2012年11月16日

神秘体験の脳的根拠~『脳には奇妙なクセがある』からⅣ


引き続き,池谷祐二『脳には奇妙なクセがある』について

自分は神仏の加護は信じたいので,我が家には,荒神様もあるし,神棚もあるし,お札も結構貼ってあるし,小さいながら仏壇もある。年の初めには初詣もする。その程度の習慣に従っているだけだ。ご利益以上のものを得たいとも思わないし,神を近くに感じたこともない。その代り金縛りにもあわず,神秘な体験もまったくない,スノッブそのものの小市民だ。それを不幸と見る人もいるかもしれないが,どうせ死んでしまえば,ハイそれまでなのだから(そうではないと言われたこともあるが,わからないことはわからない),いまの自分には関係ない,という考えの持ち主だから,冒涜と言われればその通りだろう。

ところで,人があるところにほぼ宗教があるということは,ヒトが神なるものに親和性を本能的に持っている,つまり神を感じる脳回路をもっているのではないか,そう考える科学者の問題意識は面白い。

その実験のひとつに,「こめかみよりも少し上,脳で言えば側頭葉に相当する部分を磁気刺激すると,存在しないはずのモノをありありと感じる」のだそうだ。実験すると,40%の人が何らかの知覚体験をしたという結果が出ている。「奇しくも英語でこめかみはtemple,つまり『聖なる殿堂』という意味」だ,と。

この側頭葉が原因で起こすてんかん発作では,1.3%が神秘体験をするといわれている。かつての上司が,その発作を起こしたのを目撃したことがあるが,それで思い出したのは,ドストエフスキーだ。彼も,その病をもち,その体験を語っていたし,小説にもした。

ただ個人的には,宗教ということと神秘体験をすることと結びつけるのはあまり好きではない。アメリカのエプライ博士は,「宗教心が強い人は自己中心的だ」と主張しているという。「神の思し召し」というのは,神の意図なのではなく,無自覚な本人の個人的願望が反映されている,という。

それでふと思い出したのは,「はからい」という親鸞の言葉だ。「はからい」は如来の本願のほうにあり,人間の側にはない。だから絶対他力だ,「最後の親鸞を訪れた幻は,知を放棄し,称名念仏の結果に対する計い(はからい)と成仏への期待を放棄」する。と。これを知ったのは,吉本隆明の『最後の親鸞』だ。そこで,彼は,こんなことを書いていた。

<わたし>たちが宗教を信じないのは,宗教的なもののなかに,相対的な存在にすぎないじぶんに眼をつぶったまま絶対へ跳び超してゆく自己欺瞞をみてしまうからである。

僕はこの言葉に吸い寄せられた記憶がある。いまの自分にとことん付き合うしかない,そういっていると僕は読んだ。自殺を意識したどん底の頃だったと記憶している。何かにすがろうとするおのれの頭を殴られた感じだった。強い意志をそこに感じ取り,かなわないとも感じた。

歎異鈔の中で,唯円が,尋ねる。自分は,念仏をとなえても,湧き上がるような歓喜の心がわかない。いちずに浄土へ行きたいという心が起きない。どうしてなのか,と。親鸞は,自分もそうだという。そして,こう答える。喜べないのは,凡夫のしるしだ。だからこそますますきっと往生できるとおもわなくてはいけない。喜ばせないのは,煩悩に満ちた凡夫ゆうだ。仏はとうにご存じで,他力仏の悲願はそういう凡夫を必ず浄土へ行かせようと結願されたのだ,と説く。

ただ信心が足りないからと,どこかの新興宗教のように何かを買えなどとは,親鸞は説かない。「久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里は棄て難く未だ生まれざる安養の浄土は恋しからず」と受け止める。その言い方は,まず相手に〇をつけて,しかし念仏を唱えれば浄土へ行ける,という考えを否定し,こう言っている。「ひたすら知にたよらない他力の往生心を発起し,方便や計らいの名残を残した門を出て,弥陀の選択された本願に絶対的に帰依する広い海に転入」する,と。

だから最後は,念仏を信ずるも念仏を棄てるも「面々の御計らいなり」となる。

ここには,すべての計らいをすてて絶対的に帰依できるかどうかが,最後に問われている。それで浄土に行けるのか,本当に救われるのか,と考えるのは,人の側の思惑に過ぎない。しかし,たぶん,これはもういわゆる宗教であることを突き抜けている。こういう思想家,宗教家が,日本にいたことを,いまの(徳川時代のキリシタン対策としてつくられた)檀家制度の果てにある,真宗からはなかなかうかがえない。

ちょっと話を矮小化するようだが,わからんことはわからん,と言えるのはすごいことだ。ましてや宗教の教祖が。それだけでも,器の大きさに圧倒される。そこから思い出したが,神田橋條治氏が,
すぐれた人は,わからないという言葉で勝負する,と。要はわからないことはわからない,知らないことはしらない,という。という趣旨のことを言っていた気がする。

管理職だったころ,知ったかぶりするのも嫌だが,知らない,というのにも抵抗があった。しかしフランクに「俺それよく知らない,教えてくれない」と言えばよかったのだ。しかしそうやって開示しながら,どこかで,相手が語ることから,相手の力量を測ろうとするのだろうな,きっと。ああ,器が小さい。


参考文献;
吉本隆明『最後の親鸞』(春秋社)


今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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#はからい
#池谷裕二


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2016年04月14日

カミ


「カミ」は,

「神」

という漢字を当てているが,「カミ」の語源すらはっきりしていない。

http://ppnetwork.seesaa.net/article/430465963.html

で触れたように,本居宣長も,

「迦微(かみ)と申す名の義はいまだ思ひ得ず」

と言うほどである。古代,霊的なものを示す言葉に,「カミ」「タマ」「モノ」「オニ」がある。「タマ」は,霊魂を指す,人のみならずすべての存在は「タマ」をもち,その霊威をおそれるものを「モノ」と呼び,「オニ」は,「隠」で,隠れて見えない存在を指す。

伊藤聡氏が,「カミ」の基本的性格を次のように整理しているのは,上記で既に触れたところだ。

①霊的なものとして把握されており,実態的なものとみなされていない。ただ,すべての「タマ」が神なのではなく,強力な霊威・脅威をもつ「タマ」が「カミ」として祀られる。か「カミ」は「タマ」の一種なのである。
②「モノ」「オニ」も,「タマ」に属す。「カミ」が神となり,「カミ」の否定的な部分がモノ(名指し得ぬもの)は,後に怨霊的存在として,「モツケ」「モノノケ(物+気)」となる。「オニ」は「カミ」の最も荒々しい部分を取り出したもの。といって,「カミ」には,「モノ」「オニ」要素が消えたわけではない。
③「タマ」と同じく,「カミ」は目に見えないとされた。
④「カミ」は人と直接接触せず,意志を伝える時は,巫女や子供に憑依する。
⑤「カミ」の怒りは祟りという形をとる。

その「カミ」が,仏教伝来以降,神仏習合,本地垂迹を経て,神と仏は,いずれが裏か面か分かちがたくよじれていくことになる。

『古語辞典』も,「カミ」を,

「上代以前では,人間に対して威力を振るい,威力をもって臨むものは,すべてカミで,カミは人間の怖れと畏みの対象であった。人間はこれに多くの捧げ物をして,これが穏やかに鎮まっているのを願うのが基本的な対し方であった。」

とし,その上で,

「平安時代以降,古いカミの観念の大部分はひきつがれたが,奈良時代に始まる本地垂迹の説が広まり,仏とカミとに多少の融合が起こり,カミは荒々しく威力をふるう存在としてよりも,個々人の行為に禁止や許可を与える面が強く現れる。しかし仏が人間を救い,教導し,法を説くものとして頼られたのに対し,カミは好意・親愛で対されることなく,場合によっては,鬼・狐・木魂と同類視されて畏れ憚られた。中世末期キリスト教の伝来に際し,デウスはカミと訳されず,日葡辞典のカミの項には,『日本の異教徒の尊ぶカミ』とだけ説明されている。」

と書く。カミは,地に堕ちた,ということになる。

ここでは,ちょっと「カミ」という言葉の謂れを探ってみた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E_(%E7%A5%9E%E9%81%93)

にあるように,「神」は,「上」から来ていると,長く思われてきた。しかし江戸時代に発見された上代特殊仮名遣によると,

「神」はミが乙類 (kamï)

「上」はミが甲類 (kami)

と音が異なっており,『古語辞典』でも,

「カミ(上)からカミ(神)というとする語源説は成立し難い」

と断言する。ただ,

「『神 (kamï)』と『上 (kami)』音の類似は確かであり、何らかの母音変化が起こった」

とする説もある。とっさに思い浮かぶのは,アイヌ語の,

カムイ,

で,

「カムヤマトイワレヒコ、カムアタツヒメなどの複合語で『神』が『カム』となっていることから、『神』は古くは『カム』かそれに近い音だったことが推定される。大野晋や森重敏などは、ï の古い形として *ui と *oi を推定しており、これによれば kamï は古くは *kamui となる。これらから、『神』はアイヌ語の『カムイ (kamui)』と同語源」

という説もあるようである。因みに,琉球語では,カグというらしい。何となく,「カミ」に繋がりそうな感じである。

ちなみに,上記には,

「『身分の高い人間』を意味する『長官』『守』『皇』『卿』『頭』『伯』等(現代語でいう『オかみ』)、『龗』(神の名)、『狼』も、『上』と同じくミが甲類(kami)であり、『髪』『紙』も、『上』と同じくミが甲類(kami)である。」

とあり,

「『神 (kamï)』と『上 (kami)』音の類似は確かであり、何らかの母音変化が起こった」

とする説も確かに成り立つようである。アイヌのカムイは,

「動植物や自然現象、あるいは人工物など、あらゆるものにカムイが宿っているとされる。一般にカムイと呼ばれる条件としては、『ある固有の能力を有しているもの』、特に人間のできない事を行い様々な恩恵や災厄をもたらすものである事が挙げられる。そして、そういった能力の保持者或いは付与者としてそのものに内在する霊的知性体がカムイであると考えられている。」

とあるとされる。

『大言海』は,別に語源をたてて,

「隠身(かくれみ)の意なりと云ふ」

とし,

「かくばかり,かばかり,探女(さぐりめ),さぐめ」

と,変化の例を出し,

「現身(うつつみ)に対す(隠世(かくりよ),現世(うつしよ))」

として,『古事記』の

「天御中主神,云々,獨神(ひとりがみ)成坐(なりまして),而隠身也(かくりみにまします)」

霊異記の,「聖徳太子,神人を看破したまひしを」

「聖人之通眼,見隠身」

等々の例を引く。そして,意味の第一に,

「形は,目に見えずして,霊(みたま)あり,幽事(かんなごと)を知(しろ)して,奇霊(くしび)にましますものの称。後には,無上自在の威霊(いきおい)ありて,世の禍福を知(しろ)し,人の善悪の行為に,加護,懲罰したまふとて,崇(あが)むべきものの意とす。」

と載せる。どうやら,その果てに,由来が,カミに根差しているかどうかはわからないが,江戸時代のカミ(神・髪)は,遊里語として,

「豪遊客に連れられて登楼する取り巻き」

を指すようになった。

漢字「神」の字は,

「申は,いなずまの伸びる姿を描いた象形文字。神は,『示(祭壇)+音符申』で,いなずまのように不可知な自然の力のこと。後に,不思議な力や,目に見えぬ心の働きをも言う」

ので,「カミ」に「神」を当てたのは慧眼なのだろう。『論語』の,

「怪力乱神を語らず」

の「神」は,この鬼神のこととされる。

参考文献;
伊藤聡『神道とは何か ― 神と仏の日本史』 (中公新書)
大野晋・佐竹 昭広・ 前田金五郎編『古語辞典 補訂版』(岩波書店)

ホームページ;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/index.htm

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm


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