2012年11月02日

欠点をリソースとみなす


器用でもない,気もきかない,やることなすことうまくいかない,仮にそうだとしよう。

それをどう受け止めるのだろう。まずは,そのことを率直に語った真率さを,まずはポジティブにとらえるだろう。相手が問題といったことは,単なる言いかえではなく,真のリフレーミングにするには,それを心底プラスと受け止めなければ,単なるおためごかしに過ぎない。その率直さに,自分を何とかしたいと真実思っている姿勢と,だからこそ,あえて自分のマイナスを強調した,とみなせば,それは自分の負の部分と向き合える勇気なのかもしれない,あるいはいまの自分を何とかしたいという前向きの姿勢なのかもしれない。さらにその口ぶりの中に,不器用だけれども,粘り強さがあることをかすかに誇りに思っているにおいが感じられるかもしれない。あるいは気が利かない自分のなかに,頑固で,梃子でも動かない,軸があるのかもしれない。そして,やることなすこと,と総括しているなかに,実はもれてしまった,小さな成功が隠れているのかもしれない。

言葉で語っているのは,本人がいま意識しているネガティブ光線に照らし出されている部分だけなのだ。ではそこからもれた,別の機会,別の場所では,何があったのか,それは別のポジティブ光線で意識的に照らし出して見なければ,浮き上がっては来ないだろう。そこが,リソースをみつけるためのポイントなのではないか。

人はみな可能性がある,という。神田橋條治先生は,生来付与されている遺伝子の可能性を開花させる,という言い方をされていたが,それこそがポジティブ光線というものだ。

器用でないことで,得したことがあるかもしれない。その視点で見ていくと,器用でないことで,努力する必要があり,結果として,別のものが開花しているかもしれない。しかし本人は器用・不器用で振り分けているから,そのことは視野に入ってこないだろう。

われわれは(いや,ぼくはというべきだろう),一つの視点をとると,それから,なかなか離れられなくなる傾向がある。それを固定観念ともいうが,正確には機能的固着,つまり脳の働きが固まっている,あるいは脳のいつもの場所しか使っていないということである。それを習熟,という習性と呼んでもいい。

ネガティブになずむと,それによって,すべての過去が一色に染まる。ナラティブセラピー風にいえば,それが自分の観念を支配するドミナントストーリーとなる。それと異なる視点で見れば,ひょっとすると,数多のオルタナティブストーリーがあるはずなのだ。

神田橋條治先生は,それを能力と名づけた。悲観的というのは,悲観できる能力。極楽トンボよりはいい。怒りっぽいというのは,何についてもアグレッシブになれる能力等々。先ずは相手のネガティブに○をつければ,それはリソースなのだから。

エリクソンは,有名な,すきっ歯に悩む女性に,すきっ歯から水を飛ばす練習させた。あるいは人前でおならをして引きこもってしまった女性に,大鍋一杯の豆料理(海軍では口笛豆というそうだ)を作って食べさせ,大きいおなら,小さいおなら,うるさいおなら,やさしいおならの練習をすることを課題として出した等々。オハンロンによると,エリクソンは,患者の行動や体験のパターンを無批判に受け入れるだけでなく,パターンを積極的に発見し,変化を起こすために利用した,という。

N.R.ハンソンにならえば,なぜ,同じ空を見ていて,ケプラーは,地球が回っていると見て,ティコ・ブラーエは,太陽が回っていると見るのか。あるいは,同じく木から林檎が落ちるのを見て,ニュートンは万有引力を見,他人にはそうは見えないのか,ということになる。ハンソンは,それを「~として見る」と呼んだ。結局,われわれは対象に自分の知識・経験を見る。ゲーテは,「われわれは知っているものだけをみる」と言った。その延長線上で考えればいい。行動理論風にいえば,そういう見方を学習したのだ。ネガティブでおのれを見たほうが,生きやすいか,自己弁護しやすいか,防衛しやすいか等々。

能力に置き換えるのも,リフレームするのも,別の視点,別のものの見方,つまりオルタナティブなポジティブ光線で,照らし出すことで,別の自分が見えてくる,ということなのだ,と思う。


参考文献;ノーウッド・R・ハンソン『知覚と発見』(紀伊国屋書店)
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view04.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#リフレーム
#エリクソン
#ノーウッド・R・ハンソン
#リソース
#オハンロン
#神田橋條治
#ドミナントストーリー
#オルタナティブストーリー
#ナラティブセラピー
#機能的固着
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2012年11月07日

会話のずれ


発話の意味は,受け手の反応によって明らかになる,という。

それは,自分が喋ったことがどう受け取られたかという意味でもあるが,そうシャツチョコばらなくても,その受け取られ方で,話し始められた会話の意味が変わっていく,と考えてもいい。それが,実は会話の楽しみなのかもしれない。受け手は,話し手の会話の中から,自分が刺激を受けた部分に焦点を当てるから,当然少しずつ話の焦点がずれるが,極端な場合は,受け手の体験や記憶の中の話に移行してしまうかもしれない。

伝達という意味で言えば,口頭のメッセージは歩留り25%という説があるくらいで,基本的には,全部を聞くようにはできていないのだろう。だからもともと会話では,意識しないと,自然と自分に引き寄せてしか,相手の話を聞けない。というより,それが聞くことの常態なのだろう。だから,あえて,傾聴といわないと,丸ごと相手の話が入ってこないのだろう。

脳は活発に働き続けている。会話してもしなくても,関係なく想念は走り回っている。そこにちょっとした刺激が,外部から入ると,一瞬でひらめくが,それは,その前に,意識的無意識的に考え続けていた結果に過ぎない。その意味で,人は自分で話しながら,自分で発見したり気づいたりする。よくコーチングではオートクラインなどというが,発話する時,発話の2~30倍のスピードの想念から,言葉にして,口から言語として語りだす。それまでのプロセスは,自分の思いをどう言葉にするかの方に注意が向いている。しかし発話した瞬間,こんどは自分の喋った言葉を耳から,情報として聞く。それが,外からの人の言葉と同様に,脳への刺激となり,気づきをもたらす。ブレインストーミングが効果があるのは,相手の発言の意味内容全体よりは,そこから受け止めた刺激としての情報に,たぶん意味がある。その門前で,批判してしまったら,ゲートを入る情報が少なくなる,そんな意味だ。

会話の微妙なずれ,ということで井上光晴を思い出して,探してみたが,うまく例題になるものが見つからない。
適当に拾い出してみた。
「酔ったな」彼はいった。
「酔ってなんかいないわ。事実をいっているだけよ」
「何が事実だ。森次のことを,いつおれが一枚看板にした。森次のことを,いつおれが売り物にした。森次のことをいうのは,あいつが可哀そうだからだ。いつ,おれが自分の性根をうしなった」
「森次さんが可哀そうなのは,いまはじまったことじゃないじゃないの,はじめからだ」
「ごまかすなよ」
「私が何をごまかしてるの」
「ごまかしてるよ。君は自分のことは何もいわないじゃないか」
「変ないいがかりはよしてよ。私が何をいわないっていうの,何を隠しているっていうの」
「君は隠しているよ」
「ほら,それがあなたの得意の論法よ。自分が危くなると,逆に相手に短刀をつきつけるんだから」
「短刀をつきつけられるようなことがあるのか」
「なにをいってるの。言葉だけのりくつはやめてよ」(『地の群れ』)
ただ単純にページからランダムに引き出しただけだが,普通の会話のずれと微妙な乖離が見事に出ている。会話の名手という気がしている。人は,自分のことを考えている,だから自分の引っかかったところに食いつく。そしてそこで会話が変わっていく,ということが如実にわかる。

この会話のずれは,お互いの思いのずれになり,思いのずれは,少しずつ行き違い,隔絶を広げていく。こんな時,話せば話すほど,ずれは大きくなる。

相手のずれに気づければ,その人の関心か,あるいはその人としての注意の向きがみえる,かもしれない。たぶん受け止めるということが必要なのは,そのことを拾い上げることなのではないか,という気がしてくる。そこに,意識していないかもしれない,関心や価値があるはずだから。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


#コミュニケーション
#会話
#井上光晴
#ずれ
#行き違い
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2012年11月29日

共感とブレインストーミングの意外な関係~ブレストマインドでの共感



この間,ある人と話をしていて,ふと,今更のように気づいたことがあるので,ブレインストーミングの続きで,もう少し考えてみたい。

ブレインストーミングストーミングは,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod083.htm

にあるように,4原則があるが,その中の第一条に,「メンバーの発言への批判禁止」というのがある。

「批判」は,既存の価値や知見での評価である。アーサー・C・クラークも言っている。「権威ある科学者が何かが可能と言うとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能と言うとき,それは多分間違っている」と。批判しないということは,自分の価値判断や感情,準拠枠を脇に置くことだ。そのことで,相手の声や意見が入りやすくなる。

こちらの枠組みを外すことで,シャッターが開く,そのことで相手の話が入りやすくなり,共通点見つけやすくなる。さらに相手の土俵で受けとめられれば,共感につながるのではないか。

ロジャースは,共感について,

「クライアントの私的世界をそれが自分自身の世界であるかのように感じとり,しかも『あたかも……のごとく』という性質(“as if”quality)を決して失わない-これが共感なのであって,これこそがセラピーの本質的なものであると思われる。クライアントの怒り,恐れ,あるいは混乱を,あたかも自分自身のものであるかのように感じ,しかもその中に自分自身の怒り,恐れ,混乱を巻き込ませていないということ」

が条件であると書いている。あたかも,自分のそれであるように受け取る。しかも自分の感情を混乱させるような巻き込まれのない状態で,ということです。それには訓練がいる,と書いている。

ここでは,日常的に,あるいは生活面で共感「的」であるとはどういうことなのか,を考えてみたい。

カーネギーは,「議論に負けても意見を変えない」と名言を吐いている。勝ち負けになるのは,どちらかが正しいと思っているからだ。所詮どちらも,自分の知識と経験からきた『仮説』に過ぎないと思えるかどうかだ。

この背景にあるのは,どこかに正解や正しい答えがあり,それが自説だと思い込むからだ。アインシュタインの理論ですら,仮説にすぎない。ついこの間,敗れたの破れないのと,大騒ぎになっていた。

では,仮説だとすれば,どうすればいいのか。どちらもが,自分の土俵から相手を見るのではなく,共通のテーマを,両者の頭上に置いて,それを見ている構図,を取ることではないか。これを神田橋條治さんは,二者関係から,三項関係へと呼んでいた。

こういうことだ。話し相手が部下や後輩だとして,どうしても部下のしたこと,部下の発言,部下の失敗,部下の報連相等々となると,「どうして君はそうしたの」と,上位者や先輩として,部下に話を聞く姿勢となる。それでは,どうしても部下側は,聞いてもらう立場であり,言い訳する立場になる。そういう会話のスタイルをしている限り,話をしにくいし,聞きにくい。そこで,部下の「したこと」,「発言」「報連相」「成果」そのものを,ちょうど提出された企画書を前にして,一緒に企画そのものを検討するように,部下と一緒に「したこと」,「発言」「報連相」「成果」「テーマ」を,上位者と下位者が一緒になって眺めている関係がほしい。二者関係から,そういう三角形の関係にすること。そうすることで,聞く側も,部下という属人性を話して検討しやすくなる。その位置関係は,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064301.htm

で触れておいたので,その構図を見てほしい。コーチング的な質問で,それを表示すると,次のようになる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06432.htm

いわば,お互いがそれぞれの土俵から見るか,相手の土俵で一緒に考えるか,土俵を頭上に描くか,の違いになる。そのとき,マインドとしては,ブレインストーミングをするのと同じだ。つまり,批判しない,ということだ。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view51.htm

アイデアを考えるときも,事情は同じだ。結局,自分の土俵,つまり立場,考え方,価値観からものを言うということは,相手にそれに従えと言っているのと同じことだ。そうでないなら,両者イーブンで,そこから共通の答えを探していく作業ができる。それなら,あたかも同じとみなすことはなく,同じものを見つけ出していけるのではないか。

もっと行けば,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10967952.html

で書いたように,まずは相手に○を付けてしまう。フェイスブックで,「いいね!」するつもりで,相手にOKをだす。OKした以上,話を聞かざるを得ない。自分にそう課すのも一つの手かもしれない。

カーネギーは,「議論したり反駁したりしているうちには相手に勝つようなこともあるだろう。しかそれはし空しい勝利だ。相手の好意は絶対にかちえないのだから。」と言っていた。といって意見の対立はある。そんなときは,

意見の不一致を歓迎せよ-二人の人がいていつも意見が一致するなら,そのうちの一人はいなくてもいい人間だ。

を忘れないことだ。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#ブレインストーミング
#カーネギー
#ロジャース
#土俵
#コミュニケーション
#アーサー・C・クラーク
#共感
#カーネギー
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2012年12月23日

文脈依存のコミュニケーションが失ったもの~「しあわせ」と「さようなら」をつないでいるもの




安田守宏さんからいただいた『しあわせる力』(玄侑宗久著 角川SSC選書)を読みながら,本書とは直接関係ないほうへ,どんどん妄想が膨らんでいってしまった。蟹は甲羅に似せて穴を掘る,と言います。所詮自分にわかる程度のことしか理解できない,ということのようです。安田さんごめんなさい,宿題としての書評にはならず,その妄想を何とかソフトランディングさせるので手いっぱいになってしまいました。

さて,玄侑宗久さんも,どうやらそうだったらしいのだが,僕自身も,正直に言うと,「幸せ」とか「幸福」という言葉が好きあまりではない。確かフランクルが言っていたと思うが,幸せは目的ではない。あくまで,何かをした結果としてえられるものではないか,と。僕も,それに同感で,幸せになりたいというのは,かまわないが,それを目指すのは何かが変だと思っていたし,いまも思っている。

むしろ,僕の関心は,生きる意味を考えることの方に,いまも,昔も向いていた。

フランクルは,こういっている。

「生きていることにもうなんにも期待がもてない」
こんな言葉にたいして,いったいどう応えたらいいのだろうか。
ここで必要なのは,生きる意味についての問いを百八十度方向転換することだ。わたしたちが生きていることからなにを期待するかではなくて,むしろひたすら,生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ,ということを学び,絶望している人間に伝えねばならない。(中略)もういいかげん,生きることの意味を問うことをやめ,わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。

あるいは,収容所で「もう人生には何も期待できない」と自殺しかけた二人に,こう問いかけた。

たしかにあなたは,人生にもう何も期待できないと思っているかもしれません。人生の最後の日がいつか訪れるかもしれないのですから,無理もない話です。けれども,人生のほうはまだ,あなたに対する期待を決して捨ててはいないはずです。あなたを必要とする何か,あなたを必要としている誰かがかならずいるはずです。そして,その何かや誰かはあなたに発見されるのをまっているのです。

そういう意味を見出したものだけが,結果として収容所生活の厳しい生活を生き残った,とフランクルは言っている。そして,というか,だからこそ,というべきか,フランクルはこう言い切るのだ。

人はいつでも人生に,この不完全な自分の人生に,イエスといっているのです。「それにもかかわらず」,つまり人生が不完全であるにもかかわらず,人はいつでも人生にイエスと言っているのです。「それにもかかわらず」,つまり問われたことがなく,何も言わなかったにもかかわらず,また,自分で人生を選んだのではなく,現存在へ「投げ出された」にもかかわらず,そして自分がもっているあれこれの素質に同意しなかったにもかかわらず,またかりに実際に問われたとしても決して同意しなかったであろうにもかかわらず,人はイエスと言っているのです。こうした一切のことにもかかわらず,人は生き続けているのであります。それは,人が何らかの意味でやはりイエスと言っているということであり,またそれゆえに,何らかの意味で責任があるということでもあります。

「それにもかかわらず」人生にイエスと言っている,その言葉がいい。そう,「それゆえに」生きることに「何らかの意味で」責任がある,と言っている。そして,元へ戻ってくる気がする。

われわれが生きること自体,問われていることであり,われわれが生きていることは答えることにほかにならない。そしてその問いと答えは一回的なものであり,一般的な意味ではなく,今自分が,ここで問われている,ということなのだ。自分がそれをしなければ,だれがそれをするのか,と言い換えてもいい。自分の人生での答えを,自分が出すしかない。それは成功とか失敗といった尺度ではない。そこに,言いも悪いも,ない。人生とは,

結果が,最初の思惑通りにならなくても,最後に意味を持つのは,結果ではなく,過ごしてしまった,かけがえのないその時間である。

自分の大好きな,ガイアシンフォニー三番の中のセリフだ。そこに,もしあるのなら,幸せがある,そう感じている。だから,幸せは目指すべきものではなく,そのときか,あるいは何かをなした結果,あるいはその最中に感じるものだ。例えば,湯船につかって「幸せだなあ」という状態は,それを目指すのではない,そのひと時を過ごせるようになった結果からしか生まれない,と信じている。

ところで,玄侑宗久さんは,『しあわせる力』で,「しあわせ」について,語源的にこう説明している。

「しあわせ」という言葉は,「為合わせる」で,初めは天が私にどうするのか,それに対して私がどうするのか,が「為合わせる」のはじまり。それが「仕」に代わり,人と人との関係がうまくいくことを「仕合せ」と呼んだ。

「幸い」は,「さきわい」が変じた。これは,賑やかに花が咲き誇っている状態をいう。これも関係を指す。

だから,

日本人にとっては,咲き賑わい,相手の行動に合わせることが「さいわい」であり,「しあわせ」の原型

ということになる。だから,本来「人間」との意味は「世間」の意味なのに,日本語では一人の人を意味するように変えた。ことほど左様に,日本では,人と人との間で決まるという発想から来ている,と言っている。それはすごくわかる。

ただ(ここからは,違う方向へ妄想が広がっていった),違う言い方をすると,それは,文脈依存が強いと言えるのではないか,と。たとえば,「さようなら」という言葉は,多国語が,また会いましょうとか,神の祝福がありますように,とかいう意味があるのに,「さようならなくてはならないゆえ,おわかれします」といった意味で,「そういうわけですから」「そういうことなら」といった,「そういう」が前についていて,その場で,その人のいる文脈でしかわからない,というニュアンスがある。その瞬間,少し前に読んだ平田オリザが頭をよぎった。

その特徴を平田オリザは,「わかりあう文化」「察しあう文化」と呼んでいた。つまり,「さようなら」は,本来,その文脈を共有化しあえている,という前提があるからこそ,言える挨拶なのだと思う。

金子みすゞの「みんなちがって,みんないい」の解釈についても,玄侑宗久さんと平田オリザは真反対のようだ。平田オリザは,「みんなちがって,たいへんだ」と言っている。

かつてあった文脈がすべて壊れてしまっている。それは里山が保存しなければならない文化遺産になっているのを見ればわかる。かつての「普通」はもはやない。とすると,文脈依存のコミュニケーションになれたわれわれは,文脈のずれに対応する力が弱いともいえるではないか。そのずれやぶれは,国内でもそうだが,国外に出ればもっと大きくなる。その前で,手をつかねていていいはずはない。それが平田オリザの問題意識であり,危機意識であった。

いまの若者も一様ではない。近親者の死に出会えないまま医者になるものがいる,母親以外自分より年上の異性と会話をとしたことがない若者,親と教員以外の大人と会話したことのない若者,日本語を母国語としないものもいる。その危機感で,平田オリザは,若い人と向き合っている。

かように,日本人が多様化しているのに,かつて「察しあえた」「わかりあえる」文脈から切り離されて(あるいは共有した文脈が切れたから多様化したから),バラバラなのだ。「だから,みんなちがって,たいへんだ」になる。それについては,すでに触れたので,省く。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10995353.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10996546.html

平田オリザは,こういっている。

もう日本人は心からわかりあえないのだ……と言ってしまうと身もふたもないので,たとえば高校生たちには,私は次のように伝えることにしている。
「心からわかりあえないんだよ,すぐには」
「心からわかりあえないんだよ,初めからは」

これが,いま日本人が直面しているコミュニケーション観の大きな転換の本質なのだ,という。つまり,かつてのように心からわかりあえることを前提にコミュニケーションというものを考えるのか,もはや文脈を異にして,人間はわかりあえない,わかりあえない同士が,どうにか共有できる部分を見つけ,広げていくということでコミュニケーションを考えるか。バラバラが前提の,国際化の中で生きていくこれからの若者にとってどちらが重要と考えるか,は言うまでもない気がする。

協調性が大事でないとは言わないが,より必要なのは社交性ではないか,平田オリザはいう。金子みすゞの「みんなちがって,みんないい」ではなく,「みんなちがって,たいへんだ」から,ではどうするかをかんがえなくてはならない,と。

もちろんグローバルがいいとも思わない。均一化がいいとも思わない。しかし,それを避けて通れないなら,それぞれ個々の文脈の中に閉じこもって生きていこうと覚悟を決めるのならともかく,日本が生き残っていくためには,何か他の手段が必要だ。だから,平田オリザは,悪戦苦闘の中から,こういっている。

日本の若者たちには,日本人の奥ゆかしく美しい(と私たちが感じる)コミュニケーションが,国際社会においては少数派だという認識は,どうしても必要だ。

だから,「多数派のコミュニケーションをマナーとして学べばいい」。別に「魂を売り渡すわけではない。相手に同化するわけでもない」。

「わかりあう文化」「察しあう文化」は,文脈に依存している。あいまいさも許容もその中で生きた。しかし,それが崩れた時,どう生きるのか,が問われている。平田オリザの対応は,その一つだ。

その対極で,玄侑宗久さんが言うように,無限の応化力,観音力で生きるのと,そんなに違っているとは思わない。相手に応じて,自分の在り方を変えていく(しあわせる力というのは,「どんな変化に際しても、自分を変化させて見事に応じること」だそうだから),というのも一つの考え方だろう。

もちろん,「~でなくてはならない」とは考えない。そう考えた瞬間,それは意見ではなく,信仰に変わる。そこでキャッチボールはできない。対話はできない。あくまですべての意見は仮説なのだ。仮説をぶつけ合って,キャッチボールをすることを通して,別の仮説ができる。正解は一つではないのだ。

もう少し踏み込んでいうと,フランクルではないが,すべての人は語りたい人生を持っている。いや,語るべき人生を持っている。すべての人生に,ひとつひとつの物語がある。それを聞く時,心が開く。知のレベルではなく,その人自身の人生の物語があってはじめて,こちらの心も開く。そういう,自分をだしにする分,平田オリザの語る問題意識には強く惹かれた。

まだ自分の,結んだ心は十分開いていないから,手を打っての全開とまではいかないかもしれないが。


参考文献;
V・E・フランクル『夜と霧』(みすず書房)
V・E・フランクル『制約されざる人間』 (春秋社)
平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社新書)
玄侑宗久『しあわせる力』(角川SSC選書)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#玄侑宗久
#V・E・フランクル
#平田オリザ
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#さようなら
#しあわせる
#しあわせる力
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2013年08月21日

NVC


マーシャル・B・ローゼンバーグ『NVC』を読む。

かつて我が国に,襲撃してきた軍人に,

話せばわかる!

と叫び,

問答無用!

と射殺された首相がいた。不謹慎ながら,ふいにそれを,思い出した。

基本,コミュニケーションで解決できるのは,コミュニケーションレベルに過ぎない,再三書いているのは,このイメージがあるからだ。政治的課題,社会的課題,地球規模の課題は,コミュニケーションの問題ではなく,仕組みやシステムや制度の問題だ。そのためにコミュニケーションが不可欠なのはわかっているが,それは,関係性の枠のなかでのコミュニケーションとは別次元の問題だ。

パレスチナ人とユダヤ人がコミュニケーションすることで,イスラエルという国とパレスチナという国の政治的課題が解決することはないし,未だかって解決できていない。それはレベルの違う話だ。

しかもそのコミュニケーションが機能するためにすら,曲がりなりにも,両者(あるいは関係者)がその土俵に乗るという意志と思いがなければ,成り立たない。土俵の有無が,コミュニケーションのスキルを論じる前に,コミュニケーションを機能させる前提になる。

『NVC』で語られている例は,ふたつの例外を除いて,ほとんどが,そういう土俵があるか,土俵が設えられるということが,暗黙のうちに前提にされている。問題なのは,その前提をどうつくるか,だ。それが,上記で言った,関係性の枠という意味だ。そのことについては,本書では一切語られていない。舞台の上で演じているのに,その舞台がないかのように,NVCのプロセスを語るのは,フェアではない。コンテクスト抜きのコンテンツは,黄身だけ剥き出された趣だ。

この本の枠組みについての印象から入ったのは,そこを抜きにしては,コミュニケーションレベルでさえ,解決できないと信ずるからだ。家族や友人,同僚は当然だが,ギャングだって,そこにコミュニケーションの土俵を設えている。設えてなければ,冒頭の「問答無用」になる。

そこで,具体的に考えるために,NVCプロセスを例示してみる。

NVCプロセスの構成要素は,次の四つだ。

・自分の人生のしつを左右する具体的行動の「観察」
・観察したことについて抱いている「感情」
・そうした感情を生み出している,価値,願望,「必要としていること」
・人生を豊かにするための具体的な行動の「要求」

これを,具体例を挙げて考えてみる。ただし,後でアサーティブ・アプローチと対比するために,例を,いつも厳しく叱責し,大声を出す上司に対するアプローチとしてみる。

●第一構成要素は,観察。評価を交えず観察する。
上司は,指示されたことを提出すると,間違いを次々と指摘し,赤字で訂正を加え,大声で,いったいいつまでこんな初歩的なミスを繰り返すのか,いい加減にしてくれ,と怒鳴る。指示された案件が,無傷でOKをもらえたことは一度もない。

●第二の構成要素は,感情を見きわめ表現する。
あなたに指示案件を提出するたびに,びくびく怯えています。たまた大声でどなられるのではないか,と提出する時間をぎりぎりまで先延ばししてしまいます。

●第三の構成要素は,自分の感情の底に何があるのか,を見きわめる。上司の否定的なメッセージを受け止めるには,4つの選択肢があると,NVCでは考えている。
 1.自分自身を責める
 2.相手を責める
 3.自分の感情と,自分が必要としていることを感じ取る
 4.相手の感情と,相手が必要としていることを感じ取る
ここで,自分の感情は,怯えと恐怖。再三の叱責で自己嫌悪に陥っている。

自分が必要としていることは,この間に自分が上司の求めているレベルの100とはいかないまでも,かなりの程度質が上がっている,その自分の成長を認め,君の仕事で助かっている,あるいは,役に立っていると,承認してほしいということ。

上司は,自分の仕事のレベルに苛立っている。上司が必要としていることは,いい加減,こんなことで俺に手間をかけさせないでくれ,早く一人前になって,俺を楽させろ,俺にはチーフとしてやらなくてはならないことが一杯ある,こんなことで俺のチェックリストが不要になるくらいの一人前に成長してくれ。

●第四の構成要素は,人性を豊かにするための人への要求である。

「チーフが僕の成長がのろいのに,いらだっておられるのはよくわかります。自分ももっと的確に指示を摑むよう,指示をいただいたその場で,指示内容をきちんと把握するようにして,指示についての遺漏をなくすように努力します。チーフにお願いは,より自分が成長し,チーフの手がかからないようにするために,前より少しでも良くなっている部分はお認めいただけると嬉しいです。それて,もう少し穏やかに教えていただけると,受け入れやすいのですが…」。

最後に,自分の要求について,上司に,伝え返しを求める。

「僕のリクエストについて,どのようにどのように受け止められたのか,率直にフィードバックをいただけると嬉しいです」。

以上が,僕の受け止めた,NVCのラフなステップだ。

アサーションでは,LADDER法やDESC法があるが,いずれも,事実を描写することが重視される。後述するアサーティブ・アプローチでも,事実を重視する。たとえば「傲慢」というのではなく,「いつ,どこで,何をした」ことが自分に傲慢に見えたかが語られること。その意味では,NVCも同じだ。

さて,次に,上記のNVCプロセスと対比するために,アサーティブプロセスを以下に紹介する。

アン・ディクソン『第四の生き方』,森田汐生『「NO」を上手に伝える技術』を参考に,あくまで,僕の理解に基づいてアサーティブ・プロセスとして展開したものだということをお含みいただきたい。

上位者にいつも厳しく叱責されている部下という立場での,僕流のアサーティブ対応プロセスは,

1.土俵を共有する 
セットアップである。「ちょっとよろしいでしょうか」「少しお時間いただけますか」など,いまから話をしたいという土俵を相手と共有する。
2.自己開示する
自分の今の気持ちを正直に伝える。「言いずらいんですが……」「どう申し上げていいか迷っているんですが……」「どきどきしているんですが……」という言い方をすることで,相手の身構えを緩める。
3.事実を伝える
ここは,相手を持ち上げたり,感情を交えるのではなく,「いつも大声で叱責されるのですが」「いろいろ細かな気配りをいただくのですが」など,事実,起こっていることを表現する。ここで,「いやなんです」という感情から伝えては,相手は受け入れにくい。
4.感情を言語化する
ここは,その事実に対して,自分がどう感じてきたか,を率直に伝える。「大声を出されるたびにびくびくして
おびえていました」「ちょうど何かしょうとするたびに先回りされた気がしていやでした」等々。
5.望む変化をリクエストする
率直に,どうしてほしいか,どうなりたいかを伝える。「~したい」「~してほしい」「~してほしくない」「~してはどうでしょうか」。ただ,いくつも要求を羅列するのではなく,ひとつ,しかも的を絞る。あわせて,それを放置した自分の責任はきちんと伝える。「もっと早くお伝えしないでいた自分にも責任があります」「迷いに迷って言いそびれてしまった私も悪いと思います」等々。
6.相手の反応を求める
自分が言ったことについて,相手がどう受け止めたかをきちんと聞く。自分の主張を理解してほしいなら,相手も理解将とする姿勢がいる。
7.繰り返す
自分のしてほしいことをもう一度,きちんと整理して伝える。相手の反論や感情的反発にふりまわされることなく,自分の主張を繰り返す。
8.会話を終了させる
相手にうんといわせるまで主張するのが目的ではない。それでは,立場が代わっただけで同じコトをしていることになる。相手に考える時間を与え,選択の余地を残す。「聞いてくれてありがとう」「ぜひ心に留めておいてください」「2,3日後に話す時間をつくってください」

かなりNVCアプローチとアサーティブ・アプローチは重複している。重なる部分も少なくない。しかし微妙だが,両者には重大な差がある。その差は,

ひとつは,両者の間に土俵をつくろうとするかどうかだ。土俵がないところでは,共有も,共感も難しいと僕は思う。

いまひとつは,そのアプローチが,

人は分かりあえる,

ということを前提にしているのか,

人はわかりあえない,

を前提にしているのかの違いだ,と僕は思う。

わかる,というのはこちらがそう受け止めた,そう理解したということであって,言葉レベルでフィードバックしあったところで,相手のすべてがわかるわけではない。とりあえず,

仕事をうまく進めるために,

両者の関係を崩さないために,

両者のつながりを保つために,

等々限定はいろいろあるだろうが,「理解」するたびに,微妙にこぼれていくものがある。そのことを分かっているかどうかの差だ。

僕は,「わかる」とは,

お互いが分かりあえないことがあることを分かりあう,

ということだと思っている。あるいは,

自分にわかる部分しかわからない,

ということだと言ってもいい。

この差は大きい。傲慢さを感じたのはここだが,もっとあけすけに言うと,鈍感さといってもいい。

どんなに話しても,

どんなに言葉を交わし合っても,

お互いに分かりあえない部分があるという悲しみ,切なさがあるから,

話す,

のと,わかりあえると思い込んで,

話す,

のとでは違う。「わかりあえる」と思っていれば,なぜ分かりあえないか,わかりあえない原因を探していくことになるだろう。それはまた別の物語をでっち上げ,両者の齟齬を増やすだけだ。

それはつまらなくないか?いや,それよりなにより,

それでは人のもつ奥行きを軽視していないだろうか?

分かりあえない悲しみということがわからなければ,人というものがわかりっこない。

その眼で見ると,NVCのプロセスには,そういう鈍感さがある。まだしも,アン・ディクソンのアサーティブには,その心の陰影がある気がする。

分かりあえる部分でしかわかりあえない,

だからこそ,一生かけてお互いが分かりあおうとする。しかし,わからないことと,信頼は別だ。わからなくても,信頼はできる。言葉に尽くせなくても,その立ち居振る舞いだけで,十分信頼はできる。

なお,わかりあえないことについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10996546.html

ですでに触れた。


参考文献;
マーシャル・B・ローゼンバーグ『NVC』(日本経済新聞出版社)
アン・ディクソン『第四の生き方』(つげ書房新社)
平木典子『アサーション・トレーニング』(金子書房)
平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社現代新書)
森田汐生『「NO」を上手に伝える技術』(あさ書房)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#マーシャル・B・ローゼンバーグ
#NVC
#アン・ディクソン
#第四の生き方
#平木典子
#アサーション・トレーニング
#平田オリザ
#わかりあえないことから
#森田汐生
#「NO」を上手に伝える技術
#わかる
#コミュニケーション
posted by Toshi at 04:47| Comment(0) | コミュニケーション | 更新情報をチェックする

2013年08月24日

コミュニケーション


コミュニケーションは多義的だ。たとえば,

・伝達の手段としてのコミュニケーション 通信/交通/媒介(記号)
・伝達の中身としてのコミュニケーション 情報/メッセージ(意味)
・伝達の過程としてのコミュニケーション 交換/互換
・伝達の効果としてのコミュニケーション 共(分)有/連結

といった意味がある。しかし,ここでは,あくまで,いわゆる人と人の対話,会話といった意味に使っておく。上記で言えば,伝達過程としてのコミュニケーション,伝達効果としてのコミュニケーションということになる。

確かに,その意味のコミュニケーションは大切だし,重要なことについては,異論もないし,アサーティブやコーチング,アクティブ・リスニング等々,それによってコミュニケーションの円滑を促す効果については,まったく同感する。

しかし顰蹙を買うのを承知で,あえて言うが,コミュニケーションで解決できることは,コミュニケーションレベルでしかない。そのことで組織が変わったり,社会が変わったり,まして世界が変わったり等々ということは,たぶんない。

なぜなら,コミュニケーションレベルで解決できることは。関係性という枠組みの中でのことであって,それを超えた問題に対しては,全く次元が違う。位相の違うレベルを,解決することはできない。二次元レベルの課題は二次元でしか解決できず,三次元には及ばない。別のアプローチが必要だということだ。

この辺りをごちゃごちゃにして,あたかもコミュニケーションがよくなれば世界が変わる,と言われると,まず僕は反論するのをやめて,引く。問題のレベルが違う,という厳然たる事実が見えなければ,議論のしようはない。ただだまってにこやかにその場にいるか,黙って立ち去るしかない。

コミュニケーションは,言い方は悪いが,手段に過ぎない。

何かを一緒に目指すために,

想いを分かち合うために,

心を開きあうために,

ビジョンを共有化するために,

心を分かち合うために,

等々のためにコミュニケーションがいる。それが,

関係性の改善のためなのか,

組織改革のためなのか,

社会改革のためなのか,

によって,当然その手段自体が変わるし,場合によってはコミュニケーションなど何の役にも立たないかもしれない。関係性を改善するためと異なり,コミュニケーションは自己目的ではないので,次のアクションの地ならしにすぎない。

僕は,そもそもコミュニケーションは, 以前にも書いたように,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11258144.html

土俵づくりなしには成り立たないと思っているので,もう少し,誤解を恐れずに踏み込むと,ここでいう,コミュニケーションレベルとは,同じ土俵に乗れるサイズ,ということになる。

土俵に乗るとは,言いっ放しではなく,何らかの意思疎通を果たそうとするかぎり,お互いが,一緒の土俵に乗るという気持ちと思いがなければ,小手先の会話術程度で,コミュニケーションが円滑になるはずはない。

背中合わせになっている人間にとっては,共有する思いも意思もない。それがなければ,そもそもコミュニケーションは成り立たない。コミュニケーションのスキルレベルでできることは,所詮スキルレベルでしかないし,スキルの届く射程にしか,その効果は及ばない。

いやいや背中合わせということは,あるいは敵対しているというのも含めて,皮肉ではなく,両者に関係性の枠組みがある。その意味では,まだ乗るべき土俵が出来る可能性がある。しかしそもそも同じ土俵に乗る気もないし,乗りたくもないと思っているもの同士には,コミュニケーションでそれが解決するとは思えない。

だからコミュニケーションが無駄だとか,意味がないと言っているのではない。コミュニケーションが必要な限界と範囲がある,その射程を超えて,その効果を広げて考えるべきではない,と言っているだけだ。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#コミュニケーション
#伝達の中身としてのコミュニケーション
#伝達の手段としてのコミュニケーション
#伝達の過程としてのコミュニケーション
#伝達の効果としてのコミュニケーション
#通信
#情報
#メッセージ
#交換
#共有
#アサーティブ
#コーチング
#アクティブ・リスニング








posted by Toshi at 06:12| Comment(345) | コミュニケーション | 更新情報をチェックする

2013年12月22日

沈黙



かつて,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2013-0325.html

で,

黙っていても

考えているのだ

俺が物言わぬからといって

壁と間違えるな(壺井繁治)

という詩を紹介したことがある。ここで言っているのは,沈黙は,何も考えていないということではないという,沈黙の非言語表現のことだったが,たしかに,言葉になるのは,

思いの20~30分の一だか,ほとんどは,言葉にならないか,言葉で,丸められている。

まあ,

言われたことばより
言われなかった思いの方が重い

語られたことより,
語られなかったことの方が深い

には違いないが,ヴィトゲンシュタインではないが,

およそ言いうることは言い得,語りえないことについては沈黙しなければならない。

ということもある。つまり,

語りえないのである。

語る手立てがないのか,
語る言葉がないのか,
語るには掬えないほど重いのか,
語るにはまだ意識に上ってこないものがあるのか,

言ってみて,口に出してみて,初めて,それは違う,という自分の言いたいことと言わなければならない思いとが,微妙な齟齬を持っているのに気づくことがある。

私の言語の限界が私の世界の限界を意味する,

とヴィトゲンシュタインは言う。その意味では,言葉にできないということは,それが,私に見える世界の視界を限るものなのだ。でも,ヴィトゲンシュタインは,

私の心の限界が私の世界の限界である。

という。ということは,言語化されることで,私の世界は広がる,とも言える。言語より,心は広い,意識より,無意識は遥かに広い。

沈黙は,確かに重い,

しかし黙っていては,いないも同じだ,と僕は思う。

黙るということは,アクティブではなく,受け身な行為にしか見えない。仮に,抗議の沈黙でも,黙っている限り,事態は動かない。動かすためには,言葉にしなくてはならない。

言葉にすることは,口に出すにしろ,書くにしろ,手振りをするにしろ,物理的に波風を立てることだ。バタフライ効果ではないが,この世は複雑系だ。単純に因果だけでは動かない。

その意味で,黙るということが罪であることに変わりはない。

ひとつは,自分の想いに対して,

ひとつは,自分の存在に対して,

ひとつは,この世界に対して,

ひとつは,この世界の同時代の人に対して,

ひとつは,この世界の次世代の人に対して,

黙ること自体で,不作為の罪,「為さざることの罪」になる。

ふと思い出したのは,メラビアンの法則である。

これは,矛盾したメッセージが発せられたときの人の受けとめ方について,他人にどのように影響を及ぼすかを判断する,あの(有名な)アルバート・メラビアンが行った実験結果である。

これは,好意・反感など,態度や感情のコミュニケーションにおいて,感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたとき,人の行動が相手にどのように影響を及ぼすかというものだが,それは,

話の内容などの言語情報が7%,
口調や話の早さなどの聴覚情報が38%,
見た目などの視覚情報が55%

の割合であった,というのである。まさに,言葉にならないことのほうが,はるかに影響が大きいが,それは,言わずとも,振る舞いに現れている,ということだ。

なら,口に出そう。どうせ伝わっているのだ。そこで黙っているのは,相手に勝手解釈を許すことになる。それをも,許したことになる。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#メラビアンの法則
#沈黙
#黙認


posted by Toshi at 05:36| Comment(2) | コミュニケーション | 更新情報をチェックする

2013年12月25日

受け取る




このところ,

受け取ってください,

と強いられる(という感覚が僕にある)。たとえば,ひとに,

すごいですね,

と言われたとき,普通の感覚では,照れたり,いえいえ,と謙遜する。

しかし,コーチングやそれに関連するワークショップでは,相手の言葉(フィードバック)をきちんと受け取れないのは,いまの自分自身をきちんと認められないことだ,それは翻って(そう受け止めた)相手のいまを認めていないことだ,というふうにされることが多い。

ひとつの反応としては,

ありがとう,うれしいです,

と,その自分を受け入れることだろう。それが素直な反応だし,そうしないことがないこともない。それが相手と,そのとき,を一緒にいるという感覚なのだともわかっている。

だから,わからないでもないが,多く,そういうとき僕の中で起きているのは(相手の言葉にもよるが),

①単純な照れ
②その程度はという謙遜
③その程度ではそれに値しないという自尊
④あるプロセスにすぎない
⑤単純な違和感

といったものだ。①と②は,いい。

あえて言えば,②は,

自分は,まだまだそのレベルではありません,という自己像と絡んでくる。そうなると,③,④と関わる。

で,問題は,③。

自分の目指すレベルでは,その程度のことを褒められても,

という意味と,

それは自分の分野(関心)外なので,それを褒められても,

という二つの意味がある。

④は,大きな高みを目指しているプロセスに過ぎないので,このレベルで褒められても,

というニュアンスがある。③と似ていなくもないが,誉められている分野が登ろうとしている高みと一致するときは,こういう反応がある。

⑤は,誉められたり,認知されたり,承認されたりすること自体への違和感である。(不遜かもしれないが)いまの程度の僕の振る舞いで,何がわかるというのですか,そう簡単にわからないでほしい,という気持ちに近い。

その程度で,僕を測るな,という思いが強い。思い上がっているのではない。尊大な気持ちで言っているのでもない。

要は,③④⑤は,いずれも,こう言うと不遜に聞こえるかもしれないが,僕は自分では,高みを目指している。目指しているその途中のことは,ただの通りすがりの振る舞いでしかない。

だから,僕にはいまの瞬間は,僕の登り道のステップにしかすぎず,ハイデガーではないが,

人は死ぬまで可能性の中にある,

のだから,その一瞬のことは,そこで忘れている(終わっている),といってもいい。

一瞬前の自分については,気障な言い方だが,

そんな昔のことは覚えちゃいない,

という,『カサブランカ』のハンフリー・ボガートのセリフに似た心境なのだ。

第一,僕は,謙虚であることは,特に,人に対しては,自分をひけらかさないことは,大事な矜持であるとも思っている。それなくては,人として,信じられない。だから,自分を神とか宇宙人とかという類の人間は,ほとんどアホ,と思って軽蔑するタイプの人間である。そういう人間にとって,受け入れない,ということは,自分の生き方の価値とつながっている。

生意気ついでに,もう少し突っ込むと,仮に,

すばらしいふるまいでした,

という言葉を受け取るかどうかは,僕自身が決めることだ。とすれば,

「すばらしいふるまいでした」という承認を受け取ってもらえますか,

と,まず訊いてほしい。でなければ,丸ごと,

すばらしいふるまいでした,

という相手の承認(あるいは認知にしろ,賞賛にしろ,)は受け取るのが当たり前となる。その瞬間,押し付け感が(僕の中に)生ずるのではないか。

私には「すばらしいふるまい」に思えました。この言葉を受け取ってもらえますか,

と聞かれれば,受け取るとすれば,

ありがとうございます。そう言っていただいて大変うれしいです(あるいは恐縮です),

と言うか,

ありがとうございます。そうなれれば嬉しいです(そうなれるよう努力します),

と返事するだろう。これが受け止めるということだと思うのだが,こういう姿勢が結果として,おのれの孤独(孤立)を招くのなら,それも甘んじて受け入れよう。

なぜなら,僕は思うのだ,すごく大袈裟な言い方をするなら,

これは自由の問題と関わるような気がする。

人は基本,自由である,

と僕は思う。いや,もっとはっきり言って,

人は,自由でなければならない,

と思う。とすれば,ひとがどう率直に言葉を発しても,それを,受け止めるかどうかは,その人の自由であり,その自由を認めた上での発信でなければならない。

とすれば,多く,素直にそれを受け取れない人は,

人の言葉をきちんと受け止められない人,

とみなされ,人の言葉を真正面から受け止められない人とされることになるけれども,

しかし上記の背景を考えると,それはコミュニケーションについての考え方,あるいはもっと踏み込むと,人としてのあり方についての考えが,基本,違っているとしか言いようはないように見えてくる。

僕は,自分が,人が認知したり,承認したりするレベルを,あまり信じていないところがあるせいかもしれない。

僕には,

謙虚で,寡黙な人物像

が,僕にとっての理想なのだ。(僕の)現実(像)とのギャップはいささか大きすぎるにしても,僕は照れは美徳と考えている。照れない姿勢は僕には考えられない。ひととしての価値に関わってもいる。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11396602.html

でも書いたが,メラビアンの,

好意・反感など,態度や感情のコミュニケーションにおいて,感情や態度について矛盾したメッセージが発せられたとき,人の行動が相手に及ぼす影響は,

話の内容などの言語情報が7%,
口調や話の早さなどの聴覚情報が38%,
見た目などの視覚情報が55%

という。つまり,口に出さなくても,態度で現れている。態度で現れているものを念押しするように,言葉で言わなければならないような野暮を強いられている気がしてならない。

惻隠の情

というのがあるではないか。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#ヴィトゲンシュタイン
#ハイデガー
#謙虚
#惻隠の情
#寡黙

posted by Toshi at 06:32| Comment(0) | コミュニケーション | 更新情報をチェックする

2014年01月13日

衝突



人と衝突するということは,そうはない。いさかいというのなら,結構ある。しかし,衝突と呼べるものは,数えるほどしかない。

しかし衝突するというのは,どういうことか。

普通は,利害の対立か,考え方の対立か,価値観の対立か,いずれにしても,両者は,なにがしかについて,共通の対立項を持っていて,そこでぶつかる,ように感じる。

しかし,僕の場合は,少し違う。

一番古くは,初めて,父親に対して,真正面から,母を庇って,怒声を上げた時だろう。このとき,何に怒っていたのかはわからないが,たぶん,母親の立場から,父親に怒りを向けたのかもしれない。

しかし,子どもは母親の立場にはなれない。夫婦の土俵に,違うところから鉄砲玉が飛んできたので,父親はびっくりしたに違いない。

多く,衝突というとき,こういう微妙な土俵の違い,はっきり言うと,すれ違いを感じさせることが多い。本来衝突しないところで,僕の側が,まるで対等の立場のように,相手に向き合う。親子だから,まあ許される越権も,社会的には,結構やばいことになる。

それ以降の生き方そのものを変えるような対立は,会社のトップとの激突だ。

それまでに,一年間,執行部にいた時,団体交渉で労働組合と経営者ということで,いろんな面で,対立したし,激しくやり取りしたこともあるが,そこでは,労使交渉というテーブル上でのことで,それぞれが役割を背負っていて,その立場は異なっても,そのテーブルでは,対等であった。

しかし,その後の,仕事上での対立は,少し事情が違う。

自分が進めていた仕事について,それ自体はゴーサインが出ているので問題ないが,細部というか,僕にとっては,本質を左右しない些事について,直接ではなく,間接に,茶々を入れられた。それがカチンと来ていたところで,直接のきっかけは,たいしたことではないが,やり取りが始まり,衆目の前で,激突した。

いわば,こちらは,部下なのだが,当該の仕事ということについては,対等と考えているから,一歩も引かない。相手は,トップという視点から,ものを言っているから,当然,こっちが引くものと決めてかかっている。

客観的にみれば,立場など関係なく,是非を言っている。どっちが正しいかということではなく,自分の是非を言ってはばからない。そのことが,直接には,逆鱗に触れた,ということになるのだろう。

しかし,何かについて語っている,それがテーマだとすると,立場は別にしても,それぞれの立場から,そのことを,外に置いて,それについて語りあっている。その場合,テーマに関する限り,

二者関係ではなく,

三者関係にある。

つまり,テーマを頂点において,僕とトップが三角形をこさえている感じである。それは,立場が違うときに,何かを論じる場合,不可欠な関係の取り方なのだ,と後年,記憶に間違いがなければ,神田橋條治さんの著作から学んだ。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06400.htm

でいう。相手を主題にしない,ということだ。つまり,

話し相手が部下や後輩だとして,どうしても部下のしたこと,部下の発言,部下の失敗,部下の報連相,部下の成果等々となると,「どうして君はそうしたの」と,上位者や先輩として,部下に話を聞く姿勢となる。それでは,どうしても部下側は,聞いてもらう立場であり,言い訳する立場になる。そういう会話のスタイルをしている限り,話をしにくいし,聞きにくい。そこで,部下の「したこと」,「発言」「報連相」「成果」そのものを,ちょうど提出された企画書を前にして,一緒に企画そのものを検討するように,部下と一緒に「したこと」,「発言」「報連相」「成果」をテーマ,上位者と下位者が一緒になって眺めている関係がほしい。二者関係から,そういう三角形の関係にすること。そうすることで,聞く側も,部下という属人性を 離して検討しやすくなる。また聞く側が,相手に巻き込まれて,同情したり,一体化したりするのを妨げるのにも有効になる。

とある通りだ。

僕はそう意識していたわけではないが,そのつもりだったと思う。そうすることで,それぞれは別の土俵にいながら,そのテーマ,案件について語るという意味で,共通の土俵に立つことになる。

しかし,相手はそうではなく,あくまで,

トップという立場から,

僕や僕の仕事の中身を主題にしたいらしいのだ。そうなれば,当然,トップは,トップの土俵の,是非判断に基づいて,僕や僕の仕事の可否を云々することになる。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod064301.htm

で言う通り,主導権を譲る気はなかったということだ。そうなれば,噛み合うはずはない。

似たことは,その後もう一度,別の会社で,やはりトップとの間であったが,共通するのは,僕は,事の是非を論じる場合,上下関係を無視して,ただその案件だけについて,可否を云々するという傾向が強い。それは,相手がトップである場合,結構カチンとくる姿勢らしい。トップという立場を斟酌しないと受け止めるからだ。まあ,上が言ってるんだから,聞けよ,ということに過ぎない。しかし,案件自体の可否を論ずるということでは,対等でしかないし,そうでなければ,結論先にありきになる。

そういう考えは上から見る目線では,権威や権限に挑戦している,と映るらしい。

ただ,面白いことに,二度とも,人も,相手も違うが,直属の上司は,僕の言っていることを諒としていたことだ。しかし,トップがノーと言えば,ノーでしかない。この辺りは,不思議なことが起きる。

それにしても,衝突は,相手に起因するというより,僕の姿勢に起因する。

僕のコミュニケーションスタイルそのものなのかもしれない。是非はともかく,たぶん性格に因る。

いまでも,この基本的な立ち位置はあまり変わらない。しかし,もう少し,言葉,というか言い回しは,柔らかくなっているはずだが…!



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


#衝突
#二者関係
#三者関係
#土俵


posted by Toshi at 06:15| Comment(0) | コミュニケーション | 更新情報をチェックする

2014年09月19日

嘲る


嘲るというか,

せせら笑う

というか。国会答弁で,為政者が,質問者を嘲笑い,

もう何べんも,何べんも,何べんもお答えしました,

とおちょくるような言い方をする。これが,そのままネトウヨで見られる。

放射脳

といって嘲る。多分,両者の心性は,地続きなのだろう。ぼくも,ブログで恫喝というか脅迫された。その経緯は,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/403646192.html

で書いた。

たぶん,相手には,嘲る根拠はない。ないが,嘲ることで,相手を見下ろしたことになる。事実としてではなく,そういう境地になれるらしい。

嘲るは,

「アザケ(毒々しい様子)+ル」

で,馬鹿にして悪く言ったり,嗤ったりする意という。

アザムク
アザワラウ

と同根の動詞らしい。

相手をあざける,とは,

相手を見下ろす

ことが出来て初めて可能だ。それは,相手自身の言動か,相手自身のありようか,相手自身の出自か,何はともあれ,おのれより下に見る要素があれば,相手を見下す。

追従も似ているのかもしれない。ちょうど裏返しの心性か。追従は,

相手を実際より持ち上げてその気にさせる,その分自分をダウンさせながら,実際には,相手を支配し,勘違いしている相手を見下す,

ということだ。それもまた,嘲りの対象になる。いずれも,等身大で,きちんと向き合おうとしないところでは同じだ。しかし,それにしても,

何のために?

それは,おのれをその分アップできるからだ。だから,逆に言うと,相手を見下す材料を見つけさえすれば,

それが言葉尻でも,事実の誤認でも,知識不足でも,誤字でも脱字でも,識字でも,顔でも,出自でも,服装でも,振る舞いでも,勘違いでも,言い間違いでも,

何でも構わない。

放射脳

ということで,放射能を真摯に問題にしている人を嘲笑う。あるいは,最近は,

反日

が嘲笑の言葉らしい(反戦も,反原発も,反秘密保護法も,反人種差別も,反基地も,皆反日でくくられる。恐ろしいのは,そのうち,そういう批判そのものが反日となっていく風潮だ)。

それが事実かどうかではない。そういう心理状態に立つことが必要なのだろう,と憶測するしか,僕には理解不能の心性だ。蔓延する,嫌韓,嫌中もその伝だ。

例えば,一国のトップが,国会での質問に立った議員に対して,

(もうそのことは)何回も,何回も,何回も,申し上げました

ということで,それを理解しない相手をあざける材料とする。しかし,国会とは,それがたとえ同じ質問であったとしても,それについて,真摯に答えて,国民に明らかにするために,有給で,開かれているなどという正論は,この際脇に置く。

だとしても,まずいくつかの噓がある。

何回も,何回も,何回も,

と繰り返すほど説明したとは思えない。仮に説明しても,相手に伝わらなければ,伝えた側の責任である。ま,しかし,この程度の人間に責任などと言っても仕方がない。大事なのは,

何回も,何回も,何回も,

と繰り返すことで,自分にもそう思い込ませ,そう思い込むことで,相手を下に見る根拠を自分で造りだしている,自己欺瞞というか,自己催眠なのではないか。

そして,「言った」というのも,

言ったところで,伝わらなければ,あるいは,相手が理解しなければ,言ったことにはならない,

等々という,コミュニケーションや議論の当たり前が全く通用せず,本人が,

言った,

と思い込むことで,それを理解できない,あるいは,すでに言ったのに,またぞろ繰り返す相手を貶める材料にしている。

まるで子供である。

言ったじゃないか,

聞いていない,

という水掛け論が上司部下でも,上位者下位者でも,起きたときは,

言ったとする上位者のコミュニケーションミスである,

というのが原則である。コミュニケーションとは,

伝わったことが伝えたことである,

つまり,言ったと言い張っても,聞いていないと言われたら,言っていないのと同じなのである。まして大事な国会論戦である。

しかし,言ったと言い張って,説明しようとしない。

ガキと同じである,でなければ,病気である。

どうも,見ていると,

丁寧に説明する

説明不足

というだけで,で説明した気分になっているらしいのである。でなければ,被爆者との懇談で,説明する絶好の機会に,ただ同じことを繰り返し,納得しないという反応に,

見解の相違

という切り捨てる言い方はしない。見解の相違もなにも,相違を詳らかに議論をしたとは思えないのである。

どうやら,一回何か言うことが,

説明した

という意味と見なしていると捉えなければ,理解不能である。

そう考えると,見下す根拠がないのに,見下せるのは,

一回言ったのに(自分的には何度も説明したという意味),理解しないで,反対する奴は,

と見なているとしか言いようはない。

とんでもない人間がトップになっている。果たして,外遊して何を話しているのだか,はなはだ心もとない。お金を背負ていくので,それだけで見下しているのかもしれない。





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

posted by Toshi at 04:58| Comment(0) | コミュニケーション | 更新情報をチェックする

2015年01月09日

マイペース


人は人のペースで話す。それは,その人の思考の流れ,あるいは,考えるスピードとも関係する。また,当たり前のことを言うようだが,クライアントが,自分のペースで話すようにする,ということをどう守るか,というか,どう尊重するか,というのは,何も,コーチングやカウンセリングといった,援助関係に関わるだけのことではないのではないか。

言ってみると,基本的に,

聴く,

というのは,相手のペースに沿うということだ。当たり前すぎて,何をいまさら,と言われそうだが,そもそも,

共感性,

というのが,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/410724005.html

で,書いたように,相手の見ていること,感じていること,考えていることを,あたかも自分自身のように,受け止めるということだ。そこには,

テンポ
というか
ペース

も,当然含まれる。

よく,楽しくしゃべらせるだけではだめだということを聞くが,
聴くというのは,本質的に,相手のペースを見届けるというか,見守るということなのかもしれない。

言語のスピードの20~30倍で意識の流れがあるというが,それを言語化するのが得手の人とそうではない人がいるる。

僕がテンポやスピードを見守る,というとき,もちろんしゃべるスピード,テンポもあるが,思いや感じ,気づきを,言語に置き換えなくては,相手には伝わらない。その言語化するスピードを指している。

言語化のスピードは,頭の働き,と言いうよりも考えるスピードと合っている。速いスピードほど頭がいいとか,切れるとか,ということととは全く関係ない。単なる早飲み込み,早とちりということもある。むしろ,言語化に当たって,思いをどう適切な言葉に当てはめるかで,伝わる中身にずれが生まれる。そのずれにこだわるタイプかどうか,ということだ。それが,

思考スタイル

なのだと思う。そのスタイルに是非も優劣もない。問題は,その言語化のペースをキチン化と見守れるか,ということに尽きる。沈黙のなかには,そういう意味も含む。ただ,

どう応えようか,と思案していること
と,
どういう意味だったのだろうと,相手の質問や返答に拘泥していること

どういう言葉,言い回しにしたら,的確に思いが伝わるかを考えていること
とは,

かなり違う。

発話の意味は,受け手の反応によって明らかになる,

と言われる。つまり,

継続する会話によって,先行する会話の意味が組み替えられる,

のである。どう応えるかは,そのまま文脈を変え,意味自体を変えるかもしれないのである。そこまでを含めて,相手のテンポを見守る,という意味を込めている。

それでなくても,聞き取れる語彙数は,話す語彙数よりはるかに多い。つまり,相手が話す先から,聞き取れているという状態が,常態なのだ。

ベイトソンは,

コミュニケーションを決めているのは,送り手ではなく,受け手である,

という。このことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163522.html

で触れた。その答を待たなくては,会話の文脈は成立しない。なぜなら,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163109.html

で触れたように,

「大切なのは変化を起こすことではなく,会話のための空間を広げることである。治療における変化とは,対話を通じて新しい物語を作ることを意味する。そして対話が進むにつれ,まったく新しい物語,『それまで語られることのなかった』ストーリーが,相互の協力によって創造される。」(H・アンダーソン&H・グーリシャン「クライアントこそ専門家である」)

つまり,現実の見え方を変えていくことである。新しい言葉をえることで,

視界が変る,

のであれば,その言葉を聴きとらなくてはならない。社会構成主義ふうに言うなら,

・現実は人々の間で言語(会話)を通して構成される。
・人は他者との会話によってはぐくまれる物語的アイデンティティのなかで,そして,それを通して生きる。「自己」は常に変化し続けており,セラピストの技能とはこのプロセスに参加する能力を意味する。

となる。現実は,その人の(物語の)中にしかない,だからそれはその人の頭をのぞくしかない。共感性,つまり,

相手の内面的枠組みを “あたかも”その個人で“あるかのように”,情緒的要素や意味を正確に理解すること,

が聴くことに不可欠なのは,考えれば当たり前である。






今日のアイデア;
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2015年03月09日

ペース


自分のペースではなく,相手のペースに合わせる,

というのが苦手である。自分のペースというのは,言い換えると,思考スタイル,言葉出しのスピードということになる。

自分のスピードは速い。自慢ではなく,思考(の回転という意味ではなく,思い込みという意味だが)スピードも速い。だから,待ちきれず,勝手に忖度する。しかし,それは,自分の思考であり,自分の流れに過ぎない。これは,日常のコミュニケーションでも,他でも,いつも同じだ。

確か,吉本隆明が, ‏

「言葉はコミュニケーションの手段や機能ではない。それは枝葉にあるのであって、根幹は沈黙だよ。」

と,どこかで言っていた。あるいは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/413804239.html?1423514030

で,前にも触れたが,同じく,

「沈黙とは,内心の言葉を主体とし,自己が自己と問答することです。自分が心の中で自分に言葉を発し,問いかけることがまず根底にあるんです。」

とも言っている。ということは,

間合いに合わせる,

とは,

相手のしゃべる言葉の間に合わせる,

のではなく,

相手の沈黙に間に合わせる,

と,言い換えてもいいのかもしれない。それは,

相手の呼吸にあわせる,

ことではないか,と言われた。しかし,どうも違う。

沈黙は,息遣いとは別,

のような気がする。それは,共感性をはかる目安なのではないか,と最近思う。共感性は,ロジャーズが,

「『あたかも~のごとく』という性質(“as if” quality)を決して失わない―これが共感」

なのであって,「あたかも」だから,もちろん,イコールにはならない。しかし,この頃思うのは,「あたかも」というところの,「まるで相手そのものであるかのように」という点に力点を置くのではなく,

相手の沈黙を自分の沈黙として受け止めようとする,

ところにおくと,沈黙に焦点が当たるのではなく,沈黙の中身に焦点が当たる。つまり,

黙っている,

という外面(そとづら)ではなく,内側,

言語化のために格闘している自己対話,

に焦点が当たる。だから,「あたかも」は,

そのつもり,

ということではない。ロジャーズは,上述に続いて,

「クライエントの怒り,怖れ,あるいは混乱を,あたかも自分自身のものであるかのように感じ,しかもそのなかに自分自身の怒り,怖れ,混乱を巻き込ませていないということ」

が,条件であり,そうであるからこそ,

「クライエントの世界がこのようにセラピストにはっきり映り,セラピストがクライエントの世界のなかを自由に歩きまわるとき,セラピストは,クライエントにはっきりしているものを自分が理解していることを伝えることができるばかりではなく,クライエントがほとんど気づいていない自分の経験の意味を言葉にして述べることもできる」

という。とすれば,一緒に沈黙に潜り込み,そこで起こっていることを,体験してみることもできる。その沈黙の間に即することで,それが,テンポになり,思考のリズムになるのかもしれない。しゃべっている言葉や,喋っている息遣いではなく,その間,

沈黙

の間合い,テンポに注意を払う。ちょっと矛盾しているかもしれないが,そのくらいでないと,相手の黙っている意味が見えない。

沈黙は,黙っていることではなく,

饒舌な自己対話,

そのもののはずである。それを聞き取れなければ,共感していない証でしかない。

僕は,ふと,武満徹

『ノヴェンバー・ステップス(November Steps )』

を思い出した。あれは,音と音の間の静寂(しじま)に意味がある。

参考文献;
カーシェンバウム&ヘンダーソン編『ロジャーズ選集(上)』(誠信書房)





今日のアイデア;
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ラベル:ペース
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2015年03月29日

決めつけ


「決めつけ」は,

極めつけ,

とも当てる。

咎める
とか
呵(しか)る
とか
叱責

という意味がある。辞書によっては,

厳しく叱りつける
一方的に断定する

と,ただ咎めるだけではなく,叱る側に,価値基準というか,判断要素というものがあって,それに基づいて,一方的に断罪する,というニュアンスである。

場合によっては,

勝手な判断,独断,

に近い。その判断基準に焦点を当てると,

思い込み,
偏見,
固定(既成)観念,
先入観(見),

ということになり,その是非は,

断定,
裁定,

であって,それ以外の考慮の余地はない,ということになる。決めつけられた側には,取り付く島のない状態となる。もし,会話の最中にそう相手から言われたら,たぶん,途中から相手は,耳を閉ざし,そうではない,ちがう,という自己対話に陥るのではないか。

同じ「きめつけ」でも,

「決め」という字を当てると,思い込んでいる部分に焦点が当たり,

「極め」に当てると,その限定された狭い先入主に焦点が当たる,

という気がする。。

「決」の字を構成する,「夬(かい)」は,

「コ印+又(手)+指一本」

の会意文字で,手の指一本をコ型に曲げ,物に引っ掻けるさま,またコ型に抉るさま。「抉」の原字。で,「決」は,

「水+夬」

で,水によって堤防がコ型に抉られること,がっぽりと切れることから,決定の意に転じた。だから,「決」は,

川の水が川の包をコ型にえぐっって切る(「決壊」)
ズバリ切ることから,きっぱり決める(「断(切る)」が判断の意に転じたのと同じ)

という意味がある。

「極」を構成する「亟(きょく)」は,

上下二線の間に人を描いて頭上から足先の端までの間を示し,それに人間の動作を示す口と又(手)とを加え,体の端から端までを緊張させて動作することを顕わす。「亟」は,たるまない,すぐに等々の意味を含む。

「極」は,

「木+亟」

で,端から端まで張ったしん柱,

の意。そう考えると,「決め」は,抉るような厳しさを示し,「極め」は,逃げ場のない感じになる。

自分が決めつけられたことがあるので,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163096.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/391125143.html

決めつけられると,追い詰められてしまうところがある。人は,多面的,多様な側面を持っているので,省みれば,なにがしか当たっていなくもない。だから,余計始末が悪い。

たとえば,運動したい,という人に,

運動しないと何が困るんですか,

という問いは,場合によっては,相手に,決めつけ感を与えるらしい。それは,運動していないことを咎めているふうでもあるし,その話題を出したこと自体を咎めているふうでもあるし,別にどうでもいいじゃないかと言っているふうにも聞こえる,つまり,その問いは,「運動」についての,聴き手側の先入観で,決めつけた問いになっている。

運動しないことで,何も困らないように思えるのですが,
とか,
(相手が主婦なら)主婦の人っていつも駆けずり回っているという印象があるんですが,

といったこちらの思考というか,発想の元そのものを洗いざらいオープンにすることで,問いの言葉の印象が変わるのではあるまいか。

言葉は,何かを丸めている。

問いも,考えている何かを前提にしなければ,出てこない。とすれば,問いには,問う側が,その問いを生み出した自分の思考の流れそのものをも含めてさらけださないと,相手の思考の文脈にはピタリ入らないことがある。

すべて,決めつけは,決めつけている前提をオープンにしなければ,決めつけられた側は,争えないのである。

「君はやる気がないのかね」

と決めつけられても,相手にそう見えていることは,こちらからはコントロールのしようがない。しかし,

「いつも遅刻しているから,僕には,君がやる気がないように見える」

と言われれば,争う余地が出てくる。論旨の因果の破綻や,事実が争える。

決めつけを避けることは出来ない。人は,自分の思考回路からしか結論は出せないから。しかし,相手に決めつけを争う余地を残さなくては,ただ意味なく追い詰めているだけだ。







今日のアイデア;
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2015年09月08日

東大話法


記者発表.jpg


東京2020大会組織委員会事務総長武藤敏郎氏は,エンブレム中止の記者発表で,

ここまで引きずってしまった責任問題,

に対して,まとめると,

「リエージュとは似てないという確信があったので今の今まで取り下げませんでしたが、一般国民からの理解を得られなかったため(騒いだために)取り下げることに決めました。(意訳)
これを選んだのは審査委員会で組織委員会はそれを活用するだけです。しかし、選んだものが素晴らしかったから選ばれたと思っています。」

と答えたように聞こえる。では,誰の責任で,これを中止と決めたのか,それを決めたのは,権限があるからではないのか等々と茶々を入れたくなる。典型的な官僚答弁である。それもそのはず,武藤敏郎氏は,

元財務事務次官,
元日本銀行副総裁,

なのである。

http://francepresent.com/olympic-10/

では,要約すると

組織委員会はロゴが模倣のものだとは認めていない
しかし国民が騒いだためにエンブレムを取り下げることに決めた
スポンサーには丁寧な個別対応をしていく予定である
ネット画像の流用は閉じた場ではよくあること
画像検索は危険
審査委員会が選んだことだから組織委員会は活用するだけ
一般国民には理解できない

という会見内容だったことになる,としている。その詳細は,

http://gogotsu.com/archives/11019

にある。

ところで,東大話法というのがあるらしい。

http://4knn.tv/todai-speach/

によると,東大話法規則一覧というのがあって,

自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
羊頭狗肉。
わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
全体のバランスを常に考えて発言せよ。
「もし◯◯◯であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

等々という20項目が挙がっている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E8%A9%B1%E6%B3%95

によると,

「東大話法(とうだいわほう)とは東京大学(東大)の学生・教員・卒業生たちが往々にして使うとされる「欺瞞的で傍観者的」な話法のこと。東大教授の安冨歩が著書『原発危機と「東大話法」』(2012年1月出版)で提唱した。」

という,れっきとした(?)詐欺話法といっていい。同書に,上記の20項目が挙げられているらしい。しかし,これは,例の官僚答弁でもある。

この是非はともかく,主体として,自分の意志と責任でものを言うという姿勢とは全くかけ離れていることは間違いない。僕は,

言いたいことを伝えるための原則,

というのがあると思っていて,

第一は,自分が何を言おうとしているかが明確・明晰であること,
第二は,自分が発言主体であること,
第三は,相手にどう伝わったかのフィードバックを得ること,

だと思っている。その意味では,言おうとしていることは明確でなく,主体がなく,何が伝わったかなどは眼中にない,という典型である。それで思い出すのは,

安倍談話,

である。これについては,既にいろいろ言われているので,

http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/90d7175dbddae46b62efcc23fb4fe767
http://digital.asahi.com/articles/ASH8F4TVRH8FUTFK008.html
http://mainichi.jp/feature/news/20150814mog00m010012000c.html
http://www.asahi.com/articles/ASH8G5X1TH8GTIPE022.html
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/258098

屋上屋かもしれないが,改めて,

http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html

全文を読むと,

「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」

から始まっていることが印象的である。そして,

「世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
 そして七十年前。日本は、敗戦しました。」

と,こう見ると,「世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進」めたせいだと言っているのである。いや,そのために,戦争せざるを得なかったのだ,と。だから,末尾にまた出てくる。

「私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。」

そして,こう締めくくる。

「私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、『積極的平和主義』の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。」

積極的平和主義の名のもとに個別自衛権ではなく,集団的自衛権へと,もっと言えば,自国防衛ではなく,他国(ほとんどアメリカを指す)との共同防衛のために,他国(アメリカと同義)の始めた戦争に連れションしようとする,言葉とやろうとしていることのギャップが大きすぎる。つまり,平和,民主主義という言葉で言っていることと,やっていることの乖離,矛盾が大きい。そして,そのことに,言っている主体が無自覚(あるいは見ないようにしている)らしいのである。村山談話は,

「敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。」

と締めくくる。その言葉がやろうとすることとつながる。もし,言葉レベルとやろうとしていること,やっていることとのギャップが大きい場合,言葉ではなく,やっていることに眼を向けるべきだろう。

それに比べて,自由と民主主義のための学生緊急行動(SEALDs) 戦後70年宣言文

http://site231363-4631-285.strikingly.com/

はシンプルである。

「私たちは、戦後70年という節目にあたって、平和の尊さをあらためて強く胸に刻みます。私たちは、戦争の記憶と多くの犠牲のうえにあるこの国に生きるものとして、武力による問題解決に反対します。核の恐ろしさを目の当たりにした被爆国に生きるものとして、核兵器の廃絶を求めます。私たちは『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し』、ナショナリズムにとらわれず、世界中の仲間たちと協力し、『全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを』目指します。
 私たちは、自分の頭で思考し、判断し、行動していきます。それを不断に続けていきます。偏見や差別を許さず、思想・信条・宗教・文化・人種・民族・国籍・性別や性的指向性・世代・障害の有無などの様々な違いを超えて、他者を尊重し、共に手をとりあって生きる道を切り開いていきます。」

自分の頭で考えている文章は,言行一致する。戦後70年談話(安倍談話)に関する有識者会議「21世紀構想懇談会」で座長代理を務めた北岡伸一・国際大学長は,

「私の希望としては『日本は確かに侵略した。こういうことを繰り返してはいけない』と、一人称でできれば言ってほしかった」

と感想を述べた,という。宜なるかな,である。

ふと思い出すのは,平田オリザ氏が,

http://www.politas.jp/features/8/article/446

で書いていた,

三つの寂しさと向き合う,

という一文である。

「私たちはおそらく、いま、先を急ぐのではなく、ここに踏みとどまって、三つの種類の寂しさを、がっきと受け止め、受け入れなければならないのだと私は思っています。
一つは、日本は、もはや工業立国ではないということ。
もう一つは、もはや、この国は、成長はせず、長い後退戦を戦っていかなければならないのだということ。
そして最後の一つは、日本という国は、もはやアジア唯一の先進国ではないということ。」

確か,中国の高官が,日本は,今の中国のありよう(世界第二の経済大国を含めた中国のポジション)を認めたがらないのだ,と。実に正鵠を射ている。安倍談話が,明治維新から説き起こしたのには,意味がある。そこまで立ち返らなければ,日本のアイデンティティが揺らぐのであろう。しかし,

過去の見え方は現在の自分の在りよう(をどう見ているか)を反映している,

今の日本の現実にきちんと向き合わなければ,過去はきちんと見えず,未来も,現実のいまの先に描けず,

戦後レジームからの脱却,

などという,戦前回帰を妄想することになる。いま,日本は,人口だけでなく,国力,民力,知力すべてで,

縮みつつある,

のである。たとえば,

https://data.oecd.org/chart/4lK1

日本の賃金水準は,韓国に抜かれた(OECD Chart: Average wages, Total, US dollars , Annual, 1990 -2013)。この現実をきちんと見つめなくては,未来は,砂上の楼閣である。







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2015年10月03日

つぎほ


つぎほは,

接穂
あるいは,
継(ぎ)穂

と当てる。元来は,

接ぎ木のとき、台木に接ぐ枝など。義枝。

のことで,春の季語らしい。探してみると,

垣越にものうちかたる接木哉 蕪村
とか
雑巾をはやかけらるるつぎ木哉 一茶
とか
椿から李も咲かぬ接木かな 子規

等々,結構句がある。その接穂は,

「接ぎ木を行なう際、接がれる方の木を台木、接ぐ方の木を接ぎ穂と呼ぶ。」

ので,

「接ぎ木は、挿し木や取り木と同じく有用植物を枝単位で栄養生殖させる方法である。他の方法と根本的に異なるのは、目的とする植物の枝から根を出させるのではなく、別の植物の根の上に目的の植物の枝をつなぐことである。接ぎ穂と台木は近縁な方が定着しやすいが、実際には同種ではない組合せもよく使われる。うまくいけばつないだ部分で互いの組織が癒合し、一見は一つの植物のような姿で成長する。勿論実際にはこの接触させた位置より上は目的の植物の枝から生長したものであり、それより下は台木の植物のものであり、遺伝的に異なっている。但しまれにこれらが混じり合ってキメラや、更に遺伝子のやりとりが行われることもある。」

等々と説明される。

接ぎ木.jpg


話が飛ぶが,確か,ソメイヨシノは,

「ソメイヨシノのゲノム構成はヘテロ接合性が高く、ソメイヨシノに結実した種子では同じゲノム構成の品種にはならない。各地にある樹はすべて人の手で接木(つぎき)などで増やしたものである。
自家不和合性が強い品種である。よってソメイヨシノ同士では結実の可能性に劣り、結果純粋にソメイヨシノを両親とする種子が発芽に至ることはない。このためソメイヨシノの純粋な子孫はありえない。不稔性ではなく、結実は見られる。ソメイヨシノ以外のサクラとの間で交配することは可能であり、実をつけその種子が発芽することもある。これはソメイヨシノとは別品種になる。」

のだそうで,

「明治初年に樹齢100年に達するソメイヨシノが小石川植物園に植えられていたという記録や、染井村の植木屋の記録にソメイヨシノを作出したという記録が発見されたことから、岩崎文雄らは染井村での作出を唱えている。この植木屋の記録により、1720-1735年ごろ、当地の伊藤伊兵衛政武が人工交配・育成したとの推定もある。これによって、現在では染井村起源という可能性が有力である。
現在ではさまざまな遺伝子解析により、ソメイヨシノはクローンであること、日本固有種のオオシマザクラとエドヒガンが最初の親であることが判明」

していて,ソメイヨシノの起源として,

ソメイヨシノ = (オオシマザクラ×ヤマザクラ) × エドヒガン

と推測されているらしい。つまりは,ソメイヨシノは全くの自然から生まれたものではないらしいのである。だから,各地にある樹はすべて人の手で接木などで増やしたものということになる。

閑話休題。

という次第で,接穂という言葉は本来,植木のそれを指しているが,そのメタファから,

いったんとぎれた話を続けようとするときのきっかけ。つぎは。

という意味に敷衍され,

「話の接穂を失う」

というような使われ方をしている。「つぎは」は,

継ぎ端,

とあて,「話などをつぐべききっかけ」という意味で,接穂と同義。「端(は)」は,

端末,

の意で,「ハシ,ハタ,ハシタ」と同語源とされ,

山のハに陽が沈む,
とか
残ったハ数は切り捨て,

と言った使われ方をする。

はた
とか
へり

という意味でいい。「軒端(のきば)」「言端(ことは)」(言葉の端っこ,口先だけの表現が言葉の語源)等々。

「端」という字は,「立+耑」で,「耑」は,

布の端が揃って一印の両側に垂れたさまを描いた象形文字,

で,「立」を加えて,左右揃えてきちんと立つ,という意味になる。そこから,正しい,とか,整っているといった意味に広がる。

また,閑話休題。

で,「接穂」は,どう「接ぎ木」のメタファから考えると,単に話をつなぐという意味ではなく,本来は,きちんとその本題を受けとめてつなぐ,という意味なのではないか。

たとえば,連歌や連句の,

つけ句,

がその接穂の付け方を象徴しているように思える。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~RENKU/nmn17.htm

等々によると,

今日も浮世の晩鐘を聞く 

の前句に対する付け方として,

つくづくと木枕のかどまはしゐて

湯あがりの簾にちかき草の花

門松の雪も静かに年くれて

飛ぶ鳥の影もかすかに雲ちぎれ

五月雨の美濃恋しくも旅に居て

等々の付句を例にしている。付けられ方で,前句の意味が変わる。それで思い出した。

コミュニケーションというのは,

相手がどう応えるかで話し手の意味が決まる,
相手の反応で,何が伝わったかが決まる,
あるいは,
こちらの伝えたいことではなく,伝わったことが伝えたことなのである,

という原則がある。話の接穂には,なかなか含意が深い。

椿から李も咲かぬ接木かな 子規

参考文献;
http://haikai.jp/sikimoku/kmr_tuke.html
http://www.h2.dion.ne.jp/~taki99/zanoshikata.htm
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
簡野道明『字源』(角川書店)








ホームページ;
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今日のアイデア;
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