2015年09月14日
目的
目的は,辞書によれば,
実現しようとしてめざす事柄。行動のねらい。めあて。
倫理学で、理性ないし意志が、行為に先だって行為を規定し、方向づけるもの。
といった意味が出る。しかし,これでは意味がよく見えない。目標とどう違うか,というと,
目的」は、「目標」に比べ抽象的で長期にわたる目あてであり、内容に重点を置いて使う。
「目標」は、目ざす地点・数値・数量などに重点があり、「目標は前方三〇〇〇メートルの丘の上」「今週の売り上げ目標」のようにより具体的である。
と,まあ不得要領である。しかし,
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod06200.htm
に書いたように,図解すれば,一目瞭然,
目標は目的の手段の一つ,
であり,目標は,相対的に下位の目標から見れば,目的になる。
目的・目標,
という表記の仕方は,紛らわしいが,その意味では,当を得ている。つまりは,ツリー状に表現すれば,レベルが違うのである。
アリストテレスは,
「物事の終り、すなわち物事がそれのためにでもあるそれ(目的)をも原因と言う。」
と,言ったそうだが,僭越ながら,順序が逆である。
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/prod0961.htm
で表現したように,原因が束になって結果をもたらす。
原因・結果のツリー,
は,
目的・手段のツリー,
の真逆になる。結果が目的で,それをもたらす手段が原因群,となる。
この目的は,
意味,
と置き換えることができる。
意味づけ,
である。その究極は,目的論的な考えで,
自然の諸事物のうちにさまざまな神の意図があるとする,
のもそれで,その関連に,宇宙論にある,
人間原理,
である。それについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163436.html
で触れた。これも,意味づけの一種である。また,ジェームズ・J・ギブソンの提唱する,
アフォーダンス,
もまた,環境に見つける,意味・価値である。ただの石ころも,椅子代わりに見えるような,見つけ出した意味である。
前にも触れたが,人の認知形式,思考形式には,
「論理・実証モード(Paradigmatic Mode)」
と
「ストーリーモード(Narrative Mode)」
がある,という。前者はロジカル・シンキングのように,物事の是非を論証していく。後者は,出来事と出来事の意味とつながりを見ようとする。
ドナルド・A・ノーマンは,これについて,こう言っている。
「物語には,形式的な解決手段が置き去りにしてしまう要素を的確に捉えてくれる素晴らしい能力がある。論理は一般化しようとする。結論を特定の文脈から切り離したり,主観的な感情に左右されないようにしようとするのである。物語は文脈を捉え,感情を捉える。論理は一般化し,物語は特殊化する。論理を使えば,文脈に依存しない凡庸な結論を導き出すことができる。物語を使えば,個人的な視点でその結論が関係者にどんなインパクトを与えるか理解できるのである。物語が論理より優れているわけではない。また,論理が物語りより優れているわけでもない。二つは別のものなのだ。各々が別の観点を採用しているだけである。」(『人を賢くする道具』)
要は,ストーリーモードは,論理モードで一般化され,文脈を切り離してしまう思考パターンを補完し,具象で裏打ちすることになる。つまり,ロジックだけでは,生きる意味,つまり,
倫理,
が宙に浮く気がするのであろう。宗教から始まって,あらゆるところに,生きている意味が浸透する。
それは悪いこととは思わない。ただ,自分の人生に意味を付けるのは,結果なのであって,
意味があるから,生きる,
のでも,
意味を見つけたいから,生きる,
のでもない。おのれの為すべきことを為すために,
淡々と生きる,
その結果に意味がついてくる,と僕は思うのである。
何かのため,
でも,
誰かのため,
でもなく,おのれ自身の生きるために,生きる,それでいいのではないか。
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年09月21日
百尺竿頭
百尺竿頭は,
ひゃくしゃくかんとう
と訓む。「百尺竿頭に一歩を進む」といった使い方をする。あるいは,修行の世界では,
百尺竿頭に一歩を進め,絶後に再び蘇る,
といった使い方をするそうだ。
「伝灯録」(景徳伝灯録)に由来するらしい。『正法眼蔵随聞記』にも,
「古人の云く、『百尺の竿頭に更に一歩を進むべし』」
と,記述されているそうである。正確には,
「百尺の竿頭に更に一歩を進むべし。此の心は,十文のさをのさきにのぼりて,猶手足をはなちて,即ち身心わ法下せんがごとし」
とある。
「百尺の竿の先に達しているが、なおその上に一歩を進もうとする。すでに努力・工夫を尽くしたうえに、さらに尽力すること、また、十分に言を尽くして説いたうえに、さらに一歩進めて説くことのたとえ。」
百尺竿頭に坐する底の人、
然も得入すと雖も、未だ真を為さず、
百尺竿頭に須く歩を進め、十方世界に全身を現ずべし。
と,無門関にある,という。
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2003/12.htm
によると,高い竿の先とは,
「長い修行で至った悟りの極地の喩え。しかし、如何ほど高い境地にあっても、そこに留まって安住していたら何のはたらきも出来ない。その悟りより、『さらに一歩、歩を進めよ』と言うことは、百尺の竿の先きから踏み出すほどに不惜身命、命をも投げ出して、衆生救済へ向かってこそ、悟りの意義がある」
という意味らしい。悟りをひらいた境地に満足せず,その先を目指せという意味で,禅門では,
「大死一番、絶後に蘇る」
とか,
「青霄裡に住まらず」
という語があるらしい。霄裡とは,
「雲ひとつ無い晴れ渡った大空。」
のこと,「そのが広がって清々し尊い世界だが、いかに尊い境地であっても、悟りの本当の働きはその青霄裡に留まっていては出来ない」の意味らしい。
また,
http://www.eonet.ne.jp/~jinnouji/page9/houwa08/page251.html
には,
「石霜和尚と長沙景岑禅師の問答です。石霜和尚の『百尺竿頭如何が歩を進めん』という問いに、長沙禅師は『百尺竿頭にすべからく歩を進め、十方世界に全身を現ずべし』と応じた。」
とあり,
「百尺竿頭とは長い竿の先のことですが、それは、きびしい修行を経て到達できる悟りの境地です。修行のすえに悟りを開いたとしても、修行の道に終わりはないから『さらに一歩を進めよ』ということです。」
とある。ステップに置き換えてもいい。ステージを上がると,見える世界が変わる。しかし,その
「百尺竿頭に止まってはならない」
ということなのである。
「修行を積んで徳を重ねたとしても、そこにとどまってしまえば、そして、そこに安住して執着してしまえば、もはやそこは百尺竿頭、すなわち、きびしい修行を経て到達できる悟りの境地ではない。百尺竿頭に止まってはならないのです。」
という意味なのである。
「勇を奮って一歩踏み出してみよ、そうすれば必ず死の底より蘇ることができる。そこには従来までとは全く違った別世界が広がり、新しい生命の根源を手に入れることが出来る。」
視界が変わる,という意味なのである。
たしか,エジソンの名言に,
「ほとんどすべての人間は、もうこれ以上アイデアを考えるのは不可能だというところまで行きつき、そこでやる気をなくしてしまう。勝負はそこからだというのに」
というのがあった。昔営業をしているとき,これで最後にしようと思って,それから,もう一軒行くか行かないかが,差が出る,というようなことを言われた記憶がある。百尺竿頭とは,裏返しの言葉だか,
百折不撓
という言葉に当たる。どん底を更に這い上がろうとするか,頂点を更に昇ろうとするか,精神性は,似ている。
「諦めたときに自分がどれほど成功に近づいていたか気づかなかった人」
が,扉を開けそこなう,というのもそういうことなのだろう。「諦めた」を「満足した」と置き換えれば,そのまま通じる。見えている視界で,絶望するのも,満足するのも,そこが行きどまりという意味では,同じなのかもしれない。しかし,
努力できる,というのも才能の内だ,
という言葉が,怠け者の自分には重い。
今日のアイデア;
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2015年10月02日
悪びれる
悪びれるは,
悪怯れる
とも書く。辞書(『広辞苑』)によると,
多く下に打消しの語を伴って
とあり,
気おくれがして卑屈な様子をする,
未練がましく,ふるまう,
わろびる,
とある。因みに,『大言海』は,
物言いかねて,何となく屈す,また醜き状となる,
臆して醜くなる,
醜態,
とあり,『保元物語』「為朝最期事」より,
「かやうに随分勇士共は,わろびれて進みえず」
と引用する。本来は,どうやら,相手の,
臆した,
みっともない,
様子を指していたらしい。しかし,昨今は,否定形を伴って,
悪びれない,
悪びれた様子もない,
悪びれる風もない,
悪びれもしない,
といったふうに,その様子を非難する方に転じている。悪びれる【わるびれる】の例文(使い方)として,
まったく悪びれた様子がない(謝らない・謝罪しないの表現・描写・類語)
悪びれた感情になる(恐怖・不安の表現)
悪びれる(恥ずかしいの表現)
といった使い方がある,とされるが,
まったく悪びれた様子がない,
という意味で,本来謝罪しなくてはならない状況にあるにもかかわらず,
謝らない
謝罪しない,
ことを非難する言い回しが多い。要は,
恥を恥とも思わないでいるさま,
とか,
やったことを反省するそぶりもない,
という意味で,
ふてぶてしい,
とか,
いけしゃあしゃあ,
といった含意の表現なのである。類語で言うと,
恥じる様子もない
厚かましい
厚顔無恥
鉄面皮
ふてぶてしい
面の皮が厚い
といった,何がしか悖る行為をしておきながら,
しれっとしている
あっけらかんとしている
ケロリとしている
というのが,「悪びれない」の意味の外延だが,厚顔,厚かましいには,単に,
鈍感,
というだけではない,人として,どうなのか,という咎めが入っている。それは,
倫理,
といっていい,それは,
人として,どう生きるか,
人として,どうあるべきか,
といったものに背くにもかかわらず,それに何の痛痒も感じないらしい無神経さを咎めている。しかし,咎める側と本人のギャップが大きいことに,昨今つくづく思い至る。
愧ずべきことと,
恥ずべきことと,
一向に思っていないらしいのである。こういうのを,
荒廃,
と呼ぶ。いまその坂道を転がり落ちているが,そう思わない連中にとっては,
馬の面にしょんべんなのだろう。
だから,よく,
おめおめと,
と,こちらには思えるところに,平然と立っていて,悪びれるところがない。
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2015年10月04日
その場
そ(其)の場とは,辞書(『広辞苑』)には,
ある物事があったところ,その場面,
その席上,即座,
という意味が載っていて,
その場限り(その場だけで後に関係のないこと),
その場ぎり(仝上),
その場凌ぎ(その場を取り繕って切り抜けること),
その場逃れ(その場限りの取り繕い,一時遁れ),
等々,総じて,糊塗,言い抜け,間に合わせ,誤魔化し,と言った,あまりいい意味で使われていない。
「将来的なことを考えずに、その時だけをうまく切り抜けるために何かを行うことにいう。『逃れ』と『しのぎ(=耐えること)』の相違があるが、実際には、かなり近い意味で用いられる。」
という説明があった。
その場をかわす,逃げ出すため,という心理(という受身)
か,
その場を「言い抜ける」「切り抜ける」「捌く」という心理(という積極的)
か,
の違いはあっても,その場でことに向き合うためではなく,その場でごまかそうとしていることに変りはなく,本人にとっては,結構大違いかもしれないが,その場に立ち会っている相手方からすれば,どっちだって変らず,その場をテキトーにごまかそうとしているのに違いはない。
似た言葉に,
当座逃れ,
当座しのぎ,
一時逃れ,
一時しのぎ,
一寸延ばし
一寸逃れ
というのがあり,
その場,
当座,
一時,
一寸,
と使い訳はあっても,結局,肝心要の,
その場,
を逃げることしか考えていない,ということなのだろう。だから,「一時」いやいや「一寸」,つまり,そのいっとき,一瞬,だけを切り抜けようとする,と見えるのだろう。「当座」は,「その場」が,より限定されている。
居合わせている座,その場,その席上,
その場ですぐ,即座,即刻,
という意味で,確か,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/409638012.html
にあったと思うが,嘘を見抜くには,相手の予行演習を崩す,その場で即答させるのが効く,とあったと思う。だから,相手に余裕であしらう暇を与えないと,本音が露呈せざるを得ない,
その場,
をつくることが必要なのだろう。「場」については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/400626564.html
でも触れたが,「場」という字は,
昜(よう)は,「日+T(高く上がる印)+彡(さん 飾りや模様をあらわす記号 影・彩・形などに使われる)」で,太陽が彩美しく昇るさま。「土」を加えて,日光のあたる高めの開けた地」
を指す。だから,漢字の「場」は,
広く開けた地,
平面より一段高く開けた地,
人の集まる広いところ,
を指すが,わが国では,
その物事が行われている所,時間,場合,
を限定する。だから,芝居の「場」という使い方につながる。その意味では,
「その場」
には,肝心要の,大事な,
そのとき,その場,
というニュアンスがある気がする。大袈裟に言えば,
そこで,どうそれに立ち向かうか,どういう対処をするか,
で,その人そのものの在りようが問われるような,
正念場,
というか,
切所,
なのではないか。だから,
「あとのことは考えずに、その場だけをとりつくろうこと。また、そうした態度・口実。一時しのぎ。」
と何とか取り繕う,と本人が思っているのと,周囲が見ている眼とは違っている。
間に合わせ,
応急処置,
ですむことと済まないことがある。
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2015年10月08日
野暮天
野暮天については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/406147111.html
でも書いたが,先だって,春風亭栄枝師匠の『蜀山人』を聴いていて,
野暮天は,谷保(かつては「やぼ」と訓んだらしい)の天神のことだ,とあった。眉唾だと思っていたが,まんざらそうとも言い切れない。大田蜀山人(南畝)が,
神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん,
と狂歌に詠んだことから,「野暮天」または「野暮」の語を生んだ,伝えるのである。
野暮天は,
やぼてん
と訓むが,ある辞書にはこうある。
仏教の「…天」に擬したもので、「天」は程度の高い意を表すという,
と注記して,
たいそうやぼなこと。また、その人,
とあり,
やぼすけ,
とも言う,と。きわめて野暮なこと,つまり,野暮のきわめつき。天は,
高いところ
を指し,脳天,天井と使うのと同じとある。「天」の字は,これも前に書いた気がするが,
大の字に立った人間の頭の上部の高く平らかな部分を一印で示したもの,もと巓(テン いただき)と同じ。頭上高く広がる大空をテンという,高く平らかに広がる意を含む,
と,『漢字源』にはある。その意味では,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
でいう「天」になぞらえている,という説も当たらずと言えども,遠からず,なのかもしれない。
なお,「やぼ」は(野暮と当てるのは当て字),
世情に通ぜず,人情の機微をわきまえないこと,特に遊里の事情に通じないこと,また,その人,無粋,無骨。
で,それが広く敷衍されて,
洗練されていないこと,風雅の心のないこと,無風流,
となる。この反対が粋(いき,すい)となる。無粋の骨頂のような自分が,この辺りに深入りするのを避けて,話を戻す。
『語源由来辞典』(http://gogen-allguide.com/ya/yabo.html)には,
「東京都国立市の谷保天満宮の名から,『野暮』や『野暮天』という言葉ができたとする説もある。しかし狂歌師の太田蜀山人が『野暮』と『谷保』を掛け,『神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん』と訓んだことから,そのような説が生まれたもので,それ以前から『野暮』という言葉が存在していたため,『野暮』の語源と『谷保天満宮』は無関係である。」
とある。だいたい,この狂歌が成り立つには,「野暮」という言葉がもともとあったから,「やぼ」で,「野暮」と「谷保」を懸けられたのだから,「谷保天」が「野暮天」の語源というところは確からしいのではないか。
野暮は,『古語辞典』をみると,
野暮,
野夫,
野火,
に当てられている。野暮については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/406147111.html
で書いたので,重なるかもしれないが,
「野夫」の転。藪者の略。世情に通じない者を言う。
「谷保天神」の略。付会のようだ。
雅楽の笙の17の管のうち「也亡」の二管は吹いても音が出ない。その「也亡」が語源。融通のきかない人間を指す。
「谷保天神」は,「やぼ」がなければ成り立たないので,他の二説ということになるが,『大言海』は,
野夫の音転と云夫。又藪者(やぶもの)の転略。藪澤の人,田舎者の意と云ふ。通,粋の反,
と,「野夫」を取る。別に,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E6%9A%AE
に,
「奥の細道で、『野夫(田舎者事であり『野夫』は『やぶ』とも読む)といへども、さすがに情け知らぬにはあらず』と読まれている。このように『いき』の一つとされる『情け』の反対語と関連付けられており、語源の可能性もあるが定かとはなっていない。」
ともあるらしいが,どうやら,一般には世情,特に,遊郭に不案内を指す,というところのようだ。
「地方出身の侍は,落語や川柳などで浅黄裏と呼ばれ,江戸っ子からは野暮の代表ともされた」。
とある。いわれないことだが,首都に住んでいるだけで,優越感を示すのは,それこそ,虎の威を借る狐で,僕には,そいつらの方が,よほど,
野暮,
野暮天,
に見える。いまだと,
「野暮という形容は、派手な服装、金銭への執着、くどくどしい説明などについて用いられる。また、(機能美までに至らない)非実用的で表面的な見栄えの重視、ブランドへの無批判な信仰と依存も野暮といえる。」
と言えるらしいので,まあ,都鄙よりは,個人だろう。
ところで,谷保天神(天満宮)(やぼてんまんぐう)は,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%BF%9D%E5%A4%A9%E6%BA%80%E5%AE%AE
によると,
「社伝によると、903年(延喜3年)に菅原道真の三男・道武が、父を祀る廟を建てたことに始まるという。この神社は東日本最古の天満宮であり、亀戸天神社・湯島天満宮と合わせて関東三大天神と呼ばれる。」
と由緒のある神社で,谷保は,
「南武鉄道(JR南武線)が谷保駅の駅名を『やほ』としたため、地名の『谷保』までも『やほ』と言うようになってしまったが、本来の読み方は『やぼ』である。」
という。こういう所業を,
野暮,
というのである。
参考文献;
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年11月07日
ごしょうぎ
「ごしょうぎ」は,
後生気
と当てる。
「後生の安楽を願う心。来世の安楽の種になるような功徳をしたいと思う気持ち。後生心。また、その心持ちであるさま。」
という意味で,
後生気を起こす,
とか
後生気が薄い,
等々とつかう。似た言葉で,
後生願い,
とか,
後生頼み,
というのがある。
後生願いは,
ひたすら来世の極楽往生を願うこと。また、その人,
後生頼みは,
阿弥陀に帰依して,極楽往生をねがうこと,またその人,
でほぼ同じ。似た言葉の,後生楽,については,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/423716335.html
で触れた。意味は,
後生は安楽と思って安心すること,
心配事も苦にしないで、のんきなこと。また、そのさまや、そのような人。ののしったり、しかったりするときにもいう,
とあるから,似ているが,後生気を起こして,後生楽となる,と言う順序であろうか。
しかし,「後生気」の「後」を抜いて,
生気,
となると,「せいき」と訓むと,当たり前だが,まったく意味が変わる。
いきいきした活力,活気,
万物を育てる自然の力,
となるが,同じ「生気」でも,「しょうげ」と訓むと,
陰陽道で,十二支を12ヵ月に配当し,正月を子とし,順次に12月に至り,これを八卦の方角に当て,その人のその年の吉であろうとする方角を指示したもの,吉の方角。生気の方(かた)。
「生気の色」の略。
と意味が変わる。「生気」の色というのは,
生気を考えて定めた衣服の色。東には青,南には赤を用いる等々,
とある。「生気(せいき)」というと,
元気
活力
精気
神気
英気
といった言葉に連なるが,そうしたものの中心が,いわゆる,
正気(せいき),
ではなかろうか。「正気」は,
天地にみなぎっていると考えられている,至公,至大,至正な天地の気,
正しい気風,
という意味になる。それは,『孟子』にある,
我善く浩然の気を養う。敢えて問う,何をか浩然の気と謂う。曰く,言い難し。その気たるや,至大至剛にして直く,養いて害うことなければ,則ち天地の間に塞(み)つ。その気たるや,義と道とに配す。是れなければ餒(う)うるなり。是れ義に集(あ)いて生ずる所の者にして,襲いて取れるに非ざるなり。行心に慊(こころよ)からざることあれば,則ち餒う也。
という「浩然の気」につながり,文天祥の
「正気の歌」
につながる。文天祥については,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%A5%A5
「正気の歌」については,
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%B0%97%E3%81%AE%E6%AD%8C
に詳しいが,この辺りは,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/411864896.html
ですでに触れた。この歌に和した,藤田東湖の,
天地正大の気
粹然として神州に鍾まる
秀でては不二の嶽杜為り
巍々として千秋に聳ゆ
注いでは大瀛(だいえい)の水と為り
洋々として八洲を環(めぐ)る
が,幕末の生気になった。このエネルギーの是非は別として,いまこの国に必要なのは,この生気であり,正気なのではないか。後生気にすがっている場合ではない。
文天祥の言う,
天地に正気あり,
雑然として流形を賦す
下は則ち河嶽と為り
上は則ち日星と為る
人に於いては浩然と為る
まさに,「沛乎として滄溟に塞つ」。大いに天地に満ちている,この気が機ではないだろうか。
参考文献;
冨谷至『中国義士伝』(中公新書)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2015年11月08日
しあわせ
しあわせについては,
http://ppnetwork.seesaa.net/article/388163068.html
で触れたことがあるので,重複するかもしれない。最近,ある本を読んでいてこんな文書に出くわした。
「幸福の認識は,まったく経験的事実にもとづくものであり,また幸福に関する判断は各人の臆見に左右され,そのうえこの臆見なるものが,また極めて変り易いものだからである。」
これはカントの言葉らしい。これを引いて,柄谷行人は,こう説いていた。
「彼(カントのこと)が幸福主義を斥けるのは,幸福がフィジカルな原因に左右されるからだ。つまり,それは他律的だからだ。その意味では,自由はメタフィジカル」
である,と。カントの目指す自由とは,こういうことだ。
「君の人格ならびにすべての他者の人格における人間性を,けっしてたんに手段としてのみ用いるのみならず,つねに同時に目的(=自由な主体)として用いるように行為せよ」
その自由から見て,文脈(あるいは状況)に左右されるものを目的化することは,僕もよしとしない。
さて,しあわせは,
幸せ(倖せ)
と
仕合(わ)せ
と当てる。
辞書(『広辞苑』)では,両者を別々に項を立てているが,一般には,一緒にしている。仕合せは,
めぐりあわせ,機会,天運,
なりゆき,始末,
(「幸せ」とも書く)幸福,好運,さいわい,
で,「幸せ」は,そのうちの三番目の意味に限定される,ということになる。
この語源は,
「為合わせ(仕合せ)」
とされ,良いことが重なること,という意味になる。さらに,
「シはサ変動詞の連用形,アワセは,プラスの意です。二つの動作・行動を,して合わせるの意です。祖父が喜寿,父が還暦,孫の合格,家族は健康で無事などと良いことが重なるがシアワセなのです。地震があって,火事がおこって,そこに大風が起こって,泥棒がやってきて,いくつかの災いが,仕合せて,災難だった,などと悪い意味に使われてもいたのが不シアワセということばです。」
と,加える。『語源由来辞典』
http://gogen-allguide.com/si/shiawase.html
によると,室町時代に生まれた言葉で,
「本来は,『めぐりあわせ』の意味で,『仕合せが良い(めぐりあわせが悪い)』,『仕合せが悪い(めぐりあわせが悪い)』と,評価語を伴って使われた。江戸時代以降,『しあわせ』のみで『幸運な事態』を表すようになった。更に事態より,気持ちの面に意味が移って,『幸福』の意味になり,『幸』の字が充てられて,『幸せ』と表記するようになった。」
とある。ただ,漢字の「幸」と「倖」の字は,
「幸は,手を上下からはさむ手かせを描いた象形文字で,執(手かせをはめて捉える)や報(仕返しの罰)の左側に含まれる。刑罰の刑(かせ)や型と同系の言葉。やがて刑にかかるところを危うく免れたの意となり,それから,思いもよらず運よくはこんだの意となる。のち,広く幸運の意に拡大して用いられたため,その原義を倖の字があらわすようになった。」
とあるから,ちいさな「僥倖」(思いがけない幸運。こぼれざいわい)を「幸い」と呼んだように見える。
『古語辞典』をみると,
仕合せ
為合わせ
と当てて,
うまく合うようにする,
という意味が最初に来る。そこから,
物事の取り回し,処置,
となり,それが,
めぐりあわせ,
となっていく様子が見える。「しあひ」
という言葉があり,
仕合い
為合い
とあてて,
共にことをする,
という意味で,それが,一方で,
互いに争い合う,
つまり勝負の試合(仕合)になり,他方で,
幸運
になっていくさまが想像される。『大言海』の説明がいい。
「仕合せたる時(オリ)に,運に当たり,不運に当たること。命運」
と。まさに,それが「仕合せ」の本義だろう。
中島みゆきの「糸」という曲には,
「縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます」
とある。
参考文献;
柄谷行人『トランスクリティーク』 (岩波現代文庫)
藤堂明保他編『漢字源』(学習研究社)
増井金典『日本語源広辞典』(ミネルヴァ書房)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm
2016年05月25日
陰徳
陰徳とは,
人に知られないようにひそかにする善行。隠れた,よい行い,
を言う。
陰徳あれば必ず陽報あり,
という使い方をする。
『故事ことわざ辞典』
http://kotowaza-allguide.com/i/intokuarebayouhou.html
には,
「人知れずよい行いをする者には、必ずよい報いがあるということ」
とある。『淮南子』に,
「夫陰徳有者必陽報有、陰行有者必昭名有」
とあるそうだが,
陰徳は末代の宝
とか
陰徳は耳の鳴る如し
とか,「陰」行だの「陰」徳を尊ぶのは,昔のことかもしれない。陰陽については,
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%99%BD
に譲るとして,『易経』に,
「戸を闔(とざ)すこれを坤と謂い,戸を闢(ひら)くこれを乾と謂い,一闔一闢(いっひういっぺき 一たび闔(と)じ,一たび闢(ひら)く)これを変と謂い,往来窮まらざるを通と謂い,見(あら)わるるはすなわちこれを象と謂い,形あるはすなわちこれを器と謂い,制してこれを用いるはこれを法と謂い,利用出入りして民みなこれをもちうるはこれを神と謂う」
とあり,
「戸を闔(と)ざしたように静かで動かない状態はこれを坤(陰)と謂い,戸を開いたように外へ向かって動く状態はこれを乾(陽)と謂い,闔じたり開いたり,すなわち或いは陰となりあるいは陽となることはこれを変と謂」
うとある。何ごとにも収支のバランスがある。しかし,
http://ak8mans.com/inntoku.html
に,
「陰徳を積むと一言で言っても、それはなかなか大変なことです。なぜなら、『人知れず』に行いをしなければいけないし、『見返り』を望んではいけないからです。相手の為を思っての人知れずの善行であっても、少しでも見返りを期待すると、それは陽徳になってしまいます。」
バランスは簡単に崩れる。簡単なら,諺にはなるまい。たしか杉良太郎が,養子81人を育てたことが話題になったとき,
「杉さんの活動を売名行為と揶揄する方もいました…。」
との問いに,
「ああ、偽善で売名ですよ。偽善のために今まで数十億を自腹で使ってきたんです。私のことをそういうふうにおっしゃる方々もぜひ自腹で数十億出して名前を売ったらいいですよ。」
「売名行為ですか? と、これまで嫌というほど聞かされてきました。もう反論する気もないけど、やったほうがいいんです。1億3千万人が売名でいいから、被災者に心を寄せてください」
と応えて,ネットで話題になっていた。広言するかどうかではなく,見返りを求めず,というところが眼目なのかもしれない。
『老子』に,
「上徳は徳とせず,是(ここ)を以って徳あり。下徳は徳を失わざらんとす,是(ここ)を以って徳なし。上徳は無為にして以って為す無く,下徳は之を為して以って為す有り。上仁は之を為して以って為す無く,上義は之を為して以って為す有り,上礼は之を為して之に応ずる莫(な)ければ,則ち臂(うで)を攘(はら)って之を扔(つ)く。故に道を失いて而る後に徳あり,徳を失いて而る後に仁あり,仁を失いて而る後に義あり,義を失いて而る後に礼あり。夫れ礼は、忠信の薄にして乱の首(はじめ)なり。前識(ぜんしき)は,道の華(か)にして愚の始めなり。是(ここ)を以って大丈夫(だいじょうぶ)は,其の厚きに処(お)りてその薄きに居らず。その実(じつ)に処りてその華に居らず。故に彼れを去(す)てて此れを取る。」
とあり,「無為の徳」を上徳としているようだ。儒家の説く「徳」,意識しての徳行への批判らしく,
「下徳をさらに『上仁』『上義』『上礼』に分けて,儒家の有為の道徳の下降性を説明する…『上仁』は孔子に,『上義』は孟子に,『上礼』は荀子にそれぞれ充てて考えることができる。」
無意識のまま徳をなすこともあるし,それが自然体の人もいる。しかし,
「陰徳陽報」
で言っているのは,そういうことではないのではないか。「意識して」でなければ(しかも報いを意識しないで),意味をなさない。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1015480540
に,
「陰徳とは、誰も見ていないところで徳を積んでいるという意味で、陽徳とは人が見ているところで徳を積むことで、すなわち、人が見ていない所でどこまで徳を積むかということが大切だということです。
例えば、陰徳を施している人がいて、それが何かの機会に人に知れると、パアッと世の中に現れてきます。
反対に、人に隠した悪事が何かの機会に漏れると、パアッと世の中の噂となります。
君子は人が見ていないからと行って、悪いことをしてはならないということです。
君子は平素『その独りを慎む』要があり、誰も見ていない時ほどきちんとしている必要があり、と言っています。」
とは,上述の杉のことを考えあわせることができる。
「老子によりますと、徳の行為には、さらに上徳と下徳の二つに分類できる、と言うのです。下徳というのは、『徳を積もう』『徳を積まなければならない』と自我意識をもって徳を積む行為ですが、上徳というのは、そうした自我意識を持たないで、少しも報いを求めずに無為にして人を愛し、無為にして善の行為をすることです。そして、聖人は上徳を行なう、と老子は説いているのです。」
と,できないから,徳行を積むべく意識する。積むこと自体が目的化していいのであろう。
陰陽を表す太極図
孔子の言う,
「郷原(きょうげん)は徳の賊なり」
と。「郷原」とは「えせ君子」(吉川幸次郎)という。「君子」は難しいが,
「徳は弧ならず」
が,本来の含意とは違うかもしれないが,「陽報」をイメージさせる。
http://www.huffingtonpost.jp/krithika-varagur/mother-teresa-was-no-saint_b_9658658.html
で,最近,聖人に列したマザー・テレサの素顔が暴露されたが,ことほど左様に,
徳
と
仁
は,難しい。ただここまで書いて,念のため,「徳」の字を調べてみた。
「原字は,悳(とく)と書き,『心+音符直』の会意兼形声文字で,元,本性のままの素直な心の意。徳はのち,それに彳印を加えて,素直な本性に基づく行いを示したもの」
とある。原字「悳」,直+心,が示しているところから考えると,老子が「上徳」といった意味が少しわかった気がした。それは至難だから,
「徳を失いて而る後に仁あり」
なのである。そう位置づけると,孔子の意味がまた違って見える。
参考文献;
http://ak8mans.com/inntoku.html
高田真治・後藤基巳訳『易経』(岩波文庫)
http://spotlight-media.jp/article/160647007460420241
吉川幸次郎監修『老子』(朝日新聞社)
貝塚茂樹訳注『論語』(中公文庫)
ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm
今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm