2012年11月04日
怒りを表現する
昔から怒りっぽく,怒りで散々な目にあっていたとしよう。
そのとき,どう怒りをコントロールするかという話になるのだろうか。たとえば,論理療法でいうように,イラショナルビリーフがあるからだと。たしかにそれもあるかもしれない。だが,怒りがその人の価値にかかわることだとしたら,それをコントロールすることは,その人の何かを矯めることになる。
確かに激昂した状態で,冷静な判断は下せないし、瞬間のさらにその一瞬の一瞬に集約されたような尖がった状態になっていて,すさまじい視野狭窄に陥っている。トンネルビジョンの状態になっているときの,そこからの抜け出し方は,一瞬立ち止まれるかどうかにかかっている。その瞬間,選択肢が生れる。このまま行くか,立ち止まり続けるか,戻るか,選択肢が絶えず3つ以上生まれるとき,すでに発想に余裕が出る。
頭の中の,意識の流れは言語化のスピードの20倍から30倍なのだという。さまざまな思いや妄想が次々と流れそれを言語にしようとするとき,その思いに適合する言葉を瞬時に探し当てて,コトバにして口から出す。ところが,怒りの瞬間は,感情が最優先で流れるので,言葉も短絡化する。しかし,思い出すと,言葉を口に出す寸前,必ず,コンマ何秒かの間がある。ほんの一瞬どうするかを迷う束の間がある。その間が,たぶん,立ち止まる最後の機会になる。
何度も怒りで失敗してきたので,この間合いはよくわかる。長く,自分の怒りを恥じてきた。あるいは,そのたびに悔いる自分を蔑んできた。
怒りを前にして,相手の反応は3つに分かれる。同じ土俵で,怒りの度合いを張り合う。この場合,よく野生のオス同士が負けじと張り合うのに似ている。いまひとつは,すさまじい鎧を着飾って,それで対抗する。手段は,いろいろあるが,まあ馬耳東風と流されるのが、ますます怒りを煽る。最後は,土俵を下りて去る。とりあえずは頭を下げても,心の中で舌を出しているのが、よく見える。
最近はめったに怒らなくなった。怒るには相当のエネルギーがいるからだ。叔父の口癖は,怒ったら負け,というのだ。成らぬ堪忍するが堪忍,とはよく言ったものだ。
ただ,このごろ必ずしも怒りを悪いこととは思わなくなった。怒りを抑えることも大事だが,怒るべきときに怒らないことのほうが,人間的ではない,と感ずる。そのときに怒らなくてどうすると思うことも多い。自分にしろ,誰か身近な人にしろ,あるいは赤の他人でも,理不尽なことに出会ったとき,それに屈することなく,怒りを挙げることは必要ではないか。怒っている,ということは大事なのだ。
ただし,怒ることと怒っていることを伝えることは別だ。なんと成長したものだ。そう思えるようになっている。ではどう伝えるのか、もちろん,アサーティブなアプローチも悪くない。ただ,せっかちな自分の性には合わない。
で考えた。怒っているとしよう。その時,「俺は怒っている」と伝えても,その怒りの大きさは,伝わらないだろう。その瞬間の冷静さが相手に伝わるだけだから,多少日頃の人間関係を意識させることにはなるかもしれないが,怒っているインパクトと,その怒りの大きさは伝わらない。で,
「おれは,いま,
馬鹿野郎!(ここは,怒りの大きさに合わせて大声を出してもいい)
と,言いたい気分なんだ」
と言ってみる。相手の瞬間の驚愕の表情と,そのあとのほっとした表情の落差をひそかに楽しむ。これなら、まだコミュニケーションの土俵に乗っている。
今日のアイデア;
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#怒り
#感情表現
#コミュニケーション
#土俵
2013年03月12日
気力について
遠くから名前を呼ばれている気がして,ふっと目覚めた。その直前夢を見ていた気がするが,はっきりしない。目の前で,執刀の女医さんが,終わりましたよ,と声をかけてくれた。
ありがとうという意志表示で出たのか,
単に(ちょっとかっこいい)女医さんの手を握りたかったのか,
なんとなくうつつの何かに触れたかったのか,
どういうわけだか,思わず手を出したら,握手を返してくれた。間合いというのはこういうことなのだろう。
痛みはひどかったけれども,まあ何とか食事はとれたが,翌日位から身体が弱り,気力が萎えていった。無自覚に萎えていく,無意識ではない,萎えていくことを意識しているのに,それを自覚していない。そのまま無気力になっていく。まあ,こんな程度いいのではないか,そう諦めかけた時に,自分は,まだまだ終わっていない,ということを感じた。
思い出したのは,フランクルの問いだ。人は人生に何かを求めるのではなく,自分の人生が自分に求めているものにどう応えるか,それを天命と呼ぶんだと,僕は思った。
天命という言葉は,別に使命とか役割とかとは関係ないと思っている。そういう意味に使っている人は,思い上がっているか,うぬぼれているか,無自覚に自己欺瞞に陥っている。人には,天寿を全うすべき天から定められた寿命がある。だから,途中でそれを全うできなかったことを,非命という。すべての人に天命がある。生きることそれ自体が,天命であって,何か目的があるなどと思い上がってはいけない。
人生には目的などない。自分が目的を定めるだけのことだ。それを神から託されたと思い上がるのも自由,誰かのために尽くそうとするのも自由。ただおのれの欲のためにだけ生き切るのも自由。死ねば死に切りと思うのも自由。だから人間だけが,自らの生を絶つ自由がある。
しかし僕は,まだ生かされているなら,生かされているうちに自分にできることをしたいと思う。そこで人生を諦めるのも,そこで人生を投げ出すのも,別におのれの人生だから,ひと様にとやかく言われる筋合いはない。しかし,自分がそれでは納得できない,と感じている。
天命を信じて人事を尽くす,とはそんな時に自分に問いを出す。
おのれの存在を賭してでもすべきことがあるのか,という問いが,現実味を帯びる。その問いを絵空事にしない。
王陽明は,『伝習禄』で,聖人の「生知安行」,賢人の「学知利行」に対して,普通に学ぶものを,「困知勉行」とし,天命と一体の聖人,天に事える賢人に対して,天命が何たるかを知らないから,「天命を俟つ」(人事を尽くして天命を俟つ)以外ないのだと言った。だから,「殀(わかじに)か寿(ながいき)を全うするかによってその心を弐(たが)えず,身を修めて天命を俟つ」といった。その伝で言えば,与えられた寿命を生き切るほかはない。後は,天命を俟つのみ。
だから,余生というのはない。余りの人生なんぞあるはずはない。ふと,もうのんびりしてもいいのではないか,ゆったり過ごすか,等々と思ったりする。しかしそれは与えられた限りある人生の無駄遣いだ。
確か秋元康が,人生は電話口にテレホンカードを差し込んだ状態に譬えた。しゃべってもしゃべらなくても,度数は減っていく,と。
生きている限り,のんびりするのは,僕には人生の放棄に見える。
生きている限り,というか生かされている限り,しなくてはいけない何かが見える。人のためであれ,自分のためであれ,それが自分のすべきことというのが見える。
よく,すべきことではなく,したいことを言え,という言い方をする。僕はナンセンスだと思っている。したいことは,所詮したいこと。優先順位は低い。好きなことをしているイチローが,ちっとも楽しくなんかないです,と言っていたのが印象的だ。したいことよりも,自分でなくてはできないこと,自分こそがやるべきだと信じたことをやる,それを大事にしたい。それが福嶋さんの言う,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11097313.html
「出番」とはそういうものだろう。
それが天命からか,役割からか,義務からかはどうでもいいのではないか。いま「自分が」やらなくてはならないと感じたことをやるべきだ。それが僕は人生への問いに答えることだと信ずる。所詮したいということも,すべきということも,自分の思い込みや思い違いにすぎないのかも知れないのだ。
だとしても,いま「自分が」やらなくてはならないと感じ,やらないですませば,きっと後から後悔するに違いないと感じるのなら,いますべきなのだ。楽しくないとか,したくない,したいことではない等々いうことは,所詮やるべきことをしない逃げに過ぎない。
楽しいか,やりたいかの選択肢は,本当はどうでもいいあいまいなものに過ぎない。楽しくしたいことだけをしている人生など,所詮楽しさしかないだけのつまらぬ人生だ。
いま,ほかならぬ,自分がしなくてはならないと感じることこそから,逃げず,やらなくてはならない。それをしなくては,きっと後悔するに違いないと思ったら,なおしなくてはならない。それが天命というもののように思える。
たとえ,心情告白でも,独立宣言でも,終活開始でも,戦闘開始でも,闘争宣言でも,限界突破でも,何であれ,それがし残したことなら,それが天命だ。天命に軽重も是非もありはしない。その人の一生分の価値だけがある。
今日のアイデア;
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#非命
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#王陽明
#伝習禄
2013年09月06日
怒り
怒りについては,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11145382.html
で触れたことがあるが,ちょっと基本的なことを確認してみたい。
ならぬ堪忍するが堪忍,
というが,怒ったあとの気分の悪さと言ったらない。堪忍袋や癇癪玉の大きさが,器量,度量の大きさに比例するというような気がしてならない。
怒りは狂気,
というのもよくわかる。
怒りは,基本的に欲求充足が阻止されたときにその阻害要因に対して生じる,と心理学辞典ではいう。生理的には,怒りの状態では交感神経が活性化し,血圧の上昇,心拍数の増加が生じ,表情は文化を超えて似ており,眉が引き寄せられて下がり,口が私価格開いた攻撃的状態になる,という。
怒りという言葉には,
怒り,
腹立ち,
憤り,
むかつき,
瞋恚,
とあるが,むしろ漢字の方が,厳密に分ける(以下『字源』による)。
怒(喜の反対,腹立ち)
忿(立腹して恨む。外へ現れない)
憤(内に鬱積して発する怒)
悶(心に煩鬱してもやもやする)
懣(悶に同じもだえる。)
恚(恨み怒る。怒りが尾を引く)
瞋(怒気が目元に現れる。目をいからす)
愾(恨み怒る。)
艴(怒る顔色)
怒りの種類は,言ってみればたくさんあるのだから,怒りとは,
欲求充足が阻止されたときにその阻害要因に対して生じる,
というのは,いささか単純な気がする。人の心に,勝手に設けた,
(相手や他の者がこうするべきという)基準やルール,
(人は,相手はこうしてくれるはずという)期待や願望,
(こうなるはずという)希望や期待,
(こうなってくれるといいという)夢や望み
(かくあるべしという)信念や価値
という,一言で言えば,期待値への思い入れが強ければ強いほど,それが叶わない,阻まれる,意に沿わない,ということで,普通なら意志喪失したり,落胆したり,めげたりするのが,相手への怒りや恨みに変わる。その閾値は,人によって違うが,引き返せないくらい,(独りよがりの)思いの重みが偏っているということに因るように思う。
そうすると,自責ではなく,こんなに期待しているのにとか,こんなにこっちは守っているのにとか,こんなに思っているのにと,(思いを受け止めない相手への責め)他責へと転じ,攻撃としての怒りが爆発する。あるいは逆か,怒りが,自責を押しつぶし,他責へと転ずる。
いずれにしても,それは内的な心理的バランスが崩れた,ということができる。要は,論理療法に言われるまでもなく,相手が怒らせているのではなく,自分が怒っている,それがイラショナル・ビリーフによるかどうかは別に,自分の思いにあることは間違いない。
しかし,前にも挙げたが,ジル・ボルト・テイラーは,こう言っている。
わたしは,反応能力を,「感覚系を通って入ってくるあらゆる刺激に対してどう反応するかを選ぶ能力」と定義します。自発的に引き起こされる(感情を司る)大脳辺縁系のプログラムが存在しますが,このプログラムの一つが誘発されて,化学物質が体内に満ちわたり,そして血液からその痕跡が消えるまで,すべてが90秒以内に終わります。
生理的な反応の怒りは90秒まで,それ以降は,それはそれが機能するよう自分が選択し続けている。つまり,思いの(というよりもう妄想の)偏りで,視野が狭窄しており,怒りつづけなければ,思いの秤のバランスが取れなくなっている。
この怒りは,すべてがおのれの幻想的な現実の上で組み立てられていて,事実を突きつけられても,それは事実とは見えない。ほぼ,狂気に入り込んでいるのに近いかもしれない
ただ,どうも,こうやって私的な怒りだけに怒りを限定するのは,不公平な気がする。たとえば,
慷慨,
義憤,
公憤,
という怒りがある。
義を見てせざるは勇無きなり,
という言葉もある。その時,阻害されているのは,社会的公平であり,社会的正義であり,人間としての道であり,人としてのあるべき姿ということになる。
昨今,その怒りの表現が,われわれは下手になった。ツイッターのつぶやきは,単なる私的怒りの表現でしかない。そこには,公的な基準を確かめていく,再確認するという理よりは,私憤の吹き溜まりの感がある。野次馬の正義感みたいなものだ。その広がりの大きさは認めるが,ひとりひとりが自分の体と存在で関わるデモ以上の戦闘力にする工夫が,僕には見えない。
参考文献;
ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(新潮文庫)
簡野 道明『字源』(角川書店)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#怒り
#憤り
#瞋恚
#私憤
#公憤
#ツイッター
#デモ
#正義感
2013年09月10日
嫉妬
嫉妬については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11261890.html
で少し触れた。そこではこう書いた。
僕は,嫉妬というのは,その立場に成り代われなかった,そこに自分がいたらよかったというそのポジションに自分がいない,どうあがいてもそこにいられないということに対する悔しさといっていい。
しかしそもそもそこには自分は立てないことは気づいている。気づいているから,なお悔しい。
自分は,その方向を向いていないのに,その方向にいたいと思う,その矛盾が嫉妬を生む。
羨むというのは,穏やかだが,それは,距離があるからだ。遠い向こうを見ているからだ。その距離が感情を生々しくしない。生臭くしない。
嫉妬は,その距離が微妙だ。その位置にいられそうな,一つ間違うとそこにいたかもしれない,そうなれたかもしれないのにそうなりそこなった,そんな間合いが,悔しさというか,身もだえするような生なまましい悔しさを感じさせる。
その距離は必ずしも物理的なものではない。心理的な近しさ,あるいはほとんど同位置にいると感じさせる(錯覚にしても錯覚するくらいの)親しさがある。それは,勝手な思い込みも含めて,主観的なものだ。
ある意味同類意識なのかもしれない。
もし自分がその位置に,同じところにいるのだとしたら,それは感じるのだろうか。あるかもしれないが別の感情だ。
だからといって,その位置,その立場,その状態を,必ずしも,自分が欲しているのではない。欲していたら,嫉妬よりは,別の反発や奮発といった感情なのではないか。
だから,嫉妬は微妙なのだ。同じ方向を向き,そこを目指しているのではない。にもかかわらず,それを妬む。
そこを目指してもいないが,しかし,
その位置に自分がいないことに,
いやそこにはいられないことに,
あるいは,
いようともしなかったことに,
たまらない悔しさを感じる。しかし決してそこにはいないだろうし,いられもしないだろうことも承知している。まあ,矛盾だといっていい。
その矛盾を強引に突破しようとすると,ストーカーになるしかない。それは,現実ではなく,そこにいようと思えばいられたかもしれない,という幻想を現実に無理やり接続してしまうことだ。本人は,距離をそうやって埋めようとする。しかし物理的な距離を埋めても,心理的な距離は夢とうつつのように隔絶している。埋めようはない。
その絶望に,どこで気づくのだろう。
気づかないのだろうか。
僕は気づいていると思う。気づいているからこそ,現実を強行突破するしかなくなるのだ。
どこで引き返すべきだったのだろう。
嫉妬の一瞬の距離と方向の違いを,それに気づいている自分に気づくべきだったのだろう。気づくのは,つらいことだが。現実の隔絶を前にする時ほどの絶望とは違う。
しかしいつの間にか,嫉妬は憎悪に変わっているのかもしれない。それは,距離を一気に飛び越えていくものだ。距離故の矛盾を,自分にも相手にも盲目に,突き破っていく。激しい憎しみは,感情の肌理を焼き尽くしてしまう。
その一瞬,世界には,自分一人しかいなくなる。
その孤立が,憎しみを募らせる。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#嫉妬
#羨む
#ストーカー
#憎悪
#妬む
2013年09月23日
恋
初めは,「秘める」というテーマで考え始めたが,
秘める恋
秘める思い
秘める志
秘める夢
秘める悪意
秘める怨念
と考えたところで,「しのぶ」を調べていくうちに,
しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで
わが恋を 人知るらめや しきたへの 枕のみこそ 知らば知るらめ
にいきついて,結局恋のことか,とわれながらあきれた。無粋な野暮天がどの程度語れるか,ちょっと試みる。なんとなく,挫折しそうだが。
恋については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11041914.html
で触れたが,他の言葉との関連に焦点が当たっている。ここでは,恋の心理を少し考えてみたい。なにせ野暮天の言うことだ,あまりあてにはならないが。
僕が思うには,これも,土俵で考えるといい。普通,人は自分の土俵から降りない。だから,人との会話に齟齬が生ずる。同じ土俵を仮に作って,そこで会話しなくては,そのことが共有できる場がない。これについては,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11053863.html
で触れたことがある。恋は,それと似ているが,その土俵が共有になっているかどうかは,実はわからない。あばたもえくぼではないが,まずは,
お互いが同じ土俵に乗っているつもりだけかもしれない。
あるいは,
自分の土俵に相手が乗ってくれている,と相互で勝手に思い込んでいるだけかもしれない。
土俵は同じでも,土俵の意味が,そもそも違っているのかもしれない。
自分が思っている土俵に相手が乗っていると思い込むのは,ほぼ片思いに近い。それを事実と信じ込むというか,事実と誤認するとストーカーになる。このあたり,実は結構微妙なのだと気づく。
不思議だか,相手の土俵に自分が乗っている,という気になることは少ない。相手の土俵に乗るとは,ロジャーズの言う,
相手の準拠枠
であることであり,
エリクソンの言う,
相手の枠組みであること
である。つまり,恋とは,共感性ゼロから始まるというか,そもそも恋とは,共感性とは関係なく,おのれの妄想を肥大化させたものなのかもしれない。妄想が言い過ぎなら,思い込みと言ってもいい。
おのれの思い込みの中に生きている。
いやいやストーカーは他人事ではない。
だから,自分の思いでモノを見ているので,相手が見えているものと違うことに,そもそも気づけない。いや,それが事実だと信じて疑わないのだから,事実を見せられても,それが架空にしか見えない。
恋は,はしか,という。
だから一生に一度しかかからない,あるいはだから歳をとってからの恋は,酷いことになる,とも。まして老耄の恋は。やめておけ,醜いだけだ。どうせ野暮天には縁はないが。
しかし,これは恋というより,人との関わりすべてにおいても通じることだ。
所詮人は,自分の土俵を降りないというか,降りられない。
降りているつもりが一番怖い。
「あたかも」とロジャーズが言った意味が強く響く。そういう自覚が不可欠という思いがある。
これについては,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11314480.html
で書いた。というかかなり重なったか…!。いつも考えていることは似たところへ落ち着くのか。
今日のアイデア;
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#ロジャーズ
#エリクソン
#土俵
#恋
#共感性
2013年10月01日
悲しみ
悲しみという言葉で,瞬間に思い出すのは,中原中也の,
汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる
だが,この詩には,どこかベルレーヌの,というか,堀口大学のベルレーヌの訳詩のにほひがある。
巷に雨の降るごとく
われの心に涙ふる。
かくも心ににじみ入る
この悲しみは何やらん?
このセンチメンタルな悲しみは,悲しみというより愁い,メランコリーというのに近いのではないか。
因みに,「悲」は,「哀」とともに,いわゆる悲しみで,
悲は,喜の反対。痛なり。
哀は,楽の反対。あわれがりて,深く悲しむ。哀悼と用いる。哀は痛みの声に現れるもの。悼は痛みの心に存する。
とある。「悲」(痛み)の声に現れるのを「哀」というとある。
つまり,悲しみは痛みに通ずるらしいのだ。
痛は,身に痛みある如く悲哀を感ずることが切である,
傷は,傷心とは心を破り,損なう如く,強く痛み悲しむ,
悼は,人の死を悲しむ,
隠は,惻隠,心をそこより見ていられぬほどに痛む,
とある。こう見ると,ふたつの詩のメランコリックな悲しみは,悲しみとは異質だということがわかる。そうすると,それは哀愁というときの,「愁」に近いのではないか。
そこでまた漢字を比べてみると,
愁は,物寂しく,浮かぬ状態,
憂は,心のなかに苦労する,
患は,病や災難を苦にする,
憂は,内を主とし,患は,外を主とし,内憂外患と使う。
せいぜい哀愁という感じか。結局言語化するというのは,ある程度丸める,抽象度を上げないと,伝わるレベルにならない。そうなると,微妙な差が消えて行く。悲しみということに含まれる感傷なのか悲哀なのか憂愁なのかは,伝わりにくくなる。
しかしどんな感情も,化学物質が体内に満ちわたり,そして血液からその痕跡が消えるまで,すべてが90秒以内に終わる,という。残るのは気分だ。それは,そういう気分を選択している,ということになる。
それがセンチメンタルであれ,メランコリックであれ,自分がそういう気分に浸ることで,何かを味わっているのか,何かから逃げているのか,何かを避けているのか,ともかく,そうすることを選んでいる。
しかしどうも悲しみは少し違う。もっと深い何かのような気がする。
無疵なこころが何處にある
とか,
もとより希望があるものか
立ち直る筋もあるものか
というランボーの詩句を思い出すと,ふいに,ダイナマイトを巻きつけたジャン・ポール・ベルモンドがあわててダイナマイトの導火線を消そうとする滑稽なというか悲惨なというべきか,シーンが思い浮かぶ。ジャン=リュック・ゴダールの『気狂いピエロ』のラストだ。爆発をずっと引くと,海に沈む太陽が映し出され,
また見付かった,
何が,永遠が,
海と溶け合う太陽が。
というランボーの詩句が被さる。
悲しみは,あるいは無力感と似ている。どうしても自分ではコントロールできないものに押し流される辛さと切なさとがある。ヒトの死も,ヒトの蒙る災害も,しかしそれよりなにより,自分自身の定めについて,どうにもならない巨大な奔流からまぬがれないというような無力感なのではないか。
だから,それは,喜や楽の反対というのも違うような気がする。顔淵の死で,孔子が,
天予(われ)を喪(ほろ)ぼせり
と嘆く痛切さが最も近い。いや,おのれ自身を,
鳳凰至らず,河図(かと)を出ださず,吾巳(や)んぬるかな
と嘆く悲しみの方が深い。おのれに瑞祥はあらわれず,僥倖も望めず,不世出のおのが才を生かす場のないまま,死期に近づく孔子の絶望が,本当の意味で悲しみを表している。
フランソワーズ・サガンの小説『悲しみよこんにちは』は,Bonjour Tristesseだが,その悲しみは,孔子のそれ,ランボーのそれに比べると,単なる憂愁というニュアンスが勝るようにしかみえない。
参考文献;
簡野 道明『字源』(角川書店)
ランボオ『地獄の季節』(小林秀雄訳 岩波文庫)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
今日のアイデア;
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2014年11月02日
二次感情
随分昔,REBT(Rational Emotive Behavior Therapy)を学んだ時の,どこかに残っていたのだと思うが,
二次感情
という言葉が,記憶の底からよみがえった。たぶん,
悲しんでいることに対して,恥ずかしいと感ずる,
というような,悲しみという一次感情に対する,感情的反応のことだと思う。だから,
メタ感情
とも言うと,記憶している。で,ネットを調べたら,
感情とは,何が起きているかということを知らせてくれる身体の中の信号です。起きていることに対する最初の反応は,一次感情 (primary emotion) と呼ばれています。これらは,即座に出てくる強い気持ちのことで,この一次感情に加えて,二次感情 (secondary emotion) を経験する可能性もあります。これは,一次感情に対する感情的反応です。別の言い方をすれば,二次感情とは,自分の気持ちについての気持ちです。
とあった。
REBTでは,
感情の決定因は,認知である,
考え方の変更は,感情を整える
と考える。例の,イラショナル・ビリーフ(認知行動療法では自動思考のゆがみ)である。多く,
~でなければならない
とか
~すべきである
とか
~なのは当然である
と思い込んでいる,という類であるが,こういう思考は,ミルトンモデルではないが,遂行部(主語)が欠落して,不当に一般化され,それがおのれを苦しめる。だから,こうした考え方を,
イラショナル・ビリーフ
と呼び,それは,多く,
自分が自分に言い聞かせている,
だから,この思い込みは,変えられる,といういう考え方であった。
まずは,ある不幸な出来事に遭遇したとき,それに対するものの見方を規定し,感情を引き起こす。感情そのものが悪いわけではない。
悲しみ,後悔,不快,欲求不満
は健康なものとされ,
不安,うつ感情,敵意,自己嫌悪,自己憐憫,
は不健康とされるが,一概には言えまい。落ち込んで,自己嫌悪に陥ること自体が悪いわけではない。その自己嫌悪の拠ってきたる認知が,問われる。
しかしだ,例えば,仕事で失敗したとしよう,で,後悔し,自己嫌悪に陥る,それ自体は別にどうということはない。むしろ,失敗しても,へらへらしているようでは,異常である。しかし,
ひとは,失敗してもすぐ立ち直らなければ,不完全な人間である,
と自分で信じている(あるいは,親による刷り込みの)場合,
そういう自分に怒りを感じるかもしれない。情けない,そんなことで,へこたれて,と。
怒りは,多く二次感情,
と言われる。
僕は,この自己完結した,
認知←感情←二次感情,
という閉鎖した自己対話が,嫌いである。あるいは,そういう対話を暴き立てる所業が嫌いである。所詮,閉鎖した自己完結の世界に過ぎない。それが現実に支障を及ぼすほど,うつ状態になるとか,荒れるとかというのでない限り,そういう自己完結した感情は,わずかの時間しか持続しない。
ジル・ボルト・テイラーは,
「わたしは,反応能力を,『感覚系を通って入ってくるあらゆる刺激に対してどう反応するかを選ぶ能力』と定義します。自発的に引き起こされる(感情を司る)大脳辺縁系のプログラムが存在しますが,このプログラムの一つが誘発されて,化学物質が体内に満ちわたり,そして血液からその痕跡が消えるまで,すべてが90秒以内に終わります。」
と言われる。
たとえば,生理的な反応の怒りは90秒まで,それ以降は,それはそれが機能するよう自分が選択し続けている。つまり,思いの(というよりも思い込みの)偏りで,視野が狭窄しており,怒りつづけなければ,思いの秤のバランスが取れなくなっている,ということだ。
われわれは,視野に入ってくるものを見ているのではなく,知識を,思いを見ている。言ってみれば,見たいものしか見ない。だから,その思いで見えたものは,自分にとっては事実なのだ。だから,自己完結している。
だからこそ思うのだ。ある意味で,
メタ・ポジション
が重要には違いない。自分の,かくかくのイラショナルな考えが,屈辱感を感じさせ,それについて僕は怒っているのだな,と認知することは,確か,神田橋條治さんが話しておられた,家庭内暴力をする高校生に,
君が振るバットに手のどこがどんな具合に力が加わると,どんな力が出せるのか,を観察してくるように,
といったような観察課題を出して,治癒に持って行ったというエピソードにつながるに違いないと。
マザー・テレサの言う,
思考に気をつけなさい,それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい,それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい,それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい,それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい,それはいつか運命になるから。
も,出発点は,思いというか,考えというか,認知なのだ。
認知の歪みは,しかし,自己対話では修正できない。REBTでは,6つの原理というのがあり,(ノートに残ったメモによると)
①感情の決定因,それは認知である
②考え方の不足,それが感情を乱す
③考え方の変更,それが感情を整える
④不合理な思考は,それに先立つ多くの要因が考えられる
⑤しかし多くの場合,自身が自己に言い聞かせていることが原因である
⑥思い込みは変えることが可能である
というものなのだが,そのREBTでも,それを直すには,行動療法を取り入れるしかない。つまり習慣化(学習)するまで,身体に覚えさせるしかない。だとすると,
「分かっちゃいるけど,やめられない」
を,たやすく覆せるかどうかは,なかなか,難しいところがある。僕は,結局のところ,
ひろい知見,つまり,見渡す,
パースペクティブの広さ
が鍵だと信じる。無知や狭い料簡では難しいのである。いやはや,
生涯一書生
とは言い得て妙である。
参考文献;
ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳』(新潮文庫)
REBTベーシックコース・テキスト(2006)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年08月16日
向っ腹
「むかっぱら」は,
向っ腹
とか
向かっ腹
と書く。
むかむかと腹を立てること。
どうしようもなく腹立たしい気分。
やり場のない怒り。
という意味である。語源的には,
「むかばら」の音変,
であるとされるが,手元の『語源辞典』では,
「ムカマカ(擬態語)+パラ(腹が立つ)」
とあるが,どうも首をかしげたくなる。「腹」は,
業腹
とか
腹立つ
とか
腹が煮える
とか
腹に据えかねる
等々だけでなく,
腹を割る
とか
腹を決める,
等々,心や気持ち,あるいは胆力といった意味もある。前にも触れたが,語源的には,
「ハラ(張る)の変化」で,飲食したり退治を宿したりハル(張る)ところという意味,
というのと,いまひとつ,
「ハラ(原)」が語源で,人体の中で広がって広いところ,の意,
という説がある。『大言海』は,
「廣(ヒロ)に通ず。原(ハラ)・平(ヒラ)など,意は同じと云ふ。又張(ハリ)の意」
と,集約している。他の辞典にはないが,『大言海』には,
料簡
の他に,
怒り,立腹
の意味を載せている。語源で言う,「はら」に,「怒り」の意味が含んでいた,とも言える。『古語辞典』で,
心底
意趣,遺恨などを含んでいる,内心
と,載せているのに通じる。
まあ,向かっ腹は,むらむらとくる怒り,である。業腹は,
「業火(激しい)+腹」
で,非常に激しい怒り,
腹の中で業火が燃えるような,ひどくいまいましい,
という意味で,似ているが少し違う。むかむかする,のである。吐き気を同じく,むかむか,というから,似たように,腹の内からこみあげてくる怒りである。ただ,そこに,
いまいましさ,
があるのが業腹である気がする。いまいましいは,
忌忌しい,
で,不潔で,汚らわしい,不遜,といった意味を含めて,
癪に障る,
小癪な,
という思いである。向かっ腹には,それがない。ただ,その理不尽さ,その不合理さに腹が立つのである。現政権のしていることに感じるのは,その,
向かっ腹,
である。怒りは二次感情ということは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/408166432.html
で触れた。向かっ腹も,業腹も,心の中にある価値観と抵触して,
許しがたい,
という感覚から来ているに違いはない。いま,怒りの背後にある,
価値観,
の戦いである。それは,
誰かのためなのか,
誰ものためなのか,
そろそろ利権にまみれた,誰かが得するための政治を踏みつぶさなくては,おのれの血でその付けを払わされることになる。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm