2014年06月04日

遊び


遊びという言葉がふいに浮かび,『梁塵秘抄』の有名な,

遊びをせんとや生れけむ,戯れせんとや生れけん,遊ぶ子供の声きけば,我が身さえこそ動がるれ

が続いて浮き上がってきた。しかし,遊び,というのは,

遊び,遊興,なぐさみ,

の他に,

仕事や勉強の合間,

気持ちのゆとり,余裕,

機械の部品と部品の余裕,

といった意味がある。では,「遊」という字はどうか,というと,上記と重なるが,それ以外に,

楽しむ(遊学,遊山),

自説を説きまわる(遊説),

まじわり,よしみ(交遊),

ひまびと,常業なきもの(遊食,遊民),

一定の所属なきもの(遊軍,遊魂),

というのがある。日常や,定形,ルーティンから外れている,という意味がちょっと面白い。もともと遊びは,自分の文脈から切れる,

時間,

場所,

人,

を指しているように思える。

遊子,

遊侠,

遊女,

遊里,

はそんなイメージで,まさに,日常から,

遊離,

することを言っている。その,

解き放たれた,

感覚がないと,埋没して,モノが見えないからに違いない。

非日常,

とはそんな感覚なのではないか。別の言い方をすると,ハレかもしれないが,それでは,裃が付きすぎる。

祭り

が近い。まつり,には,それ以外に,

祀り,

祠り,

があるが,ともに,定まったまつりで,祭は,

いつに限らずものを供えてまつる,

とある。まあ,ちょっとその気になったらまつる,というのは,いっとき,日常から離れる。ちょっと飛躍か? 

ただ,仕事でも生活でも,ルーティン化することで,流せる。しかしそのまま流されず,そこから抜けて出る自分がいる。その違った自分の目で,改めて日常を見る。それを余裕というなら,そのことで,日常の自分の仕事や人との距離感が見える。

間合,

と呼んでいい。それが,

遊び,

なのではないか。遊びのない,密着した,というかがちがちのハンドルでは,操作しづらいに決まっている。生き方も,そういうのりしろが不可欠なのだと,つくづく思う。

子曰く,これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず,

その通りだが…,なかなか。

参考文献;
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)



今日のアイデア;
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2014年06月10日

一貫性


どうも,

一貫性,

という言葉に弱い。始めから終わりまで一つのこと,あるいは考えを貫く,

一念岩をも通す,

というし,

虚仮の一心,

とも言う。あるいは,

匹夫も志を奪うべからざるなり,

と孔子の曰われるのも,その伝だろう。

しかし,たぶんまれだから,そういうのだろう。どうも,しかし,振り返ると,それほどの一貫性のある生き方ではない。たとえば,

人生とは,なにかを計画していている時に起こってしまう,別の出来事のことを言う,

とか,

結果が,最初の思惑通りにならなくても,…最後に意味を持つのは,結果ではなく,過ごしてしまった,かけがえのないその時間である,

というのに惹かれるのは,言い訳のにおいがするかもしれないが,そのときに身をゆだねる,ということの方に惹かれるせいかもしれない。

道草し,そこで一生過ごすかもしれない,

そのことが悪いことには思えない。よく童話であるのは,そういう道草してしまった兄弟姉妹を連れ戻す話が多いが,それは,日常側から見ているからではないのか。浦島太郎は,龍宮から戻ってきたが,それがよかったかどうか。

泉鏡花の『高野聖』の若い修行僧の宗朝が,山へ引き返さなかったことが,よかったかどうかは,誰にもわからない。山に戻り,その女の魔力で馬の姿に変えられ,猿に変えられても,その方がよかったのかもしれない。

小説では,

朝,女の家を発ち,里へ向いながらも美しい女のことが忘れられず,僧侶の身を捨て女と共に暮らすことを考え,引き返そうとする。そこへ馬を売った帰りの男と出くわし,女の秘密を聞かされる。男が売ってきた昨日の馬は,女の魔力で馬の姿に変えられた富山の薬売りだった。女には男たちを,息を吹きかけ獣の姿に変える妖力があるという。宗朝はそれを聞くと,踵を返しあわてて里へ駆け下りていった,

のだが,ここが,寄り道するかどうかの瀬戸際ということになる。

あくまでまっとうな日常をよしとするからこそ,僧の話に納得できるが,

もったいない,

あたら面白い人生を捨てた,

と思う人だっていなくはない。

安部公房の『砂の女』で,(記憶のままに書くので,思い違いかもしれないが),

砂の穴から必死で逃げようとしていたはずの男が,あるとき,砂に桶を沈めておくと,水がしみ込んでくるのを発見して,砂の中では,水の確保が最大の課題だったから,そのことをまず,自分を砂の穴に閉じ込めたはずの,当の女に伝えたい,

と思ったシーンがあった。そのとき,もう数十年も前のことだが,

ああ,日常に捉えられるというのはこういう感覚なんだ,

と感じたことを鮮やかに覚えている。それは,悪い感覚で気はなく,職場で,ある問題の解決を思い浮かべたとき,まず最初に伝えたいと思うのは,職場の仲間に,だというのと似た感覚だ。

もちろん,他方で,

死して後已む,

という思いがなくもないし,

この世に偶然はない。人は偶然を必然に変える力を持っている,

という言葉に惹かれないわけではない。だが,僕は,

寄り道,

回り道,

した人の方が好きだし,回り道したまま,戻ってこない人が,もっと好きだ。自分には,できない,何かをそこに感じるからだろう。

ひとり思い当たる人がいる。まさに,彼は,

遊子

である。

参考文献;
龍村仁『ガイアシンフォニー第三番』




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2014年06月11日

転倒


少し前,ものの見事にひっくり返った。何が起きているか,一瞬わからなかったが,気づくと,あおのけに床に倒れていた。幸か不幸か,頭を打たず,腰で,全体重を支えたらしい。

風呂で使う木製の椅子を,踏み台代わりにして,高いところをちょっと拭こうとして,背伸びした瞬間,その踏み台が,ひっくり返り,見事に,放り出された,というわけである。

その一瞬に,空白はないが,思い出すと,倒れるところが,全く意識にない,

あっと,

言ったときには,重力に押し倒された,ということなのだろう。確か,秋口にも,何かに引っかかって,路面に倒れたが,その時は,あっちこっちに擦り傷を作り,着ていたジャージというかジョギングウエアが,ダメになった。そのときのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163455.html

に書いた。しかし,今回は,真後ろにひっくり返ったのに,どこにもけがはなく,

腰の,というか,尻が打ち身,

になっただけで済んだ。

それにしても,よく転ぶ。

入院中は,後ろに椅子があるつもりでまともに座ろうとして,したたかに尾骶骨を痛めた。半年に一度のペースという勘定だから,

何かの警告,

と受け止めた方がいいかもしれない。加齢とともに,爪先が上がらず,躓いたり,引っかかったりして,前のめりに転ぶ,とことを聞いた記憶があるが,僕の場合は,どうやら,

勘違い,

というか,

思い込み,

によるものらしい。今回は,踏み台を信頼しすぎたが,本来,

踏み台ではないものを踏み台にした,

まあ,つけと言ってもいい。つくづく思うが,

嵩上げ,



下駄を履く,

というのは,いわば,靴底を嵩上げして実態より背を高く見せるのと同じで,すぐにメッキが剥げる。

僕は思うのだが,

遺産,



世襲,

というのも,そういう嵩上げの一種といっていい。昨今二世,三世が増えているのは,政治家だけではなく,俳優も,タレントも,そうらしい。それは,スタートラインが,何十メートルも先行して前にあるのと同じで,不公平なのだと思うが,しかし,いま,それが常態になっている。例が悪いが,

織田信長

羽柴秀吉

徳川家康

の,いわゆる戦国時代の覇者を比較したとき,毀誉褒貶はあるが,秀吉が好きなのは,身一つで,貧農百姓(ではないという説もあるが)から,伸し上がったという点だ。だから,かつては,「~太閤」などという喩が生きた。しかし,昨今は,格差社会になり,ある意味「金」による身分社会化してみると,小なりと言えど,

領国大名家の御曹司,

として生まれた,家康,信長とは,圧倒的なハンディキャップがあった,といっていいのである。そもそも相手には,嵩が,履くべき高下駄があった。しかも,強力な家中と眷属に囲まれている。それに比して,一家眷属も少ない。肝心な,

眷属,

が少ない。一族というべきものも,親族というべきものも,ほんの少ししかいない。しかも,まあ似たり寄ったりの,貧乏人,水飲み百姓である。弟小一郎を覗くと,甥っ子は,どれもこれも,不足だらけて,質量ともに足りない。だから,糟糠の妻の養家,実家の浅野家,木下家を囲い込み,か細い,地縁・血縁から,加藤虎之助,福島市松といった子供たちを引き取って,武将として育て,股肱の臣とするほかなかった。世に言う,黒田官兵衛も,実のところ,秀吉が,育てた,といっていい。官兵衛に焦点を当てて,秀吉を矮小化すると,あの梟雄・宇喜多直家が秀吉に屈するはずもなく,毛利の外交僧・安国寺恵瓊が,

信長之代,五年,三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後,高ころびに,あおのけに転ばれ候ずると見え申候。藤吉郎さりとてはの者にて候,

という手紙で,

さりとてはの者,

などという評価を残すはずもないのである。

そのあたりの,秀吉という人間の,器量・技量・力量・度量というのは(全国統一するまでだが),見直されていいのではないか,

と思う。というか,秀吉は,強烈なプロパガンダ,というかブランディングの名手だ。そういうおのれ自身を売りにしていく。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163531.html

でも書いたが,手元に,祐筆,大村由己を置き,おのれの戦勝記録を,同時進行で戦記物に仕立てている。その強烈なブランディングの中に,おのれがおり,黒田官兵衛も,加藤清正も,福島正則もいる。

いやいや,変な方へ話が飛んだ。

転ぶはずだ,携帯電話の占いでは,あの日,12位であった。

吾已んぬるかな,

である。



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2014年06月27日

見切る


ことの重大さも弁えず,なんとなく勢いで言ってしまって,周囲を震動させる,ということが,若いときにはある。

思い当ることが三つある。ひとつは,かつて勤め人時代,

人事に対する批判を公言した,

たぶん,直感的に理不尽だと思ったからだ。詳細はともかく,大阪へ責任者として行ったものが,半年足らずで更迭された。そのことを言ったのであるが,それがトップの虎の尾だったらしい。つけは,自分に何倍にもなって返ってきた。

それが若気の至り,というものなのかもしれない。僕は,勢いをわるいとは思わない。それを受け止めきれぬ度量のなさの方を,いまなら嘲笑う。わずかのことにビビる,器量の小さいのが,多い。

いまひとつは,まあ,色恋沙汰だから,口にするほどのことはないが,思ったことを口にすればいいというものではない。それで,周囲が巻き込まれ,大騒動になる,ということもある。

目の前のことしか見えていないから,そのことの及ぶ影響などまつたく視野に入っていない。

いまひとつは,父の死後,二十六の時,母たちを呼び寄せたとき,他の選択肢があったわけではないが,そのことの重みと,その結果について,ほとんど何も考えなかった。是非を言っても仕方がないが,モノが見えないという意味では,典型的だ。

本当は逆で,

事に敏にして,言に謹む,

でなくてはならないが,若さというより,性癖で,まず走り出す。しかし走り出すだけでなく,口も走る。それが勢いなのは,ある年齢までかもしれない。

歳とともに,分別臭くなって,もっともらしい口吻で,紛らすようになった。要は臆病になっただけだ。

弁えるは,

ワキ(分・別)+マフ(行う)

で,物事を弁別,どうすべきか心得る,という意味になる。それに,

つぐなう,弁償する,

の意味がついてくるところが面白い。まあ,思うに,そのことの代償の大きさを見極める目利きという意味を含んでいる,と考えていい。

見切る,

というのは,

最後まで見る,
見定める,
見きわめる,

という意味があるが,視界の広さと言いうより,

射程,

の長さといっていい。迂闊なことに,粗忽者には,

眼前,

しか見えない。それが単なる目くらましかもしれなくても,それに翻弄されてしまう。よく言えば,

直情,

だが,悪く言えば,

軽忽,

である。

人にして遠き慮りなければ,必ず近き憂いあり,

である。だから,見切るの意味が,

最後まで見届けて見きわめる,

ではなく,軽忽に,

見限る,

あるいは,

見切りをつけてしまう,

に近くなる。それは,

目を切る,

に近い。それは,見たつもり,なのである。

射程が,はなはだしく,短い。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)



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2014年07月06日

発心


発心とは,

菩提心を起こすこと,

とある。そこから,あることをしようと,思い立つこと,

発意

とある。

発心などと殊勝な気を起こしたこともないし,何かそんな大げさな決意をした覚えもない。確かに,何かを心願することはあるが,さほどの重みがない。

生来の怠け者だから,なかなか,思い立って,などという健気で殊勝な心根の持ち合わせがないせいかもしれない。

なりゆきの中に,流されていることが多い。

たまたま,

行掛り,

成り行き,

でそういう羽目に陥ることが多い。だから,道草のつもりが,そこが本道になってしまう。だからといって,そのことを恨む気はない。そこで状況を引き受け切れれば,おのが器量,それを受けきれず敗北の憂き目にあっても,やはりおのが器量のなせるわざに過ぎない。

状況を創り出すというより,状況に巻き込まれて,

否応なく,それを乗り切ることを迫られる,ということが多い。そんなわけだから,時代にさからう羽目になることも多々ある。

そのせいか,大体が,大袈裟な物言いをしたがらない。自己防衛というか,あらかじめ,言い訳を立てておくというところがないわけではないが,それ以上に,そういうことを為遂げる人間とは,自分をあまり信じていなかったし,信じていないせいに違いない。

為遂げるもなにも,それを為遂げても,一文の得どころか,それをクリアしなくては生き切れない,そんなシチュエーションだから,当たり前と言えば当たり前だ。

種田山頭火の

春が来た水音の行けるところまで

という感じ,いや,というより,

分け入つても分け入つても青い山

というほうが近い,という感じなのである。たぶん,

志す

ものがあるから,

思い立つ

のではないか。たまたま巻き込まれたのでは,志すも,発心も,あったものではない。

発心

という以上,何かそこに,スタートラインのような,明確に区切りがあるに違いない。振り返れば,あそこだった,あの時だった,というような。

しかし,少なくとも,僕の場合,

気づくと始めざるを得ない,

というのに近い。周りが迫るのである。しかし別の見方をするなら,

選んで,そういう場に立っている,

ということが言えなくもない。なぜなら,拒んでもいいし,逃げても,避けてもいいのに,そうしないで,

受けている,

からだ。場が,状況が,迫るものを,かっこよく言えば,

引き受ける,

あるいは引き受けざるを得ないと思い込む,のが正しい。避けるのは,できない,と自分に思い込ませている。あるいは,言い聞かせている,のかもしれない。

で,それに立ち向かうことになる。

いつもいつもではないが,そういう矢面に立つことを,選んでいる。言い方を変えれば,発心はしていなくても,そのシチュエーションになったら,

引き受ける,

ということを,知らぬ間に決めている,というのかもしれない。しかし,たまには,

自分でシチュエーションを創り出す,

ということをしてみたい…,が,まあ,おのが性分には似合わないけれど。




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2014年07月08日


品位とか品格とか品性という使われ方をする,

品について,調べていると,

音自体で,

ヒン(漢)
ホン(呉) 
しな[訓]

と分かれ,たぶん伝来(当然時代も違うが)によって,由来が異なるらしい。当然意味が少しずつ違う。

語源では,中国語源では,

器物を並べる

で,品物の意味とある。

当然,品にちなんで,

物や人の質によって分けた等級
等級をつける

ということが派生する。「ほん」と呼ぶのは,仏典かららしく,等級以外に,

仏典の中の編や章

という意味がある。

品位,品格,気品,下品,上品,人品

というのは,言ってみれば,人を品物に見立てて,その等級づけをしている,というに近い。品評である。

しかし,それは誰が評価するのか。身分社会なら,位階の高いのが,上品,と一応は言えることになる。

下賤だの下卑だのというのは,下に見てそう言う。しかし,仏教でいう,

ほん

は,極楽往生する者の能力や性質などをに分ける語。上中下の等級に分け,さらにそれぞれを上中下に分ける,という。

九品

くほんである。しかし,それを,理不尽ではないかと思うのは誰もがそうで,

九品皆凡といい,一切衆生は本質的にみな迷える存在であると捉えた浄土宗の流れは,必然で,その果てに,親鸞の,

善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや

は,僕には,往生の位階を破壊したアナーキズムに見える。信心深いとか,篤いから救われる云々は,こちらの計らいなのであって,絶対他力の前には,意味をなさない。ただ,計らいを捨てて,

他力には義なきを義とす,

である。清澤満之が,

天命を安んじて人事尽くす,

と言った言葉がそれを示す。

人事を尽くして天命を待つ

で,どこかに驕りがある。我欲がある。しかし,

天命を安んじて人事尽くす,

には, 丸ごと受け入れている感じがある。

そう見れば,氏や育ちは,言い訳にしかすぎず,品は,

いまの生き方そのもの

を指す,というしかない気がする。それは,

いま,ここに,生かされてある

おのれを受け容れて,立っている,という気構えではないか,という気がする。

そこが,なかなか。




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2014年07月14日

店仕舞い


店仕舞いというのは,開店というか,店を張るよりもはるかに難しいと思う。店仕舞いは,例えば,僕には経験はないが,定年退職とは違う。転職の退職とも違う,と思う。後始末ということではないのだ。

そのことについては,し残したことについて,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/392762774.html

で触れた。しかし,これとも少し違う。

昔コーヒーショップをやっていた時,居抜きで買ってくれる物好きがいたおかげで,投資分は返ってこないまでも,かろうじて赤字にならないで,店を閉めた。その店仕舞いでも,なじみ客との関係は,けりのつけようのないものがある。

まして二十年以上も店を張っていると,はいさようならとはいかない,という面はある。たとえば,スケジュールは,再来年まで決まっていく,とすると,一年半以上前までに決めなくてはならないという面がある。

しかしここで言いたいのは,それでもない。ここで店仕舞いするというのは,

どう見切るか,

ということだ。昔,知り合いの講師が,客先で仕事中倒れて,そのまま帰らぬ人になったと聞いたことがある。そうならないところでどう見切りをつけるか,である。

自分の出来る,やりたいという思いを,どこでなだめ,断念させるか,ということだ。

単に健康のことだけを言っているのではない。



というのは,語源は,「見せ」。ミセともタナ(棚)とも言う。「广(ゲン,家)」に「占」(テン,ものを置く)が中国語源。

しかし,仕舞うは,確かに,「シマウ」で,片づける,収納する,の意だが,

仕舞

は,素(装束をつけない)+舞

なのだという。つまり,

仮面や衣装なしの舞い,

ということになる。いやいや,なかなか意味深である。



とは,「しろ」であり「もと」であり,「はじめ」である。意味としては,

撚糸にする前の基の繊維,蚕から引き出した絹の原糸

とか,

模様や染色を加えない生地のままの,白い布

等々,下地とか地のままとか生地とか元素といった意味合いが強い。

横道にそれるようだが,それで思い出した,大塩平八郎,いわゆる大塩中斎は,諱を後素と言った。これは,『論語』の,

絵の事は素(しろ)きを後にす,

から来ているという。このとき,この孔子の言葉を受けて,子夏が,

礼は後なるか,

と言い,孔子に,

始めて与(とも)に詩を言うべし,

と褒められた,とある。古注では,

絵とは文(あや),つまり模様を刺繍することで,すべて五彩の色糸をぬいとりした最後にその色の境に白糸で縁取ると,五彩の模様がはっきりと浮き出す,

と解すると,貝塚茂樹注にはある。しかし新注では,

絵の事は素(しろ)より後にす,

と読み,絵は白い素地の上に様々の絵の具で彩色する,そのように人間生活も生来の美質の上に礼等の教養を加えることによって完成する,と解する。どちらが正しいかは知らないが,朱熹の注釈は少しお為ごかしに過ぎる気がする。

しかし大塩の諱の由来は,新注によった,とみられるらしい。

ま,読みの是非はともかく,新注では,素地,というものに教養で上塗りする,その上塗りの仕上げ次第というように読める。あるいは,古注でも,仕舞いの仕方,というか仕上げが重要,ということになる。しかし,

素舞

の「素」というのは,その仕上げた「素」をいうのか,生地の「素」を言うのだろうか。

上塗りの最たるものは,社会的役割だ。

人は,社会的役割を降りても,おのれをやめるわけにはいかない。いつ,衣装と仮面を脱ぐか,というふうに考えると,この問いに焦点が当たる。

おのれの人生の舞台,

を降りることはないが,役割は降りる。そこで「素」が,結局問われる。。

社会的役割については,前にも触れた気がするが,

社会的役割は,もっぱら他者の期待にもとづく意味でも,もっぱら自己の認定に基づく意味でもなく,両者の相互作用の結果として多かれ少なかれ共有される,

したがって,

主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する,つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである,

という。ぶっちゃけて言えば,

お互いが関係する中でしか役割は生まれない。つまり,役割を降りるとは,

お互いの作り出していた関係

から離脱するということだ。

結局,上塗りしたメッキの剥げた

素地

というか,化粧ののらなかった

地肌

というか,後は,その素で舞うほかはない。最後は,おのが素地次第,と言えなくもない。

しかし,思うに,素地は,昔のままの素地であるはずはない。化粧やけ,というか,白粉やけで,素地自体が変色しているかもしれない。仮面も長くかぶりつづければ,痕がつく。そのことに気づいていないかも知れない。

だから,(おのれを)見損なう。

結局,その意味も含めて,仕舞いでしかないのだろう。


参考文献;
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
宮城公子『大塩平八郎』(ぺりかん社)




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2014年07月18日

趣味


一般には,

趣き(おもむき)+味(あじ)

で,

おもしろみ,

興味をそそられてするもの,

を意味する。そして,tasteあるいはhobbyの役として使われる,と。で,ウィキペディアでは,二つの意味を挙げている。

①人間が自由時間(生理的必要時間と労働時間を除いた時間、余暇)に,好んで習慣的に繰り返しおこなう行為、事柄やその対象のこと。道楽ないしホビー(英: hobby)。
②物の持つ味わい・おもむき(情趣)を指し、それを観賞しうる能力(美しいものや面白いものについての好みや嗜好)のこと(英: taste)。調度品など品物を選定する場合の美意識や審美眼などに対して「趣味がよい/わるい」などと評価する時の趣味はこちらの意味である。

そこから,ひとつは,対象の状態というか,

感興を誘う状態。あじわい。おもむき

であり,他方で,それを受け止める主体側の状態というか,

ものごとの味わいを感じ取る力,美的な感覚,

を指すことになる。因みに,興味は,

興(おもしろい)+味(あじわい)

であるが,それが,玄人であるか素人であるかというと,素人の好み,という側面ということになる。それをひけらかせば,

衒学,

気取り,

ということになる。あるいは,

好事,物好き,酔狂,数寄,道楽,風雅,風流,

と並べていくと,ちょっと印象が変わる。そもそも,



という字は,

向かうところを定めて疾く行く,走る,

で,本義は,時間をちぢめてせかせかといくこと,らしく,

味わいに赴く,と解すると,なかなか味わい深い。

その意味で,

情趣,風趣,興趣,妙趣,趣向,詩趣,野趣,雅趣,玄趣,意趣,深趣,幽趣,旧趣,筆趣,新趣

と,どうも素人というニュアンスから遠ざかる。

思うに,仕事と対比して,趣味を語るから,意味がねじれるのではないか。趣味は,仕事とは別次元の話なのではないか。という言い方だとおかしいか…,趣味と仕事は対比するものではない,という感じなのだ。(先の定義のように,余暇の時間=自由時間という固定観念に縛られているのではないか,自由は時間枠ではない)

興味は,

興(おもしろい)+味(あじわい)

で,ものごとに関心を向ける,とある。

味は,本来は,口で微細に吟味すること,であるようだが,それが直截性から抽象度が上がれば,

ものの味の感覚,

から,

こころに感ずる味わい,

へ変ずるのもよくわかる。仕事のモードとは別の次元,というと語弊がある。そうではない,

仕事に味わいを感趣するかどうか,という,

感覚

の鋭さの問題なのかもしれない。

楽しみて淫せず,哀しみて傷(やぶら)ず

と。ここまでいくと,品格の問題さえ含む。

ある意味,仕事に淫するを,よしとする風潮がありはないか。淫するとは,

(色事,邪悪なこと,邪道)に深入りする,度を越えてのめり込む,ひたる,

というニュアンスが色濃い。いわば,トンネルビジョンに陥っていることを指す。

楽は,

木の上に繭のかかったさまをえがいたもので,山繭が繭をつくる檪(くぬぎ)のこと,

らしい。そのガクの音を借りて,謔(おかしくしゃべる),嗾(のびのびとうそぶく)などの語の仲間に当てたのが音楽の楽。音楽で楽しむという,その意味から派生したのが快楽の楽という。だから,楽しむには,

淫する,

よりも軽やかなのではないか。その意味がなくては,

これを知る者はこれを好む者に如かず,これを好む者はこれを楽しむ者に如かず

は通じない。だから思うのだが,

仕事の息抜きに趣味

というのは,仕事の仕方としては,どこか偏りがある。昔,冗談で,

仕事が趣味

と言っていたが,そういう軽やかな仕事の仕方がいいのではないか。そのほうが,トンネルビジョンに落ち込まないだろう。

これはまた別途考える必要がある。

参考文献;
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)




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2014年08月22日

いい歳


いい歳をして,

とか

いい歳こいて

とか言われたりする。

ある言動について、そういったことをする年齢でもないだろうに、といった意味合いを込めて言う表現。年不相応に。半ば非難の意味で、あるいは諌める意味で用いられる場合が多い。

相応の分別ができていい年齢,その年齢にふさわしくない行為や状態をあざけっていう語,

とある。あるいは,

年不相応に言動が稚拙だったり服装が若作りだったりして不恰好である様子,

ともある。まあ,面と向かってと言うよりは,蔭で言われることが多いのかもしれない。わが盟友は,かつて,

いい歳かっぱらって,

を口癖にしていたが,自分がその年齢になったせいか,ピタリと言わなくなった。

相当の年齢
分別ある年齢

とは,しかし,具体的に何歳を指すのだろう。僕より一回り位上の作家が,

昔の三十歳と今の自分とではずいぶん違う

というニュアンスのことを言っていた記憶がある。坂本龍馬や西郷隆盛が三,四十歳と考えると,ずっと分別臭く見える(だけかもしれない,なにせハロー効果が大きいので)。

分別というのは,

道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。
仏語で,もろもろの事理を思量し、識別する心の働き。
世間的な経験・識見などから出る考え

とある。では,別に歳とは関係ないではないか,と思うが,どうやら,三番目の,

世間的な経験・識見などから出る考え

から来ているのではないか。一定の年齢を積んだら,それだけの識見がある,はずと言うのである。

分別は,

分(わける)+別(区別する)

で,物事を整理して判断する,という意味になる(「ぶんべつ」と読むとそういう意味になる)。いわば,

わきまえ,
思慮

の意味と言う。ここでも,年齢は関係ないのではないか。

子曰く,後生畏るべし。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆることなくんば,これ亦畏るるに足らざるのみ

での孔子のありよう,言動が分別なのではないか。いわゆる目利きである。だから,分別に,加齢は関係ない。加齢したら,成長するというものではない。いい歳をして,おのれが出来もしない,「中国と戦争して勝ちたい」などと暴虎馮河を吹聴し,(自分は口説の徒で何もしないから,人を)煽り立てるアホな年寄がはびこる昨今,ひよっとしたら,

分別盛り

も死語である。分別盛りとは,

成人して豊かな人生経験を持ち,物事の道理が最もよくわかる年頃

という。ひょっとしたら,孔子先生の言われる,

子曰く,吾十有五にして学に志し,三十にして立ち,四十にして惑わず,五十にして天命を知る。六十にして耳に順う,七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず

もまた死後である。その輩が,幼児教育に,

論語の素読

を挙げていた。笑うより仕方がない。おのれはまともに『論語』を読んでもいないか,

論語読みの論語知らず

のくせに,等々と言うのは,きっと

馬の面に小便

だろう。いやな世の中になってきた。だから,

いい歳をして

は死語なのだ。何か,老人臭い連中が,時代錯誤のアナクロニズムで若い人を引っ張りまわすのは,見るに堪えない。何かと言うと,教育勅語や武士道を持ち出す。

おきゃあがれ,

と海舟なら言うだろう。全国民を,

士(大夫)

にでもするつもりなのか。そうなって,困るのは,おのれたちなのに,

子貢,君に事えんことを問う。子曰く,欺くこと勿れ,而してこれを犯せ,

と言う。

而してこれを犯せ,

とは,「殿ご乱心」の場合は,「犯せ」,つまり逆らって諌めよ,と。さすれば,こぞって諫言だらけのはずである。

論語読みの論語知らず

とはこのことである。

子貢問いて曰く,如何なるをか,これこれを士と謂うべき。子曰く,己を行うに恥有り…,

という。「恥」とは,おのれの倫理の問題である。つまり,おのれの「いかに生くべきか」のコアとなる価値観の問題である。だから,僕は,サムライ(士)とは,

心映え

を言うのだと思う。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163582.html

で書いた。心映えの濁った連中は,孔子の言う,

匹夫も志を奪うべからざる,

の片言隻句もわからぬ輩である。そのどの口が言うのか。

論語の素読

と。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)



今日のアイデア;
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2014年09月10日

ひとごと


ひとごとは,

他人事

と書く。

昨今自分のことを,ひとごとのように語る印象がある。しかし,それは,自分を対象化して,客観的に語っているようには見えない。そうではなく,自分を,

自分

というように,おのれをちょっと脇に置いて語っている,という感じなのである。主体としてのおのれではなく,ラベルとしてのおのれ,のように見える。それを感じたのは,

「親」

という言い方だ。

おやじ
とか
おふくろ

という言い方には,関係性がある。そう言った瞬間,そこに,

自分との関係性

が表現される。「くそ」がついたり「ばか」がついたりすれば,そこに自分の思いが入っているのがはっきり見える。しかし,

「親」

というとき,自分は,家族の関係から出たところから見ている。穿ちすぎかもしれないが,少なくとも,そういう言い方をするようになったのは,いつからだろうか。それは,家族そのものが,

賄いつきの下宿屋

のようになったのを反映しているのではないか,と僕は勘ぐっている。そこにあるのは,家族関係について,

ひとごと

であるという印象である。

では,ひとごとの反対は何か。どうも,そういう言葉があるかどうか知らないが,

じぶんごと(自分事)

というしかない。最近社員教育の分野でそういう言い方をしているらしいので避けたいが,「わたくし事」だと,公けに対する私になる。で,

わがこと(我が事)

という言い方もある。ま,しかし,いま使われているのに倣うとして,では,

じぶんごと

は,当事者と同じか。どうやら,最近の使われ方は,「自分ごと化」というような言い方をしているところを見ると,当事者意識を指しているらしい。しかし,これははっきり言って間違っている。

当事者の反対は,

第三者
ないし
局外者

である。当事者というのは,関係性を示している。というか,社会的役割の中で言われている。つまり,社会的役割については,前にも触れた気がするが,

「社会的役割は,もっぱら他者の期待にもとづく意味でも,もっぱら自己の認定に基づく意味でもなく,両者の相互作用の結果として多かれ少なかれ共有される。」

したがって,

「主体は,他者との相互作用において,自己にとっての意味に応じて他者に役割を割り当て,その役割と相即的に対応する自己の役割を獲得する,つまり,相互作用は,すべて役割関係なのである。」

という。ぶっちゃけて言えば,

お互いが関係する中でしか役割は生まれない。つまり,当事者意識は,

お互いの作り出していた関係

を主体的に自覚する,ということだ。だから,そこから離脱ないし,離れることを,

第三者
ないし
局外者

ということになる。ということは,ひとごとに対するじぶんごとという使い方は,当事者意識とは無関係である。

ここでいう,

ひとごと

じぶんごと

というのは,他者との関係ではなく,自分自身のありようを,自分のこととして認識するということだ。これができて初めて,役割を担うに足り,その役割の当事者たることを求められる。それ以前に,

自分の人生の舞台

を,自分が主役として生きる,あるいはそれを覚悟する,ということが,じぶんごとにほかならない。それは,

自分のいのち,
自分の家族,
自分の生活,
自分の時間,
自分の未来,

等々を自分自身との関係として,内から捉えることを意味する。それができなければ,

自分の人生そのもの

いや

自分の命そのもの

すら,ひとごとで考えているのかもしれない。それは,地に足ついていない,というより,ふわふわと実感のない生き方というのがあっているのかもしれない。いや,ありていにいえば,

自分として生きていない,

ということにほかならない。自分として生きるとは,

自分の意思

自分の感情

自分の思い

自分の振る舞い

自分の考え

をもって日々生きるということだ。

実感がない,
リアリティ感がない,

ということを聞くが,それは,日々,この現実の中で,

問題にぶつかり,何とかそれをやり繰りし,
感情的な葛藤を逃げずに向き合い,

悪戦苦闘しながら生きているということをしていないということだ。それは,悩んだり,怒ったり,泣いたり,わめいたり,興奮したりする,という自分の時間と空間の中で,日々を過ごすということだ。

それがなければ,たとえば,何かあれば親にすがり,何かあればそれに背を向け,葛藤から逃げていれば,自分にすら実体感がないのではないか。ましてや,自分の人生というものが見えないのではないか。それは生きていない,ということだ。なにも,日々生き甲斐で生き生きしている人生を指していない。そんなものがあると思って,日々の坦々とした平凡な生活に背を向けて,自分という狭い世界に閉じこもっているから,感情も,思いも,あいまいで,ふやふやなのではないか。

そこで一番失われるのは,想像力である。その人が生きている中身に応じてしかイマジネーションを生き生き描けない。だから,他人の痛みも,哀しみも,ほとんどひとごとにしか感じられない。

明日は我が身

他山の石


所詮対岸の火事としか見なければ,

戦争

ホームレス

貧困

難民

被曝


いずれはおのが身に降りかかるとは,想像もできない。本人が想像しようとしまいと,リアル世界の中にいる以上,火の粉はふりかかる。そのときになってからでは遅い。

いやいや,ひとごとではない。おのれのことでもある。自戒を込めて。

参考文献;
栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社)





今日のアイデア;
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2014年09月21日

老い


老いは

不治の病

という。誰もが避けられない。

「おい」の語源は,

「老ゆの連用形(名詞化)」

で,「老ゆ」は,

「大+ゆ(自然に経過してそうなる)」

であろうとされている。で,

季節が終わりに近づく

意にも転じている。



は,象形文字で,

年寄りが腰を曲げてつえをついたたまを描いたもの

とする説がある。別説に,

「毛(髪)+人+ヒ(化ける)」

で,

人の髪が白く変化する

という意ともされている。唯一書に,

七十歳の称

とある。「曲礼」に,

大夫七十而致事

として,七十の別称として,

致仕

が,「七十にして心の欲するところに従いて矩を踰えず」からくる,

従心

と並んで,七十の異称。

中国では,七十で,官を辞することが許されるという(日本もそれに倣った)。ちょっと,日本で言う,人生五十年は,貧しい倭国ならではのことなのではないか。五十六十は,まだまだ隠遁を許されない若輩なのだ。

では,「老い」を自覚してすべきことは何か。あるいは,老者がすべき天命とは何か。これについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163589.html

でも書いた。

命を知らざれば,以て君子と為すことなきなり

別に君子ではないとしても,



いわば,生きる意味,あるいは生きている役目

を思わなければ,ただ惰性になる。

死生,命あり,
富貴,天にあり

である。生き方は,

心映え

に現れる。いや,逆か,

心映えが,生き方に現れる。この頃,老いと戦うのをやめた。なんせ,不治なんだから,それと付き合うしかない。いわば,ずっと,

ホスピス

である。でも,頭は働く。頭を働かすことはやめないことだ。ただし,

老いの入り舞

は,つまり最後のひと花は,さもしい。そうではなく,メタ・ポジションというか,

目利き

見立て

こそが,使命なのではないか。ところで,セネカは,死の訓練について,

一日の各時間が人生という長い一日の瞬間であるかのように,一日の最後の瞬間が人生の瞬間であるかのようにして自分の一日を組織し経験する……このようなモデルにしたがって1日を生きることがてきたならば,一日が終わって眠ろうとする瞬間に,「私は生き終えた」と,

笑顔で言えるだろうと,言っているという。それに倣ったマルクス・アウレリウスは,

最高の人格とは,日々をおのが終焉の日のごとく暮らすことだ

と書いている,そうだ。とすると,残された日々,このように生きてみるというのも,まだ間に合う処方箋,「人生の技法」なのだろうか。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
ミシェル・フーコー『主体の解釈学』(筑摩書房)




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2014年11月14日

はしたない


はしたない

は,

端ない

と書く。

「ハ(端・余分)+ナイ(甚)」

で,

・慎みがなく,礼儀にはずれたり品格に欠けたりして見苦しい。みっともない。
・どっちつかずで落ち着かないさま。中途半端である。
・間が悪く,恥ずかしい。ばつが悪い。
・自分に向けられる他人の言動を,不快に感じたり迷惑に思ったりするさま。
・人に対する配慮が欠けるさま。つれない。むごい。
・程度がはなはだしい。ひどい。激しい。

という意味があるらしい。

本来は,数が揃わないこと,中途半端な状態や気持ちを指した。そこから,現在,慎みがなく,礼儀に外れたり品格に欠けたりして見苦しいこと,間が悪いことを意味するようになった。他に,「ハシタ」は「ハシタ(間所)」の転で,「ナイ」は接尾語とする説もある,

という。

どうも,

はしたない,

と言われるのは,

一見美学に見える。よく言われた気がするが,

みっともない
とか
見苦しい
とか
下品
とか
下卑

という意味以上に,何かがある気がする。倫理というか,

生き方

に関わるような気がする。類語で言うと,

安っぽい
とか
ものほしそう

というのが近いのではないか。それは,たぶん,視点を外に置くと,そういう振る舞いが,

みっともない
というか
見苦しく

見えるということになるのではないか。その振る舞い自体を評することばではなく,外聞とか,世間体という観点での評価のように見える。もう少し突っ込むと,例えば,階級とか,階層とか,特定グループの価値基準から見ると,そこから外れたことが,

はしたない,

と評されることになる。武士であれば,

サムライらしく,

ということになる。ネットで見ると,「学校や幼稚園で親の暗黙ルール」というものがあるらしく,たとえば,

「お迎えに生足で行っては行けません。ストッキングか靴下を着用するのがマナー」
「高すぎるヒールもダメ。当然,ミュールは不可。クロックス等の踵の無い靴もダメ」

とか言うそうで,

「私立幼稚園の送迎に自転車をつかったら,『ママチャリなんて,はしたない。チャリ送迎はNGよ』と注意された」

という。そういう意味では,特定集団内のマナーから外れると,

はしたない

と言われる羽目に陥る。しかし,考えたら,それは,

自分がいかに生きるか,

とは関係ないことから,規制されている,ということになる。それが,国レベルまで広がると,

はしたない,

ではなく,

売国奴
とか
反日

と言われることになる。それは,おのれの倫理ではなく,外から生き方を強いる圧力ということになる。

かつて上司に,

君はうちの社風に合わない,

と言われたことがある。自由にふるまうことは,そこでは,

はしたない

ことだったに違いない。ひとがどんな生き方,どんな働き方をするまで規制し始めたら,右向け右で,そんな中で新たな発想は絶対生まれっこない。それは,国の,組織の,衰退の兆しである。

そう言えば,どこぞのトップが,自国の憲法を,

みっともない,

と言ったが,それはどの集団の視点から言ったものやら,しかし世界から見れば,自国の憲法を「みっともない」などと言って憚らないトップこそが,

はしたない,

と言うに違いないのである。





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ラベル:はしたない
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2014年12月21日


筋を通す,ということを言うとき,いくつかの意味がある。辞書だと,

道理にかなうようにする,
物事の首尾を一貫させる,

といった意味になる。道理にかなう,というのは,

人の行いや物事の道筋が正しく,論理的であることを意味する表現。合理的であること,

「理にかなう」とも言う,

とある。で,筋を通す,には,

全体を通じて論理的なおかしさのないようにすること,

という意味が一つ出てくる。たとえば,

整合性をもたせる,
辻褄を合わせる,
調和をもたせる,
統一性をもたせる,
一貫性をもたせる,

等々がある。しかし,それを,意志の固さということになぞらえると,

心に決めたことを他からの圧力に負けずに押し通すこと,

という意味になり,たとえば,

意地を貫く,
意地を通す,
初志貫徹する,
自分を通す,
自分を貫く,
自分を曲げない,
こだわる,

等々になる。あるいは,筋を,道義とか義とか仁とかといった,その人の倫理になぞらえると,

あくまでも道義心に則って進めるさま,となり, たとえば,

義を貫く,

ということになる。もうすこし,平たく,人の生き方になぞらえると,

真心をもって相手との約束を守ること,

となると,

信義を守る,
信義を貫く,
義理堅い,

等々となる。

筋は,元来,

「ス(直)+ヂ(道)」

で,

真っ直ぐな線状のもの,
細く長い線状のもの,

が語源。「筋」は,

肉体の力を伝えるスジ,筋肉

を指すらしい。そのせいか,「筋」には,

肉の筋,線維

という意味の他に,

ひとつづきになった線状のもの

という意味があり,「筋を通す」につながる。だから,同じく「すじ」といっても,

血統
物事の通り
小説・演劇・映画などのあらまし
具体的な名を出せないとき,政府筋といった言い回し
素質
鉄道・街道の沿線
細いものを数える時の単位

等々になる。しかし,ここからは,僕の憶説だが,基本は,

道理にかなう
というか
理にかなう

のではないか,ヤクザが極道の筋を通すことを,その筋の人ならともかく,一般社会では,

筋が通っている

とは,言わない。道理にかなうというか,理にかなってはいないからだ。

では理にかなうとはどういうことか。僕は,ロジカル・シンキングで言うことと,ここはつながっているのではないか,という気がしてならない。

その生きざま

意地を通す

おのれを通す

が,評価されるには,そこに意味や価値が見えなければ,単なる頑固,依怙地に過ぎない。その理を辿ってみると,なるほどと,心を打つか,腑に落ちるものがあるからではないか。そこは,ロジカル・シンキングと一致する。論理を他の人がたどれなければ,その理は,不合理か非合理か,理不尽ということになる。

では,たどり直せる筋とはどういうことか。

ある推論が論理的であるとは,

その推論のプロセスが形式的に正しいこと

をさす。それを妥当性と呼ぶ。つまり,話がつながっていること,つじつまがあっていること。つまり,ロジカルかどうかとは,そのプロセスの筋が通っているかどうかをさす。その妥当性は,結論の是非や実質的内容とは関係なく,前提と結論のつながり方に依存している。

筋の通り方には,一般に,

●意味の論理の筋
●事実の論理の筋

のふたつがある。前者を演繹,後者を推測,と呼ぶ。

演繹では,妥当かどうかという形式的側面(論理性)が問題

になり,

推測では,説得的かどうかという内容的側面(事実性)が問題

になる。しかし両者は相互補完である。推論で確証された法則が演繹の前提となる。

演繹とは,ある主張からその含意している意味をとりだすこと。一つないし複数の主張から,その意味するところを明らかにし,それによって論証を組み立てたてる。演繹的思考は,与えられた前提から結論に至る,前提→論証→結論と流れが一本の論理的流れにならなくてはならない。前提となっている一般的論(真理=法則)の個別化をたどり,「それゆえに」「だから」と結論づけていく。つまり,例証をする,守りの論理である。演繹的結論の場合,論理の流れに飛躍があるとすると,前提以外の要素をいれた,推測(論理の飛躍か前提の間違った適用)が入っていることになる。

一方,推測は,ある事実証拠に基づいて,それには含意されていないような,他の事実ないし一般的な事実の成立を結論する。これには,三つある。

ひとつは,仮説的思考。証拠をもとにそれをうまく説明するタイプの推測。証拠がなぜそうなっているかを説明していく。その場合,仮説のよしあしは,次の点によって評価される。

・立てた仮説が,証拠となる事実を適切に説明しているかどうか
・他に,事実を説明するに足る仮説がないかどうかのチェック

いまひとつが,帰納的思考。仮説的思考のなかでも,個別の事例を証拠に,一般的主張を結論するものを帰納的思考という。帰納的思考は,個々の事例から出発し,別の事例へ,あるいは一般化に向かう。帰納的思考は発見的で,攻めの推論である。

ついでに,もうひとつが,アブダクション。与えられた証拠のもとで,最良の説明を発見する推理方法。理論の真偽を問うのではなく,観察データのもとで,どの理論がよりよい説明を与えてくれるのかを相互比較する。データのもとで,仮説間の相互比較しベストのものを選び出す。

ちょっと細分に入り過ぎた。

さて,では,筋を通す,ということは,確かに,たどり直してみたら,一貫していた,と思えることだとして,しかし,そうやって理をたどるのは,おのれ自身なのか,誰なのか。友人なのか,知人なのか,親族なのか。しかし,仮に,誰かにたどってもらってみて,

一本筋が通っているね,

などと評されて,嬉しいものなのか。その点は,いささか疑わしい。所詮,自分の人生にとことん付き合っているのは,外面も内面も,自分でしかない。他人の評は,単なる印象の積み重ねに過ぎない。勝海舟ではないが,

行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張

なのである。

だから,僕は,筋を通す,というのは,他人の目から見て,ではないのではないか,という気がする。他人におのれの生き方をたどって,是非を言ってもらうために,筋を通しているわけではないからだ。

むしろ,吉本隆明の言う

「重要なことは何かといったら, 自分と, 自分が理想と考えてる自分との, その間の問答です。 『外』じゃないですよ。 つまり,人とのコミュニケーションじゃ ないんです。」

という自己対話なのではないか。他人から見たら,筋も軸もいい加減に見えようと,理想の自分との対話の中で,自分が道を決めているかどうかの方が,遥かに重い。で,死の直前,自分の来し方を尋ねてみて,

一本に見えているかどうか,

が大事なのだ。ここで言いたいのは,事実として,

一本筋であったかどうか,

ではないということだ。大事なのは,死に臨んで,生きてきた道筋が,いまの自分に必然だと思える,そのときの心境こそが肝心要なのだ。

おのれの過去の見え方は,いまのおのれの生き方に依存する。つまり,

ああ,ここへ来るべくしてきたのだな,

と思える心境に,そのときいることこそが大事なのだ。僕にとって,筋が通る,とはそういうことだ。
結果として,そういう自己認知のできる生き方をしておきたい,ということに尽きる。

そういえば,勝海舟は,こんなことを言っていた。

主義といひ、道といつて、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といつても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、おれの取らないところだ。

参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
野矢茂樹『論理トレーニング』(産業図書)
市川伸一『考えることの科学』(中央新書)






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2015年01月04日

正直


今年のテーマは,正直。

正直は,中国語の,

正しく+素直な

というのが語源であるそうだ。平安の頃から使われているらしい。常識的には,

心が正しく素直なこと,陰日向のないこと。
率直なこと。ありのまま。

という意味だが,その他に,

桶屋の用いる長さ1.2m鉋。木をその上に乗せて,推して削る
とか
家屋・柱などの垂直を検査する具で,長い木の上下に同じに長さの横木があって,上の横木の一端から錘重を垂れる

という意味もある。

「正」は,

「一+止(あし)」で,足が目標の線めがけてまっすぐに進むさまを示す。

と言い,「征」(まっすぐすすむ)の原字,という。そのせいか,この字には,

ただしい
まっすぐである
ただす

という意味の他に,

主なものである
丁度の時刻
まと

等々といった意味がある。

「直」は,

「―(まっすぐ)+目」

で,まっすぐに目を向けることを示す。だから,「直」には,

まっすぐなさま
なおきこと
じかに

等々といった意味になる。

その意味では,「正直」は,正しいかどうかよりは,真っ直ぐに目を向ける,と言うニュアンスが強いのかもしれない。しかし,「正直」が,高く買われているかと言うと,そうでもない。

正直の頭に神宿る

という言い方もあるが,

正直一遍律儀真法(まっぽう)
正直貧乏横着栄耀

とも言い,融通のきかなさを揶揄する言い方も結構ある。しかし,それは,是非,可否の判断から,外から言うからであって,内から見れば,そうではない。確かに,少し前の新聞記事に,

「『自分と相手のお金の取り分の比率を変えながら提案を受け入れるかどうかを聞く』という実験を行った結果そのような結果が得られたとのこと。また,その結果と脳内におけるセロトニン神経細胞の密度を比較したところ,『正直者』タイプの人間はセロトニン神経細胞の密度が少なかったという。そのようなタイプの人間は,セロトニンによる我慢が効きにくいのではないかと見られている。」

といったことが出ていて,単なる単細胞と言われているに等しく,「正直一遍律儀真法」を証明しているようで,正直は分が悪い。ネットでは,正直とは,

「古代の『清明心』が中世に入り武士階級を中心に発展し形成された概念。近世になると更に『誠』の精神へと発展していく」

という説明もあった。しかし,「誠」の「成」は,

「戈+丁」

で,「戈」はほこ,「丁」は,打ってまとめ固める意。打の原字。「成」には,

「道具でとんとんとうち固めて城壁をつくること」
「かけめなくまとまる」
「まとめあげる」

という意味があり,「誠」には,

かけめない言行

を指す。そこには,言い方は悪いが,何についてかは問わず,言行に矛盾がなければよしとするように聞こえる。それは,他律的であり,自律的ではない。

ぼくは,正直を,何か外の価値,規準に照らすのではなく,おのれ自身の倫理(とは,いかに生きるべきか)にこそ照らすべきだ,と思う。

それは,内なる声,というか,自分の本音,と言うべきものとまともに向き合う,ということにつながるのではないか。

自分の気持ちと言うと,少しぶれが大きすぎるので,内なる声にしておくが,それはあるいは,(他人にではなく,おのれ自身に)オープンである,ということにつながる。ひょっとすると,それは,自分自身に対してメタ・ポジションを維持する,ということなのかもしれない。それが,外から矛盾に見えたとしても,厭わないことにしたい。自分がそういう振る舞いを選択していることに自覚的であるという意味で,だ。

以前書いたが,かつていろいろ世話になった先輩は,肝炎の入院先で,高見順の『死の淵より』を読んでいる,と言ってにやりと笑ってみせた。本人なりの意地と意気なのかもしれない。

石田三成は,刑場へ行くとき,「柿」を勧められて,それは体に悪いとか言って,刑吏の嗤いを誘ったというが,そういう刑吏を三成は嘲った。それで思い出すのは,フランス革命で処刑される貴族の誰それが,刑場へ行く馬車の中でも本を読み続け,下りろと促されて,読みかけのページに折り目を付けたと言われるが,おのれの矜持を徹底するという意味で,そこまでいけば,生きざまには違いない。

ただし,その振る舞いを自覚的に選択しているという意味で,である

そういう意味の,正直でありたいと思う。

人の生きるや直し

である。






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2015年01月07日

自責


かつては,自責化という言い方で,

①自分が主体になって解決する。もちろん必要なら,メンバーや上位者の支援を求める。その判断も自責である。
②自分に解決できるカタチに置き換える。こういうカタチなら,ここまでできるという判断がつけられる。

と,仕事に置ける,自己責任の取り方を,常々おのれに言い聞かせてきた(それが常にできたとは言わないが)。それは,生き方においても同じなのではないか。

人事を尽くして天命をまつ,

という言葉が好きになれないのは,どこかに,決裁を仰ぐ姿勢がある。しかし,神田橋條治氏流に,

天命を信じて人事を尽くす,

か,清澤満之の,それを,

天命を安んじて人事尽くす,

に換えたものの方が,自責に近い。天命というと,場違いかもしれないが,おのれの役割,使命と置き換えてもいい。

生きるのも為すのも自分である。他力に頼ったところで,それにすがってやったのでは,自責ではない。他力本願とは,ある意味,すがることの放棄である。

はからい

を捨てることである。それは,逆に言うと,何かをしたからとか,しなかったから,というおのれの思い入れや希望や仮託を捨てることである。それは,自分の責任で生きる,ということに他ならない。

天命

は,ただ,それを自覚しなければ,耳にも心にも聞こえない。主体的なかかわりの中で,自分の責任で生きる。その結果を忖度しない。

他力には義なきを義とす

とは,

「『義』とは,自力のはからいをさしているから,人間の思慮や作為を否定するのが他力である」

意味とされる。だからと言って,どんな生き方をしてもいいということではない,と思っている。『歎異抄』の,

「善人なほもて往生をとぐ,いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく,『悪人なほ往生す,いかにいはんや善人をや』。
この条,一旦そのいはれあるに似たれども,本願他力の意趣にそむけり。
そのゆゑは,自力作善の人(善人)は,ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ,弥陀の本願にあらず。しかれども,自力のこころをひるがへして,他力をたのみたてまつれば,真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は,いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを,あはれみたまひて願をおこしたまふ本意,悪人成仏のためなれば,他力をたのみたてまつる悪人,もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ,まして悪人はと,仰せ候ひき。」

も,だからと言って,自責なき生き方をしていい,という意味ではない。おのれの人生の舞台で,おのれの天命を尽くす,後は,計らいをいれない。

其の道を尽くして死する者は,正命なり

と,『孟子』にあるのもそれである。

中島らもが,

「人間にはみな『役割』がある。その役割がすまぬうちは人間は殺しても死なない。逆に役割の終わった人間は不条理のうちに死んでいく。」

と言っていた(そうだが,そういう)のも,それに違いない。スピリチュアリティにおいてすら,

「人生には目的があります。しかしその目的は,それに携わる人間が操り人形でしかないほど融通性のないものではありません。笛に踊らされる人形ではないのです。…あなた方には個的存在としての責任と同時に,ある限度内の自由意志が与えられているのです。」

という。それは,

「内部に完全性を秘めそれを発揮しようとしている未完の存在」

であるからこそ,

「人生はしょせんは一つの長い闘いであり,試練です。魂に秘められた可能性を試される戦場に身をおいている」,

その場で,「この世に存在する目的」を果たす努力なしにはない,それを通して,

「自分とはいったい何なのか,如何なる存在なのか,如何なる可能性をもつか」

を悟ることはない,と言っている。神田橋條治さんのいう,

遺伝子の可能性の開花,

もそれだし,孟子の,

万物皆我に備わる,

というのもそれであり,

之を求むるに道あるも,之を得るに命あるは,是れを求むることを得るに益なきなり。外に在る者を求むればなり。

というのもそれである。

仏性
といい,
一切衆生悉有仏性,

というのも,またおのれの中にある。

「仏性を開発自由自在に発揮することで,煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく,また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び,仏法修行の究極の目的とされている。」

という(説明される)のにも通じる。

参考文献;
アン・ドェーリー編『シルバー・パーチの霊訓(一)』(潮文社)
小林勝人訳注『孟子』(岩波文庫)






今日のアイデア;
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2015年04月26日

翁長知事


ほとんど知られていないが,国連のB規約(市民的および政治的権利)人権委員会は日本政府に対し,

「琉球民族にアイヌ民族と同様に『民族の言語、文化について習得できるよう十分な機会を与え、通常の教育課程の中にアイヌ、琉球・沖縄の文化に関する教育も導入』し、さらに『琉球民族の土地の権利を認めるべきだ』」

と求めた。B規約(市民的および政治的権利)人権委員会からの勧告とは,

「『市民的および政治的権利に関する国際規約(B規約)』は、1966年の国連総会で採択された国際人権規約の一部で、76年に発効した。締約国は国内の人権や自由を尊重・遵守するよう求められており、定期的に政府報告書を提出する義務を負う。委員会は、締約国において規約の実現のために十分な措置が取られているかについて、締約国の政府および市民団体、個人が提出する報告書を審査し、最終所見として勧告する。」

というもので,

「今回の琉球・沖縄の人々の土地の権利、言語や文化について学ぶ権利に関する勧告は、琉球弧の先住民族会(AIPR)や沖縄市民情報センター、その他の市民団体が、90年代半ばから国連の先住民作業部会で訴えてきたことの結果」

と見なされている。こういう背景を,考えた上で,辺野古問題を考える必要がある気がしている。

先日,翁長知事は,何回もすっぽかされた末,わずか30分の会談を,実現できた。しかし,

http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=112136

そこで,本来,公開で5分ずつ話すはずが,3分に削り,しかも翁長氏が話している最中に,記者団を外へ追い出した。余程情報公開が嫌いらしい。

「総理も官房長官も16年前、当時の稲嶺(恵一)知事、地元名護市長も辺野古基地を受け入れたとおっしゃっていますけれども、しかしながら稲嶺知事は代替施設は軍民共用施設として、そして米軍による施設の使用については15年の期限を設けることを条件として受け入れを認めたわけです。
それから岸本(建男)名護市長は日米地位協定の改善、それから施設の使用期限、それから基地使用協定等の前提条件が満たされなければ容認は撤回すると言っておりました。
当時の政府は平成11(1999)年12月、稲嶺知事と岸本市長はこれを重く受け止め、米国政府と話し合う旨、閣議決定を認めました。しかし、その閣議決定は平成18(2006)年に沖縄県と十分な協議がないまま廃止されました。
従って16年前に知事や市長が受け入れを決めたというのは前提条件がなくなったことで、受け入れたというのは私たちとしては間違えだというふうに思っています。」

「前知事が、埋め立てを承認したことを錦の御旗として、辺野古移設を進めておられますが、昨年の名護市長選挙、沖縄県知事選挙、衆議院選挙は前知事の埋め立て承認が争点でありました。
全ての選挙で辺野古新基地反対という圧倒的な民意が示されたわけであります。沖縄は自ら基地を提供したことは一度もございません。普天間飛行場もそれ以外の基地も戦後県民が(捕虜)収容所に収容されている間に、(土地が)接収された。または居住場所をはじめ銃剣とブルドーザーで強制接収され、基地造りがなされたわけであります。
自ら土地を奪っておきながら老朽化したから、世界一危険だから沖縄が負担しなさい。嫌なら代替案を出せと言われる。こんな理不尽なことはないと思います。」

と,ここまでで,記者は退出させられたのである。この後,

「私は沖縄にある米軍基地や米国政府の責任者から、辺野古の問題は日本の国内問題だとよく言われます。
われわれ県民から見たら、米軍基地の運用について日本政府がほとんど口を挟めないことをよく知っていますから、辺野古の問題についても、県民からは実感として、県民と米軍、県民とアメリカ政府との問題だとも思えます。
ですから、私も近いうち訪米をして県民の思いを米国政府、シンクタンク等さまざまな方々に訴えようと思っています。」

なぜ沖縄の民意が,辺野古移設反対にあるかは,翁長氏の立ち位置を見ればわかる。単に,辺野古へ持って行くことではない。いままでは,米軍に強制的に追い立てられて,基地にされた,今度は,初めて,

日本政府によって(強制的に)基地を造られる,

というよりも,

「日本が初めて米国に基地を『提供』してしまうからだ。奪われたことはあっても提供なんかしたことがない。」

ということに,怒りと,絶望を感じている。そのことに,僕も含めてほとんどの(本土の)人間は,気づいていない。

翁長・管対談については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/416946633.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/417056502.html

で触れた。

三年前の時点で,翁長氏は,

http://www.geocities.jp/oohira181/onaga_okinawa.htm

で,言っている。

「沖縄は自ら土地を提供したことは一度もございません。自ら土地を奪っておきながら、老朽化したから、世界一危険だから沖縄が負担しろ、嫌なら代替案を出せと言われる。こんな理不尽なことはないと思っております。」

「ぼくは自民党県連の幹事長もやった人間です。沖縄問題の責任は一義的には自民党にある。しかし社会党や共産党に国を任せるわけにもいかない。困ったもんだと、ずっと思ってきた。ただ、自民党でない国民は、沖縄の基地問題に理解があると思っていたんですよ。ところが政権交代して民主党になったら、何のことはない、民主党も全く同じことをする」

「僕らはね、もう折れてしまったんです。何だ、本土の人はみんな一緒じゃないの、と。沖縄の声と合わせるように、鳩山さんが『県外』と言っても一顧だにしない。沖縄で自民党とか民主党とか言っている場合じゃないなという区切りが、鳩山内閣でつきました」

「沖縄にすべて押しつけておいて、一人前の顔をするなと言いたい。これはもうイデオロギーではなく、民族の問題じゃないかな。元知事の西銘順治さんが、沖縄の心はと問われ、『ヤマトンチュ(本土の人)になりたくて、なり切れない心』と言ったんだけれど、ぼくは分かった。ヤマトンチュになろうとしても、本土が寄せ付けないんだ。
寄せ付けないのに、自分たちの枠から外れると『中国のスパイだ』とかレッテルを貼る。民主党の前原誠司さんに聞かれたよ。『独立する気持ちはあるんですか』と。ぼくは、なでしこジャパンが優勝した時、あなたよりよっぽど涙を流したと話しました。戦後67年間、いじめられながらも『本家』を思ってきた。なのに基地はいやだといっても、能面みたいな顔で押しつけてくる。他ではありえないでしょう。日本の47分の1として認めないんだったら、日本というくびきから外してちょうだいという気持ちだよね」

予想通り,「翁長沖縄県知事は中国の手先」というデマを流し始めている。いまや、虚実ないまぜのネガティブキャンペーン(「翁長は中国と近すぎる危険人物」)といっていいものが展開されはじめている。

「一つが、那覇市の若狭緑地に建設中の中国風のモニュメント『龍柱』をめぐるものだ。市の都市計画マスタープランでは、那覇西地域で『中国とのゆかりが深い歴史性を生かしたまちづくり』を推進。福建省・福州市との友好都市締結30年を記念し、『那覇の新しい玄関口としての魅力を高めたい』と龍柱建設を計画した。それは翁長市長時代に決められたプランであり、『翁長氏に中国側から賄賂が流れた』という怪情報が地元で流されているのである。加えて『龍柱が完成したら、龍の目は上海を向く』というイチャモンのような話も広められた。」

さらに,

「翁長知事の娘は長く中国に留学していた」
「娘は、上海市政府に勤める中国人と結婚している。相手は習近平人脈に連なるエリート共産党員だ。中国に行ったままなかなか帰国を認めてもらえない。人質に取られているも同然だから、基地問題で中国寄りの姿勢をとらざるを得ない」

しかし実際は、娘は結婚も留学もしていない。「龍の目が上海を向く」も,単に空港からの車の流れや港に着く船からの人の動線を考慮して「海側に向けられただけ」だった。

さらに、翁長知事が福州市から「名誉市民賞」を受けているとする情報も広がっている。だから「中国寄り」というわけで、やはりこれもネットで「売国奴だ」と批判の対象になった。名誉市民賞は事実だが、実態は友好都市として歴代那覇市長と福州市幹部が「名誉市民」の称号を交換してきた歴史があるだけだ。

いまさら,この国の首相がどうの,自民党がどうの,ネトウヨがどうの,と言ってみたところで意味はない。問われているのは,ひとりひとりの倫理である。いかにいくべきか,いかにあるべきか,に応え得る言動かどうかだ。まあ,ぶっちゃけ,

人としてどうなのよ,

ということだ。天に恥じないのかどうかだ。さて,

「訪米した際には、オバマ大統領へ沖縄県知事はじめ、県民は、辺野古移設計画に明確に反対しているということを伝えていただきたい。よろしくお願いします。」

と,翁長知事は託しましたが,伝えますでしょうか。そもそも耳に届いていない。伝えんでしょうな。

参考文献;
http://ryuma681.blog47.fc2.com/blog-entry-1211.html
http://www.geocities.jp/oohira181/onaga_okinawa.htm
http://www.okinawatimes.co.jp/article.php?id=112136
http://www7b.biglobe.ne.jp/~whoyou/bunkenshiryo3.htm







今日のアイデア;
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2015年08月07日

後生楽


後生楽,

という言葉があるらしい。

「ごしょうらく」

と,読む。出典は知らないが,意味は,

後生は安楽と思って安心すること,
心配事も苦にしないで、のんきなこと。また、そのさまや、そのような人。ののしったり、しかったりするときにもいう,

とある。もともと,

「後生」の意味から,派生したに違いない。「後生」とは,

今生

前世

に対する言葉で,「来世」のこと。もともと,

来世の安楽,
とか
極楽往生,

との意をもっている。そこから派生して,

人に折り入ってものを頼むときに言う。『大言海』に,

「人を救ふ善根は,後生安楽の果報とならむとの意」

とある。「後生の勤め」とかと言って,

極楽往生を願って,この世で徳行を積むことから,

「後生を願う」

という意味で,人に頼むときに,

「後生だからお願い」(とは,昨今言わなくなったが)

等々と言って,

「後生善処するから,お願いします」

「私の頼みを聞いておくと,後生に果報があるよ」

とは,なかなか虫のいいことを言う。

してみると,後生楽は,後生にあるかのように,のんきにしている,という意味だが,どうも,明らかに,(場違いに,今風に言うと,空気を読めず)のんびりしている奴への面当てというか,嫌味で言う言い方のように思える。

それにしても,「後生」にまつわる言葉は多い。

後生一生
後生気
後生心
後生善処
後生立て
後生だのみ
後生願い
後生始め
後生菩提

後生の生まれ変わりを頼んで,「後生立て」し,「後生を願う」。むろん,「後生嫌い」(後生と言うより信心嫌い)と言う言葉もあるくらいだから,すべてではないにしても,今生ではなく,他生にすがるしかなかった憂世のしんどさが逆に垣間見える。

後生大事
後生は徳の余り

もそれを示す。もっとも,

後生願いと栗の木にまっすぐなものはない
後生願いの六性悪

と,その底意を嘲るものもあるし,

後生より今生が大事

というもっともなのもある。

話が違うが,「後世動物」という概念があった。

「動物界には多細胞動物と、単細胞で運動性がある原生生物が含まれていた。この、動物扱いされていた単細胞生物を原生動物というのに対して、多細胞の動物をまとめた呼び名として後生動物が使用された。」

「後世」と訳したのは,時系列的に,多分つながっているという感覚なのだろうか。「個体発生は系統発生を反復する」という「反復説」のヘッケルの唱えたものらしいが,人は,受精卵から成人するまでの個体発生プロセスのの間に,

「単細胞生物→多細胞動物→脊索動物→魚類→両生類→爬虫類→哺乳類→類人猿類→人類」

という系統発生を繰り返している,という説である。単細胞以降の後生,そう考えると,成長し,生まれ出る前に,

輪廻転生,

を繰り返している,と言えなくもない。すでに,その意味では,生まれ出た,今生が,

後生,

なのではないか,という気がする。

参考文献;
中沢弘基『生命誕生』(講談社現代新書)
大槻文彦『大言海』(冨山房)






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2015年08月12日




というのと,

恥ずかしい,
とか
恥じらう,

というのとは,もちろん,和語か中国語かの語感の差もあるが,随分印象が違う。しかも「はじ」と読ませて,

羞(恥じて眩く,顔の合わせがたきなり),
恥(心に恥ずかしく思う),
愧(おのれの見苦しきを人に対して恥ずる。醜の字の気味がある),
辱(はずかしめ,栄の反対。外聞悪しきを言う),
慙(はづると訓むが,はぢとは訓まない。慙愧と用いる。愧と同じ),
忸(忸・怩ともに恥ずる貌),

等々とある(括弧内は『字源』による意味の違い)。しかし,「恥」の字と,

はじる,

と表記するのでも,随分印象が変わる。

「恥」は,「心+耳」で,心が柔らかくいじけること,という意味らしい。ただ,『漢和辞典』では,「羞」と比較して,

「羞し,恥じて心が縮まること,『慙愧』と熟してもちいる。辱も柔らかい意を含み,恥じて気後れすること。忸は,心がいじけてきっぱりとしないこと。慙は,心にじわじわと切り込まれた感じ。」

と説明があった。「恥づ」は,語源的には,

「端+づ」

で,中央から外れている,末端にいる劣等感,を意味する。『古語辞典』にも,

自分の能力・状態・行為などについて世間並みでないという劣等意識を持つ意,

と注記がある。だから,

(自分の至らなさ,みっともなさを思って)気が引ける,

となるし,逆に,

(相手を眩しく感じて)気後れする,

結果として,

照れくさい,

という意味になる,ようである。それにしても,「恥ずかしい」と「はにか(含羞)む」とでは,随分ニュアンスが違う。

「はにかむ」は,

「歯+に+噛む」

で,遠慮がちに恥ずかしがる様子が,歯に物をかむようなので,はにかむというらしい。しかし,恥ずかしがり方よりは,何を恥ずかしがるか,が問題のようだ。

「行己有恥」(己を行うて恥あり)

とある。

「子貢問うて曰く『如何なるこれこれを士と言うべき』子曰く、『己を行うて恥あり。四方に使いして君命を辱めざる、士と言うべし』」

にある。ここで言う恥は,

「端+づ」

の恥ではないのではないか。『大言海』に,「はぢ(恥・辱)」として,

恥ずこと,面目を失うこと,恥辱,
恥を恥とすること,名を重んずること,廉恥心,

とある。この説明が一番僕にはピンとくる。廉恥とは,「廉とは,清潔の義」で,潔くして,恥の感情の強いこと,とある。あるいは,「恥じを知ること」とも。

ここにあるのは,自己倫理なのではないか。世間体というのも,もちろん一つの基準であるし,世の中の基準というのもあるが,ここでは,自分の生き方としての確信なのではないか,それを自恃といってもいいし,自負といってもいい。しかし,それは,自惚れや奢りではない。

子曰く,由よ,汝に知ることを誨(おし)えんか,知れるを知れるとなし,知らざるを知らずとせよ,これ知るなり。

それは,知ったかぶりとは無縁のことだ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%9E%E6%81%A5%E5%BF%83

によると,「恥ずかしい」と思うとき,

自己の存在が取るに足らない物と感じ、自己を否定したいと思う「全体的自己非難」
恥を感じる状況から逃げたい、もしくは恥を感じた記憶を消したいと思う「回避・隠蔽反応」
自分が周囲から孤立したと感じる「孤立感」
人に見られている、人に笑われていると思う「被笑感」

とあるが,恥の本質は,どうもこのどれとも当てはまらない気がする。おのれの人としてのありよう,あるいは,大袈裟に言うと,

人としてある使命,

のようなものに照らすのではないか。それは,よそにある尺度ではなく,自身の中にある尺度,倫理である。自己倫理とは,

(おのれ自身の内的な声として)いかに生くべきか,

というコアの自分への戒め,である。

だから,無恥は無知に通じ,無知は無恥に通じる。そのことは,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/419536179.html

で触れた。

参考文献;
簡野道明『字源』(角川書店)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)








今日のアイデア;
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2015年08月17日

ほうほうのてい


「ほうほうのてい」は,

這う這うの体,

と書く。

いまにも這い出さんばかりの様子,
散々な目にあって,かろうじて逃げる様子,

という意味である(『広辞苑』)。『日葡辞典』では,

ハウハウノテイニテニゲタ,

とあるそうだから,本来は,

這う

が訛ったものなのだろう。『古語辞典』には,

はふはふ,

として,

やっとの思いで歩くさま,
体裁の悪いのも何も構っていられないさま,

という意味が載っている。やはり『大言海』の説明がふるっている。

歩みがたきを,強ひてなす状に云ふ語,
辛うじてあゆみて,

として,

失敗(しぐじ)りてそこそこに逃ぐる状に云ふ,

とある。しくじって,こそこそ逃げる,のを,本人の身になれば,いたたまれず,這うようにして,去る,という状態であろう,と惻隠して言う言葉なのだろう。たぶん,逃げる本人は,

ほうほうの体で逃げる,

とは言わない。その場に居合わせた周囲の人には,そう見えた,ということだろう。そこには,憐憫が混じっている。その意味では,類語としてあがる,

辛くも,
間一髪で,
首の皮一枚で,
危機一髪で,
命からがら,

というのは,似ているようで,まるで視点が違う。

その場にいる自分自身が危なかった,

と言えるニュアンスではない。そういう一般的な危機ではない,

おのれのへまが招いたもの,

だから,ほかの人はそこから逃げ隠れする必要はない。そこには,

ただ危なかったと述懐するような自慢の色はない。

いたたまれず,

尻に帆掛けて逃げるさまなのである。あるいは,

尻尾を巻く,

とんずら,

という方がニュアンスは近い。でなければ,「ほうほうのてい」に含まれる,

恥ずかしさ,

いたたまれなさ,

が抜けてしまう。

それにしても,昨今,

厚顔無恥,

というか,

面の皮が厚い,

というか,廉恥心の欠片もなくなったように見えてならない。廉恥心とは,

恥を知る,
というより,
恥が何たるか知っている,

という意味だ。無恥は,無知から来ている。それについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/419536179.html

で書いたが,

之を知るを之を知ると為し,
知らざるを知らざると為す,

それを知らぬを無知と言うばかりではなく,無恥という。

本来,ほうほうのていで,逃げるべき時に,逃げずに,そこに開き直る。いや,冗談だと,言い募る。

そこに居座ること自体,恥ずかしいのに,それを恥もせぬ,

無恥,

とは,まさに無知。それもおのれを知らず,天に恥じぬ。もはや,恥知らずではなく,人間としての何かが欠けている,というべきではないのだろうか。









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2015年08月26日

どこか遠くへ


昔,

いまでない,いつか,
ここでない,どこか,
これではない,何か,

という思いを,

どこか遠くへ,
地図にない世界へ,
でも,地図にない世界の地図がない,

と,自己撞着したフレーズで(おのれの憧憬)揶揄した記憶がある。もう遠い昔のことだ。人は知らず,

いつも,もっといいものがある,という思いで,いた。

もっと知りたいことがある,
もっと面白いことがある,
もっと知らない世界がある,
もっと知りあいたい人がいる,

と,それは,

いまではない,いつか,
ここではない,どこか,

という渇望に似たものだ。それは,若いということと同義かもしれない。

いま

ここ

に固執するものを嘲っていた。そこに固執する限り,

いまの,ここでのおのれ以上にはいかない,

と。そうやって,自分の向こうに広がる世界を自分のものにしようと,まあ,

蟷螂の斧,

かもしれない。そうやって,野心というか志というか,広がる未知を既知に変えて,おのれの求める物を少しずつ広げていく(つもり),まあ,それが成長ということかもしれない。

振り返れば,実現できたこともあるし,実現しそこなったこともある。

しかし,いまの時代なら,

足るを知れ,
とか,
おのれの中に未知の世界がある,
とか,
おのれを受け容れよ,

とか言うのであろうか。

たとえ,おのれの無知蒙昧を思い知らされることになったとしても,縮こまり,いまの,ここの,自分に留まろうという気はなかった気がする。そういう時代状況だったせいかもしれない。若者は,

もっと猛々しく,
もっと青臭く,
もっと革命的,

であった,ような気がする(老耄のたわごとだが)。しかし,振り向くと,

どうしてもできなかったこと,
しそこなったこと,
しようとして不十分にしかできなかったこと,

に目が向きがちだ。しかし,

しようと思ったこと,
したいと思ったこと,

は,全部とは言わないが(告白しなかった片思いのように,苦く呑みこんだ思いもあるが),

それなりに齧ったり,試みたり,挑んだりして,みた。そのとき必ずぶつかったのが,

才能,

という奴だ。才能については,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/417632824.html

http://ppnetwork.seesaa.net/article/411497998.html

等々で,既に何度か書いた。

基本怠け者だから,口で言うほど努力もしてないし,野心的であったわけでもないが,

いま・ここのおのれ,

ではない,

いつか・どこかのおのれ,

に向かって(それを目標と呼ぼうと,ビジョンと呼ぼうと,野心と呼ぼうと,志と呼ぼうとかまわないが),おのれの円を拡大してきた,その涯に,いまいる。

「人生とは,なにかを計画している時に起こってしまう別の出来事のことをいう。結果が最初の思惑通りにならなくても,…最後に意味をもつのは,結果ではなく,過ごしてしまったかけがえのないその時間である。」(龍村仁『ガイアシンフォニー第三番』)

かどうかはわからないが,振り返れば,

無数の分岐点(選択肢)

を,意識的・無意識的に,選びとってきた結果でしかないことは,よく分かる。そして,それは,必然であった,と。いまの自分を否定するなら,別だが,そうでなければ,その必然的な選択の積み重ねの中に,

いま・ここ

がある。多分,最後の選択肢は,「死」なのではないか。思えば,村上一郎(『草莽論』は愛読書だ)は,自死であった。死をも,自分の選択の手に委ねたい,という意志への魅力があるのかもしれない。

まあ,僕のような成り行き任せのよくできる業ではないが,

またね,

という別れの言葉には,「さようなら」とは別のニュアンスがある。さようならについては,

http://ppnetwork.seesaa.net/article/402221188.html

で触れたが,「またね」には,再会が明確なときは,

また,明日,

となる。しかし,それがはっきりしないときには,

いつか,どこかで,

という含意があるように思えてならない。さようなら,よりは,

またね,

という言葉が,死に望んではふさわしい気がする。いつか,どこか,には,神秘のにほひがする。









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