの巨人の位置が「左目だけ」あるいは「右目だけ」とどちらかが単眼でみたときと同じで,もう一方の目だけで見たときには,ひとつめの巨人の位置が動く。

「視野の動かない方の目が『利き目』」

である。これは,目だけではなく,耳でも言える。電話がステレオでないのは,片耳で聴けば十分音声がつながるからではなく,

「人間は音声言語を『両耳で聞いてしまうと』理解力が下がってしまうからだ。『両耳マスキング』と呼ばれる」

ことが起きている,からだと言う。なぜなら,

「目や耳など末梢から入力された情報は,中枢神経系の複雑な処理を経て,言語の高度な意味を持って意識にそれと認識される。そうした処理には時間もかかるしエネルギーも食う。…二つの目や耳から入ってくる情報の片側については,早い段階で処理しなくなる。つまりスイッチオフして,余計な情報処理のエネルギーを節約していると考えられる。」

しかし,二つあることで,環境内の自己定位に,ステレオ視・ステレオ聴が有効で,視覚もそうだが,聴覚も,

「誰かが自分の名前を呼ぶようなとき,私たちは反射的に声のする方向を振り返る。両耳聴=バイノーラル・ヒアリングに注意が向くとき私たちの耳は反射的にステレオモードにスイッチがかわっている。」

このことを,意識して作曲や演奏している人は90年代までは皆無だったが,その目で見ると,ヴァーグナーは,総譜に「演出ト書き」の形で,声と楽器の空間配置と分布を詳細に記しているのである。つまり,

歌手の立ち位置,歌う方向による「両耳相関の違い」

が出ることを知っていたからである。音の空間を意識していた,と伺えるらしいのである。このことは,落語の語りにもつながるらしい。

「『熊さん』と「八っっさん」の会話を,噺家は姿勢を左右に変えて演じ分ける。…寄席で名人の落語を聞くと,左右の側壁に反射する声をコントロールして,小屋の響き全体から『熊さん』と『八っつあん』の違いを創り出している。…名人が適切に側壁をかつようすれば,二人の人物の声を聴き手の左右の耳に,交互にアクセントをつけてとどけることができる…。」

と。脳のことを知らなくても,名人たちは,研ぎ澄まされた感覚で,それを活用していた,ということである。

参考文献;
伊東乾『なぜ猫は鏡を見ないか?』(NHKブックス)
清水博『正命知としての場の論理』(中公新書)








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2015年05月30日

わかる


山鳥重『「わかる」とはどういうことか』を読む。

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正直に言うと,群盲象を撫ぜるではないが,さまざまな切り口を枚挙してもらったわりに,

分かる,

ということが,なかなか分かった気にならなかった。というのも,わかる,ということには,知情意,というか,

知覚する,
感じる,
考える,

等々という領域と,「わかる」という領域とが,ベン図を例に言うなら,「わかる」という円と,その他の円がさまざまな重なり具合をしていて,たとえば,そもそも感受しなければ,わかるに至らないし,考えなければ,わかるということが必要ない,というように,きっちり境界を区分けできないせいかもしれない。さらに,

記憶する,
覚える,
学ぶ,
理解する,
経験する,
コトバにする,

等々の円とも,微妙に重なりあっている。

だが,僕のイメージするわかると,著者のそれとは,微かなずれがあった気がする。たとえば,著者は,「『わかる』の第一歩」として,

「単純なことですが,記憶にないことはわからないのです。言葉(記号音)の内容(記憶心像)を形成しておかないと,相手の言葉を受け取っても,心には何も喚起されません。(中略)「わかる」は言葉の記憶から始まります。そして言葉の記憶とは…名前の『意味の記憶』です。」

と述べる。不遜ながら,ああ,著者の「わかる」とは,そういうレベルのことを言っているのか,という幻滅がまず生じた。僕の知りたいのは,

腑に落ちる
とか,
納得する,
とか,
理解する,

という「わかる」であり,言葉の意味が了解できるということは,蚊帳の外にあった。本書の最後で,「わかる」のパターンを,

重ね合わせ的理解

発見的理解

の二つがあり,前者は,自分の頭にあるもの(モデル,知識,経験,感情,感覚等々)と重ねあわせること,であり,もうひとつは,答えが自分の外にあるもので,既知の答はなく,「自分で新しく発見していく」ものという。

僭越だが,間違っているのではないか。そもそも理解を,学習を,考えたとき,この二分法にしてしまうと,答えが外であろうと中であろうと,自分の中で考えて,

一つの答をひねり出し,

ああこうだったのだ,と納得するシチュエーションは,想定からはずされてしまう。答えが,外にあろうと,自分で考える操作は,常に,

新しい発見,

なのであって,それがアインシュタインの発見であろうと,幼児の発見であろうと,レベル差はあっても,

わかる,

ということの構造は同じである。あるいは,アルキメデスが,「Eureka」(「ユーリカ!」「分かったぞ!」)と叫びながら裸で通りに飛び出したというのもそれである。それを構造化するのが,

「わかるとはどういうことか」

の答でなくてはならない。著者は,「わかる」の土俵を,取り違えているようにしか,ぼくには見えない。たとえば,

「わかる」のわかり方を,

全体像がわかる,
整理するとわかる,
筋が通るとわかる,
空間関係がわかる,
仕組みがわかる,
規則に合えばわかる,

を類別しているが,その「わかった」というときを,

直感的に「わかる」
まとまることで「わかる」
ルールを発見することで「わかる」
置き換えることで「わかる」

と整理する。しかし,それは「わかる」ということの衣装が整理されているのであって,「わかる」ということ自体には踏み込めていない気がしてならない。この類別に当てはめる「わかる」は,

わかったのではなく知識をえた,

だけだ。では,なぜ,知識を得ると,

わかる,

のかが,踏み込めなければ,「わかる」という巨象の皮膚を撫ぜたにすぎない。吉本隆明は,

知ることは,超えることの前提である。

という言い方をした。だから,わかることの手段として,知をえることは,大事には違いないが,なぜ,知を得ると,わかるのか。

僕の億説に過ぎないが,わかる,ということは,

新しいパースペクティブ,

を得ることなのだと思う。

新しい視界,

と言い換えてもいい。メタ・ポジションを手にする,ということだ。それは,

新たな地平に立つ。

ということになる。だから,視界が開ける。よく,わかった瞬間,

頭にランプがともる,

というイラストが描かれるのは,

そのサーチライトで照らす

ことで,いままで照らされていなかったところに光が当たり,新たに見えてくることがあるだ。そこを詳らかにしてほしかった。

参考文献;
山鳥重『「わかる」とはどういうことか』(ちくま新書)







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2015年05月31日

ヒト族


チップ・ウォルター『人類進化700万年の物語』を読む。

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ヒト族は,

動物界 Animalia,脊索動物門 Chordata,脊椎動物亜門 Vertebrata,哺乳綱 Mammalia,霊長目 Primates,真猿亜目 Haplorhini,ヒト上科 Hominoidea,ヒト科 Hominidae,ヒト亜科 Homininae,ヒト族 Hominini,

である。その下にさらに続く。

ヒト亜族 Hominina,ヒト属 Homo,

と。

ヒト科は,ヒト亜科(ヒト属、チンパンジー属、ゴリラ属を含む)とオランウータン亜科で構成される。
ヒト亜科は,ヒト族(ヒト属及びチンパンジー属)とゴリラ族からなる。

ヒト族 はヒト亜族、チンパンジー亜族とそれらの絶滅した祖先のみが属するヒト亜科の族である。現生はヒト、チンパンジー、ボノボの三種のみ。

ヒト亜族は,チンパンジー亜族と分かれ,直立二足歩行をする方向へ進化したグループである。

ヒト属は,ヒト亜族のうち,大脳が大きく増大進化したグループ。現代人ホモ・サピエンスと,ホモ・サピエンスにつながる種を含む。約2万数千年前に絶滅したホモ・ネアンデルターレンシスを最後に,ホモ・サピエンス以外の全ての種は既に絶滅している。

因みに,ヒト属 Homoは,

ホモ・ハビリス H. habilis
ホモ・ルドルフエンシス H. rudolfensis
ホモ・エルガステル H. ergaster
ホモ・エレクトス H. erectus
ホモ・エレクトス・エレクトス(ジャワ原人) H. e. erectus
ホモ・エレクトス・ペキネンシス(北京原人)H. e. pekinensis
ホモ・マウリタニクス(ホモ・エレクトス・マウリタニクス)H. mauritanicus
ホモ・エレクトス・ユァンモウエンシス (元謀原人) H. e. yuanmouensis
ホモ・アンテセッサー H. antecessor
ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベルグ人)H. heidelbergensis
ホモ・ローデシエンシス H. rhodesiensis
ホモ・ケプラネンシス H. cepranensis
ホモ・ゲオルギクス(ドマニシ原人)H. georgicus
ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)H. neanderthalensis
ホモ・フローレシエンシス(フローレス人)H. floresiensis
ホモ・サピエンス(ヒト)H. sapiens
ホモ・サピエンス・イダルトゥ(ヘルト人)H. s. idaltu
ホモ・サピエンス・サピエンス(現代人、現生人類)H. s. sapiens

等々過去700万年の間にいたが,現生人類以外,すべて絶滅した。本書『人類進化700万年の物語』は,訳のタイトルだと,のどかな話に見えるが,原題は,

Last Ape Standing

である。サブタイトルは,ずばりとその意図を示している。

The Seven-Million-Year Story of How and Why We Survived

ヒト族が他の人類をどう蹴落としてきたか,という話である。27種類(と現時点ではわかっている)他の人類は滅んでしまったのである。

本書は,ヒト族について,注で,

「ヒト科は,ゴリラやチンパンジーを含むすべての大型類人猿を指すが,ヒト族は特に700万年前,あるいはその近辺で共通のチンパンジーの祖先から分枝した古代人と現代人を表す。この中には全てのホモ属(たとえばホモ・サピエンス,ホモ・エルガステル,ホモ・ルドルフェンシス),アウストラピテクス属(アウストラロピテクス・アフリカヌス,アウストラピテクス・ボイセイ等),パラントロプスやアルディピテクスのような古い人類が含まれている。重要なのは私たちが最後に生き残っているヒト科だということだ。」

と書いている(本書の訳では,ヒト族で統一されているが,改めて考えると,ヒト属を指すのかヒト族を指すのかが,混乱するところがあったが,まあこちらの浅学のせいだろう)。

いまのところ(まだもっと多くが発見される可能性があるが),27種類の人類(というか,この場合,ヒト属か)がいたらしいが,なぜか,他は滅びて,

「人間はたった一種類しかいない。なぜか。」

と,著者は問う。それが本書のテーマである。「1万1000年前に最後のホモ・サピエンス以外のDNA系統を廃れさせた」が,

「進化した全人類の中で,なぜ私たちだけがまだ生き残っているのだろう。」

に応えようとするのが,タイトルになっている。

「科学者は地球上に初めて人類が出現した時期を約700万年前と考える。それは主として,わずかしかないその頃の化石証拠が,今日チンパンジーと共通だった最後の祖先から私たちが分離してきたことを示すことによる。」

それ以降の700万年の物語である。しかし,読み終わって,その問いへの明確な答えは,ない。まあ,考えてみれば,当たり前かもしれない。

サヘラントロプス・チャデンシス,

と名付けられたのが,人類の始原となる化石である。彼(彼女)の頭部が,

「前肢の拳を地面につけて歩くゴリラのように45度の角度で胴体についているのではなくて,私たちのように胴体に沿ってついている」

ことを示唆していてた,として直立歩行をしていたと推測する古人類学者もいるそうだ。いずれにしても,

直立歩行,

という移動手段をとる哺乳類,というか全生物の中でも,

「これが類を見ない移動方法であった」

というか,一風変わった方法である,ということに着目しなくてはならない。少なくとも,

「それが一連の進化の出来事を始動させて,あなたや私の存在が可能になった」

のである。それと同時に,

「脳がますます大きくなってきた」。

チンパンジーの脳が約350ccであるのに対して,草地に住む霊長類の脳は,450~500cc,なぜそうなったか。著者は,飢餓説を紹介している。

「食欲を満たすのが慢性的に困難な場合に,動物の体内では分子レベルで興味深いことが起きてくる。老化速度が遅くなり,十分な食物がある場合と比べて細胞は死ににくくなる。…身体は欠乏を感じると総動員でエネルギーの節約を行なって,最悪の事態に備える。(中略)栄養の極端な欠乏は動物の寿命を延ばすだけでなく,子孫の数が減ることによって進化の競争のもとで種全体が生き残る可能性を高める。…細胞の成長はあらゆるレベルで速度を落とすのだが,そこに…重要で驚くべき例外がある。脳細胞の成長は増大するのだ。(中略)少なくとも,新たな脳細胞の前駆体である視床下部が作り出すニューロトロフィンの場合はそうなっている。そればかりではなく,食料が欠乏すると食欲を増進するグレリンというペプチドが増加する…。グレリンは…シナプスを皮質ニューロンに変形する。…新しいニューロンの活発な成長を補うために体の他の部分は断食によつて乏しい栄養源をやりくりしてそれを脳に送る。言い換えると,体は加齢の速度を遅らせるが,知能は増大させる。」

350万年前,ちょうどあの有名なルーシー(アウストラピテクス・アファレンシス)や同時代の類人猿が,慢性的な食糧不足が脳の成長を加速させていた,ということになる。

直立歩行による移動性,

脳の成長による適応力,

が,生き残りに寄与した。しかし,効率よく二足歩行するためには,

骨盤の構造

を変える必要があり,しかしその代りに細くなった腰によって,産道が細くなり,それが大きくなった脳と頭によって,ますますお産を難しいものにした。その解決が,

テオニー,

である。つまり,未成熟(早産)で生れ出ることである。

「ゴリラの新生児のように肉体的に成熟して世の中ですぐに生きていける状態で生まれるとしたら,子宮の中で九か月ではなく二〇か月すごさなければならない。」

われわれの脳は,大人の23%で生まれ,三年間で三倍になり,二〇歳になるまで発達し続ける。これを,

「脳のルビコン」

と呼ぶそうだ。これを渡ると,

長い幼少期

が必要になる。おおよそ,180~200万年前,ホモ・ルドルフェンシスやホモ・エルガステルがその候補とされている。

「解剖学的現代人」といえるものの出現は,16~20万年前,エチオピア付近に出現した。しかし7万年前の氷河期,

一万人,

にまで減少する。ほぼ絶滅の危機に陥った。五万年後,気候の反転で,一気に地球上のあらゆるところへ移動していく(実は,その前,170万年前にも,アフリカを出ているが,今日では,それは,絶滅したと考えられている)。

ネアンデルタール人は,ホモ・サピエンスと共通の祖・ホモ・ハイデルベルクスから出ているが,現生人類よりはるかに長い,50万年,氷河期にも生き延びて,ヨーロッパに広がっていた。二万五千年前,ホモ・サピエンスとネアンデルタール人は遭遇し,2万数千年前に絶滅する。

なぜネアンデルタール人は絶滅したのか。いくつかの説があるが,最近有力なのは,ヨーロッパ各地で,クロマニヨン人(ヨーロッパにおける化石現生人類)と,長いもので,1000年も共存していた遺跡が見つかっており,DNAの分析から,1~4%のネアンデルタールのDNAが現生人類に含まれており,

「ヨーロッパから東南アジアの島々に至る地域の人類の大部分は部分的にネアンデルタール人」

という。7万人に達することがなかったと言われるネアンデルタール人は,ある意味膨張する現生人類に呑みこまれた,というのが今の有力な見方のようだ。

著者は皮肉交じりでこう書く。

「なにしろ人間は他の霊長類や,その他の動物とさえセックスをすることが知られているのだから。」

と。

参考文献;
チップ・ウォルター『人類進化700万年の物語』(青土社)








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2015年06月06日

分子進化


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中沢弘基『生命誕生』を読む。

サブタイトルが「地球史から読み解く新しい生命像」となっているのは理由がある。著者は,

「本書は,生命の発生と進化の『壮大なドラマ』を,物理的必然と全地球46億年の時空を見渡す21世紀の新しい自然観をふまえて解き明かします。」

と述べている。なぜなら,

「生命誕生に不可欠な分枝ができて生命の発生に至るまでの『分子進化』(一般には“化学進化”あるいは“前生物的分子進化”と表現されています)と,生命が発生した後の『生物進化』は同じ地球上で切れ目なくつながっていると考えるのが自然ですから,生命誕生以前の『分子進化』のメカニズムも当然,地球環境の変化と自然選択の原理に支配されてきたとみるべきです。こうした視点がないと,『生命の起源』という壮大なドラマを解き明かすことは難しいでしょう。」

その考えを象徴するのが,

(地上しかない,つまり根のない)「ヘッケル系統樹」(ダーウィンの『種の起源』に共鳴して,E・H・ヘッケルがまとめた)

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bc/Haeckel_arbol_bn.png

と対比して,著者の考える系統樹は,根がある「地球軽元素進化系統樹」である(本書に添付)。

「同図では,生命進化が地球史的必然であることを表すために,“原始地球史上の事件” (中央)と,そのとき有機分子が受け取る“環境圧力”(左端),そして“自然選択”の結果,すなわち“環境適者”(右端)を重ねて表現」

している。当然ヘッケルの有名な,

「個体発生は系統発生の短縮された反復である」

では,受精前が想定されていない。本書の問題意識は,その前へと遡る。しかし,分子系統学の知見を加えても,

「現代の生物分子系統学でも,タンパク質(酵素)のアミノ酸配列や遺伝子(DNA,RNA)の塩基配列の類縁から,“近縁種の共通の祖先”→“より遠縁種の共通の祖先”→とたどる系統樹が用いられています」

が,ヘッケルの系統樹と概念は同じで,この考え方で,遺伝子を辿れば,究極の祖先に辿り着けるのか,というと,そうでもないらしいのである。その理由は,系統樹の考え方自体が,

「もともと,ダーウィンの自然選択説によって生物多様性を説明するために考案されたものですから,共通の祖先→その先の共通の祖先→さらにその先の…とたどれるのは,親から子に遺伝子が引き継がれる “ダーウィン的進化”しか想定されていないからです。しかしバクテリア(原核生物)には生物進化の初期だけにある『細胞内共生』という進化の別の機構があって,遺伝子分析の方法ではその先が辿れなくなるのです。」

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著者は,「はじめに」で,

「生命の起源を探る研究を進めていくと,物理や化学の論理だけでは説明できない,さまざまな謎に直面します。なぜ岩石や鉱物ばかりの原始地球に炭素や水素でできた有機分子が出現したか? しかも,アミノ酸や糖など生物をつくる基本的な有機分子はみんな,なぜ水溶性で粘土鉱物と親和的なのか? なぜ,それらがタンパク質やDNAなど高分子に進化したのか? いずれもよく知られた事実ですが,『なぜそうなのか?』 は今の物理や化学では説明できていません。生命の起源や進化に関する“なぜ?”には,生物学,物理学,化学など個々の専門分野の常識では答えられない謎がたくさんあるのです。
 その最たるものは『なぜ,生命が誕生して,生物には進化という現象があるのか?』という根源的な命題です。」

と書き,それに応えるには,

「生物は,物質的には地球の一部であり,バクテリアからヒトまでの進化を考える場合には,全地球の物質の変化を地球史46億年の時空で考えなければならない」

として,本書の,ある意味壮大な仮説が生まれてくる背景になっている(上記の進化系統樹は,仮説の集大成になっている)。

当然,宇宙から来たの,火星から来たの,隕石からだの,という地球外生命由来は,一顧だにされない。それは,科学ではなく,妄想でしかないからだ。化学は,検証できなくてはならない。

鍵のひとつは,シュレディンガーの,

「遺伝子は古典物理学で記述される物質の集団ではなく,量子力学の支配する分子でなければならない」

と喝破した言葉にある。つまり,

「何十代も,親の性質を間違いなく子に伝えることのできる遺伝子は,環境の変化で変わることのない“安定な物質”でなければなりません。そうだとすると遺伝子は,ほんの一部が変化するのにも大きなエネルギーを要する『一個の分子』であるはずだ」

というのが,シュレディンガーの洞察の背景にある,

「有機分子は,H,C,N,O,P,Sなどの軽元素が数個から数百,数万個も強固に“共有結合”したものです。“共有結合”とは,原子Aと原子Bが電子を出し合って,それらの電子が両原子をつなぐ軌道を高速でまわり続けることでA-Bが一体化される結合の仕方」

であり,だから,最後に,この高分子の一部の分子基,あるいは原子一個の位置を変えるだけでも,大きなエネルギーが必要になる。そういう変化しにくい,高分子をどう作ったかが,生命起源に迫るキーになる。

もう一つの鍵は,やはりシュレディンガーの,

「生命をもっているものは崩壊して平衡状態になることを免れている」

という,「『生きる』という生命現象そのものが,『宇宙のエントロピーはつねに極大に向かって増加する』という熱力学第二法則に矛盾する」という指摘である。この矛盾を,シュレディンガーは,

「生物体は“負のエントロピー”を食べて生きている」

と表現した。しかし,著者は,

「“矛盾” や“異常”が理解できたところに新しい世界が開けます。」

と言い切る。そして,この矛盾を,「生物の進化を考えるときに,有機分子や生物だけを考える」ことによって勝手に落ち込んだ,「幻のトリック」と言う。つまり,全地球規模で考えれば,

「地球は創生期から46億年,熱を出し続けてきた結果,マグマオーシャンの状態から海ができて,今の穏やかな地球になった」

のであり,いまもまだ,地球が膨大な熱エネルギーを放出し続け,冷却しつづけている。そこから,

「地球にあるH,C,N,Oなどの軽元素,“地球軽元素”もエントロピーの減少によって秩序化します。その結果が有機分子の生成であり,生命の発生,さらには素の進化」

なのだという考えにつながっていく。

著者の生命誕生の仮説とその検証の,詳細な経緯は,本書に譲るとして,本書の最後に,「生命誕生」のプロセスが,たどり直されている。

「43億年前:微惑星の集積が終焉すると,地球は熱を宇宙に放射し,温度が下がって水蒸気が凝集し,全地球を覆う海洋が出現しました。エントロピーの低減による地球秩序化の一環です。」

から始まって,

「40~38億年前:太陽系の軌道に乱れが生じ,軌道を外れた小惑星やその被破砕物が隕石となって頻繁に地球に衝突しました。…地球にはまだ大陸がなく,表面はほとんど海洋で覆われていましたので,それら隕石は海洋に衝突し,地球の水および大気と激しい化学反応を起こしました。
 隕石の海洋衝突で生じた超高温の衝突後蒸気流が冷却する中で,多種多様の“有機分子”が創生されました。」

を経て,

「40~38億年前頃:海洋堆積層はプレートテクトニクスによって移動し,プレート端にいたって一部は褶曲・断層などを生じつつ島弧の付加体となり,ほかはサブダクション帯…を経て,再びマントル内部に沈み込みます。
 その堆積層に含まれていた高分子は,大量に発生した海水起源の熱水やマグマ起源の熱水に遭遇して加水分解する危機に直面します。そのまま熱水中にあれば分解消失してしまいますが,小胞を形成して内部退避した高分子はサバイバルできました。」

と,このストーリーは,想像ではなく,実験室での実験検証を重ねながら,仮説として固められていく経緯も,丁寧に説明されている。科学というものの,仮説づくりと,その検証実験というものが,いかにクリエイティブかを,よく教えてくれるプロセスにもなっている,と思う。

あとがきで,

「“人生は志と運”を信じていながら,取り掛かるのが遅きに失した」

との著者の述懐は,重く切実だ。そのせいか,本書の末尾は,

「本書に納得した読者が,あるいは逆に本書に異議を感じた読者が,さらに一歩,生命起源の未知領域に踏み込むであろうことを信じて,筆を置きます。」

と締めくくられている。ふと思う,野中郁次郎氏は,

知識とは思いの客観化プロセス,

と言っていた。だから,思いは,つなげていけるものなのだろう。

参考文献;
中沢弘基『生命誕生』(講談社現代新書)








今日のアイデア;
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2015年06月07日

プライド


奥井智之『プライドの社会学』を読む。

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サブタイトルが,「自己をデザインする夢 」とある。

冒頭,ジェーン・オースティンのPride and Prejuiceの訳を問題にする。

高慢と偏見

自負と偏見

と訳される。著者は,小説中のエリザベスの台詞を,エビグラフに,自身の訳で,

「あちらがプライドをもつのは勝手です。しかしこちらのプライドを傷つけるのは許せません」

と掲げる。あるいは,prideを「誇り」と訳す例もある。著者は,「おわりに」で,これを巻頭におにいた理由を,

「それが『プライドの何であるか』をよく表しているからである。」

と,そして,この(エリザベスの)言葉は,

「Aがプライドをもつように,Bもプライドをもっている。それゆえにAは,Bのプライドを安易に傷つけてはならない,と。もう一歩踏み込んで言えば,彼女は,こう言っている。人間はだれしも(AもBもCも…),他者のプライドを傷つけやすい,と。」

とも付け加える。そして,

「本書は,プライドに関する社会学的考察を試みるものである。一般にプライドは,心理的な事象と理解されている。実際ブライトは,もっぱら心理学者によって論じられてきた。しかしそれは,一個の社会的な事象ではないかというのが本書の出発点である。」

と,問題意識を述べる。僕は,それに強く惹かれる。人は,自己完結して生きていない。人との関係の中で,心理がある。そのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/418428694.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/413639823.html
http://ppnetwork.seesaa.net/article/397281789.html

等々でも触れた。関係の物象化(人間と人間の関係が,物と物の関係として表れてくる)という概念がわかりやすい。ときに,帰属するものにプライドを置く。で,本書では,

自己,家族,地域,階級,容姿,学歴,教養,宗教,職業,国家,

と章立て,プライドの依拠するものを順次追っていく。それを,ジンメルを引用しつつ,

「一般に秘密は,何かを隠蔽することをさす。しかし,秘密は,一個の矛盾を孕む。というのも隠蔽することで,かえって他者の注目をあつめるから,と(『社会学』)。その意味では秘密は,装身具と同等の機能を持つ。
 その装身具についてもジンメルは,面白い考察を行っている。装身具は本来,自己の優越性を示すためのものである。しかし装身具は,一個の矛盾を孕む。というのも他者の羨望なしには,自己の優越性はしめせないから,と。いったいここで,ジンメルが言わんとすることは何か。それは人間存在が,個別性と社会性の矛盾のなかにいるということであろう。そういう矛盾を孕むというのは,本書の主題であるプライドのばあいも同じである。」

と書き,プライドを位置づけ,こう定義する。

「プライドとは『自分や自分の属する集団を肯定的に評価すること』である。と,当然これとは逆に,『自分や自分の属する集団を否定的に評価すること』もありうる。」

だから,プライドは,

「自己準拠的(self-referential)なシステムである。これは,プライドの基準が,自分自身の中にあることさす。したがってプライドをもつ/もたないは,最終的には本人次第ということになる。」

自己準拠は,一般には自己言及という言い方をする。著者は,しかし,プライドを自己完結させない。

「各人がプライドを自由に操作できることを意味しない。たとえば心理学的に,『どうすればプライドをもてるか』を論じることは勝手である。しかし実際には,プライドの操作はそう簡単ではない。というのもプライドの基準は,個人的なものであると同時に社会的なものであるから,その意味ではプライドもまた,個人性と社会性の矛盾を孕んでいるのである。」

これを読んで,僕の中のもやもやが言語化された気がする。プライドは,他人の存在,他人との関係,はっきり言って他者の承認や認知抜きには,プライドとして機能しない。だから,ある意味,

「わたしたちがプライドをもつのは,私たちが集団のメンバーであるからである。」

と,著者が言うのにつながる。コミュニティの認知がいるのである。それを,

「『わたしたち』は『かれら』と異なることで,『わたしたち』たりうる。そして『わたしたち』こそが,わたしたちにとってのプライドの源泉たりうる,と。」

と,公式化してみせる。で,

「コミュニティこそがプライドの源泉である」

という仮説を表現する。このコミュニティとは,「私たちという意識で結ばれた集団」をさす。

著者は,フロイトを借りて,

「人間は現実の自我とは別に,理想の自我=理想化された自己像をもっている。それは人間に,自分の『あるべき姿』を提示する…。…そこでは人間がプライドをもつ=自己自身を価値的に評価することの心的機制が解明されている」

と説明し,さらに,エリクソンのアイデンティティという概念を借りて,こう付け加える。

「アイデンティティ(自分が何であるのか)概念はそれ自体,『理想の自己』の表明にあたると私は思う。したがってそれは,『現実の自己』との間で軋轢を生じずにはすまない,と。エリクソンはアイデンティティが,社会的な文脈のなかで形成されると捉えている。すなわちアイデンティティは,(自己完結的なものではなく)他者による承認を必要とするとしいうわけである。」

しかし皮肉なことに,

「まさにコミュニティが壊れたときに,アイデンティティが生まれた」

のであり,「アイデンティティはコミュニティの代用品」(Z・バウマン)なのである。それゆえに,プライドをもつこと,

「すなわた自分自身に誇りをもつことが,わたしたちの生存の条件」

なのである。本書の面白いところは,プライド,つまり自己準拠的(self-referential)なシステムは,

「『予言の自己成就』や『ピぐマリオン効果』(教師のきたいによって,生徒の学力が向上する)と同じく,『トマスの公理』(ある状況を現実と規定すれば,結果としてそれが現実になりがちである)と同系列の心理的・社会的機制(メカニズム)ではないか。つまりはプライドのありようで,わたしたちの生のありようが変っていくのではないか。その意味ではプライドは,私たちの生の原動力になっているのではないか。」

という記述である。しかし,現実は,地域社会だけでなく,家族も含めて,社会解体ないし個別化が進行し,コミュニティは日増しに見つけにくくなる。

「はたしてコミュニティのない状況で,私たちはプライドをもつことができるであろうか。」

だから,現実のコミュニティに代わって,「理想のコミュニティ」を希求し,待望していく。いまや,SNSのようなネット上の仲間も,ほんの小さな教室や学習仲間も,その代替品になっている。

「たとえばグローバリゼーションの時代に,ナショナリズムが勃興するという逆説がある。同様に,理想の自己,家族,地域…についてのイメージは,わたしたちの周囲に満ち溢れている。よくも悪くもそれは,人々のプライド回復のための方策なのである。今日『理想のコミュニティ』の果てに人々が見出すものは,いったいなんであろうか。」

本書は,自己,家族,地域,階級,容姿,学歴,教養,宗教,職業,国家と,各章で,それを順次追っていく。

正直言うと,最初の「はじめに」に比べ,だんだん散漫になっていって,焦点が合わなくなっていく。「さいごに」で,著者はこう明かす。

「本書は,十の主題×六つの素材=六十の小話から構成されている。その六十がそれぞれ一定の独立性をもっている(極端に言えば本書が,六十のまとまりのない話から構成されている)」

のは,結果として,

「『プライド』(という得体のしれないもの)にあちらこちらからスポットライトをあてるという体裁になった。」

という。「はじめに」の意気込みに反して,

自己準拠的(self-referential)なシステム

の社会的文脈での構造を分析するというよりは,社会的文脈のなかでのプライドの現れ方を書いてしまった,ということになる。「はじめに」との落差が大きいのが,ちょっと残念な気がしてならない。

参考文献;
奥井智之『プライドの社会学: 自己をデザインする夢 』(筑摩選書)









今日のアイデア;
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