2012年11月06日

PC移設の理不尽~PC体験史


ホームページをFront pageで作成してきたが,2003の後マイクロソフトが提供をやめてしまい,それがXPを買い替えるのをためらわせてきた大きな理由であった。ところが,ついにWindows8がでるというのであわてた。問い合わすと,7では対応する,という。そこであわてて7を購入した。しかしわたしのような,パソコンに詳しくない人間にとっては,買い替えをためらわせる理由が,もうひとつある。それはパソコンのデータの移設だ。

遠い昔,FM7という,いま考えるとおもちゃのようなパソコンを買ったのが始まりだが,そのプリンターの精度に不満で,ワープロ専用機の買い替え,その書院を4~5世代買い替えて(最後の書院,たぶん商品としても,はまだ持っている),98が出発点だ。仕事先がIT企業で,では連絡はメールで,と言われてあわてて,シャープのメビウスを買った。それがまたよくフリーズする。何十ページも書き上げた瞬間フリーズし,パーにしたことは何度もあった。ついに腹を立てて,壊れたテレビをたたく要領でやったら,本当にデッドしてしまい。あわててソニーのVAIOを買わざるを得なくなった。仕事のデータもホームページのデータもすべてが消えてなくなり,仕事のは,ワープロから移設して,何とかカバー。ホームページはゼロから作り直した。そこでデータを外部保存することを学んだ。それが5~6年。いま考えれば,なんということもない。それをXPに移設する時が地獄だった。いろいろ試みて,メールはゼロからになったが,後は外部へ移して,XPに取り込むことで何とかカバーした。その間の無駄な悪戦苦闘が,買い替えをためらわせた。まったく無駄そのものの時間なのだ。

いってみれば,素人だからだが,パソコンは素人に売っているのではないのか。95,98,2000,XP,VISTSA,7と,買い替えを前提に発売し続けたのではないのか。にもかかわらず,7でも,移設についてはほとんど,素人のサポートを,そもそも設計思想として組み込んでいない。つまり,前に使っていたパソコンとパソコン環境を移設することを前提に考えているとは思えないということだ。そうすると,新製品開発の足を引っ張る,発想が制約される,等々の声が聞こえる。それが製品を出した人間の責任だ,などといっても一笑されるだけなのかもしれない。所詮素人だ,と。

しかし「素人だ」「素人にわかるか」というのは,一般市場に商品を出す人間が,絶対口にしてはいけない禁句のはずだ。だって,素人相手に商品を出しているのだから。それかあらぬか,どうも最近のWindowsは,多機能化,別名ガラパゴス化に陥りつつある気がする。サービスを機能追加でフォローし始めたら,発想の行きづまりだからだ。機能を追加しないで,同じ機能をどう働かせるか,を考えるのが発想だからだ。機能追加は発想ではない。ワードもメールもどんどん使い勝手が悪くなっている。別の言い方をすると,自由度がなくなっている。客か自由に使える環境を設定するのが,基本ではないか。アップルのiシリーズはその典型だ。

いやいや,話がそれた。で,ともかく7を購入し,店員に相談して,引っ越しソフト(データ引っ越し9+という)も購入した。そして,まずネットをつなぎ,Front page2003ではなく,もっているのがバージョンアップ版なので,その前の2000を入れて,それから2003をインストールした。そこまでは完璧。ところが,肝心の引っ越しソフトをつなぎ,作業しようとすると,まず,セキュリティソフトを終了させろ,動いているソフトを止めろという。しかし何がバックで動いているか素人がわかるか,とまず腹を立てた。しかもセキュリティソフトの無効化を,指示通りにしようとすると,暗証番号を問いかけてくる。何年も継続ダウンロードできているので,そんなものわからない。えいやっと思い切り,勝手に移設作業を始めることにした(ここが,素人なのか?)。付属のケーブルをつなぎ,作業を開始する。

途中までは順調。新しいパソコンとインストールプログラムをUSBメモリーで保存し,古いパソコンにインストールする。そして終わったら,タスクトレイでUSBメモリーを無効化してください,とある。これがわからない。そのままだとUSBメモリーが「パソコンデータ引っ越し云々」のタイトルになっている。で,わからないので,やみくも設定を変更するをいじっていたら,わけもわからず,元へ戻った。

ところが肝心の移設は,新しいパソコンへ移動させる段階で,待てど暮らせど応答がない。「数分かかる場合があります」どころか数十分たってもそのまま。で,もう一度やり直したが同じ。せっかちのせいで,何時間も待てばよかったのか,とも思うが,待機時間も出ないので,止まってしまった,セキュリティをとめなかったせいか,と諦めて移設ソフトによる引っ越しを放棄した。ところが,そのソフトをアンインストールしても,内蔵ハードディスクの(D)に,例の「パソコンデータ引っ越し云々」のタイトルがついたまま,今度は設定変更をいじっても,タイトルを変えても,元へもどらない。USBメモリーのようにはいかなかった。使用上は支障がないので,そのままにすることにした。

結局個別に,ホームページのデータは外部のバックアップから,メールのアドレス帳も,メッセージもともかく全部ではないが,移した。結局移設ソフトでやりたかったのは,個別の手間暇をかけたくなかったからだが,かえって,時間を食ってしまった。

メールバックアップでは,あのライブドアの,「PRO-G E-mail Backup」というのが超がつく簡単さで,まさに素人に使えるものだったが,いまはどこにもない。XP対応だけかしいのだが,移設がうまくいかないとわかって,このソフトを探した。結局なかったので,インポート,エクスポートでやったのだが,これが,まったく手探り,えいや,でやったら,そのままにするつもりのメッセージをエクスポートしてしまい,大慌て,四苦八苦して,新しいパソコンにインポートしたが,まったく違う様相なので,ただ移設したにとどまる。

結論は,結局移設ソフトは,自分には使えなかった。徹頭徹尾説明書通りに手順を踏めば,あるいはできたかもしれない。多くの人はできるのだろう。しかし素人には地雷が多すぎ,耐えきれない。自動でファイアウォールを止めたり,セキュリティソフトを止めていくのでなければ,耐えきれないだろうというのが結論だ。本来は,Windowsそのものが,そういう移設を想定した設計思想に立っていなくてはならないのだ。それがおざなりにしか考えられていない。

最後に,新しいパソコンで起きた不思議。ホームページをアップしたのに,一向新しいホームページにならない。古いパソコンで見ると,きちんと変わっている。で,ためしにグーグルを呼び出して,そこからアクセスすると,変わっている。ヤフーやMSN(強制的ではないだろうが,このパソコンではグーグルに設定しようとしたら拒絶された。いつのまにか,MSNが初期画面にされている。)からでは,アップ結果が反映されない。これも不思議。いままではずっとVAIOだったのを,立ち上がりが早いというので,NECにした。気づいたら,メモリーカードがSDしか使えず,デジカメのメモリースティックが使えない。VAIOなら,両方あるのに。




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



#パソコン
#データ移設
#マイクロソフト
#フロントページ
#Windows
#VAIO

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2013年11月06日

ウォーキング



ウォーキングの自分のペースがつかめているときは,一種自分なりのリズム感があり,どうやらピタリと思考のテンポとシンクロすることがある。そういう時に限って,浮かんだアイデアをメモするものがなくて,焦った記憶がある。忘れてしまったアイデアが大魚だったように思えて,悔しかったことがある。

いっときジョギングにはまっていたことがあるが,その時は,そういうことはほとんど起きなかった。たぶん,人によると思うが,僕には,思考や発想のリズムとシンクロナイズすることがなかったのだろう。

発想で行き詰まった時,距離を取ることがいいとされる。いってみると,メタ・ポジションを取る,ということなのだが,それには,

時間的,

空間的,

の両方があるとされるが,その意味では,ジョギングもウォーキングも日常の自分から距離を取っていることに変わりはないから,たぶん残るのはリズムというかテンポなのかと思う。

ただ自分が初心者だったせいもあるが,ジョギングの場合,いろいろなことを考える余裕というものがなく,たぶん,メタの位置に自分を置けず,言ってみると即自的にただひたすら走る自分に密着していた,というかそれ以外のゆとりがなかった,というだけかもしれない。

それに比べてウォーキングは,ある意味ゆったりと周囲を見ながら,歩いていて,いわば,自分に対してもメタ・ポジションをとれているのかもしれない。

自分のからだの動き,心の動き,感情の動きに対してメタ・ポジションを取れていれば,自分の発想もチェックできる。

しかし,だ。何かを一生懸命考えている時ではなく,ただ黙々と歩くことに専念している時に,不意に,前日の思考の流れとつながって,ふと,あらたな着眼に気づくということの方が多い気がする。

なかなか一筋縄ではいかない。

生体のリズムというものがある。歩き方にも,人独自のそれがある。

ただ,僕の妄想では,自分のリズムに即して,即自的に歩いているときは,確かに気持ちはいいが,出ることは出ても,大した発想は出ない。

しかし,それと微妙にずれている,どういったらいいか,歩行のテンポが,生体のそれとずれている時の方が,発想が出やすいという気がしている。

それもメタ・ポジションなのだというと,身も蓋もないが。

ずれている時に,不意に前日のことを思い出すと,あるいは意識的にでもいいが,発想が動き始めることがある。もちろん,発想は,

おのれの知識と経験の函数

だから,おのれの中にないものは生まれない。しかし,発想した瞬間の,意外感は,意外なものとリンクすることから生ずる。

それは視点が変わると言ってもいいが,リフレーミングと言ってもいい。

そのために,準備期間がいるという言い方が出来なくもないが,そうは言いたくない。そのときは,そのこととつながるとは思わなかった,気づかなかったから,トンネルビジョンに陥っていた,しかし,別の切り口で見ると,全く様相が変わる。

そうだったのか,

とはそういうときに感じる。

じゃあ,そういう距離の取り方を,意識的にしたらどうなるのか,

それがいわゆる発想法ということになるが。僕の勉強した範囲では,ほとんど役に立たなかった。結局,発想は,その人の生理だから,技法と言いつつ,自分の生理をメタ整理しているだけと言ってもいい。

オズボーンのチェックリストでさえ,オズボーンの生理を感じる。

他に利用できないか,

が最初に来るところに,それを感じる。次が,

他からアイデアが借りられないか,

これは,生理というより癖というに近いか。どのみち,そういうことだ。ならば,

自分の癖を強化する方向か,

自分の癖の弱点を強化する方向か,

自分流の発想法を考える鍵は,そこにしかない。といって,

頭に中にないものは使えない。

せいぜい,ひとつかふたつ,だろう。僕は,





目的(と手段=目標)

をキーにしているが,これも,いまの自分の生理にあっているだけだ。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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#ジョギング
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#オズボーン
#オズボーンのチェックリスト
#アイデア
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#テンポ
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#リフレーミング
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#対
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2013年12月03日

アイデア



前にも書いたが,発想力とは,

選択肢

がたくさん出せることだと思っている。アイデアは,その出現形態の一つに過ぎない。

ずいぶん昔,アイデアについて,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod02100.htm

と構造化したことがある。

アイデア一杯の人は決して深刻にならない,

と言った人がいる。その通りだ。これっきゃないと,思い詰めるから,自殺にまで追い詰められる。それ以外にも一杯選択肢があると思えば,どうということはない。

人はひらめいた瞬間,脳の広い範囲が活性化するという。それは,思いもかけないこととつながるからではないか。とすれば,選択肢を広げるためには,いろんなものとつながるような仕掛けをすればいい。

その意味では,自己完結しないで,

ブレインストーミング

のように,人とのキャッチボールをすることが有効なのは,当たり前だ。人が,自分にとってメタ・ポジションになるという意味もあるが,自分にとって,「地」になっていた部分が,人とのキャッチボールによって,思いがけず「図」に変わり,見慣れた風景が変わるように,見え方が変わるのに違いない。

もちろん,発想は,

自分の知識と経験の函数,

だから,自分の中にないことは,出現しない。しかし,大したことがないと思っていたことが,改めて,別のものとつながることで,意味を変えるかもしれない。

その意味で,

本来バラバラで異質なものを意味あるように結びつける,

のを創造性と言った,川喜多二郎の言は正しい。しかし,もっと踏み込むと,

どんなものでもつなげることで新しい意味づけをしさえすればいい,

あるいは,

新しい意味が見つけられるなら何と何を結びつけてもいい,

と読み替えてもいい。となると,

結びつけ,

に意味があるのではなく,

意味づけ,

の方にウエイトがかかる。ヴァン・ファンジェなどが言うように,創造とは,

既存の要素の新しい組み合わせ,

というのは,逆で,

既存の要素,

は結果なのであって,

新しい組み合わせ,

の「新しい意味」に意味がある。それは,

いままで考えられなかったような意味を見つけ出すことがあって,初めて,要素のつながりに意味が見えてくる。

そう考えると,多機能と組み合わせとは本質的に違う,ということが言える。

多機能は,いまあるものに機能を追加したのだから,新しい組み合わせも新しい意味も,そこにはない。

例えば,携帯電話に,カメラがついたのは,

多機能,

なのか,

新しい組み合わせ,

なのか。その人の創造性というものの考えが試されている試金石というか,踏み絵になる。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#川喜多二郎
#ヴァン・ファンジェ
#創造性
#アイデア
#発想力
#選択肢
#組み合わせ
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2013年12月18日

視野



おのれの視界は,自分ではその広さ,狭さには,気づかない。自分の視点も,自分では気づけない。視点に気づくには,メタポジションがなければ,気づけない。視覚は,見えているものについては気づけても,それが,上からなのか,横からなのかという視点には,気づけない。気づいているとすると,おのれのイマジネーションによって,無意識にメタ化しているにすぎない,と思う。あるいは経験から,推測しているにすぎない。

意識していないが,人は特有の自分の見方を持っている。それは価値観であったり,生まれつきの見る位置であったり,こだわりであったり,暗黙の前提であったり,慣れであったり,なんとなく制約を考慮していたり,気づかず固定した位置でみている。しかし,その自分の癖というか,特性については,メタ化しなければ気づけない。

メタ化して,それを自分でチェックすることで,それに気づけるし,逆にいえば,それを意識できれば,変えることもできる。見方だけは,意識しないと変えられない。特定の見方をとっていることを気づかない限り,変えることはできない。

上から見ていると,気づいて初めて,それ以外の視点があることに気づける。

いってみれば,見方を「変える」ためには,それを意識してみる必要がある。

例えば,「価値を変える」には,「~と見た」とき,「いま自分は,どういう価値観・感情から見たのか」と振り返ってみることでしか気づけない。

そのときの,善悪なのか美醜なのか喜怒なのかを意識して初めて,それ以外の価値観で見たらどうなるか,に意識が向く。無意識でしていた見方を意識し,「では,別の見方ならどうなるか」と,改めて別の見方を取ることができる。

見え方を変えるのは,ある意味,見る位置の移動である。

大きくなるとは見る位置を近づけること,
小さくなるとは遠ざけること,
逆にするとはひっくり返すこと,あるいは自分が逆立ちすること,

等々に違いない。

我々のイマジネーションは,(頭の中で)位置を自在に回転できる。位置を動かせるわれわれの想像力を駆使して,見えているものを変えてみることで,見え方を変えられる。

見え方を変えることで,いままでの自分の見方が動くはずである。

見えているものが動かせるなら,その動いた見え方によって,こちらの見方が影響を受ける。だから,みえているものを,分解したり,くっつけたり,束ねたり,回転させたり,によって,見方を動かすることができる。

しかしそれをするためには,(モニターで3D画面を操作するのでないかぎり)対象を見ている自分の位置を動かさない限り,気づきにくい,というかたぶん気づけない。それが可能にするのは,メタ化という言い方をしたが,言い換えると,

「見ている自分を見る」こと

によってである。

それは,見る自分を突き放して,ものと自分の間で固着した視点を相対化することだ。そうすることで,他の視点があることには気づける。それは,自分自身を含め,自分の見方,考え方,感じ方,経験,知識・スキル等々をも対象化することも含まれる。

それを,僕は,

「見る」を見る

と呼んでいる。「見る」を意識しない限り,何を見ているかはわかるが,どう「見(てい)る」か,どこから「見(てい)る」か,見る自分自身は気づけないからだ。見ているものと,見ている自分,を見る自分を対象化することで,全体が見える。

ちょうど,コーチングでいう,

レベル1(自分に矢印)
レベル2(相手に矢印)
レベル3(両者に矢印)

という意識の向け方と同じことだ。

対象化するためには,いったん立ち止まって,自分を,自分の位置を,自分のしていることを,自分のやり方を振り返らなくてはならない。たとえば,

言葉にする,

図解する,

録音する,

録画する,

というのもその方法のひとつになる。

たとえば,どつぼにはまって,トンネルビジョンに陥っているとき,その真っ最中は,視野狭窄の自分には気づけない。自分がトンネルに入り込んでいること自体を気づかない。それに気づけるのは,その自分を別の視点から,見ることができたときだ。

岡潔は,

タテヨコナナメ十文字,考えて考えて,それでもだめなら寝てしまえ,

といったようなことを言っていた。

それは,どつぼにはまっている状態も同じことだ。寝ることで,一旦,その事態および,その事態にはまっている自分から距離を置くことができる(もっとも寝るには,情報の整理期間を置くという脳の効果もあるのだろうが…)。

探し物をしているときは,それに似ている。同じ場所を何度もひっくり返す。しかし,その状態でいくら探し続けても,発見はない。その事態自体から,自分を引きはがすしかない。それには,

距離を取ること,

に尽きる。距離には,

時間的,

空間的,

とがある。一旦,部屋を出てしまうことだ。あるいは,時間を置いて再度探すことだ。

こうした距離の取り方は,他にもある。

他人に仮託してみる,

というのもあるが,あえて,自分の視点(視野狭窄に陥っている)を捨てて,意識的に,別の視点を取れる,あるいは取る状況を作ることだ。

「見る」を見る,

のバージョンに変わりはない。

あるところで,こういう言い方をされた。

われわれは,「問題」はわかっている,しかしその問題の解き方がわからない,

のだ,と。だから発想スキルが必要なのだ,と。

しかし,だ。そこまでやって解けないなら,問題の設定の仕方そのものが間違っている,と考えた方がいいのではないか。視野狭窄,違う言い方をすると,視野が限られている。

あるいは,こう言ってもいい。

問題との距離の取り方が間違っているのではないか,

と。そう考えると,そういう距離の取り方,というか逆にいえば,視界の決め方(限り方)を整理してみると,たとえば,こういうふうに四つにわけてみることができる。それぞれは,問いの立て方を変えることで,視野をメタ化できる。

1.「問い」(問題)の設定を変える その「問い」(問題)の立て方がものを見えにくくしているのではないか

●問いの立て方を変える 問題そのものを設定し直す,別の問いはないか,問題そのものが間違っていないか,新たな疑問はないか,見逃した疑問はないか
●目的を変える 別の意味に変える,別の意義はないか,別の目的にする,意味づけを変える,意図を変える
●制約をゼロにする 時間と金を無制限にする,別の制約に変える,人の制約を無視する
●根拠を見直す その前提は正しいか,前提を見直す,前提を捨てる,こだわりを捨てる,価値を見直す,大切としてきたことを見直す

2.視点(位置)を変える-その視点(立脚点)が見え方を制約しているのではないか

●位置(立場)を変える 立場を変える,他人の視点・子供の視点・外国人の視点・過去からの視点・未来からの視点になってみる,機能を変える,一体になる・分離する,目のつけどころを変える,情報を変える等々
●見かけ(外観)を変える 形・大きさ・構造・性質を変える,状態・あり方を変える,動きを変える,順序・配置を変える,仕組みを変える,関係・リンクを変える,似たものに変える,現れ方・消え方を変える等々
●意味(価値)を変える まとめる(一般化する),具体化する,言い替える,対比する別,価値を逆転する,区切りを変える,連想する,喩える,感情を変える等々
●条件(状況)を変える 理由・目的を変える,目標・主題を変える,対象を変える,主体を変える,場所を変える,時(代)を変える,手順を変える,水準を変える,前提を変える,未来から見る,過去から見る等々

3.枠組み(窓枠)を変える-その視界が見える世界を限定していのではないか

●全体像から見直す 全体像を変える 広がりを変える,別の世界のなかに置き直す,位置づけ直す
●設計変更する 出発点を変える,ゴールを変える,要員を変える,仕様を変える,組成を変える
●準拠を変える 別の準拠枠を設定してみる,よりどころを見直す,前提を変える,制約を消す(変える)
●リセットする すべてをやり直す,リソースを見直す,ゼロにする,チャラにする,なかったことにする

4.やり方(方法)を変える-その経験とノウハウ(経験のメタ化)が方法を狭めているのではないか

●本当に可能性は残っていないか まだやれるというには何が必要か,何があれば可能になるか,どういうやり方ができれば可能になるか,何がわかれば可能になるか,
●まだやり残していることはないか 他にやっていないことはないか,まだ試していないことはないか,まだやって見たいことはないか,ばかげていると捨てたことはないか,限界を決めつけていないか,
●プロセスを変える まだたどりなおしていないことはないか,別の選択肢はないか,分岐点の見逃しはないか,捨てていいプロセスはないか,経過を無視する,逆にたどる,資源の再点検,見落としはないか
●手段を変える 試していないことはないか,異業種で使えるものはないか,捨てた手段に再チャレンジする


自分の対象との距離の取り方は,違う言い方をすると,個性と言ってもいい。

ならば,その千差万別を生かすのは,自己完結しないで,人とキャッチボールしてみるのが一番なのかもしれない。それ自体が,メタ化になっているのだから…。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#「見る」を見る
#メタ化
#岡潔
#視点
#トンネルビジョン
#距離
#図解
#言語化
#メタ・ポジション
#ブレインストーミング
posted by Toshi at 05:42| Comment(0) | 発想 | 更新情報をチェックする

2014年02月09日

寝る


世の中に
寝るほど楽はなかりけり
浮世の馬鹿は
起きて働く,

という三年寝太郎に由来するらしいセリフが,僕は好きなのだが,あるいは,

起きて半畳,寝て一畳,

というのも,足るを知る,というニュアンスで,結構気に入っている。あるいは,

胡蝶の夢,

もいい。昔,荘子が蝶になった夢を見た。夢の中で自分が人間であることを忘れ,楽しく飛び回った。 夢からさめ,自分が人間であることに気がつき,夢の中のことを思い出してみると, 荘子自身が蝶になったのか,それとも,蝶が荘子になったのか,よくわからなくなってしまった。 という。あるいは,

邯鄲の夢,

というのもあった。昔,邯鄲の 茶店で,盧生という貧しい青年が,富が思うようになるというふしぎな枕を借りて寝たところ,自分が出世して豊かな富を得, 50年余りの幸せな人生を終える。ところが,目をさましてみると,眠る前に茶店の主人が炊きかけていた大粟が まだ煮え終わらないほど短い時間だったという。

しかし,もう少し現実的なことを言うと,

寝ることの効果は,

(自分との,人との,事柄との,出来事との)距離を取ることだと思う。

たとえば,どつぼにはまって,トンネルビジョンに陥っているとき,視野狭窄の自分には気づけない。自分がトンネルに入り込んでいること自体を気づかない。それに気づけるのは,その自分を別の視点から,見ることができたときだ。そのために一番いい方法は,あえて,距離を取ることだ。それには,

時間的な距離化

空間的な距離化

の二つがある。寝るのは,まさに,この二つにあてはまる。岡潔が,

タテヨコナナメ十文字,考えてか考え詰めて,それでもだめなら寝てしまえ,

といった趣旨のことを言ったが,まさにその通り,寝ている間に,はまっていた視野狭窄を客観化する視点を手に入れて,起きたとき,

そうか,

と気づくことも,ままある。よく,アイデアを考えるときの,

三上,

つまり厠上,馬上,枕上,というが,いずれも,ちょっとした視点の移動を伴う,というのが共通している。僕は,これを,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11393394.html

でも書いたが,「見る」を見る,と呼んでいる。

いわば,ものの考え方や見え方を変えるというのは,見る位置を移動することである。

大きくなるとは見る位置を近づけること,
小さくなるとは遠ざけること,
逆にするとはひっくり返すこと,

だ。位置を動かせるわれわれの想像力を駆使して,見えているものを変えてみることで,見え方を変える。見え方を変えることで,いままでの自分の見方が動くはずである

しかしそれをするためには,対象を見ている自分の位置にいる限り,それに気づきにくい。それが可能になるのは,見ている自分を見ること(を意識的にすること)によってである。

つまり,見る自分を対象化して,ものと自分に固着した視点を相対化することだ。そうしなければ,他の視点があることには気づきにくい。

それを意識的にすることももちろん可能だが,

寝る,

のは,自然とそういう位置を自分の中につくり出すような気がしている。ここからは,妄想に類するが,人は,見ているうちに,体験したことを記憶し直す,というか,整理する。その操作自体が,

俯瞰する,

立ち位置をもたらすことになる。

さて,まあ,桃源郷の夢でも,見ることにするか。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




#邯鄲の夢
#胡蝶の夢
#三上
#厠上
#枕上
#馬上
#岡潔

posted by Toshi at 06:53| Comment(2) | 発想 | 更新情報をチェックする

2014年05月07日

能力


能力は,前にも何度も触れたが,独断と偏見によるけれども,

知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする),

である,と考えている。これに,

気力(がんばる)

体力(やれる)

努力(つづける)

を加えてもいいが,大した影響はない。大事なのは,発想だっと思っている。

何とかしなければならないレベルの,いままでの知識と経験では解けないことに,立ち向かって初めて,自分が,

何を知らないのか,

何ができないのか,

に気づく。それが第一。第二に,そこで初めて,自分の頭で(知識と経験は受け取ったものだ),

どうしたら解けるかを考える。

発想を経ない経験は,結局,

出来る範囲でやる,

か,

出来ないことに目を背ける,

ことでしか,クリアできない。それは,能力のキャパを増大するチャンスをみすみす潰すことになる。

発想といっても,持っている,

知識と経験の函数,

だから,マジックのようなことができるわけではない。しかし,持っている知識の組み合わせやつなぎ方を変えるだけで,新しいアイデアやモノの見方に気づけることが多い(もちろん,自分にとって)。

ひらめく瞬間に,

脳内の広範囲が活性化する,

と言われる。それは,いままでのリンクとは全く別のつながり方によって,自分にとっての,

アッハ体験

ができる,と言うことだ。そういう経験を積み重ねることが,考える,自分の頭で考えるということだと,僕は思っている。

それを別の言い方をすると,

編集,

という作業になる。情報も知識も,編集することで,様相を変える。例えば,前にも挙げたことがあるが,映画のモンタージュ手法を例にとってみる。

「一秒間に二四コマ」の映画フィルムは,それ自体は静止している一コマ毎の画像に,人間や物体が分解されたものである。この一コマ一コマのフィルムの断片群には,クローズアップ(大写し),ロングショット(遠写),バスト(半身),フル(全身)等々,ショットもサイズも異にした画像が写されている。それぞれの画像は,一眼レフのネガフィルムと同様,部分的・非連続的である。ひとつひとつの画像は,その対象をどう分析しどうとらえようとしたかという,監督のものの見方を表している。それらを構成し直す(モンタージュ)のが映画の編集である。つなぎ変え,並べ換えることによって,画像が新しい見え方をもたらすことになる。

たとえば,陳腐な例だが,

たとえば,男女の会話の場面で,男の怒鳴っているカットにつなげて,女性のうなだれているカットを接続すると,一カットずつの意味とは別に男に怒鳴られている女性というシーンになる。しかし,この両者のつなぎ方を変え,仏壇のカットを間に入れると,怒鳴っている男は想い出のシーンに変わり,それを思い出しているのが女性というシーンに変わってしまう。あるいはアップした男の怒った表情に,しおたれた花のカットを挿入すれば,うなだれている女性をそう受け止めている男の心象というふうに変わる。その後に薄ら笑いを浮かべた女性のアップをつなげれば,男の思い込みとは食い違った現実を際立たせることになる,

等々。

アイデアも,編集という意味では,似てると言える。たとえば,創造性についての代表的な定義は,E・ヴァン・ファンジェの,

①創造者とは,既存の要素から,彼にとっては新しい組み合わせを達成する人である,
②創造とは,この新しい組み合わせである,
③創造するとは,既存の要素を新しく組み合わせることにすぎない,

である。要するに,既存の要素(見慣れたもの)から新しい組み合わせ(見慣れないもの)を創り出すことである
であるが,川喜田二郎は,わかりやすく,

本来ばらばらで異質なものを意味あるようにむすびつけ,秩序づける(新しい意味があるように組み合わせる)

ことである,

と定義している。

いずれも,言い換えれば,異質な組み合わせによって,知っているもの(見慣れたもの)を知らないもの(見慣れぬもの)にすることである。あるいは,新しい意味づけを見つけることである。

この「組み合わせ」を,アーサー・ケストラーは,

互に矛盾する二つの見地(モノの見方)に,常識的にはとうてい均衡がとれそうもないないところで「不安定な平衡状態」を見つけることだ,

と言う。つまりは,単なる寄せ集めではなく,常識的には接合点の見つけられない「異質」なものに「交錯点」を見つけ出すのである。そこにつながりを見つけることなのである。

発想を別の言い方をすると,

選択肢,

である。さらに突っ込むと,

(できるだけ)沢山の選択肢が出せる,

ということになるのではないか。当然,組み合わせの選択肢は,自己完結では限界がある。人とのキャッチボールによる,異質な選択肢を加味することが,不可欠となる。

どこまでも,コミュニケーション抜きで能力は広がらないようにできている。

参考文献;
E・ヴァン・ファンジェ『創造性の開発』(岩波書店)
瓜生忠夫『新版モンタージュ考』(時事通信社)





今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2014年05月15日

アイデア


もう二十年以上,1日1アイデアを続けている。実に下らない思いつきばかりだが,そのくだらなさが,なにごとも当たり前にしない目につながると信じている。

数年前までは,1日2アイデアであったが,とうとう音をあげて,1日1アイデアに,ハードルを下げた。当初は,忸怩たるものがあったが,いまは,1日1アイデアでも,悪戦苦闘している。

アイデアについては何回か書いた,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163006.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163520.html

が,基本的には,アイデアづくりの構造は,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod02100.htm

と考えている。基本的には,何度も触れたことがあるが,

本来バラバラで異質なものを意味あるように結びつける,

のを創造性と言った川喜多二郎の言は正しい。しかし,もっと踏み込むと,

どんなものでもつなげることで新しい意味づけをしさえすればいい,

あるいは,

新しい意味が見つけられるなら何と何を結びつけてもいい,

と読み替えてもいい。となると,

結びつけ,

に意味があるのではなく,

意味づけ,

の方にウエイトがかかる。本来バラバラの物を意味あるようにつなげること,と。これは,

情報の編集,

である。それは,ひらめきの,脳の反応に似ている。ひらめいた瞬間,

脳の広範囲が活性化する,

つまり,いつもとは別のものとつながり,意味に気づく。言い換えると,

いろんなものとリンクさせる力

である。これを僕は,脳の筋力と呼ぶ。

脚力も膂力も腕力も,日々鍛えなくてはすぐに衰えていく。それと同じで,

脳の筋力,

も,日々鍛えなくては,ありきたりの,当たり前に見てしまう。アイデアは,

当たり前と見ない,

ことからしか始まらない。例えば,コンビニが込む。当たり前か?切符の販売機に並ぶ。当たり前か?天気が急変する。当たり前か?アホな政治家が,おのれの思想信条を国是にしようとしている。当たり前か?名字が選べない。当たり前か?

当たり前とすれば,何も問題視しないということだ。いまのまま甘受するということだ。

それは,何も考えないのと同じだ。アイデアは,いまの当たり前をどう崩すか,どう変えるか,どうしたら自分たちのためになるようにするか,を考えることだ。

その意味で,筋力を鍛えることは,生き残る力を,蓄えることだ。アウシュビッツで生き残ったのは,

未来に自分がいる意味を見つけた人たちだ,

フランクルは言う。

(ニーチェの格言)「なぜ生きるかを知っている者は,どのように生きることにも耐える」
したがって被収容者には,彼らがいきる「なぜ」を,生きる目的を,ことあるこどに意識させ,現在のありようの悲惨な「どのように」に,つまり収容所生活のおぞましさに精神的に耐え,抵抗できるようにしてやらなければならない。

生きることへの期待から,生きていることが自分たちに期待し,何をなさせようとしているかへ,180℃変えさせた,そこに自分の未来を見つけること,それが生きている意味だと,フランクルは言っているのだが,

自分が生きていることに意味を見つけたものにとって,どう生きるかは,どんな苦難の中でもどうやって生き延びるかを考えることでもあった。それが,

創造性,

に他ならない。

それは,いまのありようを,甘受せず,何としても生き残ろうとする,執念だ,

それを支えるのが,アイデアに他ならない。それは,人を出し抜くことでも,人を陥れることでもない。

フランクルの『夜と霧』で読み取った,勝手な教訓は,

創造性,

こそが生き残る鍵だということだ。どうすれば,

生き延びる創意と工夫を考え出すか,

それは,創造性というか,アイデアの,原基だと,つくづく思う。

発想力については,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view06.htm

かつてこう考えた。基本は今も変わらない。

参考文献;
V・E・フランクル『夜と霧 新版』(みすず書房)




今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
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2014年06月19日

どつぼ


どつぼ,

土壺ともかく。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163587.html

で触れたが,どつぼは,

深く落ち込んだ状態や最悪な状況を意味し,そういった状況になるという意味の「どつぼに嵌まる(はまる)」といった形で使われることが多い。どつぼはもともと関西エリアで肥溜め(肥溜めは野にあることから野壷ともいい,それが音的に崩れたものか?)のことをいうが,一般には1970年代末辺りからよく使われるようになる,

と説明される。僕のイメージでは,探し物をしている状態がそれに近い。

あったはず,というかあると思ったところになかったりすると,あとは,どこにあるかわからない。外で忘れたり落とした感覚はなく,間違いなく部屋の中にあるはずなのに,どこを探しても見つからない。だから,一度探した鞄を,再度洗いざらい探す羽目になる。そういうときは,同じところを,何度も何度も探す。要は,

堂々巡りに陥っている,

のである。それが,である。探し物だけではないかもしれないが,諦めて,出かけて帰宅すると,見たはずの所を少しずれて,あっけなく見つかったりする。死角があるらしい,というか,視野狭窄に陥っているので,そこが,

見ていても見えていない,

ということが起きる。陥っている状態から言えば,

どつぼ,

だが,ものを見る側からというと,

視野狭窄,

あるいは,

トンネルビジョン,

といっていい。どん底,切羽詰る,という心理状態に陥っているが,それは,視野狭窄に陥っているせいだと言い換えてもいい。

窮すれば即ち変じ,変ずれば即ち通ず,

とも言う。逆に言えば,変じさせればいい,ということになる。それは,ものの見方が一番手っ取り早い。

前にも書いたが,トンネルビジョンに陥っているとき,視野狭窄の自分には気づけない。自分がトンネルに入り込んでいること自体を気づかない。それに気づけるのは,その自分を別の視点から,見ることができたときだ。そのために一番いい方法は,あえて,距離を取ることだ。それには,

時間的な距離化



空間的な距離化

の二つがある。その場から離れるか,時間を置くか,だが,それを意識的にするには,

立ち止まる,

ことだと思う。探し物の例で言うなら,いったん探し続ける動作をやめる(なんか,すぐ見つかりそうなときほど,やめられないが)。そうすると,選択肢が生まれる。

このまま続けるか,

ここでいったん止めるか,

思案し続けるか,

等々。発想とは,

選択肢を生み出せること

というなら,選択肢が出たことで,自分に距離を置ける。自分に距離が置けると,存外,すぐに見つかることとが多い。

捜し続けている自分の嵌ってしまった状態,

をどつぼといっても言い。とすれば,その自分の状態,あるいは自分の心理,自分の感情に距離を置いて,

おいおい,嵌ってるぜ,

という余裕が出れば,距離が持てたのと似ている。

見方を変えることは,見え方を変える方が手っ取り早い。

見え方を変えるとは,見る位置の移動である。

大きくなるとは見る位置を近づけること,小さくなるとは遠ざけること,逆にするとはひっくり返すことだ。位置を動かせるわれわれの想像力を駆使して,見えているものを変えてみることで,見え方を変える。見え方を変えることで,いままでの自分の見方が動くはずである。

しかしそれをするためには,対象を見ている自分の位置にいる限り,それに気づきにくい。それが可能になるのは,見ている自分を見ることによってである。

つまり,見る自分を突き放して,ものと自分に固着した視点を相対化することだ。そうしなければ,他の視点があることには気づきにくい。

メタ化

である。メタ・ポジションをとる。

自分自身を含め,自分の見方,考え方,感じ方,経験,知識・スキル等々を対象化することだ。それは,

「みる」をみる

ことだ。「みる」を意識しない限り,何をみているかはわかるが,どう「み(てい)る」か,どこから「み(てい)る」か,みる自分自身は気づけないからだ。

そのためには,いったん立ち止まって,自分を,自分の位置を,自分のしていることを,自分のやり方を振り返らなくてはならない。

たとえば,言葉にする,言語化する,図解する,というのもその方法のひとつになる。

おれはどつぼにはまっている,

という独り言でもいい。

それをするためには,対象化する必要があるからだ。つまり,象徴的な言い方をすれば,

「みる」をみる,

ということになる。

さて,おのれは,いまどういう状態にあるのか,

まあ,立ち止まってみるか。しかし,ずっと立ち止まっていないか?そろそろ動いた方がいい。思案しても,事態は変わらない。。。。。



今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年11月11日

見立て


見立ては,語源は,

見+立て

で,

決める,

つまり,

見て,善し悪しを決める,

という意味てある。たとえば,

母の見立ての帯
とか
医者の見立て

といったように。しかし,語義を辞書で引くと,意味は,

送別,見送り,

見てよしあしを決めること。また,見て物を選定すること。

とあり,その中には,

選定,鑑定
(医者の)診断。
遊客が合い方の遊女を選ぶこと

がある。たとえば,

伝統的に,自分の目で見てから選ぶことを「見立て」と言った。 江戸時代,呉服などを自分の目で見て選ぶことも「見立て」と言った。また,伝統的に,医者が病人を見て(診て),あらかじめ定められたどの分類に当てはまっているのか選ぶことも「見立て」と言う。つまり現代では「診断」と呼ばれている。

しかし,以上のそのほかに,

なぞらえること

という意味がある。ここでの関心は,この意味の「見立て」である。たとえば,芸術表現の一技法として,

和歌・俳諧・歌舞伎・戯作などで,ある物を別のものと仮にみなして表現すること。なぞらえること。

その意味の流れから,見立てには,

趣向。思いつき。考え。

という意味が出てくる。究極,見立ての面白さ,その趣向を競う,という意図か。

なぞらえるは,

なぞるの未然形継続反復のフが加わった「ナゾラフ」の下一段活用

とある。

異なるものを共通点があるものと見立てること

とある。見立てとなぞらえるが同義反復になっている。

なぞらえるは,

準える
准える
擬える

と漢字を当てる。

「擬」は,本物に似せて作ったものや事柄。「手+疑(まねる・なぞらえる)」
「准」は,準の俗字。法律用語。水野平らかさを基準とする
「準」は,水準器。水平を基準とする。下にたまった水の水面を基準として高低を揃えることを示す。

落語の沢庵を卵焼きに「見立て」るのは,ほぼ「準える」だが,これは,

アナロジー

あるいは

メタファー

と言い替えられる。このあたりは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163440.html

で書いたことがある。

基本的には,アナロジー(ここでは,「見立て」とほぼ同じ意味で使っているが)には,

「~と見る」見方,
「~にする」仕方,
「~になる」なり方,

の3つがある,と考えている。

●「~と見る」は,

見えているものを何かと同一視することである。芝生を緑の絨毯,群衆の逃散を蜘蛛の子といった,何かを別のモノやコトと見る,何かに別のモノをダブらせることである。これは視線の変換である。たとえば,それにあたるのは,

つもり/ごっこ/仕立てる/喩える(例える)/引用(代用・転用・兼用・併用・応用)/代理・代表/つなげる(並べる)

メタファーはここに含まれる。メタファーについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163573.html

で触れた。メタファーつまり,隠喩は,

あるものを別の“何か”の類似性で喩えて表現するものだが,直喩と異なり,媒介する「ようだ」といった指標をもたない(そこで,直喩の明喩に対して,隠喩を暗喩と呼ぶ)。したがって,対比するAとBは,直喩のように,類比されるだけではなく,対立する二項は,別の全体の関係の中に包括される,

と考えられる。たとえば,

わたしの耳は
貝の殻
海の響きを懐かしむ
(ジャン・コクトー「わたしの耳は貝の殻」)

では,耳と貝は,対立しつつ,共通項を持つ別の同一グループの一員とみる視点がなければ,対比がそもそも成り立たない。まあ,「~と見る(みなす)」見立ての一種には違いない。

●「~にする」は,

一方を他方と同じにすることである。そう見えるようにする,そう見えるように変える,そう見えるように置き換える。これには,同じ大きさ(サイズ,嵩,規模,長さ,広がりの似たもので比較してみる),同じ重さ(重量で似たものを対比してみる),同じ格好/同じ形状,同じ性質,同じ次元等々といった,ミニチュア,模型,箱庭,プラモデルといったものが当てはまる。これは対象の変換である。たとえば,それにあたるのは,

模型(モデル)/かたどる(カタチにする)/なぞる(写す)/触媒(媒介)/補う(補足)/伸縮/集散(離合)/増減/開閉/置き換え(回転,転倒,裏返し)/ずらす(スライド)

等々である。

●「~になる」は,

見る側,する側から,される側に代わることである。そういう立場になる,その役割を引き受ける,そのモノになる,その場に立つ,といった身振り,ジェスチャー,声帯模写,形態模写等が当てはまる。ゴードンの擬人的類比,空想的類比はこれに当たる。自分の変換である。

この3つの見立ては,随所で使われている。

芸術の分野では,「見立て」は,対象を他のものになぞらえて表現することである。別の言い方をすると,何かを表現したい時に,それをそのまま描くのではなく,他の何かを示すことによって表現することである。例えば,和歌,俳諧,戯作文学,歌舞伎などで用いられている。

日本庭園ではしばしば(あるいはほとんどの場合)なんらかの「見立て」の技法が用いられている。たとえば枯山水では,白砂や小石(の文様)が「水の流れ」に見立てられる。

落語では,扇子や手拭いだけを用いて様々な情景を表すが,これも一種の見立てである。たとえば扇子を閉じた状態で,ある時はこれを煙管に見立て,煙管として使ってみせ,又あるときはこれを箸に見立て,蕎麦をすすってみせる。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163440.html

とで触れた。

あるいは箱庭といって,小さな,あまり深くない箱の中に,小さな木や人形のほか,橋や船などの景観を構成する様々な要素のミニチュアを配して,庭園や名勝など絵画的な光景を模擬的に造り,楽しむものがある。江戸時代後半から明治時代にかけて流行した。類したものに,盆景,盆栽がある。

盆栽は,周知のとおりだが,盆景というのは,お盆の上に土や砂,石,苔や草木などを配置して自然の景色をつくり,それを鑑賞する。盆景は庭園,盆栽,生け花と同様に,自然の美を立体的に写実,表現しようとする立体造形芸術である。盆景は,盆石,盆庭,盆山などと呼ばれる芸術だが,形として表現されたのは,日本では鎌倉時代の絵巻物に出てくるのが最初である。 金閣寺,銀閣寺の庭園をつくる時に浅い木箱にその原型をつくったと言われており,これが箱庭の始まりとも伝えられている。

茶の湯でも,見立てがある。千利休は,独自のすぐれた美意識によって,本来茶の湯の道具でなかった品々を茶の湯の道具として「見立て」て,茶の湯の世界に取り込む工夫をした。たとえば,水筒として使われていた瓢箪を花入として用いたり,船に乗るために出入りする潜り口を茶室のにじり口に採り入れた等々。

落語の「長屋の花見」で,沢庵を卵焼きに見立てるなど,われわれは,手持ちのものを,見たいものに見立てて,独自の空間を創り出してきたと言っていい。考えてみれば,かつて,

ウォークマン

は,いつでもどこでもオーディオルームに見立てたと考えることも出来る。見立ては,発想の原点だが,昨今,

いま・ここにないもの

も,手軽に手に入る時代,容易に手に入らないからこそ,手に入った,

つもり

で得られる,想像力の豊かさを失ったのかもしれない。それは,創造力を失い,クリエイティビティ欠如の一因でもある気がしてならない。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)







今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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2014年11月13日

色眼鏡


色眼鏡とは,

色つきガラスを用いた眼鏡

のことであり,そこから転じて,

先入観

感情に支配された観察

という意味になる。しかし,僕は必ずしもマイナスには受け止めていない。

人間の心は,もの見るときのクセで,折り目がつき,皺がつくものである,

とはアインシュタインの言である。アインシュタインは,

常識とは16歳までにわれわれの心に刷り込まれたモノの見方の集合体,

とも言う。同じことは,

われわれは,知っていることを見る,

とゲーテは言った。これを,ノーウッド・R・ハンソンは,

~として見る

と言った。「~として」が色眼鏡に当たる。トーマス・クーンは,それを,

パラダイム

と名づけた。普通に言えば,

既成概念
とか
先入観

となるが,脳の働きから言えば,

機能的固着

である。だから,SF作家のアーサー・C・クラークは,

権威ある科学者が何かが可能と言うとき,それはほとんど正しい。しかし,何かが不可能と言うとき,それは多分間違っている,

と言ったのである。しかし,それは,その人の知識と経験そのものなのである。発想とは,

知識と経験の函数

という。自分の頭の中にないことは使えない。だから,

知っているものとして,

見る。

その例として,認知心理学の教科書に必ず出ているのは,こういうのがある。

天井から2本のロープがぶら下がっており,1本をもつともう1本の紐が届かない距離にぶら下がっています。周囲におかれている椅子とハンマーを使って,2本のロープをつなげられるかどうかを考えさせる。

これを,10分以内に解ける人は39%しかいない。ハンマーの機能,椅子の役割を知識として持っているために,

ハンマー(もちろん椅子でもいいが)をおもり代わりにロープにぶら下げて,振子にして手元に引き寄せる,

ということを思いつくのに,タイムラグがあるのである。しかし,である。振り子の原理を知っていなければ,そのことは絶対に思いつけないのである。つまり,発想は,

知識と経験の函数

だからである。だから,発想力では,

スキル

がよく云々され,いろいろな発想が発案されたが,実は,(それをやっている僕が言うのもなんだが)それはあまり役に立たない。知識と経験の函数ということは,個人が手に入れられる知識と経験には限界があるからである。だから,自己完結した,

発想スキル

よりは,人とのキャッチボールが重要であり,未だに,ブレインストーミングが使われる所以である。しかし,よく聞くのは,ブレインストーミングは,拡散するだけで,何もまとまらない,という指摘だ。

この指摘が勘違いしているのは,ブレインストーミングで,アイデアがまとめられる,というか,アイデアへと収斂できる,と思っていることだ。たぶん,そんなことはオズボーンも言っていない。アイデアを煮詰め,練り込むのは,結局個人の作業になるほかない。ただ,ブレインストーミングで必要なのは,自己完結を破る,つまり,自己撞着する自己対話の視点を変え,別の視点からものを見られるようにする,

刺激

としての機能なのだ。だから,よくやられているように,ミーティングスタイルでブレインストーミングをやっても,当たり前だが,拡散するだけだ。当然だ,ブレインストーミングには,収束の機能は持たされていない。だから,ブレインストーミングは,個を発信点として,放射線状にブレインストーミングするのが,一番効果的なのである。つまり,基本的に,集まる必要はない。

ブレインストーミングの効果は,個が持つ色眼鏡,つまり,

脳の機能的固着

を打ち崩すところにある。ひらめいた瞬間に,

脳の広い範囲が活性化する,

と言われているのが,象徴的である。いつも使い慣れた部位ではないところに刺激を与え,詰まっていた発想に,まったく違うところから光をあて,異質なリンクが生まれること,これこそが,

色眼鏡

が消えた瞬間である。

参考文献;
高沢公信『発想力を鍛える』(産能大)
N・R・アンダーソン『認知心理学概論』(誠信書房)






今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm

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