2012年11月19日

ボディサイコセラピーと身体のトレーニング~身体の意識と無意識



JCAK主催の「カッコよく・ラクに歩ける・実践的な歩き方第二弾」に参加し,プロフェッショナル・ランニング・コーチの小田英男さんに,ウォーキングとランニングの指導を受けたが,それと前後して,贄川治樹さんのボディサイコセラピーにも,「ボディサイコセラピー入門」の第三回と第四回,産業カウンセラー協会東京支部での「ノンバーバル・コミュニケーションをカウンセリングに活かす方法」と計三回参加したので,無理やりこじつけることになるが,両者から学んだことをまとめてみたい。

歩くということは,赤ん坊の時立ち上がってから,何十年もの間に出来上がった癖があり,その癖が楽だと思っていたが,足の運びではなく,上半身を,極端に言うと前に引っ張りだすことで,片足がで,そこに重みをかけることで,次の足が,すっと前へ流れる。うまく説明できないが,イメージは,急斜面をスキーで滑降する時,腰を引いたら滑れない。思い切って谷側へ頭を飛び込ませるようにすると,うまくはないが,なんとなく滑れた感覚があり,それと似た感じを持った。それは,足で歩くというのではなく,足を運ばせるという感覚なのだろうか。上半身をうまく使うことで,歩きのイメージが変わった。少なくとも,猫背や前のめりの格好ではなく,胸を張り,腰を軸に歩く感じになる。

これが,先日のウォーキングの場で学んだことだ。その前に,いくつか全身をほぐしたり,身体のゆがみの確認をしたが,それは,ある意味で,自分の中の凝りを確認することでもある。使っていない部分があるのはよくわかっていたが,同じことを,先日口の動かしを,ボディサイコセラピーの中でやった時,「口は唯一,自分でコントロールできる」箇所にもかかわらず,口の周りの筋肉は,使っていないところが,いっぱいあり,口の表情を極端に作っているうちに,口の周りが疲れてきた。唯一自分でコントロールできるにもかかわらず,自分のリソースに気づいてもいないし,使ってもいない,ということなのだ,というのはいまさらながらの気づきだ。口は言葉を吐くが,同時に,表情の要の気がする。

ボディサイコセラピーでは,身体のエネルギー(フロイト流のリビドー)の流れと滞りを大事にする,と受け止めたが,それは,身体の脈動であり,拡大と収縮によってエネルギーが流れるという感じだ。だからリズムということにつながる,というのを納得した。人には,人の微妙なリズム,例えば,歩き方,しゃべり方,感情の起伏,気分の振幅,脈拍もそうだし,呼気排気もそうだ。屈曲と伸展,開と閉,吸引と排出,押し出すと引っ込む,動と静等々。だから,アクセル(交感神経)とブレーキ(副交感神経)が偏れば,自律神経に凝りが出るのだろう。先般のトレーニングで,いくつかのウォーミングアップをしたが,多くは,屈伸であり,伸縮で,コリとは,使っていないという意味だが,逆に言うと,エネルギーが滞っている,ということだ。そこに,意味がある気がする。

ライヒは,無意識は身体の中にある,と言ったそうだが,心の中の抵抗は身体に出る。だから,言葉のメッセージと身体のメッセージの齟齬,ということはカウンセリングで再三言われた。大丈夫と言いながら,両手のこぶしが握りしめられている等々というのは,わかりやすい。

先日の「ノンバーバル・コミュニケーションをカウンセリングに活かす方法」では,自分がしゃべっているときの身体の動き,手ぶり,身振りを,いくつかフィードバックするというワークをやったが,組んだお互い,初めてそこで指摘されて気づいたことだらけであった。例えば,自分は,何かを強調する時,あるいは,話頭を転ずるきっかけに,首を左に振るらしい。「実はね」「それでね」等々。首を振った時,その瞬間に,「何が起きてるんですか?」と問われれば, その一瞬の心や感情に立ち止まれるかもしれない。特に繰り返す動作には,本人の無意識の反応がある。どうしても言葉に注目するが,河合先生もそんな趣旨のことを言っておられた記憶があるが,僕の師匠の80歳のカウンセラーは,相手の話をぼんやり聞き流し,その流れの中の微妙な変化や語尾にふと立ち止まって,返してくる。丁度水面に小さな気泡が上がったように。なんだろう,たとえが悪いが,レム睡眠のさなか,起されていま見ていた夢を確認される感じだ。

ボディサイコセラピーでは,「眼は魂の窓である」といい,眼はコンタクトの器官とも言って,「目が合うと身体の物理的接触の感覚が生ずる」と,アイコンタクトの重要性を学んだが,小田コーチのトレーニングでも,アイスブレークで,ボール投げの三種類,自分の名前を言って相手に投げる,相手の名前を言って相手に投げる,次の投げる人の名前を言って相手に投げる,を同時にやって,混乱し,笑い転げたが,この鍵は,アイコンタクトにある,と感じた。そういえ思い出したが,ボイストレーニングを受けた時,インストラクターは,腹式呼吸とかを教えず,相手の目を見て,その人に声を届けるようにと思って声を出す,ということを教わったことがある。アイコンタクトは,結構強力なのではないか。

ちょっと取り留めなくなってしまったが,「ノンバーバル・コミュニケーションをカウンセリングに活かす方法」の中で,意外に面白かったのは,無意味語会話だ。ただ,相手が,「むしむろへへのみみ」としゃべったら,相手の動作や表情を見ながら,こちらも,「ぎろぎろ,ははのげ,やまり」と返す。この時,両者の間で,起きているのは,言葉ではなく,気持ちや感情の交流だ。もし相手とのアイコンタクトがなく,互いの表情の交差がなければ,独り言を言い合っているだけだ。しかしそこで,表情と感情のシンクロが起きた。相手が大袈裟に身振りをすると,こちらの声のトーンも上がり,相手は,それに合わせて表情豊かに無意味語を返す。二人は,たぶん,心情的には同じ土俵にいて,同じ気分を共有できていたはずだ。

究極のセラピーで重要なのは,相手の中に起きていること,起きるはずなのに起きないことが,会話ではなく,身体から発せられているものから感じ取ることなのだろう。その先にはいろいろのアプローチがあるが,ブリーフセラピーでも,その見立ての部分は変わらないはずだ,という気がした。

最近身体を壊してから,以前に増して身体からの異常信号が増えてきた。「身体をもたなければ自分の本質は存在できない」という言葉が,身に染みる。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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posted by Toshi at 10:49| トレーニング | 更新情報をチェックする

2013年12月16日

懐に入る



先日,インタラクティブ・トレーニング「コーチは軽やかに対応する」(ファシリテーター:川本恵 国際コーチ連盟 マスター認定コーチ)に参加してきた。

案内には,

あなたは相手とのコーチングで,状況に応じて軽やかに対応していますか?
それとも相手が誰であっても,同じパターンばかりをとる傾向にありますか?

とあり,ICFのコア・コンピテンシーにある「コーチとしてのプレゼンスがある」の項目の,

コーチング・セッションの間,一瞬一瞬を軽やかに対応しつつ,存在感があり柔軟である,

コーチング・スタイルを用いることで, 充分に自覚を持ってクライアントと自発的な関係を作ることを目指します,

ということに,まあ惹かれた。

いつものことながら,

①人はそれぞれ全くちがう思考を持っている
②コーチは相手が「自分で考える」環境を提供するだけである
③相手から学ぶ姿勢でいる

を前提に,どうすれば,軽やかにコーチングができるかを,考える機会をもらった。

僕の中では,

Dance in this moment

というのが,ひとつの目標ではあったし,だから今回参加する動機でもあったが,今回,一日ずっとセッションをやったり,リレーセッションをやったりしていくうちに,もちろん訓練不足という面もあるにはあるが,まだ到底そのレベルに達していないということを思い知らされると同時に,口で言っているほど,僕は,軽さには惹かれていないのではないか,ということを少し考えさせられる場になった。

惹かれていない,というよりも,自分のひととの距離の取り方,あるいは人へのスタンスが,どうもそこにはないらしい,ということを感じさせられた。

もちろん,さくさくと,流れるように,リズミカルにコーチングが進んでいくのは気持ちがいいのは事実だし,テーマによっては,そういう処理の仕方ができることもある。しかし,どうも自分が,コーチ-クライアント関係で,コーチとして関わる時,そういう距離の取り方はできないらしい,というか,そういう立ち位置は取りにくいらしい,ということに気づいた。

ある意味ニュートラルな関係を保っていくことをしてこなかった,というか,そういう立ち位置を取る生き方をしてこなかった,ということなのだ。

コーチとしてのあり方が,おのれの生き方を反映しているのだとすれば,そういう姿勢の方が,おのれらしい,という感じがしたのだ。一種開き直りなのかもしれないが,ダメ出しではなく,OK出しをするなら,そう考えてもいいのではないか,と思い至った。

というと,コーチが勝手読みで,思い入れたっぷりに,踏み込むというと,主役がクライアントではなくなるようなイメージなのだか,僕の気づいたのは,(あえてプラスで取り出すなら)うまくできたか出来なかったかは別として,そこでしようとしていたのは,

コーチは,絶対的にクライアントを全面受容する
コーチは,絶対的にプラス面しか写さない鏡になる,
コーチは,絶対的にクライアントができると信ずる,
コーチは,絶対的の出来ている部分だけを図としてクローズアップする,

ということらしいのである。コーチングはクライアントの味方である,というとありふれた当たり前になってしまう。しかし,それも度を越すと,ひとつのスタイルなのではないか。

もう少し踏み込むと,間合いをはず手法に,『五輪書』に,秋猴の身とか漆膠の身というのがある。

構えと同時に,相手が打つ前に相手の懐に入り込む,

あるいは,

相手に密着してはなれない,

というのである。表現は悪いが,

相手の土俵に乗るだけではなく,その懐近くに踏み込む,

という手法である。しかし,それには,相当の勇気がいる。骨を切らせて肉を切るという言い方があるが,そんな生易しいものではない。いきなり,相手のうちに飛び込むようなものである。身を危険にさらすという,相当の覚悟がいる。勇気がいる。もちろん,剣の立ち合いではないので,相手を立てるために,相手を支えるために,そこに立つのではあるが。

その上で,絶対的に,

できない部分ではなく,できている部分のみを拾い上げる,
マイナス感情ではなく,プラス感情のみをピックアップする,
出来ないことではなく,できるために必要なことのみに焦点を当てる,
ないことではなく,あることを結晶化させる,

という徹底した肩入れをする。これは,ひょっとすると,軽やかさとは真逆の,暑苦しさかもしれない。しかしである,その方が,僕の性に合っているらしいのである。

逆に言うと,ニュートラルではありえない,冷静な口調でもあり得ないかもしれない,静かなコーチングでもありえない。暑苦しく,騒々しいコーチング,言い方は悪いが,執拗に,食い下がるコーチングになる。

むろん,そこでは,クライアントが,

何を大切にしているのか,
何に価値を置いているのか,
何に喜びを感じているのか,

を見逃さずに,引き出し,言語化して確認していくことが欠かせないように思う。それを外してしまうと,ただのおせっかいに過ぎなくなる。

軽やかさとはちょっと無縁になりそうなのだが,そこで必要なのは,常に,先入観を捨てて,身軽に,踏み込むことなのだろうと思う。

しかしそう考えると,まだ,踏み込みが足りない。中途半端で,なんとなく,土俵の淵から,暑苦しい熱意だけが目に触る,という感じなのではないか。

ユーモアでもあればまだしも,ダジャレでもいいのだが,それがないと,一層押しつけがましさだけが目立つ。

まあ,言ってしまえば,全然踏み込みが足りない。確かに踏み込むには,結構勇気がいるが,それがないままの熱意は,暑苦しいだけである。まだまだ覚悟の不足している所以のように見える。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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#コーチ-クライアント関係
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posted by Toshi at 05:03| Comment(0) | トレーニング | 更新情報をチェックする