2012年11月26日

混沌と混迷の違い~『足軽の誕生』から


早島大祐『足軽の誕生』(朝日新聞出版)について

処士横議という言葉があったと思う。本書を読んで思い出した。幕末,藩の覊絆を離れ,士農工商の身分を超えて,下級武士から郷士,豪農までが,国を出て諸国で勝手に国を憂い,議論をして,結果として彼らの多くは薩長から見捨てられていくことになるが,そのエネルギーは混沌と言っていい。幕末,その嚆矢を放ったのは,大阪天満の元与力大塩中斎であった。その彼をはじめとする下級の武士は,近辺豪農たちと血縁を結びながら,身分社会末期の統治機構の機能不全という混迷に立ち向かった。いま日本は,大塩中斎の立ち向かったと同様の混迷の中にある。身分の固定と階級社会に近い格差の固定は,社会を閉塞し,いらだつエネルギーは個人の爆発としてしか発揮できないジレンマの中にある。

本書は,丁度応仁の乱前後,寺社や公家の荘園を管理していた地下の国人たちが,時代の変化,鎌倉と京都という二重権力の時代から,京都で武家が室町幕府として実権を一元的に握る時代へと移った時代の趨勢にのって,荘園の主である公家や寺社から守護である武家へと主を乗り換えていく。それは,単に村や地域の顔役であった荘官層,土豪層だけではなく,その荘園の民の各層までが,武家の被官となり,中間・小者として村々から出ていく,あるいは覊絆を脱する機会として出ていこうとする。

しかし京は今のような街ではない。商品を商えるのは,朝廷や幕府から売買の権利を得ている神人や供御人であり,寺社造営の建築に携われるのは,寺社から大工職という権利を安堵されたものだけだ。残りは,か細い地縁血縁を頼るほかは,乞食か盗賊に落ちるしかない。それでも,諸国から牢籠人と呼ばれる浪人もあふれる。その人たちは,グレーゾーンといわれる五条,六条から九条にかけての洛中洛外の境域的地域などに蟠踞する。あるいは武家宿所,寺社といった治外法権的に場所にもたむろしている。

彼らは何をしていたか。博打である。特に流行ったのが四一半と呼ばれた博打。そこでは,寺僧,武家,荘民,牢人,盗賊が多数寄り合って,博打に興じている。そこでは,「掛け金が喧嘩のもとになった半面,彼らの間に独特の連帯・つながりをもたらしたのではないか」という。

このなんというか,身分を超えたつながり方は,尋常ではない。すでに,時代のマグマが活性化しているといってもいい。まさに幕末,各層を超えてつながったエネルギーとよく似ている。

室町幕府は,威令が届かず,土一揆や徳政一揆の鎮圧に,征伐の軍が編成できず,結局現実的に動員可能なものを優先する。そうして彼らが正規軍の中に編成され,応仁の乱では,かつての暴れ者が足軽大将になって登場する話を紹介している。たとえば,侍所所司代として陣頭に立った多賀出雲は,洛中の浮浪の徒を組織化したという。また骨皮道賢という目付は,河原ものか野伏上りと言われ,かつて都鄙悪党のリーダーであり,部下は中間・小者ばかりなのである。その人たちが,幕府の威令を保つために活躍する。

幕府の機能不全から,各層から,ふさわしい人材が自分の居場所を見つけ,幕府の要職を占め,あるいは勝手に自分の利益のために,平然と将軍の上意を騙って,己の意を通そうとする。すでに下剋上の戦国へと踏み出している。ここにも幕末との類似が見える。幕末の幕府を担う逸材の多くは,勝海舟をはじめ,武家身分の埒外から登場している。

村上一郎は,名著『草莽論』を「草莽とは,草莽の臣とは違う」と書き始めた。草莽とは,孟子の「国に在るを市井の臣といい,野に在るを草莽の臣という。皆庶人なり」とあり,地方にひそむ庶士を草莽の臣と呼ぶ。その封土内に住んでいるから,君主に対しては臣であるが,仕えている臣とは同じではない。草莽は草茅に通じ,草野,草深いあたりに身を潜め,たとえ家に一日の糧がなくとも,心は千古の憂いを懐くという,民間慷慨の処士であり,それこそが維新に噴出してきた草莽の典型だと,村上は言っていた。松蔭の「恐れながら天朝も幕府もわが藩もいらぬ。ただわが六尺の微軀あるのみ」といったときの,草莽崛起とはそんな意味だという。

ただ個人的には,このファナティックなマインドが突破力を持っていることは信ずるが,とてもついてはいけない。むしろ,松蔭の『講孟余話』をたしなめた山県太華の,冷静・理知的な評が好きだ。松蔭の華夷の弁について,こう言っている。

「我が国のひとが,漢土の言葉に倣って,日本を自称して中国といい,すべての海外の国を蛮夷と称するのは,漢土での意味とは違っている。漢土で昔から中国と夷狄の別があるのは,中国は礼儀を尊ぶ国であって,中国の外の国で,世々朝貢して中国の属国となっていながら,遠方のため王化が及ばず,中国の礼儀の礼儀を守ることのできぬ国を号して夷狄といっていやしめた。」

にもかかわらず,漢土の例に倣って,わが国の攘夷論は,自国を中国といい他国を夷狄といい,時刻を尊く,他国をいやしいというべき論拠がないと言っている。しかしこの正しさは,いまも,昔も沸騰した時代の世論に通用しない。確かに,その時正しいことを言う人は,その時代,体制の享受者だから,その正しさを言うことが,自己弁明のにおいをもっている,ということはよくわかる。しかし理非曲直をきちんと正せないものに,時代をつくる資格はない,僕はそう信じている。だから,ファナティックな主張には,聞く耳は持つが,たぶん一緒に行動する友にはならないだろう。

時代の覊絆や格式が融けていく時,その隙間から人材が湧いて出る。いま日本は格差が固定化し,身分とは異なるが,階層が固定化しつつある。その閉塞感を打ち破る変革を日本人が自分の手でやれるかどうかか問われている気がする。

ペリー来航,第二次大戦の敗戦,石油ショック,すべて外圧だ。そこで時代が大きく変わった。考えてみると,応仁の乱から,戦国期は,自分たち自身で国の枠組みを壊し,溶かした時代であった。それが,何をきっかけにできたかといえば,室町幕府という統治機構の機能不全だ。今日,日本は議会制民主主義という統治機構が機能不全に陥っている。その意味で,大きな崩壊と融解の時期が来ているのかもしれない。

ただこのとき,ともすると,我が国は武に走りがちだ,侍大好きの人たちが多いから。しかしそういう場合は多く失敗してきた。これからは,もっと視野広く,全焦点(パンフォーカス)のモノの見方で,次世代を描きたいものだ。横井小楠が,武からの脱皮を懸命に模索したように。


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2013年04月30日

敦盛


先日,能楽喜多流アトリエ公演「繪処能」の「第1回能楽ワークショップ~きらびやかなる能衣装の世界」に参加する機会があった。

http://www.facebook.com/home.php#!/events/137693893067092/

紹介のページには,こうあった。

難解なイメージのある能楽ですが,見方さえわかれば楽しめるポイントがたくさんあります。この講座・公演では,「能の世界」への入り口に導くお手伝いをします。ご案内役は,喜多流能楽師 大島衣恵・大島輝久が務めます。毎回テーマを決めて,そのテーマにまつわる解説とコラム的な裏話も交えながら,深淵なる能楽の世界へあなたをいざないます。

内容は,(といっても道に迷い,滑り込んだので,途中からだったが)

・能面,能装束の話
・「敦盛」を謡ってみよう
・「敦盛」の解説
・「敦盛」装束着付け実演
・仕舞「敦盛」(装束付き)

と,基本的なことを,具体的に装束を身に着けながら,説明していただいたが,一番興味深かったのは,能面の話で,

能面が変化したように見えたとすると,それは能面が動いたのではなく,観ている人の心が動いた,

と,おっしゃった,解説の大島輝久さん (喜多流能楽師)の言葉だ。

それともう一つ,能面は,乾燥に弱いというのは,前から聞いてはいたが,古くてちょっとどうかというほど表面が傷んでいても,実際に面を着用して,舞台で,演者の息が吹きかかることで,蘇ることがある,という。まさに,面は生きている。実際,ネットでは,こうあった。

能面は面(おもて)とよばれます。
能面は生きているのです。能楽師は新作面は使いにくいといいますが,能面は演者が長い年月使用し,舞台で泣き,苦しみの果てに初めてその能面の持っている精彩を放ち完成されるからでしょう。長年の使用 に耐え,育まれた面と比較すれば新作面が物足りない感じがするといわれます。これは,能面が製作された後延々と成長しているからにほかなりません。 舞台で演者と共に使用さ れてこそ面は生きてくるのです。

ついでに,能面の表情について,

良く「能面は無表情」といい博識がっている人がいますが決して無表情ではありません。能面ほど表情豊かなものは他に類をみないのです。技楽面の影響を受けたと思われる面には,般若,鬼面のように,瞬間的な表情をした面もありますが,小面,増女,若女,等女面は一瞬の喜怒哀楽の特定表情をしてないからで,一見無表情と思われるものもありますが,特定の表情をしていないからこそ,様々な表情に感じとれるのです。故に長時間の舞台で,長い時間座が保てるのです。

たしかに,面が,ちょっとうつむいたり,目線を上げただけで,なんとなく表情にそよぐような微妙な変化を感じる。しかし,それは,確かに,観ている側の心の,あるいは,観ているものがそこに表情を読み取っているのだ,という方が正しい。人は,見たいものを見る。

ところで,例題として,敦盛の一節を読んだり,一部を観たりしたのだが,敦盛というと,信長を思い出し,

此時,信長敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年 下天の内をくらぶれば,夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか,と候て,螺ふけ,具足よこせと仰せられ,御物具召され,たちながら御食をまいり,御甲めし候ひて御出陣なさる。

と,桶狭間の戦い前夜,「敦盛」のこの一節を謡い舞い,陣貝を吹かせた上で具足を着け,立ったまま湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したという『信長公記』を思い出す。

本来(?)は,

思へばこの世は常の住み家にあらず,草葉に置く白露,水に宿る月よりなほあやし,金谷に花を詠じ,榮花は先立つて無常の風に誘はるる,南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり,人間五十年,化天のうちを比ぶれば,夢幻の如くなり 一度生を享け,滅せぬもののあるべきか,これを菩提の種と思ひ定めざらんは,口惜しかりき次第ぞ,

なのだという。「化天」は,六欲天の第五位の世化楽天で,一昼夜は人間界の800年にあたり,化天住人の定命は8,000歳とされる。「下天」は,六欲天の最下位の世で,一昼夜は人間界の50年に当たり,住人の定命は500歳とされる。信長「人間」を「人の世」の意は,使っていた。「人間五十年,下天の内をくらぶれば,夢幻の如くなり」の正しい意味は,「人の世の50年の歳月は,下天の一日にしかあたらない」というのだそうだ。

そのくらいはかないのたとえと考えれば,「一炊の夢」「邯鄲夢の枕」(これは能にもある)と同様,当たらずと言えど遠からず,か。

思えば,平家は一蓮托生,まるごと潔く一門が滅亡したが,源氏も,頼朝から三代,実朝で,同族同士で殺し合い,直系は滅んだ。どちらが士らしいかというと,平家にそれを感じる。判官(九郎判官のことではなく)びいきのせいかもしれない。

敦盛の伯父,知盛の,『平家物語』にある(と記憶しているが),

見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん。

と言い残して自死した姿に,士らしい面影を見る。信長は,『信長公記』によると,光秀が謀反に及んだと知ると,森成利らの進言を取らず,

是非に及ばず。

というや,みずから弓や槍を取って戦ったが,槍傷を受け,防戦を断念,奥に籠り,自刃した。

敦盛というと,ついつい信長と知盛を思い出してしまう。

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm




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posted by Toshi at 04:53| Comment(24) | 日本史 | 更新情報をチェックする

2013年12月12日

通説




小和田哲男『黒田官兵衛』を読む。

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11386475.html

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11327874.html

に続いて,泥鰌本の三冊目。

正直これが歴史学者の本か,と思うほど,通説べったり,失礼ながら,ほとんど,突っ込んだ研究を(いまは)していないということを,証するような著作だ。

はじめに,でこうある。

「黒田官兵衛の魅力は何か,一言で説明してほしい」といわれれば,私は,「戦国自体の最も軍師らしい軍師」と答える。

軍師が存在していないことは,日本史家の基本的な考えだ(とはお考えになっていないらしい)。講談や小説ならいざ知らず,到底ありえない。しかも,本書中に,どこも,軍師の定義もない。

さらに,こう言うのである。

さらにそれに一言加えれば,「トップに馴れる力をもちながら,補佐役に徹したその生き方」と答えることにしている。

何をどう考えようと,所詮歴史も物語だから,その人の自由だが,

秀吉の帷幄に官兵衛がいなければ,秀吉がはたして天下を取ることができたか疑問である。仮に天下が取れたとしても,織田信長時代の凄惨な戦いが繰り返され,もっと多くの血が流されたものと思われる。

歴史に,たら,れば,はない。この説は,仮説,つまり官兵衛=軍師に依拠してしか言えない。しかし,それなら,なぜ,無謀な文禄の役を止められなかったのか,という茶々はいれずにおこう。歴史が示しているのは,秀吉がいなければ,官兵衛はおらず,官兵衛がいなくても,秀吉は天下を取った,ということだ。

こういう著者の論法は,随所にみられる。

たとえば,信長と謁見した時のことについて,

このときの越権の模様は『信長公記』にも記されておらず,『黒田家譜』にしか出てこないので,以下,同書によりながら,

と書き進める。『黒田家譜』の記述については,

http://blogs.dion.ne.jp/ppnet/archives/11327874.html

でも触れたように,かなり慎重を要するのに,第一次史料である『信長公記』をさておいて,話を展開している。『信長公記』に記述がなければ,疑わなければならないのに,である。

あるいは,こういうのもある。

『武功夜話』については,「偽書だ」といって頭から否定する人もいるが,秀吉の家臣だった前野将右衛門長康の子孫が,家に伝わる古記録などをもとに,幕末になって著わしたもので,部分によっては信用できる箇所もあり,…,

といいつつ,検証抜き(信用できる箇所だという証明がないまま)に使っている。大体『武功夜話』の本体自体が公表されていない古記録を,疑ってかかるのが当たり前だ。しかも,幕末とは,300年もたってから書かれたものなのだ。疑うのが常識ではないか。

なのに,『武功夜話』によると,として,他の史料を示さず,『武功夜話』だけで,官兵衛の活躍を追うところが随所にある。さらには,『黒田家譜』の記述(官兵衛の功績を示そうとするのが当たり前)に,『本能寺の変を聞いて,呆然とする秀吉に,

さても此世中ハ畢竟貴公天下の権柄を取給ふべきとこそ存じ候へ,

と励ました記述を,『川角太閤記』(これも第一次史料ではない)まで持ち出して,

呆然自失の状態から,官兵衛の一言で秀吉が我に返ったのは確かである。官兵衛がそばにいなければ,秀吉の対応が遅れた可能性があり,

と,見てきたような嘘を受け合う。講談師か?とつっこみを入れたくなる。

だから敗北した小牧・長久手の戦いについても,

その場に官兵衛がいたら,反対し,この作戦は実行されなかったと思われる。

ここまで言い切られると,呆れるより,そういう本なのだと思うしかない。しかし,最後に著者の入れた,官兵衛の遺訓は,創ろうとした官兵衛像を見事に裏切っている。

1.神の罰より主君の罰おそるべし。主君の罰より臣下百姓の罰おそるべし。其故は,神の罰は祈りもまぬかるべし。主君の罰は詫言して謝すべし。只臣下百姓にうとまれては,必国家を失ふ故,云々

2.大将たる人は,威といふものなくしては万人の押へ成りがたし。去りながら悪しく心得て,態と我身に威を拵てつけんとするは,却って大なる害となるものなり。其故は,只諸人におぢらるる様に身を持なすを威と心得,家老と逢いても威高く事もなく目をいからし,詞をあらくし,人諌めを聞き入れず,我に非有る時もかさ押しに言いまぎらし,我意を振舞によって,家老も諌を言ず,おのづから身を引様に成行くものなり。家老さえ如斯なれば,まして諸士末々に至迄,只おぢおそれたる迄にて,忠義のおもひなす者なく,我身構をのみにして奉公を実によく勤る事なし。かく高慢に人をないがしろにする故,臣下万民うとみて必家を失ひ,国亡ぶるものなれば,能々心得可き事なり。云々,

まさに,後年の黒田騒動を予見したような遺訓だが,ここにはただ,二代目の我が子(長政)に藩を守るように言い聞かせている,功に成り遂げた父親の心配するイメージしかない。

秀吉の,子ども(秀頼)のことを,涙を流して頼んでいたイメージと重なるだけだ。そして,この託しているもののスケールの差は,そのまま,秀吉と,官兵衛の差といっていい。


参考文献;
小和田哲男『黒田官兵衛』(平凡社新書)
渡邊大門『黒田官兵衛』(講談社現代新書)

今日のアイデア;
http://www.d1.dion.ne.jp/~ppnet/idea00.htm



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posted by Toshi at 06:07| Comment(9) | 日本史 | 更新情報をチェックする