2012年10月30日

自分の仕事に旗を立てる~誇りに名づけする

 
 かつてある大きな装置産業で仕事をさせていただいたとき,担当者は,「うちの社員はやる気がない,昨日本社の健康管理室の人が話しをしにきてくれたが,あまりの態度の悪さに怒って帰ってしまった」というのである。何で外部の人間にそんなこと言うのかも変だが,「やる気がない」と決め付けられたものは,もっとやるせないに違いない。
確かに,言われる通り,態度はよろしくない,しかし,一応聞いてはいる。そこで,ちょっといつもとより早く,「自分のやっていること振り返って,自分にキャッチフレーズつけてみよう」といった。
(オーソドックスな旗の意味と手順は,http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0653.htm
やり方は簡単なのにした。ただ自分のやっている仕事を洗い出して,それにキャッチフレーズをつけるだけ。でもけっこう面白がって,こんなのありかと聞いてくる。詳しいことは忘れたが,「番長」とか「囃子役」というのがあったと思う。なかなかかわいいものだ。
これは,改めて自分の誇りに名づけ,ラベルつける作業なのだ。
そして,ふと思った。自分の仕事に誇りもつ機会など与えられていないのだ。ただ日々,やらなくてはならないことに追いまくられ,それが出来るか出来ないかしか問われない。それをやることの意味やそれを自分がすることの意味は考える機会もない。一体何が自分にしか出来ないことなのか,自分だから出来ることなのか,立ち止まる機会もない。
いや,多分機会は一杯あるし,キャリアについて考える場も与えられている。しかし生身の誰それに引き寄せた,自分の誇りを考える機会とは受け止められなかったのかもしれない。なぜなら,出来ることリストをいかに早く積み上げるかに関心を向けざるえない,強いプレッシャーがあったに違いない。
 大体,やる気という言葉のイメージは,一般には,「何にでもばりばりやる」「積極的に何でも取り組む」「困難なことでも根気よくやり遂げる」「何にでも進取の気持がある」のようだが,ある調査では,「静かに熟考する」「納得しないことはやらない」「感受性が強い」「生き生きしている」「仕事を楽しんでいる」「何かを達成しようとする意志が強い」「ユーモアがある」「心に余裕がある」「人中では目立たない」「やさしい配慮がある」と,それぞれのキャラや個性によってかなり幅広いのだ。
 だから,やる気があるとかないとかということ,たとえば親や会社の上司がいうときは,自分のイメージに基づいていっている恐れがある。そのとき,どういう期待をしているかによっては,それ自体が本人のやる気殺ぐことだってありうる。たとえば, 「バリバリ動き回る」とか「根性がない」といった肉体的な表現,「あんまり会議でも発言しない」「自分の主張がない」「チャレンジする気持がない」「言われたことしかしない」「高めの目標を与えてもそれをクリアしようと努力しない」「すぐできません,わかりませんと音を上げる」「自分でとことん考えようとしない」「仕事を掘り下げようとしない」「仕事の幅が狭く,積極的に努力したり勉強したりしない」等々。前出の多様なやる気とのギャップは大きい。
 それなら,それぞれのやる気を表現してもらう,それぞれがやる気のある状態になっているとどなっているのかを語ってもらうほうが,手っ取り早い。それを仕事上の役割や立場にひも付けするのは上司の役割なのだ。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


#やる気
#仕事の旗
#仕事の誇り

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2012年11月17日

行動化の脳機能~『脳には奇妙なクセがある』からⅤ


引き続き,池谷祐二『脳には奇妙なクセがある』について

人は学んだとことの1/2から1/3を,8時間後には忘れている,という。成りたい自分をイメージすれば,夢はかなう,という人がいる。そして現実にそうなったという人も一杯いる。だが,たぶん,ただ夢見ただけでも,強く思っただけでも,ないはずで,そのことを実現できた人は意識していない,そんな気がしたいた。

脳は出力することで記憶する。それは経験的にそう思ってきた。使わなければ,脳のニューロン・ネットワークは強化されず,強化されなければ,忘れていく,と。池谷さんは,こう書く。

脳に記憶される情報は,どれだけ頻繁に脳にその情報が入ってきたかではなく,どれほどその情報が必要とされる状況に至ったか,つまりその情報をどれほど使ったかを基準にして選択されます。

前に笑顔をつくるだけで,楽しくなる,という例を挙げた(http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10981807.html)が,笑顔という表情の出力を通して,その行動結果に見合った心理状態を脳は生み出したと言えるようだ。たとえば,身体を眠くなる状態にしておくから,眠くなる。身体が先で,眠気は後,会議や授業中の睡魔も,「静かに座っている姿勢が休息の姿勢でもあるから」だということになる。

やる気も同じで,やる気が出たからやるというより,やりだしたことで気が乗り始める。「何事も,始めた時点で,もう半分終わったようなもの」ということらしいなのだ。たとえば,掃除の例を挙げている。始める前は億劫で,その気にならないが,えいやっと,動き出すと,とことんきれいにしたくなる,ということがあるように。

デューク大学のクルパ博士は,ネズミのひげがモノに触れた時(受動,入力)と,ネズミがひげを動かしてモノに触れた時(行動,出力)では,大脳皮質の反応が,まったく違い,「身体運動を伴うと,ニューロンが10倍ほど強く活動する。つまり,うだうだ言っているよりは,まずは動き出してしまうと,その結果勝手にニューロンが活性化し,どんどん自分を前へ押し出してくれる,ということのようだ。

だから夢を見た人は,意識的か無意識的かは別にして,すでに何か動き出してしまっている,そのことが,夢を手元に近づけている,と言えるのかもしれない。

ところで,英語には頑張れ元気を出せという気合いにかかわる言葉はないそうだ。「あきらめるな」とか「ベストを尽くせ」といったより具体的な表現しかないらしい。頑張れは,あえて訳せば,「Chip up」「Cheer up」であり,顎を上げろとかうつむくな,という具体的な指示になる。顎を上げる,うつ向かない,という行動が心に影響を与えるというのは,笑顔の例と同じだ。身体の構え,恰好を取るから,がんばるマインドを引き出していく…。

同じことは姿勢にも言える。ブリニョール博士らは,学生たちに,「将来仕事をするために,自分のいいところと悪いところを書き出す」というアンケートを,一方は背筋を伸ばして座った姿勢,他方は,猫のように背中を丸めて座った姿勢で,書いてもらった。すると,背筋を伸ばした姿勢で書いた内容のほうが,丸めて書いた姿勢よりも,各進度が高かったそうだ。自分の書いたことについて確かにそう思うとより強く信じたということだ。

ここでも,形や行動,姿勢が,強くマインドを左右する結果が出ている。よく,柔道や剣道,その他の技にかかわる世界,「形」をまねるところから入るのは,守破離の「守」の部分,形から入って形からでる,といわれるのにも似ているだろう。

「形」の模倣とは,各世界における「型」に含まれる要素的な活動(「型」を要素に分解できるわけではないが)の学習といってよい。(『「わざ」から知る』)

ただしここで「形」と「型」を区別しているところに注目しておかなくてはならない。型とは,「技法と集合的個人的な実践理性」という。何のことかわからないが,先代勘三郎が,こういっている。

「先代の源之助のおじさんがお辰をやったとき,いつも後見を勤めてて……,あの焼ゴテに赤く火が見えるのは,丁度いい間合いを計って後見が仕掛けてあるモグサに線香で火をつけるんです。そうやって毎日しているうちに,お辰の呼吸(いき)とか段取りとかが,自然に身につくんですね。

というように,形を習得しただけではなく,学ぶものがその「形」の意味を,模倣を通して自分なりに解釈し,その芝居全体の意味は何か,歌舞伎全体での意味は何か,と文脈全体を取り込むという,より大きな目標に注目を移していくことで,「形」を自然な「型」にしていく。「形」の習得は技の習得の入り口に過ぎない,その意味の「守」ということなのだろう。

そこにも,姿勢や形,恰好から入っていく入り口が見える。

このことは,例のライルのいう「Knowing that」(知識の所有)と「Knowing how」(遂行的知識)が思い出され,知っていることとできることの違いにも思いがいく。

自分は怠け者で,いつも,「形」のところから引き返してきた気がしてならない。何かを極めたものは,たぶんすべてののが見える見え方が違うのだろう,という気がする。今更遅いが,死ぬまで,型の手前まで,行きたいものだ。

参考文献;
生田久美子『「わざ」から知る』(東京大学出版会)

今日のアイデア;
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#脳には奇妙なクセがある
#記憶
#わざ
#型
#形
#池谷裕二
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2015年10月11日

捏造


谷岡一郎『科学研究とデータのからくり』を読む。

科学研究とデータのからくり.jpg


「現在,日本学術会議では,研究者の『不正行為』という語のかわりに,『ミスコンダクト』という表現をもちいる」として,そのミスコンダクトについて,

「たちの悪さを」あらわす五段階レベル,

としてまとめている。

レベル1は,単なるミス。書き写し間違い,思い込み,知らずに引用,記述洩れ。
レベル2は,未熟・不作法。研究者として当然持っているべき知見が不十分。たとえば,実験ノートの不備,方法論上の不適格性(変数の無視,数式の誤適用),因果関係の誤用や不備,とんちんかんな受け答え。

ここまでは,過失の領域,と著者は言う。

レベル3は,ずさん・一方的。強引な解釈,追試への非協力,意識的な他人のデータの借用,二重投稿,質問へのはぐらかし,強引な解釈・主張。

レベル3のどこかで過失が不正に変わる分岐点があるるこの段階では,既に量的・質的に不誠実なものは,不正領域にある,と著者は言う。

レベル4は,意図的ミスリード。不作為による嘘,批判者に対する無視,研究費の流用,不都合なデータ,結果への不言及,根拠のない主張,グラフと票によるミスリード。

レベル4は,不正と言えるレベル,著者は言う。

レベル5は,犯罪行為。論文の登用,データ操作,データ改ざん,捏造。

しかし,である。デジタルのように,境界線が引けるものか。これを読みながら,著者は,判定者の位置にいる。ご自身が,研究者なら,線引きの曖昧な領域がある。その辺りの,研究者としての忸怩たる感覚がまるでなく,正義の味方面,がどこか,かえって胡散臭い。

同じ,ウイリアム・ブロード&ニコラス・ウエイドの『背信の科学者たち』を例示に挙げながら,科学者としての内心に迫っていた,『嘘と絶望の生命科学』の榎木英介氏は,

「実は小保方氏のSTAP細胞論文が騒動になりはじめたとき,バイオの科学者たちは,それほど驚かなかった。もちろん,画像の切り貼り,画像の流用,文章のコピーペーストなど次々と明らかになる疑惑を目の当たりし,多くの研究者はさすがに絶句したが,実はバイオ研究の論文が結構適当で,ときにウソが交じっていることは,バイオ研究者のあいだでは広く知られたことだったのだ。」

と,書いていた。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410499800.html

で,触れたが,ここにあった,科学の最前線における,不正とねつ造のボーダーラインについて,著者には,ほとんど認識を欠いている,というか,裁判官として立っている(研究者の埒外という)立ち位置が気になって仕方がない。

たとえば,小保方氏について,

「客観的にみれば,小保方氏はかならず行為であるが,バレるウソをつき,そのとおりにバレ,自分が窮地に追い込まれたことになる。」

と書き,

「『目立ちたがり』は,よくウソをつく。一種の有名病なのだろう。」

と断ずる。しかし,榎本氏は,

「ある論文では,たった一つの画像に,ちょっとだけいじったあとがあった。ある論文では,二つの画像に。ある論文では三つの画像に。その先に,総ての画像やグラフがどこか別のところから持ってきた,完全なニセ論文がある。どこに線を引くのか。そして,誰がその線を引くのか。」

その「誰」に,ご自分は立つ資格があるのか,ということに微塵も疑問を感じていないらしいことに違和感がある。

さらに,榎木英介氏は,研究者の立ち位置から,

「研究者は,まず“真実”はこうだろうと想像し,『最初はあいまいな仮説』を立てるところからはじまる。つまりこの段階では『ねつ造』であるといえる。そして,人間が未知のことを理解するのは,パトリック・ヒーランが『科学のラセン的解釈』説で述べているように,『最初はあいまいな仮説(つまり『ねつ造』)→試す→都合のいい部分を残し,不都合な部分を変える(拡大・分化,つまり『改ざん』)→試す,のラセン的上昇で,〈知〉が生産される』ので,ある発見のプロセスがこのようだから,発見にはある種の『ねつ造→改ざん』作業が必然なのである。」

とまで言い切るのである,そして,

「不正とそうでないものの境界はどこにあるのか…これが意外に難しい。」

と。たとえば,

「実験を何回もすれば,ときに変なデータが出てくる。実験のウデの問題なのか,それとも,試薬がおかしかったのか。では,そんな『異常値』が出たときにどうするのか。異常値だけ集めるか,異常値を分析の対象から外してしまうか……異常値だけ集めたデータと,異常値を外したデータは全然異なるものになるかもしれない。つまり,自分の主張にあうデータだけを集めることができてしまうのだ。」

そう考えると,「異常値の一個くらいは消した経験がある研究者」は多いだろう,と。さらに,

「(画像の)加工しなくても,ウソはつける。何十回も何百回も実験を行って,たまたま自分のたてた仮説にピッタンコの写真がとれた。そういう写真を『チャンピオンデータ』と呼ぶ。いわば,『奇跡の一枚』みたいなものだ。……しかし,たまたま出たチャンピオンデータだけを貼り合わせると,あたかもその仮説が証明されたかのようにみえてしまう。」

確かに,これは,捏造,改竄,盗用には当たらないが,その境界線は微妙だ。この著者が,本書で断罪するように,一刀両断できるとは思えない。

最後に,気になったのは,フロイトを似非科学と同列に論じていることである。これには驚く。患者を通して,帰納的に得たのがフロイトの仮説である。その中には,脳科学で今日,立証されつつある部分もある,という脳科学者もいる。仮説とはそういうものだ。アインシュタインの仮説だって,光より早いものがあると,つい最近大騒ぎになったではないか。その辺り,どうも,科学を必要以上に狭く限定しているのではないか。ひょっとすると,ご自分で仮説を立てるということをやられたことがないのではないか,と勘繰りたくなるような妄説である。蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る,なのかもしれない。

参考文献;
谷岡一郎『科学研究とデータのからくり』 (PHP新書)
榎木英介『嘘と絶望の生命科学』(文春新書)








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2015年12月16日

志気


「士気」

と書くと,

兵士の戦いに対する意気込み。また転じて,集団で事を行うときの意気ごみ,

という意味になる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%B0%97

の説明では,

「(しき、英: morale)は、一般に部隊の任務を遂行する上で有用な兵員の心理的な積極性や耐久性を指す。
その他、軍事関係以外にも集団組織行動全般での関係者の行動意欲に関わる心理的高揚のバロメーターを表す。」

とあり,まあ,

士気が上がる,
士気が高い,

という言い方をする。一方,「志気」は,

もの事をなそうとする意気込み

という意味になる。『大言海』だと,それに,

こころざし,気性,

が加わるが,しかし,結果として,両者とも,

やる気,

を指しているように見える。「士」と「志」の字は,「士」は,前にも書いたが,

男の陰茎の突き立ったさまを描いた象形文字で,牡の字の右側にも含まれる,

成人して自立するおとこ,

を意味する。「士気」の語源は,

「士(兵士)+気(元気)」

で,それが一般に転じたとされる。「志」は,

「士印は,進み行く足の形が変形したもので,之(し)と同じ。士女の士(おとこ)ではない。『心+士』は,心が目標を目指して進み行くこと」

と説明されている。で,

「ある目標の達成を目指して心を向ける」

という意味になる。「大志」「とか「立志」の「志」は,目的と訳されることもある。

こうみると,英語に訳すと,共にmoraleになってしまうのだが,「士気」と「志気」の差は,意気込みには違いないが,目的意識の向かう先の差であるように見える。

士気の類語は,

(団体の構成員にその団体が成功を収めたいと思わせる精神)団の精神,モラール, 団結心,

であり,志気の類語は,

(集団における積極的な意志や心意気)意気込み,やる気 ,やるぞという心意気,戦意,モチベーション

となり,両語は置き換わるようで微妙に違う。

「士気」は,所属する集団(の目標)に向かうのに対して,「志気」は,個々の目指す目標を介して集団の目標に向かう,という気がする。

あるいは,同じ集団の意気込みでも,士気は集団に焦点が当たるが,志気は個々人の内側に焦点が当たる。たとえば,「士気が上がる」「士気が高い」(志気が高い,志気が上がるとは言わない)は,

やる気が高い,
やる気が上がる,

と言い替えられるが,集団を指して言うことが多い。個人なら,「やる気がある」「やる気になる」というだろう。

やる気については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398165296.html

で触れたことがあるが,

やる気は,

遣る気

と当てられる。遣る気は,辞書(『広辞苑』)には,

「ものごとを積極的に進めようとする目的意識」

とある。他の辞書だと,

進んで物事をなしとげようとする気持ち,

というニュアンスだが,「目的意識」とあるのがみそだと思う。

遣る気の「遣る」は,語源的には,

「自分の身から遠くへ動かす行動」

という意味で,送る,遣わす,与える,進ませる,はかどらせる等々の意味,とある。辞書(『広辞苑』)には,大きく分けて,

その場の勢い,成り行きに任せて他方へ行かせる,
(身分が同等以下の者に)与える,
自ら物事を行う,
(他の動詞の連用形について)動作が完了する意,動作を遠くから行われる意(晴れやらぬ,見遣る),

等々といった使い分けがあるが,どうも「遣る気」は,

「自らが物事を行う」気,

という使い方で,そこに,漫然とというよりは,目的がある,つまり,

その気になる,

というニュアンスがあるような気がする。その意味で,「志気」に重なるのである。

しかし,前に,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/430156866.html

で,触れたが,類語の,モチベーションという言葉は,

動機づけ,

つまりは,辞書的には,

「人や動物の行動を引き起こし,一定の方向に向かわせる一連の行動」

とあり,まあ,パヴロフやスキナーの無条件であれ,オペラント条件付けであれ,犬や鳩じゃああるまいし,餌づけするように意欲を引き出そうとする,モチベーション理論には,忌避感がある。内発的だの外発的だのというのは,働かせようとする者が,働く意欲を引き出そうとする発想に見えてならない。そこには,

「士気を高めよう」

というのと同じ上から(あるいは部外からの)目線を感じてならない。それに比べて,

やる気を起こす,
とか
やる気を引き出す,

という言葉には,そもそも内にあるやる気スイッチをどうやって点火できるかという視点があるように思える。

つまり,やる気があるとは,それをするための「何か」(目的)が自分の中にあることなのである。それをするためならその気になれる,たとえば,それをする意味や価値や魅力(大切さや値打ち,面白さや楽しさ),興味や関心,自己表現(目立つ,存在感,賞賛)等々が必要なのである。そのうちからの視点が,

やる気,

だとすると,「志気」とは重なるが,「士気」には重ならない。視点の位置が違うのである。


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2023年10月14日

知的遊戯


与謝蕪村(玉城司訳注)『蕪村句集』を読む。

蕪村句集.jpg


蕪村の発句 約2850句のうち千句を選んだもの。

芭蕉の、

田一枚植ゑて立ち去る柳かな(奥の細道)、

にゆかりのの遊行柳は、西行の、

道のべに清水流るゝ柳陰しばしとてこそ立ち止まりつれ(新古今集)、

からきているが、その場所を50年後訪ねて、

柳散(ちり)清水涸れ石処々(ところどころ)

と、蕪村は詠んだ。この、良くも悪くも、

けれんみ、

が身上にに見える。もうひとつ、

しら梅のかれ木に戻る月夜哉
寝た人に眠る人あり春の雨
熊谷も夕日まばゆき雲雀哉
帰る雁有楽の筆の余り哉

等々のように、何といったらいいか、

理屈っぽい、
というか、
観念的というか、

これも、特徴に見える。ま、いくつか選んだのは、

おし鳥に美をつくしてや冬木立
老武者と大根(だいこ)あなどる若菜哉
みじか夜や六里の松に更(ふけ)たらず
とかくして一把(いちは)に折(をり)ぬ女郎花(をみなへし)
秋かぜのうごかして行(ゆく)案山子(かがし)哉
一雨(ひとあめ)の一升泣やほとゝぎす
夏河(なつかは)を越すうれしさよ手に草履(ざうり)
春の海終日(ひねもす)のたりのたりかな
きぬきせぬ家中(かちゅう)ゆゝしき衣更(ころもがへ)
狩ぎぬの袖の裏這ふほたる哉
手すさびの団画(うちはゑがか)ん草の汁
大粒な雨はいのりの奇特(きどく)哉
秋来ぬと合点させたる嚔(くさめ)かな
稲妻や波もてゆへる秋津しま
月天心貧しき町を通りけり
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
遠近(をちこち)おちこちと打つきぬた哉
火桶(ひをけ)炭団(たどん)を喰(くらふ)事夜ごとにひとつづゝ
凩や広野にどうと吹起る
大鼾(おほいびき)そしれば動く生海鼠(なまこ)かな
足袋はいて寝る夜物うき夢見哉
極楽のちか道いくつ寒念仏
寝ごゝろやいづちともなく春は来ぬ
雛見世(ひなみせ)の灯(ひ)を引くころや春の雨
牡丹散(ちり)て打(うち)かさなりぬ二三片
蚊屋の内にほたるはなしてア丶楽や
欠ケ欠ケて月もなくなる夜寒哉
草枯て狐の飛脚通りけり
みどり子の頭巾眉深(まぶか)きいとおしみ
寒梅やほくちにうつる二三輪
いなづまや二折(ふたをれ)三折(みをれ)剣沢(つるぎざわ)
蓑笠之助殿(みのかさのすけどの)の田の案山子(かがし)哉
鷺ぬれて鶴に日の照時雨哉
らうそくの泪(なみだ)氷るや夜の鶴
出る杭(くひ)を打うとしたりや柳哉
喰ふて寝て牛にならばや桃の花
うすぎぬに君が朧(おぼろ)や峨眉の月
明やすき夜や稲妻の鞘走り
学問は尻からぬけるほたる哉
みのむしのぶらと世にふる時雨哉
みのむしの得たりかしこし初しぐれ
古傘の婆裟(ばさ)と月夜のしぐれ哉
なの花や月は東に日は西に
夕風や水青鷺の脛をうつ
霜百里舟中(しうちゆう)に我(われ)月を領ス
居眠(いねぶ)りて我にかくれん冬ごもり
ちりて後おもかげにたつぼたん哉
さし汐に雨のほそ江のほたる哉
暮まだき星のかゝやくかれの哉
こもり居て雨うたがふや蝸牛(かたつぶり)
方(ほう)百里雨雲(あまぐも)よせぬぼたむ哉
涼しさや鐘をはなるゝかねの声
脱すてゝ我ゆかしさよ薄羽折
百日紅(さるすべり)やゝちりがての小町寺
松明(まつ)消(きえ)て海少し見(みゆ)る花野かな
人は何に化(ばく)るかもしらじ秋のくれ
破(わ)レぬべき年も有(あり)しを古火桶(ふるひをけ)
蒲公(たんぽぽ)のわすれ花有(あり)路(みち)の霜
絶々(たえだえ)の雲しのびずよ初しぐれ
虹を吐(はひ)てひらかんとする牡丹哉
きのふ暮けふ又くれてゆく春や
摑(つか)みとりて心の闇(やみ)のほたる哉
春雨や暮なんとしてけふも有(あり)
雲を呑で花を吐(はく)なるよしの山
後の月鴫(しぎ)たつあとの水の中
山暮れて紅葉の朱(あけ)を奪ひけり
いさゝかな価(おひめ)乞はれぬ暮の秋
箱を出る皃(かお)わすれめや雛二対
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
帰る雁田ごとの月の曇る夜に
色も香もうしろ姿や弥生尽
己が身の闇より吼(ほえ)て夜半の秋
朝皃(あさがお)にうすきゆかりの木槿(むくげ)哉
蕭条(せうでう)として石に日の入(いる)枯野かな
寒月や鋸岩(のこぎりいは)のあからさま

等々だが、蕪村の句は、確かに、一方で、

稲妻や波もてゆへる秋津しま
雲の峰に肘する酒呑童子かな

というように、スケールが大きいか、

鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分哉
栗飯や根来法師の五器折敷(をしき)
いもが子は鰒喰ふほどと成にけり

といった歴史的背景、歴物語風、あるいは、

梨の園に人彳めり宵の月
熊野路や三日の粮(かて)の今年米(ことしまい)
ふく汁の君よ我等よ子期(しき)伯牙(はくが)
宿老の紙子の肩や朱陳村(しゆちんそん)
木(こ)の下が蹄(ひずめ)のかぜや散さくら
温公(をんこう)の岩越す音や落し水

と、中国の典籍、古典をバックにした句が目立つ。一種、

知的遊び、

といった高尚趣味があり、悪くすると、

既得し鯨や迯(にげ)て月ひとり、
宿かせと刀投出す雪吹哉
兀山(はげやま)や何にかくれてきじの声
春雨にぬれつゝ屋根の毬(てまり)哉
春雨や人住ミてけぶり壁を洩(も)る
島原の草履(ざうり)にちかき小蝶(こてふ)哉
伏勢(ふせぜい)の錣(しひろ)にとまる胡蝶(こてふ)哉
みじか夜や毛むしの上に露の玉
秋風におくれて吹や秋の風
戸に犬の寝がへる音や冬籠
物書いて鴨に換けり夜の雪
御手打の夫婦(めうと)なりしを更衣
雪舟の不二雪信(ゆきのぶ)が佐野いづれ歟(か)寒き
飯盗む狐追うつ麦の秋
名月や神泉苑の魚躍る

と、

作為的、

だったり、

不二ひとつうづみのこして若葉哉
閻王の口や牡丹を吐んとす
みじか夜や地蔵を切て戻りけり
見うしなふ鵜の出所や鼻の先
時鳥(ほととぎす)柩(ひつぎ)をつかむ雲間より
狐火や髑髏に雨のたまる夜に
ところてん逆(さか)しまに銀河三千尺

と、

虚仮縅(こけおど)し的、

だったり、

変化すむやしき貰ふて冬籠
売喰(うりぐひ)の調度のこりて冬ごもり
はるさめや綱が袂(たもと)に小でうちん(提灯)
瓜小家の月にやおはす隠君子
雪信が蠅打払硯かな
夕顔や行燈(あんど)さげたる君は誰
石に詩を題して過る枯野哉
西行は死そこなふて袷かな

と、

衒学的、

な感じがして、俳句には素人だが、俳句を、

知的操作、
知的遊戯、

の道具としているように感じ、個人的には、あまり好きになれなかった。蕪村自身、句評で、

「春雨や椿の花の落る音」という句を「あまた聞たる趣向也(常套的な趣向)」と批判、

したというから、

ありきたり、

を嫌い、どうしても、

さくら狩美人の腹や減却す、

というような、

奇を衒う、

形にならざるを得ないのかもしれないが。

こうした印象を裏付けるかのように、蕪村は、俳諧とは、

俗語を用いて俗を離るゝを尚ぶ、

といい、その捷径を、

多く書を読めば則書巻之気上升し、市俗の気下降す… それ画の俗を去だも筆を投じて書を読しむ、

という。つまり、

漢詩を多読して俗気を去り、其角・嵐雪・素堂・鬼貫に親しみ、俗世を離れた林園や山水に遊び、酒を酌み交わして談笑し、不用意に詠むことで、オリジナルな句を得ることができる、

と(編者解説)。だから、

衒学的、

と感じてしまうのではないか。

参考文献;
与謝蕪村(玉城司訳注)『蕪村句集』(角川ソフィア文庫)

ホームページ;http://ppnetwork.c.ooco.jp/index.htm
コトバの辞典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/kotoba.htm#%E7%9B%AE%E6%AC%A1
スキル事典;http://ppnetwork.c.ooco.jp/skill.htm#%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%AB%E4%BA%8B%E5%85%B8
書評;http://ppnetwork.c.ooco.jp/critic3.htm#%E6%9B%B8%E8%A9%95

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