2013年08月29日
意味づけ
ここでは自分の意味づけを考える。自分の価値や重要性を認めて,それを積極的に表現できるところまでがベストかもしれないが,まあ,自分で認めるところまででよしとしよう。
ただ,大前提は,すべての人の人生に意味がある。これも触れた。
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2013-0313.html
どんなありようも,生き方も,ふるまいも,すべてどんな人も,無条件で,掛け値なしに意味がある。本人がそれを受け止めようが受け止めなかろうが,関係なく,すべての人生には,それだけで,そこにいるだけで意味がある。
しかしその上で,自分の意味づけにはいくつかの考え方,やり方があるように思う。どれかが正解ということは,もちろんない。
ひとつは,すごく大上段だが,使命だとか,目的から,
自分が何するためにそこにいるか,
を自分なりに考えて,自分が生きている意味を絞っていくことだ。これは,フランクルのいう,
自分の人生にどう応えていくか,
を考えていくのに似ている。
第二は,自分のポジショニング,自分の役割を考えていく。これを,僕は旗と呼んでいる。
旗については,もう何度も書いた。自分の旗を立てる意味については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11129007.html
で触れたし,そもそも仕事で,「旗」を立てるについては,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11011724.html
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10966920.html
で触れた。で,自分の旗についても,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11156432.html
であらましは触れた。当然,結果として,
自分は何をするためにそこにいるか,
の答えを見つけていくことになる。ただ,アプローチは,自分の周囲,家族,友達,組織の同僚等々,人との関係の中で,周囲からの(役割)期待を受け止めるところから,あるいは,周囲のフィードバックを受け止めるところから,自分の位置関係を見つける,ポジショニング,居場所を決めていく。そこに自分のいる意味をみつけていく。
第三は,自分自身の中の,したいこと,なりたいこと,ありたいことから自分の意味を見つけていく。下世話に言えば,趣味や興味,関心だ。目的から自分のところへブレークダウンするのも,使命から自分の役割にブレークダウンするのも,周囲の期待やフィードバックから自分の位置をみつけていくというのも,まあ他律的といえば他律的だ。外因的と言えば外因的だ。それに比べれば,内発的というか,内因的だ。
第四は,いまできているところ,今やっているところ,いまいるところに,意味づけることだ。自分に出来ていて当たり前のことが,人にとって当たり前とは限らない。しかし,この自己認知を促すのは,人のフィードバックが必要かもしれない。
そう考えると,意味づけには,
自分を受け入れる,
という自己受容が必要かもしれない。
ただ僕の経験では,人は自分を受け入れるより前に,そういう自分として生きざるを得ない。そういう自分をありのままに認める前に,それを背負って生きている。
この自分自身を現実に投げ出すこと
で,生きていく。その意味で,受容は後からくる。
まず動く。現実の中で動く。その一瞬一瞬のなかで,自分を表現することになる。否応なく,関係性の中に,自分が織り込まれ,そこで,居場所ができる。それが生きていくことだ。受容は,その確認としてやってくる。
清水博さんが,『コペルニクスの鏡』で書いていた,「生きている」ことと「生きていく」ことの差だ。これも,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11189806.html
で触れた。つまり,いのちは一人では生きられない,生きる場所なしでは生きられない。「いのちの居場所」という。
いのちの居場所とは何か。清水さんは,サッカーの例を挙げている。
サッカーの選手たちが,サッカー場という居場所に自分で自分の役割を位置づけることができるようになると,はじめて立派にチームプレーをすることができる。これと同じように,いきものも自分なりの役割を自分で〈いのち〉の居場所に位置づけることができて,はじめて〈いのちの〉与贈循環をうまく実行できる。
場に位置づけられていることが存在existenceを獲得しているという事であり,これと活(はたら)きや意味に結びつかない物理的存在presenceとは違う。その意味で,
自分の生きる場所は何処か?
自分の居場所は何処か?
そこで自分のポジショニングを計りながら,自分は何をするためにそこにいるのかの答えを出すことが,「生きていく」ことなのではないか。
とすると,意味づけは,一生かかって,つけていくことになる。その意味では,自分の居場所を「生きていく」ことが,そのまま意味づけなのではないか。
参考文献;
清水博『コペルニクスの鏡』(平凡社)
清水博『場の思想』(東京大学出版会)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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