2012年11月10日
死について~あるいは生き方について
友人が,前立腺癌を宣告されて6年。本人は,痛みも苦しみもなく,普通にすごしてこられたことに感謝している,と淡々と言う。本来は免疫力の強い体質という結果が出たとかで,発見が遅れなければ,完治したのではないか,という感想を言っていた。すでに「癌は外へ出ていて」(という言い方をした)転移している。その中で,苦しみなく過ごせてきたことを言っているらしい。
検査数値が高くなると,これが見納めか,と僕ともう一人の友人Aに連絡を入れてきて,一緒に飲むことになる。かつての会社で,一緒の部署にいたことはないが,偶然組合の三役になり,それ以来気があって,一緒にちょっとした事業にも手を出したり,会社を離れても,一時疎遠になったこともあったが,つかず離れず,付き合ってきた。ただ,これが見納めか,という対象に自分がなっているということには,ちょっと複雑な感情が入る。
今回は,検査数値4がレベルとすると,1700くらいまで数値が上がり,医者も,薬がもう効かないといっていたという。そんなこともあって,再会したわけだが,どうやら,本人は覚悟を決めているらしく,冒頭の発言はそこから出た。年末3人で温泉に行く約束をした。ひょっとしてそれが最後になるかも知れないが,「以前にも何度も上がって,下がった」という言葉を,かすかなよりどころにして,まだあきらめていない。
かつていろいろ世話になった先輩は,肝炎の入院先で,高見順の『死の淵より』を読んでいる,と言ってにやりと笑ってみせた。本人なりの意地と意気なのかもしれない。確か石田三成は,刑場へ行くとき,「柿」を勧められて,それは体に悪いとか言って,刑吏の笑いを誘ったというが,その話で思い出すのは,フランス革命で処刑される貴族の誰それが,刑場へ行く馬車の中でも本を読み続け,下りろと促されて,読みかけのページに折り目を付けたのを,刑吏に見とがめられたそうだが,その心理もよく似ている。それは刑吏にはわからなかったのだろう。その死にざまが頭にこびりついている。
しかしその最後まで自分の生き方を,それもいつも通り淡々と続けていく身の処し方は,僕には美学というより,その人の倫理に見える。その人の生き方のコアにあたる何かなのだ。
そういう死とか生き方で必ず出てくる,侍とか武士道という言い方が嫌いだ(これでもれっきとした尾張藩士の子孫だが)。そもそも武士という存在は,世の中の上に被さった寄生虫に過ぎないと思っている。だからこそ,生き方をシビアにし,その自己規制を厳しくせざるを得なかっただけだ。だから,武士道とか侍などということを軽々に口にする人間を信じない。侍は,もともと侍などと言わなくても侍なのだ。だから,どう侍なのかを,自分の生き方の中で体現していなくてはならない。でなくては,侍である資格がない。世に寄生しているもののそれが倫理というものだ。
やくざの親分がこんなことを言っている気がする(もちろん妄想)。
「お武家様なんぞは、あっしら博徒同様、この世には必要のない、無職渡世ではないかと思いやすね、百姓衆にとっても、職人にとっても、ましてや商人にとっては、お武家さまなんぞは無用のものですよ、何かを生み出すわけではなし、ただ何の因果か上にたって威張ってお指図される。でも、その無用の方々がいなかったら、どれだけお百姓衆の肩の荷が軽くなることか」
「お侍方は、仁とか義とか、仰ってますが、それは上に乗っかっておられる言い訳に聞こえます。理をこねくっておられる。いい迷惑です。いっそ、そこをのいてくれっていいたいですよ。あっしらにも、あるんですよ、仲間内の仁義ってやつが、杯かわした親分への忠、お互いの島への義ってやつですよ。でも、こんなのは、住んでいる人を無視して、勝手にあっしらが囲っただけですよ、これも似てるでしょ、お武家様のやり口に、まあ、真似たんでしょうがね。無職渡世は無職渡世なりに理屈がいるんですよ」
何が言いたいのか,というと,結局侍とは身分でも,スタイルでもなく,外見でもない。生き方そのものなのだと感じるのだ。友人の,Nとしておくが,Nのそのさりげない決意に,外面のかっこよさとは無縁の,凛とした立ち姿を見たのだ。それは侍かどうかとは関係ない,人としての生き方なのだと思う。
なにもどこかの元知事のように,大袈裟に,腕振り上げてやっつけろ,と勇ましい言辞を弄するのだけが侍ではない。それを猪武者といって嫌うのは,やっぱりどう見ても,無様でかっこ悪いからだ。むしろ臆病者こそがする振る舞いなのだろう。彼を指して,右翼がコメントしていた。「安全なところから,ひとをけしかけているだけだ,政治家としていまやるべきことは現地へ単身乗り込んで決着をつけることではないか」と。本当にそうだ。孔子も言っている。暴虎憑河し、死して悔いなき者は、吾与にせざるなり,と。
Nは小さな塾をやっている。さりげなくこんなことを言っていた。「オール1の中学三年生が入塾してきた。本当は断るのだが,その姉が昨年までいたので,断りにくかった」。いまはどうなったと,興味本位で聞くと,「2と3になった」という。本人もさることながら,教える側も大変だったに違いない。「殴って,殴ってでも,とことん叱る」という。そうしないと,絶対彼らはやらない。それは長年「できのわるいものを教えてきた」確信だ。
しかし,ぽつんと一言付け加えた。「でも,できたら,ほめなきゃいけない」。
教師と生徒の格闘が続いているらしい。そのエネルギーに感心する。そこにもコアとしての倫理が見えた。そこから,自分の決断もついた。覚悟の後押しをもらった感じだ。
今日のアイデア;
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# 死
# 死に方
# 身の処し方
# 生き様
2012年12月29日
得体のしれぬものに向き合う~石原吉郎の詩をめぐってⅡ
言語化することの大切さを先日も感じさせられることがあった。言語に置き換えることで,あるいは言語を置き換えることで,それから脳が受ける刺激が変わる。所詮日本語で考えている。言葉が発想を左右する。ヴィトゲンシュタインは,持っている言葉で見える世界が違うと言った。たぶん,虹だけでなく,日本語の虹を見るのと,他の言語で虹を見るのとは違うように,他にも一杯違いがあるはずだ。
一生の人との出会いを,一期一会というとすると,その言葉の持つ潔さと,礼儀正しさと,凛とした立ち姿を言葉で言うなら,
一期にして
ついに会わず
膝を置き
手を置き
目礼して ついに
会わざるもの(「一期」)
というよりほかに,適切な表現を見たことはない。その一生がきれいごとでは済まないことも,よく知っている。
耳のそとには
耳のかたちをした
夜があり
耳穴の奥には
耳穴にしたがう夜があり
耳の出口と耳穴の入り口を
わずかに仕切る閾の上へ
水滴のようなものが
ひとつ落ちる
耳穴だけのこして
兵士は死んでいる(「閾」)
そこにあるのは,覚悟というのもなまやさしい,得体のしれぬものとただ向き合う,というようなことだ。ただ向き合う,ひたすらに。自分に,自分の思いに,得体のしれぬ何かに。だから,こうもいう。
いまは死者がとむらうときだ
わるびれず死者におれたちが
とむらわれるときだ
とむらったつもりの
他界の水ぎわで
拝みうちにとむらわれる
それがおれたちの時代だ
だがなげくな
その逆転の完璧において
目をあけたまま
つっ立ったまま
生きのびたおれたちの
それが礼節ではないか(「礼節」)
逆説のように。そう逆説なのだ。死者が生きていて,生者が死んでいる。そのいたたまれぬいばらの中で立ち続ける。
いわばはるかな
慟哭のなか
わらうべき一切は
わらうべきその位置で
ささえねばならぬ(「食事」)
それを覚悟と呼ぶのか,決断と呼ぶのかはわからない。決断というのは,何かを捨てることだ。覚悟は,その踏ん切りをつけることなのだろう。
そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすらわらいさえしている
見たものは
見たといえ(「事実」)
それを,ただ,見る。神の眼も,理屈の眼もなく,ただ見る。そこに断念がある。断念というのは,しかし諦めることではない。切り捨てることだ。その瞬間に,ありうる自分の選択肢を,ありうる未来を断ち切ることだ。その究極が,一切のおのれの未来を断つ自死になる。しかしかつてそれを試みたから言うのではないが,それは断念というより,諦めに似ている。
諦めは,背を向けることだ。それと対峙することから逃げることだ。しかし,断念は,対峙に向き合って,己の力量を見極めることだ。例えば,立ち会って,その瞬間に知るのだ。これは勝負にならない,と。それを逃げとは呼ばない。見栄も名誉も誇りも矜持をも捨てて,立ちを捨てて,勝負を放棄することだ。それは諦めではない。わかっていて,暴走するのは,自殺行為であり,それがわからずに暴走するのは,判断の放棄であり,思考停止であり,自死と同じことで,いずれも,猪突に過ぎぬ。
しかしだ,
断念と
諦めの
微妙な
狭間に落ちる
断念に未練はあるか
諦めに意思はあるか
てなことを考えたこともある。本当に諦めに意思はないのか,というと疑わしい。と同時に,断念に未練がないというのも信じがたい。認知的不協和を合理的にすり抜けていく心理の欺瞞かもしれない。
この日 馬は
蹄鉄を終る
あるいは蹄鉄が馬を。
馬がさらに馬であり
蹄鉄が
もはや蹄鉄であるために
瞬間を断念において
手なづけるために
馬は脚をあげる
蹄鉄は砂上にのこる(「断念」)
「瞬間を断念において手なづけるために」という,この言葉が好きだ。単なるおためごかしなのかもしれない。しかし,捨てたものは戻ってはこない。その瞬間,何かを捨てなくては,次へ行けない。恋愛が,失恋に終わったなら,おのれの恋を捨てるか,おのれの命を捨てるか,恋したそのプロセスのおのれの人生すべてを捨てるか,いずれにしろ,捨てなくては,その一瞬をやり過ごすことはできない。
弓なりのかたちに
追いつめておいて
そのまま手を引いた
そのままの姿勢で
決着はやってくる
来たときはもう
肩をならべて
だまってあるいている
満月の夜のおんなのように
ぎりぎりの影を
息もせず踏んで
こわい目で しんと
あるいている
決着のむこうの
まっさおなやすらかさ
いっぽんの指の影も
そこをよぎってはらぬ(「決着」)
そうした積み重ねの中で,「あっという間に」一生が終わる。しかしそれを理不尽とは思わぬ。その一跨ぎへの,その一跨ぎのかけがえなさへの,いとおしさこそが,生きるということなのではないか。
素足がわたる橋の
ひとまたぎの生涯の果ては
祈るばかりの
その袂から どれほどの
とおさとなるだろう
いきをころした
ひとまたぎの果てへ
弓なりのさまに研ぎおろす
うす紙のような薄明に
怖いすがたでふりむかれたままの
おびえたなりの橋の全行を
たどりかえして
どれほどのとおさと それは
なるだろう(「橋」)
よく,怒ってはいけないという言い方をする。しかし逆だ。怒らない人間を信じない。ひとはどんな時に真実怒るのかで,その人がわかる。その人が真実怒っているとしたら,どれだけ理不尽でも,はた迷惑でも,その人にとっては真実,腹の底から怒らざるを得ない,何かがあったのだ。その怒りは理解できる。でも,もちろんその矛先に立つのは嫌だが。
ふつうは,四六時中怒ってなんかいられない。それは怒っているのではなく,屈託や鬱屈を吐き出しているだけだ。自分の中の何かに苛立っているだけだ。しかし怒るべき時は怒る。その「べき」の一瞬に,その人がある。それがどういうときかは,本人にも,その時が来ないと,わからないかもしれない。
おれの理由は
おれには見えぬ
おれの涙が
見えないように(「理由」)
自分が瞬間湯沸かし器と呼ばれたせいか,感情の起伏のない人間を信じない。人は,一瞬一瞬いろんな情報(刺激)を受けている,それに反応して,恐れたり,おびえたり,悲しんだり,笑ったりする。しかし一番その人がその人らしいのは,怒りだと思う。それも爆発するような憤怒だ。
おのれの尊厳にかかわることで,怒らぬものを信じない。私は,友人が,共通の友人を裏切ろうとした,ただそれだけで,そいつとは二度と口をきかない決心をした。そうしなければ,自分の尊厳がけがされる。しかしその場で相手に怒りを爆発させてもわからないだろう。だから彼はそういうことを平然とした。けれど,当の裏切られた本人はあまり気にしていない,というか,深刻に受け止めていない。しかしそれは本人の問題だ。簿間の問題とは別だ。
こういう場合は,切る。一切の交渉を切る。一切の関係を断つ。それが怒りの表現だ。怒ってはいけないというのは,感情的になってはいけないという意味だ。怒りを表現することは構わない。その表現には,こういうやり方があってもいい。しかし,同時に覚悟しなくてはならない。それは,いつか,違う相手から,僕自身が同じように切られることもある,ということを。怒りの表現については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2012-1104.html
で触れた。
今日のアイデア;
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#石原吉郎
#詩
#怒り
#生き方
#死に方
2013年01月27日
「好き」についてあるいは「好き」の効果について
年甲斐もない,と言われそうだが,また「好き」のことを考えてみたい。
「好き」については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11041914.html
で,「恋」「愛」「好」の関係について触れたが,もう少し別の角度から考えてみたい。
どうしたら好きになるか,については,好意の互恵性だの,相手の自己開示だの,接触頻度だのとあるが,一瞬の胸の鼓動の高まりのような(と書きつつ,もう心臓にもカビが生えて,感受性も鈍ってしまっているので,はるかな昔のことを思い出すしかないが),その一瞬というのは何なのだろう(と,書けること自体が,そういう心理状態からは距離がある証拠か?)。
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11030743.html
で,結局自分を好きになっているのだ,と考えたが,それはそれとしてあるかもしれないが,そこだけには納まらないものがある気がしてならない。
好きという感じを表現すると,
同じ空気を吸いたい
同じステージに居たい
同じ場所を占めたい
同じ時間を生きたい
といった感じのような気がするが,もっと踏み込むと,人は生きている限り,ひとつの場を占めている。その「場」には,時間と空間はあるが,ハイパーなので,一定の場所に固定されているわけではない。もちろんその人がそこにいるという物理的な場だけを意味しているのではなく,その時代の,その社会の,大袈裟に言うと,この地球に,一定の空間(時空という方がぴったりする)を占めている。その「場」を共有したい,という思いなのかもしれない。
あるいは,共有することで,その「場」がもっと豊かになる,もっと楽しくなる,もっとわくわくする等々の期待が膨らむのかもしれない。
どちらか一方に倣うとか,どちらかに一方に従うとか,どちらかと一体になるといことではない。それでは,誰かの人生と一緒になることであり,自分人生の「場」を捨てることだ。そういうのは,僕のイメージしているものには入らない。それなら,二つの「場」がぶつかり合い,丁々発止するわくわく感はない。それぞれがそれぞれの「場」を,自分の努力と好奇心と興味で膨らませ続ける。そうすることが,二つの場が,出会うたびに,新しい出会いの昂奮を生み出す。そこから,何かが生まれるかもしれない。そうやって成長する「場」同士が,ぶつかり合う,機会がほしいのかもしれない。
それって,協同作業とよく似ているし,ブレインストーミングの自由なキャッチボールにも似ている。本来,コーチングも,そういう場であれば,コーチもクライアントも,ともに,そのコーチングという場での出会いが,数倍数十倍わくわくするものになるはずだ,と思う。そこで生まれるのは,是非,可否の二者択一ではない,足して二で割るような妥協でもない。それぞれの人生の「場」が面からぶつかりあうことで,生まれてくる新たな別の何かだ。でなければ,ブレインストーミングをする意味はない。
だから,どちらの場も,それ自体で生き生きし続けなくてはならない。そして,出会う時,その二つの場のぶつかり合い,あるいはダンスの中から,全く別の場を,それぞれが掴み取る,そういう出会いであり,そういう機会が,両者を成長させ,それぞれの「場」がさらに豊かになっていく。
それが勘違い,思い込み,錯覚ということを後で気づくことはある。同じ場として成立しないことに気づくからだ。でも,それも,ひとつの出会いであり,それぞれの場が豊かになって行くプロセスと思えば,無駄でも消耗でもない。何せ,それも,おのれが生きていく場の,消長なのだ。いずれ,その場はなくなる。なくなっても,いつまでもそこに,名残りのような隙間を残す,隙間があるような思いを残す,そんな場でありたい。そういう生き方でありたい,と思う。そのために,何かができるのではないか,そういう出会いへのわくわくする期待なのではないか,と思う。
今日のアイデア;
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#場
#出会い
#好き
#生き方
2013年01月30日
「開く」「「聞く」「物語」について~対話への途についてⅡ
前回の,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11071791.html
に続いて,対話への途を考えてみる。
対話について,物理学者デヴィッド・ボームは,こう書いている。
対話では,人を納得させることや説得することは要求されない。「納得させる(convince)」という言葉は,勝つことを意味している。「説得する(persuade)」という語も同様である。それは「口当たりのいい(suave)」や「甘い(sweet)」と語源が同じだ。時として,人は甘い言葉を用いて説得しようとしたり,強い言葉を使って相手を納得させようとしたりする。だが,どちらも同じことであり,両方とも適切とは言えない。相手を説得したり,納得させたりすることには何の意味もないのだ。そうした行動はコヒーレントな(一貫性のある)ものでも,筋の通ったものでもない。もし,何かが正しいのであれば,それについて説得する必要はないだろう。
そして,こういう。
概して,自分の意見を正当化している人は,深刻になっていないと言っていい。自分にとって不愉快な何かをひそかに避けようとする場合も,同様である。(中略)
だが,対話では深刻にならねばならない。さもなければ対話ではない-私がこの言葉を使っている意味での対話とは言えないのだ。フロイトが口蓋の癌に侵されたときの話をしよう。フロイトのもとへやってきて,心理学におけるある点について話したがった人がいた。そのひとはこう言った。「たぶん,話などしないほうがいいのでしょうね。あなたはこれほど深刻な癌に侵されているのですから。こんなことについてはお話したくないかもしれませんね」。フロイトは答えた。「この癌は命にかかわるかもしれないが,深刻ではないよ」。言うまでもなく,フロイトにとっては単に多数の細胞が増殖しているだけのことだったのだ。社会で起きていることの大半はこんな表現で言い表せるだろう-それは命にかかわるかもしれないが,深刻なものではない,と。
自分の問題を脇に置いて,いいのかどうかはわからない。対話は,そのように,相手に対して,自分を開くことなのだ。その時,自分が開いた分,相手も開く。自己開示については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2012-1222.html
でふれた。
平田オリザは,対話と会話を,
会話とは,複数の人が互いに話すこと。またその話。
対話とは,向かい合って話し合うこと。またその話。
とし,
会話は,価値観や生活習慣の近い親しいもの同士のおしゃべり
対話は,あまり親しくないもの同士の,価値観や情報の交換
とした。平田オリザの問題意識は,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2012-1125.html
で触れたので,繰り返さない。この区別を,中原淳・長岡健は,雑談,議論と対比して,
雑談とは,自由なムードの中で,戯れのおしゃべり
対話とは,自由なムードの中で,真剣な話し合い
議論とは,緊迫したムードの中で,真剣な話し合い
とした。この「真剣」が,ボームの言うように,おのれの身を削るような,深刻さをもっている,という意味で受け止めていい。ただし議論と違うのは,納得や説得ではない,ということだ。雑談には,たとえば,喫煙ゲージの中が濃密な会話になっているように,結構重要なことは雑談で話される。それは別にまた触れてみたい。立ち話の効果というのを結構重視しているので。閑話休題。
ところで,カーネギーの『人を動かす』に,
議論に負けてもその人の意見は変わらない。
とある。対話のイメージは,ブレインストーミングでのアイデアを出していくのと同じだ。批判せず,自由に,相乗りして,たくさん。ブレインストーミングとの共通性については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/2012-1129.html
で触れた。意見は,仮説と考えて,共通の認識を作っていくプロセスは,ブレストのマインドだと考えていい。たとえば,会話だって,こういわれる。
(自分の)発話の意味は受け手の反応によって明らかになる。
後続する会話によって先行する会話の意味が組み替えられていく。
ここに,対話の面白さがあるはずなのだ。話すことで,その話の中身が,相手の当てる光によって,少し意味を変える。それは,発話したことの中身が,自分が意識しない,幅と奥行きを持っているということなのだ。だから,自分の意味だけに固執すれば,その豊かな意味の世界は閉ざされてしまう。
ボームは,ある深刻な対話のことを,こう書いている。
彼らは互いに説得したかどうかよりも,話し合えたことの方が重要だ。何か違うものを生み出すためには,それぞれの見解を捨てなければならないと,きづいたのかもしれない。愛を好む人がいれば憎しみを好む人がいたとか,疑り深くて慎重でいささか皮肉屋であることを好む人がいたとかといった事実は重要ではない。実のところ,一皮むけば,誰もがみな同じだったのである。どちらの側も頑なに自分の見解にしがみついていたからだ。したがって,その見解に妥協の余地を見出すことが,鍵となる返歌だった。
「開く」の重要性がここにある。閉じていた方が安心というのは,自足しそのままにとどまることを望んでいることになる。
対話で理解が深まるのは,他者のことだけではありません。他者を理解すると同時に,自分自身についての理解を深めることができるのです。「対話」の効果とは何かを考える時,これはとても大切なことですが,「対話」の中で自己の理解を語り,他者の理解と対比することで,自分自身の考え方や立場を振り返るのです。つまり,「対話」は,自己内省の機会ともなるのです。(中原淳・長岡健『ダイアローグ』)
さらに,ミードの例を引いて,こういう。
ミードによれば,自己とは「本質的に社会構造であり,社会経験の中から生じる」存在と理解することができます。もし,世の中に自分一人しか存在しないなら,そもそも「自分らしさ」なんて意識する必要がありません。自分以外の他者がいるから,「他者の目」には自分がどう映っているかを考え始めるのです。つまり,「自分らしさに気づく」とは,他者の目に映る自己イメージ―自己に関する首尾一貫した物語―を自分自身でつくり上げていくということです。人は「自分のイメージ」「自分の物語」を自分だけでつくることができるわけではありません。他者への語りかけ,他者のまなざし,他者の言葉を通して「自分の物語」をつくり,ときには編み直すのが人間なのです。
人とのやりとりを通して,自分が耳にしたこと,人との対比の中で気づいたことを通して,気づきが生まれる。
気づきを積み重ねていくことが,「自己像を紡ぎ出す」=「自己理解を深める」ということです。だから,自己理解を深めるには,ひとりであれこれと思い巡らすだけでなく,「対話」を通じて,自分の考え方や価値観を他者に語ることが効果的なのです。
対話は,結果として,自分の物語を語ることを通して,それぞれが自己理解を深めると同時に,二人,ないし三人,その場の対話相手と一緒に,きったく新しいストーリーを作り出していく場でもある。つまり,
人は「対話」の中で,物事を意味づけ,自分たちの生きている世界を理解可能なものとしています。人が物事を意味づけるときに,独りでそれに向かっているのではありません。相互理解を深めていくには,単に「客観的事実(知識・情報・データ等々)そのもの」を知っているだけでなく,「客観的事実に対する意味」を創造・共有していくことも重要となるのです。特に,個々人の経験や思いについてストーリーモードで積極的に語り合うことで,自己理解と他者理解が相乗的に深められ,新たな視点や気づきが生まれてくる…
そういえば,ドラッカーは,情報とは,データに意味と目的を加えたものである,と言っていたが,一人ひとりが,「客観的事実に対する意味」を語る,それをどう受け止めて,それからどうなったかと,「自分の考え方や価値観を他者に語る」ということは,客観的な何某の知識・事実ではなく,自分の側で起きている主観的な世界を語ることになる。「語る」ということ,それを「ストーリーモード」と呼んでいるが,それは自分を対象として,自分の物語を語ることになる。
一人ひとりの物語については,次回に触れたい。
参考文献;
アダム・カヘン『手ごわい問題は対話で解決する』(ヒューマンバリュー)
中原淳・長岡健『ダイアローグ』(ダイヤモンド社)
デヴィッド・ボーム『ダイアローグ』(英治出版)
平田オリザ『わかりあえないことから』(講談社現代新書)
今日のアイデア;
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#アダム・カヘン
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2013年02月02日
タイムレスについて
先日,第1回月刊☆西澤ロイ コトバの宇宙を巡るトークライブに参加した。
http://www.facebook.com/home.php#!/events/253615608101671/
時間感覚がテーマであったが,結局生き方がその人の時間感覚を変える,という話だと受け止めた。
キーワードは,クロノスとカイロス。
クロノス,カイロスを,ネットで調べると,こうある。
クロノス(Χρόνος,ラテン文字転写:Khronos,ラテン語形:Chronus)は,「時」を神格化したもの。シロスのフェレキデースによって創作された神で,彼の Heptamychia に登場する。ヘーシオドスの『神統記』を初め,アポロドーロス,ヒュギーヌスらによる通常のギリシア神話には見られない。
カイロス(Καιρός,ラテン文字転写:Kairos,ラテン語形:Caerus)は,ギリシア語で「機会(チャンス)」を意味する καιρός を神格化した男性神である。元は「刻む」という意味の動詞に由来しているという。キオスの悲劇作家イオーンによれば,ゼウスの末子とされている。
カイロスの風貌の特徴として,頭髪が挙げられる。後代での彼の彫像は,前髪は長いが後頭部が禿げた美少年として表されており,「チャンスの神は前髪しかない」とは「好機はすぐに捉えなければ後から捉えることは出来ない」という意味だが,この諺はこの神に由来するものであると思われる。また,両足には翼が付いているとも言われている。
ギリシア語では,「時」を表す言葉が καιρός (カイロス)と χρόνος (クロノス)の2つがある。前者は「時刻」を,後者は「時間」を指している。また,「クロノス時間」として,過去から未来へと一定速度・一定方向で機械的に流れる連続した時間を表現し,「カイロス時間」として,一瞬や人間の主観的な時間を表すこともある。
こう見てみると,クロノスは,いわゆる非可逆の時間の流れ,カイノスはハイパーな時間。言ってみるとフロー体験や時を忘れて何かに夢中になっているときのような時間を指す。その意味で,カイロスなしの時間感覚は,人の場合結構ある。好きなことに熱中しているとき,好きな人と過ごしている時等々,人は,自分の時間を生きていて,その時間は,実時間よりも短かったり,長かったりする。それは主観的なものだからだ。振り返ると,人生は,「あっという間」かもしれない。しかし,現実の一瞬一瞬は,過ごしているかけがえのなさ度で違ってくる。
西澤さんは,「変化は一瞬」(アンソニー・ロビンス)という言葉を引用されたが,それまでが長いということらしい。時間の経過では測れない時間の中で,その人が何をしているかが,たぶん鍵になる。変化は経年の中には現れないところで起きている。それは積み上げた結果のようには見えないかもしれない。変化しないように見えるうつつの奥で,というかハイパーな時間の流れの中で,何が起きているかだ。そこで何をしているか,ということかもしれない。
長く踊り場にいたと思ったら,そこで諦めず,悪戦苦闘を続けるうちに,とんでもない地平に到達することはある。その場に行かなければ見えない光景というのはある。しかし悪戦苦闘のプロセスがなければ,踊り場にすら到達することはない。
その悪戦苦闘は,できるかできないかという,ただの心理的葛藤ではない,壁を超えるのか,何かを創り出そうとするのか,時間を忘れて,それが実時間より長いのか,実時間より短いのかは別として,その人が夢中で取り組むプロセスがなければ,踊り場を抜けられない。
聴いた中で感じたことは,それができるかどうかのカギは,自分を認められるかどうか,自分を基底の部分で信じられているかどうかだ,という気がした。それは,「やればできる」と信じられているかどうかという,自分を見る視点の切り替え,にある。いわゆるマインドセット,だろう。そのカギを,「できている部分」を自ら承認すること,いわば若島孔文先生流にいうと,●(黒丸)ではなく,○(白丸)をつける,ということだろう。○(白丸)については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/10967952.html
に書いたことがある。
スティーブ・ジョブスは,振り向いて初めて,人生の点と点がつながる,という趣旨のことを言ったようだ(トークライブに参加していた,保刈 豊さんが,フェイスブックに,次のようなジョブズの伝説スピーチを引用されていた。Again, you can't connect the dots looking forward; you can only connect them looking backwards. So you have to trust that the dots will somehow connect in your future.)が,その結果として,そうつながっていくには,目に見えないハイパーな時間がなくてはならない。目に見えている部分だけをつなげるのではなく,主観的時間がつながる,という意味なのではないか。
過去を振り向いて初めて,いまへと至る道が見える,と言い換えてもいい。そのときどきは,いまへとつながる必然に見えてくるということだ。逆に言うと,それは,プラスだけではなく,マイナスでも一本筋につながってしまう。ナラティブセラピーでドメインストーリーをオルタナティブストーリーに置き換えようとするのは,いまをどう見ているかで,過去が変わるのだろう。
いまの自分に肯定的なら,過去はそれをさらに肯定するような筋道に見える。逆なら,すべてはいまの自分のマイナスを補強するようにしか見えない。
問題なのは,過去ではなく,いまの自分のありよう,生き方なのだということなのだろう。
人生とは,なにかを計画している時に起きてしまう別の出来事のことを言う。…最後に意味をもつのは,結果ではなく,過ごしてしまった,かけがえのないその時間である。
というガイアシンフォニー第三番の中のセリフが,再び輝いて見える。
記憶が確かなら,秋元康さんは,こう言っていた。人生とは,差し込んだままのテレホンカードだ,と。しゃべろうとしゃべるまいと,度数はどんどん減っていく。しかしその時,ハイパーな時間が過ごせているなら,減った時間以上の時間感覚を過ごせていているのかもしれない。
参考文献;
キャロル・S・ドゥエック『「やればできる!」の研究』(草思社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#クロノス
#カイロス
#ガイアシンフォニー第三番
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#マインドセット
2013年02月14日
かりもの
最近,「かりもの」ということが気になる。自分が,ということもあるが,人を見ていて,そう思うこともある。口幅ったいし,まあそんな偉そうな口をきける立場でもないが(だからこそ言い得るということもある),上は,外国人(特に欧米)の著者や考え方のお先棒担ぎから,下は,ひと様の考えの真似まで,自覚なく自分のもののごとくしゃべっていると,キリではあっても,キリにはキリの虚仮の一念というのがあっていい,そんなことを考えてしまう。福沢諭吉以来,そういうのが当たり前になっている。しかしいずれは,化けの皮ははがれる,と信じている。これも所詮は虚仮の一念かもしれない。閑話休題。
ところで,「かりもの」というのを,辞書的に言うと,
亜流の ・ 形式だけ(似ている) ・ (外形を)なぞっただけの ・ (~の)コピー ・ (単なる)引き写し ・ (真に)身についたものでない ・ 便宜的な(振る舞い) ・ (~を)真似る ・ 本物でない~ ・ 咀嚼されていない~ ・ しっくりしない
等々となる。では,そのうちの「亜流」を辞書的には,
二流 ・ 借り物 ・ 薄っぺら ・ なぞる ・ 次 ・ 型通り ・ 陳腐 ・ えせ ・ 真似る ・ 副
となる。その流れで,言うと,自分のものでもないのに,自分のもののごとく語る,ということか。
では,プロとアマの違いは何か。これは,別のところで書いた気がするが,
プロであるとは,その能力と成果物で“金”が取れることには違いがないが,最大の特色は,自分独自の(オリジナルな)“方法論”をもっていることだ。どんなに経験したことのない,未知の(領域の)問題にぶつかっても,瞬時に(といかないこともあるが),自分なりにどうすればいいか,どういうやり方をすればいいかの判断と決断ができることだ。それは,また,自分のやり方に対する批評力があることをも意味する。つまり,自分の方法の方法をもっていることであり,自分のコトバで自分のやり方(の新しさ,独特さ)と内容(の独自性と共通性)を語れる(コトバをもっている)ということである。
こう考えている。でも,「かりもの」であっても,プロとして存在しうる。別の概念かもしれないが,お金はとれても,結局人の褌で相撲を取っているような,居心地の悪さを感じる。それは僕だけの倫理なのかもしれない。はじめ「かりもの」であっても,それを自分の言葉で語っていくうちに,自分のオリジナルな世界へと突き抜けていくということはある。しかし,その場合,おのずと,とは思えない。意識的に,守破離ではないが,それを自分の衣とし,次には,それを脱ぎ捨てて脱皮していく,ということはあるだろう。その場合は,「かりもの」を意識していなくてはならない。
人の能力を,僕は,
能力=知識(知っている)×技能(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)
と分解している。「知っていて」「できる」ことだけを,「その気になって」取り組んでも,いままでやったことをなぞるだけのことだ。いままでやったことがない,いまのスキルではちょっと荷が重い,といったことに取り組んで,「何とかする」経験をどれだけ積んだか,でその人の能力のキャパシティは決まる,と言っても過言ではない。
そうして積み上げた知識と経験を,ただそのまま体験として蓄積するだけでは,プロにはなれない。それを,批評するパースペクティブを持っていること,つまり,自分の方法の方法,プロフェッショナルのプロフェッショナル,つまりプロフェッショナルであるとは,メタプロフェッショナルであることなのである。それは,自分が何の,どんなプロフェッショナルであるかを,コトバにできることでもある。人に伝えられるコトバをもっているかどうか,がプロとアマの本質的な差のように思う。
言ってみれば,人は生きてきた分だけ,量や質はともかく,知識と経験は蓄積される。人の能力はそこにしかない。それをどう生かすかにしか,自分を生かす途はないのである。それをどうコトバにするか,そこに自分の“方法論”を明確化する筋がある。
ほかのところでも書いたが,元来,僕は,
世の中には,一流と二流がある。しかし,二流があれば,三流もある。三流があれば四流がある。しかし,それ以下はない,
と思っている。
「一流の人」とは,常に時代や社会の常識(当たり前とされていること)とは異なる発想で,先陣を切って新たな地平に飛び出し,自分なりの思い(問題意識)をテーマに徹底した追求をし,新しい分野やものを切り開き,カタチにしていく力のある人。しかも,自分のしているテーマ,仕事の(世の中的な)レベルと意味の重要性がわかっている。
「二流の人」とは,自らは新しいものを切り開く創造的力はないが,「新しいもの」を発見し,その新しさの意義を認める力は備えており,その新しさを現実化,具体化していくためのスキルには優れたものがある。したがって,二番手ながら,現実化のプロセスでは,一番手の問題点を改善していく創意工夫をもち,ある面では,創案者よりも現実化の難しさをよくわきまえている。だから,「二流の人」は,自分が二流であることを十分自覚した,謙虚さが,強みである。謙虚さがなかったら,四流になる。
「三流の人」とは,それがもっている新しさを,「二流の人」の現実化の努力の後を知り,それをまねて,使いこなしていく人である。「使いこなし」は,一種の習熟であるが,そのことを,単に「まね」(したこと)の自己化(換骨奪胎)にすぎないことを十分自覚できている人が「三流の人」である。その限りでは,自分の力量と才能のレベルを承知している人である。
自分の仕事や成果がまねでしかないこと,しかもそれは既に誰かがどこかで試みた二番煎じ,三番煎じでしかないこと,しかもそのレベルは世の中的にはさほどのものではないことについての自覚がなく,あたかも,自分オリジナルであるかのごとく思い上がり,自惚れる人は,「四流以下の人」であり,世の中的には“夜郎自大”(自分の力量を知らず仲間内や小さな世界で大きな顔をしている)と呼ぶ。
僕はせめて,四流ではありたい,おのれを知っている謙虚な人間でありたい,と思っている。つい思い上がって,うぬぼれがちなだけに,おのれを戒めておきたい。
どんな仕事も,先人の肩の上に載っている,といったのは,確かフロイトだったような記憶があるが,そういう謙虚さはいつもいる。iPS細胞の山中先生が,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11002413.html
でも書いたように,「私の受賞は便乗受賞で,50年前の,ジョン・ガードン先生が,カエルの腸細胞の核を別のカエルの卵子の核と入れ替えただけで,受精せずにオタマジャクシが生まれることを実証されることで,受精卵と生殖細胞だけが,完全な遺伝子の設計図を持つという,100年前以来の常識を覆したことが,私のiPS細胞につながった」と言っておられるのが,心に響くのはそのせいだ。
少なくとも,自分自身と自分の仕事と成果に誇りをもっていること,あるいは誇りをもてるようにするにはどうすればいいかをたえず考えていることが,四流かそうでないかの分かれ道であるように思う。
そのために,こんな問いを切りぬいたことがあった(今も手帳に貼ってある,自戒でもある)。
そもそも自分の職業は何か?
これまで実際にやりとげたことは何か?
顧客の中で誰かそのことを証明してくれるか?
自分の技能(スキル)が最高水準にあることを示すどんな証拠があるか?
競争社会を乗り切っていくのを助けてくれるような新しい知人を,会社をこえて何人得たか?
今年度末の(職務)履歴には昨年と違った内容のものになるか?
自分一人である程度の領域がカバーできる力があればあるほど,期待する水準が高いので,自分一人で何でもできるなどと思い上がらず,(いまは組織にはいないので)チームや仲間で推進していく(達成度を高める)にはどうしたらいいかを考えている。一人で得られる(世の中の水準から見た)成果や情報力は,チームや仲間で得られるものに比べれば格段の時間とコストがかかるのだから。それに,もう自分を過信できるほど若くはない。過信は40代で卒業できなければ,ただの能天気!
参考文献;
ピーター・センゲ他『学習する組織「5つの能力」』(日本経済新聞社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#ピーター・センゲ
#かりもの
#本物
#亜流
#プロフェッショナル
#チーム
#学習する組織
#学習する組織「5つの能力」
2013年02月16日
意志力について
ちまたで意志力が話題になっているが,へそ曲りなので,いささか身も蓋もないことをいうが,僕は,人間の意志力というものに疑問を感じている。きっかけは,人の意志より前に脳が活動しているということだ。
何かをしようとする意図が意識されるのは,実際に手を動かすより150ミリ秒前だが,それよりも400ミリ秒前に,脳の運動神経系(補足運動野)の活動電位は上がっている,という。つまり,脳が動こうとするのを人の意識が意識するにすぎない,というわけだ。
しかも,池谷裕二さんは,さらに踏み込んで,こういう言い方をしている。
意志は脳から生まれるのではありません。周囲の環境と身体の状況で決まります―これが私の見解です。
たとえば,指でものを指してほしいというと,右利きの人は右指でさす。これは意志のように見えて,クセなのではないか。ためしに,「左右どちらかで指してください」というと,右指の使用率は60%にさがる。この変化も依頼されたことが理由で,外部からの依頼の声への「反射」だと解釈できる。ここでいう「反射」は,
その場面において惹起される限定的で自動的な応答全般という広い意味,
であり,経験によって,反射の仕方が変化することはありうるし,その変化が周囲からみて好都合な時,「学習」や「成長」といっている。ハーバード大のパスカル=レオン博士は,この実験中,右脳を頭蓋外部から磁気刺激すると,右手を選ぶ率が,上記の60%から20%に落ちたが,当人は,その刺激に気づかず,自分の意思で左手を選んだ,と信じている,という。
こうした実験からわかるのは,自由意志とは本人の錯覚にすぎず,実際の行動の大部分は,環境や刺激によって,あるいは普段の習慣によって決まる。
池谷裕二さんは,こう断ずる。それを補強するように,イタリアの実験を紹介する。アメリカ軍基地拡張の是非をめぐって,モニターに,様々な映像や言葉が映し出され,良いものだったら左のボタンを,悪いものだったら右のボタンを押す。
モニターには,是か非がハッキリわかれる単語(幸福,幸運,苦痛,危険など)に混じって,アメリカ軍基地に関係した写真が提示される。
その人の好悪傾向が否応なく顕在化するという。自動メンタル連合と言われるものだが,その人にとって,アメリカ軍基地が是か非のどちらに無意識的に結合しているかが,わかってしまう。そうなると,当人が,「まだ賛否をきめかねている」と感じていても,最終的にどちらの支持に回るかが,決断する本人より先に,本人は無自覚でも,実験を行った研究者には,将来の回答がわかってしまう。しかも,それは本人の意識に上がる信念とはほぼ無関係だということが,重要なのだ。
ヒトは自分自身に無自覚であることに無自覚である。
だから,と池谷裕二さんは言う。
自分が今真剣に悩んでいることも,「どうせ無意識の自分の考えは決まっているんでしょ」と考えれば,気が楽になる。
そして,こう付け加える。
脳の自動判定装置が正しい反射をしてくれるか否かは,本人が過去にどれほどいい経験をしてきているかに依存しています。だから私は,「よく生きる」ことは「よい経験をする」とだと考えます。すると「よい癖」がでます。
ところで,件の,ケリー・マクゴニガルさんは,
意志力とは,「やる力」「やらない力」「望む」という3つの力を駆使して目標を達成する(そしてトラブルを回避する)力のことです
といい,自己コントロールを強化するには,まず自己認識力を高める必要があり,そのために瞑想が効果がある,と言っています。まあ,そうやって落ち着かせ,「目標から離れかけている自分に気づき,ふたたび目標へ向かって軌道修正する」と。
で考えてみると,自分を変えるためのいくつかは,たとえば,紹介されている例を挙げてみると,
①心拍変動の高い人は意志力の指標として優れている。そのため,食べ物や呼吸の仕方,運動,睡眠量によって,「心拍変動のベースラインを底上げできる」等々。
②意志力は筋トレできる。活動時間の変更,食べ物習慣,なにかを毎日継続する,自己監視のための記録をつける,望むことを日々確認する等々。
③モラルライセンシング(何かをするとすべてにモラルハザードの誘因になる)を防ぐために,善悪で判断しない,自分の価値に従って生きていることを確認し自覚する等々。
④ドーパミンは幸福をもたらさない。そのために心動かすものの正体を暴く,欲望のストレスを観察する,会館の誘惑に負けてみることで,楽しくないことを体感する等々。
⑤ストレス対処に,効果のある方法(ドーパミンによる報酬期待ではなく,セロトニンなどの脳内化学物質やホルモンを活性化させる),リラクゼーションを取り入れる,失敗した自分を許す等々。
⑥誘惑に駆られるのを防ぐため,10分まつ,逃げ道をなくす,将来の自分と約束する等々。
⑦他人のマイナス影響を避けるため,よいことをする仲間をふやす,努力を普通にする,認められたい力を作動させるため仲間に宣言する等々。
⑧「やらない」ということを「やる」に置き換える。衝動を観察して乗り切る等々。
最後に,ケリー・マクゴニガルさん自身がこう言っています。
自己コントロールの探求においては,私たちが自分に振りかざすお決まりの武器―罪悪感,ストレス,恥の意識―は何の役にも立ちません。自分のなかにせめぎ合うさまざまな自己の存在を受け入れ,うまくおりあいをつけているのです。
つまりは,自分に合った自分の生活のリズムと習慣を創り上げ,それにかなった方法を取れ,ということだ。よき習慣をつくるには,よき人と付き合い,学び合うこと。これに尽きる。自分のよき生活環境によって,いい習慣をつけることが,脳の自動判定力を鍛え,向上していく,これ以外に意志力の特効薬はない。
参考文献;
ケリー・マクゴニガル『スタンフォードの自分を変える教室』(大和書房)
池谷裕二『脳には奇妙なクセがある』(扶桑社)
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#スタンフォードの自分を変える教室
#ケリー・マクゴニガル
#池谷裕二
#脳には奇妙なクセがある
#やる力
#やらない力
#望む力
#意志力
2013年07月25日
「死」から見る
マジに,死から考えるのが,自分にとって,もはや当たり前になった。もうあと何年かが,気になる。そういう人間にとって,「未完了」などという言葉は,ちまちまして見える。その言葉に器量もスケールも感じられない。
死から考えると,どんなことも尺度が違う。
死はそれほどにも出発である
死は全ての主題のはじまりであり
生は私には逆向きにしかはじまらない
死を<背後>にするとき
生ははじめて私にはじまる
死を背後にすることによって
私は永遠に生きる
私が生をさかのぼることによって
死ははじめて
生き生きと死になるのだ(石原吉郎「死」)
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11029408.html
でも触れたが,もうひとつ,
重大なものが終わるとき
さらに重大なものが
はじまることに
私はほとんどうかつであった
生の終わりがそのままに
死のはじまりであることに
死もまた持続する
過程であることに
死もまた
未来をもつことに(石原吉郎「はじまる」)
僕は心底,コーチングで言う「未完了」という言葉が嫌いである。「未完了」と言った瞬間,評価が入っていることに敏感でなくてはならない,と思う。「完了」が是で,だから「未完了」は,非となる,と。
そうだろうか?
未完了ということは,「継続中」ということだ。人生もまた継続中だと考えれば,いまの時点で完了していないだけだ。「仕掛かり」状態で生きていくのが人生ではないのか。その仕掛かりは,いまを基準にした短期間でクリアするのではなく,一生をかけて片づけていく,そういうものではないか。
いや,そもそも人生で片付くなんてことがあるのか。すべては完成しないまま,継続する。完成といった瞬間,そこで行き止まりになる。人生に完成なんてない。すべてを同時進行で,平行に仕掛かりにしていく,そのあいまいさに耐えられない人間が,まあはっきりいって「仕掛かり耐性」のない人間が,考えた概念に思えてならない。単純に完成=是,と。余りにスケールが小さい。余りにも人生を見るパースペクティブが狭い。人間の器量を疑う。
いつやるの?
いまでしょ。
と言われそうだが,これは受験生に向かって言っている。しかしこれだって,いまやろうが,三年後やろうがどうでもいいのではないか。十年後再受験したっていい。それは受験生という概念を狭くとっている予備校教師らしい発想でしかない。彼にとっては,それが「いま」であって,そうでないひとには「いま」ではない。
未完了ということを言う人間の小賢しさが嫌いである。
多く,未完了の例示に挙げられていることが,実にくだらない。それを考えた人間の器量が知れる。お里が知れる。人生のスケールが小さい。人を見るスケールが小さい。
蟹はおのれに似せて穴を掘る。
自分のことを言っているのだ。「未完了」を気にしている小心で,スケールの小さいおのれという自分に合わせて他人を計っている。
完了って何?
人生における完了って何?
完了と完結とは違うのか?
完了とは,文法でいう完了形の意味では,完結また完結した結果の存続状態,とある。完結で変わらなければ,それでドン詰まり。完結は自己完結というようにそれ自体で閉じている。
人生に完了などということがあるはずはない。いつまでも,死んでもなお未完了は続く。
そもそも,僕は,その人にとって本当に必要なことは,必ずやる,と信じている。
必ずやらねばならないことは,必ずやる。やらないのは,その人にとって「いま」ではないからだ。いま必要ではないからだ。やめられないのは,本当はやめる必要を感じていないからだ。死ぬまで「いま」が来ないかもしれない。しかし,それがどうだというのだ。
その時間を無理やりつづめることは,無駄だ。むしろその人の人生のテンポを変えることだ。急ぎたい時は,人は急ぎ足になる。人様がとやかく言うことではない。
そう信じない人が「未完了」を口にする。あるいは,「未完了」という言葉を学んだ人がその言葉でおのれを振り返る。ひとは,もっている言葉で見える世界が違う。「未完了」などという小賢しい言葉でおのれの大きな人生を計ってはならない。それを考えた人物と同程度の器量になってしまう。
「未完了」というラベル(仮説?)に合わせて自分の人生を点検するほどあほ臭いことはない。
そもそも未完了という評価は,スパンを狭く考えすぎだ。そういっている人の器量を小さく見せるだけだ。
手塚治虫は,頭の中に3つくらいの次回作の構想があった,という。
ギロチン台に向かう貴族は,処刑台のところで,読みかけのほんのページを折った。
カフカの『城』も,埴谷雄高の『死霊』も,プルーストの『失われた時を求めて』も,ムージルの『特性のない男』も,中里介山の『大菩薩峠』も,夏目漱石の『明暗』も,ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』も未完…
それをしも,未完了というのか。
人生に完了などはない。すべては,継続中なのだ。人は,その継続しているままに死を迎える。そういうものだ。
これは生き方の問題ではなく,死に方の問題だ。
今日のアイデア;
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#未完了
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2013年07月26日
関係について
人との関係を,つながりという言い方には違和感がある。誰とつながっているかが大事なので,誰とでもいいというわけにはいかない。
僕は昔から,ひとと意味なくつながるくらいなら,一人でいよう,という思いが強かった。
「連帯を求めて孤立を恐れず,力及ばずして倒れることを辞さないが,力尽くさずして挫けることを拒否する」
これは,1969年1月,東大の安田講堂に立てこもった全共闘の学生が,壁に書き残したものとされているが,ほぼ同時代を生きた僕の記憶では,「連帯を求めて孤立を恐れず」自体は,全共闘運動の中のスローガンとして人口に膾炙していたもので,それが落書きされたのだと思う。事実関係は逆ではないか。
ともかく,この言葉そのものに,僕は強い共感を覚える。その是非は脇に置く。
そこまで,孤立して,おのれを尽くしたことがあるか,
と問われて,どう応えるか,そこにその人の生き方があらわれる。
ではどういう人とつながりたいのか。これは難しい。個々別々だからだ。
イメージ的には,ベン図の円が接しているか,重なりがどの程度か,あるいはまったく重なるか,自分の心地よい関係は,ベン図の円が接している程度がいいと思うが,必ずしも現実的にはそうでもなく,限りなく重なるか,限りなく遠ざかるか,どうも極端になる傾向がある。
しかしここの円が確立していなければ,どちらかが呑み込まれるか,二つ足して一つの円というような関係になる。それは僕は望まない。
相性の良し悪しとか,好悪とか,ということもあるが,何というか,両者空気のような関係がいい。いずれにとっても邪魔にならず,といっていっしょにいてほしい。
何かを一緒にするというビジネスライクな関係をここで考えているわけではないので,あくまで私的なつながりのあり方のようなことだ。
では逆に,どういう人とはつながりたくないのか。
まず,僕は,何かというとお金のことを言う人を好きになれない。そんなことは,その人の生き方とは関係ない,結果でしかない。はじめから金持ちだった奴も,貧乏たれで,金にあくせくしていたものも,どう生きているかだけが問われている。そういうと,メンタルブロックということをいう。そうではないのだ。
金は天下の回りもの
という言い方がある。所詮回っていくし,回っていかなくては,世の中がドン詰まりになる。何十年も生きてくると,金などどうにでもなると,気づく。別に人間万事塞翁が馬,ということを言いたいのではない。事実金は回る。タンス預金していたお金が,振り込み詐欺で世の中に回るのも,その是非を論ずるのをやめてみれば,確かに金が回っていくのに違いない。
次は,おのれを売り出すことに夢中な人。そういう人は嫌いではないが,僕はちょっと引く,というだけだ。自分を売ろうとせず,引っ込む人も,謙虚でいいが,一生そのままでいいのか,と問いたくなる。しかし売り込む人のそばで,引き立て役は御免だなと思っている。多寡は違えど,自分を売り込むことをしたくないわけではないからだ。
次は,信義の問題だ。誠実さとか誠意とか,あるいは人としての品格とか,そう言ったものは,所詮自分の主観の問題だから,絶対的な基準はない。たぶん,蟹はおのれの甲羅に似せて穴を掘る,それは自分の信義観を人に投影しているだけかもしれない。
最も嫌いなのは,だらしなさということに関わる。生き方だけではない,身の処し方,見過ぎ世過ぎの仕方にだらしなさを感じると,近づきたくなくなる。あるいは潔さに欠ける,という言い方のほうが適切かもしれない。それは別に覚悟とか決断とかを言っているのでも,性格のさっぱりしているかどうかを言っているのでもない。執着するのも,諦めの悪さも関係ない。
締まりがない,
節度がない,
ということになるが,かつてぼくも「のんべんだらり」と言われたことがあるので,そう利いた風なことはいえないが,
飄々としている,
のと
野放図
との違いといっていい。あるいは,
きまま
と
自由
との違いといってもいい。その違いは,主体的に選んでいるか,どうかなのかもしれない。たぶん,自分の意思でそうしているかどうかが,最も気になるのかもしれない。
でないと,ベン図の円同士が,緊張しない。
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#関係
#人間関係
2013年07月27日
分岐点
あの時,あれを選んだから,いまがあるというような,そんな大きな分岐点は,そうそうあるものではない。しかし人生は,日々分岐点だ。出かけるか出かけないか,とか,昼に何を食うか,とか,大小さまざまな決断の連続の中で,人生というタイムラインが,分岐していく。
そうしたいくつもの分岐点を分かれた結果が,いまの自分に至る。当然別の分岐に行けば,別の人生になる…かもしれないし,結局遠回りしても元へ戻ってくるかもしれない。しかし,いまの自分は,その分岐を経ているので,「たら」「れば」は自分を否定することにしかならない。
分岐というのは,それを意識する何かがあったからで,無意識で通過してきた分岐点は一杯ある。どんな選択肢があったかすらはっきり覚えていない。
変な言い方だが,選ぶ選択肢がはっきりしているときは,どちらを選ぶとこうなる,というような,イメージというか,マイナスのイメージなら不安で,プラスのイメージならわくわく感のようなものが浮かぶ時がある。あるいは,色かもしれない。それは,直観的に信じていい気がしている。
あるいは見えている(ような気がする)のは,パターンかもしれない。こういう人生というパターンが瞬間見える,だから選んだ瞬間,そういう人生が始まっている。
確かに,ある面,人生は分岐点の連続には違いないが,それは,
可能性の選択なのか,
不可能性の非選択なのか,
困難の非選択なのか,回避なのか,逃避なのか,
妥協の結果なのか,
『用心棒』の桑畑三十郎が,棒切れを投げて,行き先を決めたように,さいころを振って運否天賦を決めたところで,結果は変わらないのかもしれない。
たとえば,40代早々に,というか三十代の終わりに,会社を飛び出したが,自分がサラリーマン以外に仕事が向いているとは思えなかった。与えられた枠をはみ出すことは,確かに多々あったにしろ,自分に枠そのものを創り出す器量があるとは到底思えなかった。まあ,与えられた枠組みの中で平々凡々に生きていくタイプと思っていた。
しかし結果として,出ることを選んだ。どろどろの人間関係と無責任体質に,時間の無駄遣いに見えた。会社を背負ってやろうという気にはなれなかった。腐っていると見えた。
だから困難を回避した,
というのが選択理由かもしれない。でも,違う人生のパターンが見えた気がしたのも確かだ。
自由
というものだ。しかし同時に,ある種の寂寥感があった。悔いに近いが,もうすでに踏み出してしまった後だ。
自由とは飢える自由でもあり,不安の自由でもある。
その間,図書館に通っていた。時間を持て余したのではなく,通勤の習慣が残っていて,体が納得しなかったのだ。
そこで得たものがある。自分一人でとことん考えて考え詰めた作品が,一定の評価を得たことで,自分の考えのオリジナリティを意識したことだ。マジョリティにはなれないが,マイノリティなりに,自分の尖がりは表出できる。
そのときのフロー体験の,脳が沸騰する感覚は,ビジネスマン時代にたったひとり商品開発をこつこつ熱中してやっていたときの熱闘とはまた違う,脳だけが膨れ上がり煮沸する陶酔であった。そのときの,この世の中にこんなことを考えるやつは自分しかいないという孤高と矜持の体感覚は,感覚自体が薄れても,記憶にやけどのように残っている。それが僕の自恃のエンブレムである。
どんなに凹んでも立ち直っていけるのは,そういう他にない自分というコアらしいものをそこでつかんだせいではないか,それが,自分の分岐点を,自分で意識した最初かもしれない。
考えてみれば,最初に得た自信だったかもしれない。
まあ人様から見れば,出たとこ勝負,行き当たりばったりというのだろう。以来うん十余年,なんとかかんとか食いつないできた。
選択が正しかったかどうかの答えは,死ぬ時まで出まい。まだもう少し生きるつもりだから。
今日のアイデア;
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#分岐点
#タイムライン
#オリジナリティ
#決断
#意思決定
#選択肢
#エンブレム
2013年07月28日
吹き出し型会話
マンガでは,発せられた言葉が,人物から吹き出しで表現される。
しかし揚げ足を取るようだが,あれは,
内語
か
独語
と同じく,言葉は閉じこめられている。人に向かって開かれていない。
それでなくても,口頭のメッセージの歩留りは,25%という説がある。四分の一なのである。閉じられていては,もっと低い。
あるいは自覚的には,言葉を放っている。しかし,
その言葉にくっついている思いは別に閉じられている。
あるいは,
言いたい言葉を半分にして言う。
あるいは,
想いが言葉にならない。
いずれにしても,言葉は,肝心なことを吹き出しに閉じ込めている。
想いは必ず通じるということを,誰が信じさせたのだろう。
不徳のせいか,通じたことはほとんどない。
人はもともとまったく違う方向を向いている。というより,別々の方向を向いて生まれてきた。それが会話程度で一致するはずはない。
違う位置にいて,違う方向を向いている。
にもかかわらず,というかだからこそというべきか,人は嫉妬する。
僕は,嫉妬というのは,その立場に成り代われなかった,そこに自分がいたらよかったというそのポジションに自分がいない,どうあがいてもそこにいられないということに対する悔しさといっていい。
しかしそもそもそこには自分は立てないことは気づいている。気づいているから,なお悔しい。
その方向を向いていないのに,その方向にいたいと思う,その矛盾が嫉妬を生む。
まあ,悲しい性というか,おのれの方向について無自覚故なのかもしれない。
変えられないことに拘泥するより,変えられることに目を向けたほうがいい。
確かにそうだ。しかし変えられそうもないことを,変えようとして必死になっていくのも人生なのかもしれない。
一念,岩をも徹す,という。あるいは,
虚仮の一念。
僕は変えられないことを諦める小賢しさより,変えられないことを変えようとして一生を棒に振る人間が好きだ。「棒に振る」とは,他人の評であって,本人にとって,ずっとフロー体験なのだ。
そういう生き方がいい。
今日のアイデア;
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#フロー体験
#嫉妬
2013年08月09日
想像力
「第4回 女流漫画家,渡邊治四(ワタナベジョン)先生から学ぶ,キャリアアップのために必要なこと」に参加してきました。
https://www.facebook.com/home.php#!/events/517711378294743/
そこでのキーワードは,想像力だった気がする。ただ,想像力といった場合,僕は,
1.現実の知覚によって与えられていないイメージを浮かべる,
と同時に,
2.経験していないことを,(経験をもとに類推して)推し量る,
更に,
3.思い描く。未来ならビジョンとか夢になり,振り返ると思い出す,
の三つの意味があるように思う。
1が,いわゆる,イマジネーションと言っているときのそれで,非現実の世界を作り上げていく,フィクションの世界などが典型的だ。
2は,与えられた条件の中で,心の中で,段取りしたり,計画を立てたり,手順を描いたりしているときの,「いま」に接続して,延長線上を想定している頭の使い方で,推論したり,仮説を立てたり,演繹したり,帰納したり,といった推理や論理が入ってくる。いわば,思考力,思索力とほぼ境界を接している。わかっている範囲ではなく,未知の領域,やったことのない領域を,やったことから類推しつつ,どうなるか,どうしたらいいかを測っていく。
3は,2と近接しているが,もう少し茫漠と遠い先(遠い過去)を思い描いている。2に比べると,時間軸が,「いま」とは連続していない。だから,夢見る,空想する,もう少し踏み込むと妄想に近づく。
三者は微妙だが少し違うような気がする。
で,実は問題は,どの場合も,自分の経験をベースに,類推したり,飛躍させたりする。経験が,あっても,それを自分の中で体験としてメタ化されていないか,経験そのものが自分の中で意味づけられたり,位置づけられていないと,その経験は,未知のことを推し量ったり,思い描くリソースにならない。
いまの若い世代に想像力がないということが話題になったが,僕は日常的に見ていて,妥当な例かどうかわからないが,
若い母親が,スマホを見つつ,エスカレーターに乗っている幼児の足元を見ていない(子供のサンダルがが巻き込まれるのではないかという危険を想像していない),
同じケースは,自動ドアに幼児がはさまれたケースでも,母親側に幼児一人では危ないという危機の予期がない,
タクシーの運転手の人が良く言うのは,道路の真ん中を歩くことの危険について,ほとんど想像していない。車がよけてくれるというあなた任せの感覚に驚く,と,
仕事の場面でも,自分の立ち位置,居場所を自分で主体的に取ること(サッカーの優れた選手は,試合の動きを俯瞰する視点を持ち,自分がどこに行くべきか,何をすることが貢献できるかを考えるというポジショニングの)できない人は,(ボールを追い回すサッカー選手のように)仕事の流れに身を任せているだけの人になる(ボールが来ないと立ち尽くすことになる)。
等々と,想像力というか,普通なら,予知したり予期する危険や状況について全く考え及ばないことをよく目撃する。
これは確かに想像力不足なのかもしれないが,いわば人間の本能的な予知能力,感知能力の低下の方を強く感じてしまう。たぶん,この想像力欠如は,クリエイティブという意味の創造力には決してつながらない。頭に描けなければ,現実化は必要ない。
とすると,想像力を,創造力とつなげるとすると,
想像力を頭で描く力とする。
創造力をそれを現実化する力とする。
とすると,クリエイティブ不足は,想像力不足も確かにあるが,ちょっと違う見方をすると,どうも両者は相関になっていて,現実化の力量が,想像力の技量を制約する,という気がしている。
つまり,現実化の経験,たとえば作家なら(小説でも絵でも漫画でも)作品を一つの完結した世界としてまとめる習作の経験がなければ,一見想像力は自由のようだが,ほぼ空想に近似し,ただふわふわ浮いている妄想にとどまる。それでは,現実に形としてまとめようがない。
そういうのは,想像力というより,ぼんやり空想,妄想しているだけという方が正しい。
想像力というには,どう着地させていくかが,どう現実のカタチにしていくかが,あるいはこうすればカタチになるというまとまりがなくてはならない。
その意味では,書いて(描いて,計画して)みて,こう書く(描く,やる)にはどういうイメージと構造とストーリー(世界)が必要なのかが見えてくる。
そのとき,想像力は,血肉を付けて鍛えられる。脳の想像力の筋トレは,技量の筋トレとセットなのだと思う。
僕は人の能力を,(もちろん経験がベースだが)
知識(知っている)×技量(できる)×意欲(その気になる)×発想(何とかする)
と分解する。発想とは,何とかしなければどうにもならない事態を何とかして乗り切る,という力技のことだ。出来ようが,できなかろうが,四の五の言わずやりきってしまうためにどうしたらいいかを考え突破していく力だ。それには,上記の例でいうと,習作の数ということになる。しかし数をこなせばいいというものではない。習作の目的から考えれば,自分の限界を見きわめる経験でなくてはならない。
やったことがない,
できそうもない,
ハードルの高い壁にチャレンジし,それをなんとかかんとかまとめあげる。その場数だ。
ビジネスの場面でも同じだ,単なる場数ではない。そういう自分の限界線を突破することにチャレンジしなければ,
出来る範囲で,
知っていることを,
やれるだけのことをやる。これでは,使い慣れた(機能的固着した)頭を,使いまわしているだけの,自分を縮小再生産し,認知症予備軍を作り出しているようなものだ。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#女流漫画家
#渡邊治四
#ビジネス漫画
#創造力
#想像力
#空想
#妄想
#機能的固着
2013年08月20日
捨てる
捨てるについては,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11033741.html
で触れたことがある。なんとなく,捨てることに,意味を持たせたがっている風潮が好きにならない。
僕が社会人になったころ,ワンウェイということで,使い捨てがキャッチフレーズであった。捨てるはプラスの意味が与えられていた。確かヤクルトが,ボトルの一体成型から充填までの一貫生産プロセスを完成したとかで,見学に行ったことがある。古い話だ。
いまは,エコであり,もったいないがキーワードだ。
しかし捨てるが流行っている。断捨離の教祖が,
断捨離というと新しい片づけ術かと思うかもしれませんが、そうではありません。断捨離とは、モノへの執着を捨てることが最大のコンセプトです。モノへの執着を捨てて、身の周りをキレイにするだけでなく、心もストレスから解放されてスッキリする。これが断捨離の目的です。 必要もないもの、使わないものを手放すことで、本当に必要なもの、本当に価値のあるものがさらに浮かび上がってきます。
と,のたまっている。
僕のようなへそ曲がりは,心が整理できないことと,ものが整理できないことは無関係で,ものを整理したことで,何かが片付いたように錯覚するだけだと思う。心が片付いていないから,片付いていないものが気になっているのだ。ストレスがあるから,執着するものが気になる。見ようによっては,逆立ちしている。たぶん,教祖はおのれを語っている。蟹はおのれに似せて穴を掘る,とか。
ものを捨てても片付いていない心を片づけるためには,現実に立ち向かうほかはない。ストレスも同じだ。江戸の仇を長崎で討つことはできない。
まあ,何を言っても,蟷螂の斧ということだろう。つまらぬことに寄り道しすぎた。本題に入ろう。
全く違うところから捨てるについて考えてみたい。
それにしても,何を捨てるのだろう。
ヒトか,
モノか,
カネか,
チエか,
情か,
意か,
コンテンツか,
コンテクストか,
思いか,
執着か,
捨てることで手に入れられるのは,何だろう。自由,自然体ということなのか。
違う気がする。捨てることで,得られるのは,その決断した自分の潔さだけなのではないか。それで何かが変わるのではなく,その潔さで,リアルのいまを生きられるかどうかだ。それは捨てたことで得られるのではない。その後の話だ。
僕は,これまで一杯の,ヒトとモノを捨てた(いやヒトは,捨てられたのか?)。本は,建て替えにあたって,大々的に捨てた。でも,不思議に本は,捨てると,その本を探すということが出来する。だから捨てられない。執着しているのは知識であり,知恵だ。本ではない。
いままで書き溜めた三十年分の日記もメモも習作もすべて捨てた。捨てたのは,過去であって,いまの自分の執着やこだわりやストレスではない。捨てたことで,いまの自分の執着は断ち切れない。いまの自分は,いま生きているなかで執着しているのだから。
日記ももう何年も前に書くのをやめた。一日を振り返ることは,過去にこだわることだ。いまにこだわれば,日記はいらない。
いまを生きるとは,過去とは関係ない。過去がいまを拘束すると思っているのは,そういう言い訳を言えば楽だからにすぎない。そんなことでいまが突破できるはずはない。
多分捨てることで一番大事なのは,ヒトではないか。
ヒトとの関係ではないか。ヒトを捨てるということは,その関係を捨てることだ。その関係を捨てるということは,そういう自分のありようを捨てるということだ。
組織を捨てるということは,組織の中で生きる生き方を捨てるということだ。それは,別の生き方を選択することになる。
もしモノを捨てることに意味があるとすると,そういう自分の生き方に関わるものを捨てるということだ。
例えば,包丁を捨てるとは,板前というあり方を捨てるということだ。
ペンを捨てるということは,物書きというあり方を捨てるということだ。
断捨離とは全く逆なのだ。
必要でないものを捨てるのではない,
必要不可欠なものを捨てることだ。
それは人生のひとつの選択肢を閉ざすということだ。それが本当の捨てるということの重みだ。そのとき,リアルな心の決断が先にある。その結果として,捨てるが来る。
もちろん迷っている時,捨てることで背中を押すことはある。しかしそれは,リアルの決断そのものが先にあることに変わりはない。
断捨離が逆立ちしているとはそういう意味だ。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#断捨離
#捨てる
#決断
#決心
#決断
2013年09月09日
経験
人は経験しているが,日々時間の流れの中で,忘れていく。それでなくても,8時間後には,学んだことの半分ないし,3分の1は忘れていく。
人によっては,とても口では言えないくらいのドラスチックな経験をしたり,すさまじい冒険をしたりしている。
僕は経験が非日常的だから,そこに価値があるとは思わない。所詮非日常は非日常だ。冒険家だって,社会へ復帰すれば,ただ日々食うために生きて行かなくてはならない。
大事なのは,そういう何げない日常の積み重ねだって,経験だということだ。
悩んで底の底まで味わい尽くした人が,必ずしも素晴らしいことを会得したとは思わない。それは,その人が,普通の人なら凹みもしないことに凹んだだけのことだ。凹まない人にとっては,軟弱な悩みに過ぎないかもしれない。
どんな経験も,結局その人にしか役には立たない。その人が自分の経験を生かすも殺すも,それを貴重なリソースにするか単なる過去の思い出にするかは,自分の経験をどうメタ化したかにかかっている。
他人にとってどんな意味も価値もないものでも,自分が生きていく上で,大事なリソースなのだ。
例えば,とことん失恋で悩んだとしよう。しかしそれ事態は,大なり小なり,誰でもが体験することのひとつに過ぎない。その体験から,
何を得たのか,
何を学んだのか,
そこに自分のどういう特徴をみたのか,
(男女に限らず)人との関わりにおいてどういう発見があったのか,
そこで何が大事で,
何に価値があり,
どんな意味があるのか,
等々。そこで必要なのは,「人とは」とか「恋愛とは」とか「男女関係とは」と,一般論を語ることではないし,そこで分別や人生訓を得ることでもない。
人の発想とは,
知識と経験の函数,
という。大事なのは,良かれ悪しかれ,そこに自分のリソースのすべてが出たということだ。人は,経験から類推したり,延長したりして物事を推し量る。それなら,元のメジャーができていることだ。
もっと言えば,イマジネーション自体,その人の意識にないものはイメージできない。
蟹は甲羅に似せて穴を掘る,
という。それは悪い意味ではない。そこにしか自分らしさ,自分の個性,人と違う何かは,ない。
ならば,徹底的に自分らしさを突き詰めていく。それが一番手っ取り早い。
自分は,この世に一人しかいない。という意味は,そういう可能性がある,というだけの,蓋然性を言っている。
自分を掘り下げるとは,自分の経験をメタ化し,それを広げ,掘り下げていくことだ。そこが,
自分になる,
ための,金城湯池なのだから。
人生は,生涯を懸けて,
自分自身になっていく,
そういう舞台なのだ,と思う。いくつになっても,伸び白は残っている。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#自分になる
#リソース
#生きる
#伸び白
#メタ化
2013年09月26日
沼山
横井小楠,沼山津へ転居後,沼山とも称した。僕はこの号が好きだ。
小楠は,二度,日本を大回転させるべき機会で,狭量なるテロリズムによって,その行く手を遮られた。一度は,同じ熊本藩の勤王党によって襲撃を受け,二度目は,新政府に招かれたところで暗殺された,尊攘派志士によって。
小楠については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11153147.html
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11154332.html
で触れたが,もう少し書いておきたいことがあり,補足的に書く。
小楠の有名な詩(二人の甥を龍馬に託して洋行させる折送った送別の詩)
堯舜孔子の道を明らかにし
西洋器械の術を尽くさば
なんぞ富国に止まらん
なんぞ強兵に止まらん
大義を四海に布かんのみ
には,小楠の理想が託されている。小楠は,本気だったのである。松浦は,こう説明する。
異文化の巨大な圧力にさらされていた19世紀の小楠にとっては,堯瞬3代を読み替え,自分をそれに一致させてヨーロッパの「事業の学」に対抗することで精一杯だったのであり,…「事業の学」の内面にまで切り込まなかった小楠においては,西洋の技術は,導入すればよいものとしてとらえられる。劣位の学として輸入し,優位の学である小楠の心徳の学に組み入れ,後は逆にこちらから影響を与える…
福沢諭吉あたりの腰軽な和魂洋才とは,その気組みが全く違う。「大義を四海に布かんのみ」は,本気なのである。
人君なんすれぞ天職なる
天に代わりて百姓を治ればなり
天徳の人に非らざるよりは
何を以って天命に愜(かなわ)ん
堯の舜を巽(えら)ぶ所以
是れ真に大聖たり
迂儒此の理に暗く
之を以って聖人病めりとなす
嗟乎血統論
是れ豈天理に順ならんや
という小楠の詩も,
武家政権と儒教との近世二百数十年にわたるなれあい関係に終止符を打って,幕藩体制を百パーセント儒教主義に読み替え,読み替えたとおりの政治を本気で実現しようとしていた小楠の本心と見ることができる。すなわち,そこにあるのは,儒教の,革命論である。将軍や藩主の世襲原理の否定である(当然その論理の延長線上には必然的に天皇も来る)。
松浦玲は,その小楠伝の最後を,こう締めくくっている。
小楠は,最後まで儒学者であり,その儒学的理想を日本に実現し,世界に拡げようと念願し続ける政治家であった。小楠をここまで追跡してきた私には,彼の理想が,実現不可能な空想だとは思えない。多年講学し続け,その上,越前藩や幕府での実践を経た,ずっしり手ごたえのある思想だと感じられる。むろん小楠自身もそう自負していた。明治元年の廟堂では,おそらく彼一人が,自分を中心として世界に仁義の大道を敷くというほどの大構想を持ち,それを本気で実現するつもりだったのである。
暗殺は,その大構想を,まだ実現の緒にもつかないうちに絶ち切ってしまった。
しかし,世の中には,そうは思わない人がいて,神風連の源流,林櫻園を対比しながら,渡辺京二はいう。
(堯舜孔子の道を明らかにし云々の詩は)櫻園にいわせればこれはとほうもない誇大妄想というものであったろう。ヨーロッパ文明との接触はそれから「器械の術」だけをいただけばいいようなものではなく,小楠にとっての「大義」すなわち「堯瞬孔子の道」を必然的に崩壊させずにすまぬことを,彼はおそらく洞察していた…
という。こういうのを読んで,何の血も流さず,引き籠って冷ややかに評論を垂れる輩と思う。それはこれを書く著者渡辺京二も同じだ。蟹はおのれに似せて穴を掘る。
櫻園は畳の上で,大往生し,小楠は,今日の路地で,脇差が刃こぼれするほどに戦って,首を刈られた。
僕には,こういう人たちが,途方もない壮大な構想の足を,いまも昔も引っ張り続けているとしか思えない。
小楠は言う,
既に衆と正義を非とすれば
天理何れの処にか求む
一たび和同の意を生ずれば,
忽ち子莫の舟に乗ぜん
と。「子莫の舟に乗る」つまり中を取るだけはしない。
人必死の地に入れば 心必ず決す
天地仁義にもとづいて信義を貫く
とも。これが小楠の生涯を懸けた軸であった。
ところで,小楠の『学校問答書』『兵法問答書』を高杉晋作が筆写しており,編集者はそれを知らないまま,高杉の著作と思い込み,高杉晋作全集に高杉の著作物として載せられたというエピソードは,高杉が,福井藩での小楠の成果を見に行って,長州へ招こうとしたという逸話とともに,記憶されてよい。
参考文献;
松浦玲『横井小楠』(ちくま学芸文庫)
渡辺京二『神風連とその時代』(洋泉社)
野口宗親『横井小楠漢詩文全釈』(熊本出版文化会館)
今日のアイデア;
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#松浦玲
#横井小楠
#渡辺京二
#神風連とその時代
#野口宗親
#横井小楠漢詩文全釈
#高杉晋作
2013年10月11日
夢
夢については,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11125804.html
で書いたことがある。イメージしたことは実現できるというが,
http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11306201.html
でも書いたように,人は,そう途方もないことをイメージできない。なぜなら,意識にないものはイメージ化できない,ある意味で,それは,いまの心の中にあるものを,
最大限に膨張させたもの,
になる。それはだから,実現可能性が高い,ということなのではないか。
しかし,もうずいぶん昔から,夢見てきて,遂に実現できていないことがある。努力もまあ,一応した,しかし,それは遂に果たされない。そんな程度の努力だ,といわれるかもしれない。それはそうだ。血の尿の出るほどの努力とは到底言えない。ただ,強く感じているのは,人は,おのれのDNAの限界は超えられない,ということだ。
まあ,言ってみれば才能だ。
思うに,
努力も才能だ。
それ以上の努力は,しようと思っても,できない。いやいや自分の限界を決めてしまうところが,そもそも才能なのかもしれない。
力足らざるものは中道にして廃(や)む。今汝は画(かぎ)れり。
そう孔子はおっしゃる。はじめから自分で自分に限界をつけている,と。その境界線もまた,才能なのではないか。どこまでも伸び白が自在に伸ばせるかどうか,その努力に限界を設けないのも,また才能なのではないか。
何となくおのれの才能に見切りをつけかけてくると,なんとなく,そう言いたくなる。
閑話休題。
夢と言うと,
I Have a Dream.
というキング牧師(マーティン・ルーサー・キング・ジュニア)のあの声が耳元に聞こえる。
そう,夢がある,
という言葉はきれいだが。それを支えるのは,イメージしたり思うだけでかなうことはない。
趣味の世界なら,
私は絵を描いてます,
私は詩を書いています,
私は役者をやっています,
私は野球をやっています,
等々というのは悪くない。しかし,その境界線内にいることを潔しとしない瞬間から,つまりはプロフェッショナルとして生きていこうとするときから,視界に大きな壁が広がる。というか途方もない広くて長い階段が見えてくる。それを目指したものにしか見えない,幻の階段だ。
それをフロー体験などという言葉で言い換えたら,たぶんそれはプロの世界ではなく,趣味の世界だ。イチローが好きなことをやっていても,楽しくはない,と言ったのに象徴されるように,「楽しい」「夢中」は,趣味の世界だ。
しかもそれは,ひとつ登るたびに,頂上はますます遠のき,雲のなかに消えて見えなくなる世界だ。
いい例かどうかはわからないが,弁護士でも税理士でも,あるいはカウンセラーでもコーチでも,それで食って行けるかどうかは別にして,店を開けば,それでいい。しかし,個人の才能が問われる,個人「芸」の世界では,その芸のレベルは歴然とした差がある。その差は,やっているものの技量のレベルに応じてしかわからない。
それは才がはっきり問われる。努力だけでカバーできるとするには限界がある。仮に,イチロー並みの努力をしても(できはしないが。出来たとしても),イチローにはなれない。
その厳しい現実の前で,夢は妄想に近づく。
夢は実現できる,
という言葉の持つ厳しい現実が見える。
そして思う。それで夢が諦めきれるなら,それはここで言う夢ではない。他の何か,野心だったり,願望だったり,希望だったり,という他の何か,夢ではない何かなのだ。
夢は,一生かけて追うものなのだ。
あるいは,おのれの一生分に値する何かなのだ。
今日のアイデア;
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#マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
#夢
2013年10月16日
不器用
まあ,不器用といっていい。人との付き合いも,仕事の仕方も,そう器用にサクサクと片づけていけない。尾を引く。
器用の,
器
というのは,ひとつは,
はたらき(才能)
であり,いまひとつは,
度量
であり,器量の器,大きさといっていい。いまひとつは,
うつわにする,
つまり,才能に従って使用する,
ひとつのことに役立つ,
という意味になる。孔子の言う,
君子は,器ならず,
というときの器である。人を見るときの測り方に,
器量
度量
技量
力量
裁量
とあるが,器用というのは,
力量といった,物の用に役に立つか立たないかという側面と,
もっと細かな,手先がよくきき,仕事をうまくこなすという技量の側面(悪くすると,抜け目がない,要領がいいというニュアンスになることもある)と,
その他に,器量がいいの容貌とか人品骨柄の面,意外にも,
潔い
という意味がある。そこには,度量や器量や裁量といった,そのひとの大きさに関わる部分がある。
僕が不器用(無器用とも書く)というとき,
ぶっきっちょ,
とか
要領のわるさ,
を指す。あんまり,小器用に立ち回れず,立ち居振る舞いから,真意が漏れてしまうというか,面従腹背といったことができないというか,そんなことを指す。
そのために,損をしたかというと,いちいち思い当ることはない。
ただ,真っ正直に立ち向かうために,
いつの間にか,労働組合をつくる先頭に立たせられていたり,
いつの間にか,最前列でトップと矢面で対決させられていたり,
いつの間にか,その開発をひとりで担わされることになったり,
いつの間にか,あらゆる仕事を背負い込まされていたり,
いつの間にか誰かを庇って逆に自分がその矛先を受けることになったり,
等々,まあ気づくと損な役回りをしていることが多い。だから,日頃の言動から,何かとトップ批判と,相手に受け取られ,真意が誤解されることもある。しかし,そういう無骨で,骨太な役回りに立たせられることが嫌ではない。内心は,ぶるぶる震えるような緊張感と怯えを抱えながら,こぶしを振り上げざるを得ないことが何度あったか。
そう,それを無器用,と呼ぶなら,器用な立ち回りの出来ない質なのだと言った方がいいのかもしれない。
だから,
是は是,
非は非,
と公然と口にする。その意味で,常に煙たい存在だったのかもしれない。言いたいことを口に出させず,腹ふくるる状態には堪え得ない。腹の中にしまっておけない質なのかもしれない。
とうとうトップと公然と対立せざるを得なくなったのも,まあ自業自得。器用な世渡りはできない。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
#器量
#度量
#技量
#力量
#裁量
#要領
#武骨
#不器用
#器用
2013年11月14日
引っ掻き傷
かつて入社してしばらくたったころ,年長の先輩から,
この会社に引っ掻き傷を残せ,
と言われた。その時は,何か自分の名前のついて回る新商品を出せ,という意味だと聞いていたものだが,いま考えると,そういうことだけではなく,もっと,自分という存在が,そこにいた痕跡を残せというような意味だと理解している。
いまはこの会社は,社員の何人かが買い取って,別の会社になっているが,ついこの間まで,何十年も前に開発した自分の商品を継続して売っている,と聞いてびっくりした記憶があるが,痕跡は,そういうことではなく,
自分の仕事の仕方,
自分の仕事のスタイル,
自分の仕事のノウハウ,
自分の仕事の流儀,
自分の戦いのスキル,
が,会社の仕事の仕方として,(誰かの中に)残っていく,大袈裟に云うと,風土や文化として残っていく,というのがいわば誇りの原点のように思う。変化の激しい時代だから,そんなことは望むべくもないが,そういうつもりで自分の仕事の流儀をつくりあげていくというのは,なかなか面白いのかもしれない。
いまは一人で仕事をしているが,それは,自分の仕事の仕方,自分の考え方,自分のノウハウ,自分のスキルそのものが,商品になるかならぬかを日々試される連続であった。
僕は基本的に,誰かのやり方,誰かの発想,誰かのスキルを受け継いだことはない。言ってみれば,あっちこっちから「いただいた」ものを自己流につなぎ合わせただけかもしれないが,すべては,「僕の」と名札をつけられるものだ。誰かの受け売りでも,誰かの系譜を継ぐものでもない。あえておこがましい言い方をすれば,僕の流派そのものだ。たとえ細々とした流派でも,それが,こういう家業をやるものの気概だと信じている。だから,誰かの弟子にも,誰かの免許も,誰かの教えも受けないできた。だから,よくよく聞くと,なんだい,それは,アメリカの誰かの受け売りではないか,とか何処かのコンサル会社で学んことではないかとか,ということは一切ない(つもりだが,継ぎ足しだから,自信はないが)。
たった一人の,なけなしの頭で,我流でつくり上げてきた。だから,ときどき「出典は」とか,「どれくらい信憑性があるか」とかという問い合わせをもらうが,(権威性のない自分も情けないけれども)そんなものはない。試してみればいい,いいと思えば使えばいいし,だめなら捨てればいい。それだけのことだと思っている。そもそもそういう発想をしている人は,結局権威に依存して,その虎の威を借りないとものが言えない人なのだと思う。
そう考えてから,産業カウンセラーのシニアの受験資格を得ても(それなりの投資をして講座をすべて受けたが),受験するのをやめた。以来,資格を追加するのをやめた。資格でモノを言ったり,資格の意向を借りるのは,結局虎の威を借りないと,自分の言っていることに箔がつかないと思い込んでいるのだと思うようになった。
昔知り合いのコンサルタントが,コンサルタントは,
虚業
だと言った。その意味が分かる。必要不必要とは別に,実業の修羅場にいないで,修羅場について,コンサルティングするということの,おこがましさがわかっていない人が多すぎる,と感じている。
自分は実業の場を,逃げ出したか,ほおり投げたか,卒業したか,リタイアしたか,は知らない。ともかく,脚抜けした,今その場にいない,ということの自分の存在の軽さを意識しなくてはいけないとつくづく思う。
ずいぶん昔,経営学者が自分の会社の社長になってその会社を潰したということがあったが,その乖離がわかっていないということだ。その距離は,遥かに大きい。だから,
何をするために,そこにいるのか,
という,(E・H・シャインのいう)どんなプロセス・コンサルテーション(医者,看護師からコンサルタント,コーチ,セラピストまで)に携わっているものも,自分の出発点を忘れてはいけない。
現場を逃げ出して,コンサルやコーチやカウンセラーになってほっとしている人間が,上から目線で(メタ・ポジションという便利な言葉がある)モノを言うのは,おのれを知らなすぎる。逆に,
逃げ出したからこそ,
その修羅場がわかり,ものがよく見えるというのなら,それはそれで伝わる。
なんだろう,自分は,この世の中を動かす修羅場に直接携わってはいない。楽なところにいる,という後ろめたさを持たないのだろうか。
原子力の専門家は,安全なところから,評論する。現場の人間は,毎日,修羅場をくぐっている。くぐらなければ,現場を変えられないからだ。先日いわきにいったが,いわきを拠点にして,原発に向けて一直線につながる国道沿いを,毎朝,大勢の作業員の人が,車に分乗して出かける。除染の人,工事の人等々等々…。それを現場と呼ぶ。
必要なのは,その修羅場を戦い抜くための武器だ。専門家というなら,そのための武器を提供する。それが第一線で戦っている人々への礼儀というものだ。
ほんとうの幸せとは何か,
本当にしたいことは何か,
ほんとうの自分と出会う,
おいおい,本気かよ。いま修羅場で,戦場で戦っているものに,それはないだろう。それって,戦いをやめろっていうことなのか。僕には,楽なところにいる人間の,たわごとにしか見えない。人を見くびりすぎているように思えてならない。
仮設に住みながら,ずっと新規会社を立ち上げている人たちと会話してきたが,その人に言うべき言葉を持っているなら,一緒にやればいい。言うべき言葉がないなら,黙って,別のフォローをすればいい。一番は,戦う武器を提供することだ。
こころのケアお断り
の張り紙(を貼りだした仮設住宅の人の思い)の重さを感じる感性がなかったら,
あるいは,
自分への後ろめたさがなかったら,
人間としてどこかおかしい。プロセス・コンサルテーションに携わる人間なら,なおさらおかしい。僕は,徹頭徹尾彼らに役立つスキルだけを,対話しながら伝える,というより一緒に考える。それだけが,現場を動かす,彼らの自信となると信じているからだ。
自分について考えるのは,
どう生きるかとか,
どう自分の人生を受け入れるかと,
何のために生きているのか,
等々は,立ち止まって考えることではない。戦いながら,走りながら,考えるべきことだ。ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』の中で,うろ覚えだが,「赤の女王」は,
その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない,
と言っていた。戦うとは,立ち止まれないということだ。そこから脚抜けしたものには,彼我のスピード感の落差に気づけない。
僕も,確かに,修羅場で戦いながら考えていた。走りながら考えていた。その時の方が,フルスロットルで,頭は高速回転していたと思う。
だから,そんな程度の問いは,自分の中にある。誰にでも,そういう問いがある,と僕は信じている。それを後回しにしても,やりきらなければならない何かを抱えているだけだ。もしそういう現場にいる自分に嫌気が差せば,人に言われなくても,さっさとリタイアするだろう。(いつだったか,タクシーの中で,女性のドライバーの人が,ある日突然その臭気に耐えられなくなって福祉施設を辞めてゼロから男と伍するタクシードライバーに転じた,と言っていた)。
はっきり言って,それは本人が自分自身で考えるべきことだ。おのれの人生の責任を負っているのは,自分自身だ。僕はそんなあほなことを,上から目線で教えるような人間にはなりたくない。それは,人間としておかしい,と思っている(もっと言うと,そんな楽なことをヒマこいて考えていられるのは,いま修羅場で戦っている人々がいるおかげではないのか)。
僕のすべきことは,
その修羅場を,動かしていくために,どうすればいいのか,
その修羅場は,どうすれば,もっと楽に動くのか,
その修羅場を,戦いきるために何があればいいのか,
それを一緒に考える。
その時,
その場で,
その人と,
という一回性の中で,正解なんてない。しかし,どう考えれば,それに風穴があき,どうすれば,それを動かせるのかの,考え方,スキルは,身の処し方は,一緒に確認できる。
もし役に立たなければ捨てればいい。スキルとはそういうものだ。そして,スキルは,おのれが使えなければスキルにならない。
僕にできることは,もっとはっきり言うと,
修羅場を動かす武器
を,一緒に磨いていきたい。ビジネス・スキルとは,そういうものだ。
まだまだ磨き足りない。
今日のアイデア;
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#E・H・シャイン
#プロセス・コンサルテーション
#ビジネススキル
#ルイス・キャロル
#鏡の中のアリス
#赤の女王
2013年12月20日
諦める
諦めるは,
思いきる,
仕方がないと断念したり,悪い状態を受け入れたりする,
それまで続いていたものを終わりにすること,
といった意味が辞書にある。しかし,この「諦める」は,「明らむ」の,「明るくなる」という意味以外の,
物事を見きわめる,
物事が明らかになる,
確かめられる,
という意味からきているという。
ということは,諦めると決めたとき,どっちにしろ,(それが正確かどうかは別にして)自分なりに見積もっている,ということになる。
多く,諦めるとき,
自分を小さく見積もり,相手(対象)を大きく見積もる,
諦めないときは,
自分の力量を大きく見積もり,相手(対象)を小さく見積もる,
と言えそうだが,実は,相手がどうあろうと,自分がどうあろうと,自分の続けたい意志,思いを捨て兼ねたというのが近い。
いい例かどうかわからないが,二年ほど前,初マラソンで,青梅マラソンにチャレンジしたことがある。始めてたぶん三ヵ月か四ヵ月で,正直無謀とは思ったが,とにかく走り出した。ただ,後ろからなので,スタート地点に立つまでに,15分か20分を要した。で,まあうしろのほうから,のろのろ走ったのだが,15キロ手前で,あと10分と言われたのだが,折り返しが目前のところで,右手に15キロの関門が見え,折り返しから,そこまで,2,300mくらい,その時点で鐘が鳴っていて,無理と諦めてしまった。足が痛いのが,その後押しをした。
しかし,だ。途中でリタイアしたことより,15キロまで走って,そこで時間切れと言われたのならまだしも,その手前で,断念したことを,今もずっと悔いている。
つまり,そこで諦めたのだが,その見積もりは,残りの距離に比して,脚を引きずるようにしていた,自分の残り体力を対比して断念したことが,早まった諦めだと,ずっと尾を引いている。
潔さというのは,ある意味,自分を捨てることなのではないか,という気がしてならない。
あるところで,池田屋で新選組に襲撃され,割腹した宮部鼎蔵を,
池田屋で逃れられるものを逃れず,あっさり諦めるような潔さを,士道と呼ばぬ,
といった人がいる。僕も同感である。そこで逃げずに割腹するのは潔いかもしれぬ,しかし,それは,おのれを安く見積もりすぎではないか。おのれの志と,思いは,それほど安っぽいものなのか,と思う。
多く士道を,
暴虎馮河し死して悔いなき者,
と勘違いしている向きがある。僕は士道とは,腕(ぷし)ではなく,心だと思う。思いだと思う。志だと思う。
そこであっさり投げ出す程度の志なのか,
ということだ。あるいは,西郷の言ったとされる,
命もいらず,名もいらず,官位も金もいらぬ人は,始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは,艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり,
も,『論語』の孔子の言葉とは微妙にずれる。子曰く,
暴虎馮河し,死して悔いなき者は,吾与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼れ,謀を好みて成さん者なり,
と。必ずや事に臨みて懼れ,
その実現のために,おのれの命を安売りしないもののことだ。臥薪嘗胆といってもいい。
僕のマラソンはさほどの志ではないが,
諦めてはいけないことを諦めた,
諦めるべきでないところで諦めた,
という悔いがある。志があるなら,地を這っても,赤恥をかいても,生きのびねばならない。
死生,命あり,
である。おのれの天命を自ら断つのは,非命である。
おのれの命を安く見積もってはいけない,それはおのれの想いを貶め,おのれ自身を卑しめることだ,まして,それを士道とは呼んではならない。
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#士道
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2013年12月30日
分れ道
何気なく,分れ道と書いて,別れ道とはちょっとニュアンスが違うことに気づいた。岐路の意味で,分岐点と同じ意味で言い換えたつもりだが,そこには,メタファーが潜んでいて,別れ道というと,人との別離が意味されているということに気づいた。当然,その先には死別が含意されてくることになる。
ちょうど分岐点のところで,手を振って別れる。握手して別れる。いまなら,乗り換えのところで,そうやって別れる。それが,永久の分かれ,ということを意識するほどの別れ方はしない。だって,明日があると思っているから。もし明日がないのだとしたら,別れそのものがない。
昨今絆ということが言われれば言われるほど,僕のようなへそ曲がりは背中がこそばゆくなる。出会いも分かれも,自然で,そうなるべくして会い,そうなるべくして別れる。「さようなら」が,「左様なるわけですからお別れします」と意味であるのは,なかなか意味深なのだとつくづく思う。
人は孤独なのだ,ということをどこかで思っている。どうせ思いがすれちがう寂しさを感じるくらいなら,そんな出会いなど無用だろう,と思わないでもない。しかし,人はまた一人では生きてはいけない。
何となく疎遠になった人は少なくないが,きちんと別れた人は,そうは多くない。どこかに,かぼそいながら,縁を残しておきたい無意識のなせるわざか,ただ自然にそうなっただけかははっきりしない。
死別した友人の数もそう多くはないが,親との死別だと,僕の中に何かが残されたという感じがある。しかしまだ友人の死で,それを感じたことはない。遠くから,いつも僕のことを気づかってくれていた(と聞かされていた)友人が亡くなった時も,そうは感じなかった。
別れ道というのは,分岐点という意味では,それを選択しなかった,という意味でもあるが,そっちの道を捨てた(取らなかった)という意味でもある。その瞬間に,孤独が際立つ感じがする。
安部公房の最初期の作品に,確か,繭になる話があって(『赤い繭』),その孤独感が,印象に残っている。あらすじは,
帰る家のない「おれ」は,日の暮れた住宅街をさまよううちに,足から絹糸がずるずるとのびてゆき,どんどんほころんでいった。その糸は「おれ」の身を袋のように包みこんでいって,ついに「おれ」は消滅し,一個の空っぽの大きな,夕陽に赤々と染まった繭となった。だが家が出来ても,今度は帰ってゆく「おれ」がいない。踏切とレールの間のころがっていた赤い繭は,「彼」の眼にとまり,ポケットに入れられた。その後,繭は「彼」の息子の玩具箱に移された…,
というのだが,覚えているのは,繭になった部分だけだ。原文が手元にないので,全くの記憶だけだが,そのぬくもり感を奇妙に覚えている。たぶん,そのとき僕も孤独だったのだろう。
別れる時,
またね,
と言うか,
じゃあね,
というか,
それでは,
というか,まあそんな感じで,僕はさようなら,という言い方をしないことに,ふと気づく。たぶん。今の延長線上で,また会うことを暗黙のうちに含んでいるからだろう。
そのとき,別れは,分岐でも岐路でもなく,またこの先で出会う道だということを含んでいる。
あるいは,鈍感なのか,矜持が強すぎるのか,僕の場合,人との出会いより,別れた後の悔いの方が大きい。出会うことで得るよりは,別れた後に教えられることの方が多い。そういう不心得な質なのだ。
たとえば,こんな感じで,さりげなく付き合いが始まり,
どこまでつきあえる
あの町かどの交番が
さしあたっての目安だが
その先もうひとつまでなら
つきあってもいい
そこから先は
ひとりであるけ
立ちどまっても
あるいても
いずれはひとりなのだから(「目安」)
そう,こんなことを言いそうなのだ。僕も,そして,いつの間にか惰性となり,
こんなにつきあうと
思ってもみなかったな
つきあっていて なんど
君に出会ったかな
つきあえばいいと
いうものではない
つきあえばというものでは
行ってくれ
どてんとしてくれるな(「つきあい」)
最後は,別れになる。
ここでわかれることに
する
みぎへ行くにせよ
ひだりへ行くにせよ
きみはもう
かえってきてはならぬ
ぜんまいのような
のびちぢみに
いちにちやふつかは
耐えるにしても
のびきったところで
それはもうおわるのだ(「死んだ男へ」)
別れた後に,その人の影が,ずっと,向こうに見える。どちらも立ち止まらず,歩き続けるか,どちらか一方が立ち止まって,後姿を見届けるか,いずれにしろ,本当は,別れは,そのように分岐していく。その道がまた会うということは,本来の別れにはない。
別れは,どんな時も,孤独の確認であり,自分の確認なのかもしれない。あるいは,
別れの数だけ成長する,
というのかもしれない。それは,自分との分岐ということでもある。
と同時に,ふと思う。そういう別れは,別れた後に,自分の中に,別れた相手の影があることに。死別と生別とを問わない。それだけ,別れを意識した人との間には,自分にも,相手にも,それぞれの相手の影が,滲み,沁みとおっている。
僕の中に一人だけ思い当る。
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