2013年12月31日

出会い



人と人がすれちがうのは,それだけのことだが,そこでちょっとしたつながりができると,そこで二つの世界がつながる。それぞれ二人が一緒に運んでいる,

自分の人生そのもの,

生きる場所そのもの,

が出会う。それは,

それぞれの個人として背負っている来歴であり,

それぞれのつくっている場であり,

それぞれの持っている空気感であり,

それぞれの醸し出す雰囲気であり,

それぞれがつながっている家族であり,

それぞれがつながっている人とのリンクであり,

それぞれがつながっている地域であり,コミュニティであり,

それぞれの培ってきた知識であり,知性であり,教養であり,

それぞれの積み重ねてきた人生そのものであり,

それぞれの考えてきた考え方であり,

それぞれの大切にしている価値であり,美であり,

それぞれの懐いている夢であり,希望であり,

それぞれの抱懐している野心であり,志であり,

それぞれの視点であり,ものの見方であり,

がそこで一瞬触れ合い,あるいは重なり,あるいは混じり合う。

その緊張と共鳴と反撥とが,出会いの面白さなのかもしれない。

その出会いそのものから生まれるのか,

出会いのもたらすインパクトが,

自分に化学変化を起こさせるのか,

は,えり分けられないが。

清水博さんの

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11189806.html

で触れた「自己の卵モデル」で言えば,

黄身の自分の外延としての白身部分の混じり合いである。だから,そこでは,化学反応も起きれば,拒絶反応も起きれば,融合も起きる。

そこで,二人による新しい場になるかどうかは,それはその出会い自体からはわからない。

どうせなら,一方的な併呑ではなく,両者で化学変化を起こし,

白身が変質し,

黄身自身も変容させ,

そのことで白身も変化し,

両者の関係そのものにもまた変化が起きる,そして,

そこに全く新しい世界を,それぞれが獲得する,

そういう出会いがいい。

それは,別に永続というか,持続しなくてもいい。一瞬の出会いでそれが起こるかもしれない。

一旦起これば,距離が離れていても,そこでつくられた関係の世界は,つながっていくはずである。

さて,今年も多くの人と出会うことになったが,

もともとは,2011年のある新年会で,ちょうどその直前に読んでいた『U理論』を一言で,「開く」だといい,今年のテーマは,

「開く」

だと言ったあたりから,始まったことだが,それが高じて,昨年あたりから,積極的に,自閉的で自律的〈というか孤立的〉な世界を捨てて,外へ開き始めたが,おかげで今年も多くの人と出会い,自分の中で多くの化学変化が起きた,と思う。

その変性結果は,来年以降に顕在化するような気がする。


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm





#清水博
#自己の卵モデル
#化学変化
#出会い
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2014年01月01日

責任



責任の取り方を知らないものは,ヒトの責任の取らせ方も,自分が責任を取るとはどういうことかをも弁えない。だから,いったん人が責任を取ったことで決着したことを蒸し返す。そして,リセットしたがる。

日本に多いのは,

一億総懺悔

のように,誰もが悪いというカタチにすることだ。これは,誰も責任を取らないということだ。すべての人のせいにするということにひとしい。

そういう無責任な人ほど,

自己責任

として,個人に押し付け,見捨てる。その当の本人は,イラクについても,原発についても,一切の責任を取らない。いまどき原発ゼロを安全な圏外から叫ぶのは無責任そのものでしかない。

一億総懺悔と自己責任は,

無責任体制を示す双極といっていい。

リスボンシビリティとは,結果責任と言われるが,そうではない。これを有言実行の意味だと言った人がいるが,だからこそ,結果責任なのだ。

自分の責任で決断し,自分でその責を負う,

という人を昨今見かけたことがない。

かつて勝海舟は,行蔵は我に存す,毀誉は他人の主張,とうそぶいたが,それだけの責任を一身に背負い,幕臣の戦後処理を続けた。こう言う人を見かけない。

勝にとって一身を賭けて譲った国家が,私されるのを厳しく批判し,伊藤博文らの批判者であり続けた。

戦後体制を壊し,アンシャンレジームを目指すのは,それこそ無責任なもののすることだ。戦後体制は,

第二次世界大戦を始めたもののけじめ,

である。このけじめすら取れないものに,世界に伍して発言していく資格はない。

靖国も,憲法改正も,

結局一度もきちんと責任をとらない,取らせることができない国民であることを,世界に標榜することでしかない。
戦後一貫して,なし崩しに,戦後のけじめをぐじゅぐじゅにしてきた総仕上げといってもいいのかもしれない。しかし,その瞬間,日本という国は,結局,何百万,何千万の人間を殺し,あるいは苦しめた責任を,取らないのだと宣言することに等しい。

人のせいにして始めた戦争の責任のけじめの取りようがないのと同様,人に押し付けられた戦後体制ということにして,結果として,また責任を放棄する。

これがけじめであり,

たとえそれが擬制であったとしても,それを受け入れて,続けていくことが自分のした始末のけつをぬぐうことだという,当たり前のことさえわからぬ人が多いことに,僕は恥ずかしい。

それは,結局,

負け,

を一度も受け入れられず,負けたふりれをしていただけということだ。これは,卑怯者のすることだ。女々しいとはこういうことを指して言う。

負けとは,あるいは全面降伏とは,その時点で,自分を捨てることだ。両手を上げるとはそういうことではないのか。

そのはずだ。降伏文書に署名するというのはそういうことだ。

負けた以上,その責任を誰かが取らなくてはならない。恥ずかしいことに,自分が責任者だと,自裁した人は,ほんのわずかしかいない。そのこと自体,さむらいなどという言葉を二度と使ってほしくないほど,恥ずかしい。

ようやくけじめとして責任を取らせたはずなのに,それ自体不当という,認めないという。

ではもう一度戦い直すのか,その勇気もない。

にもかかわらず,卑怯にも,その後ずっと一貫して,そのけじめをなかったことにしたがってきた。そして,その責任を取らせたはずのモノを復権させようとしてきた。それは,負けの撤回に等しい。恥ずかしくないのだろうか。

だろうな,でなければ死んだ者(殺したもの,死に追いやったものとはあえて言わない)に顔向けできないはずだ。そしてそのことをかみしめている人は,黙って,語らない。沈黙している。

それをいいことに,…

やめよう,きっと馬の面にションベンだ。

僕は恥ずかしくて仕方がない。そういうひとが,臆面もなく,さむらいなどということばをいい,責任などということばをいうことに。

いずれ,早晩,また臍をかまされるに違いない。

しかし,また一億総懺悔か自己責任だけがまかり通るのだろうか。

それだけはなしにしなければならない。歴史は,一度目は悲劇だが,二度目は茶番だ。



今日のアイデア;
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#一億総懺悔
#自己責任
#責任
#悲劇
#茶番


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2014年01月16日



士が士であることを許されるのは,

二本差し

であるということだ。一本なら,長ドスを差したヤクザ,渡世人と変わらない。士が士であるとは,脇差を指している,ということだ。それは,自分を裁く刀を持っている,という意味でなくてはならない。だから,士には切腹が許される。でなければ,士が無職渡世と変わらぬ暮らしをしているだけの無駄飯食い,寄生虫と変わらない。

戒め,

である。自戒あっての士である。

士とは,志あるものをいう。

士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己れが任となす,亦重からずや。死して後已む。亦遠からずや

ならば,

約を以て失(あやま)つもりは鮮(すく)なし

と。つまりは,

日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか,朋友と交わりて信ならざるか,習わざりしを伝えしか,

である。何度も例示する,五省は,

一,至誠に悖る勿かりしか
一,言行に恥づる勿かりしか
一,気力に缺くる勿かりしか
一,努力に憾み勿かりしか
一,不精に亘る勿なかりしか

本来自省を促しているはずである。だから,日本を占領したアメリカ海軍の英訳文をアナポリス海軍兵学校に掲示したのだと思う。それを忘れれば,夜郎自大に過ぎない。

志士仁人は生を求めて以て仁を害することなく,身を殺して以て仁を成すことあり

自己責任とは,ある意味自戒と自制をもつ者のことだ。その意味では,有言実行とは,

言は必ず信,行は必ず果,

でなくてはならない。だから,

仁を為すは己れに由る

のである。

それゆえ,士道とは,

暴虎馮河し,死して悔いなき者,

ではない。士道の「士」とは,

子曰く,士にして居を懐うは,以て士と為すに足らず

で,貝塚茂樹氏曰く,ここで言う士は道を求める同士の意味が強い。理想の実現できる国を求めてどこへでも出かけなくてはならない。故郷にしがみついていてはいけない,と。

「士」とは,「志」のために,「私心」を捨てるもののことだと思う。とすれば,それは,腕力でも,膂力でもない。まして武力でもない。

必要なのは,心映え,

である。それは,ただおのれの胸中にある。僕の記憶では,横井小楠は,

士道とは,ここにある,

とおのれの胸を拳で叩いた。そのことである。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)


今日のアイデア;
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#貝塚茂樹
#論語
#横井小楠
#五省

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2014年01月28日

未来



未来は出現するものなのか,

未来は到達するものなのか,

という問いがふと出てきた。あるいは,未来は,

ひらめくものなのか,

見えてくるものなのか,

といってもいい。あるいは,

未来は,未来からやってくるものなのか,

未来は,過去からやってくるものなのか,

と言い換えてもいい。あるいは,

未来は,線形か,

未来は,非線形か,

と問い直してもいい。

普通に考えると,

過去の選択がいまを呼び寄せ,

いまの選択が未来を呼び寄せる,

と言えるはずだ。しかし,

人との出会い,

出来事との出会い,

を通して,自分の選択といえなくもないかもしれないが,それによって,ふいに,思ってもいなかった,

未来が出現する,

ということがある。その時,そう感ずることもあるし,後になって思い当ることもある。そこでは,不意に未来が,屹立したイメージだ。あるいは,不意に舞台のホリゾントが破れて,向こうに世界が開けた感じといってもいい。

しかし,普通は,横井小楠が言うように,

人は三段階あると知るべし。天は太古から今日に至るまで不易の一天である。人は天中の一小天で、我より以上の前人、我以後の後人とこの三段の人を合わせて一天の全体をなす。故に我より前人は我前生の天工を享けて我に譲れり。我これを継いで我後人に譲る。後人これを継いでそのまた後人に譲る。前生今生後生の三段あれども皆我天中の子にしてこの三人あって天帝の命を果たすものだ。孔子は堯舜を祖述し、周公などの前聖を継いで、後世のための学を開く。しかしこれを孔子のみにとどめてはならない。人と生まれては、人々皆天に事(つか)える職分である。身形は我一生の仮託、身形は変々生々してこの道は往古以来今日まで一致している,

と,過去を引き継いで,過去の偉人の肩に乗って,

はるかな未来が見えてくる,

という感じではないか。そのとき,未来は,歩一歩,ステップをたどって登っていく先に開けてくる。

しかし,その場合も,未来は,出現の機会を待っている,

と言ってもいいのかもしれない。信仰で言えば,親鸞が,絶対他力で,第十八願,

至心に,心の底から阿弥陀仏を信じて名号を称えれば,必ず浄土へ行ける,

を信じきることで,浄土から光が差す,という。これはね神人によって,未来が出現するもといっていい。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11414351.html

でも触れたように,清澤満之は,これを,

天命を安んじて人事尽くす,

と言った。それを引き受ける,ことで,未来が出現する。

だから,確かに,未来は,過去の生み出すものでもあるが,しかし,同時に,自分が,

いま,何を引き受けるか,

によって,未来は,そこに道となって開く,とも言える。

清水博さんが,

場は,未来からくる,

と言われたのも,あるいは,自分の姿勢,ありようを,さしている,といっていい。

だから,言い換えなくてはならない,

未来は,出現させる,

ものだと。そのための,覚悟と,意思がいる。


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#未来
#線形
#非線形
#出現
#横井小楠

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2014年02月03日

断念



断念,という言葉のニュアンスが好きだ。何だろう,ちょっと個人的には,潔さを感じてきた。

意味は,「諦めて,思いきる」。しかし,調べていくと,少しずつ,ニュアンスが変わる。思い切ると一言で言っても,

諦める,

思いきる,

の他に,

見切る,

見限る,

放り出す,

投げ出す,

思いとどまる,

踏みとどまる,

投げ捨てる,

手放す,

匙を投げる,

手を引く,

お手上げ,

ひっこめる,

等々,必ずしも,自分の意志とは限らず,

何かの想いを捨てる,

何かの執着を捨てる,

という意味合いにも,自分で見切って,断ち切る場合と,投げ出す場合のふた色があるが,その他に,

何かを仕掛けていたのを中断する,

イケイケどんどんな突進に急ブレーキをかける,

という踏みとどまるニュアンスもある。しかし,自分の意志でそうしたという以外に,

不承不承といったニュアンスの,ちょっと追い詰められた,詰め腹を切らされる感じも色濃くある。だから,

断念したのか,

断念させられたのか,

断念せざるをえなかったのか,

断念を強いられたのか,

で,思いは違う。

「念」という字は,同義の他の文字と比較すると(『字源』による),

「思」は,思案の思い,
「憶」は,思い出す,
「意」は,こころばせ,心映え,
「想」は,相手やカタチに心を映す
「惟」は,ただ一筋に思う,
「懐」は,ふところ,心にこめて思う,

とあり,「念」は,「思」より軽い,とある。

ということは,断念は,あまり思い入れするようなことではなく,ペットボトルを道端に捨てようと思って諦めた,程度のことなのかもしれない。

しかし,「念」を何々という単語を洗ってみると,

想念/雑念/情念/記念

というニュートラルなものよりは,

信念/丹念/懸念/執念/観念/専念



邪念/怨念/疑念/放念/失念

といったものの方が多い。必ずしも,「思」より軽いとは感じない。そのせいか,

瞬間を断念において
手なづけるために(石原吉郎「断念」)

と言ったり,

海は断念において青く
空は応答において青い
いかなる放棄を経て
たどりついた青さにせよ
いわれなき寛容において
えらばれた色彩は
すでに不用意である(石原吉郎「耳を」)

と言ったり,断念には,重さが付きまとう。

時間が筋肉をもつときの
断念と自由を
同時にきみは
信じなくてはいけないのだ(石原吉郎「時間」)

断念は,手放す自由とつながっている。断念が重いほど,手放す自由が大きい。最期,否応なく,すべてを手放さなくてはならない。それが,強いられたものではなく,おのれの「断念」となるために,すべてを手放していく必要がある。最後の最期は,すべての関係も,関わりも手放す。そのとき,

非礼であると承知のまま
地に直立した
一本の幹だ (石原吉郎「非礼」)

一本の,ただ立つおのれになる。ひとは,

自分自身になるために,

生きる。最期まで生きる。

今日のアイデア;

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#断念
#石原吉郎
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2014年02月04日

心ばえ



心ばえは,心映えとも,心延えとも書く。いい響きの言葉だ。

辞書には,こうある。

「映え」はもと「延へ」で,外に伸ばすこと。つまり,心のはたらきを外におしおよぼしていくこと。そこから,ある対象を気づかう「思いやり」や,性格が外に表れた「気立て」の意となる。特に,心の持ち方が良い場合だけにいう。

そのほかに,

「おもむき」「風情」「事の次第」「気立て」「心遣い」「おもむき」「心だて」

といった意味もあるらしい。心の状態が,外へ広がっている,写し出されている,というニュアンスなのだろうか。まずも悪い意味で使われることはなさそうだ。

「心映え」の「映え」の,「映える」は,栄えるという意味で,

光を映して,美しく輝く。その結果目立つ,というニュアンスになる。「化粧映え」につながる。

「心延え」の「延え」の,「延える」は,敷きのばす,という意味で,

「進む」「伸びる」「及ぶ」「展きのぶる」,というニュアンスになる。蔓延の,蔓がはい延びる,につながる。

ここからは,妄想になるが,

心ばえ

といっても,

心映え

と書くのと,

心延え

と書くのでは,少しニュアンスが変わる。

上記にもあったように,心延えと書くと,

その人の心が外へ広がり,延びていく状態をさし,

心映え

と書くと,「映」が,映る,月光が水に映る,反映する,のように,心の輝きが,外に照り映えていく状態になる。

似ていると言えば似ているが,

おのずから照りだす,

心映え

がいい。それが,その人の,

ありようからきている,

なら,なおいい。僕個人は,

周りへの影響のニュアンスの,

心延え

よりは,何か一人輝きだしている,

心映え

がいい。まあ,そういう生き方をしてみたい,と思う。つい,何か言葉でそれを言い出してしまう。しかしそこには,我執がある。何かすることで目立とうとする自分がいる。それは,心映えが悪い。

そのありよう自体が,おのずと輝く,

はえは,

栄え

とも書く。その在り方自体が,誉れであるような,

そういう生き方,あり方をしてみたいものだ。


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#心延え
#心映え
#心だて
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2014年02月10日

きめつけ



きめつけも,思い込みの一種だ。こうでなくてはならない,という。それは自分だけにしてほしい。

たとえば,

人は,過去の経験がいまを決めている,

過去に蓋をしてはいけない,

自分に向き合わなくてはいけない,

自分をありのままに受け入れなくてはいけない,

自分を見つめなくてはならない,

等々というのが,僕は嫌いである。そういうことができない人間は自分を受け入れず,結果として他人を受け入れない,という。

それは過去からくるのでも,自分と向き合わないからでもなく,

いまその瞬間,

その人と向き合わない,

その人と向き合うのを避けた,

その人と向き合うのから逃げた,

等々という程度のことだ。そのことで,その人の人生が台無しになるようなことではない。その人は,そのとき,その人に向き合いたくないし,受け入れられなかった,というただそれだけのことだ。

いつもの持論として言うが,

過去がその人のいまを決めているのではない,

いまのその人のありようが,過去の見え方を決めている,

それだけのことだ。

大事なのは,いま生きている自分であり,

いま,何かから逃げているか,

いま,何かをしなければならないのに,避けているか,

いましなければならないことから,目を背けているか,

という「いま」だ。いま,

自分が生きていく上で,しなくてはならないこと,やらなければならないことを,弁えているかどうかだけのことだ。

あえて言えば,そういう立場や状況から逃げないでいることの方がもっと重要だ。向き合うなら,自分のいるその場面や状況にこそ向き合うべきだ。

過去や内省,自己分析を重視するのは,心理を齧ったものの悪い癖だ。ひとは,いちいち内省しない。そんな暇はなく,駆けずり回っている。

もし立ち止まることが必要なら,そのときが必ず来る。それが死の直前だろうが,それがどうしたというのか。ひとは,自分で選択する。自分と向き合う必要があると,気づけば,自分で向きあう。

それを向き合いなさい,

とは,他人のおせっかいだ。

僕は基本的に,過去を脱ぎ捨ててきた。その時々の人間関係も含めて,多くは脱ぎ捨ててきた。それについて,自分の性分や性格を分析しようとは思わない。所詮結果論だからだ。

ある時から,日記をやめ,すべて捨てたのも,それが理由だ。

その都度置き去りにした自分の影は,必要なら,必ず追いついてくる。

私は私に耐えない
それゆえ私を置き去りに
する
私は 私に耐えない それゆえ
瞬間へ私を置き去りにする
だが私を置きすてる
その背後で
ひっそりと面をあげる
その面を(石原吉郎「置き去り」)

追いついてきたとき向きあえばいいのではないか。



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#石原吉郎
#過去
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2014年02月11日

若さ


サミュエル・ウルマンの詩の一部に,

歳を重ねただけでは,人は老いない。理想を失った時にはじめて老いがくる,

というのがあり,老人には,言い訳が出来そうな感じだ。さらに,

青春とは人生のある期間ではなく,
心の持ち方を言う,

となると,まだ若いとはしゃぐかもしれない。だが,僕はそうは思わない。

人は,20代では,その年代でしかできないことをし,その積み重ねの上に,30代があり,その上に,40代があり,
50代がある,60代がある。

僕は昨今の年寄が,若さだけを競うのはおかしいと思っている。若さしか強調できないということは,歳にふさわしい知識と経験を自分の中に蓄積できなかった証のように見えてくる。

子曰く,吾十有五にして学に志し,三十にして立ち,四十にして惑わず,五十にして天命を知る。六十にして耳に順う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず,

というのは,まあ人生五十年の時代のこととして,これに比して,何歳か上乗せするにしても,歳にふさわしいありようがなければ,単なる呆けと同じである,と僕は思う。

確かに若い心をもち,

60歳であろうと16歳であろうと人の胸には,
驚異に惹かれる心,おさなごのような未知への探求心,
人生への興味の歓喜がある。
君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美・希望・喜び・勇気・力の
霊感をうける限り君は若い,

というのは悪くない。しかし,それは若者だから,このあとの三十代,四十代があるから,意味のあることなのではないか。

僕は,若々しい精神を持つことと,積み上げてきた人生の蓄積の上で,何をするかというのは,別だと思う。後残り少ない人生で,何をするのか,何ができるのか,はそれまでに何をしてきたかの結果として,おのずと現れる。

二十代の冒険心と,五十代六十代の冒険心とは違う。だから,(ひとのすることに茶々をいれる気はないが)七十,八十で最高峰を踏破したからといって,ちっとも素晴らしいとは,僕は思わない。ましてそのために,若い人を支え役にする,というのは,その人の人生を費やさせていることなのではないか,そう思う。

もちろん,年甲斐もなく,などとは言わない。

しかし,天命を弁えたとき,おのずと,おのれの使命があるはずだと思うだけである。

子曰く,後世畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるをしらんや。四十五十にして聞こゆることなきは,これ亦畏るるに足らざるのみ,

とは,年月を積み重ねてきたものにしか言い得ないことのはずである。それを,目利きと呼ぶ。

いま本当に必要なのは,こういう目利きというか,時代眼というか,時代精神なのではないか。

若いということは,別の言い方をすれば,愚かということではないのか。思慮が足りないということなのではないのか。

しかし若さは,未来に向かって開いている。その若さを,生き生きと発揮できる世界を創っていくことが,先行したものの役目なのではないのか。

だからこそ,若さよりは,思慮を,知恵を重んじたい。

それは,たぶん,老成や熟成とは無縁の時代への突っ張り,尖がり方である。

後からくるものに,借金と,核のゴミと,荒廃した国土を残していくことが,いま生きている,今まで生きてきた先輩たちのすることなのか。

彼らが,先人の肩に乗って,更に遠くを見る視界を得られるようにするために,

いまできることは何か,

いましなくてはならないことは何か,

いましておかなくては取り返しのつかないことは何か,

を考えること,これこそが,先に生きてきたものの使命ではないのか。

天命を知る,

とは,おのれの寿命を弁えることであると同時に,おのれの生まれてきた所以,使命を自覚することなのではないのか。

だからあえて言うなら,

ときには20歳の青年よりも60歳の人に青春がある,

かもしれないが,20歳の青春と60歳の青春は,違うのだということだ。20歳のすることに,60歳がチャレンジして,競うことではない,そう僕は思っている。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)

今日のアイデア;
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#サミュエル・ウルマン
#青春
#貝塚茂樹
#論語

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2014年02月13日

悔い


怒りは常に愚行に始まり,悔恨に終わる,

と,ピタゴラスが言ったそうだ。しかし,怒りが爆発する瞬間,束の間,そうどれくらいかわからないが,コンマ,コンマ何秒か,頭をこのまま行くとまずいぞ,という思いがよぎる。それを蹴散らすほど怒りが大きければ,その止め立てする,何と呼ぶか,理性のようなものを,踏み潰す。しかし,何十回に一回か,踏みとどまることがある。この差は何だろうか。

前にも書いたことがあるが,人生で最大の怒りの爆発時,あっ,これはまずいかも,という思いが頭をかすめた。それを蹴散らして噴出させた怒りについて,しかし不思議に後悔したことはない。

ここは勝手な妄想だが,コンマ何秒かで,どうする,このまま行くか,やめるか,を秤にかけたのだと思う。だから,一瞬自分の頭に,目の前で自分を止める両手が浮かんだときは,ほんの一瞬,是非を測っている,と信じている。

では,悔いるとはどういうことか。

辞書的には,

自分のしたことについて,そんなことをすべきではなかったと思う,

のだという。そこで思うのだが,

それは結果が失敗だったからか,成功だとしたら,そうは思わないのか。成功でも思うことがありそうなことはあるが,ともかく,だとしたら,それは,

結果から,

あるいは,

その結末から蒙ることから,

そう後悔するのだろうか。後悔先にたたず,というが,あらかじめ予期することができるなら,そんなことはしない。ということは,

結果を覚悟せず,軽率に踏み出した,そのマインドのことをいうのか,

結果を考えて,慎重にすべきだった,その振る舞いのことをいうのか,

結果を考えず,やみくも突っ走る,その生き方をいうのか,

結果を推し量りもせず,軽々に動くそのありようをいうのか,

どれを指しているのだろうか。そして,そう問いを立ててみて気づくのは,

もうひとつ,その踏み出し,あるいは振る舞いは,

自分でコントロールできないことをコントロールできるかのごとく考えたことなのか,

自分でコントロールできるかどうかをよくよく考えずに踏み出したことを言うのだろうか,

僕は,石橋を叩いて渡るタイプではないので,あえて暴言を吐くとすると,

コントロールできるかどうかは,実はやってみなくてはわからない,問題は,コントロールできないと分かった時,どうするか,誰に支えてもらうか,といったことを考慮していたかどうかが,問題なのではないか,

とは思う。しかし,もっと言うと,

やってみなくてはわからないなら,無駄にあれこれ逡巡するより,やっちゃった方が早い,

で,もしそれで,引っ返しが効かないのなら,その時点で改めて考えればいい。そう考える。少なくとも,そこに,他責はない。時代のせいでも,状況のせいでもなく,ただおのれの力量不足のせいとしか考えない。

だから,ひょっとすると,悔いる,ということはあまりない。あるとすると,

自分の力量,技量の見誤り,

を悔いるだろう。もっと力があると思ったのに,こののろま,と自分を罵るかもしれない。

だから,天命を安んじて人事を尽くす,

という清沢満之の姿勢が,自分にはぴったりくる。


今日のアイデア;
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2014年02月23日

もっともらしさ


ベンジャミン・メイズというアメリカの教育者は言う。

人生の悲劇は,ゴールに到達しなかったことにあるのではない。
悲劇はゴールを持たないことにある。
理想を実現できないのは不幸ではない。
実現すべき理想がないことが不幸なのだ。

僕はへそ曲りだから,疑う。本当か。

悲劇というのは,本人が嘆いているのか,周りがそう言っているのか。
不幸というのは,本人が悲しんいるのか。周りがそう評価しているのか

悲劇というのは,何を基準に言うのか。喜劇ならいいのか,ハッピーエンドならいいのか。では,何を指してハッピーエンドというのか。

不幸というのは,何に対して言うのか。幸せとは何をいうのか,不幸と幸せを分ける基準なんてあるのか。

何をした人か知らないが,

上記の文章は続く。

星に到達できないのは恥ではない。
到達すべき星を持たないのが恥なのだ。
失敗ではなく,理想の低さが罪なのである。

人は結局自分を語っている。そう本人が,不幸と思い,悲劇と思っている,ということを語っているにすぎない。

基本的に,「~と僕は思う」という,主語(ベンジャミン・メイズ)が抜けている。こういうのを,(時枝誠記氏の言う)ゼロ記号という。僕は,ゼロ記号化された語りを基本信じない。

これについては,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0924.htm

で,「言葉の構造と情報の構造」ということで語ったことがある。日本語が主語がないのではない。日本語が強く文脈に依存しているからにすぎない。必要としないだけだ。必要とするときに,言わなければ,信頼されないだろう。英語であっても事情は同じだ。(一般化ないし原則として語るような)意図を持った語りは,必ずゼロ記号化される。

そういうときは用心した方がいい。

僕は生来の怠け者らしく,昔,先輩から,

のんべんだらり,

としていると,結構厳しく叱責された記憶がある。なぜなのか,僕は,それを,

何となく無為に過ごす,

と受け止めて恥じたが,しかし考えたら,なぜ恥じなくてはならないのか,といまなら思う。

僕は不精ではあるが,のんべんだらりというだらしなさはないと,いまでも思っている。どちらかというと,自分では,

のほほんとしている,

という方が当たっている気がしている。のほほんは,無頓着だけれども,無為に生きているわけではない。

ゴールなどという大層なことは考えない,
まして,
理想などということを考えない。第一,ゴールは,あくまでゴールで,その先には別のゴールがある,ということは,それはゴールではなく,通過点でしかないではないか,という茶々入れないが,そう思うと,ゴールなんぞで,悲劇だの喜劇だのと言われたくはない。

人生自体には目的はないかもしれない。

生体としての人は,ただその天寿,あるいは遺伝子の持つ可能性を全うすることが目的と言えば言える。そこには,おのずと,その人生を生きる役割があるはずだ。その意味で,ゴールは,そういう役割の手段に過ぎない。そんなものの有無で,悲劇なんぞと言われてはかなわない。

理想だってそうだ,理想,どういう理想なのか,その中身は問わないにしても,理想の有無だけで,幸不幸を忖度されてはかなわない。それこそ大きなお世話というものだ。

何のための理想なのか,

こそが大事なので,理想の有無なんぞ,何の価値基準にもならない。

大体が,こういう格言だか名言だかを,人を測る物差しにされては,迷惑だ。

人は,人の数だけ尺度が違う,人は自分の人生と自分の天寿を持つ。それを,誰それの尺度なんぞで測ろうなんて,ふてえ料簡というものだ。

だから,タイプだの性格診断だのを信じない。人の数だけ人の特性があり,それをタイプに押しはめたら,かならず,そこからはみ出すものがある。それを見ない人は,たぶん,タイプの眼鏡でしか人が見られない人だ。人の個性とは,誰も,タイプからはみ出す。そのはみだしたところにこそ,その人の持つ大事な何かがある。

そういう信念のない人は,自分だけあてはめていればいいのである。人さまのことを推し量る資格のない人だ。僕はそう思っているし,僕は,そんなタイプにはまり込むほど,典型的な人間ではない(と信じたい)。

人は,人の数だけ尺度がある,そういう信念のない人間が援助職をしてはならない。


今日のアイデア;
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2014年03月21日

普通


普通には,広く一般に通じるという意味と,どこにでも広く見受けられ,つまりありふれている,の意味がある。しかしこれを英訳すると,

常態,あるいはレギュラーという意味の,

Normal(反対は,abnormal)

と,共通というか共有するという意味の,

Commont(反対は,uncommon)

と,いつものの意味の,

Usual(反対は,unusual)

のほかに,

Ordinary(反対は,extraordinary)

というのがある。別に英語に強くないので,あてずっぽうで言うが,四者の区別は,厳密にはつかないが,average,つまり並みの,ありふれた,というか,特別ではないというか,平々凡々,というのが,Ordinaryにふさわしいような気がしている。

それは,勲章なのだ,とこの頃思う。

ルイス・キャロルの,『鏡の国のアリス』に登場する,赤の女王が,

その場にとどまるためには,全力で走り続けなければならない

It takes all the running you can do, to keep in the same place

と言ったが,その平凡さを保つのは,実はそんなに,容易ではない。水面下で,ばたばたと足をばたつかさなくては,その場にとどまりつづけることは難しい。

ワナメーカーというアメリカの実業家が,

自分の仕事を愛し,
その日の仕事を
完全に成し遂げて
満足した軽い気持ちで
晩餐の卓に帰れる人が,
最も幸福な人である

と,言っていた言葉は,彼の理想なのか,現実なのかはわからないが,そういうニュアンスが読める。

僕の父親は,官吏で,二三年毎に,全国転勤しまくったが,幸か不幸か,職住接近で,5時少し過ぎには官舎に帰ってくる毎日だった,と記憶している。

地方検事

が職業だったが,昨今は知らず,その当時は,地方では名士らしく,転勤の度に,当時の国鉄の駅長室に案内されて,そこで時間待ちをしていた。確か,赤絨毯が引き締められていたように覚えている。そこだけだったのかどうかは記憶にないが。

いま振り返ると,仕事は精神的には激務だったのではないか,と思う。中には父の関わった,未だに判例になっているらしい刑事事件もある。引いてみたことはないが,ネットでも調べられるらしい。閑話休題。

要は,そういう仕事と家庭とが,どういうふうに父の中でバランスが取れ,(子供心にも)日々を淡々と過ごしていったのか,がいま振り返ると,結構興味深い。

ありきたりの日常は,失ってみて初めて気づく。そのリズムというか,テンポというのは,そのときにはなかなか気づかない。しかし,だらしなく過ごしているのとは違う,

緊張感,

というか,張り詰めたものが,日々ある。

日々是好日,

とはこれを指すのだろう。それは,一日一日を,かけがえのない,他に換えられぬ一日として,

時々刻々

を大切に生きる,と言うことだ。それは,そんなに易しくはない。

一瞬一瞬の振る舞いを,

考えながら,意識しながら,生きる。

しかし,それは日々是好日して,という意味ではない。

自己完結させた,内向きだけでは突然,外から壊される恐れがある。それを防ぐために,自分の状況,時代を監視しつづけなくてはならない。いま,その普通が,普通であり続けることを可能にしない時代が来つつある気がしてならない。

戦前もそうやって普通にした日々が,気づくと,いつのまにか,死地にいさせられる状況になっていた,そんな感じだとよく聞かされる。

そういえば,戦傷して帰国した父が,思い出したように,ぽつりと口にした言葉は,

酷いことをしてきた,

という言葉だ。意図しようとしまいと,他国へ侵略するということは,そういうことだ。

上海敵前上陸で,ほぼ全滅した部隊をかろうじて生き残った者の,警告だったと思えなくもない。そうした経験者がいなくなると,こういう時代が来る。

その中から,父は,改めて司法試験を受け,人生をやり直して,やっと手に入れた平々凡々だったのだ。



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2014年03月27日

し残したこと


年齢的に言うと,そろそろ店仕舞いが近い。しかし,

し残したことは何か,

と考えてみたとき,

やりたいように生きてきた,

ように見えて(そう言われることもあるが),本人は,

やりたいことの半分もできていない,

と思う。チャンスは,目の前を,一杯通り過ぎたが,気まぐれなので,気が向かないと,摑まない。といって,摑まなかったことで,あるいは摑めなかったことで,後悔したことは,そんなに多くはない。最大のチャンスと思ったとき,たぶん,人生でこれほど頭を使い,全精力を使ったことがないほどに,ひとつのことをまとめ,更に諦めずに,再度まとめたが,

絶対的な才能という壁,

というのか,遺伝子の持つ限界というのか,遂に届かなかった。そのとき,

ああ,やはり,才能には,絶対的な差がある,

と思い知らされた。能力は,才能によって引っ張られる。というか,才能以上には発揮できない。それが悔しかったが,

誰もがイチローにはなれない,

と思い知れば,まあ,すがすがしく諦められる。そこには悔いはない(つもり)。

死はそれほどにも出発である
死は全ての主題のはじまりであり
生は私には逆向きにしかはじまらない
死を<背後>にするとき
生ははじめて私にはじまる
死を背後にすることによって
私は永遠に生きる
私が生をさかのぼることによって
死ははじめて
生き生きと死になるのだ(石原吉郎「死」)

背中に背負うというか,後ろ向きに歩くというか,その姿勢が,前のめりになっていると見えないことが,見える気がする。

で思う。いま,まだやれることで,やり残したことはないか。

思うのだが,完結したいとは思わない。後ろ向きだから,

たえず未完了,

の状態で進行する。終りは,自分には見えない。というか,見ない。

まだ永遠にあるかのようにいまを,生きる。

僥倖

を頼むほどお人よしではないし,

偶然

を頼むほどの猶予はない。

多く片想いで終わるかもしれない。しかし,考えてみたら,後ろ向きだからこそ,その結果はまだ見えない。

いま三つ,いや,四つ,もしかすると,五つ,六つ…。

し残したこと,というか,仕掛かりがある。こいつは片づけたい。しかし,片づけると,また次が生まれるだろう。だから,絶えず,未完了は続く。

未完了,

というのは,生きている証拠なのだ。

例えば,積読。これは,読むスピードの十倍二十倍購入するのだから,クリアできるはずはない。しかし,それは,

いずれ読む,読みたい本なのだ。

それは,人生のスケジュール表に,読書予定を積み上げているようなものだ。これが,未完了なら,大いに結構。読み終わるまで,死ねない。

どうせなら,もっと積み上げるか。

いやいや,すでにウエブで二冊注文し,さらに,

未注文のものが,一冊,待っている。

何歳まで生きたら,読み終わるのかはわからない。

それが,人生そのもののように見える。



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2014年04月02日

つけ


私の体験のなかには,思想化されること,一般化され,体系化されることをはげしく拒む部分があり,それが私の発想のもっとも生き生きした部分を形成しているのだ。

石原吉郎の,この言葉に触発されて,いろいろ考える。

石原は,シベリアの強制収容所の取調官に,

もしあなたが人間なら,私は人間ではない,
もし私が人間ならあなたは人間ではない

と,ラーゲリの非人間的な取り扱いに対してそう言って,死んでいった石原の友人(鹿野武一)の言葉を思い出す。

取調官は,飢えきった囚人を目の前に引き据え,自分はゆっくりと食事しながら訊問する,鹿野の言葉は,その非人間性を指している。非難ではなく,事実の指摘なのである。そして,石原は,ここに,

国家

を見る。あるいは,非人間的な官僚を見る。

いま,フクシマで,放射線の線量を測定する線量計の数値が高すぎると,数値を下げることを厳しく指示した,文部省の官僚は,その線量計に変わって,別の低く数値の出る線量計を設置し直している。普通なら,低い方を取り上げる。それが,人間の視点だ。しかし,彼らは,官僚なのだ。

https://www.youtube.com/watch?v=6JdXl7Ol5_U&feature=player_embedded#t=137

ここにも,おのれの職務を非情にこなす官僚がいる。鹿野の問い,

もしあなたが人間なら,私は人間ではない,
もし私が人間ならあなたは人間ではない,

が,ここでも生きてくる。

安全だという,命に別状はない,と言う。

ただ,そこに但し書きがいる,

いますぐは,

と。そして,何十年かしてから,心臓病か癌になる。しかし,それは,因果をたどられることはなく,

自己責任,

と言われるだろう。第一,安全と保障した役人も,政治家も,とうに死んでいて,責任の埒外にいる。

アウシュビッツ等々のホロコーストに関わった,ヘス,メンゲレも,その末端の看守も,すべてただ官僚として職務を遂行したに過ぎない。

石原は言う,

居ずまいを正すな。そのままの姿勢で,

と言う。

事実を事実として,本当のことを言うこと,

がいまほど重要な時期はない。

そこにあるものは
そこにそうして
あるものだ
見ろ
手がある
足がある
うすわらいさえしている
見たものは
見たといえ(「事実」)

おのれの責任の埒外の戦争に駆り出され,
おのれの責任の埒外の密告でラーゲリにたたきこまれ,
自分の責任の埒外の酷寒のシベリアで過ごし,
自分の責任の埒外の僥倖で生きのび,
自分の責任の埒外の時代に翻弄されたものが,やっと語る真実を,しかし,国家はなかったことにする。

あるいは自己責任,と言うかもしれない。

その理不尽さは,いまの理不尽さの中にある,

それを見逃してはならない。
それを見過ごしてはならない。
それを見なかったふりをしてはならない。
それを黙認してはならない。

責任は,とらされるものではない。
責任は,取らせるものだ。

かつて赤紙を発行した官僚は,淡々とおのれの責務を全うした。淡々とまっとうした責任を取ることなく,天寿を全うした。

責任を取らせなくては,ならない。
つけだけ国民が支払う義務はない。

嫌なものは,嫌と言わなくてはならない,
分からないことは,分からないと言わなくてはならない。

知ったかぶりも,きいたふうな口もきいてはならない。
そのつけは,彼らは払わないのだから。

官僚も政治家も

つけ馬

である。こっちの覚えの有無にかかわらず,いつの間にか,つけだけが嵩上げされ,取り立てられている。



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2014年04月10日

山に登る


よく目指すものを山にたとえる。あの山の高み,というように。しかし,僕には,いつも頂上は見えない。雲の中に隠れて見えない,というよりも,高すぎて,頂上が,僕のいる下界からは,到底見えないのだ。

例えば,コーチに聞かれたりする。

目指すものを喩えると,

山かな,

それはどのくらいの山?

結構高い。

その山に登ったら,どんな景色が見えるか?

と。

しかしいつも思うのだが,そう問われても,

山の頂に立つと,もっと高い頂が見える,

それを上ると,

もっともっと高い,次なる頂が見える,

としか言いようがない。そこまで登らなければ,その上がある,ということは見えない,その上の厳しさもまたわからない,ということだ。

昔,高校生の頃,全学だったか,学年だったか,クラスだったか,忘れてしまっているが,伊吹山登頂という行事があった。あのように,孤立している山なら,それで終わりだから,登頂したら,たしかあの時も,駈け下りてきた記憶があるが,降りるしかない。そういう山の目指し方もあるのかもしれないが,僕の山は,峨峨とした山で,高くて頂が見えない,というイメージなのだ。

そこが頂かと思って登りきると,その先にまた頂が見えてくる。そこまで到達しなくては,その先は見えない,という感じなのだ。たとえると,山に沿った道を歩いて,そこを曲がる,見えるかと思ってその角を曲がってみると,また蜿蜒と道が続いていて,山腹をうねうねと続いていく,そんな感じだ。

終点というのがない,

のかというと,僕の中で,そういう感じはない。それでは,ただの徒労感しか生むまい。

何で山なのか,というのはちょっと説明しづらい。何かを目指すのが,山に登るというのに,見立てたほうが。しっくりくるというだけだ。

これを,眼路遥か続く道にたとえると,なんとなく物足りない。それなら。ただ歩けばいいので,なんとなく芸がない気がする。

何かを達成するとか,何かを成就する,実現する,というのが,僕には山に登る,というイメージらしいのである。

別に克己勉励型ではないが,ただ足で歩けばいいというのでは,何というか,誰でもできそうだ。僕でないとできない工夫と創意がいるものがいい。となると,ちょっと一筋縄ではいかない山に登る,という感じがぴったりの気がする。

いわば,分岐点,

でもある。あるいは,

峠,

とか,



という言い方もある。それが踊り場なのか,中継地なのかは,ひょっとすると,こちらの意志次第なのかもしれない。つまり,

山を登ること,

が目標ではなく,

山の向こうの景色をみること,

でもなく,

山を次々踏破していくこと,

でもなく,

ただ,厳しい山を乗り越えて,次の位置にまた新たな目指すべき高みが見えてくることが,目標であり,それは,そのまま自分の人生のあり方,というとちょっと格好つけすぎだろうか。

なんとなく,ゴールが見えないまま,しかし,なんとなく,この山の向こうに,大事な何かがある,という感触というか,直感だけで,山を登っている気がする。下ろうとは思ったことは,あまりない。まあ,この程度かと,一休み,二休みしたことは,ままある。もう気づかず休んでいるのかもしれない。

でも,まだ,山を登ろうという気構えだけはある。

気力と,体力は,まだ少しある。

と,思ったとき,僕の中には,同行者が全くイメージできていない,ということに気づいた。どうやら,どこまでも,一匹狼であるらしいのである。ひとりで,コツコツと,自分だけの創意と工夫で,ということは,我流(独りよがりとも言う)で,登り口や登り道を探り当て,それをおのれの力だけで(といっても,先達の肩に乗っていることに変わりはないが),できるだけひとに助けを乞わず,登っていくことの,

自恃

が好きなのである。まあ,おのれひとりでやっているという,自己陶酔に他ならない。人をまとめたり,人を束ねたりするくらいなら,一人でやってしまう,そういう性分なので,組織人には向いていなかったらしい。

だから,一人分の仕事しかできないが,そういう自分の仕事の仕方が気にいっている。

あ,同行二人か!



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2014年04月11日

切れる


ときどき年甲斐もなく,切れる。

しかし,切れるといっても,感情的に爆発したり,暴力を振るうということではない。癇癪というのでもない。よくあるのは,

理不尽さ,

への怒りである。これは,

許せない,

という思いである。

突発するので,誤解に基づくこともあるかもしれない。逆に火に油を注ぐケースがないでもない。いつだったか,シンガポールを旅行中,日本人が居丈高に何かを言っているのに,

ちゃちゃ

を入れて,そいつらと口論になったことがある。あるいは,ツイッター上で,

放射脳

とかといって,放射能をあざけっている奴を見ると,切れる。で,

茶々

を入れて,いわゆるネトウヨに絡まれたことがある。いつもではないが,ときに,

見て見ぬ振り

ができない。余分なことに介入して,事態をこじらし,火の粉が自分に飛んできたことがある。

理不尽さ,

には,差別やいわれなき権柄ずくというのに対する,反撥というか反感がある。別に正義感と言うほどの大それたものではないから,所詮思いつき,

たまたま,その場に居合わせた,

という類が多い。理屈でも理論でもないから,遺伝子レベルではないか,と思う。父親は柔道をやっていたので,ヤクザだかチンピラだかを投げ飛ばして,返り血を浴びて帰ってきた,という武勇伝の持ち主なので,その血のなすわざでしかない。

多く,特有のシチュエーションがある。

まずは,いわれのない主張,だ。ヘイトスピーチや過去の隠蔽や差別,に絡むことが多い。

ひとを怨まば,穴二つ

ということをいうが,人種差別も同じだ。多く,自分は安全な日本にいて,たぶん暴力的な仕返しを受けないという,

高をくくった,

ところで,差別している。なぜ差別するか,その背景を忖度する気も,興味もないが,本気で差別するなら,差別する相手の国に行って,大声で主張すればいい。それなら,快哉を叫んでもいい。たとえば,アメリカで,

反米広告

を打つ,みたいなことだ(可能かどうかはさておく)。

その度胸も覚悟もなくする輩の,不遜で夜郎自大な差別行為の卑劣さが許せない。

安全なところで,という意味では,匿名で,ツイッターで罵倒する輩も同じだ。まだしも,せいぜい堂々自分の名前を賭して発言する方がまっとうだ。

ツイッターの発言に,(真偽はさておき)

ヘイトデモに出くわした,その国から来た観光客の女性が,座り込んで,泣いていた,

というのがあった。むしろ,恐怖ではないか。想像してみればいい。

外国で,旅行にしろ,滞在にしろ,

ジャップ出ていけ,ジャップ死ね,

というプラカードを持ったのに出くわしたときの恐怖を。自分は,決して安全地帯から出ないで,人を罵る輩に,カッとするのは事実だ。

もうひとつ切れるのは,アホなのに,アホの自覚がなく,性懲りもなく人を非難する奴だ。よほどの性根を据えなくては,人を非難すれば,数倍のつけを背負い込む。

僕も人を非難する方だから,よく分かるが,そのときの拠って立つ拠り所が,あてにならない,正義感などに拠ってい立つと,結果は悲惨になる。そんなものはないからだ。

有るのは,おのれの意志のみだ。

となれば,相手に押されても怯まず押し返す気力と,気概がなくては,とうてい敵いっこない。そこのところがわからない。

そう,これは自分のことを言っている。




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2014年04月13日

乖離


僕には,危惧がある。

社会から乖離していないか,

と。自分は,しっかり社会に足をつけているのか,と。この時代をどれほど,ひしひしと感じとっているのか,感じとれているのか,と。その時代感覚,状況認識がなければ,ただの妄想,自己完結した,自分探しごっこに過ぎないのではないか,と。

コーチ-クライアント関係は,両者が合意した,

電車ごっこの紐の中にいる,

状態である。それは,自己完結し,閉じた会話になりやすい。

石原吉郎がこんなことを言っている。

大事なことは詩を理解することではなくて,詩を書くことであり,他人の詩を理解することではなくて,自分の詩を書くことである。僕らは断じて批評家になってはならぬ。

ずいぶん前,ある先輩のコンサルタントは,口癖のように,コンサルタントは,

虚業,

だと言っていた。まあ,

実業ではない,

という意味なのだろう。

少し深読みしすぎかもしれないが,大袈裟な言い方をしたら,自分は安全なところにいて,人の人生に関わる,そういう援助職ばかりになったら,現場の人ではいなくなる。それでは社会が成り立たない,というような。

自分も「ちょっとだけ」にしろその端くれだが,コーチングに少し危惧を感じているとすると,二つある。

ひとつは,人の手助け,を名目に,自分自身が現実の修羅場から逃げているのではないか,ということだ。

いまひとつは,狭いコーチ-クライアント関係という内向きの関係に閉じこもって,あるいはクライアントの成果に寄り添うことで,この時代の,この社会の危機が見えていないのではないか,ということだ。

後者を先に言っておくと,何かの童話にあったと思うが,巨大な魚だったかクジラの上で平和に暮らし,そこでの幸せを求めているが,クジラが一つくしゃみをしただけで,そんなものは吹っ飛んでしまう,というのがあった(ような気がする)。

僕は,コーチが成功しているとかしていないか,コーチ自身が目標に向かっているかどうかなど,どうでもいいと思っている。コーチ-クライアント関係で,クライアントの自己対話をリフレームできる力量と,コーチとしての器量があれば,極端な話,ボロを着ていようと,飲んだくれであろうと,クライアントには何の関係もないと思っている。そういう外見や見栄えが欲しければ,そういうコーチにつけばいいだけのことだ。僕の知ったことではない。

そのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/archives/20140318-1.html

で,もう書いたのでこれ以上は触れない。

しかし,コーチは,

コーチ-クライアント関係

へのメタ・ポジションだけではなく,

自分たちを含めた,時代と社会へのメタ・ポジションを持たないようなコーチで大丈夫なのか,と危機感がある。

二つ目のことは,これに関わる。

前にも書いたが,元に滅ぼされようとしている,まさにその瞬間も,幼い南宋の皇帝に帝王学を懸命に説いていた儒者のようなコーチは,コーチである以前に,いまを生きる人間として,何かを欠いているのではないか,という気がして仕方がない。

さて,ひとつ目の件だが,自分は,社会に自己対象化(労働にしろ,サービスにしろ,何某かの自己を投企)しているかということだ。

だから,僕は,コーチ専業にあまり好意的ではない。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/390224446.html

で書いたことがある。社会から上がったような人間を信じない,ただけそれだけのことだ。

ひとには,その人毎に役割があり,マネジャーがいちいち現場に口を出し,一兵卒のようなことをしていては,自分の役割の持つ修羅場が見えなくなるように,それぞれに修羅場は違うだろう。

しかし,なんとなく,人生や社会のあり方について,評論家のような立ち位置になっていることに無自覚な人を見かける。それは,現場で修羅場を担っている人間への侮蔑であると同時に,自分への侮蔑である。

コーチはいったいこの世の中に何を生み出しているのか,

という問いもいいが,

コーチがいなかったら,本当に社会は困るのか,

とか,

コーチがいなかったら誰が困るのか,

という問いでもいい。

ひょっとしたら,困らないのではないか。ただ,ひとが,自分でとことん考えに考え詰めて,自力で土壺から抜け出す自助努力を妨げているだけではないのか,

そういう自制心というか,謙虚さがいるのではないか。時々,傲慢なコーチを見かける。二か月ほど前,

若い人と話すと,すぐに変わる,

若い人を変えてみたい,

と笑いながら言っていたコーチがいた。(それを決め寝のは相手だなどということは,当たり前だから言わないにしても)冗談を言ってはいけない。あなたは,その人の人生を生きるボスではない。人は,自分の人生という舞台で主役を張る。それが,傍から見て,どんなに危かろうと,どんなにいい加減であろうと,人がとやかく言うことではない。

こういうコーチがいるから,コーチングは邪魔なのではないか,と危惧してしまう。

本来,人は,自分で考え,自分で人生を突破していかなくてはならない。それを,誰かに立ち会ってもらわなくては,それができないようなシチュエーションを創り出すために,コーチがおり,コーチングがあり,コーチング・セッションがあるのだとしたら,それは本末転倒,というか,ただの邪魔というか害毒ではないか。

僕は,自分の人生をたったひとりで戦い抜くために,ひとりで考え,ひとりで悩み,ひとりでそれを克服していく,そういう力こそをつけるべきだとつくづく思う。そのとき,そのことを分かち合える人間が誰なのかもわかる。それをコーチが代役してはならない。

人は自分の物語を完成するために,生きている。

自分の物語を楽な方へ逃げた人間に,一人の人生のサポートが本当にできるのか。

僕は,自戒を込めて,自分自身に,問いたい。

自分の人生の修羅場から逃げるために,いまの仕事をしていないか,

と。

だとしたら,何かから逃げるために,コーチという職業を選んでいる。何かから逃げるとは,大事な人生の逸機でしかない。その何かこそが,人生の大事なポイントだったかもしれない。

それを逃げたとしたら,人生の「そのとき・その場」の切所を見落としたことになる。

人生は語るものではなく,生きるものだ,

という。それが「生きるべき」人生なのだと,僕は思っている。

おのれの背負い込むべき修羅から逃げること,目を背けることは,自分の生きてある場所から目を背けることだ。それは,時代から,社会からの逃避を意味する。

自分が人生を生きるとは,この時代の中で,社会の中に,何かを生み出すために,必死で格闘することだ。それは,自分を対象化し,そこに,何かを形づくることだ。直接的な労働かもしれないし,サービスかもしれない。

それと比べて,人に誇れるのか,

自分が何を生み出しているのか,と。

コーチングを受けていることが,ルイヴィトンやシャネルと同じく,ただのステータスになったら,コーチングはあってもなくてもいいものになる。

そう考えたとき,

でもなお,

おのれのコーチングが存在する理由,

があるのか,そういう自問をやめてはならないと,つくづく思う。

この問いは,死ぬまで続く。いや,続けなくてはならない。

それを,謙虚,と言う。



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2014年05月01日

愛用品


最近,ん十年愛用の,誰にもらったかも忘れた大理石の文鎮を落として割ってしまった。このところ似たようなことが続いていて,ちょっと気になる。

愛用するということは,日々手になじみ,そこにあることになじんでいて,一見風景になっているが,それが無くなると,風景の一か所に欠落が出る。それによって,なんとなく,違和感がある。

物にこだわる質でもないし,収集癖もない。

収集癖という以上,件の漫画家ではないが,徹底しなくてはならない。しかし,そこまで固執する物に出くわしたことがない。中途半端だから,かえって,未練が残るのかもしれない。そこに,なまじの思いや感情を投影しすぎる。それは,玩びつくしていないから,なのかもしれない。

玩物喪志

という言葉がある。

無用なものを過度に愛玩して,本来の志を見失ってしまう,という意味らしい。意で、

物を玩べば志を喪う,

『書経』旅獒の出典らしく,

人を玩べば徳を喪い,物を玩べば志を喪う

とある。この場合の物は,必ずしも,いわゆる物,

物品,物体,

を指すとは限らない。これを言った,召公が,武王を諌めたのは,武王が,献上された獒(ごう)という一頭の大きな犬に心を奪われて,政治が荒んだことを指している。物は,

天地間に存在する,有形・無形のものすべて,

を,本来指しているようだから,幅広い。ストーカーも,温泉マニアも,何たらフェチも,鉄男も,撮鉄も,博打狂いも,酒も,煙草も,麻薬も,主義主張も,信仰も,殉死も,珈琲も,すべて,

玩物喪志,

である。ところが,である。武田泰淳は,川端康成論の中で,「普通は悪い意味に使用されているが,ここでは,対象を手ばなさずに,専心している姿勢の意味である」が,と言いつつ,

志をうしなうほど物にが玩べれば,本望である。その物が,風景であろうと,女体であろうと,主義であろうと,そこに新しい魅惑が発見できるまで執着しつづけねば,何物も生まれはしない。玩物喪志の志,あるいは覚悟を持ちつづける作家は,そう数多くはないのである。

と書いているのに出くわした。ネットを調べているうちに,泰淳にであい,この小論に出会い,僕の玩物喪志のひとつ,全集買いが,ここで生きた。

玩物自体が「志」とは,逆転の発想である。そうか,

覚悟の問題

なのか。武王が,犬に執心なら,王位を捨てなくてはならない。その覚悟がなくてはならない。エドワード8世が,王位を擲って,恋に賭けたように。そのとき,恋は,王位と匹敵した。

織田信長が天下を玩物したときは,天下は,近畿をさす,それは三好三人衆にとっても,玩物であった。しかし,その「物」が全国になったとき,玩物自体が,「志」になる。そう意味だろうか。

さらに,泰淳は,川端康成にこう告げている。

玩物喪志の「物」の内容を変更しただけでは解決はつくまい。「物」のひろさと新しさが,「玩」の深さと新しさと密着して,深くひろく新しい魅惑を生み出さねばならない。

玩物の,

「物」のスケールも,

「玩」のスケールも,

気宇壮大ならば,もはや,召公のスケールを超える。はて,では,翻って,おのれは如何?

ただ横道にそれ,油を売っているのとは違う。たしかに,人生には,

何かを計画している時に起こってしまう別の出来事,

の面がある。しかしそれを言い訳にすれば,道草で良しとなる。しかし,こうある。

予期せぬ出来事の中で全身全霊を尽くしている時,予期せぬ世界が開けてくる。

つまり,玩物であろうと,道草であろうと,そこに全身で打ちこまなければ,

玩物が志となり代わる,

ということはない。結局,

覚悟,

はいずれも必要なのだ。覚悟とは,

迷いを取り去る,

ことに尽きる。でなければ,喪われた「志」が泣く。

参考文献;
武田泰淳「玩物喪志の志」(武田泰淳全集第12巻 筑摩書房)
龍村仁『ガイアシンフォニー第三番』




今日のアイデア;
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2014年05月02日

裏切り


裏切り

正直,この言葉が,あまりピンとこない。というか,こなかった。

辞書的には,

①敵に内通して,主人または味方に背くこと,
②約束・真偽に反する行為をする。人の期待に反する,

とある。

期待に反する



期待を裏切る

とでは若干ニュアンスに差がある気がする。人の期待に反することは,一杯あっただろうが,反しようと思ってするというより,できなかったということが実態で,裏切る,というニュアンスには遠い,

期待外れ,

な程度というのが,主観的な印象だ。

期待を裏切る



期待外れ

では,ずいぶん印象が違う。背負わされた「期待」が,オリンピック選手のそれと,僕のそれとの違い,に起因するのだろう。

自分では,細かなことはあるかもしれないが,決定的に人を裏切ることの出来るような,ある意味で大物ではなく,器量の小さい人間だと思うからだ。

ただ,そう考えていて,不意に思い出したことがある。

昔,労働組合,というほどのことはないが,理不尽なトップへの抵抗という意味で,労働組合をつくる羽目になったことがある。いつの間にか首謀者になっていて,その当時の下宿屋まで,調査の人が調べに来たということがあった。ま,組織側がやったらしいのだが,そんな仲間の中で,途中から抜けたのならいいが,最初から,仲間面して,内部のことをいちいち,報告していた人がいたことを,後日に知った。

これって裏切りなんだろうな,

と,思い出したのだ。しかし,この人は,某映画会社の労働争議の時,組合委員長なのに,経営側に通じていたということで,ある意味有名な人だったらしい。

それを聞いたとき,ふと,何だろう,不遜ながら,

可哀そう,

と感じた。たぶん,身の置き所がないのではないか。会社からは,重宝かも知れないが,

重んじられること,

はまずない。人として信用できないからだ。当然,組合側からも,これは,

軽侮と憎悪,

の対象になる。どこにも身の置き所がないのに違いない,と人としての寂しさを感じた。もう,ご存命ではないかもしれないが,その人についての記憶では,たまたま,

ガリバー旅行記,

を文庫版で読んでいて,それを見て,ニュアンスは忘れたが,原書で読まないのを,

憫笑,

された記憶がある。そう言えば,洋書を読む人で,著名な彫刻家の御子息なんだと,後日仲間の一人から聞いた。

その憫笑は,結構効いたが,しかし,人として,どうなのよ,と言いたい気持ちが,いまならある。

価値観が違う,

と言われればそれだけのことだが,僕の印象では,

信念として通報役,

を買って出た感じではない気がしている。その人の事情を知っているトップが,強いたのではないか,というような憶測をしている。それほどに,日常は,小太りの,気のいい人に見える,人なのだ。

気のいいのは僕なのかもしれないが,それほど怒りや反撥を感じた記憶がないのは,大した人数でもない,ちっぽけな組合づくりの活動にまで,そういう人が,役割として登場する,と言うのが,どことなく滑稽だったからかもしれないし,逆に,そのことを知ってからは,組織の凝集度が高まったと感じたせいかもしれない。

しかし,もうかなり昔のことなのに,裏切りというなら,そのイメージで,どこか,

寂しい,

ひとりぼっち,

というイメージがある。それは,僕の側の勝手な忖度かもしれないが,

誰にも相手にされない,

という感覚である。それは,たぶん,僕自身が大切にしている,

信義,

律儀,

に反しているので,僕の思いを投影しているだけかもしれない。




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2014年05月08日

無様


セッションの中で,進退窮まるほどの窮地に追い込まれたとき,あるいはしくじってとことん落ち込んだとき,そういう自分をどう名づけているか,と問われた。

意味が分からず,

オレはあかんな,

とか,

やっぱりだめ,

とか言っていたが,それにどう名づけているか,と重ねて問われて,ふと思いついて,

二流である,

といった。正確には,自分の定義では,

http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/view03.htm

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163461.html

で触れたように,三流というのが正確かも…。因みに,

「三流の人」とは,それがもっている新しさを,「二流の人」の現実化の努力の後知り,それをまねて,使いこなしていく人である。「使いこなし」は,一種の習熟であるが,そのことを,単に「まね」(したこと)の自己化(換骨奪胎)にすぎないことを十分自覚できている人,

である。まあ一流,二流をの背中を追いつつ,おのれの力量と才能のレベルを承知している人のはずである。だから,もっと正確には,それより下,

三流以下,

ということかもしれない。

で,その自分を受け入れることが,というか,それから目をそらさないこと,

なりたい自分になる

ことにつながる,ということらしい。そういう自分を抱え込む。そこに,地に足をつけるところから出発のしようはないので,それを忘れて背伸びしても,無理ということになる。これを言うなら,あるいは,

ざまあ,ねえなあ,

というおのれでおのれをあざけるその自分の,

無様(不様)

を受け止めるということになるのかもしれない。無様は,

無+様

で,

様にならない,

ということだ。様とは,法(のり),手本(法式),鋳型,という意味だから,

生き様
死に様

の様でもある。

どうあがいても,形にも型にもならないということになる。だから,

体裁が悪い,

みっともない,

につながる。あるいは,

格好がつかない,

という方が正確かもしれない。ときに舞い上がって,等身大のおのれに戻れなくなる自惚れを,ただ戒めるという意味だけではない。そういうおのれをも是としていい,ということなのではあるまいか。

そんな,こんな,おのれのかっこわるさをあれこれ思っていたせいか,ぼんやりといろいろ考えていたら,過去の一杯の失敗が,恥ずかしい行為が,迷惑をかけた振る舞いが怒涛のように,大挙して押し寄せて,押し潰されそうになった。そんなことを数え上げれば,きりはない。思わず冷や汗,脂汗がでる。確かに,やっぱり,

三流以下

には違いない。

しかし,その中から,ふいに,こんな怠け者が,

ここまでなんとかかんとか生きのびたきた,

ということに思い至る。いやいや,それどころか,いろんな人の手を借りたことが思い出されてくる。二進も三進もいかなくなる,いわゆる,

進退両難

のときに,不思議と,やってみたこともないことをやらないかと,声を掛けられたり,以前の出版物のつてから,手を差し伸べられたり,とずいぶん助けられてきたことを思い出す。ひょっとすると失敗を上回ったから,赤字決算ではなくすんでいるのかもしれない。

まあ,まんざらダメダメ尽くし,

ばかりでもない。そう思うのだ。

それがなければとうに野垂れ死にしているところだろう。

受け入れる,というなら,こういうことも,その一つなのだろう。



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2014年05月18日

選択


選択している,

のと,

選択させられている,

のとどう違うか。選択しているつもりで,選択させられていることはないか,そして,そのことに無自覚であるということは。

吉本隆明は,こう言っていたのを,ちらりと見て,触発されたものがある。

人間の意志はなるほど,選択する自由をもっている。選択のなかに,自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが,この自由な選択にかけられた人間の意志も,人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは,相対的なものにすぎない。

意思したつもりだが,結果として,関係性で引きずられている,これを文脈とか秩序とかと置き換えると,一般化されすぎ,どろどろした現実感が消えてしまう。

「関係が強いる絶対性」というのが,確か,『マチュウ書私論』のモチーフだと記憶している。

上記は,

人間は,狡猾な秩序をぬってあるきながら,革命思想を信じることもできるし,貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら,革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし,人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは,この矛盾を断ちきろうとするときだけは,じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき,ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間における矛盾を断ち切れないならばだ。
マチウの作者は,その発想を秩序からの重圧と,血で血をあらったユダヤ教との相剋からつかんできたにちがいない。

とも語られる。さらに,

秩序にたいする反逆,それへの加担というものを,倫理に結びつけ得るのは,ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である,

と。倫理,別の言い方をすると,

ひととしてどうあるべきか,

は,そのおのれの置かれている文脈抜きでは,他人事でしかない。

関係性の強いる絶対性とは,客観的にあるのではなく,自分の中に,意識的無意識的に,絶対性として強いる者を感じる,

という意味だとすると,吉本の言っているより,もっと広げている(和らげている)かもしれないが,

人は知らず,おのれにとっては,

と,言うとき,

人間と人間との関係が強いる絶対的な情況,

というもの(このとき,人も状況も個別,固有化されているが)から,思想も,発想も,意識的か無意識的かは別に,逃げられない。それを土着とか,アイデンティティと言い換えると,やっぱり,少しきれいごとになる。

父親・母親との関係,

上司との関係,

影響力のある先達との関係,

地縁・血縁,

自分の置かれている立場,

生い立ち,

等々,「強いる」と受ける関係にはさまざまある。

本当の意味とは別のところで,僕の中で,「関係性の強いる絶対性」という表現で,動いたのは,結局,

関係の強いるものからは逃げられない,

ということなのか,

関係の強いるものを意識することで,選択肢が広がる,

ということなのか,

関係の強いるものに無自覚で,選択している,

ということなのか,

関係の強いるものによって,選択肢は強いられている,

ということなのか,だ。それもまた選択なのではないか。

そのとき,

人は,関係の結節点そのもの,

という言い方もあるし,

人間は社会的諸関係のアンサンブルである,

という言い方も,もっと主体的な意味に変わる。その見方が,

自分の取りうる立場を選択させる,

と言い換えてもいい。その瞬間,関係の絶対性は,相対化される気がする。

中沢新一が,

知識はかならず身体性をとおさないと本物にならない,というのは,ぼくの基本的な考え方です,

と言っていたことを,少し(でもないが)膨らませるなら,

そういう,自分の結節点が無意識に強いるものとの対決抜きには,

いかに生きるべきか,

は,自分のものにならない。

とは,ちょっと格好つけすぎか。




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posted by Toshi at 05:42| Comment(0) | 生き方 | 更新情報をチェックする