2012年11月03日

表現ということについて~自分の表現史


面倒な理論はともかく,表現というのは,かつて吉本隆明が『言語にとって美とは何か』で,自己表出と指示表出と概念化した考え方に強く影響されている。しかし実際に小説を論じようとしたとき,その理論は使わなかった。というより,自分にとって,表出の構造よりは,強く文体に関心があったせいかもしれない。

恥ずかしながら,かつて文学青年であったなれの果てで,古井由吉の「木曜日に」の文体に衝撃を受け,芥川賞を受賞した『杳子』を,何度も書き写した記憶がある。その無数に視点を変え,よく読みこまないと,その視点が,杳子と私の両者の息遣いのように,ただ自然に流れていく。しかし,そこには,入れ子の入れ子の入れ子のような語りの畳み込みがある。こんな文章を書く作家には,出会ったことがなかった。いまもまだない。
『杳子』の書き出しは,


  杳子は深い谷底に一人で坐っていた。 十月もなかば近く、峰には明日にでも雪の来ようという時 期だった。
  彼は、午後の一時頃、K岳の頂上から西の空に黒雲のひろがりを認めて、追い立てられるような気 持で尾根を下り、尾根の途中から谷に入ってきた。道はまずO沢にむかってまっすぐに下り、それか ら沢にそって陰気な潅木の間を下るともなく続き、一時間半ほどしてようやく谷底に降り着いた。ち ょうどN沢の出会いが近くて、谷は沢音に重く轟いていた。 谷底から見上げる空はすでに雲に低く 覆われ、両側に迫る斜面に密生した潅木が、黒く枯れはじめた葉の中から、ところどころ燃え残った 紅を、薄暗く閉ざされた谷の空間にむかってぼおっと滲ませていた。河原には岩屑が流れにそって  累々と横たわって静まりかえり、重くのしかかる暗さの底に、灰色の明るさを漂わせていた。その明 るさの中で、杳子は平たい岩の上に躯を小さくこごめて坐り、すぐ目の前の、誰かが戯れに積んでい った低いケルンを見つめていた。


一見,語り手が両者を語っているようだが,このすべては,「彼」が思い出しているのを語っている。その「彼」の語りの中に,「杳子」から見えた「彼」が語られ,それを「彼」が入れ子にして語っている。畳み込みというのは,そういう意味だ。

いまでも,古井由吉は,日本の作家の中で,日本語表現の極北をいっている,と信じている。その一語一語のもつ感覚と生理は,他の追随を許さない。ドイツ語の専門家として,『特性のない男』のムジール研究から得たのに違いないが,ちょっと深いブラックボックスを感じる。そのためにか,彼の文体は容易に翻訳になじまない。それは『杳子』の出だしを一読すれば,ただ表面的に訳しただけでは,その複雑に入り組んだ心理の綾を訳しきれまい。それを作家評価の基軸にすれば,柳田國男も折口信夫もなじまない。別にそれをよしとしているのではないが,日本語の生理を生き物のように駆使する文体を,ただ意味だけ移植してもほとんど通用しない。『ユリシーズ』を翻訳で読んでも,実は何もわかったことにならないのに,事情は似ている。

若い頃,といつたも三十代から四十代にかけて,ちょうど会社と喧嘩別れした,どん底の中で,自分なりに古井の文体と悪戦苦闘して,やっと古井由吉をつかまえたと錯覚したのは,『語りのパースペクティブ』と題した古井論だ。

http://www31.ocn.ne.jp/~netbs/critique102.htm

しかし,結局これでは,古井の持つ語りの構造はつかまえた(つもり)だが,肝心の文体の生理をつかまえることはできなかった(ある文学賞の最終選考までたどりつくのがやっとだったのは,そのせいだろうと思う)。それで,古井文体の極北,『眉雨』に果敢にチャレンジして,『眉雨』の文体を解きほぐしてみた。
 たとえば,こんな文章だ。雨が降り出す一瞬を拡大鏡に掛けたように描いている,とも見える。


  何者か、雲のうねりに、うつ伏せに乗っている。身は雲につつまれて幾塊りにもわたり、雲と沸き 返り地へ傾き傾きかかり、目は流れない。いや、むしろ眉だ。目はひたすら内へ澄んで、眉にほのか な、表情がある。何事か、忌まわしい行為を待っている。憎みながら促している。女人の眉だ。その さらにおもむろな翳りのすすみにつれて、太い雲が苦しんで、襞の奥から熱いものを滲ませる。その うちに天頂は紫に飽和して、風に吹かれる草の穂先も、見あげる者の手の甲も夕闇の中で照り、顔は 白く、また沈黙があり、地の遠く、薄明のまだ差すあたりから、長く叫びがあがり、眉がそむけぎみ に、ひそめられ、目が雲中に失せて、雨が落ちはじめる。


しかしときほぐしていけばいくほど,結局また語りの構造しかつかまえきれない。その遠い先に,文体があるような感じなのである。ちょうど原子からどんどん追い詰めて,クォークまでたどりつく,そんなイメージだ。

http://www31.ocn.ne.jp/~netbs/critique103.htm

どういうのだろう。そこには,無限の入れ子のように,剥けばむくほど,するりと逃げていく感じなのである。そして,結局文学そのものが,自分から背を向けていった感じである。

ただ,こういうのもなんだが,その代わり,日本語の構造を手がかりに,情報というものを構造化してみることができた。是非はともかく,副産物なのである。こんなことを誰も言っていない,言っていないからいいというものではないが,そこにわずかに自恃のよりどころがある。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm


参考文献;
時枝誠記『国語学原論』(岩波書店)
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』(講談社学術文庫)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


#古井由吉
#時枝誠記
#三浦つとむ
#杳子
ラベル:表現 文学
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2013年06月29日

自己表現


先日,【第1回 表現の世界で生き続けている人は日々,何を想っているのか(アート・漫画・演劇 クロストーク)】
に参加させていただいた。

https://www.facebook.com/events/112888575581725/

アートディレクターの竹山貴さん,
女流漫画家の渡邊治四(ワタナベジョン)さん,
元俳優で今は作家の飯塚和秀さん,

三人のクロストークなので,「表現の世界で生き抜く」の中で,それぞれ語りたいこととして,

渡邊治四さんは,「表現の違い」
竹山貴さんは,「10年続ける原動力」
飯塚和秀さんは,「下積み時代」

を挙げらけれたが,そのときは聞き流していたが,いまこう振り返ってみると,こう挙げた切り口自体に,それぞれなりに,ご自分の,それぞれが拘泥するところ,あるいはこだわり,が見える気がする。あるいは,根っこというか自分が拠って立つ根拠というか,それがあるから,いまの自分の表現がある,というような,独自のマインドというか姿勢がある。もっと突き詰めると生き方がある。

渡邊治四(ワタナベジョン)さんは,「漫画が好き」だという。しかしその「好き」な漫画を表現する場というか,発揮する方法というものが,見つからず,ようやく,ビジネスの世界に自分の居場所を見つけた。たぶんその表現の仕方というか,その線の描き方ひとつに,違いを意識されているのではないか…。

竹山貴さんは,閉塞された業界の中で,新しい顧客と新しい作家の発見と育成の悪戦苦闘をされている。「まじめにやっているものが報われない社会はおかしい」「(正々堂々,才能ひとつで入れる)正面玄関を創ってやりたい」という。言ってみれば,業界そのものをリセットしたいというほどの孤軍奮闘を続けている。「10年」には熱い思いがこもっている。

飯塚和秀さんは口癖で,あの時はわからなかったことがいまならわかる,という。その意味でいまリベンジをしている。その眼で見れば,過去は金城湯池に他ならない,のだと思う。過去にご自分が鍛え上げた基礎力というか誰にも知られない,たとえば,演技を学び,脚本を学び,現実に芝居の脚本を書き,芝居を打ち,その他様々な経験と知識をえてきた等々,いまそのリソースは,改めてみると誰にもない絶対的な差別化の商品力そのものに違いない。

それぞれは,次回以降にさらに,深掘りされることとして期待するにとどめて,別のことを取り上げてみたい。

最後に参加者のお一人(加藤実さん)が言っておられたのを自分なりに要約すると,実は,すべての人がそれぞれなりに,表現者なのではないか。西澤ロイさんが,このクロストークの前日,ご自分のトークライブで,

どんなに失敗しても,その時点でできることを精一杯やっている,

という趣旨のことを言っておられたが,性善説の僕流に言い換えると,

すべての労働は自己表現,

なのだと思う。良くも悪くも自己を外在化しなければ,仕事はできない。問題は,そう思って,自己を表現するつもりで仕事をしているかどうかだ。いつも僕は言っているが,新人のころ,上司は,

この会社に自分の引っ掻き傷を残せ,

と言った。僕は自分がいた痕跡を残す,と受け止めた。それは,自分の仕事で言えば,自分が開発した商品を残すこと,これが「何々さんの仕事」と言われるものを残すことと,受け止めた。

その意味で,そこに自分の表現がある。その表現は,自分の生きざまが出る。僕は,それを自分の仕事に旗を立てる,と呼んできた。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11129007.html

自己表現である以上,自分が出る。その自分をどれだけ意識して生きているかが,あるいは生きてきたかが,そこで出る。表現は,自分の人生,自分そのものの「つけ」(結果)としてしか表せない。

それは,たぶん,飯塚さんが言っていた,持続させるのは「思いの強さ」という。ぶっちゃけて言えば,意地の強さ,と言っていい,と。

確かに,意地,言葉を換えれば,「くそっ!」負けてたまるか,というような歯を食いしばる思いだ。それは働くものには,いやいやすべての人間に共通する。その背後にある,矜持の大きさが,人を駆り立て,努力させ,悪戦苦闘にも,倒れず立ち上がらせる。

器量の大きさは変えられないかもしれないが,度量と技量と力量は変えられる。

10年一剣を磨く

ということわざがある。虚仮の一念という言葉もある。10年よりは,その一念の方に意味がある気がする。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#飯塚和秀
#渡邊治四
#竹山貴
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2013年09月04日

書く


普通何かがあるから,それを書く。しかし,それではつまらない。人と違うことをしなくては,自分を表現したことにはならない,そういう思い込みがある。だから,(書くことがない場合でも)何もなくても,何かを必ず書き出し,書き切る。そのために,僕は,試みに,お題を決めて,そこから何が書けるかにチャレンジしている。

その言葉から,何が出てくるか,言葉自身から何かが広がることもある。その言葉に感応して自分の中から何かが出てくることもある。しかしさっぱり何も出ないこともある。それでも,ペンディングにして,そのまま置く。置いたことも忘れることもある。いつか,違う形でぽっと浮いてくることもある。

書くとは,編集である,と思っている。

アイデアを考えるのと同じである。アイデアは,まったく違う格納庫におさまった,記憶の中の何かが,全く別の格納庫の何かとリンクすることで,ぱちぱちとはじけて,結び付く。格納庫(といって場所を指しているわけではないが)は,大きくは,

意味記憶

エピソード記憶

手続き記憶

となる。

ひらめいた瞬間の脳は,広範囲の部位が活性化する,という。わずか0.4秒である。それがアイデアのも既存の要素の結びつき,あるいはバラバラの要素が意味あるようにつながる,あるいはつながってある意味を作りだすということの意味だ。意味が意味と結びついただけでは,何も生まない。意味の応用に過ぎない。しかし,意味に,全く異なるエピソード(体験)が結びつくと,ひらめく。

編集とは,自分の持っているリソースのつなぎ合わせである。もちろん,アイデアは自己完結してはいけないので,誰かとキャッチボールする必要はあるが,端緒は,自分の中から泡のように,浮かんでくる。

その意味で,書くというのを,そういう編集の一端として見る,何が出てくるかは,わからない。しかし,何かが出てくるはずだ。自分の中にある何かを,意識しているもの,無自覚のもの,無意識のものを言語にしていく。

意識の流れは,言語化のスピードの20~30倍と言われている。

言語か出来るのは,ほんの1/20か1/30なのだ。一つのことを言語化しても,そのほかにもまだ言語化しきれないものが残る。そこが面白い。徹底的に言語化してみなくては,自分のリソースは見えてこない。

その釣り針役にお題を立ててみている。書くことが編集なら,自分の脳のなかにあるものを,つながらせるためのきっかけに,どんな大物がつれるのかを試みる。単なるゴミかもしれないが,それもよしとする。

辞書で,語句を拾ってみることも考えたが,それでは僕に必然がない。で,お題も,浮かんでくるのを待つ。それが,いま,浮かんでくるには,浮かんでくる理由が,たぶん,僕の中にある。その機を大事にしたい。

柳生宗矩が,兵法書で,こう言う。

物ごとに体用(たいゆう)ということあり。体があれば,用がある也。機は体也。機から外へあらわれて,様々のはたらきあるを用という也。

機とは即ち気也。座(居場所)によって機という也。心は奥也。気は口也。…心は一身の主人なれば,奥の座に居るものと心得べし。気は戸口に居て,心を主人として外へはたらく也。

言ってみると,おのれの心を引っ張り出し,言語化する。その瞬間の機によって,そこから見える世界は,変わる。

昔,何かで,

文体は人を表す,

というようなことを読んだ記憶がある。単なる文章の彫琢を言っているのではない。その人の人柄を表すのは,当たり前で,その先に行かなくてはならない。おのれの語りたくないことも,語りだすうちに語ってしまう,そういうのを本当の意味の心の言語化だと思う。

文章を書きだすと,たとえば一行書きだすと,その瞬間に,文章の描き出そうとする世界が広がる。それは,もはやリアルの世界を描写しているのではない。虚実皮膜というのとはちょっと違う,嘘を,虚構を書こうとしているのではない。

しかし,人は,いろんな自分があり,その自分のひとつが,自動的に動き出す。そうなったとき,文章化,一つの完結に向かって動き出す。起承転結か,序破離か,ともかく一つの結論へと流れていく。

その自分の流れから鑑みると,六層あるという大脳皮質のコラムの,どこかから始まって,自分の思いもかけない記憶の層とリンクして,つながり始め,ひとつの連結を生む。しかしリンク自体が,ハイパーにまた別のリンクとつながりを生み,思いもかけない世界を書き出せる,ということもある。そこが,面白い。

それを,書く次元と呼ぶ。どの次元になるかは,自分でも,わからない。書き出すとき,いくつかのキーワードとキー世界が見えているが,書き始めると,それは棄てられてしまうこともある。

ある意味で,自分のリソースの探検なのかもしれない,書くという行為は。いわば,書くということの,

遊び心,

と,呼んでもいい。軽やかに,言葉と立ち結び,紡ぎ,何かが織り出されていく。織り柄は,書きあがるまで本人にだって見えない。それが理想である。

いま,そのチャレンジに,自分の「書く」ということの伸び白のひとつを見つけている。


参考文献;
柳生宗矩『兵法家伝書』(岩波文庫)

今日のアイデア;
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#書く
#言語化
#柳生宗矩
#兵法家伝書
#リソース





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2013年10月04日

格好よさ


先日,【第2回 表現の世界で生き続けている人は日々,何を想っているのか(アート・漫画・演劇 クロストーク)】に参加してきた。

https://www.facebook.com/events/406178926155040/?ref_dashboard_filter=upcoming

別業界で活躍する,
アートディレクターの竹山貴さん,
女流漫画家の渡邊治四(ワタナベジョン)さん,
元俳優でいまは作家・エッセイストの飯塚和秀さん,
の三人が,分野は違うが,非常に競争が厳しい「表現の世界」で長年戦い続けた中で,表現者としての自分を,自分の想いを自在に語る,という場である。

今回僕が感じたことを,キーワードで表現すると,恰好よさである。

トークライブで出たのは,

尊敬する人,
これからどこへ向かうのか,
こだわっているところ,

をお題に(参加者からだされた),キーワードとして出たのは,

集中力,
創造力,
翻訳,
表現のアプローチ,

なのだが,それぞれで語るのを聞きながら,要は三人とも,格好いいということに尽きる。

格好いいというのは,どういうことなのだろう。まずは,

潔さである。

場への関わり,関係者への関わりにおいて,
おのれをいつわりなく表現する,
と言うよりは,
おのれの人生を惜しみなく提供する,
と言った方がいい。

もちろん「表現者」に限らず,すべての人生は,一人一人の自己表現には他ならないが,

演技としてであれ,
アートであれ,
マンガであれ,

表現自体を目的化しているとき,出し惜しみや,糊塗する手は何度も効かない。その意味で,人生と等価の表現であるかどうかか問われる。そういう生き方をしている,という意味でかっこいい,と思うのである。

自分は潔さや男気とは無縁で,

うじうじ,
くねくね,

あまり格好よくないのだが,たまたまその翌日,コーチングセッションで,

自分の格好よさとは何かが,テーマになり,そこで自分が挙げたのは,

やりたいことをやっている,

やりたいことをやり遂げている,

自由(精神において)である,

颯爽とした風丰(見た目よりはそういうイメージ)

自信を持っている,

自己確信がある,

人に阿らない自存自在,

信念,

骨太,

自然な振る舞い,

ありのまま,

存在感,

生き生きしている,

人生を楽しんでいる,

一瞬一瞬を大事にしている,

本人流に生きている(格好云々は意識していない)

苦労と努力は見せず,颯爽とやり遂げる,

等々というのが出た。

その多くが,三人にはある。それが格好いいと感じさせたのだと思う。

格好いい生き方は,風貌を格好良く見せる。

それは,いつも背水の陣ということなのだろうか。

ならば,

格好よさとは,結果ではなく,

そういう生き方を選択している,

ということである。

自分もそうありたいとは思う。

今日のアイデア;
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#渡邊治四
#竹山貴
#飯塚和秀
#生き方
#表現者
#自己表現

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2013年12月17日

言語化



言葉にする,というのは,言語のスピードの20~30倍の意識の流れから,言語に置き換えて,ことばとして発声する。その時,耳は,自分の声を,改めで,情報として聞くという。

オートクラインが起きるのは,このせいだが,言語化することができるようになったということは,

もの(こと)を,俯瞰する,

視点を手に入れたということだ。だから,ユンギアンは,言葉を覚えたときから,われわれは,空を飛ぶ夢を見るようになる,という。

たしかに,僕自身も,言葉の習得と直接関係があるかどうかは別に,ある時期,空中を平泳ぎしている夢をよく見た。大きな幹の木々の間を,ぬって泳いでいたのを良く覚えている。

しかし,それは,逆に言うと,ものごとを丸め(られ)るようになった,ということでもある。

言葉レベルで発想していると,時に堂々巡りになる。それは,抽象度の高いレベルで,思考が空回りしているという状態のように思える。

前にも書いたが,一般に,人の記憶に,

・意味記憶(知っている Knowには,Knowing ThatとKnowing Howがある)
・エピソード記憶(覚えている rememberは,いつ,どこでが記憶された個人的経験)
・手続き記憶(できる skillは,認知的なもの,感覚・運動的なもの,生活上の慣習等々の処理プロセスの記憶)

がある,とされている。もちろん,この他,記憶には感覚記憶,無意識的記憶,短期記憶,ワーキングメモリー等々があるが,このなかでもその人の独自性を示すのは,エピソード記憶であると思う。これは自伝的記憶と重なるが,その人の生きてきた軌跡そのものである。

意味レベルでは,誰が言っても同じだか,その言っている言葉の背後にある景色は,人によって違う。

かつて,メールで,何気なく,「思惑」という言葉を使ったら,相手が激怒したことがある。別に悪意や他意があって使ったのではないが,彼には,他意あるかのごとく受け取るエピソード記憶が,「思惑」という言葉に絡みついていたのだ。

人は持っている言葉によって,見える世界が違う,

とヴィトゲンシュタインが言ったのだが,ただ言葉の違いだけではなく,その言葉に張り付いている,自伝的記憶が違うのだといっていい。

たしかに,

パワハラ,

という言葉を知らなければ,上司が部下を叱責しているのは,ただ注意されているのか,注意されているのか,指導されているのか,という程度だが,パワーハラスメントという言葉を知ってしまうと,同じ光景が,別のニュアンス,あるいは,全く違う光景として認識される。

確かにそうには違いないが,同じパワハラでも,人によって,その色合いが違う。その違いを,言語にできなければ,コミュニケーションは,意味レベルだけで,空中ブランコをしているだけで,深まることはない。

大事なのは,二つのように思う。

ひとつは,リアリティと紐つけをすること。

同じものを見ていても,同じように見えているとは限らない。その見え方に,その人のオリジナリティがある,と僕は思っている。とすると,より具体化することだ。

ただ,具体性,といっても,それぞれ自分にとっての当たり前レベルをもっている。しかしそのことに自覚的ではない。

たとえば,「上から」といったときの,上は,

二階からなのか,木の上からなのか,屋上からなのか,高層ビルの上からなのか,その当たり前は,意識的に動かすことができるはずである。たとえば,東京タワーの上から,飛行機の上から,人工衛星の上から,月から等々。

それは,人によって,具体性のレベルが違うからだ。しかし,人は意識すれば,具体性のレベルを変えていける。

そのためには,最低限,

・具体例を挙げる~具体性のレベルを変える
・強制,あるいは見たいように見ることを押さえない~見えているものを見る
・5W1H,あるいはストーリーを描く~できるかぎりピンポイントにする

因みに,具体的かどうかの原則は,次の3点。つまりそれが,

・他にないたったひとつの「もの」や「こと」であるかどうか,
・心の中に,気持ちや感情を動かすイメージが浮ぶかどうか,
・特定の何かをそこから連想させる力があるかどうか,

というとこを意識する,こちら側の努力はいる。

だか,しかし,だ。そこで問題になるのは,言語の少なさなのだ。語彙の足りなさ,言いたいことを表現する言葉が足らないのだ。自分にしかみえないものを言語化する,手段が不足しているのだ。

例えばだ,クオリアレベルで,見えている色に微妙な差がある,とすれば,それが言語に置き換えられなくてはならない。しかし,色を表現する,日本語の,独特の言葉が,いまや,死語になりつつある。

たとえば,

浅黄色
萌黄色
銀鼠色

等々,そういう言葉を片方が持っていても,相手にそれが理解できなければ,他の言葉で言い換えるしかない。

昔色見本を見ながら,印刷の色指定をしていた,まだそういう色見本帳には,そういう色の名が生きているに違いないと思うのだが…!

だから,第二は,語彙を増やすことだ。そのために,ひとつの言葉を,言い換える努力をしてみることだと思う。そして,そのことは,情報の読みと深くつながっていく,と僕は信じている。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


#言語化
#オートクライン
#ヴィトゲンシュタイン
#語彙




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2013年12月23日

片思い



どうも,ずっと片思いが続いているような気がする。

もちろん恋愛のそれも含めて,自分の思いが届かないことを指している。

思いが相手に届くことで,

共通の土俵に乗れるかもしれないし,

(清水博さんの言う「自己の卵モデル」黄身と黄身の混じり合った)共通の場ができるかもしれない。

しかし,それが叶わないことで,自分には自分の可能性を削いでいるような感じがする。しかし,たとえば,恋愛なら,自分が,相手を好きだ,と言ったところで,相手は,

Noというかもしれないし,

無視するかもしれないし,

聞かなかったことにするかもしれないし,

嘲笑されるかもしれないし,

話をそらすかもしれない,

のと同じで,そうそう思いが叶うとは限らない。自分のボスである自分自身ですら,自分をコントロールできないのに,ボスでもない相手をコントロールできるはずはない。そこに,不安や恐れが出る。

ためらいは,

自分の防御であり,

自分の安全であり,

相手への忖度であり,

相手への遠慮である,

ある意味では,自分を守ることである。そこにあるのは,その思いが,所詮,自分のものではあっても,相手のではないからかもしれない。だから,思いが届かないのではなく,思いを届けるのを怠っている。あるいは,思いを届けるのをサボっている。

では,その思いは小さいのか。

いや,思いが小さいか大きいか,ではなく,自分に切実かどうかではないか。

それは,仮にどんな思いであっても,たとえば,

クライアントとしてコーチへのフィードバックであっても,

オブザーバーとして,コーチへのフィードバックであっても,

友人への忠告であっても,

知人へのアドバイスであっても,

何かを一緒にしようという誘いであっても,

危惧を分かち合おうとすることでも,

その時言うべき(と思った)ことをきちんと伝えないと,結果として,切実ではないことになってしまう。

そこにあるのは,誠実さを欠いている,ということなのではないか。そこで開示しなければ,開示の結果は,それがマイナスであれ,プラスであれ,その果実を手に入れることはできない。

思えば,そういうことが多い。ということは,

出すもの(思い)を出さないことは,出されたものを受け取れない

ということではないか,と指摘された。というより,

自分の思いがきちんと出せないということは,相手の思いもきちんと受け取れない,

という自分の中での堂々巡りに陥っているのかもしれない。

相手に,ストレートに何かを伝えるということは,そのままストレートに返ってくることではないか。ということは,それができていない,あるいは,それができないのは,ある意味,

その場で,相手に対して,自分自身でいない,ということになる。ある意味,

自分でいられないということは,それが,

大きく見せるにしろ,

小さく見せるにしろ,

自分を等身大に見られない,

ということであり,裏返せば,

相手も等身大に見られない,

ということにつながると指摘された。自分ができない(しない)ことは,相手からもされない(してもらえない)ことに通ずる,と。

これは,思いのことではなく,自分の表現のことであり,自分の生き方のことでもある。

何処かで,自分を小さく見積もることで,切り抜けようとしているのかもしれない。小さい人間の思いは,小さくしか聞き届けてもらえない。

しかし,だ。

思いをストレートに伝える,

ということは,どんな思いにしろ,僕には,結構覚悟と勇気がいる。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#片思い
#思い
#等身大
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2013年12月26日

異和



「異和」と書いたが,普通は,「違和」と書く。ただ,なぜか,この言葉が気になる。

僕の記憶に間違いがなければ,吉本隆明は,『初期ノート』から,「異和」を使っていて,編者の川上春雄が,それに「まま」とルビを振っていた記憶がある。

吉本は,若い頃から,癖なのか,意識してなのか,「違和」ではなく,「異和」を使い,最後まで使いとおした。その意図は,もう確かめようはないが,

異和



違和

では,ニュアンスが違うのではないか。

「違」は,違う,悖る,背く,去る,遠ざかる,といった意味で,

違法,違憲,違反,違背,等々,

といったように,基準や定め,掟に背くというニュアンスが強い。

「異」は,異なる,違う,他と異なる,といった意味で,

異常,異心,異形,異郷,異見,異才,異能,異性,異名,異物,異腹,異邦,異変等々,

異質さというか,他から際立つというニュアンスがある。

「違う」は,平面的なのに,

「異う」は,立体的な感じがする。

あえて推測すれば,「違和」は,波立ちなのに,「異和」は,屹立,巍巍とした山並みの感じである。突出しているといってもいい。だから,「異和」の方が,違和の感覚が際立つ。

まあこれだけの話なのだが,自分の感覚を言語に置き換えるとき,ありきたりの言葉では,うまく言い尽くせない感じがすることがある。なにせ,思いの方が,言語の20~30倍のスピードで走り去っていくのだ。そのときその感覚を捉えそこなうと,すぐ思いと言葉がずれていく。

類語辞典を引いても,それは平面的な連想だから,ただ言い換えているだけで,言いたいことを,的確に表現する言葉を探すときには,あまり役に立たない。

それなら,いっそのこと,アナロジーかメタファーか,の方がなんとなくニュアンスが伝わる。

情報には,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod05111.htm

でも書いたが,

コード変換できる言語化可能なコード情報



コード変換できない雰囲気とか文脈といったモード情報

とがあるというが,まさにその通りで,デジタルとアナログと置き換えてもいい。アナログとは,まさにアナロジーといってもいいので,メタファーやアナロジーが伝えやすいのは当然だろう。

それは思いを絵にしたり,ビジュアルにしたりするのに近いかもしれない。

ところがビジュアルにすると,そこで,また少しずれる。

ヴィトゲンシュタインではないが,

およそ言いうることは言い得語りえないことについては沈黙しなければならない,

のか。それには,少し異和がある。

それについては,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11396602.html

にすでに書いた。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#ヴィトゲンシュタイン
#異和
#違和
#突出
#吉本隆明
#情報
#コード情報
#モード情報
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2014年01月12日

書く



言葉を覚えるということは,ある種俯瞰する視点を手に入れたことを意味する。それは,ユンギアンが言うように,そのときから,空を飛ぶ夢を見るというのは,その象徴といってもいい。

例えば,目の前の石くれを,石という言葉で置き換えることで,多くの石のひとつに,それはなった。

しかし,そのことで,石と目の前の石とは,ギャップが生まれる。置き換えて失ったのは,自分にとってのかけがえのないニュアンスといってもいい。

表現にそんなものはいらないという考え方もあるだろうが,そぎ落としてはいけないものをそぎしか落としてしまっているかもしれないのだ。

言葉のスピードの20~30倍で,意識は流れている,といわれる。それは,言語化できるのは,意識の1/20~30ということだ。そのとき自分が考えていたこと,思っていたことの1/20~30しか拾い上げられない。その余は,落ちていく。

書くということを考えると,

ひとつは,自分の思いを言葉にしようとする,

いまひとつは,言葉が次の言葉をつなげていく,

の二面がある。もちろん,何か書きたい思いがあって書きはじめる。しかし,言語化した瞬間,言語の意味の範囲から,思考が流れ始める。その時,すでに,ずれがはじまっている。

虚実皮膜

というのは,何も虚構を作っている時だけとは限らない。

日記を書いたことのある人ならお分かりのはずだが,自分の出来事を書いているはずなのに,その出来事自体は変わらないのに,そのニュアンスが書き方によって,変わっていくことがある。それは,言葉の作用に他ならない。

もちろん嘘ではない。嘘ではないが,そのときのコトを正確に写しているのとは少しずれる。

ひとつは,言葉の持つ俯瞰性から,視点が変わる,

ということはもちろんある。しかし,言葉に感情が籠ると,それほどの感情でなかったはずなのに,感情が煽られてしまうことがある。

つまり,いまひとつは,言葉が,勝手に言葉を紡ぎ出す。

つまりは,どっちにしろ,言葉が,見える世界を変える,ということになる。このことを,虚実皮膜というのではないか。

虚実皮膜については,近松門左衛門は,

http://www.kotono8.com/2004/06/27chikamatsu.html

によると,こう言っている。

芸というものは,実と虚との皮膜(ひにく)の間にあるものだ。

なるほど,今の世では事実をよく写しているのを好むため,家老は実際の家老の身振りや口調を写すけれども,だからといって実際の大名の家老などが立役者のように顔に紅おしろいを塗ることがあるだろうか。また,実際の家老は顔を飾らないからといって,立役者がむしゃむしゃとひげの生えたまま,頭ははげたまま舞台へ出て芸をすれば,楽しいものになるだろうか。

皮膜の間というのはここにある。虚にして虚にあらず,実にして実にあらず。この間になぐさみがあるものなのだ。

と。これは,真実らしく見せるために,黒澤明が,『七人の侍』のラストシーンで,墨汁の雨を降らしたことと似ているが,どうも不遜ながら,そこに,虚実の皮膜があるのではなく,

コトを写そうとすると,

言葉であれば,すでに,丸めるほかなく,映像であれば,自然光ではなく反射板や照明を使わなくてはきちんと撮れないように,表現自体が,現実ではなくなる,ということの方が大きい。

それは,自分の想いを語っていても,その思いは,言語のレベルで,言語に連なって,語られていく。語られていくにつれて,思いの原形質の質感ともニュアンスとも,ずれていく。

そのずれの感覚がないと,描いたものだけで,すべてを判断する。

書くというのは,いわば,すべての情報がそうであるように,フレームワークの中に入れることだと言ってもいい。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm

でそのことは,触れたが,書くということの持つ,宿命といっていい。しかし,そのことに自覚的な人は少ないかもしれない。

書くということは,書いた瞬間から,現実から乖離する。しかし,書いたものからしか,視界は拓けないのも事実なのだ。

私の言語の限界が私の世界の限界を意味する,

とヴィトゲンシュタインが言ったように,書かなければ始まらないのだから。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#ヴィトゲンシュタイン
#近松門左衛門
#虚実皮膜
#ユンギアン

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2014年01月22日

表現



表現を,仮に,

現(うつつ)を表わす,

としたとする。そうすると,

「現」とは,

あらわれる(あらわす),
うつつ,
起きている,

という意味になり,まあ出来事,現実,と捉えておく。では「表す」の「表」はどうか,同義語と比較すると,

見は,隠れたものが出てくる,
現は,見と同じ。現在=見在,
表は,うわ側へ出してあらわす,
顕は,照り輝くほどにあらわれる,
著は,あらわす,あらわる,
暴は,さらす,

等々,まあ表へ出る,表面化する,という感じなのではないか。

とすると,表現を,

現を表わす,

と言ったが,こう言い換えるとどうなるか,

現に表す,

現で表す,

現から表す,

現が表す,

現も表す,

現へ表す,

等々,その都度微妙にニュアンスが変わる。

「を」にすると,現が何にせよ,それを外へ表出するということになる。しかし,

「に」にすると,何を表出するにせよ,「現」にする,つまり現実化,顕在化する,というように変わる。

「で」にすると,「現」そのものが表出する手段に変わる。

何が言いたいのか,というと,表現というとき,

自分の内面(思い,思想,感情,心等々)を,外在化することに力点がある。つまり,自分を表現する,というように。しかし,それを,

自分で表現する,

自分に表現する,

自分も表現する,

自分へ表現する,

自分が表現する,

自分から表現する,

等々,自分を表現するという,というこだわりを手放すと,自分は,

表現そのものの媒体であってもいいし,

表現のキャンバスそのものであってもいい。

だから,自分は何をしても,自己表現になっている,と言ってもいいし,人生は,自己表現の舞台そのものであると言ってもいい。

僕は,自分を対象に,自分が表現の主体であることにこだわっているが,それは,視野を狭めていないか,ということなのだ。

人からのフィードバックは,それ自体,僕についての表現なのだし,それは自分の中に,その人自身が自分を投影しているのかもしれない。でも,それは,

自分に表現された何かなのだ。

表現が,言葉によるのであれ,他の手段によるのであれ,

現前化,

するということに尽きる。それが,自分に表現されても構わないし,それ自体を逆手に,表現し直してもいい。たとえば,表現は,

表言
表原
表間
表源
表呟
表嫌
表眼
表玄
表験
表見
表限
表顔
表訝
表幻

等々なんでもいい,極端に言えば,

他人が自分(をキャンバス)に表現する,

ということもあり,なのだと思う。目指す表現(現前化)には,それにマッチした手段があるとき,

世評はどうあれ,それが最高傑作なのだ,と信じている。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#表現
#フィードバック
#現前化
#キャンバス

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2014年01月26日

メタファー


ふいに,

山のあなたの空遠く

という文句が,泡のように,意識の下層から浮かび上がってきた。

どうも,ある年代以上のひとにとっては,三遊亭歌奴が新作落語『授業中(山のあな)』でネタにしてしまったために,どうも印象がお笑い色になってしまっているが,

山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。
噫,われひとゝ尋(と)めゆきて,
涙さしぐみ,かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ(カール・ブッセ「やまのあなた」上田敏訳)

という詩句は,どうもセンチメンタルな響きと,なんとなく,胸に残るしこりのような重みとがある。原文ではつかみようがないので,英訳を探してみると,

Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.
Alas, and I went in the crowd of the others,
and returned with a tear-stained face.
Over the mountains, far to travel,
people say, Happiness dwells.

こんな感じだ。上田敏の訳が出色なのが,よく分かる。

でもって思い出したのは,

巷に雨の降るごとく
われの心に涙ふる。
かくも心ににじみ入る
この悲しみは何やらん?
(ヴェルレーヌ「巷に雨の降るごとく」)

という一節だ。これは,堀口大學訳。詩のことは門外漢なので,両者のことは知らないが,松岡正剛が,「千夜千冊」で,堀口大學の「月下の一群」について,こんなことを言っているのを見つけた。

これほど一冊の翻訳書が昭和の日本人の感覚を変えるとは,堀口大學自身も想定していなかったろうとおもう。
しかし上田敏の『海潮音』が明治の文芸感覚を一新させていったように,大學の『月下の一群』は昭和の芸術感覚の全般を一新していった。たとえば,こんなふうに。

両者は,言語感覚において,時代の先端にいた,ということなのだ。それは,今も色あせていない。

たとえば,堀口大學の,

秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。(ポオル・ヴェルレエヌ「落葉」)

あるいは,

わたしの耳は
貝の殻
海の響きを懐かしむ
(ジャン・コクトー「わたしの耳は貝の殻」)

これは,メタファー(隠喩)の効果といっていい。

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view26.htm

でも触れたが,隠喩は,あるものを別の“何か”の類似性で喩えて表現するものだが,直喩と異なり,媒介する「ようだ」といった指標をもたない(そこで,直喩の明喩に対して,隠喩を暗喩と呼ぶ)。したがって,対比するAとBは,直喩のように,類比されるだけではなく,対立する二項は,別の全体の関係の中に包括される,と考えられる。

この隠喩は,日本的には,「見立て」(あるいは(~として見なす)と言うことができる。こうすることで,ある意味を別の言葉で表現するという隠喩の構造は,単なる言語の意味表現の技術(レトリック)だけでなく,広くわれわれのモノを見る姿勢として,「ある現実を別の現実を通して見る見方」(ラマニシャイン)とみることができる。

それは,AとBという別々のものの中に対立を包含する別の視点をもつことと見なすことができる。これが,アナロジーをどう使うかのヒントでもある。即ち,何か別のモノ・コトをもってくることは,問題としている対象を“新たな構成”から見る視点を手に入れることになる。

とまあ,固く言えば,こうなる。しかし,これは,視点を喩えたものの側に移せば,たとえ話や逸話,童話,果ては物語へと転じていく。

喩えたことで,別のモノが,別の世界が見えてくる,というと大袈裟か。

四人の僧侶
庭園をそぞろ歩き
ときに黒い布を巻きあげる
棒のカタチ
憎しみもなしに
若い女を叩く
こうもりが叫ぶまで
一人は食事をつくる
一人は罪人を探しにゆく
一人は自瀆
一人は女に殺される(吉岡実{僧侶})

最近の詩は知らないので,記憶に残る詩を例示に。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#吉岡実
#僧侶
#カール・ブッセ
#やまのあなた
#上田敏
#ポオル・ヴェルレエヌ
#落葉
#巷に雨の降るごとく
#ジャン・コクトー
#わたしの耳は貝の殻
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2014年01月31日

手紙



考えれば,手紙というのは,そこにわずかでも,手書きの部分があれば,その人柄がしのばれる。宛名や差出人名すら,本文がワープロであっても,わずかな手書きの手筋で,その人の状態や心理が窺える気がする。

ちょっとネットで別のコトを調べていたら,長田弘「すべてきみに宛てた手紙」に,こんな文章があることを知った。

書くというのは,二人称をつくりだす試みです。書くことは,そこにいない人にむかって書くという行為です。文字をつかって書くことは,目の前にいない人を,じぶんにとって無くてはならぬ存在に変えてゆくことです,

と。しかし考えれば,書くという行為は,書いた瞬間に,自分にとっても情報として入ってくる。その時,暗黙のうちに,自分は読み手となり,無意識で読み手となっている誰かを想定しているところがある。

かつて,日記を何十年も書いていた時,頭の中で思っているだけと,それを文章にして紡ぎ出したものとは,微妙な齟齬があった。描いた瞬間に,書きながら,書き手自身がそれを読み,暗黙のうちに,前後の辻褄を合わせようとしている。それが虚実皮膜のはじまりである,と思ったものだ。

そのとき,ただきちんと書こうとしているというだけではない意識が働いていた気がしないでもない。

思い出すと,日記でも,メモでも,それが込み入ったことであればあるほど,その経緯がわかるように書こうとしているところがあった。もともと書くということは,思いや意識を整理しようという意志が働いているせいもあるが,なんとなく後から読んでもわかるように,という意識が働いている。

そのとき,無意識で,対象として,

誰か読者を想定している,

というのと,

いまひとつ,

自分自身を読み手として想定している,

というのがあるような気がする。

誰が,と特定できるわけではないが,いまでも覚えているが,自分が死後,誰かがそれを読んだとしたら,ということが,ちらりと頭をよぎった気がする。そう考えて,描写に抑制が働いたのと,きちんと書こうとする志向が働いたのを覚えている。

もうひとつは,書きながら,思い描いていたのは,後から自分が読むということだ。すごく極端な言い方をすると,その自分は,それを考えていたちょっと後の自分であるのではないか。それを目にする自分にとっては,すでに,過去の自分なのである。その過去と瞬間のいまの自分との対話,といってもいい。

考えてみたら,書いた瞬間,思っていた自分とはタイムラグがある。その前の想いと,書かれたものとの間の微妙な齟齬は,そこにもある。

そのキャッチボールが,文章を文章として独立させ,頭の中のもやもやしていた思いが,整理された面がある半面,少しずつずれていく,という感覚がある。

もちろん長田弘の言っているのは,上述の後段で,

いずれも,目の前にいない「きみ」に宛てた言葉として書かれました。手紙というかたちがそなえる親しみをもった言葉のあり方を,あらためて「きみ」とわたしのあいだにとりもどしたいというのがその動機でした。これらの言葉の宛て先である「きみ」が,あなたであればうれしいと思います。

と,本当の読者を想定しているのではあるが,書いているときに,暗黙に,誰かが想定されなければ,書き出しの動機にはならないのかもしれない。

とすると,手紙は,すでに,その相手に向かって,直線的に,暗黙のリンクをつなげようとする意志そのものといってもいい。

それがラブレターでも年賀状でも儀礼的な礼状でも,結果として,思いの多寡はあるにしても,その思いのワイヤー(レスも含め)をつなげることだ。

その意味で,メールよりもちろんだが,電話よりも,太い意思に思える。

なぜなら,ただ印刷されたものであっても,宛名が書かれた瞬間には,それがつながるのであり,ましてそこにわずか一行が手書きで書き加えられれば,それはもっと強い。

なんとなく,ふとそんなことを思っているうちに,

あゝおとうとよ,君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

という与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を思い出した。これもまた直接的なものだが,しかし,すべての作品は,手紙以上に読み手を意識しているはずだ。それが,特定の誰かであるほど,その作品の持つメッセージ性が強くはなるにはちがいないにしても。

上記の長田弘の文章がもうひとつ。

ひとの人生は,やめたこと,やめざるをえなかったこと,やめなければならなかったこと,わすれてしまったことでできています。わたしはついでに,やめたこと,わすれたことを後悔するということも,やめてしまいました。煙草は,二十五年喫みつづけて,やめた。結局,やめなかったことが,わたしの人生の仕事になりました。―読むこと。聴くこと。そして,書くこと。物事のはじまりは,いつでも瓦礫のなかにあります。やめたこと,やめざるえをえなかったこと,やめなければならなかったこと,わすれてしまっとことの,そのあとに,それでもそこに,なおのこるもののなかに。

これは,誰に向けたものなのか,僕には,自分自身に向けたメッセージに思えてならない。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#長田弘
#すべてきみに宛てた手紙
#与謝野晶子
#君死にたまふことなかれ
#虚実皮膜
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2014年02月22日

現出


先日,【第3回 表現の世界で生き続けている人は日々,何を想っているのか(アート・漫画・演劇 クロストーク)】
に伺ってきた。

https://www.facebook.com/events/1392994380956040/

「表現の世界」で活躍される,

アートディレクターの竹山貴さん
女流漫画家の渡邊治四(ワタナベジョン)さん
元俳優で今は作家・エッセイストの飯塚和秀さん,

の,それぞれ10年以上のキャリアを誇る,三人のトークライブである。

今回,(三人の方々から出された)テーマは,

表現とメンタルの関係
アイデアを具現化する方法
やめたくなったことは

等々。三人の話を聴きながら,自分の中で,

表現の意味,
アイデア着想の仕組み,

ということに,いろいろ思いが駆け巡ったので,そのあたり,僕のうちで起きたことを書きとめておきたい。

表現というのは,内なる,

思いの,
イメージの,
感情の,
アイデアの,
物語の,
思考の,

現出化である。

もう少し踏み込むと,カタチにして,この世に出現させることである。そのためには,自分のうちにあるものを客観化しなければできない。因みに,労働とは,能力の現出化である。能力とは,知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),である。発想がなければ,単なる前例踏襲である。

例えば,怒ることと怒っている感情を表現することとは別である。とすれば,どういうカタチで現出させるにしても,自分の怒りそのものを対象化することが出来なければ, 表現はできない。つまり,怒りの瞬間に,

バカヤロー,

と怒鳴ることはできるが,

僕は(バカヤローと怒鳴りたいくらい)怒っている,

というカタチで言語表現できる人はそう多くない。それは,自分の感情そのものに距離を置かなくてはならないからだ。距離が置ければ,その感情が,

憤慨なのか,
激怒なのか,
憤激なのか,
憤懣なのか,
瞋恚なのか,

の区別がつかない。情報とは差異だから,区別がつかないことは,丸まってしか表現できない(脳はやっかいなことに丸めるのは得意技)。逆に言うと,具体化するとは,実は,選択肢を広げることなのだ。林檎というのと,デリシャス,シナノスィート,紅月,国光,白龍,アキタゴールド等々というのとでは,広がる世界が違う。具体化できれば出来るほど,選択肢が広がるのである。

メンタルコントロールが話題になっていたが,表現は,そもそもメンタルをも対象化するという意志がなければできない。悲しんでいる時も,その悲しみを表現しようとしてしまうだろう。

アイデアについては,前にも

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163403.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163041.html

等々で触れたことがあるが,何かひらめいた瞬間,

0.1秒,脳の広い範囲が活性化する,

と言われている。それは,自分のリソース,

意味記憶
エピソード記憶
手続き記憶,

の他,感覚記憶など,広い範囲のリンクがつながるということだ。つまり,アイデアがひらめくのは,いつもとは違う何かとつながることで,

そうか,

とアッハ体験が生まれる。とすれば,いろんな人に会う,いろんな場にいていろんな体験をする等々,いかに多様な刺激を脳に加えるか,ということに尽きる。それは,自己完結させない,ということが重要になるからだ。ブレインストーミングが有効なのは,自分の思考の癖と違うところ(人の発想)から刺激をもらうからだ。

だから,歩いていたり,人と会っていたり,何かを読んでいたり,と違うことをしている時に,ハット思い浮かぶのは,脳は,いったん問題意識,というか?を入力しておくと,勝手に考え続けるところがある。それが,外との刺激にか,脳内の別のものとにか,リンクがつながり,はっと気づくということになる。

アイデアの出し方には,それなり独自のやり方があり,

メモをKJ法並みに整理していく飯塚氏
問題意識(問い)を温めていく竹山氏,
違和感をシーズにする渡邊氏,

と三者三様だが, 川喜田二郎氏は,創造性をこう定義した。

本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ,秩序づける。

異質なものを組み合わせて,そこに意味を見つければいい。ハッとするというのは,つながる感覚である。つながった,と感じたのは,そこに一筋の意味が見えたということだ。

ただ,発想は,おのれの,

知識と経験の函数,

でしかない。自己完結する中には,アイデアの光明はない。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


posted by Toshi at 05:51| Comment(0) | 表現 | 更新情報をチェックする

2014年03月06日

勢い


第6回「女流漫画家 渡邊治四(ワタナベジョン)から学ぶキャリアアップのために必要なこと」に参加させていただいた。

https://www.facebook.com/events/237193076445754/?notif_t=plan_edited

今回のテーマは,

なぜ漫画家になりたかったのか,
今後の目標

だが,この中で,10代半ばで,投稿して,受賞した時,

勢いがある,
頁をめくらせる力がある,

と評されたという。で,いま,その勢いをどう意識化しているのか,とお尋ねしたところ,

内圧をためておいて,(ポンプのように)出し方を変える,

というような趣旨のことを言われた。それを,描くぞというモチベーションとも言われた。そのときは,ご自分の描くぞというエネルギーをコントロールできるという意味で承った。だから,

スランプはこない,

というのも,そういう貯め込む時期と放出する時期を自分で意識できるからだ,と。

が,微妙な違和感が少しだけあった。つまり,

自分のエネルギーをコントロールする,

ということと,

頁をめくらせる勢い,

とはちょっとずれがあると感じたのである。

で,考えた。勢いには,

①作家の内面のエネルギー(思いとか,描きたいという衝迫感)

と,

②作品レベル(表現レベル)での突進力

とは違うのではないか,と言うことだ。別に,表現のプロではないので,ここからは,素人の妄想だが,よく,

荒削りだが力がある,

という評が,どんな表現に対してもある。これは,表現のレベルを指す。そこには,描きたい何かかあり,描きたいという強い衝迫力が,あふれ出て,表現の巧拙を突き抜けて,奔出する,という感じになる。

そのとき,エネルギーの強さに見合う,表現技術が伴わない,という意味が強い。このときに,エネルギーが着目されるのは,表現との落差があるからだ。

しかし,そのエネルギーを,貯め込み方と,出し方がコントロールできるということは,せっかく持っていた自分の衝迫力を矯めることになるのではないか。

そこが,僕の感じた,かすかな違和感である。

必要なのは,エネルギーのコントロールではなく,エネルギーを表現する技術のコントロールなのではないか,という気がしたのだ。

あるいは,

(描きたいという,あるいはこれを描きたいという)思いの強さ,

を勢いだとしよう。それは,コントロールしてはいけないのではないか。その勢いを,勢いのまま,どう表現するかこそが,スキルだからだ。

スキルは,思いの強さを矯めるためのものではない。

そうではなく,

スキルは,思いの強さをそのまま(あるいはそれ以上に)どう現出させるか,というためにある。

僕はそう思う。

ではなくて,

モチーフの熟成し,発酵するエネルギー,

を勢いだとしよう。それはモチベーションの強さに当たるだろう。それでも,その強いモチーフに妥当する表現方法を現出させるのが,表現者の仕事なのではないのか。

当初の評者の言だけをタネに,あれこれ考えるのは邪道だが,

勢い,

という言葉に触発されたものがある。僕は,

がむしゃらさ,

無我夢中さ,

というものが勢いの原初だと思う。よく,処女作が最高傑作という言い方をしたりするのは,表現技術ではなく,その荒々しい,描きたい思いがストレートに現出しているからなのではないか,と思う。

洗練されるということは,うまくなることであってはならない。荒々しい,あるいは,

禍々しい

ほどのぎらついたものこそが,初発のエネルギーなのではないか。そのエネルギーを伸ばしつつ,あるいはそれに寄り添いつつ,それをどう表現するかにスキルの進歩がある,という気がしてならない。

処女作すら描いたことのないものが言うのも,おこがましいが。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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2014年03月07日

突破力


【第8回 アートディレクター竹山貴のガチンコ人生!!!月例晒し者にする会。】に参加させていただいた。

https://www.facebook.com/events/663462340359215/?ref_newsfeed_story_type=regular

たまたま,その前日に,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/390642044.html

「勢い」について考えたせいもあり,そのまま引きずっている。

話の流れで,「一流とは何か」ということになった。それは,それぞれのお考えがあり,参加者も含めて,

絶対的な練習量,
その考え方というか努力の方向,
センス,
才能,

等々が出されたが,僕の頭には,野球をしている誰もが,どれだけ頑張っても(その練習の質と量自体が違うが),イチローにはなれない,ではその,イチローのイチローたらしめているものは何か,が頭の中を駆け巡っていた。

才能,

と言ってしまえば,それまでだ。僕は,遺伝子の持っている可能性の限界は,どうしようもない壁だと思っているけれども,でも,そう言ったのでは,一流とは,一流だからだと言っているようなもので,答えにならない。

ずいぶん昔,プロフェッショナルとは,を考える際に,一流,二流,三流の違いについて書いたことがあるが,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163044.html

そこでは,

①「一流の人」とは,常に時代や社会の常識(当たり前とされていること)とは異なる発想で,先陣を切って新たな地平に飛び出し,自分なりの思い(問題意識)をテーマに徹底した追求をし,新しい分野やものを切り開き,カタチにしていく力のある人。しかも,自分のしているテーマ,仕事の(世の中的な)レベルと意味の重要性がわかっている。

②「二流の人」とは,自らは新しいものを切り開く創造的力はないが,「新しいもの」を発見し,その新しさの意義を認める力は備えており,その新しさを現実化,具体化していくためのスキルには優れたものがある。したがって,二番手ながら,現実化のプロセスでは,一番手の問題点を改善していく創意工夫をもち,ある面では,創案者よりも現実化の難しさをよくわきまえている。だから,「二流の人」は,自分が二流であることを十分自覚した,謙虚さが,強みである。

③「三流の人」とは,それがもっている新しさを,「二流の人」の現実化の努力の後知り,それをまねて,使いこなしていく人である。「使いこなし」は,一種の習熟であるが,そのことを,単に「まね」(したこと)の自己化(換骨奪胎)にすぎないことを十分自覚できている人が「三流の人」である。その限りでは,自分の力量と才能のレベルを承知している人である。

④自分の仕事や成果がまねでしかないこと,しかもそれは既に誰かがどこかで試みた二番煎じ,三番煎じでしかないこと,しかもそのレベルは世の中的にはさほどのものではないことについての自覚がなく,あたかも,自分オリジナルであるかのごとく思い上がり,自惚れる人は,「四流以下の人」であり,世の中的には“夜郎自大”(自分の力量を知らず仲間内や小さな世界で大きな顔をしている)と呼ぶ。

と,整理した。いまは,少し違うところもあるが,基本は,変わっていない。自分は,

せめて,自分は四流ではなく,三流程度ではいたい,

と,思っていたし,いまもその思いに変わりはない。そこで大事にしているのは,

オリジナリティ,

ということのように思う。何かの本を読んだが,

研究者は,何を研究するかで,時代の流行を追うか,あらたな分野を追うか,そのセンスが問われる。しかし,どうにもならない袋小路に入り込んで,研究者人生を台無しにする人も一杯いる,

と。そこで穴が穿たれ,向こうが見えれば,一流となるのかもしれない。しかし,それは紙一重のような気がする。

会場で,僕は,結局,

突破力,

という言い方をしてしまったが,上記の意味で言えば,結果として,常識の壁,専門家の壁,評論家の壁,無理の壁,才能の壁,過去の壁等々を打ち破れれば,という意味だ。その壁の前に,死屍累々というのは,当然ある。自分が突破する側にいるとは限らない。

イギリスのSF作家,アーサー・C・クラークは,

権威ある科学者が何かか可能というとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能というとき,それは多分間違っている,

と言っていたそうだが,トーマス・クーンの言うパラダイムが,その時代の人の発想を制約する。僕流に言い換えると,文脈に制約される。それを破るには,強烈な衝迫力,突進力がいる。

それを破ると,何かかある,

というのは錯覚かもしれないし,勘違いかもしれない。しかし,

それを破る力がある,

と,おのれを見誤るとという過大評価するのも,考えたら,一流の証かもしれない。ただし,やりきらなければ,ただの思い上がり,自惚れに過ぎない。

自分の限界がどこにあるか発見するためには、自分の限界を超えて不可能だと思われるところまで行ってみる他はない,

という言い方を良くするが,その通りだろう,とことん,突っ走っていくことがなければ,どれだけ走れるかなんてわからない。その意味で,

走りながら考える,

という竹山さんの流儀は,僕もそうだから,首肯できる。走ってみなければ,わからない。

ただ,方向感覚は,確かめるメタ・ポジションを手放してはならない気がする。それは,

世界観,

といっていいものだ。ビジョンとは違う,自分の描こうとする,実現しようとする世界像ではなく,独自の世界観だ。大袈裟に言うと,

世界とは何なのか
どうして存在するのか
そのなかで人間はいかなる位置を占めるのか

等々についての自分なりの考え方だが,ぶっちゃけ,

この世界をどう見て,どうとらえているか,

である。そのものの見方が,どれだけ独創的か,がその人のパフォーマンスにつながる。それが,イチローのように,ベースボールについてのそれということもある。その中で,どう自分が生きるかが,イチローの実現してきたもの,これから目指すものだろう。表現の世界では,その人の目指す作品の世界像の根底にある。あるいは,それをさまざまに現出させようとして作品が生まれる。それを見失うと,どつぼにはまる。

因みに,どつぼにはまった時の脱出法は,

時間的,
にか
空間的,
にか,

そのとき,その場から,距離を置くしかない。その距離が,いつもとは違う視点での自己対話を促すのだと思っている。それもまた,走りながら会得していく。

考えると,イチローは片時も,立ち止まらず,走り続けている。しかも,日々変身し続けながら。あの長距離ランナーの姿勢もまた,一流の証なのではないか。当然,走り続ける心身のメンテナンスを欠かさない。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年04月01日

処女作


処女作が最高傑作,

と,あるところでついつい言ってしまったが,それをどこかで,目にした記憶がぼんやりある。何をもって処女作というかはいろいろあるが,

初めて完成させた作品,

というのでは,習作との区別がつかない。意味的には,習作とは,

文芸・音楽・絵画・彫刻などで,練習のために作品をつくること。また,その作品。エチュード,

となる。どれを見ても似たような感じになる。練習のための作品ということなのだろう。そこには,

発表を想定しない,

あくまで練習作という意味といっていい。処女作,という以上,ただ最初に書いた,という意味ではなく,

発表を考えた,

あるいは,

初めて発表した,

作品ということになる。そこには,発表を期して書いた(描いた)が,発表されぬまま埋もれたものも含まれる。

瞬間に思い浮かぶのは,太宰治の『晩年』である。その作品集のエビグラフに,

撰ばれてあることの
恍惚と不安と
二つわれにあり

というヴェルレーヌの詩が載せられているのも意味深である。ふと思い出して,探し出し来たのは,奇跡的に一冊だけ残っている,筑摩書房の新書サイズの『太宰治全集』の第一巻である。

あとがきに,

私はこの本一冊を創るためにのみ生まれた。けふより後の私は全く死骸である。

と書いている。これが真意かどうかは別に,発表を想定して初めて書くということに込められたエネルギーは信じてよい。そこには,

私はこの短編集一冊のために,十箇年を棒に振った。まる十箇年,市民と同じさわやかな朝めしを食はなかった。私は,この本一冊のために,身の置きどころを見失ひ,たえず自尊心を傷つけられ世のなかの寒風に吹きまくられ,さうしてうろうろ歩きまはってゐた。

という,十年分の想いの丈が込められている。そのエネルギーだけで,以降の作品は,『晩年』にかなわないと思う。

いやいや,ここで,太宰のことを言うつもりではなかった。大して好きな作家ではない。そうではなく,僕自身にも,それに似たことが思い当る,と言いたいだけだ。

仕事で書いたこと,私的で書いたこと,いろいろあるが,もう処分してしまってどこにもないが,大卒後就職した小さな出版社の雑誌に,初めて編集後記を書かされたが,たぶん,すさまじいエネルギーと集中力だったと思う。いまは,そんなエネルギーを収斂させて,彫り込むような文章は書けない。

思えば,初めて出した本の拓いた世界から,未だに飛び出せていないのかもしれない。そのことは,私的に書いたものについても言えるのかもしれない。私的には,

http://www31.ocn.ne.jp/~netbs/critique102.htm

で,自分の能力の限界を感じたと,ずっと思っていたが,ひょっとすると,それは能力というより,

そのとき描いた世界,

から出られない,というのが正しい。その程度の世界しか描けなかった,という言い方もあるし,そのときの視圏,和辻哲郎のいう「視圏」のパースペクティブが,それだけのことだったということもできる。

それは逆説的な言い方なのであって,ありていは,

最初に広げた風呂敷

は,自分のキャラや性格通り,大風呂敷とはいかなかった,自分で言うのもなんだが,

律儀で,

小心で,

真っ正直な世界,

であったということだ。そして,いま思うに,

そのときできる,

知力,

感性,

体力,

技量,

のすべてを投入したことには,間違いはない。

その意味で,最初に,自分の超えるべきハードルを高々と,掲げ,生涯を懸けて,それを超えていくしかない,自分自身という壁なのだと,つくづく思う。

それが,

処女作,

というものの持つ意味なのだろう。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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2014年07月10日

喩え


たとえば,熱い思いとか,思いの深さというときの,

熱いとか深いは,「思い」というものを熱せられた何か,あるいは深い淵になぞらえなければ,表現できない。しかし思いはカタチのあるモノではない。まあ,

喩え,
あるいは
比喩

なのだが,何気なく使うこれは,何なのだろう,とあらためて整理し直してみたくなった。比喩については,アナロジーを中心において考えると分かりやすい。

アナロジー(Analogy)は,analogueつまり,類似物から来ているはずだから,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/398240083.html

で触れたように,

当該の何かを理解するのに,それと似た(あるいはそれと関係ありそうな)別の何かを媒介にして,

~として見る

ことである。言ってみるとパターン認識である。昔から,

問う、如何なるか是れ、「近く思う」。曰く類を以って推(お)す

と言われているのと同じである。いわば,アナロジーというのは,自分の既知のものから,

異質な分野との対比を通して,

推測することといっていい。

W・J・J・ゴードンは,『シネクティクス』の中で,アナロジーの手法を,

・擬人的類比(personal analogy)
・直接的類比(direct analogy)
・象徴的類比(symbolic analogy)
・空想的類比(fantasy analogy)

の4つ挙げている。

直接的類比は,対象としているモノを見慣れた実例に置き換え,類似点を列挙していこうとするもの

であり,

擬人的類比は,対象としているテーマになりきることで,その機構や働きのアイデアを探るという,いわゆる擬人法

であり,

象徴的類比は,ゴードンの取り上げている例では,インドの魔術師の使う伸び縮みする綱のもつイメージを手掛かりに連想していこうとする

ものであり,

空想的類比は,潜在的な願望のままに,自由にアイデアをふくらませていこうとするもの

である。

いずれも,やろうとしていることは,比較する両者に,

共通点

を見つけようとすることに尽きる。どういう共通項を見つけるかが,鍵になるが,僕は,両者に,

関係性

類似性

をどう見つけるか,に尽きるのではないか,と仮説をたてている。。

前にも触れたことがあるが,それを鍵に分類していくとすると,

・類似性に基づくアナロジーを,「類比」
・関係性に基づくアナロジーを,「類推」

に整理できるのではないか。

前者は,内容の異質なモノやコトの中に形式的な相似(形・性質など),全体的な類似を見つけだす

のに対して,

後者は,両者の間の関係(因果・部分全体など)を見つけ出す。

詳細は,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view24.htm

に譲るとして,メタファーとの関係に踏み込めば,たとえば,類似性を手掛かりに,鳥をアナロジーとすることによって,コウモリを理解しようとするとき,われわれがよくするのは,モデルをつくることだ。あるいは写真や図解もその一種だ。そして,それを言葉で表現しようとすると,「夜飛ぶ鳥,こうもり」といった比喩を使うことになる。

いわば,アナロジーによる発想は,われわれが自分たちの思い描いているものを,

一種の~,
~を例に取れば,
~というように,

といった具体像で表そうとするときの方法であり,それは2つの方法で具体化することができる。

1つは,言語による表現である“比喩”(アナロジーのコトバ化)
もう1つは,モノ・コトによる表現である“モデル”(アナロジーのモノ・コト化)

である。

ただ,断っておけば,アナロジー→モデル・比喩という順序を固定的に考えているわけではない。

アナロジー思考があるから,比喩やモデルが可能なのではない。確かに,関係にアナロジーの認知がなくては,それを喩えたりモデルとしたりすることはできないが,逆にAをBに喩えるから,その間に類似性を認識できることがあるし,モデル化することで,より類推が深化することもある。逆に類比が的確でなければ,比喩やモデルが間の抜けたものになることもあるからである。

むしろ,3者は相互補完的であって,アナロジーの発見がモデル・比喩を研ぎ澄ましたものにするし,モデル・比喩の発見が新しい類比を形成することになる。

ただ,すくなくとも,比喩が使えるには,それに見立てたものとの間のアナロジーが認知できていなくてはならない。

モデルについて挙げれば,詳しくは省くが,

・スケール(比例尺)モデル
・アナログ(類推)モデル
・理論モデル

とあるが,比喩は,

ある対象を別の“何か”に喩えて表現することである。通常言葉の“あや”と言われる。その意味やイメージをそれによってずらしたり,広げたり,重層化させたりすることで,新しい“何か”を発見させることになる(あるいは新しい発見によってそう表現する)。

これもアナロジーの構造と同様で,比喩には,

直喩(simile),
隠喩(metaphor),
換喩(metonymy),
提喩(synocdoche)

といった種類があるが,類似性と関係性に対応させるなら,

直喩,隠喩が《類似性》の言語表現,
換喩,提喩が《関係性》の言語表現<

となる。

直喩

は,直接的に類似性を表現する。多くは,「~のように」「みたいな」「まるで」「あたかも」「~そっくり」「たとえば」「~似ている」「~と同じ」「~と違わない」「~そのもの」という言葉を伴う。

従って,両者は直接的に対比され,類似性を示される。それによって,比較されたAとBは疑似的にイコールとされる。ただし,全体としての類似と部分的な性格とか構造とか状態だけが重ね合わせられる場合もある。

とはいえ,「コウモリは鳥に似ている」「昆虫の羽根は鳥の翼に似ている」等々,既知の類似性を基に「AとBが似ている」と比較しただけでは直喩にならない。「課長は岩みたいだ」「あの頭はやかんのようだ」といった,異質性の中に「特異点」を発見し,新たな「類似」が見い出されていなくては,いい喩えとは言えない気がする。。

隠喩

も,あるものを別の“何か”の類似性で喩えて表現するものだが,直喩と異なり,媒介する「ようだ」といった指標をもたない(そこで,直喩の明喩に対して,隠喩を暗喩と呼ぶ)。

したがって,対比するAとBは,直喩のように,類比されるだけではなく,対立する二項は,別の全体の関係の中に包括される,と考えられる。AとBの類似性を並べるとき,

①AとBが重なる直喩と同じものもある(「雪のような肌」と「雪の肌」)
②「心臓」と「ポンプ」を比較するとき,両者を包括する枠組のなかにある
③一般的な隠喩であり,「獅子王」とか「狐のこころ」といったとき対比する一部の特徴を取り出して表現している。

この隠喩は,日本的には,「見立て」(あるいは(~として見なす)と言うことができる。こうすることで,ある意味を別の言葉で表現するという隠喩の構造は,単なる言語の意味表現の技術(レトリック)だけでなく,広くわれわれのモノを見る姿勢として,「ある現実を別の現実を通して見る見方」(ラマニシャイン)とみることができる。

それは,AとBという別々のものの中に対立を包含する別の視点(メタ・ポジション)をもつことと見なすことができる。これが,アナロジーをどう使うかのヒントにもなる。即ち,何か別のモノ・コトをもってくることは,問題としている対象を“新たな構成”から見る視点を手に入れることになる。

換喩と提喩

は,あるものを表現するのに,別のものをもってするという点では共通しているが,直喩,隠喩とは異なり,その表現が両者の“関係”を表している(“言葉による関係性"の表現)という共通した性格をもっている。

両者の表現する《関係性》は,

換喩が表現する《関係性》が,空間的な隣接性・近接性,共存性,時間的な前後関係,因果関係等の距離関係(文脈)

であり,

提喩が表現する《関係性》が,全体と部分,類と種の包含(クラス)関係(構造)

となっているが,この違いは,換喩で一括できるほどの微妙な違いでしかない。

換喩の表す関係は,「王冠」で「王様」,「丼」で丼もの,詰め襟で学生,白バイで交通警察,「黒」「白」で囲碁の対局者,ピカソでピカソの作品等々に代置して,相手との関係を表現することができる。そうした関係を挙げると,

・容器-中身 たとえば,銚子で酒,鍋で鍋物,丼で丼物
・材料-製品 アルコールで酒
・目的-手段 赤ヘルで広島カープ
・主体-付属物 王冠で王様
・作者-作品 ピカソでピカソの絵
・メーカー-製品 味の素でAJINOMOTO
・産地-産物 灘で清酒
・体の部分-感情 頭にくるで怒り

等々,がある。いわば,その特徴は,類縁や近接性によって,代理,代用,代置をする,それが表現として《関係》を表すことになる。

一方,提喩となると,その代置関係が,「青い目」で外人,白髪で老人,花で桜,大師で弘法大師,太閤で秀吉,といった代表性が強まる。この関係としては,

・部分と全体 手が足りないで人手
・種と類 太閤で秀吉,小町で美人
・集団-成員 セロテープでセロハンテープ

等々がある。ただ注意すべきは,全体・部分といったとき,

木→幹,枝,葉,根……
木→ポプラ,桜,柏,柳,松,杉……

では,前者は分解であり,後者はクラス(分類)を意味している。前者は換喩,後者が提喩になる。

この《関係性》表現が,われわれに意味があるのは,こうした部分や関連のある一部によって,全体を推測したり,関連のあるものとの間で《文脈》や《構造》を推測したりすることである。

対象となっているものとの類縁関係やその包含関係によって,その枠組を推定したり逆に構成部分を予測したりすることで,われわれは,隣接するものとの関係や欠けているものの輪郭や全体像の修復や補完をすることができるのである。これは,すでに推理にほかならない。

こうした比喩の構造をまとめてみれば,

  [類似性]   [関係性]  [推論]
 《直喩・隠喩》→《換喩・提喩》→《推理》

となるだろう。われわれは,“まとまり"としての類似性をきっかけに,似た問題を探すことができる。そして更にその中の《文脈》と《構造》の対比を通して,未知のものを既知の枠組の中で整理することができる。しかし,最も重要なことは,ひとつの見方にこだわるのを,比喩を通した発見によって,全く別の《文脈》と《構造》を見つけ出せるという,いわば見え方の転換にあるといっていいのである。

こう考えると,

アナロジー・モデル・比喩

は別のものではないこの三者の,補完関係は次のように整理できるだろう。

[類似性]→[関係性]→[論理性]

直喩・隠喩→換喩・提喩→推理 (比喩)
類比→類推→推論 (アナロジー)
スケールモデル →類推モデル →理論モデル(モデル)

「~として見る」がアナロジーであるなら,それを比喩的に言えば,

“意味的仮託"あるいは“意味の置き換え"であり,“価値的仮託"あるいは“価値の置き換え”

である。モデル的に言えば,

“イメージ的仮託"あるいは“イメージの置き換え”

であり,

“形態的(立体的)仮託"あるいは“形態の置き換え”

である。仮託あるいは置き換えること(仮にそれにことよせる,という意味では,代理や代置でもある)で,ある“ずれ”や飛躍"が生ずる。だから,それを通すことによって,別の見え方を発見しやすくなるということなのだ。なぜなら,われわれの意味的ネットワークの底には,無意識のネットワークがあり,意味や知識で分類された整理をはみ出した見え方を誘い出すには,このずれが大きいほどいいのだ。

として,冒頭の話に戻すと,

思いが深い,

というのは,いい喩えなのだろうか。そんなことは勝手なことで,深きかろうと浅かろうと,その思いをかけられる側にとっては,何の関係もない。思いの大きさを言うのだとしたら,いい喩えではない。惰性の表現であって,異質さを対比していないから。


参考文献;
W・J・J・ゴードン『シネクティクス』(ラティス社)
佐藤信夫『レトリックの消息』(白水社)



今日のアイデア;
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2015年02月19日

悲しみ


ふいと,

汚れっちまった悲しみに

というフレーズが,口をついて出ることがある。有名な,中原中也の,

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる(『山羊の歌』)

の冒頭である。つづいて,

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
懈怠けだいのうちに死を夢む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気おじけづき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

と続く。僕は,ずっと,このフレーズの「悲しみ」を,「哀しみ」とも違う感情,切ない嘆きのように受け止めてきた。本来の解釈ではないかもしれないが,自分の「かなしみ」を,使い古された「悲しみ」という言葉でしか表現できない自分自身への焦れのように感じていた。

だから,「汚れっちまった悲しみ」が繰り返し,何かに喩え,何かに言い換え,何かに仮託して,しかし,結局ピタリとくる,いい言葉にもいい喩えにも出会えず,

なすところもなく日は暮れる

しかないと嘆いているのである,と。

「悲しい」は,語源として,前にも書いた気がするが,三説あるらしい。

ひとつは,「カネ(困難,不可能)+シ」で,「~しかねる」の,力が及ばず,何もできない切ない気持ちの「カネ」に,シが加わった語(大野説)

もうひとつは,「かな(感動助詞)+し」で,感動が強く迫る意を表す。

通説とされているのは,「カナシ(愛+シ)」で,感動が強くて激しく心に迫って,ゆすぶられ何もすることができない意。

しかし,古語辞典を見ると,

「愛し」は,身に染みていとおしい,可愛い,強く心惹かれる,感心する,

の意で,

「悲し」は,可愛そうだ,気の毒だ,残念だ,

となっている。もともと「かなし」としか表現できない,和語の貧しさに,「悲」と「愛」の字を当てて,意味が広がり,乖離していったのではないか。用例を見ると,

「愛し」は,万葉集に,「妻子(めこ)みれば,かなしくめぐし」があるので,最初は,この意味だったはずで,漢字を当てることで,繊細な心を表現する言葉を手に入れた,という感じがする。その意味で,通説が,実体に近いのではないか。

「愛」の字を構成する「旡」(カイ・キ)の字は,

人の胸をつまらせて後ろにのけぞったさま

で,「愛」は,

「心+夂(足を引きずる)+旡」

で,心が切なく足もそぞろに進まないさま。意味は,

いとおしむ
めでる
おしむ
可愛がる

で,この「愛」の字を当てることで,この漢字の意味の方へ「かなし」がシフトしていった,ということがよくわかる。

「悲」は,

「心+非」で,

「非」は,羽が左右に反対に開いたさま,両方に割れる意を含んでいる。で,「悲」は,心が調和統一を失って胸が裂けること,胸が裂けるような切ない感じ,という意味になる。だから,「悲」の意味は,

かなしい
あわれみ

になる。おなじ「かなしい」でも,

「哀」は,

「口+衣」で,

「衣」は,かぶせて隠す意。で,「哀」は,思いを胸中におさえ,口を隠してむせぶこと,という意味になる。「哀」の意味は,

(あるおもいのために胸のつかえた気持ち)あわれ,せつない,
(かわいそうで胸が詰まるような気持ちになる)あわれむ,
(つらくて胸のつかえた気持ち)かなしみ,

となる。だから,「悲しい」と書くのと,「哀しい」と書くのでは,意味が違ってくる。漢字がなければ,「かなしい」の意味は,すごく薄っぺらだったに違いない。あるいは,「哀」「悲」の字を知ってから,そういう感情の機微を知ったのかもしれない,季節感を知ったように。そのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/406252031.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/406309247.html

で書いた。

心や思いを表現する言葉を探しあぐね,和語には語彙が足らず,必然的に漢語をひたすら借りて,さらには造語した。今日のカタカナ語もまた,そういう表現欲求の結果である。それだけ,固有の和語が,貧弱であることのあかしである。もともと文字をもたない民族であった。それゆえにこそ,言語化には貪欲なのかもしれない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
金田一京助・春彦監修『古語辞典』(三省堂)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2015年04月30日

とんだ孫右衛門


いまどき,

とんだ孫右衛門。

で意味の分かる人は,それほど多くはいまい。

前に,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/418053269.html

で,泥道で難儀するのを,

粟津の木曾殿,

という喩を使った話をしたが,明治・大正期の人たちは(というか僕が無知なだけだが),総じて,この喩が,半端ではない。たとえば,岡本綺堂『半七捕物帳』の「張子の虎」に,

「尻を端折はしょって番傘をさげて、半七は暗い往来をたどってゆくと、神明前の大通りで足駄の鼻緒をふみ切った。舌打ちをしながら見まわすと、五、六軒さきに大岩おおいわという駕籠屋の行燈がぼんやりと点っていた。ふだんから顔馴染であるので、かれは片足を曳き摺りながらはいった。
『やあ。親分。いい塩梅あんばいにあがりそうですね』と、店口で草履の緒を結んでいる若い男が挨拶した。『どうしなすった。鼻緒が切れましたかえ』
『とんだ孫右衛門よ』と、半七は笑った。『すべって転ばねえのがお仕合わせだ。なんでもいいから、切れっ端ぱしか麻をすこしくんねえか』」

これで一定の読者には通じるのである。これは,歌舞伎の『恋飛脚大和往来』,人形浄瑠璃『けいせい恋飛脚』を歌舞伎に脚色したものだが,そこで,通称『梅川忠兵衛』と言われるものからきている。

大坂の飛脚屋亀屋に養子に出した忠兵衛の,実父孫右衛門が,「新口村の場」で,

大坂の飛脚屋亀屋に養子に出した忠兵衛の実父,大和国新口村の百姓孫右衛門が,「新口村の場」で,遊女梅川と逃げてきた忠兵衛が,知り合いの百姓の久六家で,(忠兵衛が店の金を横領して逃げている事は村中に知れ渡っており,庄屋に呼ばれた)忠兵衛の見知った顔が集まるため,ぞろぞろと道を行くのが見える。その最後に孫右衛門が見え,孫右衛門に会うことが叶わぬ忠兵衛と梅川は,遠くから孫右衛門に手を合わせる。すると孫右衛門が凍った道に足をとられ,そ下駄の鼻緒も切れて転んでしまう。忠兵衛は飛び出して助けたいと思っても出て行くことができない。代わって梅川が慌てて走り出て,孫右衛門を抱え起こして泥水のついた裾を絞るなどして介抱する。

と言う見せ場である。その,孫右衛門が転んで鼻緒が切れたことになぞらえて,言っている。しかも,半七は,

「転ばねえのがお仕合わせだ」

と,芝居にかこつけて,もう一つ念押ししている。この喩えの奥行が,すごいと,つくづく思う。

もうひとつ,同じ『半七捕物帳』「お照の父」に,

「そら、向島で河童かっぱと蛇の捕物の話。あれをきょう是非うかがいたいんです」
「河童……。ああ、なるほど。あなたはどうも覚えがいい。あれはもう去年のことでしたろう。しかも去年の桜どき――とんだ保名の物狂いですね。なにしろ、そう強情におぼえていられちゃあ、とてもかなわない。

というくだりがある。「とんだ保名の物狂い」の「保名の物狂い」も,似たものである。いわゆる,

葛の葉,

である。葛の葉は伝説上のキツネ,葛の葉狐、信太妻、信田妻とも言う。葛の葉を主人公とする人形浄瑠璃および歌舞伎の『蘆屋道満大内鑑』(あしやどうまんおおうち かがみ)も通称「葛の葉」として知られる中に出てくる。

「安倍保名(やすな)の恋人・榊の前が,無実の罪を着せられ,身の潔白を証明 するために,保名の目の前で自害する。そのショックで保名は気がふれ,今春の 野辺をさまよっているのです。そこで死んだ姫とそっくりな葛の葉に 逢う。いつしか二人は恋仲となり、結婚して童子丸という子供をもうける。童子丸が5歳のとき、葛の葉の正体が白狐であることが知れてしまう。次の一首を残して、葛の葉は信太の森へと帰ってゆく。
恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
この童子丸が、陰陽師として知られるのちの安倍晴明である。」

というようなわけで,「物狂いの」部分だけ独立して所作(踊り)となったのが,『保名』らしいので,あるいはこちらを指しているのかもしれない。いまは,歌舞伎は「子別れ」が中心らしい。

もうひとつは,「槍突き」で,

「『だが、槍突きはその猟師に相違ねえと思う。俺がこの間の晩、柳原の堤どてで突かれそくなった時に、そいつの槍の柄をちょいと掴んだが、その手触りがほんとうの樫じゃあねえ。たしかに竹のように思った。してみると、槍突きは本身の槍で無しに、竹槍を持ち出して来るんだ。十段目の光秀じゃあるめえし、侍が竹槍を持ち出す筈がねえ。』」

と出る,「十段目の光秀」だ。これは,この話が,竹槍による,いまで言う通り魔事件なので,多分想像がつくが,明智光秀が,山崎の合戦で敗北し,勝竜寺城から坂本城へ落ちのびる途中,小栗栖で落人狩の竹槍に刺されたことを指している,ということは,一応の推測できる。しかし調べれば,

絵本太功記・尼崎閑居の場

が十段目である。史実と歌舞伎は全く変わっているので,そこでは,

「尼となった皐月(光秀の母)の住む竹藪の庵室,皐月と操(十次郎の母)は出陣する孫の十次郎のために,許嫁の初菊と結婚式をあげさせ、祝言と初陣の杯を交わします。
十次郎が出陣していくと、光秀が旅の僧に化けた久吉(秀吉のあたる)を追って登場します。光秀は隠れているはずの久吉を槍で一突きしますが,意外にもその槍にかかったのは母の皐月でした。皐月は苦しい息の下で、主君を討った光秀を諫めます。」

といった筋になっているらしいので,「十段目の光秀」というのは,一揆に刺される光秀のことではなく,光秀が誤って母を刺したことになぞらえているらしいのである。

最後に,時代の反映かもしれないが,

白鼠,

という表現が使われる。これもよくわからなかったが,主家に忠実な雇用人,まあ番頭を指したらしい。

大黒天に仕えた白鼠,

つまり,大黒天の使いで,それが住む家は繁盛する,大黒鼠といったところから,喩えというか,なぞらえて言うらしい。『古語辞典』には,

大黒天を主人に,奉公人を白鼠にたとえて言う,

と丁寧に説明している。『大言海』には,

商家の番頭の,忠なる者の称。チュウと言うより言えるなるべし,

とあり,不忠なるを,黒鼠と言う,

とある。いやはや,奥が深い。

参考文献;
大槻文彦『大言海』(冨山房)
金田一京助・春彦監修『古語辞典』(三省堂)辞典








今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2015年07月18日

々,ゝ,〱,ゞ


々,ゝ,〱,ゞ

は,漢字でも仮名でもなく,しいて言うと,記号で,

踊り字

というらしい。そのことは,

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B8%8A%E3%82%8A%E5%AD%97

http://ja.wiktionary.org/wiki/%E3%80%85

http://e-zatugaku.com/nihongo/odoriji.html

等々にくわしいが,「々」が気になったのは,

時々
とか,
堂々

という単に,重ね字というか,省略の使い方ではなく,

明白と言わず,

明々白々,

と言ったりする使い方,同じように,

奇々怪々,
颯々爽々,
呻々吟々,
黙々沈々,
明々快々,

と言い表すことで,強調する使い方に興味が惹かれた。これは,

興々味々,
強々調々,

と,まあ原型が推測できる限り,強調としての効果がある。そんなことを考えているうちに,本来,一字でもそういう意味なのに,

各を各々,
とか,
屡を屡々

と使ったりすることで,これも強調する効果があることに気づく。ただ,

点々
とか,
転々
とか,
方々(「かたがた」ではなく,「ほうぼう」)
とか,
一々
とか,
高々
とか,
様々,
とか
取々,

等々かは,一字での意味とは,少し違ってくる。強調というより,誇張のニュアンスが出てくる。漢字の意味をはみだしている。当て字のものもある。たとえば,

度々

は,「たび」が,旅の回数の意のタビらしく,「度」は漢字の「回数」を意識して当て字として使っている。

態々

も,「わざとわざと」の変化で,「態と」は,漢字の「態」の含意を意識した当て字になっている。なかなか含意が深い。

そうやって漢字の重ね字の使い方を見ていくうちに,和語の重ね使いにも目が向いた。たとえば,

さてさて,
とか
さてもさても,
とか
そもそも,
とか
つらつら,

等々は,それぞれ「さて」「さても」「そも(それも)」「つら(連ね)」には意味があるので,強調する意図で使っている。しかし,多くは,たとえば,

すらすら,
さらさら,
すくすく,
しずしず,
にやにや,

といった,擬態語という分野の言い回しが多い。あるいは,

擬音語
とか
擬声語

といった分野に当てはまるものもある。

http://pj.ninjal.ac.jp/archives/Onomatope/column/nihongo_1.html

によると,金田一春彦は,

「擬声語」:わんわん,こけこっこー,おぎゃー,げらげら,ぺちゃくちゃ等
「擬音語」:ざあざあ,がちゃん,ごろごろ,ばたーん,どんどん等
「擬態語」:きらきら,つるつる,さらっと,ぐちゃぐちゃ,どんより等
「擬容語」:うろうろ,ふらり,ぐんぐん,ばたばた,のろのろ,ぼうっと等
「擬情語」:いらいら,うっとり,どきり,ずきずき,しんみり,わくわく等

と,5つに分類しているようだが,理由はともかく,繰り返しが多い。この場合,様子や,状態,雰囲気,気分,心もちなどを感覚で言い表しているので,「わんわん」の「わん」や,「ざあざあ」の「ざあ」,「きらきら」の「きら」,「ゆらゆら」の「ゆら」ね「にやにや」の「にや」のように,ある程度意味が推測出来たり,感覚がわかったりするものも少なくないが,逆に,

ことこと,
さくさく,
くるくる,
ほくほく,
ずしずし,
とことこ,
よちよち,
わくわく,
くすくす,

などのように,「わく」だけとっても意味がないが,「わくわく」で,その高揚が感触として伝わる表現もある。また,一見,

いらいら

さばさば

ぐずぐず

のように,語源がはっきりしないものが多い。しかし,

「さばさば」が,「さっぱりさっぱり」

「いらいら」が「いら(棘)いら(棘)」

「ぐすぐず」が「くずるぐずる」

のように,語源から見るとそのいわれに根拠がある。

しかし,くりかえしは,根拠があってもなくても,何かを強調したり,際立てたりするのに,結構重宝で,

ラブラブ,
こてこて

等々,いまもわれわれは使っている。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2015年10月21日

古文真宝


小説を読んでいて,

「古文真宝な顔」

とあった。どんな顔なのか。

古文真宝とは,辞書(『広辞苑』)等々によると,

先秦以後宋までの詩文の選集。宋の黄堅編といわれる。前集10巻は漢から南宋までの古体詩,後集10巻は戦国時代末から北宋までの古文の模範とするものを集めたもの。各時代の様々な文体の古詩や名文を収め,簡便に学習することができたため,初学者必読の書とされて来た。日本には室町時代のはじめごろに伝来した。五山文学で著名な学僧たちの間より広まり,江戸時代には注釈書が多く出された,

とあり,さらに,

(古文を収めて難解であることから転じて)まじめくさって,かたくるしいこと,また,頑固な人,

とある。

まじめくさる,

かたくるしい,

はわかるが,かたくるしい,と

頑固,

になるのか?それは意味が少し違いはしまいか,というのがそもそもの疑問。

『古文真宝』は,

「前集,後集,それぞれ詩形別,文体別に分類,編集している。もともと塾などの教科書としてつくられたものであるが,各時代の代表的な詩文を多く収めてあるので,主として唐,宋時代の文を集めた『文章軌範』とともに,元,明にかけて広く流行した。」

とあるので,まあ,テキストということになる。

『大言海』には,こうある。

「書名を固くるしき意に用いるに,延喜式という語あり,経書を青表紙という類」

として,

固くるしく,真面目くさりたる意に言う語,

と意味を載せる。そして出典として,『卜養狂歌集』から,

「或る人,蓮を絵にかきて,ダテなるまことに前書きして,歌詠みてくれるという,もとより,ダテは白蓮の,まことに難しき古文真宝を,蓮は淤泥の中より出で,泥に染まらず,花の君主なりと云々」

あるいは,『武道伝来記』より,

「隈なき月に,よもすがらの大踊り,余念なく眺めしとき,常は,古文真宝に構えし男も,云々」

として,古文真宝とは,

日本の俗語に,初心に,かたい男をいう,

とある。やはり,辞書(『広辞苑』)のいう,

まじめくさって,かたくるしいこと,

が,

また,頑固な人,

となるのには少し飛躍がある気がする。

堅苦しいの語源は,

「堅い(うちとけない)+苦しい」

で,うちとけず,しかつめらしく,窮屈,という意味になる。「固」と「堅」を当てるが,どう違うのだろう。

「固」は,

「古」がかたくひからびた頭蓋骨を描いた象形文字なので,「囗(かこい)」を加えて,「周囲からかっちりと囲まれて,動きの取れないこと」という意味になる。だから,

しっかり安定して動きも変わりもしない,

という意味になる。

「堅」の,「臤」は,臣下のように体を緊張させてこわばる動作を示す。「土」ヲコを得て,かたく締まって,こわしたり,形を変えたりできないこと,という意味で,

しまってかたい,
こちこちにかたい,

という意味を持つ。因みに,「硬」は,「更」が,「丙(ぴんとはる)+攴(動詞記号)」で,かたくぴんとはること。「石」をくわえて,石のように固く張りつめること。で,意味は,

しんがかたい,
真が張りすぎて動きが取れない,

という詞意味だが,「強硬」「硬直」とは使うが,しかし,「硬くるしい」とは,あまり使わないようだ。材質というかそれ自体の硬い柔らかいを指しているようで,この辺りの微妙な使い分けは,よく分からない。

話を戻すと,かたくるしいが,

ただ材質のことだけではなく,囗や土を加えて,身動きできない,というニュアンスがある。だとすると,結果として,

頑な

に通じるのかもしれない。「頑な」は,

「カタ(偏る)+クナ(くねる,曲がる)」

で,曲がって偏る意から来ているらしい。偏屈,ひねくれ,になるが,しかし「頑」の字は,「元」が,人の形の頭のところを印をつけた形を描いた象形文字で,丸い頭のこと。「元」が,「はじめ」の意で用いるようになったため,元の原義は,これに「頁(あたま)」をそえた「頑」の字で表すようになった。「丸い頭」の意から転じて,融通のきかない古臭い頭の意になった。

「かたくな」に,「頑な」と当てたことで,曲がっているというよりも,融通がきかないという意味が強まったのではないかと想像される。「頑」の字には,「頑健」「頑丈」のように,がっしりしている意味もあるのだから。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)







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